洞爺丸事故
昭和29年9月26日、青函連絡船洞爺丸(3898トン)は乗客・乗員1314人を乗せて函館港を定刻(14時40分)の4時間遅れの18時39分で就航した。船長の近藤平市は18時頃から風雨が弱くなり晴れ間が見えてきたのを台風の目と判断したのだ。ところが、これは実は閉塞前線のいたずらであった。本当の台風15号の中心は、その時、函館西方の日本海上にあった。結果的に、洞爺丸船長の判断は間違っていたことになる。当時こうした判断はすべて船長一人の決断にゆだねられていたのである。
同じ頃、青森発16時30分の羊蹄丸の船長の佐藤昌亮は出航を見送る判断をした。「なぜ船を出さぬ」「優柔不断で日和見だ」という乗客たちからの罵声に耐えに耐え、台風と闘った。その羊蹄丸は、洞爺丸が沈没した翌朝、青森からの再開第一便としてうそのように穏やかに函館湾に入ってきた。
近藤船長は海難で殉職され、洞爺丸沈没の本当の真相ともいうべき船長の行動や心理状態については、まったく不明である。羊蹄丸船長だった佐藤昌亮は、間もなく宇高航路へ転じ、国鉄を定年退職後は海難審判の補佐人(刑事裁判の弁護人にあたる)をつとめた。
死者行方不明者1155人。わが国最悪の海難事故を契機に青函トンネル計画が具体化された。昭和63年9月19日で青函連絡船は、明治41年3月開業以来80年の歴史を閉じた。
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