どうなるジャニーズ
本日は松本潤の39歳誕生日。彼にとっても辛い誕生日となった。ジャニー喜多川の性的虐待問題について、再発防止特別チームは性加害の事実を認定し、藤島ジュリー景子社長の辞任を提言した。BBCが喜多川氏の性加害を報道したことで、国内でもジャニーズ事務所への批判が急速に高まっている。大手企業のCMが検討されている。たとえば木村拓哉の「やっちぇNISSAN」当面は中止せずに継続するが、契約が満了した時点で契約は見直されるもよう。今後のジャニーズ事務所はどうなるのか。戦後、日本のポップス界で黄金時代を飾ったのは渡辺プロダクションとジャニーズ事務所だった。SP盤から17cm45回転シングル盤に移行した頃に登場した音楽がロカビリーである。石原裕次郎主演の映画「陽のあたる坂道」(昭和33年)で腹違いの弟のジミー小池(川地民雄)が新人歌手としてジャズ喫茶で歌う場面があるが、当時の雰囲気がよくでている。ちなみにこの石坂洋次郎の原作小説だが、なんとなく田代信次(石原裕次郎)が「エデンの東」のキャルに似ているように感じるのはケペルだけだろうか。
ともあれ日本のポップス史の劈頭を飾るのは、まず小坂一也とワゴンマスターズであろう。ウエスタンから派生してロッカビリーが登場し、十代の女性を中心に絶大な人気を博した。昭和31年にプレスリーの日本語カヴァー「ハートブレイクホテル」、「アイウォントユー・アイニードユー・アイラブユー」、昭和32年にプレスリーとジェームズ・ディーンの映画主題曲をカップリングしたA面「優しく愛して」B面「ジャイアンツ」が、SP盤と併行して発売された。昭和32年の秋には都内のジャズ喫茶でロカビリー人気が沸騰。これに目をつけた渡辺プロダクションが昭和33年2月、日劇ウエスタン・カーニバルを開催したところ大成功だった。平尾昌章、ミッキー・カーチス、山下敬二郎がロカビリー三人男と呼ばれた。さらに清野太郎、飯田久彦、藤木孝、佐々木功、フランツ・フリーデル、鹿内タカシ(鹿内孝)、スリー・ファンキーズ、克美しげる、ほりまさゆき、清原タケシ、ジミー時田、竹田公彦、坂本九、田辺靖雄、ジェリー藤尾、鈴木やすし、紀本ヨシオ、かまやつひろし、瀬高明、沢雄一、倉光薫、目方誠などの歌手がでた。また歌謡曲とポップスとは未分化であるが松島アキラ、守屋浩、井上ひろし、佐川ミツオ(佐川満男)、石橋イサオ、北原謙二、菊池正夫(城卓矢)などがいる。北原謙二は「若いふたり」で歌謡曲のイメージがあるが、「北風」というウエスタンの古典をヒットさせている。
このようにロカビリーははじめ男だけの世界であったが、アメリカでコニー・フランシスやブレンダ・リーといったガール・シンガーが人気を集めると日本でも女性ポップスが続々でてくる。これまでもジャズ歌手としての江利チエミ、雪村いずみは依然として人気者だったが、テレビ時代になって昭和34年「可愛い花」でザ・ピーナッツがデビューすると、テレビの「ザ・ヒットパレード」「シャボン玉ホリデー」のレギュラーとして活躍しはじめ、森山加代子、田代みどり、渡辺トモ子、斎藤チャ子、弘田三枝子、中尾ミエ、青山ミチ、木の実ナナ、伊藤アイコ、園まり、後藤久美子、ベニ・シスターズ、梅木マリ、安村昌子、麻生京子、伊東ゆかり、スリー・グレイセス、伊藤照子、梶原マチ子、小野ヒロ子、槇みちる、沢リリ子、甲山紀代、梓みちよ、富永ユキ、九重祐三子などのアイドルが活躍した。カヴァー・ポップス全盛期であるので、コニー・フランシス、ジョニー・ソマーズ、シルビー・バルタン、ミーナ、ウィルマ・ゴイク、スキーター・ディヴィス、ペギー・マチー、フランス・ギャルといった世界のヒット曲を子供でも歌えることができた。