ビリー・ザ・キッドは生きていた
早撃ちのガンマン・ビリー・ザ・キッド(1859-1881)は西部史では最も名が知られた人物で、本日が命日である。しかしその生涯については不明な部分が多い。名前は、ウイリアム・H・ボニー、ヘンリー・マッカーティ、ヘンリー・アントリム、キッド・アントリム、ウィリアム・アントリムなど様々な名前で知られる。生まれは1859年11月23日、父はウィリアム・マッカーティ、母はキャサリーン。凄腕のガンマンとして知られ、生涯に16回のガンファイトで、21歳の短い人生に21人を殺したといわれる。ビリー・ザ・キッドは左ききのガンマンだったといわれる。いや二丁拳銃の使い手だったなど、いろいろな説がある。事実は右ききの一丁拳銃の使い手だった。当時、写真というものが存在した。右側の腰に拳銃を下げたビリーの写真も残されている。しかし、今世紀に入り、さまざまなビリーに関する出版物がでる過程で、ネガを反対にして焼きつけた写真が世に出回ってしまったのだ。
ニューメキシコ州フォート・サムナーの保安官パット・ギャレット(1849-1908)は、1880年12月にビリーを逮捕した。しかし、1881年4月18日、ビリーは脱獄する。メキシコ人の恋人セルサ・グティエッレスを訪ねて行き、知人のピート・マックスウェルの家に身を隠した。7月14日、パットはキッドを暗い寝室で射殺した。キッドの最後の言葉はスペイン語で「誰れ」(キエン・エス)だったという。しかし、実際にはその場の状況は確かでない。パツト・ギャレットはビリーの親しい友人であったので射殺劇を演じてみせ、事実は彼をこっそり見逃したとする説もある。
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