メソポタミア文明の形成
ナイル流域のエジプトと、ティグリス・ユーフラテス両大河の流域メソポタミア。農耕遺蹟や都市国家成立はどちらが古いのか?1948年、50-51年にアメリカの考古学者ロバート・J・ブレイドウッドらが北イラク、キルクークの東、ザグロス山脈の山麓地帯にあるジャルモ遺跡を発掘した。紀元前7000年頃から紀元前4950年に存在した遺跡で、レバントのイェリコやアナトリアのチャタル・ヒュコク遺蹟とほぼ同時期に存在していた。ジャルモ遺蹟は定住的な村落がはじまったと考えられる。牛・羊が飼育され、穀物が栽培されていた。もっとも、はじめのころの農法は、もっぱら天水にたより肥料もほどこさないものだった。近年はシリアのテル・アブ・フレイア遺蹟から旧石器時代の集落が発見され、ライムギの栽培が確認され、人類最古の農耕の開始とされている。紀元前6000年期前半には、ティグリス川中流域におけるサマラ文化の下で灌漑農耕が始まった。イラク北部のハラフ期(前5000年ころ)に、はじめて灌漑をおこない、沼沢地を農地に変えて、バビロニア南部を開拓したのは、エリドゥ人である。この地方は、新石器時代末までは、定住は全くおこなわれなかった。次のウバイド期(前4000年ころ)になるとシュメール人が南メソポタミア地方のアル・ウバイド、ウル、ウルク、ラガシュ、ウカイルなどにウバイド文化を形成する。シュメール人の原住地は不明で、メソポタミア周辺のセム族の言語でもなく、中央アジアを原住地とするアーリア民族の言語でもないところから、インド原住民との関係があるのではないかといわれている。ともかくシュメール人は前4000年ごろに移住定着し、沼地を干拓し、原始農耕を営んでエリドゥ、ウル、ウルク、ラガシュなどの都市国家を建設し、楔形文字と青銅器農具の使用を発明して、古代オリエント文化の基礎を築いた。とくにラガシュは、紀元前2500年頃から紀元前2000年頃まで、時にはメソポタミアの中心都市として、時には他の帝国の属国として、変遷を遂げながらも存続した。紀元前21世紀の半ばにはラガシュが世界で一番人口の多い都市であった。メソポタミアからパレスチナにおける農耕文明の発生地域を「肥沃な三日月地帯」と言う。アメリカの学者ジェームズ・ヘンリー・ブレステッドがその著書「エジプトの古代記録」で初めて使われた。メソポタミアとはギリシア語で、メソは「間」、ポタモスは「川」のことで、「川と川の間の地」という意味である。
ウルク期になると、人間の集住のあり方でも、村落をこえて都市というべきものが生まれ、かつての小さな祭祀場も、神殿というべきものに発達していった。そして都市神を奉ずる諸都市では、王権が生まれ、シュメール人の諸王朝が成立した。考古学編年としては、ウバイド期、ウルク期、ジュムデト・ナスル期、初期王朝時代へと続く。(Shumer,Sumerians) 世界史
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