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2023年10月27日 (金)

韓国映画史 「義理的仇討」から「ソウルの春」まで

  韓国の映画の日は、10月27日。これは韓国映画史上、最初の映画である金陶山監督の作品「義理的仇討」という映画が1919年にソウル鐘路にある映画館・団成社で上映された日を記念して制定された。ほかに代表的な「ハングン・ヨンファ(韓国映画)」を記す。

 

「青春の十字路」 1934年 アン・ジョンファ監督

 

「半島の春」 1941年 イ・ビヨンイル監督

 

「下女」 1960年 キム・ギヨン監督

 

「ロマンスパパ」 1960年 シン・サンオク監督

 

「春香伝」 1961年 ホン・ソンギ監督

 

「誤発弾」 1961年 ユ・ヒョンモク監督

 

「霧」 1967年 キム・スヨン監督

 

「糞礼記」 1971年 ユ・ヒヨンモク監督

 

「星たちの故郷」 1974年 イ・ジャンホ監督

 

「馬鹿たちの行進」 1975年 ハ・ギルチョン監督

 

「森浦への道」 1975年 イ・マニ監督

 

「旅譜」 1978年

 

「風吹く良き日」 1980年

 

「馬鹿宣言」 1983年

 

「赤道の花」 1983年

 

「鯨捕り」 1984年

 

「ディープブルーナイト」 1984年

 

「桑の葉」1985年 イ・ドゥヨン監督

 

「キルソドム」 1985年

 

「黄真伊(ファン・ジニ)」 1986年

 

「シバジ」 1986年

 

「アダダ」 1987年

 

「大人たちは判らない」 1988年 イ・ギュヒョ監督 キム・ヘス

 

「風の丘を越えて 西便制」1993年 イム・グォンテク監督

 

「太白山脈」 1994年 イム・グォンテク監督

 

「八月のクリスマス」  1998年 ホ・ジノ監督

 

「シュリ」 1999年 カン・ジェギュ監督

 

「我が心のオルガン」 1999年 イ・ヨンジェ監督

 

「猟奇的な彼女」 2001年 クァク・ジェヨン監督

 

「永遠の片思い」 2002年 イ・ハン監督

 

「ラブストーリー」 2003年 クァク・ジェヨン監督

 

「シルミド」 2003年 カン・ウソク監督

 

「私の頭の中の消しゴム」 2004年 イ・ジュハン監督

 

「僕の、世界の中心は、君だ」 2005年 チョン・ユンス監督

 

「トンマッコルへようこそ」 2005年 パク・クァンヒョン監督

 

「四月の雪」 2005年 ホ・ジノ監督

 

「グエムル 漢江の怪物」 2006年 ポン・ジュノ監督 

 

「高地戦」 2011年 チャン・フン監督

 

「次の朝は他人」2011年 ホン・サンス監督

 

「建築学概論」 2012年 イ・ヨンジュ監督

 

「王になった男」 2012年 チュ・チャンミン監督

 

「ザ・タワー超高層ビル大火災」 2012年 キム・ジフン監督

 

「FLU運命の36時間」 2013年 キム・ソンス監督 チャン・ヒョク スエ

 

「アトリエの春、昼下りの裸婦」 2014年 チョ・グニョン監督

 

「国際市場で逢いましょう」 2014年 ユン・ジェギュン監督 ファン・ジョンミン ユンホ

 

「インサイダーズ」 2015年 ウ・ミンホ監督 イ・ビョンホン

 

「王の運命」 2015年 イ・ジュンイク監督 ソン・ガンホ

 

「隻眼の虎」 2015年 パク・フンジョン監督 チェ・ミンシク

 

「愛を歌う花」 2016年 パク・フンシク監督 ハン・ヒョズ

 

「男と女」 2016年 イ・ユンギ監督 コン・ユ、チョン・ドヨン

 

「ある闘いの真実」 2017年 チャン・ジュナン監督 キム・ユンソク、ハ・ジョンウ

 

「不汗党 悪い奴らの世界」 2017年 ピョン・ヒョンソン監督 ソル・ギョング

 

「軍艦島」 2017年 リュ・スンワン監督

 

「共犯者たち」 2017年 チェ・スンホ監督

 

「ときめき♡プリンセス婚活記」 2018年 ホン・チャンピョ監督 シム・ウンギョン

 

「ゴールデンスランバー」 2018年 ノ・ドンソク監督 カン・ドンウォン、ハン・ヒョズ

 

「リトル・フォレスト春夏秋冬」 2018年 イム・スルレ監督 キム・テリ

 

「神と共に、罪と罰」 2018年 キム・ヨンファ監督

 

「目撃者」 2018年  チョ・ギュジャン監督 イ・ソンミン

 

「パラサイト 半地下の家族」 2019年 ポン・ジュノ監督 ソン・ガンホ

 

「ソウルの春」 2023年 キム・ソンス監督 ファン・ジョンミン

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2023年10月26日 (木)

伊藤博文暗殺さる

Essay17_1 Anjugun
  川上俊彦(としつね)        安重根

   明治42年10月26日、伊藤博文がハルビン駅で朝鮮の抗日運動家・安重根に暗殺された。伊藤は直ちに列車内のベッドに運ばれた。一杯のブランデーをすすめられ、のみほして若干気を取り直して伊藤は側近に、「誰がやったのか」と聞いた。「朝鮮人です」と答えると、「馬鹿な…」と言いかけて絶命した。撃たれて15分後のことである。安倍晋三が犯人について何も知らないままに死んだことを考えると大きな違いがあった気がする。このとき、伊藤博文の随行員の5人も被弾した。明治・大正の外交官、川上俊彦(1861-1935)もその場に居合わせて被弾した一人である。ここでは彼と関わりのあった3人の男とその死について述べる。1人目は伊藤博文(1841-1909)明治42年10月26日、暗殺される。2人目は乃木希典(1849-1912)大正元年9月13日、自殺。3人目はアドリフ・ヨッフェ(1883-1927)昭和2年11月16日、自殺。

    明治42年10月26日午前9時、伊藤博文はハルビン駅に到着し、待ち受けていたロシアの大蔵大臣ココフツェフと車中で会談した。列車を降りて各国外交団の前を進もうとした時、安重根(1848-1915)の拳銃から発射した6発のうち3発は伊藤に命中し、随行の川上、森、田中、室田、中村らも流れ弾があたった。伊藤博文は午前10時に絶命し、川上俊彦は重傷であった。森槐南はその傷がもとで数ヶ月のち死亡した。

    大正元年9月13日、乃木希典は明治天皇が没すると、妻静子とともに殉死した。川上俊彦は日露戦争の旅順陥落で乃木とステッセルとの水師営での会見のとき、ロシア語通訳をしていた。

    第一次大戦後のシベリア出兵でソ連との基本条約締結に向けた予備交渉を川上は後藤新平から命ぜられた。大正12年2月1日、ソ連のヨッフェが来日した。6月29日から始まった予備交渉はなかなか進まなかった。夏になり、ヨッフェの病状が思わしくなく8月10日に彼は帰国した。川上とヨッフェはその後、二度と会うことはなかった。ヨッフェはその後スターリンの大粛清によって追い込まれて、1927年11月16日、自殺した。

    川上俊彦は水師営の会見、伊藤博文暗殺、ヨッフェ会談など重要事件に遭遇している外交官である。(参考文献:西原民平編「川上俊彦君を憶ふ」昭和11年)

OK牧場の決闘

Okcorral1957    アリゾナ州トゥームストンの町はずれにあるOK牧場。1881年のこの日、末弟ジムを闇討ちにされたワイアット・アープとその弟バージルは、肺病に冒された賭博師ドク・ホリデイの助っ人を得て、クラントン一味と対決した。撃ち合いとなり、クラントン一味5名中3名が射殺される。決闘後、裁判にかれられたがアープらは無罪となった。(10月26日)ganfight at the O.K.Corral,Tombstone

2023年10月22日 (日)

鳴くよウグイス平安京

Student4image1  延暦13年のこの日、桓武天皇は平安京に遷都し、11月8日、新京を「平安京」とする詔を発布した。桓武・嵯峨から延喜の治といわれる10世紀初めごろまでは、律令政治の再建がある程度の効果をあげ、律令国家は動揺しながらもその形態をたもっていた。律令官制の規定にない官職を令外の官という。按察使、勘解由使、蔵人頭、検非違使、押領使など。石山寺に伝わる延喜8年の周防国玖珂郡玖珂郷の戸籍を見るとほとんどが女性ばかりである。女性は律令制では税が軽くなっている。そのためにこのような実際にはあり得ないような女性ばかりの戸籍が作られている。このような嘘の戸籍を偽籍という。このように平安時代中期には律令制が行き詰まってきた。(10月22日)

2023年10月21日 (土)

トラファルガーの海戦

Photo

 

   英仏両国は、1802年にアミアンで和約を結んでいたが、1804年5月にウィリアム・ピットが首相に返り咲き、彼の提唱で第3次対仏大同盟が結成された。一方のフランスも、皇帝ナポレオン1世がスペインと同盟を結んだため、英仏両国の対立は再燃していた。

 

    ナポレオンは、イギリス本土上陸を計画し、フランス・スペイン連合艦隊司令長官のピエール・ヴィルヌーヴ提督にスペインのカディス港からの北上を指令した。この機会をとらえたホレーショ・ネルソン率いる27隻のイギリス地中海艦隊は、1805年10月21日、午前11時ごろから33隻のフランス・スペイン連合艦隊と戦闘を開始した。ネルソンの型破りな戦法と見事な砲撃に、フランス・スペイン連合艦隊は動揺した。

   ところが、午後1時15分ごろ、フランス狙撃兵が撃った弾丸がネルソンの肺を貫いた。瀕死のネルソンは部下の手により船内の治療室に運ばれた。しかし、彼は、3時間ほど生きながらえたものの、午後4時30分ついに息を引き取った。ちょうどそのころ、イギリス海軍の勝利が確定、33隻のフランス・スペイン連合艦隊のうち、残ったのはわずか6隻だけだった。対するイギリス艦隊はすべて無傷でまさに圧勝だった。

    ネルソンの死去により、イギリス国民は意気消沈したものの、トラファルガー海戦での勝利は、イギリスの海軍力をあらためてナポレオンにみせつける結果となる。そして、英本土上陸作戦を撤回させ、のちの大陸封鎖令へとつながっていく。

   翌年、ネルソンの遺体は王族以外では初の国葬で野辺送りされ、セント・ポール寺院に埋葬される。

ネルソンが残した名言の一つ。「私の人生における成功のすべては、どんな場合でも必ず15分前に到着したおかげである」

(Horatio Nelson,Trafalgar)

 

 

2023年10月19日 (木)

ルネサンスの開花と限界

13735   中世末期にめざましく発達したヨーロッパの諸都市には、封建社会の殻を破ろうとする自由な空気があふれ、そのなかから人間精神の全般的な革新をめざす大きな文化運動がおこってきた。これがルネサンスであり、その時期はおよそ14世紀から16世紀にわたっている。ルネサンスはまずイタリアにおこり、やがてアルプスの北方にも広まったが、その新しい文芸や思想を導いた根本精神を人文主義あるいは人間主義と呼んでいる。これは19世紀になって、ひとつの歴史概念として捉えたものであり、あまり拡大して解釈してはいけない。イタリアにおけるルネサンスは各所でブロックされており、統一された全ヨーロッパ的運動ではなく、あくまで地方的なものであった。初期ルネサンスからバロック初期まで、文学、絵画、彫刻、建築、思想・科学などさまざまな分野の代表的なルネサンス人をあげてみよう。

