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明治42年10月26日、伊藤博文がハルビン駅で朝鮮の抗日運動家・安重根に暗殺された。伊藤は直ちに列車内のベッドに運ばれた。一杯のブランデーをすすめられ、のみほして若干気を取り直して伊藤は側近に、「誰がやったのか」と聞いた。「朝鮮人です」と答えると、「馬鹿な…」と言いかけて絶命した。撃たれて15分後のことである。安倍晋三が犯人について何も知らないままに死んだことを考えると大きな違いがあった気がする。このとき、伊藤博文の随行員の5人も被弾した。明治・大正の外交官、川上俊彦(1861-1935)もその場に居合わせて被弾した一人である。ここでは彼と関わりのあった3人の男とその死について述べる。1人目は伊藤博文(1841-1909)明治42年10月26日、暗殺される。2人目は乃木希典(1849-1912)大正元年9月13日、自殺。3人目はアドリフ・ヨッフェ(1883-1927)昭和2年11月16日、自殺。
明治42年10月26日午前9時、伊藤博文はハルビン駅に到着し、待ち受けていたロシアの大蔵大臣ココフツェフと車中で会談した。列車を降りて各国外交団の前を進もうとした時、安重根(1848-1915)の拳銃から発射した6発のうち3発は伊藤に命中し、随行の川上、森、田中、室田、中村らも流れ弾があたった。伊藤博文は午前10時に絶命し、川上俊彦は重傷であった。森槐南はその傷がもとで数ヶ月のち死亡した。
大正元年9月13日、乃木希典は明治天皇が没すると、妻静子とともに殉死した。川上俊彦は日露戦争の旅順陥落で乃木とステッセルとの水師営での会見のとき、ロシア語通訳をしていた。
第一次大戦後のシベリア出兵でソ連との基本条約締結に向けた予備交渉を川上は後藤新平から命ぜられた。大正12年2月1日、ソ連のヨッフェが来日した。6月29日から始まった予備交渉はなかなか進まなかった。夏になり、ヨッフェの病状が思わしくなく8月10日に彼は帰国した。川上とヨッフェはその後、二度と会うことはなかった。ヨッフェはその後スターリンの大粛清によって追い込まれて、1927年11月16日、自殺した。
川上俊彦は水師営の会見、伊藤博文暗殺、ヨッフェ会談など重要事件に遭遇している外交官である。(参考文献:西原民平編「川上俊彦君を憶ふ」昭和11年)
延暦13年のこの日、桓武天皇は平安京に遷都し、11月8日、新京を「平安京」とする詔を発布した。桓武・嵯峨から延喜の治といわれる10世紀初めごろまでは、律令政治の再建がある程度の効果をあげ、律令国家は動揺しながらもその形態をたもっていた。律令官制の規定にない官職を令外の官という。按察使、勘解由使、蔵人頭、検非違使、押領使など。石山寺に伝わる延喜8年の周防国玖珂郡玖珂郷の戸籍を見るとほとんどが女性ばかりである。女性は律令制では税が軽くなっている。そのためにこのような実際にはあり得ないような女性ばかりの戸籍が作られている。このような嘘の戸籍を偽籍という。このように平安時代中期には律令制が行き詰まってきた。(10月22日)
1520年のこの日、マゼランが南米大陸とフェゴ島の間に海峡を発見。後にマゼラン海峡と命名される。
日本語では海峡は海峡だが、英語ではchannelとさらに短い距離しかないstraitに分かれる。英仏間の海全体はEnglish Channelイギリス海峡であり、最も距離が短い部分だけが、Strait of Doverドーヴァー海峡(フランスではPas de Calaisカレー海峡)と呼ばれている。
島国日本は海峡で事実上の国境をなしている。対馬海峡、宗谷海峡、根室海峡、野付海峡、択捉海峡、占守海峡、台湾海峡など。ベーリング海峡はアメリカとロシアとの国境をなす。マラッカ海峡はマレーシアとインドネシア、ホルムズ海峡はイランとオマーン、ジブラルタル海峡はスペインとモロッコの国境を隔てている。バシー海峡、スンダ海峡。(10月21日、Bering,Malacca,Hormuz,Gibraltar)
英仏両国は、1802年にアミアンで和約を結んでいたが、1804年5月にウィリアム・ピットが首相に返り咲き、彼の提唱で第3次対仏大同盟が結成された。一方のフランスも、皇帝ナポレオン1世がスペインと同盟を結んだため、英仏両国の対立は再燃していた。
ナポレオンは、イギリス本土上陸を計画し、フランス・スペイン連合艦隊司令長官のピエール・ヴィルヌーヴ提督にスペインのカディス港からの北上を指令した。この機会をとらえたホレーショ・ネルソン率いる27隻のイギリス地中海艦隊は、1805年10月21日、午前11時ごろから33隻のフランス・スペイン連合艦隊と戦闘を開始した。ネルソンの型破りな戦法と見事な砲撃に、フランス・スペイン連合艦隊は動揺した。
ところが、午後1時15分ごろ、フランス狙撃兵が撃った弾丸がネルソンの肺を貫いた。瀕死のネルソンは部下の手により船内の治療室に運ばれた。しかし、彼は、3時間ほど生きながらえたものの、午後4時30分ついに息を引き取った。ちょうどそのころ、イギリス海軍の勝利が確定、33隻のフランス・スペイン連合艦隊のうち、残ったのはわずか6隻だけだった。対するイギリス艦隊はすべて無傷でまさに圧勝だった。
ネルソンの死去により、イギリス国民は意気消沈したものの、トラファルガー海戦での勝利は、イギリスの海軍力をあらためてナポレオンにみせつける結果となる。そして、英本土上陸作戦を撤回させ、のちの大陸封鎖令へとつながっていく。
翌年、ネルソンの遺体は王族以外では初の国葬で野辺送りされ、セント・ポール寺院に埋葬される。
ネルソンが残した名言の一つ。「私の人生における成功のすべては、どんな場合でも必ず15分前に到着したおかげである」
(Horatio Nelson,Trafalgar)
チゲ鍋のチゲは辛いという意味ではなく、鍋という意味。つまり鍋鍋。▽一円玉1個の重さは1グラム。1円玉1枚を作るのに材料費は3円かかる。▽なぜドルが「$」と表記されるのか。大きく3つの説がある。1つはローマ帝国・東ローマ帝国で通用されたソリドゥス(Solidus)金貨に由来する。2つは、アメリカ大陸を発見したのがスペインだったことから。2本の縦線はジブラルタル海峡の東の入口にあるヘラクレスの柱を表現しているという説。3つ目は、かつてアメリカで通用されていたスペインの通貨ペソのpとsとお組み合わせて書いているうちに、pが2本の縦線になってしまったという説。▽ほとんどの国語辞典は「せ」の言葉が真ん中に収録されている。▽ブルガリアでは首を縦に振ると「ノー」で、横に振ると「イエス」の意味のジェスチャー。▽貝原益軒はもともと「損軒」と名乗っていたのを、80歳を過ぎて「益軒」と改名した。▽「小さいことを重ねることが、とんでもないところに行くただ一つの道」(イチロー語録)。▽映画「タイタニック」は本物のタイタニック号よりも製作費にお金が掛かった。▽ハローキティーは猫じゃない。▽ヨーヨーは元々武器として使用されていた。▽パンダの手には本来の指5本の他に、親指側の手首に6本目の指のように見える突起があり、これを使ってパンダは物を掴んでいる。▽ペプシコーラはもともと胃薬だった。▽「何を云っても知らぬ顔の半兵衛さんだ」半兵衛とは、豊臣秀吉の軍師、竹中半兵衛のこと。▽勘を働かせて山をかける「やまかん」武田信玄の軍師、山本勘助のこと。▽「くしゃみ3回、ルル3錠」ルルとはラテン語で「鎮める、治す」の意味。▽NEWSの曲「チュムチュム」チュムとはヒンディー語で「キス」の意味。▽「フニクリ・フニクラ」(ルイージ・デンツア作曲。ジュゼッペ・トゥルコ作詩)はヴェスヴィオ山の山頂までの登山鉄道が利用客が少なかったので、1880年に運営会社が考えた宣伝曲。世界最初のコマーシャルソングともいわれる。野比のび太の母・玉子の旧姓は片岡。▽トイレット・ペーパーを三角に折るのは清掃員による「清掃済み」の合図である。決してマナーではない。▽1円玉を作るのに約1.6円から2円ほどかかっている。▽ちなみに1万円札の製造コストは約20円なり。▽日本一大きい砂丘は、鳥取砂丘(16㎞)ではなく青森県にある猿ヶ森砂丘(17㎞)である。▽鮎(アユ)は魚へんに占いと書く。古代、勝負事や豊作の占いに使われたから。
アインシュタインの相対性理論。発明王エジソンは「さっぱりわからない」と言っていた。▽ラムネで知られる大阪のサンガリアの社名は杜甫の詩「国破れて山河あり」(春望)からきている。▽ハイヒールは、馬車時代に馬糞をなるべく踏まないように開発された。▽宇多田ヒカルの愛称はヒッキー。倉木麻衣の愛称はクッキー。▽ビリヤードは、中近東から戻った十字軍兵士がベルメルをヨーロッパへ持ち込んで生まれた。▽滑走面が整備されたスキーの練習場を「ゲレンデ」というが、「土地」を意味するドイツ語Gelande。▽食パンのまわりの硬く焼けた部分を「パンの耳」と言う。しかし欧米ではこのような言い方はしない。▽買い物をするとポイントが付くようになったのは、1850年アメリカの石鹼メーカーの社長ベンジャミン・バビットが石鹸の包装紙のロゴを切り取って25枚集めると絵画と交換できるというサービスを開始したところ、石鹸が飛ぶように売れるようになったことからポイント制が普及した。▽ハナミズキは英語ではドッグウッドと呼ばれる。語源は17世紀に樹皮の煮汁がイヌの皮膚病治に療使われたためと言われている。▽メガネは13世紀イタリアで発明された。当時はすべて老眼鏡として使われていた。(雑学ブログ)
天平神護2年10月20日、太政大臣禅師の道鏡が法王となる。天皇に準ずる破格の位である。道鏡「続日本紀」では俗姓弓削氏。河内国志紀郡弓削に生まれる。生年は明らかでなく、義淵の弟子で孝謙天皇より年長らしいとの推定から8世紀初頭の生まれといわれる。出家後葛城山に籠り梵学と如意輪・宿曜の秘法を修得。下山、東大寺に入り、天平宝字5年近江保良山宮に孝謙天皇を看病し、忽ちに寵愛を受け、天平宝字7年少僧都に昇進。藤原仲麻呂失脚後、大臣禅師・太政大臣禅師を経て、天平神護2年、法王となる。この時、称徳(孝謙重祚)天皇には皇太子未定で、女帝は仏教政治の理想を持っていたので、太宰の長官中臣阿曽麻呂は道鏡に媚び、宇佐八幡の神託と称して、「道鏡を天位に即かしめば天下太平ならん」とした。これまで臣下が即位した例はなく、さすがの天皇も悩み、和気清麻呂を宇佐八幡につかわした。和気清麻呂は「無道の人を除くべし」という神託を奏上し道鏡の怒りをかい、名を別部穢麻呂(わけべのきたなまろ)とかえられて大隅国(薩摩)へ配流された。これが宇佐八幡神託事件である。
八幡の宣託を奏上した中臣習宜(すげ)朝臣阿曽麻呂とは、どんな人物であるか。天平神護2年6月に正6位上から従5位下にのぼり、神護景雲元年9月豊前介に任ぜられ、おそらく翌2年中から3年の初めにかけての間に、太宰主神(だざいのかんつかき)となって、道鏡の弟である太宰帥弓削浄人(きよひと)の配下に属することとなった。道鏡の勢力が九州にも及んでいたことがわかる。
参議藤原百川は清麻呂に同情し、兄の参議良継、従兄の左大臣永手らと相談して、天智天皇の孫である白壁王を迎えて位に即かせた。光仁天皇である。
称徳天皇は宝亀元年、由義宮に滞在中に没した。8月21日、道鏡は失脚し、下野国薬師寺別当となり、宝亀3年4月7日、その地で死んだ。
中世末期にめざましく発達したヨーロッパの諸都市には、封建社会の殻を破ろうとする自由な空気があふれ、そのなかから人間精神の全般的な革新をめざす大きな文化運動がおこってきた。これがルネサンスであり、その時期はおよそ14世紀から16世紀にわたっている。ルネサンスはまずイタリアにおこり、やがてアルプスの北方にも広まったが、その新しい文芸や思想を導いた根本精神を人文主義あるいは人間主義と呼んでいる。これは19世紀になって、ひとつの歴史概念として捉えたものであり、あまり拡大して解釈してはいけない。イタリアにおけるルネサンスは各所でブロックされており、統一された全ヨーロッパ的運動ではなく、あくまで地方的なものであった。初期ルネサンスからバロック初期まで、文学、絵画、彫刻、建築、思想・科学などさまざまな分野の代表的なルネサンス人をあげてみよう。
ダンテ・アリギエーリ 1265-1321
ジオット・ディ・ボンドーネ 1266-1337
ピエトロ・ロレンツェッティ 1280-1348
シモーネ・マルティーニ 1284-1344
アンブロ―ジョ・ロレンツェッティ 1290年頃-1348
フランチェスコ・ペトラルカ 1304-1374
ジョヴァンニ・ボッカッチオ 1313-1375
ベネディクトゥス13世 1328-1423
サルヴェストロ・ディ・メディチ ?ー1388
ジョン・ウィクリフ 1330-1384
コルッチョ・サルターティ 1331-1406
ジェフリー・チョーサー 1340-1400
ジレンティーレ・ダ・ファブリアーノ 1360-1427
ジョヴァンニ・デ・ビッチ・デ・メディチ 1360-1429
フィリッポ・ブルネレスキ 1377-1446
ロレンツォ・ギベルティ 1381-1455
ドナテルロ 1386-1466
コジモ・デ・メディチ 1389-1464
パオロ・ウッチェロ 1397-1475
ロヒール・ファン・デル・ウェイデン 1399-1464
ヨハネス・グーテンベルク 1400-1468
マザッチョ 1401-1429
ニコラウス・クザーヌス 1401-1464
レオン・バレティスタ・アルバルティ 1404-1472
ヤーコププ・フッガー 1407-1469
ピエロ・デッラ・フランチェスカ 1417-1492
ベノッツォ・ゴッツォリ 1421-1497
フェデリーコ・ダ・モンテフェルトロ 1422-1482
アントニオ・デル・ボッライオーロ 1429-1498
アンドレア・マンテーニャ 1431-1506
アレクサンドル6世 1431-1503
ルイジ・プルチ 1432-1484
インノケンチウス8世 1432-1492
マルシリオ・フィチーノ 1433-1499
マッテーオ・マリーア・ボイアルド 1434-1494
サンドロ・ボッティチェリ 1444-1510
ドナト・ブラマンテ 1444-1514
ロレンツォ・デ・メディチ 1449-1492
ドメニコ・ギルランダイオ 1449-1494
ピエロ・ソデリーニ 1450-1522
クリストファー・コロンブス 1451-1506
レオナルド・ダ・ヴィンチ 1452-1519
ジロラモ・サヴォナローラ 1452-1498
アンジェロ・ポリツィアーノ 1454-1494
ヨハネス・ロイヒリン 1455-1522
ヴィットーレ・カルパッチョ 1455-1525
ヤーコボ・サンナザーロ 1456-1530
フィリッピーノ・リッピ 1457-1504
ヤーコプ・フッガー 1459-1525
エアハルト・エッツラウプ 1460-1532
ジョヴァンニ・ピコ・デラ・ミランドラ 1463-1494
アレッサンドロ・アキリーニ 1463-1512
ハンス・ホルバイン 1465-1524
クエンティン・マサイス 1465-1530
ヤコポ・リパンダ ?-1516
ニッコロ・マキァヴェリ 1469-1527
デジデリウス・エラスムス 1469-1536
ニコラウス・コペルニクス 1473-1543
ルドヴィーコ・アリオスト 1474-1553
チェーザレ・ボルジア 1475-1507
ミケランジェロ・ブオナローティ 1475-1564
ジョルジョーネ 1477-1510
バルダッサーレ・カスティリオーネ 1478-1529
ソドマ 1477-1549
トマス・モア 1478-1535
クレメンス7世 1479-1538
ルクレツィア・ボルジア 1480-1519
ラファエロ・サンティ 1483-1520
フランチェスコ・グイチャルディーニ 1483-1540
ジョバンニ・ダ・ヴェラッツァーノ 1485-1528
エルナン・コルテス 1485-1547
アンドレア・デル・サルト 1486-1530
ユリウス3世(ローマ教皇) 1487-1555
ティツィアーノ・ヴェチェッリオ 1488-1576
マルグリット・ド・ナヴァル 1492-1549
パラケルスス 1493-1541
ベルナルド・タッソ 1493-1569
フランソワ・ラブレー 1494-1553
アンブロシウス・ホルバイン 1494-1519
ハンス・ホルバイン(子) 1494-1519
フランソワ1世 1494-1547
フィリップ・メランヒトン 1497-1560
ジョヴァンニ・デッレ・バンデ・ネーレ 1498-1526
マルティン・ファン・ヘームスケルク 1498-1574
ピウス4世(ローマ教皇) 1499-1565
ニコロ・フォンタナ・タルタリア 1499-1557
ルッツァンテ 1500-1542
ジェロラモ・カルダ―ノ 1501-1576
グレゴリウス13世 1502-1585
アントン・フランチェスコ・グラッツィーニ 1503-1584
ピウス5世(ローマ教皇) 1504-1572
トマス・タリス 1505-1585
アンドレーア・パッラーディオ 1508-1580
イッポリート・デステ 1509-1572
ヤコポ・バッサーノ 1510-1592
ジョルジョ・ヴァザーリ 1511-1574
ゲラルドゥス・メルカトル 1512-1574
アンドレアス・ヴェサリウス 1514-1564
コジモ1世 1519-1574
カトリーヌ・ド・メディシス 1519-1589
ウリッセ・アルドロヴァンディ 1522-1605
ピエール・ド・ロンサール 1524-1585
ピーテル・ブリューゲル 1528-1569
パオロ・ヴェロネーゼ 1528-1588
ミジエル・ド・モンテーニュ 1533-1592
ルーカス・ヴァン・ヴァルケンボルク 1535-1597
アレッサンドロ・ヴァリニャーノ 1537-1606
トルクァート・タッソ 1544-1595
ティコ・ブラ―エ 1546-1601
ミゲル・デ・セルバンテス・サアベドラ 1547-1616
ジョルダーノ・ブルーノ 1548-1600
ルドヴィコ・カラッチ 1555-1619
アゴスティーノ・カラッチ 1557-1602
アンニーバレ・カラッチ 1560-1609
フランシスコ・ベーコン 1561-1626
ヤン・ピーテルスゾーン・スウェーリンク 1562-1621
ウィリアム・シェークスピア 1564-1616
ガリレオ・ガリレイ 1564-1642
トマソ・カンパネッラ 1568-1639
ヨハネス・ケプラー 1571-1630
マリード・メディシス 1573-1642
フーゴー・グロティウス 1583-1645
ヤン・アーモス・コメニウス 1592-1670
二コラ・プッサン 1594-1665
ガブリエル・ノーデ 1600-1653
「マリー・アントワネット」1793年にギロチンで処刑された。民衆が貧困と食糧難に陥った際、「パンがなければお菓子(ブリオッシュ)を食べればいいじゃない」などの発言は、彼女を妬んだ貴族たちの作り話で、彼女自身は豪華な暮らしよりもルソーの思想の影響で質素を好み、飢饉の際に宮廷費を削って寄付するなど、国民を大事に思う心優しい人物であったといわれる。 ▽「マーカス・ガーウェイ」北アメリカで黒人の権利を主張した先駆者で、ジャマイカの国民的英雄。公民権運動にも影響を与えた。▽「マクベス」スコットランド王。1005-1057。シェークスピアの戯曲でその名が知られる。▽「マリアンヌ・クルゾー」1908-2007。フランスの画家。京都に記念館がある。▽「マルコス・ペレス・ヒメネス」1914-2001。ベネズエラの大統領。▽「マルセル・グロメール」1892-1971。フォービスムやキュビズムの手法で、社会的な主題で作品を描いた。▽「マルティノ・テルティニ」1614-1661。オーストリアのヤソ会宣教師。明清時代に各地を旅行し、欧州最初の中国地図「支那新図」を著した。
マイク・タイソン
マイク・ニコルズ
マイク・ペンス
マイク・ポンペイオ
マイケル・アージル
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マルセル・グロメール
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マルセル・マルソー
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マルティノ・マルティニ
マルティン・ハイデッガー
マルティン・ファン・ヘームスケルク
マルティン・ブツァー
マルティン・ボルマン
マルティン・ルター
マレーネ・ディートリッヒ
マーロン・ブランド
マン・レイ
マンフレッド・ベニントン・リー
マンフレート・フォン・リヒトフォーフェン
マーサ・スコットは「十戒」ではモーセの産みの母、「ベンハー」でもヘストンの母親役。50年にわたる芸能歴で出演作品も多い。
ウクライナ侵攻のロシア軍は、北部で集合住宅など空爆、南東部でマリウポリなど主要都市を制圧。ロシアはウクライナ南部のダムを攻撃し、多くの住宅が浸水している。今後、ウクライナの反転攻勢が強まるとみられる。「人類の歴史から戦争をなくさなければならない」(ゼレンスキー大統領の広島サミットでの演説)
数千年以上の太古の昔から今日まで、人類は文明の発生とともにいつも戦争を繰り返してきた。戦争は何故起こるのか。最近の考古学的知見によると、世界のどこでも旧石器時代の男子の死者のおよそ15%は殺人によって死亡している。これは人類の顕著な特徴であり、食糧や雌をめぐる争いはどの動物にもあるが、このような激しい戦いはみとめられない。人類が道具を使うことにより、武器による先制攻撃が優位となること、確実に勝てるという合理的行動が戦闘をひきおこすのである。こうして戦争はいつの時代も絶えることなく繰り返される。ヒストリーチャンネル「MANKIND人間史」によると有史以来人類は1万4500回もの戦争を繰り返してきたとある。戦争の原因も民族・宗教にイデオロギーが加わって、世界各地でテロが発生した。集団的自衛権を容認する安保法制が成立し、日本も紛争にまきこまれるようになった。2016年7月、ダッカでISに日本人7人が殺害された。
前25世紀、ラガシュの王エアンナトゥムがウンマの軍を破る
前23世紀、古代バビロニア、アッカド王国のサルゴン王は「戦いの王」といわれ、オリエント各地を遠征・征服を繰り返す
前1674年、ヒクソスのエジプト侵入(前1674~前1567)
前1620年、ヒッタイト・フルリ戦争(前1620~前1325)
前1457年、エジプト王国のトトメス3世はメギドの戦でカデシュ王率いるカナン連合軍(カデシュ、メギド、ミタンニ)を破る
