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2023年7月10日 (月)

本州の中央になぜ都が置かれなかったのか

  岸田文雄首相が2023年の元日のラジオ番組で歴史上で好きな人物を聞かれ、「徳川家康」と答えた。首相は山岡荘八の小説「徳川家康」を全巻通読したと明かした。凶弾に倒れた安倍を信長に、菅を秀吉に、そして自分を家康になぞらえたのかもしれない。 だが増税、コロナ、物価高対策など課題山積で支持率が低迷。どうする岸田首相。

 「織田がつき羽柴がこねし天下餅 すわりしままに くらう徳川」という歌がある。戦国の乱れた世を統一する事業は、織田信長が土台を固め、豊臣秀吉がその事業を継承し、そのあとの徳川家康が江戸幕府を開き、天下統一の事業を完成させた。

   「鳴かぬなら殺してしまえ時鳥」「鳴かぬなら鳴かせてみしょう時鳥」「鳴かぬなら鳴くまでまとう時鳥」という句は、信長、秀吉、家康の戦国三大英雄の性格の違いをよく表わしたものとしてよく知られているが、もともとある大名の随筆に書きとめられたもので、政治家としての家康の大器がしのばれるであろう。

 ところで日本列島を7のブロックに分けると、関東と関西の間に位置する中部地方は過去に一度も都がおかれていない。奈良、平安、鎌倉、室町、安土桃山、江戸、明治。どの時代も本州の中央にある場所をさけるかのように東西に都が遷都されている。なぜそのようなことがおこなわれたのか。戦国時代は日本中に群雄が割拠した内戦状態が続いたが、やはり平安時代から天皇が居住する御所が置かれた京都に上り、諸国に覇者として号令することであった。地理的にみて美濃の斎藤道三、尾張の織田信長、その家臣の羽柴秀吉、三河の徳川家康が生と死が紙一重であるが、天下人になる順当なコースだったことは必然である。家康が三河を離れ、関東への移封された当時は、まだ草深い未開の地であった。中部地方に都がなかったのは歴史の偶然であるような気がしている。

 

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