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2023年7月30日 (日)

雑学教室#1

Trivia_2 この世の中には、知らなくたって生きていくのに全然困らないのだけれど、知っていたほうが楽しく生きていけるというお話が無数にある。「新郎が花嫁をお姫様抱っこするのはローマ建国の略奪婚が由来」「リンカンが髭をはやしたわけ」「山の頂上で叫ぶのは、なぜ「ヤッホー!」なのか?」なんて話、知らなくたって、日々の暮らし、仕事になんの支障もない。でも、知っていればそれだけでなんだか楽しくなるし、人に話せば喜ばれること、間違いなし。それが雑学の面白さなのだ。

棒高跳の棒の長さは、ルールで決まっていない。つまり材質・太さ・長さは自由。4メートルが一般的だが5メートルほどのポールを使う選手もいる。▽リンカーンとダーウィンは1809年の同じ日に誕生している。▽動作が鈍重な人を「のろま」というが、江戸中期の野呂松勘兵衛という人形の遣い手がルーツである。▽講談「天保水滸伝」でおなじみの平手造酒。モデルの平田深喜は笹川繁蔵の筆の師匠。剣ではなく書道の達人だった。▽サトウキビの糖蜜または絞り汁を発酵させて作ったラム酒。日本では「バナナ・ボート」の歌がヒットした頃、バーで飲まれるようになった。▽石崎秋子が上流家庭に家政婦として派遣され、その欺瞞ぶりを覗き見る市原悦子主演ドラマ「家政婦は見た」。もとの原作者は松本清張。▽茨城弁「ごじゃっぺ」意味は「でたらめ、いいかげん」。

Langues_de_chat3 ▽細長い独特の形をしたフランスのクッキー「ラング・ド・シャー」。 猫の舌のような形をしているのでそう呼ばれる。▽すしのバッテラは、ポルトガル語でボートを意味するバッテイラからきたもので、形が似ているから。▽宮本武蔵は大男で身長は6尺、およそ180㎝くらいあった。▽「かもめのジョナサン」(リチャード・バック)がベストセラーになった頃、「にわとりのジョナサン」(アルブレヒト・ワインスタイン)も刊行された。▽かぐや姫が紅白歌合戦に出場することになった時、NHK側が「神田川」の歌詞の中の「24色のクレパス」は商品名なので、「クレヨン」に変えて歌ってほしいと言った。南こうせつは悩んだすえ、「歌詞の雰囲気が壊れる」と断り、出場を断念した。

Image1 ▽木版画を摺る際に用いられる「ばれん」を漢字で書くと「馬楝」▽「バカの壁」(養老孟司)というベストセラーがあるが、「アホの壁」(筒井康隆)という本もある。▽豊臣秀吉は右手指が6本あった。▽「女心と秋の空」は元々は「男心と秋の空」だった。▽日本で出版された本でタイトルの五十音に並べると間違いなく1番最初にくるのは、大槻あかね「あ」(こどものとも絵本)である。安藤富治「嗚呼硫黄島」もかなり最初にくるようだ。▽「キンコンカンコン」日本では学校で放送されているチャイムのメロディとして広く知られている。東京都大田区立第四中学校の教諭、井上尚美が1956年にロンドンのビッグベン(ウェストミンスターの鐘)をもとに使用したもの。それまでの鐘の音は空襲の警報や戦争のつらい思い出があるため、子どもたちがよみがえらせないためチャイムを考案したといわれる。(知らなくてもいい雑学,無用の雑学知識集、雑学ブログ) Langue de chat

 

 

 

 

2023年7月29日 (土)

死んでもラッパをはなしませんでした

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  五味清吉画 「木口小平」

 

   明治27年のこの日、日清戦争成歓(安城の渡し)の戦いに、ラッパ手の木口小平(1872-1894)は、敵弾で重傷を負ったけれども、死に至るまでラッパを吹きつづけて、軍の士気を鼓舞した。

 

木口小平ハ 敵ノタマニアタリマシタガ 死ンデモ ラッパヲ クチカラ ハナシマセンデシタ

 

