諸葛孔明と司馬懿
長き夜や孔明死する三国志
正岡子規明治29年の句。秋の夜長は、読書の夜でもある。「三国志」は中国の後漢末期から三国時代にかけての群雄割拠していた時代の興亡史である。ことに諸葛孔明は人気がある。子規は誰の三国志を読んでいたのか。まだ幸田露伴、久保天随の本は出版されていない。博文館の帝国文庫であろうか。諸葛亮(181-234)。字は孔明。琅邪郡陽都県の人。前漢の司隷校尉の家系。幼くして父の諸葛珪が死んだため、叔父の諸葛玄に養われた。叔父の死後、南陽の隆中にうつり、徐庶らと交わり、臥龍と称された。徐庶の推挙により劉備に知られ、三顧の礼をもって迎えられたが、このとき天下三分の計を開陳し、以来、劉備と水魚の交わりを結ぶことになった。まもなく、荊州の劉琮が曹操に降伏し、そのため劉備は夏口に逃れた。そこで諸葛亮は使者として呉の孫権のもとにおもむき、連合して曹操にあたるよう説得、これが功を奏して208年11月、赤壁で曹操の軍を大破した。
214年、劉備の蜀入りにさいしては、張飛、趙雲らとともに増援部隊を率いて成都に攻めのぼった。221年、劉備が蜀で漢帝を称すると諸葛亮も丞相となった。223年、劉備の病没にさいしては、国の将来と嗣子・劉禅の行く末をかれの手に託され、以後、蜀の経営に専心した。
225年、みずから南方の鎮定にむかい、後顧の憂いを断ったうえで、227年、魏討伐にむかった。このとき、後主劉禅にたてまつった出師の表は、古来、これを読んで涙を流さぬものは人にあらず、といわれるほどの名文である。
以来、五度にわたる魏討伐戦は、一時は魏の二郡を奪うという戦果をあげたが、最後の二度にわたる戦いは、魏の司馬懿(仲達)の持久戦に苦しめられ、234年、ついに五丈原で陣没した。53歳であった。
孔明の死後の通史の記述は一般に簡潔なのものである。たとえば高校世界史定番の参考書「詳説世界史研究」では、「魏の帝室は曹丕ののち、一族の間での争いからしだいに力を失い、かわって勢力を蓄えたのは司馬氏であった。蜀を滅ぼして2年後、司馬炎は皇帝の位について晋を建国した」とある。要するに司馬懿の名前は記載されていない。我が国では伝統的に、諸葛孔明の尽忠報国の精神を尊び、司馬懿を王室簒奪の不忠者、裏切者とする史観がある。とくに幕末の吉田松陰が司馬懿を激しく非難している。この伝統的な評価は明治・大正の世も受け継がれて、歴史教科書には司馬懿抹殺ということが続いている。一方、本場中国では最近、司馬懿の評価は高い。ドラマ「三国志」(2010)では第4部から出場するがほぼ主役級の扱い。容貌魁偉な倪大紅(ニー・ダーホン)の名演技が光る。(参考:丹羽隼兵・竹内良雄「三国志人物事典」別冊歴史読本中国史シリーズ 1)
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