前1350年、ヒッタイト王シュピルリウマ1世がミタンニ王トゥシュラクを滅ぼす
前1274年、エジプト王国のラムセス2世はカデシュの戦でヒッタイト王ムワタリに敗れる
前1200年、トロヤ戦争起こる。アカイア人の遠征軍と小アジアのトロイアの戦い
前1070年、殷の紂王は牧野の戦で、周の武王に敗れ、700年に及ぶ殷王朝は滅び、周王朝が成立する
前736年、スパルタがメッセニアを破る(メッセニア戦争)
前638年、楚の成王が泓水の戦で宋の襄公を破る
前632年、晋の文公が城濮の戦で楚の成王を破る
前609年、ユダ王国のヨシヤがメギドの戦でエジプトのネコ2世に敗れる
前605年、ネコ2世はカルケミッシュの戦で新バビロニアのネブカドネザルに敗れる
前591年、プサメティク2世、クシュ王国に侵攻
前580年、スキタイ遊牧民マッサゲタイのトミュリス女王がペルシアのキュロス大王を破る
前575年、晋が鄢陵の戦で楚を破る
前540年、エトルリア・カルタゴ連合軍がサルディニア島のアラリア沖で、ギリシャ軍と海戦し勝利する。
前484年、呉王夫差が艾陵の戦で斉を破る
前490年、ダリウス1世 マラトンの戦でミルティアデス率いるギリシア軍に敗れる
前480年、ギリシアのスパルタ王レオニダスはテルモピュライの戦でペルシア軍を迎え撃ち、その南下を防いたが部隊は全滅する
前480年、ギリシアのテミストクレスはサラミスの海戦でペルシアの大軍を破り、クセルクセス1世は退却する
前479年、ギリシアがプラタイアの戦いでペルシアに大勝する
前432年~前430年、アテネがポティダイアの戦でコリントスとペロポネソス同盟諸国に勝利した
前406年、アテネがアルギスサイの戦でスパルタに勝利した
前405年、スパルタはペルシアの資金により海軍を設け、アイゴスポタモイの海戦でアテネに勝利した
前404年、アテネがスパルタに降伏し、ペロポネソス戦争が終わる
前396年、ローマ軍、エトルリア人の首都ウェイイを征服
前394年、アテネ人コノン指揮のペルシア軍はクニドスの海戦でスパルタ(ラケダイモーン)を破る
前390年、ローマ軍クイントゥス・スルピキウスが初めてイタリアに侵入したブレンヌス率いるガリア人セノネス族とアッリアの戦で敗れる
前371年、スパルタを中心とするペロポネソス同盟軍がレウクトラの戦でテーバイを中心とするボィオティア同盟軍に敗れる
前362年、アテネ・スパルタ連合軍がマンティネイアの戦でテーベのエパミノンダスの軍に敗れる
前343年、秦は馬陵の戦で斉の孫臏の策により大敗する。
前343年、第一次サムニテス戦争(~前301年)
前338年、ギリシャがカイロネイアの戦でマケドニアのフィリッポス2世の軍に敗れる
前333年、ペルシア軍がイッソスの戦でアレクサンドロス3世に敗れる
前334年、ペルシア軍がグラニコス川の戦でアレクサンドロス3世に敗れる
前331年、ペルシア軍がガウガメラの戦でアレクサンドロス3世に敗れる
前326年、アレクサンドロス3世はインドのパンジャブ地方まで侵攻したが、ピュダスぺス河畔の戦でパンジャブ地方の領主ポロス王に苦戦し、やむなく東方遠征をやめる。
前305年、シリア王セレウコス1世、マウリア朝チャンドラグプタに敗れる
前260年、秦の昭王が長平の戦で趙を破る
前241年、ローマ軍がアエガテスの海戦でカルタゴを破る
前220年、メディア総督モロンはアポロニアの戦でセレウコス朝のアンティオコス3世に敗れる
前216年、ローマ軍がカンネーの戦でカルタゴのハンニバルに敗れる
前202年、カルタゴのハンニバルがザマの戦でローマのスキピオに敗れる
前202年、項羽、垓下の戦で劉邦に敗れ自殺
前168年、ピュドナの戦い。共和政ローマ軍アエミリウスがマケドニア軍ペルセウスに大勝し、マケドニア王国滅ぶ(第三次マケドニア戦争が終結)。
前111年、ローマの保護領ヌミディアの王位をめぐりユグルタとローマ軍が争う。前105年にマリウスが勝利する。
前101年、ローマ軍がキンプリ・テウトニ族を破る。
前95年、同盟市戦争。
前85年、ローマのスッラがオルコメノスの戦でポントス王ミトリダテス6世を破る
前52年、アレシアの戦いが終結し、ガリアがローマの属州となる。
前48年 ポンペイウス、テッサリア平原のファルサルスの戦でカエサルに敗れる
前46年 タプススの戦い。カエサル軍が元老院派の軍を破る
前45年、カエサル、ムンダの戦でポンペイウス派の残党を破る。
前44年、カエサル暗殺される。
前42年、カエサルを暗殺したブルトゥス、カッシウスがフィリッピの戦でアントニウス、オクタウィアヌスに敗れる
前31年、アントニウス、アクティウムの海戦でオクタヴィアヌスに敗れる
前23年、劉秀、昆陽の戦で王莽を破り、漢室再興を果たす
後9年、ローマ帝国がトイトブルクの戦でゲルマンに大敗する
49年、ベトナムのチュン姉妹は後漢の侵略に抵抗し、処刑される
66年、ユダヤ民族のシモン・バル・ギオラが反乱を起こす。
70年、エルサレム攻囲戦で、ローマ軍がエルサレムの第2神殿を破壊する。
73年、マサダ砦に籠城したユダヤ人967人が集団自決し、ユダヤ戦争(66-73)が終わる
191年、董卓と袁紹が虎牢関で衝突。董卓の部下呂布が盤下で董卓を殺す。
200年、曹操、官渡の戦で袁紹を破る。
208年、曹操が劉備・孫権連合軍に赤壁の戦でい敗れる。
211年、曹操が渭水の戦で馬超・韓遂らを破る。
215年、陽平関の戦い。曹操、関中の張魯を下す。
215年、曹操が合肥の戦で孫権を呉の孫権を破る。
219年、定軍山の戦い。曹操、劉備軍に敗れ、関中を放棄。
219年、劉備軍の関羽が樊城の戦いで水攻めにされて殺される。
222年、劉備率いる蜀漢軍が夷陵の戦で呉の陸遜軍に敗れる。
224年、曹丕が呉を攻めるも長江で大敗する。
228年、蜀漢軍の馬謖が街亭の戦で魏軍に敗れる。
228年、蜀漢軍が陳倉を攻略、第二次北伐が失敗する。
228年、呉の孫権が石亭の戦で魏の曹休を破る。
234年、蜀諸葛亮が五丈原の戦で魏司馬懿と対戦したが、蜀漢による第五次北伐が失敗する。
238年、遼東平定戦。司馬懿、公孫淵を討つ。
244年、魏の曹爽は興勢の役で蜀軍に敗北し撤退した。
260年、ローマ軍はエデッサの戦でササン朝ペルシアのシャープール1世に敗れ、ウァレリアヌス皇帝は捕虜となる。
280年、石頭城の戦い。晋軍、呉に侵攻。大勝して呉滅び、中国を統一。
312年、ローマ皇帝正帝マクセンティウスがローマ郊外のミルウィウス橋の戦(サクサ・ルブラの戦)で副帝コンスタンティヌス1世に敗れる
313年、東のローマ皇帝マクシミヌス・ダイアがツィラッルムの戦でローマ皇帝リキニウスに敗れる
351年、ローマ皇帝コンスタンス1世がムルサの戦でコンスタンティウス2世に敗れる
363年 ローマ皇帝ユリアヌスが、ササン朝の首都クテシフォンの城壁まで進撃するが、城を落せず撤退する
378年、ローマ帝国軍、ハドリアノポリス(アドリアノーブル)の戦で西ゴート族に敗れ、皇帝ヴァレンスが戦死。トラキア地方がゴート族に占領される。
383年、前秦の符堅が淝水の戦で晋の謝石・謝玄に敗れる
402年、スティリコがボレンツァの戦でアラリックの西ゴート軍を破る
451年、フン族の王アッティラがカタラウヌムの戦で西ローマ軍のアエティウスに敗れる
454年、フン族がネグオ川の戦で東ローマ帝国に敗れる
486年、クロヴィス率いるフランク族がソワソンの戦でシアグリウス率いる西ローマ軍を破る
489年、ゲルマンのオドアケルがイゾンツォの戦でテオドリックに敗れる。
523年、六鎮の乱。
624年、マホメットがバドルの戦いでメッカ軍を破る
625年、ウフドの戦い
627年、ハンダクの戦いでメッカ軍を破る
627年、ササン朝ペルシアのコスロー2世はニネヴェの戦でへラクリウス率いる東ローマ軍に敗れる
642年 ヤズデギルド3世 ニハーヴァンド(ネハーヴァンド)の戦でアラブ軍に敗れる
645年、唐の長孫無忌が朝鮮を侵攻したが、高句麗は安市城の戦で唐を撃退した
663年、日本軍は白村江の戦で唐軍に敗れ、百済滅ぶ
687年、フランク王国のピピン2世がテルトリーの戦でネウストリアのベルナルらを破る
715年、コンピエーニュの戦(フランク王国の内戦)
718年、西ゴート王国がグアタレーテの戦でイスラームに敗れて滅亡した
722年、ペラヨがコバドンガの戦でイスラム軍に勝利する。
732年、サラセン軍、ツール・ポワチエの戦でフランク王国カール・マルテルに敗れる
751年、唐の高仙芝、イスラム軍とタラス河畔に戦う。サラセン軍に捕らわれ、製紙法を伝う
756年、唐の玄宗は潼関の戦で安禄山に敗れる
804年、東ローマ皇帝ニケフォロス1世はクラソスの戦でアッバース朝に大敗する
811年、東ローマ皇帝ニケフォロス1世はプリスカの戦でブルガリア皇帝クルム・ハーンに敗れ、戦死した
841年、フランク王ロタール1世、フォントノワの戦でシャルルとルートヴィヒに敗れる
849年、ナポリ・アマルフィ・ガエータなどの艦隊がオスティア沖でイスラム艦隊を破る。
939年、神聖ローマ皇帝オットー1世はアンダーナッハの戦でフランケン公エバーハルトの反乱を鎮圧
955年、ハンガリーのマジャール軍がレヒフェルトの戦で東フランク王国のオットー1世トーマスにに敗れる
1014年、第1次ブルガリア帝国がキンバロングーの戦(クレイディオン峠の戦)で、東ローマ帝国に敗れる。
1014年、ブライアン・ボル―軍とレンスターのアイルランド人とダブリンのヴァイキングの連合軍が、クロンターフの戦いで、ボル―軍が勝つが戦死する。
1016年、デンマーク王クヌートがアシンドンの戦いでイングランド王エドマンド2世を破る
1057年、スコットランド王マクベスはランファナンの戦でマルカム3世に敗れ死没する
1063年、イタリアの中世都市国家ピサがパレルモ沖の海戦でイスラーム艦隊に大勝する
1066年、イングランド王ハロルド2世がへースティングズの戦でノルマンディー公ウィリアム1世に敗れる
1071年、ビザンツ王ロマノス4世ディオゲネス マンジケルトの戦でセルジューク朝に敗れる。
1096年、第1回十字軍のエルサレム攻囲戦が始まる。(~1099年)
1106年、イングランド王ヘンリー1世がタンシュブレーの戦でロベール短袴公を破る
1107年、高麗の尹瓘が女真を討ち9城を築くが(尹瓘九城の役)、翌年に撤退する。
1147年、レコンキスタで、ポルトガル王国アフォンソ1世がイスラムの勢力下からリスボンを奪回。
1148年、第2回十字軍、ダマスカス攻撃。もつとも成果の少ない十字軍だった。(~1149年)
1176年 神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世がレニャーノの戦で北イタリア・ロンバルディア同盟軍に敗れる
1187年、ギード・リュジニャン率いるエルサレム王国の十字軍がヒッティーンの戦でアイユーブ朝のサラーフ・アッディーンに敗れる
1189年、神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世、フランス墺フィリップ2世、イギリス王リチャード1世らが第3回十字軍に参戦(~1192年)
1201年、チンギス・カンはコイテンの戦でジャムカを破る
1202年、第4回十字軍。ヴェネツィア商人に利用され、ビザンツ帝国の首都コンスタンティノープルを占領(~1204年)
1214年、仏王フィリップ2世が、ブーヴィーヌの戦で神聖ローマ帝国、英国連合軍に勝利する
1219年、モンゴル軍はホラズムに侵攻し、翌年にはサマルカンドを攻略する
1223年、モンゴル軍はカルカ河畔の戦でキエフ大公国を破る
1226年、ホーエンシュタウフェン家とカペー家のシャルル・ダンジューが南イタリアのベネヴェントの戦う。カペー家の勝利。
1228年、第5回十字軍。神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世が交渉によって平和裏に聖地を回復するが、長くは続かず(~1229年)
1235年、マリ王国のスンディアタがキリナの戦いでソソ王国のスマンゲルを破る
1236年、リトアニアがザウレの戦いでリヴォニア帯剣騎士団を破る
1241年、シュレージェン公ハインリヒ2世、リーグニッツ(ワールシュタット)の戦でバトゥが率いるモンゴル軍と戦い、大敗し、戦死。
1245年、ハールィチ・ヴォルイーニ大公国がヤロスラヴの戦いでポーランド・ハンガリーと戦う。
1248年、第6回十字軍。教皇の信任厚いフランス王ルイ9世がエジプトに侵攻するも失敗(~1254年)
1250年、フランス王ルイ9世率いる十字軍がマンスーラの戦でエジプトのアイユーブ朝に敗れる。
1258年、モンゴル軍のフラグがバグダードの戦でバグダードを占領し、アッバース朝滅ぶ。
1260年、フィレンツェがモンタベルティの戦いでシエーナ軍に敗れる。
1260年、モンゴル軍のフラグはアイン・ジャールートの戦でマムルーク朝のバイバルスに敗れる。
1264年、イングランド王ヘンリー3世に対してレスター伯シモン・ド・モンフォールらが反乱。王党派の勝利に終わった。これを第2次バロン戦争という。
1265年、イーブシャムの戦い。
1266年、ホーエンシュタウフェン家がイタリアのベネヴェントの戦でカペー家と、敗れる。シチリアの支配が終わる
1270年、第7回十字軍。チュニスに侵攻したが、フランス王ルイ9世が病没したため中止。
1268~1274年、モンゴル軍は襄樊の戦で南宋を滅ぼす。
1272年、最後の十字軍(第9回十字軍)終わる。
1274年、モンゴル軍、日本に遠征するが失敗(文永の役)
1278年、モンゴル軍、ポーランド・ドイツ連合軍を破る
1278年、神聖ローマ帝国ルドルフ1世、マルヒフェルデの戦いでボヘミア王オットカルを破る
1279年、モンゴル軍、厓山の戦いで南宋を滅ぼす
1281年、モンゴル軍、日本に遠征するが失敗(弘安の役)
1284年、ピサがメロリアの海戦でジェノバに大敗する。
1288年、ドカン率いるモンゴル軍は白藤江の戦いで陳国峻率いるベトナム軍に敗れ、モンゴルのベトナム侵攻は失敗におわる。
1291年、第9回十字軍。イスラエル王国の首都アッコン滅亡する。(十字軍戦争終わる)
1294年、英仏戦争はじまる。
1298年、神聖ローマ皇帝ルドルフ1世はゲルハイムの戦で長子アドルフを殺す。
1301年、オスマン1世がビザンツ帝国軍をコユンヒサルの戦で破る。
1302年、フランス王フィリップ4世はクルトレー(コルトレイク、金拍車)の戦でフランドル市民軍に敗れる
1311年、アテネ公国ゴーティエ5世がアルミュロスの戦いで東ローマ軍に敗れる
1314年、エドワード2世率いるイングランド軍がバノックバーンの戦でロバート1世のスコットランド軍に敗れる
1315年、スイスがモルガルテンの戦でオーストリア軍を破り、現在に至る永久盟約を得る
1322年、神聖ローマ帝国皇帝ルートヴィヒ4世がミュールドルフの戦でオーストリア大公フリードリヒ1世を破る
1331年、ヴワディスワフ1世率いるポーランド王国がブウォフツェの戦でドイツ騎士団に勝利する
1337年、英仏の百年戦争がおこる
1338年、アルネマイネンの海戦でフランスが勝利する
1345年、北フランスの貴族ギヨーム2世はワルスの戦でフリース人に敗れ戦死した
1346年 フランス王フィリップ6世、クレシーの戦でエドワード3世に敗れる
1346年、ネヴィルズ・クロスの戦。スコットランドがイギリスに敗れる
1356年、フランス王ジャン2世はポアティエの戦でイギリス王エドワード黒太子に敗れる
1363年、明の朱元璋が鄱陽湖の戦で元の陳友諒を破る
1369~70年 エドワード3世、フランス王シャルル5世に敗れて獲得した領土の大部分を失う
1371年、セルビア帝国はマリツァリの戦でオスマン軍に敗れ、ウロシュ5世はまもなく死亡。
1378年、イタリアのフィレンツェで労働者の反乱おこる。
1378年、モスクワ大公国がヴォジャ河畔の戦いでモンゴルを破る。
1380年、モスクワ大公国ドミトリー・ドンスコイがクリコボの戦いでモンゴルを破る。
1380年、ジェノバがキオッジャの海戦でヴェネツィアに完敗する。
1382年、百年戦争。ローゼンバーグの戦いでフランス軍がフランドル諸都市を破る。
1385年、ジョアン1世率いるポルトガル軍がアルジュバロータの戦いでカスティーリャ王ファン1世を破る。
1388年、ハプスブルク家アルブレヒト3世、ネーフェルトの戦いでスイス自由連邦に敗れる
1389年、オスマン帝国のムラト1世がコソボの戦でセルビアを破る
1391年、ティムールはコンドゥルチャ川の戦いでトクタミシュを破る
1396年、神聖ローマ皇帝・ハンガリー王ジギスムント率いるヨーロッパ諸国軍がニコポリスの戦でバヤズィト1世率いるオスマン帝国軍に大敗する
1402年、バヤズィト1世率いるオスマン帝国がアンカラの戦でティムールに敗れる。バヤズィト1世は捕虜になり、翌年自害する
1410年、ポーランド・リトアニア連合軍がグルンヴァルトの戦(タンネンベルクの戦い)でドイツ騎士団を破る
1415年、フランス軍が百年戦争アジャンクールの戦いでヘンリー5世率いるイングランド軍に敗れる。
1419年、ボヘミアのフス戦争(~1434)。フス派の勝利。
1429年、ジャンヌ・ダルクに率いられたフランス軍がパテーの戦いでイングランド軍に圧勝。イングランドのジョン・タルボットは敗れて、捕虜となる。百年戦争の仏軍の初めての勝利であった
1444年、オスマン帝国のムラト2世はヴァルナの戦でハンガリー・ポーランド連合軍を破る。
1450年、百年戦争。イングランド軍はフォルミニーの戦でフランスに大敗し、ノルマンディーから撤退する。
1453年、イングランド軍はカスティヨンの戦でフランスに敗れる。百年戦争最後の戦い。
1453年、東ローマ帝国コンスタンティノス11世 メフメト2世のオスマントルコ軍に攻められコンスタンティノープル陥落
1454年、十三年戦争が始まる。
1455年、薔薇戦争最初の戦い。ヨーク公リチャードはサマセット公エドムンド率いるランカスター派をセント・オールバーンズの戦で破る。
1456年、ワラキア公国のフニャディ・ヤーノシュがベオグラード包囲戦でオスマン帝国に勝利する。
1460年、薔薇戦争、ウエイクフィールドの戦い。
1460年、薔薇戦争、ノーサンプトンの戦いでヨーク派がランカスター派を破る。
1461年、薔薇戦争・タウトンの戦い。ヨーク家のエドワード4世がマーガレット王妃らランカスター派を破る。
1466年、ポーランドとプロシア連合の同盟とドイツ騎士団国とのあいだで起きた十三年戦争がプロシアとポーランドの勝利に終わる(~1454年)。
1471年、薔薇戦争・テュークスベリ―の戦い。ランカスター家のエドワード王太子が戦死。
1477年、ブルゴーニュ公シャルル(豪肝公)がナンシーの戦い(ブルゴーニュ戦争)でロレーヌ公ルネ2世に敗れ戦死。
1485年、ヨーク派のリチャード3世はボズワースの戦でランカスター派のヘンリー7世に敗れる
1487年、薔薇戦争の最後の闘いストーク・フィールドの戦いが行われる
1503年、フランスはチョリニョーラの戦、ガレラノの戦でスペインに敗れる
1507年、ポルトガルのインド総督アルブケルケ、ペルシャ湾口の香辛料集散地ホルムズ島を占領した。
1509年、フランシスコ・デ・アルメイダ率いるポルトガル海軍がディウ沖海戦でイスラム教徒のマムルーク朝、クジャラート・スルタン朝及びカリカットの領主ザモリンの連合海軍を破る
1513年、スコットランドがフロドゥンの戦でイングランドに大敗し、国王ジェームズ4世が戦死。
1514年、サファヴィ朝ペルシャ軍イスマーイール1世がチャルディラーンの戦でオスマン帝国セリム1世に敗れる。以後両国の戦いは124年間続く。
1515年、仏王フランソワ1世・ヴェネツィアがスペイン・神聖ローマ・イギリス・ミラノのスイス傭兵軍とマリニャーノ戦いで勝利する。
1516年、オスマン帝国がマルジュ・ダービクの戦でマムルーク朝を破り、シリアを支配する。
1519年、スペインのコルテスがタバスコの戦でインディオに勝利し、メキシコを征服した。
1521年、独帝カール5世と仏王フランソワ1世との間にイタリア戦争始まる。
1524年、ドイツ農民戦争。フランケンハウゼンの戦で農民軍が諸侯軍に敗れて終結する(~1525年)
1525年、仏王フランソワ1世、パヴィアの戦でスペインに敗れる。
1526年、インドのロディ朝がパーニーパットの戦でムガール帝国のバーブルに敗れる
1526年、オスマン帝国がモハーチの戦でハンガリー王国を破る
1529年、オスマン帝国の第一次ウィーン包囲。
1529年、スイスの宗教戦争、第一次カッペル戦争
1531年、第二次カッペル戦争でチューリヒのカトリック軍が勝利する。
1531年、スコットランド王ジェームズ4世が2万の軍勢を率いて国境を侵攻するが、英国軍にフロッドンの戦で大敗し、ジェームズ4世は戦死する
1531年、チューリヒの宗教改革の指導者ツヴィングリがカベルの戦で戦死
1532年、スペインのピサロがカハマルカの戦いでインカ帝国アタワルパを捕らえた。何千もの市民や軍人を殺戮した。
1538年、スペイン・ヴェネツィア・ローマ教皇連合軍はプレヴェザの海戦でオスマン帝国と対戦するが、連語国側は統制がとれずに敗れる。
1546年、シュマルカルデン戦争がはじまる。
1547年、プロテスタント軍がミュールベルクの戦で神聖ローマ軍に敗れる
1558年、リヴォニア戦争(~1583)。
1562年、ユグノー戦争。フランスのヴァシーでプロテスタントが大量に殺される。
1568年、オランダ独立戦争おこる。
1570年、スペインのレガスピがフィリピン・マニラの戦で勝利し、翌年には城郭都市イントラムロスを建設。
1571年、オスマントルコ帝国がレパントの海戦でスペイン、ベネチア、ローマ教皇の連合軍に敗れる
1588年、スペイン王フェリペ2世の無敵艦隊(アルマダ)がプリマス沖、カレー沖、グラヴリーヌ沖の海戦でイギリス艦隊に敗れる
1593年、オスマントルコ帝国ムラート3世の宰相ハサン・パシャは、シサクの戦でクロアチア軍に敗れる
1593年、ハプスブルク家とトルコの十五年戦争(~1606)。
1593年、小早川隆景らが李如松率いる明軍を碧蹄館の戦いで破る
1618年、三十年戦争
1619年、ヌルハチ率いる後金(のちの清)がサルフの戦で明を破る
1620年、白山の戦。
1630年~31年、ルター派の都市マグデブルクが包囲され、破壊・略奪される(三十年戦争)
1630年、フランスがヴェイッラーネの戦でスペインを破る。
1631年、神聖ローマ帝国がブライテンフェルトの戦でグスタフ2世アドルフ率いるスウェーデンに敗れる。