ダンテ・アリギエーリ          1265-1321
ジオット・ディ・ボンドーネ   1266-1337
ピエトロ・ロレンツェッティ   1280-1348
シモーネ・マルティーニ    1284-1344
アンブロ―ジョ・ロレンツェッティ 1290年頃-1348
フランチェスコ・ペトラルカ    1304-1374
ジョヴァンニ・ボッカッチオ  1313-1375
ベネディクトゥス13世     1328-1423
サルヴェストロ・ディ・メディチ ?ー1388
ジョン・ウィクリフ      1330-1384
コルッチョ・サルターティ    1331-1406
ジェフリー・チョーサー        1340-1400
ジレンティーレ・ダ・ファブリアーノ 1360-1427
ジョヴァンニ・デ・ビッチ・デ・メディチ 1360-1429
フィリッポ・ブルネレスキ       1377-1446
ロレンツォ・ギベルティ     1381-1455
ドナテルロ                      1386-1466
コジモ・デ・メディチ     1389-1464
パオロ・ウッチェロ       1397-1475
ロヒール・ファン・デル・ウェイデン 1399-1464
ヨハネス・グーテンベルク     1400-1468
マザッチョ            1401-1429
ニコラウス・クザーヌス      1401-1464
レオン・バレティスタ・アルバルティ 1404-1472
ヤーコププ・フッガー       1407-1469
ピエロ・デッラ・フランチェスカ 1417-1492
ベノッツォ・ゴッツォリ     1421-1497 
フェデリーコ・ダ・モンテフェルトロ 1422-1482
アントニオ・デル・ボッライオーロ 1429-1498
アンドレア・マンテーニャ    1431-1506
アレクサンドル6世      1431-1503
ルイジ・プルチ                    1432-1484
インノケンチウス8世     1432-1492 
マルシリオ・フィチーノ   1433-1499
マッテーオ・マリーア・ボイアルド 1434-1494
サンドロ・ボッティチェリ        1444-1510
ドナト・ブラマンテ              1444-1514
ロレンツォ・デ・メディチ     1449-1492
ドメニコ・ギルランダイオ    1449-1494
ピエロ・ソデリーニ       1450-1522
クリストファー・コロンブス   1451-1506 
レオナルド・ダ・ヴィンチ        1452-1519
ジロラモ・サヴォナローラ    1452-1498
アンジェロ・ポリツィアーノ     1454-1494
ヨハネス・ロイヒリン              1455-1522
ヴィットーレ・カルパッチョ    1455-1525
ヤーコボ・サンナザーロ    1456-1530
フィリッピーノ・リッピ      1457-1504
ヤーコプ・フッガー       1459-1525 
エアハルト・エッツラウプ    1460-1532 
ジョヴァンニ・ピコ・デラ・ミランドラ 1463-1494
アレッサンドロ・アキリーニ  1463-1512 
ハンス・ホルバイン       1465-1524
クエンティン・マサイス      1465-1530 
ヤコポ・リパンダ         ?-1516
ニッコロ・マキァヴェリ          1469-1527
デジデリウス・エラスムス    1469-1536
ニコラウス・コペルニクス     1473-1543
ルドヴィーコ・アリオスト    1474-1553
チェーザレ・ボルジア      1475-1507
ミケランジェロ・ブオナローティ 1475-1564
ジョルジョーネ          1477-1510
バルダッサーレ・カスティリオーネ 1478-1529
ソドマ              1477-1549
トマス・モア            1478-1535
クレメンス7世          1479-1538
ルクレツィア・ボルジア     1480-1519
ラファエロ・サンティ           1483-1520 
フランチェスコ・グイチャルディーニ 1483-1540
ジョバンニ・ダ・ヴェラッツァーノ 1485-1528
エルナン・コルテス       1485-1547
アンドレア・デル・サルト    1486-1530
ユリウス3世(ローマ教皇)   1487-1555
ティツィアーノ・ヴェチェッリオ 1488-1576 
マルグリット・ド・ナヴァル   1492-1549
パラケルスス          1493-1541
ベルナルド・タッソ       1493-1569 
フランソワ・ラブレー         1494-1553
アンブロシウス・ホルバイン  1494-1519
ハンス・ホルバイン(子)    1494-1519
フランソワ1世         1494-1547
フィリップ・メランヒトン   1497-1560
ジョヴァンニ・デッレ・バンデ・ネーレ 1498-1526
マルティン・ファン・ヘームスケルク 1498-1574
ピウス4世(ローマ教皇)   1499-1565
ニコロ・フォンタナ・タルタリア 1499-1557
ルッツァンテ           1500-1542
ジェロラモ・カルダ―ノ    1501-1576
グレゴリウス13世       1502-1585
アントン・フランチェスコ・グラッツィーニ 1503-1584
ピウス5世(ローマ教皇)         1504-1572
トマス・タリス        1505-1585
アンドレーア・パッラーディオ 1508-1580 
イッポリート・デステ       1509-1572
ヤコポ・バッサーノ        1510-1592
ジョルジョ・ヴァザーリ      1511-1574
ゲラルドゥス・メルカトル    1512-1574
アンドレアス・ヴェサリウス   1514-1564 
コジモ1世           1519-1574
カトリーヌ・ド・メディシス   1519-1589 
ウリッセ・アルドロヴァンディ  1522-1605
ピエール・ド・ロンサール   1524-1585 
ピーテル・ブリューゲル        1528-1569
パオロ・ヴェロネーゼ      1528-1588
ミジエル・ド・モンテーニュ     1533-1592
ルーカス・ヴァン・ヴァルケンボルク 1535-1597
アレッサンドロ・ヴァリニャーノ  1537-1606
トルクァート・タッソ        1544-1595
ティコ・ブラ―エ         1546-1601
ミゲル・デ・セルバンテス・サアベドラ 1547-1616
ジョルダーノ・ブルーノ     1548-1600 
ルドヴィコ・カラッチ        1555-1619
アゴスティーノ・カラッチ     1557-1602
アンニーバレ・カラッチ      1560-1609 
フランシスコ・ベーコン      1561-1626
ヤン・ピーテルスゾーン・スウェーリンク 1562-1621
ウィリアム・シェークスピア     1564-1616
ガリレオ・ガリレイ                1564-1642
トマソ・カンパネッラ       1568-1639
ヨハネス・ケプラー          1571-1630
マリード・メディシス      1573-1642 
フーゴー・グロティウス     1583-1645
ヤン・アーモス・コメニウス   1592-1670
二コラ・プッサン                   1594-1665 
ガブリエル・ノーデ        1600-1653

 

 

鳥取罹災史

Tensai_img3鳥取大地震Tensai_img4鳥取大地震 2009033020050930162550_ph_0鳥取大火

 

   鳥取はむかしから災害の多い都市で、明治18年、大正7年、12年には大水害に見舞われ、また昭和18年には、鳥取大震災が発生し、市内の建物の7割以上が全半壊し、甚大な被害があった。そして昭和27年、戦後最大といわれた鳥取大火があった。市内中心部で発生した火事は5228戸を焼失、市内の3分の2を焼き尽くした。いまから40年前、昭和46年10月19日、栄町の商店街190店が全焼している。

「ま」 ファースト・ネームから引く人名一覧

011231413   「マリー・アントワネット」1793年にギロチンで処刑された。民衆が貧困と食糧難に陥った際、「パンがなければお菓子(ブリオッシュ)を食べればいいじゃない」などの発言は、彼女を妬んだ貴族たちの作り話で、彼女自身は豪華な暮らしよりもルソーの思想の影響で質素を好み、飢饉の際に宮廷費を削って寄付するなど、国民を大事に思う心優しい人物であったといわれる。 ▽「マーカス・ガーウェイ」北アメリカで黒人の権利を主張した先駆者で、ジャマイカの国民的英雄。公民権運動にも影響を与えた。▽「マクベス」スコットランド王。1005-1057。シェークスピアの戯曲でその名が知られる。▽「マリアンヌ・クルゾー」1908-2007。フランスの画家。京都に記念館がある。▽「マルコス・ペレス・ヒメネス」1914-2001。ベネズエラの大統領。▽「マルセル・グロメール」1892-1971。フォービスムやキュビズムの手法で、社会的な主題で作品を描いた。▽「マルティノ・テルティニ」1614-1661。オーストリアのヤソ会宣教師。明清時代に各地を旅行し、欧州最初の中国地図「支那新図」を著した。

マイク・タイソン
マイク・ニコルズ
マイク・ペンス
マイク・ポンペイオ
マイケル・アージル
マイケル・カーティス
マイケル・キートン
マイケル・クライトン
マイケル・J・フォックス
マイケル・ジョーダン
マイケル・ファラディー
マイケル・フェルプス
マイケル・ランドン
マイケル・リチャード・ペンス
マイケル・ロンズデール
マイルス・ディヴィス
マウリ・ウコンマーンアホ
マウリッツ・コルネリス・エッシャー
マーカス・ガーヴェイ
マーガレット・アトウッド
マーガレット・オブ・アンジュー
マーガレット・オブライエン
マーガレット・サッチャー
マーガレット・ボラディル
マーガレット・マロン
マキシミリアノ・コルベ
マーク・トウェイン
マーク・ハミル
マーク・ハーモン
マーク・レスター
マクシミヌス・トラクス
マクシミリアン・ロベスピエール
マクベス
マグネンティウス(ローマ皇帝)
マーゴット・キダ―
マーゴット・フォンテーン
マコーレー・カルキン
マザー・テレサ
マーサ・スコット
マザッチョ
マーシャ・ダヴェンポート
マーシャル・ニーレンバーグ
マーシャル・マクルーハン
マシュー・アーノルド
マシュー・カルブレイス・ペリー
マシュー・バンカー・リッジウェイ
マシュー・マコノヒー
マージョリー・キナン・ローリングス
マックス・アドラー
マックス・ヴェーバー
マックス・エルンスト
マックス・フォン・シドー
マックス・ブランク
マックス・ペヒシュタイン
マッケンジー・フォイ
マッテーオ・マリーア・ボイアルド
マット・ビオンディ
マット・デイモン
マット・ディロン
マティアス・エルツベルガー
マティアス・フラキウス・イリリクス
マティアス・グリューネヴァルト
マティアス・ヤーコプ・シュライデン
マテオ・リッチ
マーティン・ヴァン・ビューレン
マーティン・ウィクラマシンハ
マーティン・ハンドフォード
マーティン・ルーサー・キング・ジュニア
マデリーン・オルブライト
マデリーン・シャーウッド
マドンナ
マーナ・ロイ
マニュエル・ルイス・ケソン
マヌエル・デオドロ・ダ・フォンセカ
マヌエル・ノリエガ
マハティール・ビン・モハマド
マララ・ユスフザイ
マラン・メルセンヌ
マリー・ジョゼフ・ド・ラファイエット
マリー・ジラン
マリー・タッソー
マリー・ド・メディシス
マリー・フランソワ・サディ・カルノー
マリー・ローランサン
マリア・ウォルポール
マリア・シャラポワ
マリア・テレジア
マリア・モンテッソーリ
マリアーノ・ラボイ・ブレイ
マリアンヌ・クルゾー
マリオ・モリーナ
マリサ・トメイ
マリーズ・コンデ
マリタ・アルゲリッチ
マリーヌ・ヴァクト
マリリン・ハセット
マリリン・モンロー
マール・オベロン
マルカントーニオ・ライモンディ
マルキ・ド・サド
マルク・シャガール
マルクス・ウィブサニウス・アグリッパ
マルクス・オッペリウス・アントニヌス・ディアドゥメニアヌス
マルクス・ガブリエル
マルクス・トゥッリウス・キケロ
マルクス・ユニウス・プルートゥス
マルグリット・デュラス
マルグリット・ユルスナ―ル
マルグレーテ1世
マルゲリータ・ディ・サヴォイア・ジェノヴァ
マルコ・ビュッヘル
マルコ・ポーロ
マルコス・ペレス・ヒメネス
マルコムX
マルシリオ・フィチーノ
マルセル・カミュ
マルセル・グロメール
マルセル・デュシャン
マルセル・マルソー
マルタ・アルゲリッチ
マルチェロ・マストロヤンニ
マルチェロ・マルピーギ
マルチナ・ヒンギス
マルティーヌ・キャロル
マルティノ・マルティニ
マルティン・ハイデッガー
マルティン・ファン・ヘームスケルク
マルティン・ブツァー
マルティン・ボルマン
マルティン・ルター
マレーネ・ディートリッヒ
マーロン・ブランド
マン・レイ
マンフレッド・ベニントン・リー
マンフレート・フォン・リヒトフォーフェン

