農村の窮乏と満州移民
奥山儀八郎の版画による「凶作地を救へ」 のポスター 昭和9年
昭和の開幕は、金融恐慌にはじまり、世界恐慌の荒波に巻き込まれた大不況の時代であった。そして日本の脆弱な資本主義は根底から揺るぎだし、昭和5年の大豊作による米価の大暴落、生糸の暴落によって、農村恐慌が起こった。翌6年に東北・北海道を襲った冷害、昭和8年の三陸地震、昭和9年の大凶作に見舞われ、東北農村は飢餓地獄と化した。そして、この不況と凶作のなかで東北農村では、娘の身売りが多発した。昭和9年11月、山形県の保安課がまとめた娘の身売りの実態調査によると、県内娘の身売りの数は3,298人、内訳は芸妓249人、娼婦1,420人、酌婦1,629人と発表している。当時の東京の娼妓7,540人のうち1,149人(約7分の1)までを山形出身者で占めている。秋田県では県内娘の身売り件数が1万1,182人、前年の4,417人に比べて実に2.7倍も増加した。娘の身売りは人道上のこととして、大きな社会的関心を呼び、これを防止しようと身売り防止のポスターを作って広く呼びかけた。しかし、小作農民の貧しさの根本的解決がないかぎり、娘の身売りの根絶は困難であった。
農村の窮乏の中から、農民たちは立ち上がった。その一つは農村経済更生運動と呼ばれる村おこしであり、その中心は産業組合(現在の農協)を全国的に整備することであった。もう一つは、小作貧農を満州に押しだし、自作農にすることであった。こうして都市と農村の危機は満州移民という排外的国策にからめとられていった。また、日本政府と軍部は、「満州国」の治安対策を目的として、中国人を治めるために日本人の満州への渡航をあおったのである。このように不況下の社会的矛盾は侵略を通して他国に転嫁されていったのである。
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