1632年、アルブレヒト・フォン・ヴァレンシュタイン率いる神聖ローマ帝国がリュッツェンの戦でグスタフ・アドレス2世(スウェーデン)の軍に敗れる。
1632 年、ロシアがスモレンスクの戦でポーランドの軍に敗れる。
1640年、ポルトガルの貴族ブラガンサ公ジョアンらがリスボンのスペイン王宮を襲撃、ポルトガル王政復古戦争が始る。
1641年、清のホンタイジが松山・錦州の戦で明を滅ぼす
1643年、清教徒革命。国王軍がアドウォルトン・ムーアの戦で議会軍に勝利する。
1644年、清教徒革命。チャールズ1世の国王軍がマーストン・ムーアの戦でクロムウェル率いる議会軍に敗れる。
1645年、イギリス、ルーパート王子軍がネーズビーの戦でクロムウェルの議会軍に敗れる。ロートン・ヒースの戦い。
1648年、ウェストファリア講和条約。三十年戦争終わる。
1652年、第一次英蘭戦争。イギリスの勝利。
1653年、ポートランドの海戦(第一次英蘭戦争)~1654年まで
1654年から1667年、ロシア・ポーランド戦争
1659年、ロシア大公アレクセイ3世がコノトプの戦でウクライナ・コサック軍に敗れる。
1666年、ダンケルク沖の海戦でオランダがイギリスを破る。
1667年、第二次英蘭戦争終わる。
1670年、ロシアでステンカ・ラージンの農民反乱おこる。(~1671年)
1672年、英仏対オランダの戦争始まる(第三次英蘭戦争)。ソールベイの海戦でオランダの勝利。
1674年、英蘭戦争終わる、ウェストミンスター条約の締結。イギリスの制海権が確立。北米植民地ニューアムステルダム(ニューヨーク)はイギリスに返還される。
1675年、デンマーク・スウェーデンでスコーネ戦争始まる(~1679年)。
1685年、清の康熙帝はロシアが東方に進出して黒竜江流域にきずいたアルバジン城を奪回した。
1687年、清ジュンガル戦争起こる。康熙帝、乾隆帝と三次にわたるが、清に対して反乱を起こしたアムルサナーは1759年敗れる。
1688年、フランスのルイ14世が神聖ローマ帝国領のファルツ公家の継承問題に介入してファルツ戦争(~1697年)が始まる。
1690年、イングランド軍がボイン川の戦いでアイルランド軍に勝利する。
1697年、オスマン帝国がゼンタの戦でオーストリア軍に大敗する。
1700年、スウェーデン王カール12世がナルヴァの戦でロシアのピョートル1世に勝利する。1721年まで続く北方戦争はロシア側が勝利し、バルト海の覇権はロシアに移る。
1701年、スペイン継承戦争始まる。1714年まで続く。
1702年、アン女王戦争。
1706年、オーストラリア軍がトリノの戦いでフランス軍を破る(スペイン継承戦争の一つ)
1709年、スウェーデンのカール12世、ボルタヴァの戦でロシアに敗れる。
1710年、スペイン・フランス連合軍がビリャビシオーサの戦でカール大公率いるハプスブルグ家を破る(スペイン継承戦争の一つ)
1710年、イギリスがカナダ植民地ポートロワイヤルでフランスに勝利する
1712年、スウェーデンがガーデブッシュの戦でデンマークに敗れる。
1714年、ロシアのピョートル1世がハンゴ沖海戦でスウェーデンを破る。
1721年、スウェーデンとロシア・デンマークを中心に行われた大北方戦争(1700-1721)が終る。ニスタット条約を締結。
1722年から1725年までラル神父戦争。アメリカ東部植民地とインディアンの戦い。セバスチャン・ラルがノリッジウォックの戦いで戦死。
1733年、ポーランド継承戦争始まる(~1735)。
1734年、ロシア軍がフランス、スウェーデンと戦い、ダンツィヒを攻囲する。
1739年、アフガニスタンのホータキー朝がカンダハール包囲戦でペルシアのアフシャール朝に敗北し滅亡する。
1740年、オーストラリアのマリア・テレジアが即位し、オーストラリア継承戦争始まる。
1741年、マリア・テレジアがモルヴィッツの戦でフリードリヒ2世のプロシアに敗れる。
1743年、オーストリア継承戦争。英墺連合軍と仏軍がディティンゲンで戦い、英墺連合軍が勝利する。
1744年、オーストリア継承戦争。スペイン・フランス連合軍がクーネオの戦でサルディニーア王国に勝利した。
1745年、フランスがフォントノワの戦で英蘭墺連合軍に勝利する。
1746年、カロデンの戦い。スコットランドで名誉革命反対派・ジャコバイトによる最後の戦い。
1756年、プロイセンとオーストリアで七年戦争始まる。
1757年、プロイセンのフリードリヒ2世がロスバッハの戦、ロイテンの戦でオーストリアを破る。
1757年、フランス勢力と組んだベンガル太守のシラージュ・ウッダウラはプラッシーの戦でロバート・クライブ率いるイギリス軍に敗れる。
1758年、プロイセン軍がツォルンドルフの戦でロシア軍に勝利する。
1758年、七年戦争;ホッホキルヒの戦 オーストリア軍の勝利
1759年、プロイセン軍がクネルスドルフの戦でロシア・オーストリア連合軍に敗れる。
1761年、第3次バーニーパッドの戦い、マラーダ連合軍敗北する。
1763年、フベルトゥスブルク条約、七年戦争おわる。
1764年、イギリス東インド会社がインドのブクサールの戦でムガル帝国を破る。
1764年、アメリカ大陸軍がカナダ侵攻。ロングポイントの戦でイギリス軍が勝利する。
1767年、第1回マイソール戦争(~1769)。マイソール王国がイギリス東インド会社に勝利する。
1768年、露土戦争起こる。
1775年、アメリカ独立戦争始まる(~1783)。レキシントン・コンコードの戦で英軍と米植民地兵が武力衝突。アメリカ軍はモントリオールを占領するが、ケベックの戦いに敗れる。
1775年~82年。マラータ同盟がイギリス東インド会社に勝利する。
1776年冬、大陸軍はニュージャージーの戦いでイギリス軍に勝利する。
1777年、アメリカ独立戦争:クリントン砦とモントゴメリー砦の戦いで英軍の勝利。
1777年、英軍バーゴイン将軍がサラトガの戦で米植民地軍に敗れる。
1778年、アメリカ独立戦争・ジョージア植民市サバンナの戦いで、英軍の勝利。
1780年、アメリカ独立戦争・ワックスホーの戦。戦闘に勝利した英軍は、大陸軍が白旗を挙げたのを無視して大陸軍兵113人を虐殺。
1781年、アメリカ独立戦争・ヘンリー岬の海戦・チェサピーク湾の海戦。英軍の敗北。
1781年、チャールズ・コンーウォリス率いる英軍はヨークタウンの戦でジョージ・ワシントン率いる独立軍に攻囲され敗れる。
1781年、インドのポルト・ノヴァでマイソール王国はイギリス軍に敗れる。(第二次マイソール戦争の1つ)。
1783年、パリ条約(アメリカの独立を承認)
1789年、フランス革命起こる。
1790年、第3回マイソール戦争。
1792年、フランス革命を巡ってフランスとヨーロッパ諸国との間で戦争がおこる(フランス革命戦争、~1799)
1793年、フランス軍はナポレオン率いる革命軍にツーロン要塞の攻撃で敗れる。
1796年、オーストリア軍がカスティリオーネの戦でナポレオン軍に敗れる。
1798年、オスマン帝国がピラミッドの戦でナポレオン軍に敗れる。
1799年、第4回マイソール戦争。
1800年、オーストリア軍がアルプスを越えて侵攻したナポレオン軍にマレンゴの戦で敗れる。
1805年、オーストリア・ロシア連合軍がアウステルリッツの三帝会戦でナポレオンに敗れる。
1805年、トラファルガルの海戦でイギリス艦隊がナポレオン率いるフランス・スペイン聨合艦隊に勝利。ネルソン提督は戦死。
1806年、プロシア軍がイエナ・アウェルシュタットの戦でフランス軍に敗れる。
1809年、ナポレオン、ワグラムの戦でオーストリア軍に大勝する。
1810年、セブンオークスの戦い。カナダのレッドリバー植民地で毛皮交易をめぐり交易会社同士で争い。
1812年、モスクワに遠征したナポレオンがクトゥーゾフ将軍のロシア軍とボロジノの戦で交戦。10万人の犠牲を出したが勝敗は決せず。
1812年、米英戦争はじまる。
1813年、ナポレオン軍がライプチヒの戦でプロイセン・オーストリア・ロシア連合軍に敗れる。
1814年、アメリカ軍はブラーデンスバーグの戦でイギリス軍に敗れ、ワシントンのホワイトハウスなどの建物が焼失した。
1814年、イギリス東インド会社とネパール(ゴルカ朝)とのグルカ戦争が起こり、1816年イギリスの勝利により、スガウリ条約が結ばれる。
1815年、ナポレオンがワーテルローの戦でイギリス・プロシア連合軍に敗れる。
1815年、米英戦争ニューオーリンズの戦でイギリス軍はアンドリュー・ジャクソン率いる5千人の米兵に敗れる。
1816年、セブンオークスの戦。カナダのレッドリバー植民地で毛皮交易をめぐり交易会社同士で争い。
1817年、第3回マラータ戦争。
1819年、シモン・ボリバルの独立革命軍はボヤカの戦(コロンビアのボゴタ近郊)でスペイン軍に勝利する。
1821年、スペイン軍がカラボボの戦でシモン・ボリバル率いる反乱軍に敗れ、ベネズエラの独立が決定した。
1821年、ギリシャ独立戦争。
1824年、スペイン軍がアヤクーチョの戦でスクレ将軍率いるペルー解放軍に敗れる。
1824年~26年、ビルマ戦争。イギリスがビルマのコンバウン朝に勝利する。
1827年、英仏露3国艦隊がナヴァリノの海戦でトルコ艦隊を破る。
1836年、テキサス軍がサンジャシントの戦いでメキシコ軍を破る。
1836年、テキサス軍がアラモ砦でメキシコ軍と戦い全滅する。
1838年、ズールー族がブラッド・リバーの戦いでボーア人に敗れる。
1839年、バーラクサイ朝アフガニスタン首長国がイギリスを討つ(第1次アフガン戦争(~1842年)
1840年、アヘン戦争(~1842年)
1845年~46年、第一次シク戦争。シク王国とイギリス東インド会社の戦争。イギリスの勝利。
1848年、サルディニア王カルロ・アルベルトがクストッツァー・ノヴァラの戦でオーストリアに敗れる。これにより、イタリアの統一運動は一時中絶した。
1849年、ガリバルディがローマ大学の戦いでフランス軍を破る。
1852年、第二次ビルマ戦争。
1854年、クリミア戦争でロシアのセヴァストーポリ要塞を目指す英仏軍がアルマでロシアと交戦する。
1855年、セヴァストーポリ要塞が英仏軍の攻撃によって陥落する。
1856年、アロー号戦争(~1860年)
1856年、コスタリカ軍が第二次リバスの戦いでニカラグア軍を破る。
1859年、イタリア統一戦争・ソルフェリーノの戦い。アンリ・デュナンが戦場の惨状に衝撃を受け、後の赤十字運動につなげる。
1860年、ガリバルディ率いるイタリア義勇軍はヴォルトルノ河畔の戦でナポリ軍を破り南イタリアを制圧する。
1861年、南北戦争:北軍はブル・ランの戦で南軍に敗れる。
1861年、南北戦争:ボールズブラフの戦。
1862年、南北戦争:セブンパインズの戦。決着つかず。
1862年、南北戦争:ヘンリー砦の戦で北軍の初勝利。
1862年、南北戦争:シャイローの戦。北軍の勝利。
1862年、南北戦争:ペリービルの戦
1862年、フランスのナポレオン3世がメキシコ出兵、プエフラの戦でフランスに勝利する。(フランス・メキシコ戦争1862-1867)
1863年、カメロンの戦でメキシコが勝利するも、フランスの傀儡政権であるメキシコ帝国が建国。
1863年、南北戦争、ゲッティスバーグの戦で南軍の衰勢が決定した。
1864年、南北戦争:シーダークリークの戦い
1864年、曽国藩が太平天国の乱を鎮圧した。
1866年、イタリア海軍がリッサの海戦でオーストリア海軍に敗れる。
1866年、オーストリア帝国はチェコのケーニヒグーレツの戦(サドワの戦)でプロシアに敗れる。
1868年、アメリカ軍のカスター中佐が率いる第7騎兵隊がシャイアン族インディアンを虐殺する(ウォシタ川の戦)。
1868年、エチオピアのテオドロス2世、マグダラの戦いでイギリス軍に大敗し、自殺する。
1870年、モルトケ率いるドイツ軍がグラヴロットの戦でバーゼル率いるフランス軍を破る
1870年、フランスのナポレオン3世はセダンの戦でプロイセン軍に敗れる。
1873年、アチェ-戦争、オランダがスマトラのアチェー王国征服(1904年)
1876年、アメリカ陸軍とインディアンがモンタナ州のリトルビックホーンで戦い、カスター将軍率いる第7騎兵隊ら本隊が全滅した。
1877年、露土戦争(~1878)
1879年、ズールー戦争おこる。イギリスと南アメリカのズールー王国との間で行われた戦争でアフリカの植民地支配がはじまる。
1880-1881年、イギリスがトランスヴァール共和国に破れる(第一次ボーア戦争)
1885年、清仏戦争でフランスによるベトナムの植民地化が始まる。
1885年、ビルマ王ティーボーは英緬戦争でイギリス軍に敗れ、コウバウン朝は滅亡し、イギリス領インド帝国に併合される。
1894年、日清戦争(~1895年)
1896年、イタリアのエチオピア侵攻軍がアドワの戦でエチオピアのメネリク2世に大敗する。
1898年、米西戦争。7月アメリカ軍がキューバのサン・ファン・ヒルの戦いでスペイン軍を撃破する。
1899年、南アフリカのルイス・ボータ将軍がコレンソの戦いでイギリスを破る。
1899年、米比戦争始まる(~1902年)アメリカの植民地支配が始まる。
1902年、南アフリカのボーア戦争、イギリスの勝利に終わる。
1904年、日露戦争(~1905年)
1905年、ロシアのバルチック艦隊が日本海海戦で日本の連合艦隊に敗れる。
1911年、イタリア・トルコ戦争。イタリアがオスマントルコ領リビアの領有を図って起こす。イタリア敗北。
1912年、バルカン戦争(~1913年)。
1914年、ベルギーを突破し、北仏に進軍したドイツ軍(モルトケ)は、マルヌの戦でフランス軍(ジョッフル)に敗れる。
1914年、ロシア軍がタンネンベルクの戦でドイツ軍(ヒンデンブルク)に包囲、殲滅される。
1915年、オスマン帝国はダーダネルス海峡のガリポリの戦で英仏連合軍に勝利する。
1915年、第一次大戦・イ―ペルの戦い。ドイツ軍がフランス軍に対し、毒ガス攻撃。
1916年、ヴェルダンの戦、フランスは守り切った。
1916年、ソンムの戦。第一次世界大戦における最大の戦争であるが、英仏連合軍とドイツ軍がフランスのソンムで激突したが、両軍目立った戦果をあげることがなかった。
1916年、ユトランド沖海戦。
1916年、アメリカ、パンチョ・ビリャ遠征軍をメキシコに派遣。
1917年、ロシア革命。
1917年、第一次世界大戦におけるカンプレーの戦いで、英軍が世界初となる大規模な戦車の投入を行った。
1918年、イ―ペルの戦でドイツ軍か毒ガスを使用。
1918年、フィンランド内戦がおこる。タンペレの戦いで白軍が赤軍に勝利し、共和国となる。
1920年、ポーランド・ソ連戦争。ポーランドの旧版図回復。
1922年、トルコ軍がドゥムルプナルの戦でギリシャ軍に勝利する。
1935年、イタリア、エチオピア侵略。
1936年、スペイン内戦始まる。
1937年、日中戦争始まる。
1939年、関東軍とソ連が満蒙国境線めぐりノモンハン事件おこる。
1939年、ソ連がフィンランドに侵攻し冬戦争がおこる。(~1940年)
1940年、ドイツ軍がオランダ・ベルギーに侵入(ベルギーの戦い)。
1940年、フランス軍はダンケルクの戦でドイツに敗れ、降伏する。
1941年、ドイツ軍がロシアに侵攻する(~1945年)。
1941年、太平洋戦争始まる。
1942年、ドイツの戦車軍団ロンメルは北アフリカのエル・アラメインの戦で英軍モントゴメリーに敗れる。
1942年、ドイツ軍はソ連とのスターリングラードの戦(~1943年)で消耗し、これによってドイツの後退が始まる。
1942年、太平洋戦争最大の激戦、ガダルカナル島の戦いで日本軍が全滅。
1943年、ドイツ軍はドニエプル川の戦でソ連軍に敗れる。
1943年、ドイツ軍はクルスクの戦でソ連軍に大敗。
1943年、スターリングラードの戦でドイツ軍のパウルス司令官と幕僚がソ連に降伏する。
1943年、アッツ島の戦い。
1944年、ドイツ軍はナルヴァの戦でソ連軍の進撃を阻止する。
1944年、日本はレイテ沖海戦で米軍に大敗し、事実上壊滅。シブヤン海海戦・戦艦武蔵が沈没。
1944年、連合軍、ノルマンディー上陸作戦に成功する。
1944年、フィンランドとドイツ連合軍はタリ・イハンタラの戦いでソ連軍の侵攻を阻止する。
1945年、独ソ戦最後の戦い、プラハの戦い。
1945年、硫黄島の戦いで、アメリカが硫黄島を完全占領
1946年、フランス・インドシナ戦争(~1954年)
1947年、第一次印パ戦争(~1949年)
1950年、朝鮮戦争が始まる(~1953年)
1950年、マッカーサーの国連軍が長津湖の戦いで毛沢東率いる中国軍と戦う。
1953年、ポークチョップヒルの戦い
1954年、アルジェリアとフランスとでアルジェリア戦争始まる(~1962年)。
1954年、ディエンビエンフーのフランス軍拠点が陥落。インドシナから撤退する。同年ジュネーヴ協定結ばれる。
1959年、チベットで反中国暴動。
1959年、中印戦争(~1962年)
1963年、インドネシア、マレーシア戦争(~1966年)
1963年、ギニアビサウ独立戦争(~1974年)
1963年、アメリカ軍と南ベトナム軍がアプバクの戦いでベトコンに敗北する。
1965年、第二次印パ戦争(1966年)
1967年、ビアフラ戦争(~1970年)。
1967年、第三次中東戦争。
1968年、南ベトナムのケサンでアメリカ軍と北ベトナム軍が戦う。
1969年、北アイルランド紛争(~98年)
1971年、第3次印パ戦争
1973年、第四次中東戦争。
1974年、カンボジアのロン・ノルがカンポットの戦でボル・ポトに敗れる。
1975年、サイゴン陥落、ベトナム戦争終了。
1979年、ソ連のアフガニスタンへの侵攻
1982年、アルゼンチンはフォークランド紛争でイギリスに敗れる。
1991年、第一次湾岸戦争。
1991年、スロヴェニア独立戦争。
1991年、ソマリア内戦(~継続中)
1994年、ルワンダで内戦始まる。50万人が殺される。
1994年、第一次チェチェン紛争(~1996年)
1998年、コソボ紛争起こる。コソボは2008年にセルビアから独立。
1999年、第二次チェチェン紛争(~2000年)
2001年、アメリカのアフガニスタン侵攻。
2003年、第二次湾岸戦争。
2005年、イラク戦争。ハディサで米軍兵士がイラク市民24人を虐殺(ハディサ事件)。
2006年、カンダハルの戦い。米軍対タリバン。
2006年、ヒズボラ戦争。イスラエル対レバノン。
2008年、イスラエル軍がパレスチナのガザに侵攻。ハマースとの間にガザ紛争おこる(~2009年)
2011年、シリア内戦(継続中)。アサド政府軍(シーア派)と反政府軍(スンニ派)との間で内戦おこる。
2014年、ロシアがウクライナのクリミヤ半島を一方的に併合。
2022年、ロシアのウクライナへの侵攻。
BS歴史館「古代都市ポンペイの真実~新発見54体の人骨の謎」。西暦79年8月24日正午過ぎに起こったヴィスビィオ山の噴火で人口1万人の町は火山灰に埋まった。1748年にポンペイが発掘されて、古代遺物研究者は驚愕した。そこには、建物、街路などがそっくりそのままの形で発見されたのである。番組では「人類が最も幸福だった時代」といわれる繁栄ぶりを再現している。奴隷が家庭教師、名告げ奴隷、演奏奴隷などさまざまな専業職に就いていた。やがて解放奴隷のなかには資産家も現れる。今日われわれがイメージする奴隷とは大きく異なる。「狩りをし、風呂に入り、ゲームをして笑う。それが人生だ」という快楽主義で番組を結んでいる。ここでは番組ではふれられなかったもうひとつのポンペイについて述べる。ポンペイ観光の人気スポットの一つが売春宿である。「ルパナレス」(もとは雌オオカミを意味する、売春婦をさす俗語「ルパ」に由来する)と呼ばれた売春宿は25ヶ所もあり、壁に淫らな絵が残っている。ポンペイの住人たちが町の守護神に選んだのは、肉欲の神プリアポスで、町のいたるところに大きな男根をもつプリアポスの像が発見されている。売春婦はれっきとした職業として認められていたようだ。(Pompei)
三重県に鳥取という地名がある(三重県員弁郡東員町鳥取)。ローカル路線バス乗り継ぎの旅Zで知った。カナダのオンタリオ州にはロンドンという名の都市がある。またアメリカにはボストン、プリマス、ポーツマスといったイギリスと同名の都市がある。移民の国アメリカには、移民たちがそれぞれの故郷の名前をそのまんま付けた都市がある。アメリカのテキサス州にはパリという町がある。ヴィム・ヴェンダース監督の映画「パリ、テキサス」(1984)で世界的に知られるようになった。だが名前の由来は知らない。なにもない田舎町で16分の1のエッフェル塔をまねた鉄塔の、一番上にテンガロン・ハットが飾られている。(Paris,Dallas)
「人生100年時代」というけれど、新聞の訃報記事に載る著名人で100歳を超えた人は数えるほどしかいない。人の命の短さを感ずるとともに、昭和にご活躍された方が次々と亡くなっていくのはとても寂しい。
1月
5日、米俳優アール・ボーエンさんがハワイで死去した。81歳。「ターミネーター」や「9時から5時まで」等ヒット映画に多数出演した。▽10日、前ギリシャ国王のコンスタンティノス2世がアテネで死去した。82歳。▽10日、イギリスのロックギタリスト、ジェフ・ベックさんが死去した。78歳。「恋はみずいろ」「レッド・ブーツ」など。▽12日、米国歌手のリサ・マリー・プレスリーさんが死去した。54歳。エルヴィス・プレスリーの娘、女優ライリー・キーオの母。▽11日、ミュージシャンの高橋幸宏さんが誤嚥性肺炎により死去した。70歳。80年代にテクノブームを巻き起こしたYMOのメンバーで日本を代表するドラマー。代表曲「ライディーン」。▽11日、作家の鏑木蓮さんが死去した。61歳。「東京ダモイ」で江戸川乱歩賞を受賞した。「白砂」「残心」など。▽12日、作家で精神科医の加賀乙彦さんが老衰で死去した。93歳。「フランドルの冬」「宣告」「帰らざる夏」。▽13日、英俳優ジュリアン・サンズさんが登山中に行方不明となの、およそ5カ月後、遺体が発見された。65歳。代表作「眺めのいい部屋」「ワーロック」「キリングフィールド」など。▽15日、俳優の三谷昇さん死去した。90歳。片目の特異な風貌で脇役が多い。「軍旗はためく下に」「ミンボーの女」など。▽16日、伊俳優ジーナ・ロロブリジーダさんが死去した。95歳。「パンと恋と夢」「ノートルダムのせむし男」「花咲ける騎士道」「夜ごとの美女」などに出演。「世界一美しい女性」とも呼ばれた。▽19日、地球物理学者の上田誠也さんが老衰のため死去した。93歳。「弧状列島」「新しい地球観」。▽23日、元プロ野球選手、門田博光さんが死亡した。74歳。現役通算567本塁打、1678打点はNPB歴代3位。▽24日、ザ・リリーズの妹、燕真由美さんが死去した。62歳。1975年に姉・奈緒美とともに「水色のときめき」でデビュー、2作目の「好きよキャプテン」がヒットした。▽27日、作家の永井路子さんが死去した。97歳。日本の古代、中世の歴史小説で知られる。「炎環」「氷輪」「北条政子」。▽29日、元官僚の石原信雄さんが死去した。96歳。歴代最多7内閣7年3ヶ月、官房副長官を務めた。▽29日、元プロ野球選手、岡村浩二さんが死去した。82歳。阪急で捕手として活躍した。▽29日、米女優のアニー・ワーシングさんが死去した。45歳。ドラマ「24」「タイムレス」「スタートレック:ピカード」など数々の作品に出演。俳優のスティーブン・フルは夫。▽31日、米国歌手のチャーリー・トーマスさんが死去。85歳。元ドリフターズのメンバーの一人。