   事実は成歓役のラッパ手は、白神源次郎(1868-1894)であったが、明治35年の小学校教科書に木口小平の名前が掲載されたため、木口の名前のほうが国民全体に広まって浸透していった。(7月29日)

 

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2023年7月25日 (火)

ドーバーの白い崖

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 1909年7月25日、フランスのルイ・ブレリオは飛行機で初のドーバー海峡横断に成功した。当時、航空機によるイギリス入国は想定外のことで、飛行機を「ヨット」で見なして入国手続きを行った。それから僅か3年後、1912年4月16日、ハリエット・クインビー(1875-1912)が女性で初めてドーバー海峡60キロメートルを飛行機で横断した。その前日に起こったタイタニック号の沈没のためにメディアの注目を集めることは殆どなかった。ハリエットは7月に飛行機事故で37歳で亡くなっている。
   むかしアイリーン・ダン主演で「ドーバーの白い崖」という映画があった。戦時下のイギリスのドラマでヴェラ・リンが歌ってヒットした「ザ・ホワイト・クリフズ・オブ・ドーバー」という主題歌もよく知られている。YouTubeでみるとメッサーシュミットの航空ショーの映像がみえる。やはり「ドーバー」は飛行機と結びついて記憶に残っている。(Harriet Quimby,ハリエット・キンビー)

 

 

2023年7月24日 (月)

河童忌

20121022_62236_t河童忌や書架の全集墓碑のごと
           (鈴木まさゑ)

    昭和2年のこの日、芥川龍之介は田端の自室で服毒自殺をする。遺書として久米正雄に托した手紙の中で、動機について「少なくとも僕の場合は唯ぼんやりとした不安である」と記している。享年35歳。稀代の鬼才の短すぎる生涯であった。彼の死後、文藝春秋社主の菊池寛が新人文学賞「芥川賞」を設けた。芥川賞と直木賞は現在も続いている。最新の芥川賞作品は市川沙央「ハンチバック。

3620     芥川龍之介の墓は東京都豊島区の慈眼寺にある。本人の遺言によって墓石は愛用していた座布団と同じ形と寸法で作られている。(7月24日)

 

 

2023年7月21日 (金)

日本三景の日

_ds63834     本日は「日本三景の日」。林鵞峰の1618年の誕生日に因んでいる。日本には「三大○○」と称される名所がある。三大桜は三春滝桜・神代桜・淡墨桜、三名城は名古屋城・姫路城・熊本城、三名園は偕楽園・兼六園・後楽園、三名瀑は華厳の滝・袋田の滝・那智の滝、三古湯は有馬温泉・白浜温泉・道後温泉。しかし、古くから知られるのは松島・天橋立・宮島の日本三景であろう。17世紀、林鵞峰が『日本国事跡考』で絶賛したことに始まる。とくに松島は日本三景随一と称され、芭蕉が旅したことはあまりに有名である。元禄の頃はまだ街道も整備されていなかったが、八代将軍吉宗以後、不便なく旅ができるようになり、各地の名勝は賑った。箱根の関所の手前までなら、通行手形もいらず近場の旅が楽しめる。箱根七湯、江ノ島詣、金沢八景。相州大山詣。江戸から北では、日光東照宮の参拝。華厳の滝など。(7月21日)

 

 

2023年7月19日 (水)

幻化忌

Img_1547000_44783728_0     昭和40年7月19日、梅崎春生は肝硬変で亡くなっている(享年50歳)。昭和21年9月に雑誌「素直」創刊号に発表した「桜島」で戦後文学の新人として文壇に登場した。昭和19年6月に海軍に召集され九州上陸基地を転々とした体験がもとになっている。

いつ、上陸して来るかしら」

「近いうちだろう。もうすぐだよ」

「あなたは戦うのね、戦って死ぬのね」

私は黙っていた。

「ねえ、死ぬのね。どうやって死ぬの。よう、教えてよ。。どんな死に方をするの」

胸の中をふきぬけるような風の音を、私は聞いていた。

妓の、変に生真面目な表情が、私の胸の前にある。どういう死に方をすればいいのか、そのときになってみねば、判るわけはなかった。死というものが、此の瞬間、妙に身近に思われたのだ。覚えず底知れぬ不吉なものが背景を貫くのを感じながら、私は何気ない風を装い、妓の顔を見返した。

