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2023年8月16日 (水)

レオ・フランク事件

Photo_2  「大草原の小さな家」の「アイザックじいさん」。ユダヤ人の木工職人が登場し、ユダヤ人差別の話。新教徒が多いアメリカにはユダヤ人差別があった。もっとも有名なのが1913年に起こった「レオ・フランク事件」。 

アメリカ南部ジョージア州で、貧しい白人の少女メアリー・フェイガン(当時13歳)が惨殺される事件が起きた。北部出身の白人の工場長レオ・フランクに容疑がかけられた。北部への憎しみから生じた異様な興奮が渦巻く中、拘置中のフランクは市民によって拉致され、リンチの犠牲となった。新聞はリンチを称賛し、関与した者は1人も断罪されなかった。フランクの無実が明らかにされたのは、それから70年もの歳月がたってからのことである。

   1913年4月26日土曜日、メアリー・フェイガンは白いレースで縁取られたワンピースと花飾りのついた帽子で精いっぱいのお洒落をして、アトランタで行なわれる南軍戦没者追悼のパレードを見るために、期待に胸を弾ませながら家を出た。もうすぐ14歳というメアリーは、だれもが振り返るような魅力的な少女で、えくぼができるような笑顔に、とび色の長い髪がよく似合った。パレードを見に行く前に、メアリーは、勤め先のナショナル・ペンシル工場に立ち寄った。同僚の少女たちは、前日の金曜日に給料を支給されていたが、その日休みをとっていたメアリーは、まだ給料を受け取っていなかったのだ。正午過ぎに工場に着き、人けのない構内を歩いて2階の事務所に行くと、工場長のレオ・フランクがいた。メアリーは1週間分の賃金1ドル20セントの入った茶色の封筒を受け取った。その夜、メアリーがいつまでたっても帰宅しないので、家族は警察に届け出た。翌日の午前3時ころ、夜警がメアリーの死体を発見した。鉛筆の箱を縛るのに使うひもで首を絞められていた。工場長レオ・フランクは、生前のメアリーを最後に目撃した人物だっため、最重要容疑者となった。しかしフランクの供述に嘘はなかったし、裏づける証拠はなかった。

    レオ・フランクは1884年、テキサス州ダラス近郊のパリスという町で生まれた。18歳でコーネル大学に進学し、機械工学を専攻した。1907年に裕福な叔父のモウゼス・フランクからアトランタで始めた鉛筆工場の工場長のポストを提供された。1910年、名門ユダヤ人一族のルシール・シーリグと結婚し、働き者の工場長として知られていた。運命の日となった南軍戦没者追悼の日は、フランクは義兄に野球見物に誘われたが、断わり、いつものように出社して工場の事務所で帳簿をチェックしていた。

    1913年8月26日、レオ・フランクは死刑判決をうけたが、1914年の暮れになって、ジム・コンリーの弁護人がメアリーを殺したのは自分の依頼人、つまりジム・コンリーだったという爆弾発言がなされた。そのように異論の多い中、レオ・フランクへの刑には執行猶予命令が下された。1915年8月16日、総勢25人のリンチ・グループがミレッジビル刑務所に押し入り、フランクを拉致した。フランクを乗せたリンチ・グループの車は、メアリーが子どものころ遊んだフレイの森に向かった。8月17日午前7時ころ、リーダーがフランクに告げた。「ミスター、フランク、我々はこれから法の命ずるところに従うつもりだ。つまり、あなたを絞首刑にする。死ぬ前に何か言いたいことがあるか?」フランクは、刑務所に保管されている結婚指輪を妻に届けてほしいと頼んだ。「私は自分の命より妻と母のことの方が心配だ」フランクは勇気をもって冷静に死に臨んだ。彼の最後の言葉には、妻と母親を気づかう心情が表れていた。マリエッタの新聞は、フランクに対するリンチを「法を守る市民の行動」と称賛し、アトランタ市長は「言語道断の犯罪に対する正当な罰」と述べた。マリエッタではリンチ執行人たちの正体を知らぬ者はなかったが、結局だれひとり名前を明かされず、告発されることもなかった。大きな衝撃を受けたアトランタのユダヤ人社会も、フランク未亡人と同様、そっとしておいてもらうことを求めた。しかし、レオ・フランク事件の調査は細々と続いた。当時14歳で事務所の給仕をしていたロニー・マンは、犯行を目撃していたが、1980年代になるまで、1人で良心の呵責にさいなまれながら暮らしていた。1983年3月4日、マンは宣誓の上、「事件直後、自分は鉛筆工場の階段のそばに立っていて、ジム・コンリーがメアリーのぐったりした体を地下に通じる1階のはね上げ戸のそばに運んでいるのを目撃した」と語った。だが、彼はコンリーに見つかり、しゃべったら殺すと脅かされた。レオ・フランクは嘘の積み重ねによって有罪判決を受けた。マンは事件から、70年後、ようやく遅すぎた証言を行なった。1986年3月11日、レオ・フランクはジョージア州によってついに正式に特赦が認められた。有罪判決からすでに73年が経過していた。

    後日譚としては、ナショナル・ペンシル工場は、この事件で評判を落として廃業に追い込まれたが、工場や設備は新しい経営者に買収され、現在もスクリプトの社名で好業績を上げている。レオ・フランク事件を題材にした本や小説、映画が現在に至るまで続いている。最近では「メアリー・フェイガンのバラード」という映画で、ジャック・レモンがジョージア州知事ジョン・マーシャル・スレイトンを演じている。スレイトンは検察側の論拠の誤りや矛盾のすべてを詳細に箇条書きにした意見書をつけて、死刑執行猶予を認めるために勇敢に行動した州知事である。(参考:「マーダー・ケースブック56、暴走する狂気リンチ殺人の真実」1996)

 

 

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