2月
3日、デザイナーのパコ・ラバンヌさんがフランス・ブルターニュ地方の自宅で死去した。88歳。1934年、スペイン北部バスク地方で生まれ、フランスへ移住する。アルミニウム製のドレスなど革新的なデザインで知られた。▽3日、経済学者の水田洋さんが死去した、103歳。日本における社会思想史研究の第一人者で、特にアダム・スミスの研究で知られる。「社会思想史」(有斐閣)。▽5日、歌手の大城光恵さんが死去した。57歳。「以心伝心しよう」。▽5日、人形作家の辻村寿三郎さんが死去した。89歳。NHKテレビ人形劇「新八犬伝」「真田十勇士」など。▽7日、政治評論家・森田実さんが死去した。90歳。▽7日、将棋の中田宏樹八段が死去した。58歳。居飛車党で「デビル中田」の愛称で親しまれた。▽8日、イタリアの女子アルペンスキー選手エレナ・ファンキーさんが死去した。37歳。▽9日、作曲家バート・バカラックさんが死去した。94歳。「小さな願い」「雨にぬれても」「サン・ホセへの道」など世界的ヒット曲を記録した。▽10日、英映画監督のヒュー・ハドソンさんが死去した。86歳。「炎のランナー」で知られるが寡作。ほかにアル・パチーノ主演の「レボリューション」など。▽10日、元プロ野球投手入来智さんが交通事故で死亡した。55歳。巨人、ヤクルトなどで活躍した。▽10日、旧東ドイツのハンス・モロドウ元首相が死去した。95歳。ベルリンの壁崩壊から4日後に首相に選出され、1990年4月までの在任中、東独の体制維持に努めた。▽13日、漫画家の松本零士さんが死去した。85歳。「宇宙戦艦ヤマト」「銀河鉄道777」などで知られた。▽14日、トヨタ自動車名誉会長の豊田章一郎さんが死去した。97歳。1982年、米ケンタッキー州にトヨタ初の米国自動車工場を建設した。▽14日、元モデルの伊東絹子さんが死去した。90歳。53年にミス日本となり、ミスユニバース世界大会で3位に輝いた。「8頭身美人」という言葉が流行した。▽15日、米俳優ラクエル・ウェルチさんが死去した。82歳。「恐竜100万年」で世界のセックスシンボルとなった。▽17日、米女優ステラ・スティーブンスさんが死去した。84歳。「底抜け大学教授」「ポセイドン・アドベンチャー」。▽16日、歌手の黒崎真音さんが死去した。「薄桜鬼」「ケリザイアの果実」などの音楽を担当した。▽19日、米俳優リチャード・ベルザーさんがフランス・ボズールの自宅で死去した。78歳。犯罪ドラマの刑事役を長年にわたって演じた。▽20日、映画評論家の山根貞男さんが胃がんのため死去した。83歳。「日本映画作品大事典」。▽22日、落語家の笑福亭笑瓶さんが死去した。66歳。▽24日、元毎日新聞記者、西山太吉さんが死去した。91歳。沖縄返還密約をスクープした。のち有罪となる。山崎豊子の小説「運命の人」に描かれる。▽24日、米国映画プロデューサー、ウォルター・ミリッシュさんが死去した。101歳。自然死という。「ウエスト・サイド物語」「大脱走」「夜の大捜査線」など数々のヒット作を手掛けた。▽27日、元警視庁の四方修(しかたおさむ)さんが死去した。92歳。グリコ・森永事件、豊田商事事件などの捜査を指揮した。
3月
2日、幸福の科学総裁の大川隆法さんが死去した。66歳。▽米サックス奏者、ウェイン・ショーターさんが死去した。89歳。マイルス・デイビスさんらのバンドで活躍した。▽2日、建築家のラファエル・ビニオリさんが死去した。78歳。東京国際フォーラムは斬新な作品として高く評価されている。▽3日、米俳優のトム・サイズモアさんが死去した。61歳。「プライベート・ライアン」「ブラックホーク・ダウン」などヒット映画に多数出演した。▽3日、作家の大江健三郎さんが死去した。88歳。「飼育」で芥川賞を受賞、1994年にノーベル文学賞を受賞した。▽6日、漫画家の秋竜山さんが死去。80歳。「ギャグおじさん」「ノッホホン氏」。▽8日、イスラエルの俳優ハイム・トボルさんが死去した。87歳。「フォロー・ミー」、ミュージカル映画「屋根の上のバイオリン弾き」のテビエ役で知られた。▽9日、米俳優ロバート・ブレイクさんが死去した。89歳。「冷血」「夕陽に向かって走れ」、テレビ「刑事バレッタ」。▽9日、扇千景さんが死去した。89歳。宝塚歌劇団出身で女優を経て、1977年に参議院議員に初当選し、5期務めた。▽9日、水泳の橋爪四郎さんが死去した。94歳。ヘルシンキ五輪1500m自由形で2位となった。▽9日、菅原初代さんが死去した。58歳。テレビのバラエティ番組に出演し、大食いの女王「魔女菅原」として知られた。▽仏文学者の菅野昭正さんが死去した。93歳。「狭き門」「谷間のゆり」「ボヴァリー夫人」などフランス文学を多数翻訳した。▽12日、女優の津山登志子さんが、マレーシアの病院で死亡していることが分かった。69歳。「気になる嫁さん」「刑事くん」など人気ドラマに多数出演した。▽12日、野球選手のロベルト・バルボンさんが西宮で死去した。89歳。阪急ブレーブスの内野手として活躍した。▽13日、俳人の黒田杏子さんが死去した。84歳。句集「木の椅子」「一木一草」「日光月光」。▽16日、精神科医師の小阪憲司さんが死去した。83歳。レビー小体型認知症を発見した。▽17日、米俳優ランス・レディクさんが死去。60歳。映画「ジョン・ウィック」シリーズなど。▽22日、俳優の団時朗さんが肺癌のため死去した。74歳。「帰ってきたウルトラマン」の郷秀樹役で知られる。▽女優の奈良岡朋子さんが死去した。93歳。劇団民芸の中心として活躍した。▽24日、アメリカの実業家ゴードン・ムーアさんがハワイの自宅で死去した。94歳。半導体メーカーであるインテルの共同創業者の一人。▽26日、米俳優ロン・フェイバーさんが肺癌で死去した。90歳。1973年のホラー映画「エクソシスト」のチャック役で知られた。▽28日、音楽家の坂本龍一さんが癌で死去した。71歳。テクノポップバンド「YMO」の活動や映画音楽「戦場のメリークリスマス」「ラストエンペラー」などで世界的に広く親しまれた。
4月
2日、米女優のジュディ・ファレルさんが脳卒中で死去した。84歳。テレビシリーズ「マッシュ」で活躍した。▽5日、作家の畑正憲さんが心筋梗塞のため死去した。87歳。1972年に北海道でムツゴロウ動物王国を作った。▽5日、評論家の海野弘さんが死去した。83歳。「パリの手帖」ほか著作多数。▽6日、演出家の生野慈朗さんが死去した。73歳。TBSドラマ「3年B組金八先生」「男女7人夏物語」などを演出し、ヒットさせた。▽6日、作家・詩人の冨岡多恵子さんが死去した。87歳。「波うつ土地」「植物祭」「ひべるにあ島紀行」。▽9日、米俳優マイケル・ラーナーさんが死去した。81歳。映画「候補者ビル・マッケイ」「アウトローブルース」「バートン・フィンク」などに出演。▽11日、韓国の女優チョン・チェユルさんが死去した。26歳。映画「ディープ」に出演。▽12日、脚本家の竹山洋さんが死去した。76歳。映画「四十七人の刺客」「ホタル」や大河ドラマ「秀吉」「利家とまつ」などを手がけた。▽13日、英国ファション・デザイナーのマリー・クワントさんが死去した。93歳。ミニスカートを世界に広めたことで知られる。▽14日、英国の名優マーレイ・メルヴィンさんが死去した。80歳。映画「蜜の味」「アレフィー」「バリー・リンドン」「オペラ座の怪人」などに出演した。▽15日、歌舞伎俳優の市川左団次さんが死去した。82歳。▽16日、米国のジャズ・ピアニストのアーマッド・シャマルさんが死去した。92歳。1958年に「バット・ノット・フォー・ミー」を発表した。▽19日、韓国のアイドルグループ「アストロ」のメンバー、ムンビンさんが死去した。25歳。▽22日、オーストラリアのコメディアン、バリー・ハンフリーズさんが死去した。89歳。1955年頃からドラマで「デイム・エドナ・エバレッジ」と名乗る主婦を演じ、豪州だけでなく、英国でも人気を集めた。▽25日、米歌手、ハリー・ペラフォンテさんがニューヨーク・マンハッタンで死去した。96歳。1956年「バナナ・ボート」が大ヒットし、日本でもカリプソブームが起こった。映画にも出演、「拳銃の報酬」など。
5月
1日、米女優アイリーン・サキさんがロサンゼルスで死去した。79歳。医療ドラマ「マッシュ」でロージー役を演じた。▽3日、英歌手のリンダ・ルイスさんが死去した。72歳。「イッツ・イン・ヒズ・キス」がヒットした。▽5日、フランスの小説家フィリップ・ソレルスさんが死去した。86歳。「奇妙な孤独」「公園」などの作品でヌーボー・ロマンの旗手と見なされた。▽9日、バレーボールの元日本男子代表の横田忠義さんが死去した。75歳。72年のミュンヘン五輪金メダル獲得に貢献した。▽11日、元野球選手の中西太さんが死去した。90歳。本塁打王5回獲得するなど希代のスラッガーで西鉄ライオンズの黄金期を支えた。▽11日、アメリカの映画監督ケネス・アンガーさんが死去した。96歳。「花火」「スコルピオン・ライジング」など前衛的な作風でクリエイターに大きな影響を与えた。またハリウッド黄金期の闇の歴史を暴いた「ハリウッドバビロン」の著者としても知られる。▽11日、米俳優バリー・ニューマンさんが死去した。92歳。カーチェイス・アクション「バニシング・ポイント」はニューシネマの代表的1本。▽14日、元野球選手の毒島章一さんが死去した。87歳。東映フライヤーズの俊足・強打の外野手として活躍した。▽17日、漫才師の春日三球さんが死去した。89歳。「地下鉄の電車はどこから入れたんでしょうね」のネタで一世を風靡した。▽18日、オーストリア人俳優ヘルムート・バーガーさんが死去した。78歳。「地獄に堕ちた勇者ども」や「ルードウィヒ 神々の黄昏」などルキノ・ヴィスコンティ監督作品で知られた。▽18日、ジム・ブラウンさんがロサンゼルスの自宅で死去した。アメリカン・フットボール選手として活躍した後、引退後は「特攻大作戦」などアクション映画に多数出演した。▽19日、英作家マーティン・エイミスさんが死去した。73歳。「時の矢 あるいは罪の性質」「イエロー・ドッグ」。▽19日、上岡龍太郎さんが死去した。81歳。漫才「漫画トリオ」で売り出し、後にテレビ・ラジオで活躍。58歳のとき芸能界を引退した。▽21日、米俳優ルー・パルターさんが死去した。94歳。「タイタニック」で妻を抱きしめて死んでいく名シーンを演じた。▽21日、英俳優レイ・スティーブンソンさんが死去した。58歳。映画「マイティ・ソー」「RRR」に出演。▽22日、ロックバンド・BAADのドラム・新井康徳さんが死去した。55歳。BAADは1993年「君が好きだと叫びたい」が大ヒットした。▽23日、米歌手のティナー・ターナーさんが死去した。83歳。代表曲「愛の魔力」、「ロックの女王」と呼ばれる。▽30日、元プロ野球の植村義信さんが死去した。88歳。夏の甲子園で優勝。毎日・大毎オリオンズで投手として活躍。日本ハムの監督を務めた。
6月
1日、独俳優のマルギット・カルステンセンが死去した。83歳。ファスビンダー監督の「ペトラ・フォン・カントの苦い涙」「悪魔のやから」などに出演した。▽3日、元陸上選手ジム・ハインズさんが死去した。76歳。1968年、メキシコ五輪で100メートル決勝で史上初の9秒台を記録した。▽5日、ブラジル出身の歌手アストラッド・ジルベルトさんが死去した。83歳。1964年に「イパネマの娘」が大ヒットし、「ボサノバの女王」と呼ばれた。▽10日、作家の平岩弓枝さんが死去した。91歳。「御宿かわせみ」「鏨師」。ドラマ「肝っ玉かあさん」「ありがとう」など脚本も手がけた。▽11日、元自民党参院議員の青木幹雄さんが死去した。89歳。小泉・安倍両政権を支えた。▽11日、映画監督の中島貞夫さんが死去した。88歳。東映京都のエースとして多彩な娯楽作品を残した。代表作「日本の首領(ドン)」など。▽12日、イタリアの元首相シルビオ・ベルスコーニさんが死去した。86歳。▽12日、米俳優トリート・ウィリアムズさんがバイク事故で死去した。71歳。「ザ・グリード」「ヘアー」「1941」など出演作が多数。▽12日、元野球選手杉下茂さんが死去した。97歳。中日で投手として活躍し、「フォークボールの神様」と呼ばれた。▽13日、米小説家コーマック・マッカーシーさんが死去した。89歳。「血と暴力の国」「ザ・ロード」などが映画化された。▽15日、英女優グレンダ・ジャクソンさんが死去した。87歳。「恋する女たち」と「ウィークエンド・ラブ」でアカデミー主演女優賞を受賞した。▽16日、元野球選手北別府学さんが死去した。65歳。広島カープの黄金期を支えた名投手だった。▽16日、元米国防総省職員のダニエル・エルズパーグさんが死去した。92歳。ベトナム戦争を巡る秘密文書を暴露したことで知られる。▽18日、米国のラップ歌手ビッグ・ポーキーさんが死去した。45歳。ステージで歌唱中にマイクを握ったまま倒れた。▽21日、京都大原の古民家に移り住みテレビなど知られたベニシア・スタンリー・スミスさんが死去した。72歳。▽22日、洋画家の野見山暁治さんが心不全のため死去した。102歳。1997年、戦没画学生慰霊美術館「無言館」を開館した。▽23日、米俳優フレデリック・フォレストさんがカリフォルニア州サンタモニカの自宅で死去した。88歳。コッポラ監督の「地獄の黙示録」のシェフ役で知られる。▽26日、落語家の古今亭八朝さんが、老衰のため死去した。71歳。▽29日、米俳優のアラン・アーキンさんが死去した。89歳。「アメリカ上陸作戦」「愛すれど心さびしく」「クルゾー警部」。オードリー・ヘップバーンの「暗くなるまで待って」の悪役が印象的だった。
7月
1日、漫画家の九里一平さんが死去した。83歳。「大空のちかい」「海底人8823」「アラーの使者」。アニメでは「マッハGoGoGo」「宇宙エース」。11日、チェコの作家ミラン・クンデラさんがパリで死去した。94歳。84年に発表された「存在の耐えられない軽さ」は世界的ベストセラーとなった。▽12日、タレントのryuchellさんが死亡した。27歳。▽12日、指揮者・作曲家の外山雄三さんが死去した。92歳。▽13日、チャップリンの次女で女優のジョゼフィン・チャップリンさんがパリの自宅で死去した。74歳。「ライムライト」「カンタベリー物語」など。▽15日、作家の高史明さんが死去した。91歳。「生きることの意味」などで知られた。▽16日、ジェーン・バーキンさんがパリの自宅で死去した。76歳。歌手・女優、そしてファッション・アイコンとして世界的に知られた。▽18日、俳優の鈴鹿景子さんが死去した。67歳。昭和51年の朝ドラ「火の国に」でデビューした。▽21日、米の歌手、トニー・ベネットさんが死去した。92歳。「霧のサンフランシスコ」。▽21日、僧侶で教育評論家の無着成恭さんが死去した。96歳。昭和26年、文集「山びこ学校」がベストセラーとなる。▽21日、宝塚歌劇団トップスターの那智わたるさんが死去した。86歳。「カチューシャ物語」「シャングリラ」などに出演、熱狂的な人気を集めた。▽24日、作家の森村誠一さんが死去した。90歳。「高層の死角」「人間の証明」「野性の証明」など。▽26日、アイルランド出身の歌手シネイド・オコナ―さんが死去した。56歳。1990年に発表した「愛の哀しみ」がアメリカやイギリスのチャートで1位となり、世界的な名声を得た。▽30日、米俳優ポール・ルーベンスさんが死去した。70歳。赤いちょうネクタイの「ピーウィ・ハーマン」で知られた。▽31日、米俳優アンガス・クラウドさんが死去した。25歳。ドラマ「ユーフォリア」に出演。▽31日、料理研究家の奥村彪夫さんが死去した。85歳。NHKの番組「きょうの料理」に出演し、人気を集めた。
8月
3日、米俳優マーク・マーゴリスさんが死去した。83歳。大人気テレビシリーズ「ブレイキング・バッド」などで活躍した。▽3日、イギリスの作曲家カール・ディヴィスさんが死去した。86歳。「フランス軍中尉の女」「チャンピオンズ」「レインボウ」など多くの映画音楽の作曲を手がける。▽4日、初代フラカールの小野恵美子さんがいわき市の老人福祉施設で死去した。79歳。映画「フラガール」のモデルとなった。▽7日、米映画監督のウィリアム・フリードキンさんが死去した。87歳。「フレンチ・コネクション」「エクソシスト」など。▽8日、米歌手のシクスト・ロドリゲスさんが死去した。81歳。「シュガーマン」が大ヒットした。▽10日、吉本新喜劇の桑原和男さんが老衰のため死去した。87歳。▽母親役やおばあさん役が記憶に残る。▽12日、奇術師の松旭斎すみえさんが死去した。85歳。ポール・モーリアの「オリーブの首飾り」をBGMに使ったことで知られる。▽14日、イタリアの社会学者フランシスコ・アルベロ―ニさんが死去した。93歳。「他人をほめる人、けなす人」は日本でもベストセラーになった。▽16日、イタリアのソプラノ歌手レナータ・スコットさんが死去した。89歳。20世紀を代表するソプラノ歌手として世界に知られた。▽22日、漫才師おかゆうたさんが脳内出血のため大阪市内で死去した。61歳。
9月
1日、米歌手ジミー・バフェットさんが死去した。76歳。最大のヒット曲となった「魅惑のマルガリ―タヴィル」は1977年にリリースされたもの。▽13日、二代目市川猿翁さんが死去した。83歳。「ヤマトタケル」「オグリ」スーパー歌舞伎で人気を集めた。▽15日、ふくよかな女性の絵画や彫刻で知られるコロンビアのアーティスト、フェルナンド・ボテロさんがモナコで死去した。91歳。▽19日、歌手の棚橋静雄さんが死去した。85歳。ムード歌謡のグループ「ロス・インディオス」のリーダーで「別れても好きな人」が大ヒットした。▽20日、パントマイムのヨネヤマママコさんが死去。88歳。代表作は「新宿駅・ラッシュアワーのタンゴ」「月に憑かれたピエロ」など。▽22日、ダークダックスの遠山一さんが死去した。93歳。愛称は「ゾウさん」でメンバー全員がこの世を去った。代表曲に「雪山讃歌」「カチューシャ」「トロイカ」「山男の歌」「すずらん」。▽22日、社会学者の加藤秀俊さんが死去した。93歳。著書に「整理学」「取材学」など。▽25日、英俳優デヴィッド・マッカラムさんが死去した。90歳。0011ナポレオン・ソロのイリヤ・クリヤキン役やNCISのダッキー役で人気を博す。女優ジル・アイアランドとも元夫婦だった。
10月
6日、アイデア市長として知られた政治家、岩國哲人さんがシカゴで死去した。87歳。衆議院議員、島根県市長。▽8日、歌手の谷村新司さんが死去した。74歳。73年に堀内孝雄、矢沢透の3人でアリスとしてデビュー、「冬の稲妻」「チャンピオン」などヒット曲を連発した。ソロで「昴」は大ヒットした。▽14日、元野球選手の中利夫さんが死去した。87歳。中日で活躍し、67年には首位打者に輝いた。▽14日、コメディアンの財津一郎が死去した。89歳。「てなもんや三度笠」で人気者となり「キビシーッ!」が流行語になった。
11月
3日、元大関の朝潮さんが死去した。67歳。▽6日、作詞家の三浦徳子さんが肺炎で死去した。75歳。「青い珊瑚礁」「真夜中のドア」「お嫁サンバ」などヒット曲を量産した。▽9日、歌手の大橋純子さんが死去した。73歳「シルエット・ロマンス」「たそがれマイ・ラブ」がヒットした。▽9日、中国の歴史を題材にしたファンタジー「後宮小説」などで知られる作家の酒見賢一さんが呼吸不全のため死去した。59歳。「墨攻」「周公旦」「陋巷に在り」「泣き虫弱虫諸葛孔明」などがある。▽12日、歌手のKAN(かん)さんが死去した。61歳。1991年に「愛は勝つ」が大ヒットとなった。▽15日、創価学会の池田大作名誉会長が死去した。95歳。
本日は競泳選手、大橋悠依(28歳)の誕生日。東京五輪で2つの金メダルを獲得した。日本人女子選手が2つの金メダルを獲得したのは初めてのことである。いろいろな生き物のなかで人間だけが、自覚的に生きていることのあかしとして歴史をもっている。そのような歴史を生きて、あるいは作り上げるのは、一人ひとりの人間であり、識別するために人名がそれぞれに与えられている。たとえばスポーツ。野球やサッカーは団体競技であるが、一人ひとりの活躍も注目される。ヒーローは一夜明ければ著名人となる。(10月17日)
快適な生活を享受している現代人も、元々は先人が発明したものばかりで暮らしている。現代はテクノロジーと交通機関の発明・発達の時代である。最先端は宇宙開発であろう。人類が地球上に誕生して間もない時期から道具は作られた。人類最初の道具は「棒切れ」と言われる。 ただし棒は腐って遺物としては残ることはない。石面を打ち欠いて製作した石器が残っている。アフリカ・ケニア北部の約330万年前の地層から、猿人が使っていたと思われるハンマーのような道具が人類史上最古と見られる。
ガリレオはピサの斜塔を利用して落下体の加速度の実験をした話は有名である。しかしこれは、ガリレオの弟子のヴィンチェンツォ・ヴィヴィアーニのつくり話で、本当に実験した人はオランダのシモン・ステビン(1548-1620)です。
前5000頃 メソポタミア南部シュメールで主要な農耕技術が発達し、定住が進んで都市が生まれる
前5000頃 丸木船で航海をはじめる
前3700頃 エジプト、メソポタミアにて銅器使用
前3200頃 シュメールにて文字が生まれる
前3000頃 エジプトにて運搬用に動物力の利用始まる
前2800頃 エジプト、中国にて青銅器の使用
前2500頃 エジプトにてパピルス使用、メソポタミアにてガラス製品つくられる
前2100~1950頃 ヒッタイト(トルコ)で鉄器の使用(カマン・カレホユック遺蹟)
