犬公方綱吉と生類憐みの令(1685年)
5代将軍徳川綱吉は家康の曽孫にあたる。三代将軍家光には、家綱、綱重、綱吉という3人の子がいた。家光が死んだので、家綱は11歳で将軍になり、40歳で死んだ。次男の綱重は兄より先に35歳で死んだ。そこで三男の館林城主・綱吉が次期将軍になるはずであったが、大老酒井忠清は綱吉はふさわしくないと考えた。理由は綱吉が低身長症を患っていたからだ。しかし綱吉は勇猛果断で学問好きの英明な君主だった。堀田正俊らの意見で綱吉は35歳で5代将軍職についた。彼は剛毅果敢であったが、たぶんに偏執的であった。学問を好み、儒学を奨励した。
綱吉は嗣子徳松が5歳で病死して以来、信心によって嗣子を得ようとしたがいなく、前世において殺生を行った応報であるとする護持院隆光の説を信じ、鳥獣の愛護を志した。当初は、鷹狩をやめたり、鳥・貝類を食膳に供しない程度であったが、次第に極端になり、生類奉行を新設して鳥獣の殺生捕獲を一切禁止するに至った。
歴史上、綱吉が暗君といわれるのはあの「生類憐みの令」のためだろう。「伊勢屋稲荷に犬の糞」という言葉があった。江戸に多いものをいう。江戸に犬が多かったことは、綱吉の「生類憐みの令」とも関係する。俗説では綱吉が戌年生まれであるから、犬を愛護したといわれる。実際は野犬が増えて疫病が発生したからである。「生類憐れみの令」は貞享4年(1687年)1月28日に初めて発布された(近年は貞享2年7月14日とする根崎光男の説が有力となっている)。元禄8年(1695年)11月13日、中野、大久保に犬小屋が設けられ、江戸中の野犬を収容し、お犬奉行以下の役人をおいて丁重に世話をさせた。この令を犯したものは、死罪、遠島などの極刑に処せられたが、誤って刑にふれるものが多く数万人にものぼったという。しかしこの数字はのちの新井白石らの記録によるもので誇大な数字と考えられる。「生類憐みの令」は24年にわたり130もの法令が発令された。とくに宝永4年(1707年)8月11日の法令には、どじょう、うなぎ、鳥を扱う商売が禁止された。
綱吉の悪評は大地震、勅願大火、宝永富士山噴火など自然災害に悩まされた庶民がその原因を為政者に押しつけたからであろう。綱吉は戦国遺風を儒学を重んじる文治政治に変革した名君であった。新田開発などの成功により、減税で庶民の暮らしに余裕がでて元禄文化が生れたのも綱吉の治世の成果である。宝永6年(1709年)、綱吉が死ぬと、生類憐れみの令はすぐに廃止された。近衛基熙はその日の日記に「この将軍の治世には、歳々古事なく、諸民の愁憂は日々に増益した」とある。世上評判の悪い将軍であった。
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保科正之の補佐が大きいですよね。
投稿: | 2017年11月17日 (金) 08時15分