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  マーサ・スコットは「十戒」ではモーセの産みの母、「ベンハー」でもヘストンの母親役。50年にわたる芸能歴で出演作品も多い。

2023年10月18日 (水)

ポンペイの売春宿

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    BS歴史館「古代都市ポンペイの真実~新発見54体の人骨の謎」。西暦79年8月24日正午過ぎに起こったヴィスビィオ山の噴火で人口1万人の町は火山灰に埋まった。1748年にポンペイが発掘されて、古代遺物研究者は驚愕した。そこには、建物、街路などがそっくりそのままの形で発見されたのである。番組では「人類が最も幸福だった時代」といわれる繁栄ぶりを再現している。奴隷が家庭教師、名告げ奴隷、演奏奴隷などさまざまな専業職に就いていた。やがて解放奴隷のなかには資産家も現れる。今日われわれがイメージする奴隷とは大きく異なる。「狩りをし、風呂に入り、ゲームをして笑う。それが人生だ」という快楽主義で番組を結んでいる。ここでは番組ではふれられなかったもうひとつのポンペイについて述べる。ポンペイ観光の人気スポットの一つが売春宿である。「ルパナレス」(もとは雌オオカミを意味する、売春婦をさす俗語「ルパ」に由来する)と呼ばれた売春宿は25ヶ所もあり、壁に淫らな絵が残っている。ポンペイの住人たちが町の守護神に選んだのは、肉欲の神プリアポスで、町のいたるところに大きな男根をもつプリアポスの像が発見されている。売春婦はれっきとした職業として認められていたようだ。(Pompei)

 

 

テキサスの田舎町パリ

Img_272407_5603995_0  三重県に鳥取という地名がある(三重県員弁郡東員町鳥取)。ローカル路線バス乗り継ぎの旅Zで知った。カナダのオンタリオ州にはロンドンという名の都市がある。またアメリカにはボストン、プリマス、ポーツマスといったイギリスと同名の都市がある。移民の国アメリカには、移民たちがそれぞれの故郷の名前をそのまんま付けた都市がある。アメリカのテキサス州にはパリという町がある。ヴィム・ヴェンダース監督の映画「パリ、テキサス」(1984)で世界的に知られるようになった。だが名前の由来は知らない。なにもない田舎町で16分の1のエッフェル塔をまねた鉄塔の、一番上にテンガロン・ハットが飾られている。(Paris,Dallas)

 

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ダラスの北東に位置する

 

 

ご冥福お祈り申し上げます

  「人生100年時代」というけれど、新聞の訃報記事に載る著名人で100歳を超えた人は数えるほどしかいない。人の命の短さを感ずるとともに、昭和にご活躍された方が次々と亡くなっていくのはとても寂しい。

 

1月

5日、米俳優アール・ボーエンさんがハワイで死去した。81歳。「ターミネーター」や「9時から5時まで」等ヒット映画に多数出演した。▽10日、前ギリシャ国王のコンスタンティノス2世がアテネで死去した。82歳。▽10日、イギリスのロックギタリスト、ジェフ・ベックさんが死去した。78歳。「恋はみずいろ」「レッド・ブーツ」など。▽12日、米国歌手のリサ・マリー・プレスリーさんが死去した。54歳。エルヴィス・プレスリーの娘、女優ライリー・キーオの母。▽11日、ミュージシャンの高橋幸宏さんが誤嚥性肺炎により死去した。70歳。80年代にテクノブームを巻き起こしたYMOのメンバーで日本を代表するドラマー。代表曲「ライディーン」。▽11日、作家の鏑木蓮さんが死去した。61歳。「東京ダモイ」で江戸川乱歩賞を受賞した。「白砂」「残心」など。▽12日、作家で精神科医の加賀乙彦さんが老衰で死去した。93歳。「フランドルの冬」「宣告」「帰らざる夏」。▽13日、英俳優ジュリアン・サンズさんが登山中に行方不明となの、およそ5カ月後、遺体が発見された。65歳。代表作「眺めのいい部屋」「ワーロック」「キリングフィールド」など。▽15日、俳優の三谷昇さん死去した。90歳。片目の特異な風貌で脇役が多い。「軍旗はためく下に」「ミンボーの女」など。▽16日、伊俳優ジーナ・ロロブリジーダさんが死去した。95歳。「パンと恋と夢」「ノートルダムのせむし男」「花咲ける騎士道」「夜ごとの美女」などに出演。「世界一美しい女性」とも呼ばれた。▽19日、地球物理学者の上田誠也さんが老衰のため死去した。93歳。「弧状列島」「新しい地球観」。▽23日、元プロ野球選手、門田博光さんが死亡した。74歳。現役通算567本塁打、1678打点はNPB歴代3位。▽24日、ザ・リリーズの妹、燕真由美さんが死去した。62歳。1975年に姉・奈緒美とともに「水色のときめき」でデビュー、2作目の「好きよキャプテン」がヒットした。▽27日、作家の永井路子さんが死去した。97歳。日本の古代、中世の歴史小説で知られる。「炎環」「氷輪」「北条政子」。▽29日、元官僚の石原信雄さんが死去した。96歳。歴代最多7内閣7年3ヶ月、官房副長官を務めた。▽29日、元プロ野球選手、岡村浩二さんが死去した。82歳。阪急で捕手として活躍した。▽29日、米女優のアニー・ワーシングさんが死去した。45歳。ドラマ「24」「タイムレス」「スタートレック:ピカード」など数々の作品に出演。俳優のスティーブン・フルは夫。▽31日、米国歌手のチャーリー・トーマスさんが死去。85歳。元ドリフターズのメンバーの一人。

2月

3日、デザイナーのパコ・ラバンヌさんがフランス・ブルターニュ地方の自宅で死去した。88歳。1934年、スペイン北部バスク地方で生まれ、フランスへ移住する。アルミニウム製のドレスなど革新的なデザインで知られた。▽3日、経済学者の水田洋さんが死去した、103歳。日本における社会思想史研究の第一人者で、特にアダム・スミスの研究で知られる。「社会思想史」(有斐閣)。▽5日、歌手の大城光恵さんが死去した。57歳。「以心伝心しよう」。▽5日、人形作家の辻村寿三郎さんが死去した。89歳。NHKテレビ人形劇「新八犬伝」「真田十勇士」など。▽7日、政治評論家・森田実さんが死去した。90歳。▽7日、将棋の中田宏樹八段が死去した。58歳。居飛車党で「デビル中田」の愛称で親しまれた。▽8日、イタリアの女子アルペンスキー選手エレナ・ファンキーさんが死去した。37歳。▽9日、作曲家バート・バカラックさんが死去した。94歳。「小さな願い」「雨にぬれても」「サン・ホセへの道」など世界的ヒット曲を記録した。▽10日、英映画監督のヒュー・ハドソンさんが死去した。86歳。「炎のランナー」で知られるが寡作。ほかにアル・パチーノ主演の「レボリューション」など。▽10日、元プロ野球投手入来智さんが交通事故で死亡した。55歳。巨人、ヤクルトなどで活躍した。▽10日、旧東ドイツのハンス・モロドウ元首相が死去した。95歳。ベルリンの壁崩壊から4日後に首相に選出され、1990年4月までの在任中、東独の体制維持に努めた。▽13日、漫画家の松本零士さんが死去した。85歳。「宇宙戦艦ヤマト」「銀河鉄道777」などで知られた。▽14日、トヨタ自動車名誉会長の豊田章一郎さんが死去した。97歳。1982年、米ケンタッキー州にトヨタ初の米国自動車工場を建設した。▽14日、元モデルの伊東絹子さんが死去した。90歳。53年にミス日本となり、ミスユニバース世界大会で3位に輝いた。「8頭身美人」という言葉が流行した。▽15日、米俳優ラクエル・ウェルチさんが死去した。82歳。「恐竜100万年」で世界のセックスシンボルとなった。▽17日、米女優ステラ・スティーブンスさんが死去した。84歳。「底抜け大学教授」「ポセイドン・アドベンチャー」。▽16日、歌手の黒崎真音さんが死去した。「薄桜鬼」「ケリザイアの果実」などの音楽を担当した。▽19日、米俳優リチャード・ベルザーさんがフランス・ボズールの自宅で死去した。78歳。犯罪ドラマの刑事役を長年にわたって演じた。▽20日、映画評論家の山根貞男さんが胃がんのため死去した。83歳。「日本映画作品大事典」。▽22日、落語家の笑福亭笑瓶さんが死去した。66歳。▽24日、元毎日新聞記者、西山太吉さんが死去した。91歳。沖縄返還密約をスクープした。のち有罪となる。山崎豊子の小説「運命の人」に描かれる。▽24日、米国映画プロデューサー、ウォルター・ミリッシュさんが死去した。101歳。自然死という。「ウエスト・サイド物語」「大脱走」「夜の大捜査線」など数々のヒット作を手掛けた。▽27日、元警視庁の四方修(しかたおさむ)さんが死去した。92歳。グリコ・森永事件、豊田商事事件などの捜査を指揮した。