前600頃 ペルシアにて風車が利用される
前600頃 インドの外科医ススルタ、造鼻術をおこなう
前300頃 ローマにてコンクリートとセメントの技術が生まれる
前250頃 クテスィビオス、アレキサンドリアにて水時計を作製
前240頃 アルキメデスが円周率の近似値を計算する
前102頃 ヘロン、気力球を発明
後105頃 蔡倫、製紙術を発明
132年 張衡、地震計を発明
230年 中国魏の華佗、麻酔術をおこなう
673年 アラビア人とのコンスタンティノープル攻防戦にて、ビザンツ人が「ギリシア火」を発明 砂時計は8世紀頃、フランスのリウトプランドが発明した。
1015年、イブン・アル・ハイサム、最初のカメラ・オブスクラを作る。
1202年、イタリアの数学者フィボナッチが「算術の書」で「0」を紹介。
1206年、アラブ人の博学者アル・ジャザリー、クランクシャフトとカムシャフト、吸い上げポンプを考案
14世紀
1302年、イタリアのジャオ、航海用コンパスを製作
1377年 フランスの南部の都市モンペリエ医学校で人体解剖合法化
15世紀
1445年 ドイツのグーテンベルクが活版印刷技術を発明
1498年 イタリアのフィレンツェのサンタ・マリア・ノヴェッラ薬局製法はじまる(世界最初の薬局店)
16世紀
1500年カブラル、ブラジルを発見。1520年、マゼランが南米大陸とフェゴ島の間にある海峡を発見。後にマゼラン海峡と命名。1531年コペルニクス、地動説を発表。鉛筆は1565年、コンラート・ゲスナーが自家製鉛筆を使用していた。1572年ヘルモント、二酸化炭素を発見。1582年ローマ教皇グレゴリウス13世、暦法改正。1585年ステビン、落体の法則を発見。1590年オランダの眼鏡職人ハンス・ヤンセン、サハリアス・ヤンセン父子が顕微鏡の原型を発明。1599年オランダのシモン・ステファンが風力で走る帆走車を発明。
17世紀
1605年、ストラスブールでヨハン・カロルスは新聞を創刊した。1608年、オランダの眼鏡技師ハンス・リッペルスハイが望遠鏡を発明。1610年ガリレオは木星を回る4つの衛星を観察。1612年、イタリアの医師サントリーオ・サントリーオが体温計を考案した。1614年スコットランドの数学者ジョン・ネイピアが対数を発見。1623年イタリアのガスパロ・アセリ、乳摩管を発見。1628年ハーべイ、血液循環の原理を発見。1643年トリチェリー、真空を発見。1650年ヴァレニウス、初めて黒潮について記す。1655年ホイへンスが土星の衛星タイタンを発見。1656年クリスチャン・ホイヘンスが振り子時計を発明。1662年イギリスのロバート・ボイルが「ボイルの法則」を発表。1665年ロバート・フックがコルクの細胞を観察。1667年フランスの医師ドニ―が世界初の輸血を行う。1669年ニュートン、微積分法の発明。1673年レーウェンフック、赤血球を発見。1675年、カッシーニが土星の輪に隙間があることを発見。1676年、イギリスの物理学者ロバート・フックがフックの法則を発見。1678年ホイヘンス、光の波動説。1687年ニュートンが万有引力を発見。
18世紀
1705年ハレーがハレー彗星の周期を発見。ピアノはイタリア人のバルトロメオ・クリストフォリ・ディ・フランチェスコが1709年に発明。1735年リンネが動植物の分類法を発表。1738年スイスの数学者ダニエル・ベルヌーイは流体内のエネルギーの和が流線上で常に一定であるというベルヌーイの定理を発表した。1750年フランクリン、避雷針の発明。1752年レオミュールが鳥の胃液の消化作用を発見。1757年キャンブベルが六分儀を発明。1766年、イギリスのキャベンディッシュが水素を発見。1771年スウェーデンのシェーレが酸素ガスを発見。1776年、アメリカのディヴィッド・ブッシュネルが最初の潜水艦を考案し、タートル号を建造。アメリカ独立戦争でイギリス軍艦イーグル号を攻撃したが、成功しなかった。1779年クロンプトンが紡織機「ミュール機」を発明。1780年ラボアジエが呼吸体内での燃焼と定義。1783年フランスのジャン・フランソワ・ピラートル・ド・ロジェとアルランド公爵は、気球に乗り、史上初の空中飛行を行う。1785年エドモンド・カートライトが力織機を発明。1795年フランスで新しい長さの単位「メートル」を決定。1796年エドワード・ジェンナー、牛痘による天然痘予防法に成功。1798年ランフォードが摩擦熱を発表。
19世紀
1803年イギリスのジョン・ドルトンが気体は水素・酸素・窒素・炭素・硫黄・リンという6種類の元素の組み合わせでできていると発見。1804年ソシウルが光合成の原料を発見。1803年イギリスのトレヴィシックが蒸気車を発明。1804年、トレビシックがウェールズのベニランダで史上初の軌道向け蒸気機関車の走行実験に成功。1808年イギリスのデービーがアーク灯を発明。1810年ドイツの靴職人バルタザール・クレムスがミシンを発明。1810年イギリスのピーター・デュランドが缶詰を発明。1811年ドイツの時計職人フリードリヒ・ケーニッヒが高速印刷機を発明。1812年、ドイツのフリードリッヒ・モースが「モースの硬度計」を考案。1814年イギリスのスティーヴンソンが蒸気機関車を製作。1817年、ドイツのカール・フォン・ドライスによって木製の人力二輪車ドライジーネ(自転車の原型)が製作された。1820年、デンマークの物理学者エルステッドが電流の磁気作用を発見。1821年イギリスのヘンリー・ベルが蒸気船「アーロン・マンビー号」を作製。1821年ドイツのブッシュマンがAURA(オーラ)というハーモニカの原型を試作した。1825年スティーブンソン、機関車ロケット号がストックトンとダーリントン間の45キロを走破。1826年、イギリスの化学者ジョン・ウォーカーが摩擦マッチを発明した。1829年、リバプールとマンチェスター間を走破。1829年フランスの縫製職人バルテミー・ティモニエがミシンを発明。1831年ブラウンが細胞の核を発見。1835年、チャールズ・ダーウィンがガラパゴス諸島に到達。1835年、電灯の実験が、ジェームズ・ボウマン・リンゼイにより成功。1837年アメリカのモールスがモールス信号を考案。1838年、シュライデンとシュワンが細胞説を唱える。1839年アメリカのチャールズ・グッドイヤーがエボナイトを発明。1842年アメリカの医師クロウフォード・ロングが初めてジエチルエーテルによる麻酔を用いて手術を行う。1842年、オーストリアのドップラーがドップラー効果を発見。1842年、ドイツのマイヤーがエネルギー保存の法則を提唱する。1843年フランスのルシアン・バイディがアネロイド気圧計を発明。1843年イギリスのパディントン~スラウで世界初の電報業務を開始。1843年イギリスのエイダ・ラブレスは世界初のプログラムを発見。1846年ヨハン・ガレ、エルヴァン・ルヴェリエらが海王星を発見。1848年ジェームズ・マーシャルがカリフォルニア州サクラメント付近で砂金を発見。1847年イギリスの工学者ジョージ・ケイリーが三葉のグライダーを製作し滑空に成功。1851年ロンドンで第1回の万国博覧会が開かれる。1853年ロンドンで地下鉄が開業。1854年イタリアのアントニオ・メウッチが最初の電話を発明。1855年ヘンリー・ベッセマー、鋼鉄の大量生産始まる(特許)。1857年パスツールがアルコール発酵の研究。1858年ハイマン・リップマンが消しゴムつき鉛筆の特許を取得。▽1860年トーマス・アダムスがチューインガムを発明。1860年フランスの博物学者アンリ・ムオがアンコールワットを発見。1862年ルイ・パスツールとクロード・ベルナールが低温殺菌法を開発。1865年メンデルが遺伝の法則を発見。1866年イギリスの技術者ロバート・ホワイトヘッドが魚雷を発明。1867年ノーベル、ダイナマイトを発明。1868年アイヴス・マガフィーが真空掃除機を発明。1868年クリストファー・レイサム・ショールズは実用的なタイプライターを考案。1869年ロシアのメンデレーエフが元素の周期律表を発表。1869年、アメリカのジョージ・ウェスティングハウスが圧縮空気を用いた鉄道のブレーキシステムを発明。1870年ジョン・ウェズリー・ハイアットがセルロイドを発明。1873年フィロ・レミントンがタイプライターの生産を開始。1876年、イギリスの外科医ジョゼフ・リスターが消毒法を開発。1876年ジェン・ジェームズ・立夏ード・マクラウドはインスリンを発見。1877年エジソンが蓄音器を発明。1869年スイスのフリードリッヒ・ミーシャ―が膿のリンパ球から核酸を発見。1878年ジョゼフ・スワンはエジソンより1年早く、白熱電球を発明。1878年イギリスのデイビッド・エドワード・ヒューズがカーボン・マイクロフォンを発明。1881年アメリカのアルモン・グランガーが消火器を発明した。1881年、エジソンがニューヨークに発電所をつくった。1885年カール・ベンツ、ガソリンエンジンで走る三輪自動車を作製。1885年、フランスのレオン・セルボレが自動車を開発。1886年ジョン・ペンバートンはコカ・コーラを発明。電池はアレッサンドロ・ボルタがボルタの電堆を発明。1887年、エジソンが長時間使用できる白熱電球を完成。1887年、カール・ガスナーが乾電池を発明。1887年、ドイツのエミール・ベルリナーがレコードを発明。1888年、イギリスのジョン・ダンロップがタイヤを発明。1890年、北里柴三郎とエミール・ベーリングが破傷風とジフテリアの血清療法を発見。1890年、アメリカで電気椅子による死刑が初めて執行された。1894年、北里柴三郎がペスト菌を発見。1894年、ミシシッピ州ウィックスバーグで瓶詰コカ・コーラが初めて販売される。1895年、ドイツの物理学者レントゲンがX線を発見。1895年、パリでシネマトグラフが初公開される。1896年、フランスのド・ボールが成層圏を発見。1896年、オランダの物理学者ピーター・ゼーマンが強い磁場中に置かれた光源からのスペクトル線が数本に分かれること(ゼーマン効果)発見した。1897年、ドイツのフェリックス・ホフマンがアスピリンを発明。1897年、志賀潔が赤痢菌を発見。1898年、キュリー夫人がラジウムを発見。イタリアの病理学者かミッロ・ゴルジが細胞内のゴルジ体を発見。1899年、コンラッド・ヒューバードが懐中電灯を商品化する。1899年、アメリカのホランドが潜水艦を考案。
20世紀
1900年、オーストリアの病理学者カール・ラントシュタイナーがABO式血液型を発見。1901年、ジレットが安全剃刀を発明。1902年、マリー・キュリー夫妻、ラジウム抽出。ウィリス・キャリアはエアコンの理論を樹立。1902年アメリカの技術者ウィリス・キャリアが近代的空機調和設備(エアコン)を発明。1903年、ライト兄弟が人類初の有人動力飛行に成功。1903年、オランダの医師ウィレム・アイントホーフェンが世界初の心電図を発明。1903年、フランスの医学者ジョゼフ・ババンスキーはバビンスキー反射を発見。1904年、アメリカのルーベルが紙へのオフセット印刷機を発明。1905年、アインシュタインが特殊相対性理論の最初の論文を発表。1905年、フリッツ・シャウディンとエーリヒ・ホフマンが梅毒スピロヘータを発見。1906年、フェッセンデンがマサチューセッツで世界初のラジオ放送を実施。1907年、フランスの化学者ジョルジュ・ユルバンが新元素ルテチウムを発見。1908年、アメリカでT型フォードの第1号車が製造される。1909年レオ・ベークランドが合成樹脂ベークライトの工業化に成功。1909年フランスのルイ・ブレリオは、飛行機による初のイギリス海峡横断に成功する。1911年、ビンガムはマチュピチュを発見。1912年スウェーデンのダレーンが自動制御装置の灯台を発明した。1913年、アメリカの化学者ラングミュアが白熱電球を発明。1915年、早川徳次がシャープペンシルを発明。1920年DNA、RNAを発見。1920年アメリカ・ピッツバーグで世界初のラジオ放送局KDKAが開局。1921年カナダの整形外科医フレデリック・バンティングと医学生チャールズ・ベストが研究室でインスリンの抽出に成功した。1922年イギリスのBBCがラジオ放送を開始。1923年、スペインのファン・デ・ラ・シエルバがオートジャイロを発明。1924年、レイモンド・ダートが南アフリカでアウストラロピテクスの化石を発見。1924年、米キンバリー・クラーク社からクリネックス・ティシュー発売される。1924年、アルベール・カルメットが結核予防にBCG接種を提唱。1925年、イギリスのジョン・ロージー・ベアードがテレビ実験に成功。1926年、アメリカのロバート・ハッチンス・ゴダードが世界初の液体燃料ロケットの打ち上げに成功。1926年、石井茂吉は写真植字機を発明。1927年、ワーナーブラザースによる世界初のトーキー映画「ジャズ・シンガー」がニューヨークで封切り。1928年、イギリスのフレミングがアオカビからペニシリンを発見。1930年、アメリカで世界初の冷凍食品が発売される。931年、アメリカの化学者ハロルド・ユーリーが重水素を発見。1932年、イギリスの物理学者ジェームズ・チャドウィックが中性子を発見。1932年、T型フォードの発売。1933年アメリカの電気工学研究者エドウィン・アームストロングがFM放送を発明。1935年ウォーレス・カロザース、ナイロンを発明。1938年、オットー・ハーンが原子核分裂を発見。1938年、蛍光灯、アメリカで実用化。1938年アフリカのイースト・ロンドンでシーラカンスが発見される。1940年アメリカのジョージ・スティビッツが世界初のコンピュータの遠隔操作を行う。1942年アメリカのフェルミらがシカゴ大学で原子炉の核実験に成功。1943年ハンガリーでボールペンを開発。1943年、アメリカの児童精神科医レオ・カナーが自閉症を報告。1944年セルマン・ワックスマンがストレプトマイシンを発見。1946年、アメリカで世界初のコンピュータである電子計算機ENIAC(エニアック)が発明される。1948年、アメリカでインスタントカメラ「ポラロイド・ランド・カメラ」を発売。1948年、米ベル研究所のウィリアム・ショックレー、ジョン・バーディーン、ウォルター・ブラッテンがトランジスターを発明。1949年バーナード・シルバーとノーマン・ジョセフ・ウッドランドがバーコードを発明。1949年アメリカのビクターが45回転レコード(ドーナツ盤)を開発。1950年アメリカでカラーテレビの放送開始。1952年、アメリカのダウケミカル社がサランラップを販売。1953年、ジェームズ・ワトソンとフランシス・クリックがDNAの二重らせん構造を発見。1953年、ユージン・アセリンスキーとナサニエル・クレイトマンがレム睡眠を発見。1957年、樫尾製作所が電卓の元祖ともいわれる計算機を開発した(価格48万5000円)。1958年、日清食品安藤百福が即席ラーメンを発明・販売。1957年、ソ連が初の人工衛星スプートニク1号に成功。1959年、リーキー夫妻がタンザニアのオルドヴァイ渓谷でジンジャントロプス・ボイセイ(アウストラロピテクス・ロブストゥス)を発見。1961年、ガガーリンが初の有人飛行に成功。1962年、マーシャル・ニーレンバーグ、ハー・ゴビンド・コラナ、ロバート・ホーリ―が遺伝子情報の解読。1963年カセットテープ、オランダ人のルー・オッテンスが開発。1964年、ピーター・ヒッグス、フランソワ・アングレールがヒッグス粒子を発見。1967年、ダグラス・エンゲルバートがパーソナル・コンピュータのマウスを開発。1968年、大塚食品がレトルトカレー「ボンカレー」を発売。1968年、ダグラス・エンゲルバートがコンピュータのマウスを発明する。1969年、カリフォルニアとスターンフォード大学でインターネットの元型であるアーパネットが開発される。1971年、レイ・トムリンソンが電子メールを発明。1977年、初の実用的なパーソナルコンピュータ「AppleⅡ」が発売。1978年、日本語ワープロ東芝JW-10(価格630万円)を発売。1979年、NECが8ビットパソコンPCー8001を発表。パソコン時代の到来。1981年スペースシャルト・コロンビア号が時速2675kmを記録。1990年、初のWorld Wide Webのシステムが稼働。
21世紀
2001年、世界中で無料オンライン百科事典「ウィキペディア」が公開される。
2005年、動画投稿サイトはじまる。
2006年、ツィッターの一番最初の「つぶやき」。
2012年 アンドレア・ゲズらが銀河系中心部に超大質量コンパクト天体(ブラックホール)に関する発見。
参考資料
世界の発明発見歴史百科 テリー・プレヴァートン著 原書房 2015年
急激な社会や時代の変化と共に、いわゆる教養というものが細分化して行くかと思うと同時に、身辺から遠いところへ分散してしまうような思いがする。人間がこの世に生をうけて、一生を無事に過ごすためには、何といっても、まずは健康第一だが、次に「衣」「食」「住」の3つの確保が大切だろう。本ブログでは身近な「衣食住」はもちろんのこと、過去の歴史事象から最新の社会世相、トレンド、旬ネタまで広汎なジャンルの中から面白い雑学、無用無駄と思える知識をのこらず集めています。あいさつ、スピーチ、日常会話などでその場が和むような話の材料にもなるので、気軽に雑学を披露してコミュニケーションの輪を広げてください。
そして閑静安適の日々を過ごしながら、学ぶことそのものを喜びとしたい。このブログにおいて「何でも知って、何でも考えよう」の精神で、歴史・時事問題、最近話題のトレンドだけではなく、古今東西のあらゆる雑事に興味を持って研究する。可能な限り多くの分野にわたって取り上げること、それが本ブログの重要な方針の一つです。わからないこと知らないことは、放っておいても実のところ当面、何かに不自由するということはない。でも当たり前の出来事の中に、不思議で奥深い世界が隠れている。ネットでも本でもなんでも使って、とことん探求してみる。米国の牧師ロバート・シュラ―のことばに「あなたは決して調べ尽くしてはいない」(信念)とある。いわばこの18年間に調べた雑学事典である。文章表現はやさしく、わかりやすいことを第一に心がけた。一日一日の着実な積み重ねで、あらゆる分野でもかなりの地点まで到達することができると信ずる。急がず、あせらず、日頃から見聞を広げ、多くの文献を渉猟し、知識を蓄えるように心がけたい。現在までの記事総数は、11976件に及んでいます。
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* * *
メールアドレス:nikawayuki@ jttk.zaq.ne.jp
コロナ禍で 消える街角 古本屋(凡児)
本日は統計の日。総務省統計局による書籍新刊点数は次のとおりである。
令和元年 71,903
令和2年 68,688
令和3年 69,852
むかし三笠書房のキャッチフレーズは「週に一度、本屋さんに行く人は必ず何かできる人」だった。 街を歩いていて、なにがしかのオーラを放つ古本屋さんに出会うと、うれしくなる。店内に入ると、大量の紙とインクの匂いがなつかしさを感じる。でも最近街の小さな古本屋や貸本屋をほとんどみかけなくなった。本の出版点数はそれほど減っていないが、新刊書店は減少している。活字離れなどを背景に、経営不振などによる書店・古本屋の閉店が相次いでいる。リアル本屋は斜陽業界なのだ。1999年には2万2296店だった本屋が、2020年には1万1024店、つまりこの21年間で1万1272店ほど本屋が減少した。原因としては①ネット書店の普及②若者が本を読まなくなった③不景気、ながびくデフレと低所得④図書館を利用するほうが安上がり、などの理由が考えられる。
地方の書店が減ることは当然、出版業界にも悪影響を及ぼす。優秀な人材は出版界に就職しなくなる。良書を出版していた零細出版社は倒産する。村上春樹の小説がいかに売れようが、新潮社や講談社が肥大になろうが、問題は多様性を失うことで日本の言論は大きく低下し民主主義はさらに失速する、という悪循環がおこる。やはり地方の書店を育てなければならない。かつて公共図書館は地元の図書館から直に本を購入していたが、コンピューター化と装備の委託化で大手の取次ぎから直接購入するようになった。これも地方の書店の経営を悪化させた。寡占化が文化を滅ぼす。(10月18日)
1968年のこの日、川端康成は日本人としては湯川・朝永博士に次いで3人目のノーベル賞を受賞する。川端がノーベル文学賞を受賞したニュースは当時、明るい話題として大きく取り上げられた。対象作品は「雪国」「千羽鶴」「古都」と、短編「水月」「ほくろの手紙」などであったが、なかでも「雪国」は広く読まれた作品だった。
国境の長いトンネルをぬけると雪国であった。島村は年の暮れの寒さのなかを女に会うためにやって来たのである。無為徒食の島村は、ともすれば失いがちな自身に対するまじめさを呼びもどすために、この春、一人で国境の山々を歩きまわり、山をくだって、たまたま泊まった温泉宿で駒子と馴染んだ。駒子は三味線と踊りの師匠の家にいた娘だったが、今度は芸者になって出ていた。頬を染めて懐かしそうに島村の手をにぎる駒子に、島村は来るべきところへ来た思いがするのだった。駒子はからだをぶつけるように、しげしげと彼に会いに来た。ついには朝がきても帰らず、師匠の家にいる葉子に三味線を持ってこさせて、島村のまえでさらったりした。駒子の三味線は文化三味線譜で習ったものだが、山峡の自然を相手に稽古したその撥の音は、どこまでも強く、冴えかえり、聞きほれる島村の心に孤独な女のひたぶるな純粋さが、せつなくしみ通るのだった。駒子には夫婦になるはずだった師匠の息子がいた。彼は病気で、駒子が芸者に出たのも、その病気の費用を出すためだった。島村が東京へ帰るとき、駅まで送った駒子のもとへ、葉子が息子の急変を知らせてきたが、駒子は葉子を追いかえし帰ろうとしなかった。葉子は息子を愛していた。
三たび女をもとめて島村がやって来たのは、秋だった。細かい羽虫や蛾の飛び回る部屋で、駒子は激しく島村の胸に身を投げかけた。このまえ駅まで送ってきた駒子が、とうとう師匠の息子の死に目にも会えなかったらしいことを知った島村は、駒子をさそって息子の墓へ参った。墓には葉子がいて、燃える目で刺すように二人を見た。駒子は宿へ呼ばれさえすれば、島村の部屋へ寄っていった。そんなことが狭い土地のうわさになれば、身を滅ぼすと知りながら、駒子は「それでいいのよ。ほんとうに人を好きになれるのは、もう女だけなんですから」と、顔を赤らめるのだった。駒子は「あの子を見てると、行く末私のつらい荷物になりそうな気がするの」と島村に言った。葉子はその駒子を島村のまえで憎いと言った。かとおもうと、「よくしてあげて」と真剣にたのむ。「私を東京へ連れていって」とも言うのだった。
