ティ・アーモからはじまった恋
イングリッド・バーグマンがロサンゼルスの小さな映画館でイタリアの鬼才ロベルト・ロッセリーニ監督の「無防備都市」を見たのは、1948年の春、彼女32歳の時だった。その後、こんどはニューヨークで「戦火のかなた」を見てバーグマンはたいそう感動して、ロッセリーニ宛てに一通の手紙を書いた。
「親愛なるロッセリーニ様、私はあなたの映画をたいへん楽しく拝見しました。もしスウェーデンの女優が必要でしたら、私は出かけて行き、あなたと映画をつくる用意があります。私は英語はたんのうで、ドイツ語も忘れておりませんが、フランス語はまったく忘れ、イタリア語で知っているのは「Ti Amo」(ティ・アーモ)あなたを愛する、だけです。尊敬をこめて、イングリッド・バーグマン」
バーグマンが「ティ・アーモ」という言葉を知っていたのは、映画「凱旋門」(1948)の彼女のセリフがあったからだ。ロッセリーニからの返事はすぐに届いた。「私にとってもあなたとの仕事は夢でした」と書かれてあった。そしてほどなくパリでの初会合。翌年アメリカでの再会。顔を合わせるたびに二人の心は微妙に触れ合い、マスコミが書きたてる無責任なゴシップを否定しつつも、彼の演出による第1作「ストロンボリ」を撮るためイタリアへ向かったときの彼女は恋人のもとへ急ぐ女心のときめきにあふれていた。バーグマンには37年にスウェーデンで結婚した夫がいた。ピーター・リンドストロームという医者だったが、アメリカへ移住してからはほとんど妻のマネージャーと化し、46年に彼女が離婚話を持ち出して断られて以来、不仲は誰の眼にも明らかな状態であった。
だから彼女は新作の舞台となる火山の島ストロンボリに堕ちつくとほどなく夫へ離婚要請の書状を送ったのだったが、駆けつけてきた彼は2人の前に離婚の拒否を宣言し、妻のあるイタリア人監督と自分の妻との恋の不倫を世間に訴えて、世論を味方に引き入れようとした。
夫を捨て、幼い娘を捨て、自分たちのファンの愛情をも裏切ってイタリアへ去った女優に対するアメリカ人の非難の声が、完全な敵意に変わったのは、彼女がロッセリーニとの愛の結晶を早くも生み落としたというニュースが伝えられてからだ。そんな敵意の渦の中で2人はそれぞれの離婚を急いだが、5つの国に訴訟提起を拒否されたあげく、ようやくメキシコ政府に書類を受理されて、正式に結婚にたどりついたのは1950年5月24日のことだった。
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