3月
2日、幸福の科学総裁の大川隆法さんが死去した。66歳。▽米サックス奏者、ウェイン・ショーターさんが死去した。89歳。マイルス・デイビスさんらのバンドで活躍した。▽2日、建築家のラファエル・ビニオリさんが死去した。78歳。東京国際フォーラムは斬新な作品として高く評価されている。▽3日、米俳優のトム・サイズモアさんが死去した。61歳。「プライベート・ライアン」「ブラックホーク・ダウン」などヒット映画に多数出演した。▽3日、作家の大江健三郎さんが死去した。88歳。「飼育」で芥川賞を受賞、1994年にノーベル文学賞を受賞した。▽6日、漫画家の秋竜山さんが死去。80歳。「ギャグおじさん」「ノッホホン氏」。▽8日、イスラエルの俳優ハイム・トボルさんが死去した。87歳。「フォロー・ミー」、ミュージカル映画「屋根の上のバイオリン弾き」のテビエ役で知られた。▽9日、米俳優ロバート・ブレイクさんが死去した。89歳。「冷血」「夕陽に向かって走れ」、テレビ「刑事バレッタ」。▽9日、扇千景さんが死去した。89歳。宝塚歌劇団出身で女優を経て、1977年に参議院議員に初当選し、5期務めた。▽9日、水泳の橋爪四郎さんが死去した。94歳。ヘルシンキ五輪1500m自由形で2位となった。▽9日、菅原初代さんが死去した。58歳。テレビのバラエティ番組に出演し、大食いの女王「魔女菅原」として知られた。▽仏文学者の菅野昭正さんが死去した。93歳。「狭き門」「谷間のゆり」「ボヴァリー夫人」などフランス文学を多数翻訳した。▽12日、女優の津山登志子さんが、マレーシアの病院で死亡していることが分かった。69歳。「気になる嫁さん」「刑事くん」など人気ドラマに多数出演した。▽12日、野球選手のロベルト・バルボンさんが西宮で死去した。89歳。阪急ブレーブスの内野手として活躍した。▽13日、俳人の黒田杏子さんが死去した。84歳。句集「木の椅子」「一木一草」「日光月光」。▽16日、精神科医師の小阪憲司さんが死去した。83歳。レビー小体型認知症を発見した。▽17日、米俳優ランス・レディクさんが死去。60歳。映画「ジョン・ウィック」シリーズなど。▽22日、俳優の団時朗さんが肺癌のため死去した。74歳。「帰ってきたウルトラマン」の郷秀樹役で知られる。▽女優の奈良岡朋子さんが死去した。93歳。劇団民芸の中心として活躍した。▽24日、アメリカの実業家ゴードン・ムーアさんがハワイの自宅で死去した。94歳。半導体メーカーであるインテルの共同創業者の一人。▽26日、米俳優ロン・フェイバーさんが肺癌で死去した。90歳。1973年のホラー映画「エクソシスト」のチャック役で知られた。▽28日、音楽家の坂本龍一さんが癌で死去した。71歳。テクノポップバンド「YMO」の活動や映画音楽「戦場のメリークリスマス」「ラストエンペラー」などで世界的に広く親しまれた。

4月
2日、米女優のジュディ・ファレルさんが脳卒中で死去した。84歳。テレビシリーズ「マッシュ」で活躍した。▽5日、作家の畑正憲さんが心筋梗塞のため死去した。87歳。1972年に北海道でムツゴロウ動物王国を作った。▽5日、評論家の海野弘さんが死去した。83歳。「パリの手帖」ほか著作多数。▽6日、演出家の生野慈朗さんが死去した。73歳。TBSドラマ「3年B組金八先生」「男女7人夏物語」などを演出し、ヒットさせた。▽6日、作家・詩人の冨岡多恵子さんが死去した。87歳。「波うつ土地」「植物祭」「ひべるにあ島紀行」。▽9日、米俳優マイケル・ラーナーさんが死去した。81歳。映画「候補者ビル・マッケイ」「アウトローブルース」「バートン・フィンク」などに出演。▽11日、韓国の女優チョン・チェユルさんが死去した。26歳。映画「ディープ」に出演。▽12日、脚本家の竹山洋さんが死去した。76歳。映画「四十七人の刺客」「ホタル」や大河ドラマ「秀吉」「利家とまつ」などを手がけた。▽13日、英国ファション・デザイナーのマリー・クワントさんが死去した。93歳。ミニスカートを世界に広めたことで知られる。▽14日、英国の名優マーレイ・メルヴィンさんが死去した。80歳。映画「蜜の味」「アレフィー」「バリー・リンドン」「オペラ座の怪人」などに出演した。▽15日、歌舞伎俳優の市川左団次さんが死去した。82歳。▽16日、米国のジャズ・ピアニストのアーマッド・シャマルさんが死去した。92歳。1958年に「バット・ノット・フォー・ミー」を発表した。▽19日、韓国のアイドルグループ「アストロ」のメンバー、ムンビンさんが死去した。25歳。▽22日、オーストラリアのコメディアン、バリー・ハンフリーズさんが死去した。89歳。1955年頃からドラマで「デイム・エドナ・エバレッジ」と名乗る主婦を演じ、豪州だけでなく、英国でも人気を集めた。▽25日、米歌手、ハリー・ペラフォンテさんがニューヨーク・マンハッタンで死去した。96歳。1956年「バナナ・ボート」が大ヒットし、日本でもカリプソブームが起こった。映画にも出演、「拳銃の報酬」など。

5月
1日、米女優アイリーン・サキさんがロサンゼルスで死去した。79歳。医療ドラマ「マッシュ」でロージー役を演じた。▽3日、英歌手のリンダ・ルイスさんが死去した。72歳。「イッツ・イン・ヒズ・キス」がヒットした。▽5日、フランスの小説家フィリップ・ソレルスさんが死去した。86歳。「奇妙な孤独」「公園」などの作品でヌーボー・ロマンの旗手と見なされた。▽9日、バレーボールの元日本男子代表の横田忠義さんが死去した。75歳。72年のミュンヘン五輪金メダル獲得に貢献した。▽11日、元野球選手の中西太さんが死去した。90歳。本塁打王5回獲得するなど希代のスラッガーで西鉄ライオンズの黄金期を支えた。▽11日、アメリカの映画監督ケネス・アンガーさんが死去した。96歳。「花火」「スコルピオン・ライジング」など前衛的な作風でクリエイターに大きな影響を与えた。またハリウッド黄金期の闇の歴史を暴いた「ハリウッドバビロン」の著者としても知られる。▽11日、米俳優バリー・ニューマンさんが死去した。92歳。カーチェイス・アクション「バニシング・ポイント」はニューシネマの代表的1本。▽14日、元野球選手の毒島章一さんが死去した。87歳。東映フライヤーズの俊足・強打の外野手として活躍した。▽17日、漫才師の春日三球さんが死去した。89歳。「地下鉄の電車はどこから入れたんでしょうね」のネタで一世を風靡した。▽18日、オーストリア人俳優ヘルムート・バーガーさんが死去した。78歳。「地獄に堕ちた勇者ども」や「ルードウィヒ 神々の黄昏」などルキノ・ヴィスコンティ監督作品で知られた。▽18日、ジム・ブラウンさんがロサンゼルスの自宅で死去した。アメリカン・フットボール選手として活躍した後、引退後は「特攻大作戦」などアクション映画に多数出演した。▽19日、英作家マーティン・エイミスさんが死去した。73歳。「時の矢 あるいは罪の性質」「イエロー・ドッグ」。▽19日、上岡龍太郎さんが死去した。81歳。漫才「漫画トリオ」で売り出し、後にテレビ・ラジオで活躍。58歳のとき芸能界を引退した。▽21日、米俳優ルー・パルターさんが死去した。94歳。「タイタニック」で妻を抱きしめて死んでいく名シーンを演じた。▽21日、英俳優レイ・スティーブンソンさんが死去した。58歳。映画「マイティ・ソー」「RRR」に出演。▽22日、ロックバンド・BAADのドラム・新井康徳さんが死去した。55歳。BAADは1993年「君が好きだと叫びたい」が大ヒットした。▽23日、米歌手のティナー・ターナーさんが死去した。83歳。代表曲「愛の魔力」、「ロックの女王」と呼ばれる。▽30日、元プロ野球の植村義信さんが死去した。88歳。夏の甲子園で優勝。毎日・大毎オリオンズで投手として活躍。日本ハムの監督を務めた。

6月
1日、独俳優のマルギット・カルステンセンが死去した。83歳。ファスビンダー監督の「ペトラ・フォン・カントの苦い涙」「悪魔のやから」などに出演した。▽3日、元陸上選手ジム・ハインズさんが死去した。76歳。1968年、メキシコ五輪で100メートル決勝で史上初の9秒台を記録した。▽5日、ブラジル出身の歌手アストラッド・ジルベルトさんが死去した。83歳。1964年に「イパネマの娘」が大ヒットし、「ボサノバの女王」と呼ばれた。▽10日、作家の平岩弓枝さんが死去した。91歳。「御宿かわせみ」「鏨師」。ドラマ「肝っ玉かあさん」「ありがとう」など脚本も手がけた。▽11日、元自民党参院議員の青木幹雄さんが死去した。89歳。小泉・安倍両政権を支えた。▽11日、映画監督の中島貞夫さんが死去した。88歳。東映京都のエースとして多彩な娯楽作品を残した。代表作「日本の首領(ドン)」など。▽12日、イタリアの元首相シルビオ・ベルスコーニさんが死去した。86歳。▽12日、米俳優トリート・ウィリアムズさんがバイク事故で死去した。71歳。「ザ・グリード」「ヘアー」「1941」など出演作が多数。▽12日、元野球選手杉下茂さんが死去した。97歳。中日で投手として活躍し、「フォークボールの神様」と呼ばれた。▽13日、米小説家コーマック・マッカーシーさんが死去した。89歳。「血と暴力の国」「ザ・ロード」などが映画化された。▽15日、英女優グレンダ・ジャクソンさんが死去した。87歳。「恋する女たち」と「ウィークエンド・ラブ」でアカデミー主演女優賞を受賞した。▽16日、元野球選手北別府学さんが死去した。65歳。広島カープの黄金期を支えた名投手だった。▽16日、元米国防総省職員のダニエル・エルズパーグさんが死去した。92歳。ベトナム戦争を巡る秘密文書を暴露したことで知られる。▽18日、米国のラップ歌手ビッグ・ポーキーさんが死去した。45歳。ステージで歌唱中にマイクを握ったまま倒れた。▽21日、京都大原の古民家に移り住みテレビなど知られたベニシア・スタンリー・スミスさんが死去した。72歳。▽22日、洋画家の野見山暁治さんが心不全のため死去した。102歳。1997年、戦没画学生慰霊美術館「無言館」を開館した。▽23日、米俳優フレデリック・フォレストさんがカリフォルニア州サンタモニカの自宅で死去した。88歳。コッポラ監督の「地獄の黙示録」のシェフ役で知られる。▽26日、落語家の古今亭八朝さんが、老衰のため死去した。71歳。▽29日、米俳優のアラン・アーキンさんが死去した。89歳。「アメリカ上陸作戦」「愛すれど心さびしく」「クルゾー警部」。オードリー・ヘップバーンの「暗くなるまで待って」の悪役が印象的だった。

7月
1日、漫画家の九里一平さんが死去した。83歳。「大空のちかい」「海底人8823」「アラーの使者」。アニメでは「マッハGoGoGo」「宇宙エース」。11日、チェコの作家ミラン・クンデラさんがパリで死去した。94歳。84年に発表された「存在の耐えられない軽さ」は世界的ベストセラーとなった。▽12日、タレントのryuchellさんが死亡した。27歳。▽12日、指揮者・作曲家の外山雄三さんが死去した。92歳。▽13日、チャップリンの次女で女優のジョゼフィン・チャップリンさんがパリの自宅で死去した。74歳。「ライムライト」「カンタベリー物語」など。▽15日、作家の高史明さんが死去した。91歳。「生きることの意味」などで知られた。▽16日、ジェーン・バーキンさんがパリの自宅で死去した。76歳。歌手・女優、そしてファッション・アイコンとして世界的に知られた。▽18日、俳優の鈴鹿景子さんが死去した。67歳。昭和51年の朝ドラ「火の国に」でデビューした。▽21日、米の歌手、トニー・ベネットさんが死去した。92歳。「霧のサンフランシスコ」。▽21日、僧侶で教育評論家の無着成恭さんが死去した。96歳。昭和26年、文集「山びこ学校」がベストセラーとなる。▽21日、宝塚歌劇団トップスターの那智わたるさんが死去した。86歳。「カチューシャ物語」「シャングリラ」などに出演、熱狂的な人気を集めた。▽24日、作家の森村誠一さんが死去した。90歳。「高層の死角」「人間の証明」「野性の証明」など。▽26日、アイルランド出身の歌手シネイド・オコナ―さんが死去した。56歳。1990年に発表した「愛の哀しみ」がアメリカやイギリスのチャートで1位となり、世界的な名声を得た。▽30日、米俳優ポール・ルーベンスさんが死去した。70歳。赤いちょうネクタイの「ピーウィ・ハーマン」で知られた。▽31日、米俳優アンガス・クラウドさんが死去した。25歳。ドラマ「ユーフォリア」に出演。▽31日、料理研究家の奥村彪夫さんが死去した。85歳。NHKの番組「きょうの料理」に出演し、人気を集めた。