ついに雪の降る季節がきた。ある晩、映画をやっていた繭倉から火が出た。自動車で偶然そこを通りかかった島村と駒子は、逃げおくれた葉子が失神したまま低い二階から落ちるのを見た。夢中で駆けよった駒子は、芸者の長い裾を引いて葉子を抱きかかえると、「この子、気がちがうわ。気がちがうわ」と叫ぶのだった。それが島村には、駒子が自分の犠牲か刑罰かをいだいているように見えた。(引用文献:友野大助「日本名作事典」平凡社、10月17日)
秋の空模様と移り気な心模様を重ねたことわざとして「女心と秋の空」がよく知られるが、もともとむかしは「男心と秋の空」であった。室町時代の狂言「墨塗」の中に「男心と秋の空は一夜にして七度変わる」という台詞がある。イギリスのことわざに「女心と冬の嵐」があり、日本にも明治以降、「女心」が使われるようになった。大正の頃、ヴェルディのオペラ「リゴレット」の中の曲に、「風の中の羽根のようにいつも変わる女心」(女心の歌)とあり、このころから「女心と秋の空」と言われるようになったという。
夏目漱石は渾名の命名にかけては名人級だろう。「赤シャツ」「野だいこ」「うらなり」「山嵐」「マドンナ」いずれも個人の容貌、性質、言動などの特徴をとらえて、いまも生きているような清々とした感がある。もし漱石が生きていれば当世政治家はどんな渾名が付けられるだろうか。野田佳彦は自らの渾名を「どじょう」と称して庶民ぶりをアピールしているが、明治の頃は「どじょう」は下級官吏のことだった。菅直人は気むずかしい性格からマスコミから付けられた渾名が「イラ菅」。鳩山由紀夫には「宇宙人」「ルーピー鳩山」という嘲笑風の渾名がある。ルーピー(loopy)とは、耳慣れない単語だ。「愚か者」という意だそうだが、学習用の辞書には見えない場合も多い。ウェブスターには「a slightly crazy」とある。ほんとうかどうかわからないが、loopは「輪」なので、「くるくる回る」、つまり「くるくるパー」だという説明をしている記事が見える。foolish、stupid、crazy、loopy、英語の使い分けは難しい。使わないほうがよさそうだ。
一国の宰相はもっとも愛称がつけられやすい。ビスマルクは「鉄血宰相」、サッチャーは「Iron Lady(鉄の女)」。わが国では、円満な容貌と楽観的性格から高橋是清は「だるま」、人情味あふれる正義感から濱口雄幸は「ライオン宰相」、グロテスクなビリケンのような禿頭から寺内正毅は「ビリケン宰相」と呼ばれた。吉田茂は「ワンマン」。田中角栄は「コンピューター付ブルドーザー」。福田赳夫は「昭和黄門」。中曽根康弘は「風見鶏」。小渕恵三は「冷めたピザ」。そして支持率が低迷する岸田文雄に「増税メガネ」という悪いあだ名が流行している。
1793年のこの日、ルイ16世の王妃マリー・アントワネットは38歳の女盛りでコンコルド広場の断頭台の露と消えた。1755年11月2日、神聖ローマ皇帝フランツ1世と女帝マリア・テレジアの第15子としてウィーンのシェーンブルン宮殿で生れた。14歳でフランス王ルイ16世の妃としてベルサイユへ輿入れした。盛大な結婚式のとき、オーストリアからパン職人も連れてきて、「キプフェル」という三日月形のパンも食卓を飾った。その後、パリのパン職人も皇太子妃を歓迎する意味で、これを作るようになった。フランス語では三日月をクロワッサンというので、「キプフェル」は「クロワッサン」と名を変えて世界中で知られるようになった。
マリー・アントワネットがどんなに思慮のない、浪費家だったかを物語るエピソードは多数の残されているが、お菓子に関する話を一つ。パリの飢えたおかみさんたちが「パンをよこせ」と叫んで、雨の中をベルサイユ宮殿に押し寄せた。その時彼女は、人民どもはなんだってあんなに騒いでいるの、と側近のものにたずねた。パンがないのですからと答えると、彼女は「パンがなければブリオッシュ(一種の菓子パン)を食べればいいじゃないの」と言ったと伝えられている。
マリー・アントワネットは、軽佻浮薄、乱費贅沢の限りをつくしたといえども、一掬の涙を誘うものがある。むかし深田恭子が「わたしはチョコレートが好きでマリーもチョコが好き」とか、誕生日(11月2日)が同じで「私はマリー・アントワネットの生まれ変わり」と言っていた。
この世をば我が世とぞ思ふ望月の かけたることもなしと思へば
藤原道長は、娘・彰子を一条天皇の后妃としたが、なかなか子供が生まれない。兄・道隆の娘・定子には既に皇子が生まれているので、やきもきしていたであろう。道長は皇子誕生を吉野の金峯山にまで行って祈願する。金峯山の効験があったのか、ようやく皇子が誕生する。入内して7年目のことである。出産に際しては、今度は安産を願って、加持祈祷などを常軌を逸するほどにののしり騒ぐのである。その験厚く、無事に皇子が誕生するや、道長は、皇子の敦成(あつひら)親王、後の後一条天皇を我がものにして喜ぶ。長和5年、敦成は8歳で天皇に即位し、道長は摂政となり、権勢を振った。四人の娘を入代させ、皇室の外戚として政権を独占した。翌17年長男頼通に摂政を譲り、自分は太政大臣となりその後も勢力をふるった。道長、頼通父子は、後一条・後朱雀・後冷泉の3天皇の摂政・関白として約50年間栄華を極め、摂関政治の全盛期を現出した。
「この世をば」の歌は、寛仁2年(1018年)10月16日、四女の威子が後一条天皇の女御から皇后に昇進したのを喜んで、道長自身が即興的に詠んだといわれる。「御堂関白日記」には見えず、道長に批判的だった小野宮右大臣藤原実資の日記「小右記」に記されているため、世に知られることとなった。
北辰一刀流桶町千葉道場主・千葉定吉の二女。馬によく乗り、剣も強く、長刀もできて、力は並の男より強く、美貌で知られた。龍馬と知り合い、婚約したが、帰国後は疎遠になった。龍馬の死後も彼を想い、一生を独身で過ごした。明治29年10月15日、59歳で死去した。墓地は、甲府市清運寺にあり、墓石には「坂本龍馬室」と彫られている。
キノコのことを「クサビラ」という。狂言「くさびら」では、ある男の家の庭にキノコがたくさん生えてきて、取っても取ってもなくならない。山伏に頼んで祈ってもらうが、キノコはさらに増え続け、山伏につきまとい、いたずらをするので、山伏は「許しておくれ」と言いながら逃げていくというお話である。日本は元来、森林の国であり、キノコは森の生物のため、日本民族はキノコ好きである。しかキノコ切手の図案はたった1種類しか発行されていない。1974年の「国際食用きのこ会議記念」のシイタケ図案のみである。
日本には天然に約5000種類のキノコが存在しており、そのうち約50種類が毒キノコである。明治以来、毎年500人以上のキノコ中毒が発生しているが、そのうち7、8人ずつの死者を出していた。近年はやや減少して、この10年間で1000人以上の人が毒キノコで食中毒になっています。キノコの種類としては、ツキヨタケ(画像)、クサウラベニタケ、カキシメジ、ドクササコ、テングタケ、二ガクリタケ、シロタマテングタケ、ベニテングタケなど。
食用キノコの中で味、香り、希少性において秋の味覚の最高峰ともいえるのが「松茸」である。松茸は高級食材として取引されているが、かつてはシイタケより安かった。松茸は栄養素の高い腐葉土には生育しない。プロパンガスが普及したため、山中に燃料を採取し無くなり、自然生育する松茸が減少し、価格が高くなった。(10月15日)
ワーテルローで敗れたナポレオン(1769-1821)は、1815年6月22日に退位した。6月29日、アメリカへ亡命するため、パリを離れてロシュフォールの港に向かったが、すでに港が封鎖されていることを知り、イギリス軍艦ベレロフォン号に投降した。しかしイギリス亡命は認められず、ナポレオンは1815年10月15日、南大西洋の孤島セントへレナに流刑された。セントへレナ島はイギリス東インド会社の仲継基地で、少数の農民のほか奴隷に売られたインド人や中国人の姿が診られた。ナポレオンはロングウッドという丘陵地の粗末な木造家屋に収容された。
セントへレナ島でナポレオンは、イギリスの行政官ハドソン・ローと口論したり、回想集を口述したりしながら余生を送った。孤島での幽閉生活は淋しいものだった。英雄の唯一の愉しみは、ポリー・メイスンとの木の下でのデートだった。と言っても2人は共通する言葉を持たなかった。ポリーは明るく奔放な性格といわれるが、ナポレオンとは20歳以上も年が離れていた。ナポレオンの死後、ポリーは嫁いで幸せな家庭を持ったのかは、島の人たちも何も知らない。
長期間癌で苦んだあとの1821年5月5日、暴風雨の夕べ、ナポレオンは51歳で世を去った。いよいよ最期が近づいたとき、ナポレオンは「フランス、軍旗、ジョゼフィーヌ」と死ぬ間際に言ったという。5月8日、生前好んで散歩した柳の木のもとに葬られたが、その葬儀はまことに簡素であった。彼の死後2年経た1823年に出版されたラス・カーズの「セント・ヘレナ日記」は大きな反響をよぶ。「セーヌ川のほとりに眠りたい」というナポレオンの最後の願望はかなえられ、1840年に彼の遺骸はパリのオテル・デ・ザンヴァリード(廃兵院)に改葬された。ナポレオンはいまもフランス国民の英雄である。
ナポレオンの死因については今も論議されている。胃癌と肝臓病とする病死説が一般的であるが、彼の復活をおそれたイギリスが毒を少量ずつ与えたという毒殺説がでた。近年、イタリアの国立物理学研究所で毛髪を分析した結果によると、ヒ素中毒で亡くなったということは否定されている。(Napoleon Bonaparte,Saint Helena,Polly Mason)
映画「あすなろ物語」(昭和30年) 雪枝(根岸明美)
梶鮎太(12歳)は祖母と一緒に伊豆の田舎で暮らしている。ある日、祖母の姪の冴子(18歳)が鮎太の前に現れた。冴子は中学生と映画を見ていたため、女学校を退学になったという。この静かな田舎町で胸の病を静養している東京の大学生・加島に、鮎太は冴子のラブレターを持っていかせられるはめになった。
「君、何年生?」と言った。「六年生です」「蔵の中におばさんと住んでいるの?」「そうです」鮎太は、この大学生が自分のことを知っているのが不思議だった。「君、六年生なら、来年は中学へ行くんだろう」「そうです」「勉強しないと駄目だな」「・・・・」「君、勉強するってことは、なかなか大変だよ。遊びたい気持ちに勝たなければ駄目、克己って君知っている?」「知っています」「じゃあ、もうお帰り」大学生の言葉で鮎太は頭を一つ下げると、そこから一人で坂を上って行った。来年は都会の中学校へはいり、両親のもとからそこへ通うことになることは、鮎太の心の中では漠然とした形ではあったが一つの既定の事実となっていた。しかし、入学試験というものを、はっきりと意識し、勉強をしなければ合格できないという冷酷な事実が、彼の前に立ちはだかって来たのは、この夜が鮎太にとっては初めてであった。克己とは何だろう。自分に克つ。その言葉の意味は充分に理解されなかったが、しかし、鮎太はこれまでに、これほど魅力ある言葉にぶつかったことはなかった。
井上靖の『あすなろ物語』は厳密な意味では児童文学ではない。もちろん児童書として現在も少年たちに読まれているのではあるが、本来、大人の小説である。初出は昭和28年「オール読物」に連載されたものである。2年後には東宝で映画化された。監督の堀川弘通は黒澤明の助監督だったがこれは監督第1回作品。黒澤が脚本を書いているので、おそらく優れた作品であろう。大学生の役は木村功だった。ケペルはこの映画を観ていない。だが昭和38年のNHKの子供向けドラマで見た記憶はある。当時のテレビドラマとしては豪華なキャストで八千草薫が出演していた。まだ新人の山本陽子が冴子だった。「深い深い雪の中で」大学生と冴子が天城山で心中する話や、雪枝のスパルタ訓練で鉄棒する話などあったであろうが、やはり少年にとって「克己」という言葉にインパクトがあったように思う。
10月スタートの連続ドラマをチェックしよう!連続テレビ小説「ブギウギ」は来週から、昭和8年18歳のスズ子趣里が始まる。ドラマは歌手・笠置シズ子をモデルにしたスズ子を趣里が演じ、「東京ブギウギ」「買物ブギ」など名曲の数々とともに、日本の朝に笑顔を届ける。「ミワさんになりすます」映画が大好きなミワは大スターの家政婦になりすまして働き始める。松本穂香、堤真一。「Maybe 恋が聴こえる」橋本涼、大和奈央。「ONE DAY」大沢たかお、二宮和也、中谷美紀。「トクメイ!警視庁特別会計係」橋本環奈、沢村一樹。「けむたい姉とずるい妹」栗山千明、馬場ふみか。「君が死ぬまであと100日」高橋優斗。「くすぶり女とずん止め女」西田尚美、香音。「トラックガール」遠藤さくら。「マイ・セカンド・アオハル」広瀬アリス、道枝駿佑。「時をかけるな、恋人たち」𠮷岡里帆、永山瑛大。「マイホームヒーロー」佐々木蔵之介、斎藤飛鳥。「コタツがない家」小池栄子。「パリピ孔明」向井理、上白石萌歌。「君に届け」南沙良、鈴鹿中士。「ゆりあ先生の赤い糸」菅野美穂。「あきない世傳 金し銀」小芝風花。「うちの弁護士は手がかかる」ムロツヨシ、平手友梨奈。「今日からヒットマン」相葉雅紀、山本舞香。「いちばんすきな花」多部未華子。「ゼイチョー 払えないーにはワケがある」菊池風麿、山田杏奈。「押しが上司になりまして」鈴木愛理、片寄涼太、高柳明音。「ブラックファミリア~新堂家の復讐」板谷由夏、山中崇。「アオハロイド」出口夏希、櫻井海音。「単身花日」重岡重毅、新木優子、高梨臨。「18歳、新妻、不倫します」藤井流星。「猫カレ・少年を飼う」石川恋、斎藤潤。「下剋上球児」鈴木亮平、黒木華。「セクシー田中さん」木南晴香、生見愛瑠。「たそがれ優作」北村有起哉。「東京貧困女子」趣里。「あたりのキッチン」桜田ひより、渡部篤郎。「猫カレ」石川恋。
個人的に期待するのはテレビ大阪の「インターホンが鳴るとき」主婦・結花は夫の真治・息子と幸せな日々を過ごしていたが、結花が深夜に真治のスマホを見てみると、5人の女性との卑猥なやり取りを見てしまう‥。配役は主人公・結花に土村芳、夫の真治に堀井新太。ほか水崎綾女、高田里穂、中村ゆりか、向里裕香、森田想。「マイホームヒーロー」娘のために殺人犯になる佐々木蔵之介も意外性のある展開である。「あたりのキッチン」は渡部篤郎が渋い演技をしている。
第35代アメリカ大統領、ジョン・フィッツジェラルド・ジャック・ケネディは1963年パレードの最中に暗殺されるという衝撃的な最期だった。彼は理想主義を追い求めたため多くの敵をつくり、いまも暗殺に関して多くの謎が残されている。▽英語圏の人名の頭文字は「J」がいちばん多い。クリスチャンクリスチャン洗礼名ヨハネ(John)は英語圏ではジョン、仏語圏ではジャン(Jean)となり、最も一般的な男性名である。▽「ジェームズ・ヒルトン」1900-1954。イギリスの作家。代表作「失われた地平線」「チップス先生さようなら」「心の旅路」。▽神聖ローマ皇帝ジギスムントはオスマン帝国征討を企てたが、ニコポリスの戦いでバヤジット1世に敗北。▽「ジェームズ・マーシャル」1848年、カリフォルニア州サクラメント付近で砂金を発見。▽「シャーウッド・アンダーソン」1876-1941。アメリカの作家。代表作「ワインズバーグ・オハイオ」「貧乏白人」。▽「ジャック・ヒギンス」1929-2022。イギリスの作家、代表作「鷲は舞い降りた」。▽「ジャマールッディーン・アフガーニー」1839-1897。インドの英領化などから危機感を抱き、欧米の侵略に対抗するため汎イスラム主義(イスラム教徒連帯運動)を唱えた。イラン人だがアラブ世界に広く活動し、大きな影響を与えた。▽「ジュリアン・グリーン」1900-1998。フランス・アメリカの小説家。代表作「幻を追う人」「真夜中」。▽「ジュリアン・バーンズ」現代イギリスのポストモダン作家。代表作「フローベールの鸚鵡」。▽「ジュリオ・カッチーニ」1545ー1633。イタリアの作曲家。▽「ジュール・ヴァンサン・オリオール」1884-1966。フランスの第4共和政の大統領。▽「ジョサイア・ウェッジウッド」1730-1795。イギリスの陶芸家。チャールズ・ダーウィンの祖父。▽「ジョージ・スミス」1840-1876。イギリスの考古学者。1872年、ニネヴェから出土した粘土板から聖書に記された洪水の記述を発見した。▽「ジョージ・メレディス」1828-1909。イギリスの小説家。代表作「エゴイスト」。漱石「虞美人草」に彼の思想の影響が見える。▽「ジョゼフ・アディソン」1672-1719。イギリスの随筆家・評論家。代表作「ウェストミンスター寺院での思想」。▽「ジョセフ・ブルース・イズメイ」1862-1937。客船タイタニックを所有していた海運企業ホワイト・スター・ラインの経営者として知られる。▽「ジョセフ・パクストン」イギリスの建築家。ロンドン万国博覧会で水晶宮を建設。▽「ジョモ・ケニヤッタ」1893-1998。ケニアの初代首相および初代大統領。▽「ジョン・アイアランド」20世紀イギリスの作曲家。▽「ジョン・アーマー・ビンガム」1815-1900。駐日アメリカ合衆国大使。▽「ジョン・チャドウィック」1920-98。イギリスの言語学者。マイケル・ヴェントリスとともに線文字Bを解読した。▽「ジョン・パーシング」アメリカの陸軍軍人。第一次世界大戦中にヨーロッパ派遣軍総司令官として活躍。▽「ジョン・ファウルズ」20世紀イギリスの小説家。代表作「コレクター」「フランス軍中尉の女」。▽「ジョン・ウォリス」17世紀イギリスの数学者。▽「ジョン・オーブリー」17世紀イギリスの古物研究家。「名士小伝」「短い人生」などの著作がある。▽「ジョン・フィリップ・ホランド」1840-1914。潜水艦技術者。
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ジョーゼフ・ピューリツァー
ジョーゼフ・マラード・ウィリアム・ターナー
ジョゼフ・ラナヤード・キップリング
ジョゼフ・ラニエリ
ジョセフ・ルッテンバーグ
ジョゼフ・ロビネット・ジョー・バイデン・ジュニア
ジョナサン・スウィフト
ジョニー・デップ
ジョニー・ハイケンス
ジョニー・ピアソン
ジョニー・レイ
ジョニー・ワイズミューラー
ジョハル・ドゥダエフ
ジョバンニ・カッシーニ
ジョバンニ・バッティスタ・ピアッツェッタ
ジョバンニ・ピエトロ・カラファ
ジョバンニ・ボッカッチョ
ジョブネル・モイーズ
ジョモ・ケニヤッタ
ジョリス・カルル・ユイスマン
ジョルジオ・アルマーニ
ジョルジオ・デ・キリコ
ジョルジュ・オスマン
ジョルジュ・クレマンソー
ジョルジュ・ジャック・ダントン
ジョルジュ・スーラ
ジョルジュ・ド・ラ・トゥール
ジョルジュ・バタイユ
ジョルジュ・ビゴー
ジョルジュ・ビゼー
ジョルジュ・ブラック
ジョルジュ・ポンピドゥー
ジョルジュ・ユルバン
ジョルジョ・ナポリターノ
ジョルジョ・モランディ
ジョルジョーネ
ジョルダーノ・ブルーノ
ジョン・アイアランド
ジョン・アーヴィング
ジョン・アダムズ
ジョン・アーマー・ビンガム
ジョン・アルバート・シンドラー
ジョン・アレキサンダー・マクドナルド
ジョン・アーネスト・スタインベック
ジョン・ウィクリフ
ジョン・ウィリアムズ
ジョン・ウィリアム・ストラット
ジョン・ウィリアム・フェントン
ジョン・ウィルキンソン
ジョン・ウィルクス・ブース
ジョン・ウェイン
ジョン・ウェスレー
ジョン・ウェブスター
ジョン・ウォーカー
ジョン・ウォーターズ
ジョン・ウォーノック・ヒンクリー・ジュニア
ジョン・ウォリス
ジョン・ウルヴィン・クーリッジ・ジュニア
ジョン・オーギュスト・ドミニック・アングル
ショーン・オケーシー
ジョン・オースティン
ジョン・オハラ
ジョン・オーブリー
ジョン・カー
ジョン・カーヴァー
ジョン・カボット
ジョン・ギールグッド
ジョン・クインシー・アダムス
ジヨン・グッドマン
ジョン・クラシンスキー
ジョン・クレランド
ジョン・ゲイ
ジョン・ケージ
ジョン・ケネス・ガルブレイス
ジョン・コナリー
ジョン・ゴールズワージー
ジョン・コルトレーン
ジョン・ジェイ
ジョン・ジェームズ・オズボーン
ジョン・スキーピング
ジョン・スティーブンソン
ジョン・スチュアート・ミル
ジョン・スミス
ジョン・タイラー
ジョン・ダン
ジョン・ダンロップ
ジョン・チャールズ・フィールズ
ジョン・ディヴィソン・ロックフェラー・シニア
ジョン・ディクスン・カー
ジョン・チャドウィック
ジョン・デューイ
ジョン・デンバー
ジョン・トラボルタ
ジョン・ドルトン
ジョン・ナッシュ
ジョン・ナンス・ガーナー
ジョン・ニュートン・ミッチェル
ジョン・ネイピア
ジョン・ノックス
ジョン・バチェラー
ジョン・バーゴイン
ジョン・パーシング
ジョン・バニヤン
ジョン・ハーバード
ジョン・ハーバート・デリンジャー・ジュニア
ジョン・バーディーン
ジョン・ハートフィールド
ジョン・ファウルズ
ジョン・フィッシャー
ジョン・フィリップ・スーザ
ジョン・フィリップ・ホランド
ジョン・フィルモア・ヘイフォード
ジョン・フォアマン
ジョン・フォスター・ダレス
ジョン・フォード
ジョン・フォン・ノイマン
ジョン・ブラウン
ジョン・フラムスティード
ジョン・フレミング
ジョン・ブレンダン・ケリー
ジョン・ヘンリー・ホリデイ(ドク・ホリデイ)
ジョン・ボイド・ダンロップ
ジョン・ポール・スティーブンス
ジョン・ボン・ジョヴィ
ジョン・マイケル・タルボット
ジョン・マグロ―
ジョン・マケイン
ジョン・マッカーサー
ジョン・マリー・ギュイヨー
ジョン・ミルトン
ジョン・メイナード・ケインズ
ジョン・モルガン
ジョン・モンタギュー(第4代サンドウィッチ伯爵)
ジョン・リトル
ジョン・リー・リッチモンド
ジョン・ル・カレ
ジョン・レノン
ジョン・ロージー・ベアード
ジョン・ロック
ジョン・ロックフェラー
ジョン・ローン
ジョン・ワトソン
ショーン・オケーシー
シーラバトラ
シラノ・ド・ベルジュラック
シリマヴォ・バンダラナイケ
シルヴィオ・ベルルスコーニ
シルウェステル1世(ローマ教皇)
ジル・エアネス
シルベスター・スタローン
ジロラモ・サヴォナローラ
ジーン・ワイルダー
シンクレア・ルイス
インド映画を代表するスター、シャー・ルク・カーン。代表作「恋する輪廻 オーム・シャティ・オーム」。
さっきまで雨が降っていたけれど今はどうだろうか?
Is it still raining?(まだ雨は降っていますか?)
Is stopped raining.
Iseea beautiful rainbow in the sky.
