弁慶の「勧進帳」の話はなかった
文治元年、後鳥羽上皇、源頼朝臨席の元、東大寺再建供養が行われた。これは5年前、平重衡による南都焼討で大仏殿が焼失したためである。歌舞伎十八番の演目「勧進帳」。勧進帳とは、お寺に寄付を募るお願いが書いてある巻物で、「安宅」で出てくる勧進帳は東大寺再建の寄付を募る内容だった。 一ノ谷の合戦の後、源義経は頼朝の許しを得ぬまま、官位をもらい、さらに昇殿まで許された。こうした義経の行動に頼朝は激しく立腹した。京の堀河に潜伏した義経はあやうく暗殺されそうになり、ついに都を離れることを決意する。文治三年、雪の吉野山で追ってから逃れたのち、山伏の姿に身を変えた義経主従一行は、大津の浦から琵琶湖を渡り、岐阜から加賀へと北陸道の苦難の旅がはじまる。
歌舞伎「勧進帳」や能「安宅」で知られるように、安宅の関守、富樫左衛門がその正体を怪しんだが情をもって見逃した話や、如意の渡で弁慶が義経を滅多打ちにして渡し守の疑いを晴らしたなどという事績なども、もちろん史書には見当たらない。だが富樫左衛門は実在の人物であるという。富樫氏は、平安中期に活躍した鎮守府将軍藤原利仁の末裔という北陸の名門で、代々、国司のもとで実務を行う在庁官人をつとめる地方豪族だった。富樫左衛門の実名は富樫泰家といい、倶利伽羅峠では燃える松明を牛の角に結びつけ、平家軍に夜襲をかけて、義仲軍を大勝利に導いている。義仲が義経に討たれた後は、頼朝によって加賀国の守護に任ぜられていた。富樫泰家は豪胆な武将だったのだ。はじめて安宅の関の話があらわれるのは「義経記」という軍記物においてである。以後、この「義経記」から謡曲や歌舞伎の安宅の関の名場面がさらに創作されていった。「義経記」が成立したのは、室町時代のことなので、義経に対する庶民人気を反映し、いわゆる「判官びいき」的な話が創作され、こうした「勧進帳」の話が形をなしていったものと思われる。(小和田哲男「誤伝の日本史」)
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