8月
3日、米俳優マーク・マーゴリスさんが死去した。83歳。大人気テレビシリーズ「ブレイキング・バッド」などで活躍した。▽3日、イギリスの作曲家カール・ディヴィスさんが死去した。86歳。「フランス軍中尉の女」「チャンピオンズ」「レインボウ」など多くの映画音楽の作曲を手がける。▽4日、初代フラカールの小野恵美子さんがいわき市の老人福祉施設で死去した。79歳。映画「フラガール」のモデルとなった。▽7日、米映画監督のウィリアム・フリードキンさんが死去した。87歳。「フレンチ・コネクション」「エクソシスト」など。▽8日、米歌手のシクスト・ロドリゲスさんが死去した。81歳。「シュガーマン」が大ヒットした。▽10日、吉本新喜劇の桑原和男さんが老衰のため死去した。87歳。▽母親役やおばあさん役が記憶に残る。▽12日、奇術師の松旭斎すみえさんが死去した。85歳。ポール・モーリアの「オリーブの首飾り」をBGMに使ったことで知られる。▽14日、イタリアの社会学者フランシスコ・アルベロ―ニさんが死去した。93歳。「他人をほめる人、けなす人」は日本でもベストセラーになった。▽16日、イタリアのソプラノ歌手レナータ・スコットさんが死去した。89歳。20世紀を代表するソプラノ歌手として世界に知られた。▽22日、漫才師おかゆうたさんが脳内出血のため大阪市内で死去した。61歳。

9月
1日、米歌手ジミー・バフェットさんが死去した。76歳。最大のヒット曲となった「魅惑のマルガリ―タヴィル」は1977年にリリースされたもの。▽13日、二代目市川猿翁さんが死去した。83歳。「ヤマトタケル」「オグリ」スーパー歌舞伎で人気を集めた。▽15日、ふくよかな女性の絵画や彫刻で知られるコロンビアのアーティスト、フェルナンド・ボテロさんがモナコで死去した。91歳。▽19日、歌手の棚橋静雄さんが死去した。85歳。ムード歌謡のグループ「ロス・インディオス」のリーダーで「別れても好きな人」が大ヒットした。▽20日、パントマイムのヨネヤマママコさんが死去。88歳。代表作は「新宿駅・ラッシュアワーのタンゴ」「月に憑かれたピエロ」など。▽22日、ダークダックスの遠山一さんが死去した。93歳。愛称は「ゾウさん」でメンバー全員がこの世を去った。代表曲に「雪山讃歌」「カチューシャ」「トロイカ」「山男の歌」「すずらん」。▽22日、社会学者の加藤秀俊さんが死去した。93歳。著書に「整理学」「取材学」など。▽25日、英俳優デヴィッド・マッカラムさんが死去した。90歳。0011ナポレオン・ソロのイリヤ・クリヤキン役やNCISのダッキー役で人気を博す。女優ジル・アイアランドとも元夫婦だった。

10月
6日、アイデア市長として知られた政治家、岩國哲人さんがシカゴで死去した。87歳。衆議院議員、島根県市長。▽8日、歌手の谷村新司さんが死去した。74歳。73年に堀内孝雄、矢沢透の3人でアリスとしてデビュー、「冬の稲妻」「チャンピオン」などヒット曲を連発した。ソロで「昴」は大ヒットした。▽14日、元野球選手の中利夫さんが死去した。87歳。中日で活躍し、67年には首位打者に輝いた。▽14日、コメディアンの財津一郎が死去した。89歳。「てなもんや三度笠」で人気者となり「キビシーッ!」が流行語になった。

11月
3日、元大関の朝潮さんが死去した。67歳。▽6日、作詞家の三浦徳子さんが肺炎で死去した。75歳。「青い珊瑚礁」「真夜中のドア」「お嫁サンバ」などヒット曲を量産した。▽9日、歌手の大橋純子さんが死去した。73歳「シルエット・ロマンス」「たそがれマイ・ラブ」がヒットした。▽9日、中国の歴史を題材にしたファンタジー「後宮小説」などで知られる作家の酒見賢一さんが呼吸不全のため死去した。59歳。「墨攻」「周公旦」「陋巷に在り」「泣き虫弱虫諸葛孔明」などがある。▽12日、歌手のKAN(かん)さんが死去した。61歳。1991年に「愛は勝つ」が大ヒットとなった。▽15日、創価学会の池田大作名誉会長が死去した。95歳。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

人名研究(スポーツ)

 本日は競泳選手、大橋悠依(28歳)の誕生日。東京五輪で2つの金メダルを獲得した。日本人女子選手が2つの金メダルを獲得したのは初めてのことである。いろいろな生き物のなかで人間だけが、自覚的に生きていることのあかしとして歴史をもっている。そのような歴史を生きて、あるいは作り上げるのは、一人ひとりの人間であり、識別するために人名がそれぞれに与えられている。たとえばスポーツ。野球やサッカーは団体競技であるが、一人ひとりの活躍も注目される。ヒーローは一夜明ければ著名人となる。(10月17日)

2023年10月17日 (火)

川端康成「雪国」

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 1968年のこの日、川端康成は日本人としては湯川・朝永博士に次いで3人目のノーベル賞を受賞する。川端がノーベル文学賞を受賞したニュースは当時、明るい話題として大きく取り上げられた。対象作品は「雪国」「千羽鶴」「古都」と、短編「水月」「ほくろの手紙」などであったが、なかでも「雪国」は広く読まれた作品だった。

   国境の長いトンネルをぬけると雪国であった。島村は年の暮れの寒さのなかを女に会うためにやって来たのである。無為徒食の島村は、ともすれば失いがちな自身に対するまじめさを呼びもどすために、この春、一人で国境の山々を歩きまわり、山をくだって、たまたま泊まった温泉宿で駒子と馴染んだ。駒子は三味線と踊りの師匠の家にいた娘だったが、今度は芸者になって出ていた。頬を染めて懐かしそうに島村の手をにぎる駒子に、島村は来るべきところへ来た思いがするのだった。駒子はからだをぶつけるように、しげしげと彼に会いに来た。ついには朝がきても帰らず、師匠の家にいる葉子に三味線を持ってこさせて、島村のまえでさらったりした。駒子の三味線は文化三味線譜で習ったものだが、山峡の自然を相手に稽古したその撥の音は、どこまでも強く、冴えかえり、聞きほれる島村の心に孤独な女のひたぶるな純粋さが、せつなくしみ通るのだった。駒子には夫婦になるはずだった師匠の息子がいた。彼は病気で、駒子が芸者に出たのも、その病気の費用を出すためだった。島村が東京へ帰るとき、駅まで送った駒子のもとへ、葉子が息子の急変を知らせてきたが、駒子は葉子を追いかえし帰ろうとしなかった。葉子は息子を愛していた。

   三たび女をもとめて島村がやって来たのは、秋だった。細かい羽虫や蛾の飛び回る部屋で、駒子は激しく島村の胸に身を投げかけた。このまえ駅まで送ってきた駒子が、とうとう師匠の息子の死に目にも会えなかったらしいことを知った島村は、駒子をさそって息子の墓へ参った。墓には葉子がいて、燃える目で刺すように二人を見た。駒子は宿へ呼ばれさえすれば、島村の部屋へ寄っていった。そんなことが狭い土地のうわさになれば、身を滅ぼすと知りながら、駒子は「それでいいのよ。ほんとうに人を好きになれるのは、もう女だけなんですから」と、顔を赤らめるのだった。駒子は「あの子を見てると、行く末私のつらい荷物になりそうな気がするの」と島村に言った。葉子はその駒子を島村のまえで憎いと言った。かとおもうと、「よくしてあげて」と真剣にたのむ。「私を東京へ連れていって」とも言うのだった。

   ついに雪の降る季節がきた。ある晩、映画をやっていた繭倉から火が出た。自動車で偶然そこを通りかかった島村と駒子は、逃げおくれた葉子が失神したまま低い二階から落ちるのを見た。夢中で駆けよった駒子は、芸者の長い裾を引いて葉子を抱きかかえると、「この子、気がちがうわ。気がちがうわ」と叫ぶのだった。それが島村には、駒子が自分の犠牲か刑罰かをいだいているように見えた。(引用文献:友野大助「日本名作事典」平凡社、10月17日)

女心と秋の空

  秋の空模様と移り気な心模様を重ねたことわざとして「女心と秋の空」がよく知られるが、もともとむかしは「男心と秋の空」であった。室町時代の狂言「墨塗」の中に「男心と秋の空は一夜にして七度変わる」という台詞がある。イギリスのことわざに「女心と冬の嵐」があり、日本にも明治以降、「女心」が使われるようになった。大正の頃、ヴェルディのオペラ「リゴレット」の中の曲に、「風の中の羽根のようにいつも変わる女心」(女心の歌)とあり、このころから「女心と秋の空」と言われるようになったという。

宰相の渾名

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  夏目漱石は渾名の命名にかけては名人級だろう。「赤シャツ」「野だいこ」「うらなり」「山嵐」「マドンナ」いずれも個人の容貌、性質、言動などの特徴をとらえて、いまも生きているような清々とした感がある。もし漱石が生きていれば当世政治家はどんな渾名が付けられるだろうか。野田佳彦は自らの渾名を「どじょう」と称して庶民ぶりをアピールしているが、明治の頃は「どじょう」は下級官吏のことだった。菅直人は気むずかしい性格からマスコミから付けられた渾名が「イラ菅」。鳩山由紀夫には「宇宙人」「ルーピー鳩山」という嘲笑風の渾名がある。ルーピー(loopy)とは、耳慣れない単語だ。「愚か者」という意だそうだが、学習用の辞書には見えない場合も多い。ウェブスターには「a slightly crazy」とある。ほんとうかどうかわからないが、loopは「輪」なので、「くるくる回る」、つまり「くるくるパー」だという説明をしている記事が見える。foolish、stupid、crazy、loopy、英語の使い分けは難しい。使わないほうがよさそうだ。

   一国の宰相はもっとも愛称がつけられやすい。ビスマルクは「鉄血宰相」、サッチャーは「Iron Lady(鉄の女)」。わが国では、円満な容貌と楽観的性格から高橋是清は「だるま」、人情味あふれる正義感から濱口雄幸は「ライオン宰相」、グロテスクなビリケンのような禿頭から寺内正毅は「ビリケン宰相」と呼ばれた。吉田茂は「ワンマン」。田中角栄は「コンピューター付ブルドーザー」。福田赳夫は「昭和黄門」。中曽根康弘は「風見鶏」。小渕恵三は「冷めたピザ」。そして支持率が低迷する岸田文雄に「増税メガネ」という悪いあだ名が流行している。

 

2023年10月15日 (日)

きのこの日

Com0669a  キノコのことを「クサビラ」という。狂言「くさびら」では、ある男の家の庭にキノコがたくさん生えてきて、取っても取ってもなくならない。山伏に頼んで祈ってもらうが、キノコはさらに増え続け、山伏につきまとい、いたずらをするので、山伏は「許しておくれ」と言いながら逃げていくというお話である。日本は元来、森林の国であり、キノコは森の生物のため、日本民族はキノコ好きである。しかキノコ切手の図案はたった1種類しか発行されていない。1974年の「国際食用きのこ会議記念」のシイタケ図案のみである。