雨はやみました。空にはきれいな虹が見えます。
本日は「鉄道の日」。明治5年10月14日、新橋・横浜間に鉄道が開通した。台風のため3日延期されたが、この日、晴れの鉄道開業式が挙行された。明治天皇も試乗され、砲兵の祝砲・軍艦の賀砲がとどろき、2万人に赤飯が配られ、にぎやかな開業式であった。「鉄道記念日」は1922年に正式に決められた。1994年に「鉄道の日」と改称される。
蒸気機関を小型化して台車や船に取り付け、交通機関の動力として利用しようという試みは、19世紀初頭のヨーロッパで起こったが、日本人の鉄道の知識は数十年遅れて、1840年代から一部の蘭学者のあいだに広まっていたと考えられる。1855年には佐賀藩精錬所で模型機関車が制作された。1864年には海軍操練所の佐藤政養(1821-1877)が鉄道知識をえる。1865年にはイギリス人トーマス・グラバー(1838-1911)が長崎・大浦海岸で英国製の蒸気機関車アイアン・デューク号、鉄道の試運転を行い300m走行した。1867年にはアメリカ公使館書記官アントン・ポートマンが江戸ー横浜間鉄道建設の免許を得たが、幕府の倒壊によって無効となった。1869年、明治政府はイギリス駐日公使ハリー・パークス(1828-1885)の進言をいれ、大隈重信・伊藤博文らが中心となって鉄道建設を決定し、1870年3月新橋ー横浜間の工事を開始した。イギリスからの資金提供と、エドモンド・モレル(1840-1871)以下のイギリス人技術者および資材が導入された。新橋ー横浜間開通に先立ち5月7日には、品川ー横浜間が仮開通していた。鉄道は陸蒸気(おかじょうき)とよばれ、客車は上等・中等・下等に分けられていた。この開通を先駆けに、鉄道は政府の重要施策となり、官営・民営による各地の鉄道建設が進められることになる。そして、1874年大阪ー神戸間、1877年京都ー大阪間、1884年上野ー高崎間、1887年仙台ー郡山間、1889年東海道が開通する。
明治初年の鉄道開設には「鉄道の父」といわれた佐藤政養の功績が大きい。佐藤は明治4年に初代鉄道助(現在の運輸次官)に就任している。ちなみにNHK大河ドラマ「龍馬伝」では有薗芳記が演じていた。
本日は「さつまいもの日」。「栗よりうまい十三里」ということから、昭和62年にこの日が定められた。JR山手線・目黒駅を降りて、太鼓橋を渡ると、目黒不動尊がある。正式には泰叡山龍泉寺(天台宗)といい、境内に豊かな湧水があり、古くから不動信仰の霊地である。幕府の庇護も厚く、江戸近郊における人びとの参詣行楽の地として繁栄をきわめていた。独銛の滝に打たれて水垢離をとり、不動尊に祈願成就を祈るのである。この滝は「江戸名所図会」や広重の浮世絵にも描かれている。寺の裏手に青木昆陽の墓がある。昆陽は、八代将軍徳川吉宗の命により蘭学を学び、長崎に遊学し、「和蘭文字略考」「和蘭貨幣考」「和蘭語訳」など著述する。また「蕃藷考」を著し、救荒作物として甘藷の栽培を奨励したために「甘藷先生」と呼ばれた。一方、幕命によりしばしば関東・東海地方に出向き古文書を調査・収集した。明和六年歿。行年72歳。
ドラマ「パリピ孔明」が好評である。五丈原の戦いで病死した諸葛孔明が現代日本に転生し、そこでシンガーソングライター月見英子の夢を叶える軍師として活躍する話。パリピとは「パーティー・ピープル」の略語。諸葛亮(181-234)。山東の琅邪国陽郡の生まれ。日本では字の孔明をとって、諸葛孔明と呼ぶことが多い。孔明に関しては神仙術を使うので神秘的なムードで容貌の明確な記述はない。ただ「蜀志」諸葛亮伝によれば身長は8尺あったという。当時の1尺は23.75cmなので190cmの美丈夫である。ただし英雄像の一つの条件が高い身長なのであまりあてになる話ではない。
孔明とはどんな人物であったのか。三つの有名なエピソードでみてみよう。まずは「三顧の礼」。ここからは孔明のきわめて慎重な性格がうかがわれる。また一度決心をしたら自分の生死をかけて劉備に仕えようという固い決意が読みとれる。次に「出師の表」。あくまでも自分の大義を貫こうとし、才能を尽くして、人の上に立つ指導者としての責任感の強い人であることがわかる。「泣いて馬謖を斬る」。街亭において馬謖は孔明の指令に反して大敗した。孔明は軍律にてらし馬謖を斬った。ここから孔明の信賞必罰、私情を殺して軍律を守りとおすという厳しい性格の一端が表れている。以上、三つのエピソードから、己に忠実であり、いつも自己を信じて行動するという強い精神の持ち主であることがうかがわれる。一貫しているものは孔明のプライドの高さであり、高潔な人格なのである。今日も孔明が人気なのは、行動、発言にぶれがないのがリーダーとしての理想像としてみられるからであろう。参考:植村清二「諸葛孔明」 中央公論社
その人が一生背負うもの、それが名前である。最近では、読めない名前が多いことが話題になっている。大翔、陽菜、宇宙、太陽など「ひろと」「はるな」「そら」「ひかり」と読めないですね。どのような名前が良い名なのか、あるいはキラキラネームなのか、各個人の主観によるため判断基準は難しい。「大翔」の「翔」を「と」と読ませるのも「かける、とびめぐる、とぶ」から当てたものであるが、音は「ショウ」であり、「ト」と読ませるのは無理がある。実際「大翔」の読みには「ひろと」「はると」「やまと」などいろいろあるらしい。だが毎年の名前人気ランキング上位に入っているので、日本人の名前として一般的になっていくと思われる。ちなみに最近の人気の赤ちゃんの名前、男の子は「虎優(とらまさ)」、女の子は「さくら」が第1位だそうです。
10数年前、親が良い意味がある名前をつけたが、字が難しく、女性のような名前だとして、少年時代よりイジメにあい、改名したが、それでも親への恨みが収まらず、息子が命名した父親を殺害するという悲劇的な事件があった。「鼎(かなえ)」という名前で、ある程度の教養ある人なら読める漢字である。古代中国で宗廟に供える最も重要な祭器で、そこから身分の高い人をいう。「鼎の軽重を問う」(相手の実力を疑ってその地位を覆そうとすること)の故事もよく知られている。本人がもっと成長し、社会で活躍すればさぞかし立派な名前であったと思われるが、未熟な時期にすれば、その名前に違和感がともなったのであろう。この鼎殺人事件は名前の命名に心すべき教訓が含まれているように思われる。赤ちゃんの名づけには、どのようなポイントを注意すべきだろうか。
①無理はしない。たとえば命(いのち)、絆(きずな)、天空(らぴゅた)など、人名としては無理がある。
②漢字は普通なのに、人名として不適切な意味が含まれる場合がある。「満子(みちこ、みつこ)」、「佐世子(さよこ)」など、一見ふつうと思うが、性的なイメージをおこさせる。「まんこ」「させこ」と読まれる。
③ハーフでもないのに欧米人のような名前をつけることがある。「じょうじ」「なおみ」「えりか」といった具合に元々は外国人の名前だったが、昭和期に一般化した。これからも増加するが、自然に当てはめられものであるかがポイントとなる。
④鼎殺人事件でも問題となったのが男女の区別がつきにくい名前である。「かおる」「ひかる」「のぞみ」「しずか」など、以前から男女の区別のない名前はある。明治以前、発育が不十分な子供に、実際の性別とは逆の性別にうけとられる名前をつけることで、健康を祈願する風習があったことが起源とされる。しかし就職、結婚など性別の誤認されるリスクも考慮しなければならない。
⑤おそれおおい名前。神や救世主といった畏れ多い名前。キリスト、裕仁など。しかし外国ではサルバトーレ(救世主)など普通に命名される場合もある。家康や信長なども、将来、本人がその名前に負けなければいいが。
⑥難解な名前。それ自体には良い意味やいわれがあるものの、画数が多かったり、難解で周囲や本人が理解できず、結果として珍奇ネームになってしまうケースがある。鼎殺人事件が典型例であるが、世の中には「鼎」よりも難しい名前の人はいくらでもいる。親権者が個人的な好みに走らず、子供が成長して誇りに思える名をよく考えるべきであろう。
家康の側室群をあげてみる。大河ドラマ「どうする家康」第19回「お手付してどうする!」ではお万の方(松井玲奈)が登場する。お万は侍女として家康の湯殿の世話をしていたが、家康の子を身ごもる。怒った築山殿は、お万を城内の木に縛りつけて折檻する。築山はお万を側室として認めず、城から追放した。史実では元亀3年にお万は双子を出産したとある。長男は結城秀康、次男は永見貞愛という。お万(長勝院)は北ノ庄で72年の生涯を閉じた。西郡の方(次女督姫の母)、於愛(三男秀忠、四男忠吉の母)、於竹(三女振姫の母)、於都摩(五男信吉の母)、於茶阿(六男忠輝、七男松千代の母)、於亀(九男義直の母)、於万(蔭山殿、十男頼宣、十一男頼房の母)、於梶(お八、お勝、五女市姫の母、のち松平正綱に与えるが、一ヵ月後、再び取り戻して側室にする)、於牟須(不詳)、於六(お梶の部屋子)、於梅(本多正純に与える)、於夏(お奈津)、於仙(不詳)、阿茶(須和、幕府にあって外交、隠密御用を勤める。側室中、随一の才女)。総勢20人の側室と16人の子どもたち。
13日の金曜日が不吉で悪い出来事が起きる、というのは英語圏の多くとドイツ、フランスなどで広まっている迷信である。金曜日がなぜ不吉なのか。イエス・キリストが磔刑されたのが金曜日とされるが、聖書には13日の記述はみられない。Fridayという言葉は北欧神話の神フリッグから来ており、フリッグが「金曜日に悪魔を招いて悪事を企んでいる」と信じられるようになったから。金曜日に13を合わせて13日の金曜日を不吉とする風習は、古文献には見られず、19世紀になってから成立したとする意見がある。13を不吉な数とするのは、キリストの最後の晩餐に13人の人がいたことから生じたものであろう。1980年の映画「13日の金曜日」(1980)では殺人鬼ジェイソンがキャンプ場を舞台に若者たちを次々と惨殺するというホラー作品で、この影響によって、この日を不吉とする考えは世界的に広まった。しかし13日の金曜日=不吉で悪い出来事がおこる、という警戒感から、交通事故などを避けるため、事故件数は通常より少なく、安全な日という報告もなされている。2015年の11月13日の金曜日、パリで同時多発テロが発生し、120人以上が死亡した。金曜日が不吉な出来事が起こることはケネディや安倍晋三の事例でも見られるようだ。
誰にでも人の名前や地名・言葉を、間違って覚えてしまうことがある。思い違いで、何十年もずっと思い込んでいることがあるから可笑しい。長嶋茂雄引退の名スピーチ「巨人軍は永久に不滅です」。多くの人は「永遠に」とすり替えて記憶している。寺山修司が勘違いして書いたため、「永遠に」のほうが広まってしまった。▽息子の一茂はずっとHAWAIIを「ハウツー」、北海道を「きたかいどう」と読んでいた。▽「ランゲルハンス島」とは島の名ではなく、膵臓に散在する細胞の1つ。村上春樹のエッセーに「ランゲルハンス島の午後」という一編がある。生物の教科書に出てくるこの名に魅かれ、空想上の理想郷のような感じがしてくる。▽東京の青海(江東区)と青梅(多摩地区)。▽「蚤の市」ノミのことを英語でfleaという。発音は「フリー」だが、freeと勘違いしている人がいる。▽大島紬の産地は奄美大島(鹿児島県)。あんこ椿の伊豆大島と間違える。▽京都の東寺に伝えられた古文書、東寺百合文書(とうじひゃくごうもんじょ)。「ゆりぶんしょ」と読み間違い。▽「康範詩集」川内康範の詩集ではない。宋の汪晫の詩集。▽「さよなら」などのヒット曲で知られるオフコース。バンド名は草野球チームに由来するらしい。ところが「off course」と「f」が2つあるので、「もちろん」の意味ではなく「道を外れる」ということ。小田和正が建築から音楽の道に進んだことを含んでいるらしい。▽「マスクメロン」マスクとは「仮面」の意味ではなく、麝香のようないい香りがするという意味。▽×武蔵の森総合スポーツプラザ○武蔵野の森総合スポーツプラザ。▽菅直人と菅義偉。「すが」を「かん」と言い間違い。
漢字の誤読もよくある。御用達を「ゴヨウタツ」、順風満帆を「ジュンプウマンポ」、キキイッパツを「危機一発」と、大人になっても思い込んでいる人がいる。正しくは「ゴヨウタシ」、「ジュンプウマンパン」、「危機一髪」。▽国際政治学者で美人の三浦瑠璃麗さん。「大喪(たいそう)の礼」を「たいもの礼」と読み間違い。▽乳幼児の病気「川崎病」をずっと神奈川県川崎市の公害病の一種と思い込んでいたが、実は発見者の川崎富作にちなんだ病名である。▽「おばけのQ太郎」における名脇役ラーメン大好き「小池さん」のモデルはアップダウンクイズの司会者小池清だと思い込んでいた。正しくはアニメイターの鈴木伸一である。
中居正広は元AKBの河西智美を「かわにし」と呼んでいた。正しくは「かさいともみ」。▽桜田五輪相が「れんぽう」発言を謝罪した。立憲民主党の蓮舫氏は「れんほう」が正しい。人の名前を言い間違えるのは失礼。▽和歌山県の有田みかん。「ありだ」と濁って発音するのが正しい。▽「焼け木杭に火がつく」を「焼けぼっ栗に火がつく」と思っている人がいる。▽青森県五所川原の十三湖(じゅうさんこ)。民謡「十三の砂山」は「とさのすなやま」。中世都市遺跡「十三湊遺跡」は「とさみなといせき」。▽インディラ・ガンディーはマハトマ・ガンディーの娘ではなく、ネルーの娘。▽俳優の筒井道隆を小説家、筒井康隆の息子だと思っている人がいるが、名前が似ているだけで親戚でも何でもない。▽「板垣死すとも自由は死なず」岐阜の板垣遭難事件は有名であるが、このとき板垣は死なず、本当に亡くなったのは事件から37年のちのことである。▽京都市左京区一乗寺にある金福寺。「きんぷくじ」ではなく、「こんぷくじ」が正しい。▽アメリカ合衆国の国歌を「星条旗よ永遠なれ」だと思っている人がいる。スーザの曲は国の公式行進曲。アメリカの国歌はジョン・スタッフォード・スミス作曲の「星条旗」。▽シェリーの詩「西風に寄せる歌」。有名な一節「冬来たりなば春遠からじ」と訳した人を上田敏と思っている人がいる。本当は木村毅(きむらたけし)である。▽向田邦子のエッセイ「眠る盃」。タイトルは「荒城の月」の「めぐる盃かげさして」の一節を「眠る盃」と誤って覚えた少女時代の回想。▽木村拓哉はクイズ番組で「シザーサラダ」と回答。正しくは「シーザー・サラダ」Caesar salad。シザーサラダだと「ハサミ入りサラダ」という意味になる。ロメイン・レタス、クルトン、パルメザンチーズをオリーヴオイル、ニンニク、レモン、アンチョビーのドレッシングで和えたサラダ。古代ローマのシーザーとは無関係。メキシコのティワナにあるシーザーズという名前のレストランで考案されたから。▽ブランデ―のナポレオン。特定銘柄の酒ではなく、熟成年を指す記号。▽「少年老い易く学成り難し」朱熹の作ではなく、日本の室町時代の禅僧・観中中諦の作である。▽小倉智昭アナは「ブリ、カンパチは白身の魚」と発言。身の色から勘違いしやすいが、ブリ、カンパチはともに回遊魚であるアジ科に属し、赤身の魚である。
今日は豆乳の日。豆乳は、大豆を水に浸してすりつぶし、水を加えて煮つめて汁を漉した飲料である。昭和50年前後に飲料商品として豆乳が販売されるようになった。(10月12日)
社会党の浅沼稲次郎(1898-1960)は1960年のこの日、日比谷公会堂で演説会の壇上で右翼少年、山口二矢に刺殺された。享年61歳だった。その大衆的な人柄で「ヌマさん」の愛称で親しまれていた。国立国会図書館憲政資料室には浅沼稲次郎読書ノートが所蔵されている。このノートは大正14年から昭和2年にかけてのもので、浅沼は20代後半、無産政党運動に邁進していた頃である。高橋亀吉の「経済学の実際知識」や那須皓の「公正なる小作料」の感想や「伏石事件」に関する一文、第6回メーデーに際しての所感などがみられる。表紙には「思想の母」とタイトルがつけられて、さらに「思想は行動の母、情熱は行動の母」とエマーソンの言葉が書かれている。行動型の現実政治家、浅沼らしい一面がみえる。このノートは平成18年、たまたま図書館の職員が七夕古書大入札会で見つけて購入したものである。(10月12日)
世界史上における最も重要な業績の一つとして、すぐ思いつくのは、コロンブスのアメリカ大陸発見であろう。1492年10月12日、コロンブス率いるスペイン艦隊が西インド諸島に初上陸した。アメリカの多くの州では10月第2月曜を「コロンブス・デー」の祝日としている。
クリストファー・コロンブス(1451-1506)は「地球は丸い」とする学説に基づき、大西洋を西に進めばアジアに到達できると考えていた。第1回航海(1492-93)は船3隻、乗員120人で、1492年8月、パロス港を出発し、カナリー諸島を経由して西航した。配下の者が航海について不安になって反抗を起こそうとするのを抑えて航海をつづけ、10月12日バハマ諸島の一つグアナハニ島に到着した。彼はこの島をサン・サルバドルと名づけた。現在のワトリング島がこれに当たるものと推定される。次にサマナ・ケイ島付近にも立ち寄ったとされる。これがアメリカ発見の端である。帰還するとコロンブスは英雄として迎えられた。しかしこの偉業をただ西へ向かって航海したら偶然に出くわしただけではないか、と評する人々もいた。コロンブスは目の前の卵を立てることができるかと質問した。誰もできないのを見た彼が教えた方法は、卵の尻をたたいて平らにすることだった。創業というものが、最初に考え、最初に実行するところに意義があるのだということを示したというコロンブスの有名な逸話は残念ながら史実ではない。この話はイタリアの建築家ブルネレスキ(1377-1446)のことといわれる。そうなると、ブルネレスキの卵という方が正確かもしれない。(Columbus)
昭和17年10月11日、第6戦隊・第11駆逐隊(青葉・衣笠・古鷹・吹雪・初雪)は、ガダルカナル島への輸送部隊の支援とヘンダーソン飛行場への艦砲射撃の任務を与えられて出動した。旗艦青葉の見張り員が米艦隊を発見したものの、艦長・五藤存知少将は味方艦隊と誤認し、発光信号で「ワレアオバ」を連発した。米軍は新兵器であるレーダーにより、先制攻撃を行い、青葉は集中砲火を浴びる。古鷹の艦長荒木伝大佐は青葉を守るため、敵艦と青葉の間に割り込んだ。このため古鷹が被弾することになり、10月12日、大破炎上し沈没する。青葉は古鷹の捨て身の奮戦でなんとか助かった。サボ島沖海戦は、日本海軍が得意としていた夜戦が、アメリカのレーダー技術に敗れた戦闘であった。
本日は「トマトの日」。 ドイツの諺に「トマトが赤くなると医者の顔が青くなる」とある。ビタミンがバランスよく含まれ栄養豊富なトマトを食べると、健康で医者いらずという意味だろうか。現代の食卓に欠かせないトマトが食べられるようになったのは、わずか200年前のことである。トマトの歴史は、地理上の発見、ルネサンス、フランス革命と世界史の重要事件が関係しているといえば大げさだろうか。トマトの原産は南米で1523年スペインの探検家コルテスが最初に本国にに持ち帰ったといわれる。1533年には、スペイン人のピサロがインカ帝国を滅ぼした。つまりコンキスタドールがスペインに持ち帰ってからである。当初、西洋の人々はトマトを有毒の植物と思い、嫌っていた。しかし南イタリアに大飢饉が何度も起こり、人々はトマトを食するようになった。18世紀フランス革命の際にはパリに進軍した南仏の義勇兵たちが、パリにトマトを持ち込んだといわれている。(10月10日)
明治37年8月の遼陽会戦で、日本は橘周大中佐が壮絶な死を遂げた。そして10月9日、ロシア軍は本渓湖の日本軍に対して攻撃を開始し、沙河の会戦の火蓋は切って落とされた。圧倒的なロシア軍の前に、日本軍は死傷者2万余をだす消耗戦となる。当時、外国では沙河会戦は日本の敗北と伝えられていた。
1856年のこの日、アロー号事件おきる。広州沖に停泊中のイギリス船籍のアロー号に中国の官憲が踏み込み、海賊容疑で中国人水夫12名を捕らえた事件である。これに対してイギリス広州領事ハリー・パークスは、イギリス船籍への臨検行為を条約違反として、またイギリス国旗の引き降ろしをイギリスへの侮辱として葉名琛に抗議するとともに、これを口実に、広西でカトリック宣教師を処刑されたフランスと連合してふたたび清朝に戦いを挑んだ。1857年12月、英仏連合軍は広州を占領し、さらに北上して翌58年5月には太沽(タークー)砲台を奪い天津に迫った。6月、清朝はやむなく英仏両国、および調停者を装ったアメリカ・ロシア両国との間に天津条約を結んだ。(10月8日)
[ え ]
「エ」で始まる語句・用語、主要な人名・地名を集める。▽「瀛涯勝覧」明の馬歓が著した南海諸国見聞録。▽「エウセビオス」263年頃ー339年。古代ローマの司教。コンスタンティヌス帝の信任をうけた。著書「教会史」がある。▽「衛正斥邪思想」19世紀中葉、朝鮮は西洋との通商条約を拒否した。正学である朱子学を衛り、仏教などの邪学を斥けるという思想。▽「エゴサーチ」自分の名前をネットで検索すること。▽「エシェデ鉄道事故」1998年6月3日にドイツ・ニーダ―ザクセン州のエシュデ付近で発生した列車脱線事故である。高速列車のICEが脱線し道路橋に衝突、101人が死亡した。▽「エスタブリッシュメント」社会的に確立された制度や体制。▽「エセン」15世紀中頃の蒙古オイラート部の族長▽「エニシダ」欧州中南部原産で、マメ科の半常緑(時に落葉)性低木。黄色い蝶形花を5~6月に開く。▽「エッサイの樹」ダヴィデ王の父エッサイの家系。▽「エピファニー」1月6日。イエスの誕生を祝うためら3人の賢者が贈り物を持ってきやってきた日を記念する祭。▽「エッジワース・カイパーベルト」海王星軌道の外にある小惑星や氷・ちりなどが密集した領域。▽「エコーロケーション」イルカは超音波で反射してきた音で、獲物をさがしたり、仲間とコミュニケーションしたりする。▽「エパミノンダス」紀元前420年?ー紀元前362年。古代ギリシャのテーベの将軍。前371年のレウクトラの戦いでスパルタ軍を破った。▽「エルニーニョ現象」南米ペルー沖の近海で、毎年12月ごろ貿易風が弱まることで付近の暖流が移動して水温が高まる現象。▽「ATP」アデノシンに3分子のリン酸が結合したヌクレオシド。▽「エンケの間隙」土星の環のうちA環内にある間隙のことをいう。詳しいことはわからない。発見者のドイツの天文学者ヨハン・フランツ・エンケの因む。▽「エンコミエンダ制」16世紀のアメリカ新大陸などのスペイン植民地での、キリスト教教化を条件に現地人労働力で実質的な奴隷として使役することを可能にした農園経営形態をいう。encomienda。▽「エンテべ空港事件」1976年7月、イスラエルの特殊部隊がウガンダのエンテべ空港を奇襲し、ハイジャック犯人らを射殺、人質を救出した事件。(ええええ)
エア湖(オーストラリア)
エアコン
エアーズ・ロック(ウルル) オーストラリア
エアポート
エイ(魚鱏)永遠回帰(ニーチェの思想の基本概念のひとつ)
映画
瀛涯勝覧
栄華物語
永享の乱(1438~39年)
永業田
英国式庭園
エイサー(沖縄の伝統芸能)
衛氏朝鮮
エイズ
衛正斥邪思想
エイゼンシュテイン,セルゲイ(映画監督)
栄西
頴尊
永仁の徳政令
頴原退蔵(国文学者)
永平寺
英雄崇拝論(カーライルの講演集)
永楽通宝
永楽帝(明成祖)
エイリアン
AKB48(エーケービー)
エープリルフール
エヴァンゲリオン
エヴァンス,アーサー(考古学)
エヴェンキ族
エウセビオス
エウダイモニア(幸福)
エウリピデス
ええじゃないか
慧遠(えおん、東晋の名僧)
エカテリーナ宮殿
エカテリナ2世
江川宇礼雄(俳優)
江川卓(野球)
江川担庵
駅
易経
エキストラ
江木欣欣
易姓革命
江木俊夫(アイドル)
駅馬車(ジョン・フォード監督の映画)
江藤淳(文芸評論家)
エクアドル
エクスキューズ(言い訳、弁解)
エクスプロイテーション映画
エクソシスト
江口渙(小説家)
江口章子(えぐちあやこ)詩人
江口夜詩(詩人)
エグバード
笑窪(えくぼ)
エーゲ海の真珠(ポール・モーリア)
エーゲ文明
エゴイズム
エゴサーチ
エコーチェンバー現象
エコノミスト
エコーロケーション
江差追分
エシェデ鉄道事故
エジソン,トーマス
エジプト
エジプトの神々
エジプトはナイルの賜物
絵島生島事件
懐奘
恵心僧都
恵信尼(えしんに、親鸞の妻)
SOS(エスオーエス)
SF(エスエフ)
エスカルゴ
エスキモー
エスタプリッシュメント
エステベス,エミリオ(俳優)
エスプリ(フランス語で精神、知性、才気の意味)
エズラ(古代ユダヤの律法学者)
エスワティニ
エセン
江田三郎
エタノール
江田船山古墳出土の太刀銘
枝豆
エチエンヌ・マルセルの乱(1358年)
エチオピア
越後
越前蟹
エチュード(練習曲)
エディンバラ(イギリス)
エデン(ヤハウェが最初の人アダムとエバのために設けた楽園)
エッサイの樹
エッジワース・カイパーベルト
エデッサ伯国
エデンの園
エデンの東(スタインベックの小説)
エッフェル塔
エーデルワイス
干支(えと)
江戸
江戸川乱歩
江戸城
江戸幕府
江戸町奉行
江藤淳
江藤新平
江戸屋猫八
エトワール凱旋門
淮南子
エネルギー
エノコログサ
榎本其角(俳人)
榎本喜八(野球)
榎本健一(俳優)
榎本武揚
榎本多津(女流文人)
海老(エビ)
エパミノンダス
エピクロス
海老沢亮(えびさわあきら 牧師)
ABCD包囲陣
海老名弾正
海老原博幸(ボクシング)
エピファニー
エフェソス公会議(431年)
えぶり
エベンキ族
恵方詣(えほうまいり)
烏帽子(えぼし)
エホバ(旧約聖書の神の固有の名ヤハウェのこと)
エボラ出血熱
絵本
絵馬
絵巻物
江間章子(えましょうこ)詩人
江見水蔭
恵美押勝
エミュー
エムス川
エムス電報事件
エムデン・マイヤーホフ・パルナス経路
エメラルド
江守徹(俳優)
エライジン酸
エラスムス
エラトステネス
エラトステネスの篩
エリア随筆
エリアーデ,ミルチヤ(ルーマニアの宗教改革家)
