生麦事件
生麦村の古写真(横浜開港資料館蔵)
勅使の大原重徳(1801-1879)を警護して薩摩藩兵とともに東海道を下った島津久光(1817-1887)は、文久2年6月7日に江戸高輪の下屋敷に入った。江戸での大原は将軍徳川家茂に朝廷からの沙汰書を渡すとともに朝廷の意向を伝えた。薩摩側の強い働きかけもあって、幕府は将軍後見職に一橋慶喜、大老に松平慶永の就任を認めた。目的を果たした久光は8月21日、高輪の下屋敷を出発し京へ向かった。品川宿で休息をとり、川崎宿で昼食を兼ねた休息をした一行は、鶴見村の辺りで馬に乗って遠出したいたアメリカ領事館の書記官ヴァン・リードと遭遇した。3年前に日本に上陸していたリードは日本の習慣にも通じており、馬を下りて脱帽の上膝をついて頭を下げた姿で行列が過ぎるのを待ったため、何事もなく久光一行も通り過ぎた。だが行列は武州生麦村に通りかかったところで、馬に乗ったイギリス人の男女4人に行き会った。下馬せず行列を横切ろうとしたので、先頭の藩士が抜刀し、商人チャールズ・レノックス・リチャードソンを殺害、他の2人に負傷させた。加害者は同藩士奈良原喜左衛門(1831-1865)、久木村治休、海江田信義(1832-1906)であるが表に出ないで架空の岡野新助ということにした。イギリス公使ニールは、幕府に対し強硬に抗議するとともに、賠償金を要求、別に薩摩藩に対しては犯人引渡しと賠償金を幕府を通じて要求した。文久3年5月9日老中格の小笠原長行は、独断で賠償金をイギリスに支払った。しかし薩摩藩は幕府の説得を拒否したため、イギリスは薩摩藩と交渉、決裂に及んで薩英戦争が開かれた。藩内は、早期講和を主張する国元藩士と、江戸屋敷にいる攘夷による強硬の反対派とに二分していた。この収拾のため大久保一蔵(大久保利通)は、江戸屋敷の反対派に対して、「慰謝料は遺族扶助料の名目として要求どおり7万両を払うが、その金は幕府から借用する」という案を示し、反対派をとりまとめた。文久3年9月28日、横浜で薩英双方の和議は成立した。なお後年、久木村は陸軍中佐、海江田は奈良県知事になっている。
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投稿: http://www.bilderbox.cc/images/140828/633.html | 2014年8月30日 (土) 04時55分