Tsukiy02  日本には天然に約5000種類のキノコが存在しており、そのうち約50種類が毒キノコである。明治以来、毎年500人以上のキノコ中毒が発生しているが、そのうち7、8人ずつの死者を出していた。近年はやや減少して、この10年間で1000人以上の人が毒キノコで食中毒になっています。キノコの種類としては、ツキヨタケ(画像)、クサウラベニタケ、カキシメジ、ドクササコ、テングタケ、二ガクリタケ、シロタマテングタケ、ベニテングタケなど。

   食用キノコの中で味、香り、希少性において秋の味覚の最高峰ともいえるのが「松茸」である。松茸は高級食材として取引されているが、かつてはシイタケより安かった。松茸は栄養素の高い腐葉土には生育しない。プロパンガスが普及したため、山中に燃料を採取し無くなり、自然生育する松茸が減少し、価格が高くなった。(10月15日)

セントヘレナのナポレオンと島の娘ポリー

Mort_napoleon_convert_2012011218011     ワーテルローで敗れたナポレオン(1769-1821)は、1815年6月22日に退位した。6月29日、アメリカへ亡命するため、パリを離れてロシュフォールの港に向かったが、すでに港が封鎖されていることを知り、イギリス軍艦ベレロフォン号に投降した。しかしイギリス亡命は認められず、ナポレオンは1815年10月15日、南大西洋の孤島セントへレナに流刑された。セントへレナ島はイギリス東インド会社の仲継基地で、少数の農民のほか奴隷に売られたインド人や中国人の姿が診られた。ナポレオンはロングウッドという丘陵地の粗末な木造家屋に収容された。

    セントへレナ島でナポレオンは、イギリスの行政官ハドソン・ローと口論したり、回想集を口述したりしながら余生を送った。孤島での幽閉生活は淋しいものだった。英雄の唯一の愉しみは、ポリー・メイスンとの木の下でのデートだった。と言っても2人は共通する言葉を持たなかった。ポリーは明るく奔放な性格といわれるが、ナポレオンとは20歳以上も年が離れていた。ナポレオンの死後、ポリーは嫁いで幸せな家庭を持ったのかは、島の人たちも何も知らない。

長期間癌で苦んだあとの1821年5月5日、暴風雨の夕べ、ナポレオンは51歳で世を去った。いよいよ最期が近づいたとき、ナポレオンは「フランス、軍旗、ジョゼフィーヌ」と死ぬ間際に言ったという。5月8日、生前好んで散歩した柳の木のもとに葬られたが、その葬儀はまことに簡素であった。彼の死後2年経た1823年に出版されたラス・カーズの「セント・ヘレナ日記」は大きな反響をよぶ。「セーヌ川のほとりに眠りたい」というナポレオンの最後の願望はかなえられ、1840年に彼の遺骸はパリのオテル・デ・ザンヴァリード(廃兵院)に改葬された。ナポレオンはいまもフランス国民の英雄である。

   ナポレオンの死因については今も論議されている。胃癌と肝臓病とする病死説が一般的であるが、彼の復活をおそれたイギリスが毒を少量ずつ与えたという毒殺説がでた。近年、イタリアの国立物理学研究所で毛髪を分析した結果によると、ヒ素中毒で亡くなったということは否定されている。(Napoleon Bonaparte,Saint Helena,Polly Mason)

 

 

2023年10月14日 (土)

『あすなろ物語』の「克己」について

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映画「あすなろ物語」(昭和30年) 雪枝(根岸明美)

 

   梶鮎太(12歳)は祖母と一緒に伊豆の田舎で暮らしている。ある日、祖母の姪の冴子(18歳)が鮎太の前に現れた。冴子は中学生と映画を見ていたため、女学校を退学になったという。この静かな田舎町で胸の病を静養している東京の大学生・加島に、鮎太は冴子のラブレターを持っていかせられるはめになった。

 

「君、何年生?」と言った。「六年生です」「蔵の中におばさんと住んでいるの?」「そうです」鮎太は、この大学生が自分のことを知っているのが不思議だった。「君、六年生なら、来年は中学へ行くんだろう」「そうです」「勉強しないと駄目だな」「・・・・」「君、勉強するってことは、なかなか大変だよ。遊びたい気持ちに勝たなければ駄目、克己って君知っている?」「知っています」「じゃあ、もうお帰り」大学生の言葉で鮎太は頭を一つ下げると、そこから一人で坂を上って行った。来年は都会の中学校へはいり、両親のもとからそこへ通うことになることは、鮎太の心の中では漠然とした形ではあったが一つの既定の事実となっていた。しかし、入学試験というものを、はっきりと意識し、勉強をしなければ合格できないという冷酷な事実が、彼の前に立ちはだかって来たのは、この夜が鮎太にとっては初めてであった。克己とは何だろう。自分に克つ。その言葉の意味は充分に理解されなかったが、しかし、鮎太はこれまでに、これほど魅力ある言葉にぶつかったことはなかった。

 

   井上靖の『あすなろ物語』は厳密な意味では児童文学ではない。もちろん児童書として現在も少年たちに読まれているのではあるが、本来、大人の小説である。初出は昭和28年「オール読物」に連載されたものである。2年後には東宝で映画化された。監督の堀川弘通は黒澤明の助監督だったがこれは監督第1回作品。黒澤が脚本を書いているので、おそらく優れた作品であろう。大学生の役は木村功だった。ケペルはこの映画を観ていない。だが昭和38年のNHKの子供向けドラマで見た記憶はある。当時のテレビドラマとしては豪華なキャストで八千草薫が出演していた。まだ新人の山本陽子が冴子だった。「深い深い雪の中で」大学生と冴子が天城山で心中する話や、雪枝のスパルタ訓練で鉄棒する話などあったであろうが、やはり少年にとって「克己」という言葉にインパクトがあったように思う。

 

 

「秋ドラマ」どれを見る?

 10月スタートの連続ドラマをチェックしよう!連続テレビ小説「ブギウギ」は来週から、昭和8年18歳のスズ子趣里が始まる。ドラマは歌手・笠置シズ子をモデルにしたスズ子を趣里が演じ、「東京ブギウギ」「買物ブギ」など名曲の数々とともに、日本の朝に笑顔を届ける。「ミワさんになりすます」映画が大好きなミワは大スターの家政婦になりすまして働き始める。松本穂香、堤真一。「Maybe 恋が聴こえる」橋本涼、大和奈央。「ONE DAY」大沢たかお、二宮和也、中谷美紀。「トクメイ!警視庁特別会計係」橋本環奈、沢村一樹。「けむたい姉とずるい妹」栗山千明、馬場ふみか。「君が死ぬまであと100日」高橋優斗。「くすぶり女とずん止め女」西田尚美、香音。「トラックガール」遠藤さくら。「マイ・セカンド・アオハル」広瀬アリス、道枝駿佑。「時をかけるな、恋人たち」𠮷岡里帆、永山瑛大。「マイホームヒーロー」佐々木蔵之介、斎藤飛鳥。「コタツがない家」小池栄子。「パリピ孔明」向井理、上白石萌歌。「君に届け」南沙良、鈴鹿中士。「ゆりあ先生の赤い糸」菅野美穂。「あきない世傳 金し銀」小芝風花。「うちの弁護士は手がかかる」ムロツヨシ、平手友梨奈。「今日からヒットマン」相葉雅紀、山本舞香。「いちばんすきな花」多部未華子。「ゼイチョー 払えないーにはワケがある」菊池風麿、山田杏奈。「押しが上司になりまして」鈴木愛理、片寄涼太、高柳明音。「ブラックファミリア~新堂家の復讐」板谷由夏、山中崇。「アオハロイド」出口夏希、櫻井海音。「単身花日」重岡重毅、新木優子、高梨臨。「18歳、新妻、不倫します」藤井流星。「猫カレ・少年を飼う」石川恋、斎藤潤。「下剋上球児」鈴木亮平、黒木華。「セクシー田中さん」木南晴香、生見愛瑠。「たそがれ優作」北村有起哉。「東京貧困女子」趣里。「あたりのキッチン」桜田ひより、渡部篤郎。「猫カレ」石川恋。

個人的に期待するのはテレビ大阪の「インターホンが鳴るとき」主婦・結花は夫の真治・息子と幸せな日々を過ごしていたが、結花が深夜に真治のスマホを見てみると、5人の女性との卑猥なやり取りを見てしまう‥。配役は主人公・結花に土村芳、夫の真治に堀井新太。ほか水崎綾女、高田里穂、中村ゆりか、向里裕香、森田想。「マイホームヒーロー」娘のために殺人犯になる佐々木蔵之介も意外性のある展開である。「あたりのキッチン」は渡部篤郎が渋い演技をしている。

 

 

 

 

 

雨がやんだ(中学英語)

さっきまで雨が降っていたけれど今はどうだろうか?

Is it still raining?(まだ雨は降っていますか?)

Is stopped raining.

Iseea beautiful rainbow in the sky.

雨はやみました。空にはきれいな虹が見えます。

2023年10月13日 (金)

青木昆陽の墓

 本日は「さつまいもの日」。「栗よりうまい十三里」ということから、昭和62年にこの日が定められた。JR山手線・目黒駅を降りて、太鼓橋を渡ると、目黒不動尊がある。正式には泰叡山龍泉寺(天台宗)といい、境内に豊かな湧水があり、古くから不動信仰の霊地である。幕府の庇護も厚く、江戸近郊における人びとの参詣行楽の地として繁栄をきわめていた。独銛の滝に打たれて水垢離をとり、不動尊に祈願成就を祈るのである。この滝は「江戸名所図会」や広重の浮世絵にも描かれている。寺の裏手に青木昆陽の墓がある。昆陽は、八代将軍徳川吉宗の命により蘭学を学び、長崎に遊学し、「和蘭文字略考」「和蘭貨幣考」「和蘭語訳」など著述する。また「蕃藷考」を著し、救荒作物として甘藷の栽培を奨励したために「甘藷先生」と呼ばれた。一方、幕命によりしばしば関東・東海地方に出向き古文書を調査・収集した。明和六年歿。行年72歳。

 

 

諸葛孔明(世界史ヒーロー伝)

Photo_2 ドラマ「パリピ孔明」が好評である。五丈原の戦いで病死した諸葛孔明が現代日本に転生し、そこでシンガーソングライター月見英子の夢を叶える軍師として活躍する話。パリピとは「パーティー・ピープル」の略語。諸葛亮(181-234)。山東の琅邪国陽郡の生まれ。日本では字の孔明をとって、諸葛孔明と呼ぶことが多い。孔明に関しては神仙術を使うので神秘的なムードで容貌の明確な記述はない。ただ「蜀志」諸葛亮伝によれば身長は8尺あったという。当時の1尺は23.75cmなので190cmの美丈夫である。ただし英雄像の一つの条件が高い身長なのであまりあてになる話ではない。