昭和40年になってベンチャーズ、アストロノウツなどの来日によりエレキ・ブームが起こった。東京ビートルズやスパイダースがデビューしたが、昭和41年6月のビートルズ来日は日本ポップス史の画期的出来事であった。その直後の昭和41年7月のブルー・コメッツの「青い瞳」がでて、日本でもヴォーカル&インストゥルメンタル・グループが可能であることが実証された。昭和42年になると、マスコミはこれら歌中心のエレキ・バンドを「グループサウンド」と命名した。とくに昭和42年2月「僕のマリー」でデビューした沢田研二をはじめとする京都出身のタイガースが、十代の少女達を中心に爆発的な人気を得た。ジャッキー吉川とブルーコメッツ、田辺昭知とザ・スパイダース、寺内タケシとブルージーンズ、加山雄三とランチャーズ、ザ・サベージ、ワイルド・ワンズ、テンプターズ、ゴールデン・カップス、フィンガーズ、ジャイアンツ、ジャガーズ、カーナビーツ、オックス、レイジャーズ、ヴィレッジ・シンガーズ、シャープ・ホークス、シャープ・ファイブ、ズー・ニー・ブー、ザ・リガニーズなど団塊の世代らしく昭和42年から44年までに100有余のグループがレコード・デビューし、500種近くのシングルが発売された。
昭和40年、エイミー・ジャクソンの「涙の太陽」がヒットし、女性がビートに乗ったパンチのある曲を歌った。昭和42年2月、黛ジュンがミニスカートで「恋のハレルヤ」を歌って、ビート・ガールの時代が始まる。歌謡曲の女王の美空ひばりがブルー・コメッツをバックにして「真っ赤な太陽」(昭和42年6月)を歌ったのには正直、驚いた。黛ジュンは「霧のかなたに」(昭和42年7月)、「乙女の祈り」(昭和43年1月)とヒットを連発し、「ひとりGS」の女王的存在だった。とくに「乙女の祈り」の「恋にもえる胸の願いはひとつ、好きな人とかたく結ばれたい」と歌い出しにサビの部分をもってきた「ひとりGS」の特徴を現した名曲といえるだろう。昭和42年10月には中村晃子の「虹色の湖」がヒットした。中村晃子は数年前からテレビにででいたキュートな娘だったが、オールスターワゴンというバックに支えられてヒットに結びついた。翌年には渡辺プロがバックアップした梢みわ「恋のバイカル」がヒツトしている。「シャボン玉ホリディー」など人気歌番組に出演したこととパンチのきいた歌唱法、キュートなルックスで黛ジュンの路線を継承したものである。そのほかに小畑ミキ、葉山エツコ、響かおる、木の実ナナ、鍵山珠理、金井克子、奈美悦子、久美かおり、恵とも子、泉アキ、ジュディ・オング、朱里エイコ、万里れい子、山本リンダ、小山ルミ、由美かおる、ミッチー・サハラ、はつみかんな、麻里圭子、堀内美紀、江美早苗、徳永芽里、川奈ミキ、木下節子、水沢有美、浅尾千亜紀などがいる。いしだあゆみ「ブールライト・ヨコハマ」以前は人気はあったものの、ヒット曲に恵まれなかったが、「太陽は泣いている」(昭和43年3月)が「ひとりGS」の特徴がよくでている。
このほか60年代活躍した歌手でポップ&歌謡曲の区別のつかないシャンソン、ラテン、ハワイアン、ジャズ、フォーク各種ジャンルの大物歌手としては、フランク永井、笈田敏夫、ジェームズ繁田、旗照夫、ペギー葉山、高英男、芦野宏、ウイリー沖山、アイ・ジョージ、水原弘、越路吹雪、藤沢嵐子、石井好子、朝丘雪路、岸洋子、坂本スミ子、西田佐知子、日野てる子、布施明、ジャニーズ、マイク真木、荒木一郎、ちあきなおみ、奥村チヨ、高田恭子など多数いる。
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