エリオット,ジョージ(小説家)
エリオット,トーマス・スターンズ(詩人)
エリコ(ヨルダン)
エリザベス1世
撰銭令
江利チエミ
エリツィン
エリトリア
襟巻
エリュトゥラー海航海記
エリオペイド文化
エルケンチョ(アルゼンチンの角笛)
エルサルバドル
エルチチョン(メキシコ)
エルツ山脈
エルトゥールル号海難事故(1890年)
エル・ドラード(黄金郷)
エルカーノ,フアン・セバスティアン
エルゴードの定理
エルニーニョ現象
エルバ島
エルバー山
エルフルト綱領
エルベの誓い
エレジー(悲歌)
エレミヤ(ユダの預言者)
エロア資金
エローラ
円
延安革命
燕雲十六州
演歌
塩課
エンカウスティーク(蠟画)
円覚寺
えんがちょ
延喜格式
延喜・天暦の治
延喜の荘園整理令
円空
円珍
縁起かつぎ
園芸
演劇
エンケの間隙
エンゲル係数
エンゲルス
遠交近攻
エンコミエンダ制
エンジェル
エンシスハイム隕石(フランス、1492年)
延寿祭(えんじゅさい)
援蒋ルート
猿人
エンスラボイド作戦
袁世凱
厭世主義
エンゼルフィッシュ
遠足
エンタシス
円地文子
円珍
エンテべ空港事件
円爾弁円
円仁
豌豆(えんどう)
遠藤周作
エントロピー
縁日
役小角(えんのおづの)
朳(えんぶり)八戸の田植踊)
閻魔
エンマコウロギ
エンマ帳
円明園
エンメバラゲシ
エンメリヒ,アンナ・カタリーナ(ドイツの禁欲的修道女)
園遊会(マンスフィールドの小説)
エンリケ航海王子
閻立本
延暦寺
ATP
安政5年、6年は幕末維新史上、重要な年だった。安政5年1月、幕府は日米修好通商条約調印の勅許を奏請するが、孝明天皇はそれを拒否した。6月、勅許のないまま、幕府が上記条約を調印したため、天皇は激怒する。このころ橋本左内(1834-1859)は越前藩主松平慶永の側近となり、上洛、一橋慶喜待望説を遊説。しかし、井伊直弼が大老に就任し、慶永が処罰されると左内も、安政6年10月7日、江戸伝馬町獄舎で斬首された。26歳の若さであった。頼三樹三郎、飯泉喜内の2人も刑場の露と消えた。だが井伊直弼も翌年桜田門外の変で暗殺され、安政の大獄を取り仕切った直弼の側近、長野主膳も、2年後、藩内の尊攘派岡本黄石らのクーデターで失脚、斬首された。(10月7日)
1571年のこの日、ギリシアのコリント湾口のレパント沖で、ローマ教皇庁・スペイン・ヴェネツィアからなるキリスト教国連合艦隊とオスマン艦隊が激突した。連合艦隊が視界に入ったとき、オスマン艦隊はまだ錨をおろしていた。この一瞬の遅れがひびいて、2時間の激戦は、火力に優れた連合艦隊が勝利した。オスマン側はアリ・パシャが殺され、艦艇117隻が拿捕された。死者はオスマン側が3万に対し、連合軍は8000人だった。この戦いの7年後、連合軍の指揮官ドン・ファン・デ・アウストリアは発疹チフスで31歳の若さで死去。「ドン・キホーテ」の作者セルバンテスもこの戦いに参戦している。(Lepant,Don Juan de Austria,Ali Pasa)
昭和48年10月6日に勃発した第4次中東戦争を契機に起こった石油ショックは、世界経済を混乱に陥れた。エネルギー需要の7割を石油に依存し、しかも99.8%を輸入、うち75%を中東諸国から輸入する日本にとって、事態は深刻であった。日本経済は、激しいインフレに見舞われた。企業は先行きのモノ不足を見込んで、原材料のストックに狂奔した。11月6日、第一次オイルショックによる節電・節約を呼びかけるため、全国の広告塔が一斉に消灯された。異常な物価の値上がりと物不足がおこった。秋になると、スーパーマーケットにイレットペーパーや洗剤を買いだめする客が殺到するさわぎまでおきた。産油国からの安い石油によって成り立ってきた先進工業国の高度経済成長は、危機におちいったのである。日本経済も、これをきっかけに低成長の時代にはいった。(10月6日)
今年も村上春樹のノーベル文学賞はならず。ノルウェー出身の劇作家ヨン・フォッセだった。
5日夜、東京荻窪のブックカフェ「6次元」に集まったハルキストたちはさすがに落胆の色は隠せなかった。いつごろからか村上春樹のファンをハルキストと呼ぶ。村上の小説やエッセイから伺える趣味や生活スタイルに影響を受けることが多い。映画・文学・音楽・料理・マラソン・水泳・猫など都会的で冷めた感じの若者をイメージさせる。とくに団塊の世代以降に多く、戦前・戦中派は村上文学などはほとんど読まない。かつて村上といえば村上元三だった。このようなハルキストの存在を村上自身がどのように感じているかは分からない。代表的ハルキストとして内田樹がいる。彼は「村上春樹は世界的に人気があるから偉い。だから普遍的で、とうぜんノーベル賞に値する」とつねづね語っている。世界中でたくさん本が売れるということと、文学としての価値があり、永遠性があるかという問題がイコールとして捉えられるかは疑問である。本がよく読まれる、売れる、商業的な成功が全てという考えにはむしろ反対する人も多いのではないだろうか。ある意味で内田のような単純な文学観を語る人は幸せなのだろう。司馬遼太郎が時代物の大衆作家から国民的文豪といわれるようになったころ、関西大学の谷沢永一がやたらと司馬をほめあげて、解説本をたくさん出すようになった。芸術家一般に売れずに必死に書いているときはいいものが生まれるが、地位と名声、お金がたまって大家になると保守的になってつまらなくなる。ハルキストや谷沢のような存在は迷惑だが、村上にとってノーベル賞をもらわないことのほうが作家として幸運だと思いたい。海外で多和田葉子や小川洋子のように評価されている女性作家もいる。
治承4年10月6日、源頼朝は父祖以来の源氏ゆかりの地、相模国の鎌倉に千葉常胤(父の千葉常重は下総の武将で、千葉氏一族の初代当主。千葉県なと地名由来の元祖)らの助勢を得て鎌倉に入る。そして10月20日、平維盛を総大将とする平氏の軍勢を富士川で、戦わずして勝利をおさめた。このとき頼朝34歳。
翌日、数奇の手勢を率いた若武者がいた。義経24歳である。父・義朝の敗北と死という悲劇によって遠く引き離された異母兄弟が、長い歳月の末にようやく対面することができたのである。八幡神社には頼朝と義経が対面したときに腰をおろしたとされる対面石がある。このとき義経は何騎を従えて兄・頼朝のもとへ駆けつけたのか?「吾妻鑑」には、佐藤継信と忠信とたった3騎となっている。「義経記」では300騎ほどを率いて駆けつけたとある。義経の家来として名が知られているのは、武蔵坊弁慶、駿河次郎清重、片岡八郎弘経、亀井六郎重清、伊勢三郎義盛、鎌田藤太盛政、鎌田藤次光政、常陸坊海尊などである。だが、はたしてこれらの家来が実在の人物かどうかは、まるで証拠がない。そんななかで唯一、係累が明らかなのは佐藤継信、佐藤忠信の兄弟である。佐藤家の菩提寺・医王寺には2人の墓がある。
池西言水
禅宗の開祖は達磨といわれている。その伝記については不明なところが多いが、今日では実在説が強い。南天竺、あるいは波斯国の人といわれる。520年頃に梁にやってきた。武帝との会見で、仏教興隆を自慢する武帝に「無功徳である」と言いきった、という有名な話があるが、史実とはいいきれない。しかし慧何(487-593)が雪の中を達磨を訪ねて、自らの片腕を斬り落として弟子にしてくれと頼んだという逸話についてはかなり明確な記録がある。慧何は入門を許され、第二祖となった。そして第三祖が僧璨、第四祖が道信、五祖が大満弘忍と牛頭法融に及び、大満の下から玉泉神秀と、大鑑慧能、嵩山慧安らの系統に分かれた。そして六祖の慧能によって中国禅は確立される。慧能の禅は頓悟禅ともいわれ、南の地方で盛んになったので、南宗禅ともいわれ、今日、禅宗といえば、この南宗禅を指すことが多い。日本の曹洞宗、臨済宗も南宗禅の系統である。達磨の没年はわからないが、道元の「正法眼蔵25」によると、達磨の高名を妬んだ菩薩流支が達磨を毒殺したとされる。(10月5日)
本日は韓国では「開天節(ケチョンジョル)」が祝われ、会社や学校はお休みです。高麗時代に編まれた「三国遺事」によると、帝釈桓因の子、桓雄と熊女との間に生まれた檀君王倹が紀元前2333年のこの日に平壌城を首都とする国を建てて国号を朝鮮としたのが国家の始まりと言われている。1993年、北朝鮮は檀君陵を発掘したと発表しているが、その信憑性はなく、考古学的知見によれば、京畿道漣川郡全谷里遺蹟から、30~40万年前の前期旧石器遺跡が発見されている。紀元前3000年ごろから櫛目文土器が多数発見されている。前1500年ごろ、青銅器文化の時代に入っていた。日本では縄文文化であった時代の前10世紀以降の遺跡から炭化米が出土することから、朝鮮半島では本格的に農業生産をするようになり、紀元前8~前7世紀ころ水稲栽培が始まり農耕社会へ転換していったと考えられる。古代国家の成立は、紀元前7世紀頃の箕氏朝鮮からはじまる。箕氏は紀元前4世紀には燕と互いに争うほどに成長したが、紀元前2世紀はじめに衛満に滅ぼされる。衛氏は80余年にわたって繁栄したが、紀元前108年に漢の武帝の侵入を受けて滅亡した。通常、箕氏朝鮮と衛氏朝鮮の2王朝を合わせて古朝鮮と呼ぶ。その後、古朝鮮の遺民は各地で小国を興し、紀元前紀57年には辰韓の6つの小国の一つ、新羅が誕生した。紀元前37年には鴨緑江の中流地方で力をつけた朱蒙が高句麗の指導権を握って国家体制を再整備し、王となった。紀元前8年には温祚が百済を建国した。高句麗・新羅・百済の三国が競い合っていた313年から676年にかけてを三国時代と呼ぶ。2世紀末、朝鮮半島中南部では馬韓・辰韓・弁韓と総称される部族国家が併立し、北鮮地方には高句麗が興って南下の勢いを示した。ところが、3世紀前半、魏が朝鮮に勢力を伸ばすにおよんで漢時代の楽浪・帯方の2郡を手にいれ、南鮮地方を支配下におさめた。4世紀半ばにいたって百済・新羅が興ると、高句麗を含めた三国の勢力が拮抗する。朝鮮はその後の日本の文化に大きな影響を与えた。邪馬台国はこの魏の後援のもとに南鮮を圧迫し、弁韓地方にはかなり倭人が進出するようになった。(10月3日)
関東人は「肉まん」、関西人は「豚まん」。一般に関東では濃い味が、関西ではうすい味が好まれるっていわれる。たとえば関東は濃口醤油が、関西は薄口醤油が使われる。なぜ関東は味付けが濃いのか?答えは、それは徳川家康のせいだから~NHKチコちゃんは知っている。醤油の歴史は京都や大阪が古い。天正5年(1577年)に龍野で薄口醤油つくられた。これが、京都で発達した精進料理を自然な色に見せる、薄味の調理として完成された。江戸時代になると、徳川家康が未開拓の江戸の街を早く整備するため、全国から労働者を多く集めた。玄米と塩分補充と労働力アップのため味の濃いおかずを用いた。それから、江戸では新鮮な魚を食べる際に、「つけ醤油」として醤油を用いていたことから、濃口の醤油が生まれた。以来、万能の調味料である醤油は、日本の食を支えた。
このように日本人の食生活や住まいのようすは東と西では違いがあった。だが、今や、新幹線に乗ればわずか2時間半で移動できる狭い日本なので、大きな違いはみられなくなった。もちの形は、富山から見えを境して東は四角い餅、西は丸い餅ときれいに分かれる。理由は日本列島を東西に分断する大地層帯・糸魚川静岡構造線と地質学的に説く人もいるが、本当のことはよくわからない。(参考:「知ってビックリ!関東と関西こんなに違う事典」PHP文庫)
本日は「豆腐の日」。森羅万象、世のいかなるものにもそれぞれに歴史がある。島国日本は、朝鮮半島経由で中国から伝来したものが多い。漢字や仏教からに箸文化の日用品や食品に至るまで数多くある。日本で最も愛される妖怪、河童も実は中国に由来するという説があるがはっきりしない。
毎日の食卓にみる豆腐は日本人に親しみのある食材のひとつ。夏は冷奴で、冬はお鍋で1年中食べる。木綿豆腐に醤油とカツオ節が一般的な食べ方。豆腐の発明は中国人のもので、前漢の淮南王劉安といわれる。彼は学者を集めて著書を刊行したが、そのなかに「淮南王万畢術」 という本がある。それに豆腐の製法が述べられていたという。
豆腐が我が国に渡来した時期はあまりはっきりしない。日本に伝わったのはおそらく奈良時代だろうが文献には見えず、鎌倉・室町時代に中国に留学した僧侶が、製法を覚えてきて広まったと考えられる。文安元年(1444年)の『下学集』に豆腐という語がのっている。豆腐はとくに江戸時代になって庶民にまで広まった。
徳川家光の慶安御触書では農民に飲酒、喫茶、煙草など禁止している。また衣類は木綿以外は着用しないこととある。贅沢禁止に関連して豆腐の製造を禁止している。家光自身は豆腐が大好物だったが、農民たちが豆腐を食べると大豆が高騰することを懸念したからであろうか。(10月2日)
スマホに代表されるように世の中、デジタル時代となり、言葉や故事・ことわざなど簡単に情報が得られるので、記憶や暗記は不要と思われるかもしれない。はたしてそうだろうか。記憶とは以前に起こった経験が保存され、その後の機会にそれが適用される心的作用である。もし、人間にこのような記憶作用がなかったなら、われわれの精神生活はまさに瞬時的となり、その歴史的発展は、もはやのぞめないであろう。古事記編纂の稗田阿礼の出身地、奈良県大和郡山市では毎年「記憶力大会」が開かれている。競技の部、自慢の部、記憶力日本選手権大会(顔と名前、単語、数学、短文、トランブ)の3部門が実施される。円周率をどこまでいえるか(産医師異国に向う 3.14159265)、化学元素の周期(水兵リーベぼくのフネ)、ルート3(富士山麓オウム鳴く)、国旗の国名当て、首都当て、難読漢字、歴史の年号、英単語など丸暗記も大切。記憶力の限界に挑む。
思い出そうとしてもなかなか出てこないことがよくある。英語でTip of the tongueと表現することから、TOT現象という。新聞記者がトルコの首都をアンカラと書くべきところをイスタンブールと誤記した。野球選手が素振りやキャッチボールをするように、著述家・ブロガーにも日常的な作文トレーニングが必要だろう。たとえば世界の首都。オセアニア14カ国、言えますか?
オーストラリア キャンベラ
キリバス タラワ
サモア アピア
ソロモン諸島 ホニアラ
ツバル フナフティ
トンガ ヌクアロファ
ナウル ヤレン
ニュージーランド ウェリントン
バヌアツ ポートビラ
パプアニューギニア ポートモレスビー
パラオ マルキョク
フィジー スバ
マーシャル諸島 マジュロ
ミクロネシア パリキール
ローマで目につくのは、街角や広場にある噴水です。その数は約600とか。その中でも有名なのはトレビの泉です。映画「ローマの休日」や「甘い生活」などによって日本人にも親しまれるようになったトレヴィの泉は、もともとは古代ローマ時代、紀元前19年にアグリッパによって建設されたものだった。歴史家プリニウスは、世界の驚異の1つとして、ローマの水道をあげている。ローマ帝国の崩壊とともに荒らされたが、1453年、教皇ニコラウス5世が再び水道としてローマを潤すことになった。17世紀になって主要水道の終点にはモストラ(劇場)と呼ばれた彫刻に飾られた噴水が置かれることになった。1732年、教皇クレメンティウス12世はデザインコンペを開き、35歳の建築家ニコラ・サルヴィ(1697-1751)が選ばれた。トレヴィの泉はサルヴィの死後、彫刻家ピエトロ・ブラッチ(1700-1793)によって1762年に完成した。ポーリ宮殿を背景として、海神ネプチューンと2頭のぺガサス、それを操るトリトンなど多数の彫刻群がある。ローマを去る前に、泉に背を向けてコインを投げるとローマ再訪がかなうという。近年建物の損傷が問題となっている。2013年、フェンディがトレヴィの泉修復計画を発表し、212万ユーロ(約2億5800万円)を出資することとなった。トレヴィとは、この泉の水源地でローマ市から数キロの地点にある。(Trevi Fountain,Nicola Salvi,Pietro Bracci,FENDI)
昨晩、テレビで映画「象の背中」(2007年)を放送していた。48歳のエリートサラリーマン(役所広司)が末期の肺がんで余命半年と医師から宣告される。残された日々をいかに過ごすかがテーマとなる。初恋の人にあったり、ケンカ別れした旧友に会ったり、仕事で迷惑かけた人に偶然にあって謝罪したりする。ホスピスで家族と充分にふれあいの日々を過ごしたり、愛人ともいい関係で別れる。重いテーマを秋元康ならではのトレンディー風に描いている。リアリティはない感じだった。同日、BSで綾瀬はるか版「世界の中心で、愛をさけぶ」を見た。片山恭一の原作とテレビ版とはだいぶん違うようだ。小説では祖父が朔太郎に大きな影響を与える人物として扱われている。朔太郎とアキとの会話にこんなのがある。人の死にも理由があると思う?」「思うわ。わたしはね、いまあるもののなかに、みんなあると思うの」ようやく口を開くと、アキは言葉を選ぶようにして言った。「みんなあって、何も欠けてない。だから足りないものを神様にお願いしたり、あの世とか天国に求める必要はないの。だってみんなあるもんだもの。それを見つけることの方が大切だと思うわ」しばらく間を置いて、「いまここにないものは、死んでからでもやっぱりないと思うの。いまここにあるものだけが、死んでからでもきっとありつづけるんだと思うわ。うまく言えないけど」「ぼくがアキのことを好きだという気持ちは、いまここにあるものだから、死んでからもきっとありつづけるね」ぼくは引き取って言った。「ええ、そう」アキは頷いた。「そのことが言いたかったの。だから悲しんだり、恐れたりすることはないって」
本日は「コーヒーの日」。一杯のコーヒーを傍らにおいて過ごす時間は、私たちの1日の中で、特別に美しい時間といえるのではないだろうか。もともと西洋人は、水以外の非アルコール飲料は知らなかった。では世界で一番最初にコーヒーを飲んだのは誰なのだうか?
コーヒーの発祥地はエチオピアでコーヒーの液汁を飲んだのが始まりですが、実を煎じて飲むことを考えついたのは、5~9世紀のアラビア人だといいます。すくなくとも13世紀頃には、イスラム世界では今日のような焙煎した豆が用いられていたようだ。1554年にはトルコのコンスタンチノープルにコーヒー店が誕生した。16世紀後半に、トルコで愛飲されていたカフヴェ(Kahve)がヨーロッパに伝わったものである。17世紀にはヴェネチアやロンドンに広まった。1650年、オックスフォードに作られた「ジェイコブス」がイギリス最初のコーヒーハウスといわれる。その2年後、アルメニア人バスクァ・ロゼがロンドンに簡素なコーヒー・ハウスを開業して評判をとり、その後続々とコーヒー・ハウスが誕生した。30年後にはロンドン市内だけで、その数3000軒にのぼったといわれる。1763年フランスでドリップ式のコーヒーが考案された。
今日の世界的な用語、コーヒー(coffee)やカフェー(cafe)などはトルコ語から転化したもので、トルコへはアラビア語のカフワ(qahwa)から移されたものである。コーヒーに関する世界最初の記述といわれるものは、12世紀の医者アッ・ラージー(1149-1209)によるもので、彼は胃の薬として、エチオピアに原生するブンの種実から煮出して汁液「ブンカム」を使用していた。豆をいることによって苦味や香りの豊かな飲み物としたのは13世紀中頃から、飲酒の許されないイスラーム教徒のあいだでは、日常生活に欠かせない飲み物として広まったらしい。そしてその頃には、これを「ブンカム」と呼ばず、酒の名の一つを借りて「カフワ」と呼ぶようになった。これがトルコ語の「カフウェ」になり、17世紀のヨーロッパで「カフェ」あるいは「コーヒー」と呼ばれるようになったのである。ルイ14世とナポレオンはコーヒーの愛好家で知られる。イギリスのコーヒーハウスは男性しか入れなかった。やがて女性たちは紅茶を飲むようになり、19世紀中頃からアフタヌーンティーの習慣へと発展する。
日本にコーヒーが伝わったのは、室町時代でキリスト教の布教で渡ってきたポルトガル人やスペイン人が携えてきたと考えられている。より確かな説では、江戸時代の1780年代にオランダ商人が長崎の出島に持ち込んだとされる。コーヒーの味を初めて知った日本人はおそらく幕府のオランダ通詞であろう。コーヒーに、「珈琲」の漢字を最初に当てたのは、儒学者の宇田川榕庵(1798-1846)である。
コーヒーが健康に与える影響については科学者たちが何年にもにわたって研究してきた。飲みすぎるとカフェイン依存症につながる一方、毎日適量飲むと心臓病のリスクが下がるという報告もされている。コーヒーの健康効果についてはいまだ謎が多い。DNA遺伝子が関係しており、からだにいい人と悪い人と、人によって違いがあるらしい。(参考:「サロンとコーヒーハウス」成瀬治『大世界史』13) 10月1日
天下分け目の関ヶ原の合戦は西軍の敗北で終わった。石田三成、小西行長、安国寺恵瓊の3人は、慶長5年のこの日、京都・六条ヶ原で首を斬られた。石田三成の居城は近江の佐和山にあった。五奉行の1人として豊臣方を一身に背負うほどの男の城、さぞかし華麗に築かれているはず、と誰しもが思っていた。ところが、いざ入城してみると案に相違してのお粗末さ、壁は荒壁で上塗りはない。屋内はほとんど板張り、障子や襖には反古紙を張ってある。庭も庭園というほどのこはない。三成は私財を蓄えぬ清貧の士であった。敗れた一族には悲惨な運命がまっている。関ヶ原で敗れた石田三成は六条河原で斬首されたことになっている。秀頼生存説があるが三成にも生存伝説がある。それによると、生きのびて、主従4人で近江を出て、北国街道経由で、会津、米沢と移ろい、最後は秋田の佐竹義宣をたよって落ちのび、その地で僧侶に身を変えて生きのびたというのである。
では三成の子供たちはどうなったのであろうか。一説によると2男5女いたらしい。秀吉の正室・高台院の養女だった3女辰姫(1592-1623)が当時8歳だった。高知の九反田には土佐に逃れて病死した幼い三成の娘の地蔵尊がある。辰姫は津軽藩主に嫁ぎ、3代目信義を産んでいる。4女は山田氏室、5女は岡重政室。石田三成の子孫は生き残っている。とくに津軽信義(1619-1655)には25男、26女の多くの子がいたというから、石田三成の子孫はいまも健在であろう。(10月1日)
1812年6月フランスのナポレオンは約60万という大軍を率いてロシア遠征を行った。モスクワを占領したが、ロシアは講和に応じずロシア遠征は長引くことになり、10月フランス軍は撤退し、ロシア遠征は失敗に終わった。 ナポレオンの侵略戦争はヨーロッパの絶対主義諸国の支配機構を弱体化させ、それらの国々の反封建的勢力を助長することになった。しかしこのこと自体が、多かれ少なかれ近代市民的な発展の方向を内包させた民族的自覚を諸国民のなかに発展させることになり、ナポレオンの支配に対する解放戦争を促進させることになった。たとえばプロイセンの1807年よりのシュタイン・ハルデンベルグの改革、フィヒテの「ドイツ国民に告ぐ」が民族的自覚をうったえたことなどは、このことを示すものである。しかしこうした解放戦争の底辺にあらわれた民族的な動きは、そのままそのまま解放戦争の成果を自己の手におさめるまでにはいたらなかった。結局、事態を主導したのは絶対主義支配を再建しようとする反動であり、正統復古主義である。1814年10月1日からオーストリアのウィーン・シェーンブルーン宮殿で「ウィーン会議」が開かれた。そうそうたる顔ぶれの列国君主や外交使節がナポレオン戦争後の欧州の領土の再分配を決めるための話し合いに集まった。主宰者メッテルニヒは独・仏・英・露・伊など90の王国、53の公国の代表約10万人をウィーンに迎えた。だが各国参加者たちの利害関係が複雑で激しく対立し、締結に至るまでに9カ月もかかった。長くかかった理由は利害対立だけではない。各国の王侯貴族がウィーンに長期滞在したため、欧州の高級娼婦たちも都に殺到し、貴族・高官たちの夜遊びの相手をし、都はバブルのような状況であった。舞踏会や宴会がくりかえされるばかりで、議事はすこしも進まな。。画像はミラノ・リソルジメント博物館が所蔵する有名な絵画である。さて、有名なこの会議の模様は「会議は踊る、されど進まず」と皮肉られたが、この言葉は次の誰の言葉か?
1 メッテルニヒ
2 ド・リーニュ公シャルル・ジョセフ
3 タレーラン
4 カースルレー
正解は2番のオーストリアの将軍、シャルル・ジョゼフ・ド・リーニュ公(1735-1814)である。だが大辞泉には「フランスの代表タレーランが皮肉を込めて言った」とある。シャルル・ジョセフは数カ月後の12月13日に死んでいる。実際、誰が言った言葉なのか決定的な証拠は乏しいようだが、ウィーン会議をつねにリードしたのはターレランであった。「ヨーロッパを1792年より以前の状態に戻す」とする正統主義が採用され、フランスはなんとか領土を守ったのである。(参考文献:「会議は踊る 帝都ウィーン物語 紅の騎士ド・リーニュ候、帝都をわかす」 幅健志 三省堂)
紀元前331年10月1日、ガウガメラの戦いでの話。マケドニアのアレクサンダー大王がペルシア帝国と戦っていた。前方の平原がペルシア軍のかがり火で埋めつくされているのを見て、幕僚の一人パルメニオンが大王に進言した。「大王、夜襲をしかけてはいかがでしょうか」すると大王は答えた。「私は勝利を盗まない」と言った(夜襲などの小手先技で勝とうとはせず、正々堂々と戦う、の意)。実はこのときペルシア軍は罠を張ってマケドニア軍の夜襲を待ち伏せしていたのだ。大王は、翌日の会戦にあたって、ペルシア軍の左翼と中央の間に少し隙間ができたことを見てとると、「突っ込め!」とばかり、騎兵親衛隊の先頭に立って、ダリウス3世めがけて進軍した。大王の中央突破作戦は見事成功し、大勝利だった。(AlexandrosⅢ,Gaugamela)
日 | 月 | 火 | 水 | 木 | 金 | 土 |
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