   孔明とはどんな人物であったのか。三つの有名なエピソードでみてみよう。まずは「三顧の礼」。ここからは孔明のきわめて慎重な性格がうかがわれる。また一度決心をしたら自分の生死をかけて劉備に仕えようという固い決意が読みとれる。次に「出師の表」。あくまでも自分の大義を貫こうとし、才能を尽くして、人の上に立つ指導者としての責任感の強い人であることがわかる。「泣いて馬謖を斬る」。街亭において馬謖は孔明の指令に反して大敗した。孔明は軍律にてらし馬謖を斬った。ここから孔明の信賞必罰、私情を殺して軍律を守りとおすという厳しい性格の一端が表れている。以上、三つのエピソードから、己に忠実であり、いつも自己を信じて行動するという強い精神の持ち主であることがうかがわれる。一貫しているものは孔明のプライドの高さであり、高潔な人格なのである。今日も孔明が人気なのは、行動、発言にぶれがないのがリーダーとしての理想像としてみられるからであろう。参考:植村清二「諸葛孔明」 中央公論社

赤ちゃんの名づけの前に心すべきこと

   その人が一生背負うもの、それが名前である。最近では、読めない名前が多いことが話題になっている。大翔、陽菜、宇宙、太陽など「ひろと」「はるな」「そら」「ひかり」と読めないですね。どのような名前が良い名なのか、あるいはキラキラネームなのか、各個人の主観によるため判断基準は難しい。「大翔」の「翔」を「と」と読ませるのも「かける、とびめぐる、とぶ」から当てたものであるが、音は「ショウ」であり、「ト」と読ませるのは無理がある。実際「大翔」の読みには「ひろと」「はると」「やまと」などいろいろあるらしい。だが毎年の名前人気ランキング上位に入っているので、日本人の名前として一般的になっていくと思われる。ちなみに最近の人気の赤ちゃんの名前、男の子は「虎優(とらまさ)」、女の子は「さくら」が第1位だそうです。

   10数年前、親が良い意味がある名前をつけたが、字が難しく、女性のような名前だとして、少年時代よりイジメにあい、改名したが、それでも親への恨みが収まらず、息子が命名した父親を殺害するという悲劇的な事件があった。「鼎(かなえ)」という名前で、ある程度の教養ある人なら読める漢字である。古代中国で宗廟に供える最も重要な祭器で、そこから身分の高い人をいう。「鼎の軽重を問う」(相手の実力を疑ってその地位を覆そうとすること)の故事もよく知られている。本人がもっと成長し、社会で活躍すればさぞかし立派な名前であったと思われるが、未熟な時期にすれば、その名前に違和感がともなったのであろう。この鼎殺人事件は名前の命名に心すべき教訓が含まれているように思われる。赤ちゃんの名づけには、どのようなポイントを注意すべきだろうか。

①無理はしない。たとえば命(いのち)、絆(きずな)、天空(らぴゅた)など、人名としては無理がある。

②漢字は普通なのに、人名として不適切な意味が含まれる場合がある。「満子(みちこ、みつこ)」、「佐世子(さよこ)」など、一見ふつうと思うが、性的なイメージをおこさせる。「まんこ」「させこ」と読まれる。

③ハーフでもないのに欧米人のような名前をつけることがある。「じょうじ」「なおみ」「えりか」といった具合に元々は外国人の名前だったが、昭和期に一般化した。これからも増加するが、自然に当てはめられものであるかがポイントとなる。

④鼎殺人事件でも問題となったのが男女の区別がつきにくい名前である。「かおる」「ひかる」「のぞみ」「しずか」など、以前から男女の区別のない名前はある。明治以前、発育が不十分な子供に、実際の性別とは逆の性別にうけとられる名前をつけることで、健康を祈願する風習があったことが起源とされる。しかし就職、結婚など性別の誤認されるリスクも考慮しなければならない。

⑤おそれおおい名前。神や救世主といった畏れ多い名前。キリスト、裕仁など。しかし外国ではサルバトーレ(救世主)など普通に命名される場合もある。家康や信長なども、将来、本人がその名前に負けなければいいが。

⑥難解な名前。それ自体には良い意味やいわれがあるものの、画数が多かったり、難解で周囲や本人が理解できず、結果として珍奇ネームになってしまうケースがある。鼎殺人事件が典型例であるが、世の中には「鼎」よりも難しい名前の人はいくらでもいる。親権者が個人的な好みに走らず、子供が成長して誇りに思える名をよく考えるべきであろう。

家康をめぐる女たち

 家康の側室群をあげてみる。大河ドラマ「どうする家康」第19回「お手付してどうする!」ではお万の方(松井玲奈)が登場する。お万は侍女として家康の湯殿の世話をしていたが、家康の子を身ごもる。怒った築山殿は、お万を城内の木に縛りつけて折檻する。築山はお万を側室として認めず、城から追放した。史実では元亀3年にお万は双子を出産したとある。長男は結城秀康、次男は永見貞愛という。お万(長勝院)は北ノ庄で72年の生涯を閉じた。西郡の方(次女督姫の母)、於愛(三男秀忠、四男忠吉の母)、於竹(三女振姫の母)、於都摩(五男信吉の母)、於茶阿(六男忠輝、七男松千代の母)、於亀(九男義直の母)、於万(蔭山殿、十男頼宣、十一男頼房の母)、於梶(お八、お勝、五女市姫の母、のち松平正綱に与えるが、一ヵ月後、再び取り戻して側室にする)、於牟須(不詳)、於六(お梶の部屋子)、於梅(本多正純に与える)、於夏(お奈津)、於仙(不詳)、阿茶(須和、幕府にあって外交、隠密御用を勤める。側室中、随一の才女)。総勢20人の側室と16人の子どもたち。

 

 

2023年10月12日 (木)

ヌマさんの読書ノート

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    社会党の浅沼稲次郎(1898-1960)は1960年のこの日、日比谷公会堂で演説会の壇上で右翼少年、山口二矢に刺殺された。享年61歳だった。その大衆的な人柄で「ヌマさん」の愛称で親しまれていた。国立国会図書館憲政資料室には浅沼稲次郎読書ノートが所蔵されている。このノートは大正14年から昭和2年にかけてのもので、浅沼は20代後半、無産政党運動に邁進していた頃である。高橋亀吉の「経済学の実際知識」や那須皓の「公正なる小作料」の感想や「伏石事件」に関する一文、第6回メーデーに際しての所感などがみられる。表紙には「思想の母」とタイトルがつけられて、さらに「思想は行動の母、情熱は行動の母」とエマーソンの言葉が書かれている。行動型の現実政治家、浅沼らしい一面がみえる。このノートは平成18年、たまたま図書館の職員が七夕古書大入札会で見つけて購入したものである。(10月12日)

 

 

2023年10月11日 (水)

サボ島沖海戦

    昭和17年10月11日、第6戦隊・第11駆逐隊(青葉・衣笠・古鷹・吹雪・初雪)は、ガダルカナル島への輸送部隊の支援とヘンダーソン飛行場への艦砲射撃の任務を与えられて出動した。旗艦青葉の見張り員が米艦隊を発見したものの、艦長・五藤存知少将は味方艦隊と誤認し、発光信号で「ワレアオバ」を連発した。米軍は新兵器であるレーダーにより、先制攻撃を行い、青葉は集中砲火を浴びる。古鷹の艦長荒木伝大佐は青葉を守るため、敵艦と青葉の間に割り込んだ。このため古鷹が被弾することになり、10月12日、大破炎上し沈没する。青葉は古鷹の捨て身の奮戦でなんとか助かった。サボ島沖海戦は、日本海軍が得意としていた夜戦が、アメリカのレーダー技術に敗れた戦闘であった。

2023年10月 9日 (月)

日露戦争沙河(さか)会戦起こる

  明治37年8月の遼陽会戦で、日本は橘周大中佐が壮絶な死を遂げた。そして10月9日、ロシア軍は本渓湖の日本軍に対して攻撃を開始し、沙河の会戦の火蓋は切って落とされた。圧倒的なロシア軍の前に、日本軍は死傷者2万余をだす消耗戦となる。当時、外国では沙河会戦は日本の敗北と伝えられていた。

2023年10月 7日 (土)

レパント沖の海戦

Lepanto   1571年のこの日、ギリシアのコリント湾口のレパント沖で、ローマ教皇庁・スペイン・ヴェネツィアからなるキリスト教国連合艦隊とオスマン艦隊が激突した。連合艦隊が視界に入ったとき、オスマン艦隊はまだ錨をおろしていた。この一瞬の遅れがひびいて、2時間の激戦は、火力に優れた連合艦隊が勝利した。オスマン側はアリ・パシャが殺され、艦艇117隻が拿捕された。死者はオスマン側が3万に対し、連合軍は8000人だった。この戦いの7年後、連合軍の指揮官ドン・ファン・デ・アウストリアは発疹チフスで31歳の若さで死去。「ドン・キホーテ」の作者セルバンテスもこの戦いに参戦している。(Lepant,Don Juan de Austria,Ali Pasa)

2023年10月 6日 (金)

源頼朝、鎌倉に入る(1180年)

E98e8ce58089e9b6b4e5b2a1e585abe5b9a    治承4年10月6日、源頼朝は父祖以来の源氏ゆかりの地、相模国の鎌倉に千葉常胤(父の千葉常重は下総の武将で、千葉氏一族の初代当主。千葉県なと地名由来の元祖)らの助勢を得て鎌倉に入る。そして10月20日、平維盛を総大将とする平氏の軍勢を富士川で、戦わずして勝利をおさめた。このとき頼朝34歳。

    翌日、数奇の手勢を率いた若武者がいた。義経24歳である。父・義朝の敗北と死という悲劇によって遠く引き離された異母兄弟が、長い歳月の末にようやく対面することができたのである。八幡神社には頼朝と義経が対面したときに腰をおろしたとされる対面石がある。このとき義経は何騎を従えて兄・頼朝のもとへ駆けつけたのか?「吾妻鑑」には、佐藤継信と忠信とたった3騎となっている。「義経記」では300騎ほどを率いて駆けつけたとある。義経の家来として名が知られているのは、武蔵坊弁慶、駿河次郎清重、片岡八郎弘経、亀井六郎重清、伊勢三郎義盛、鎌田藤太盛政、鎌田藤次光政、常陸坊海尊などである。だが、はたしてこれらの家来が実在の人物かどうかは、まるで証拠がない。そんななかで唯一、係累が明らかなのは佐藤継信、佐藤忠信の兄弟である。佐藤家の菩提寺・医王寺には2人の墓がある。

2023年10月 5日 (木)

達磨忌

Img_1006663_23364974_0    達磨忌や壁にむかひし揚豆腐

              池西言水

  禅宗の開祖は達磨といわれている。その伝記については不明なところが多いが、今日では実在説が強い。南天竺、あるいは波斯国の人といわれる。520年頃に梁にやってきた。武帝との会見で、仏教興隆を自慢する武帝に「無功徳である」と言いきった、という有名な話があるが、史実とはいいきれない。しかし慧何(487-593)が雪の中を達磨を訪ねて、自らの片腕を斬り落として弟子にしてくれと頼んだという逸話についてはかなり明確な記録がある。慧何は入門を許され、第二祖となった。そして第三祖が僧璨、第四祖が道信、五祖が大満弘忍と牛頭法融に及び、大満の下から玉泉神秀と、大鑑慧能、嵩山慧安らの系統に分かれた。そして六祖の慧能によって中国禅は確立される。慧能の禅は頓悟禅ともいわれ、南の地方で盛んになったので、南宗禅ともいわれ、今日、禅宗といえば、この南宗禅を指すことが多い。日本の曹洞宗、臨済宗も南宗禅の系統である。達磨の没年はわからないが、道元の「正法眼蔵25」によると、達磨の高名を妬んだ菩薩流支が達磨を毒殺したとされる。(10月5日)

 

 

2023年10月 3日 (火)

古代の朝鮮半島 (古朝鮮・高句麗・三国時代)

 本日は韓国では「開天節(ケチョンジョル)」が祝われ、会社や学校はお休みです。高麗時代に編まれた「三国遺事」によると、帝釈桓因の子、桓雄と熊女との間に生まれた檀君王倹が紀元前2333年のこの日に平壌城を首都とする国を建てて国号を朝鮮としたのが国家の始まりと言われている。1993年、北朝鮮は檀君陵を発掘したと発表しているが、その信憑性はなく、考古学的知見によれば、京畿道漣川郡全谷里遺蹟から、30~40万年前の前期旧石器遺跡が発見されている。紀元前3000年ごろから櫛目文土器が多数発見されている。前1500年ごろ、青銅器文化の時代に入っていた。日本では縄文文化であった時代の前10世紀以降の遺跡から炭化米が出土することから、朝鮮半島では本格的に農業生産をするようになり、紀元前8~前7世紀ころ水稲栽培が始まり農耕社会へ転換していったと考えられる。古代国家の成立は、紀元前7世紀頃の箕氏朝鮮からはじまる。箕氏は紀元前4世紀には燕と互いに争うほどに成長したが、紀元前2世紀はじめに衛満に滅ぼされる。衛氏は80余年にわたって繁栄したが、紀元前108年に漢の武帝の侵入を受けて滅亡した。通常、箕氏朝鮮と衛氏朝鮮の2王朝を合わせて古朝鮮と呼ぶ。その後、古朝鮮の遺民は各地で小国を興し、紀元前紀57年には辰韓の6つの小国の一つ、新羅が誕生した。紀元前37年には鴨緑江の中流地方で力をつけた朱蒙が高句麗の指導権を握って国家体制を再整備し、王となった。紀元前8年には温祚が百済を建国した。高句麗・新羅・百済の三国が競い合っていた313年から676年にかけてを三国時代と呼ぶ。2世紀末、朝鮮半島中南部では馬韓・辰韓・弁韓と総称される部族国家が併立し、北鮮地方には高句麗が興って南下の勢いを示した。ところが、3世紀前半、魏が朝鮮に勢力を伸ばすにおよんで漢時代の楽浪・帯方の2郡を手にいれ、南鮮地方を支配下におさめた。4世紀半ばにいたって百済・新羅が興ると、高句麗を含めた三国の勢力が拮抗する。朝鮮はその後の日本の文化に大きな影響を与えた。邪馬台国はこの魏の後援のもとに南鮮を圧迫し、弁韓地方にはかなり倭人が進出するようになった。(10月3日)

食生活の東西差

  関東人は「肉まん」、関西人は「豚まん」。一般に関東では濃い味が、関西ではうすい味が好まれるっていわれる。たとえば関東は濃口醤油が、関西は薄口醤油が使われる。なぜ関東は味付けが濃いのか?答えは、それは徳川家康のせいだから~NHKチコちゃんは知っている。醤油の歴史は京都や大阪が古い。天正5年(1577年)に龍野で薄口醤油つくられた。これが、京都で発達した精進料理を自然な色に見せる、薄味の調理として完成された。江戸時代になると、徳川家康が未開拓の江戸の街を早く整備するため、全国から労働者を多く集めた。玄米と塩分補充と労働力アップのため味の濃いおかずを用いた。それから、江戸では新鮮な魚を食べる際に、「つけ醤油」として醤油を用いていたことから、濃口の醤油が生まれた。以来、万能の調味料である醤油は、日本の食を支えた。

  このように日本人の食生活や住まいのようすは東と西では違いがあった。だが、今や、新幹線に乗ればわずか2時間半で移動できる狭い日本なので、大きな違いはみられなくなった。もちの形は、富山から見えを境して東は四角い餅、西は丸い餅ときれいに分かれる。理由は日本列島を東西に分断する大地層帯・糸魚川静岡構造線と地質学的に説く人もいるが、本当のことはよくわからない。(参考:「知ってビックリ!関東と関西こんなに違う事典」PHP文庫)

2023年10月 2日 (月)

安政大地震

4b  安政2年10月2日(新暦では11月11日)夜10時、江戸を中心に大地震(M6.9)が起り、翌朝方まで30数度に及んだ。家屋の崩壊1万余戸、死者4300人以上と伝えられる。この地震で、尊攘派の藤田東湖(1806-1855)は老母を庭にほおり出し、自らも逃げようとしたが、一瞬おそく、落ちてきた梁の下敷きとなって死んだ。

2023年10月 1日 (日)

トレヴィの泉

Trevi_coin   ローマで目につくのは、街角や広場にある噴水です。その数は約600とか。その中でも有名なのはトレビの泉です。映画「ローマの休日」や「甘い生活」などによって日本人にも親しまれるようになったトレヴィの泉は、もともとは古代ローマ時代、紀元前19年にアグリッパによって建設されたものだった。歴史家プリニウスは、世界の驚異の1つとして、ローマの水道をあげている。ローマ帝国の崩壊とともに荒らされたが、1453年、教皇ニコラウス5世が再び水道としてローマを潤すことになった。17世紀になって主要水道の終点にはモストラ(劇場)と呼ばれた彫刻に飾られた噴水が置かれることになった。1732年、教皇クレメンティウス12世はデザインコンペを開き、35歳の建築家ニコラ・サルヴィ(1697-1751)が選ばれた。トレヴィの泉はサルヴィの死後、彫刻家ピエトロ・ブラッチ(1700-1793)によって1762年に完成した。ポーリ宮殿を背景として、海神ネプチューンと2頭のぺガサス、それを操るトリトンなど多数の彫刻群がある。ローマを去る前に、泉に背を向けてコインを投げるとローマ再訪がかなうという。近年建物の損傷が問題となっている。2013年、フェンディがトレヴィの泉修復計画を発表し、212万ユーロ(約2億5800万円)を出資することとなった。トレヴィとは、この泉の水源地でローマ市から数キロの地点にある。(Trevi Fountain,Nicola Salvi,Pietro Bracci,FENDI)

大江健三郎はなぜ丸メガネなのか?

Photo_2Photo  本日は「メガネの日」。ラウンド・デザインのフレーム、いわゆる丸メガネは、メガネフレームが作られた初期の頃は主流のかたちだった。昔は丸いレンズを削らずにそのまま枠に入れるという方式でメガネができていた。したがって明治から昭和初期に活躍した人物はほとんど丸メガネである。現在でも笑福亭鶴瓶のようにお笑いの芸能人には丸メガネがみられるが、一般人で丸メガネを愛用している人は少ない。小説家の大江健三郎が古風な感じの丸メガネを愛用しているのはサルトルの影響を受けているからと言われる。

 

 

 

 

 

 

 

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三木清、江戸家猫八、堀辰雄、北里柴三郎、若山セツ子、西田幾多郎、吉沢独陽、菊池寛

 

 

 

 

 

死と生について

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   昨晩、テレビで映画「象の背中」(2007年)を放送していた。48歳のエリートサラリーマン(役所広司)が末期の肺がんで余命半年と医師から宣告される。残された日々をいかに過ごすかがテーマとなる。初恋の人にあったり、ケンカ別れした旧友に会ったり、仕事で迷惑かけた人に偶然にあって謝罪したりする。ホスピスで家族と充分にふれあいの日々を過ごしたり、愛人ともいい関係で別れる。重いテーマを秋元康ならではのトレンディー風に描いている。リアリティはない感じだった。同日、BSで綾瀬はるか版「世界の中心で、愛をさけぶ」を見た。片山恭一の原作とテレビ版とはだいぶん違うようだ。小説では祖父が朔太郎に大きな影響を与える人物として扱われている。朔太郎とアキとの会話にこんなのがある。人の死にも理由があると思う?」「思うわ。わたしはね、いまあるもののなかに、みんなあると思うの」ようやく口を開くと、アキは言葉を選ぶようにして言った。「みんなあって、何も欠けてない。だから足りないものを神様にお願いしたり、あの世とか天国に求める必要はないの。だってみんなあるもんだもの。それを見つけることの方が大切だと思うわ」しばらく間を置いて、「いまここにないものは、死んでからでもやっぱりないと思うの。いまここにあるものだけが、死んでからでもきっとありつづけるんだと思うわ。うまく言えないけど」「ぼくがアキのことを好きだという気持ちは、いまここにあるものだから、死んでからもきっとありつづけるね」ぼくは引き取って言った。「ええ、そう」アキは頷いた。「そのことが言いたかったの。だから悲しんだり、恐れたりすることはないって」

石田三成の末裔

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 高知九反田の地蔵尊は三成の娘を祀る

 天下分け目の関ヶ原の合戦は西軍の敗北で終わった。石田三成、小西行長、安国寺恵瓊の3人は、慶長5年のこの日、京都・六条ヶ原で首を斬られた。石田三成の居城は近江の佐和山にあった。五奉行の1人として豊臣方を一身に背負うほどの男の城、さぞかし華麗に築かれているはず、と誰しもが思っていた。ところが、いざ入城してみると案に相違してのお粗末さ、壁は荒壁で上塗りはない。屋内はほとんど板張り、障子や襖には反古紙を張ってある。庭も庭園というほどのこはない。三成は私財を蓄えぬ清貧の士であった。敗れた一族には悲惨な運命がまっている。関ヶ原で敗れた石田三成は六条河原で斬首されたことになっている。秀頼生存説があるが三成にも生存伝説がある。それによると、生きのびて、主従4人で近江を出て、北国街道経由で、会津、米沢と移ろい、最後は秋田の佐竹義宣をたよって落ちのび、その地で僧侶に身を変えて生きのびたというのである。

    では三成の子供たちはどうなったのであろうか。一説によると2男5女いたらしい。秀吉の正室・高台院の養女だった3女辰姫(1592-1623)が当時8歳だった。高知の九反田には土佐に逃れて病死した幼い三成の娘の地蔵尊がある。辰姫は津軽藩主に嫁ぎ、3代目信義を産んでいる。4女は山田氏室、5女は岡重政室。石田三成の子孫は生き残っている。とくに津軽信義(1619-1655)には25男、26女の多くの子がいたというから、石田三成の子孫はいまも健在であろう。(10月1日)

 

私は勝利を盗まない

34855932     紀元前331年10月1日、ガウガメラの戦いでの話。マケドニアのアレクサンダー大王がペルシア帝国と戦っていた。前方の平原がペルシア軍のかがり火で埋めつくされているのを見て、幕僚の一人パルメニオンが大王に進言した。「大王、夜襲をしかけてはいかがでしょうか」すると大王は答えた。「私は勝利を盗まない」と言った(夜襲などの小手先技で勝とうとはせず、正々堂々と戦う、の意)。実はこのときペルシア軍は罠を張ってマケドニア軍の夜襲を待ち伏せしていたのだ。大王は、翌日の会戦にあたって、ペルシア軍の左翼と中央の間に少し隙間ができたことを見てとると、「突っ込め!」とばかり、騎兵親衛隊の先頭に立って、ダリウス3世めがけて進軍した。大王の中央突破作戦は見事成功し、大勝利だった。(AlexandrosⅢ,Gaugamela)

メガネの日

 10月1日は「メガネの日」。メガネは13世紀イタリアで生まれた。日本に初めて伝えられたのはキリスト教の宣教師フランシスコ・ザビエルといわれている。福井県鯖江市はメガネの生産日本一。1905年に増永五左衛門が眼鏡枠製造技術を鯖江に持ち込んだ。1980年代にチタンを用いたメガネフレームの製造に成功した。1987年から全国でも珍しい市役所に「めがね課」が設置された(1998年まで)。

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