「いやなこと、聞くな」

紙のように光を失った顔から、眼だけが不気味に私の顔の表情につきささって来る。右の半顔を枕にぴたりと押しつけた。顔がちいさく、夏蜜柑位の大きさに見えた。

「お互いに、不幸な話は止そう」

「わたし不幸よ。不幸だわ」

妓の眼に、涙があふれて来たようであった。瞼を閉じた。切ないほどの愛情が、どっと私の胸にあふれた。歯を食いしばるような気持ちで、私は女の頬に手をふれていた。

 

 

2023年7月18日 (火)

プチャーチンの来航

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 下田で大破したディアナ号

 

 嘉永6年6月のペリー来航に続いて、7月18日にはロシアの極東艦隊司令長官エフィム・プチャーチンが、4隻の軍艦を率いて長崎港にはいり、開国を要求してきた。要求を拒否されてプチャーチンは、いったん上海に引きあげたが、12月には、ふたたび長崎にきて、川路聖謨、筒井政憲と会談した。安政元年11月、地震が発生し下田に停泊していたディアナ号は沈没した。しかしプチャーチンは粘り強い外交交渉を続け、12月には日露和親条約締結に成功した。野蛮なペリーよりも、礼儀正しいプチャーチンのほうが幕府高官の受けもよく、プチャーチンは日本人が一番好きなロシア人といわれる。(Putyatin,Putjatin)

2023年7月17日 (月)

漫画の日

D0010370_1  1841年のこの日、イギリスの絵入り諷刺週刊誌「パンチ」が発刊された。「漫画の日」は、ほかに手塚治虫の誕生日の11月3日と、命日にあたる2月9日が定められている。いまや日本の漫画は世界的に高い評価を受けている。英語で「MANGA」と呼ばれ、コミック(comic)やカートゥーン(cartoon)とは別格扱いされている。戦後貸本漫画の全盛期は昭和30年から34年まで。単行本だけでなく月刊児童漫画誌も一夜貸しで貸し出していた。当時、人気は「ジャングル大帝」「ダルマくん」「イガグリくん」「よたろうくん」「背番号0」「ライナーくん」「まぼろし探偵」「天馬天兵」「もうれつ先生」「ジャジャ馬くん」(7月17日)

 

 

 

 

シャルロット・コルデー処刑 (1793年)

Photo   革命を推進するジャコバン派の最大の実力者ジャン・ポール・マラー(1743-1793)は、たちの悪い皮膚病に苦しんでいた。1793年7月13日夜7時、ひとりの若い女性がマラーに面会を求めて来た。内妻のシモーヌ・エヴラールは、うさんなものは追い返すことにしていたが、しかし、シャルロットには疑いをもたなかった。地方出らしい娘のバラの頬、そして善良で上品な態度。そのときマラーはいつものように温浴効果のため入浴中だった。(もともとマラーは医者だった)浴室からマラーはこのやりとりを小耳にはさみ、彼女を部屋に通した。

   彼女はかねてからマラーに、故郷の陰謀者たちの情報の提供を約束していた。マラーはジロンド派の名前を問いただし、シャルロットはこれに答えた。「よろしい。これで奴らはみなギロチンゆきだ」このことばを聞いたとき、シャルロットは、胸から包丁を取り出して、マラーの心臓を突き刺した。

   シャルロット・コルデー(1768-1793)。劇詩人のコルネーユの子孫である貧乏貴族の娘としてノルマンディーに生れた。貴族出身のため、ジャコバン派を嫌悪し、ジロンド派を支持するようになる。シャルロットは7月17日に処刑されることになった。死刑場への護送の途中、道端の人々から罵声を浴びせられ、つばをかけられ続けた。しかし、シャルロットは自分のしたことに誇りを持っていたため、胸を張って、誇らしく微笑みを浮かべて、断頭台の露と消えた。シャルロットは、死の直前に画家をよんで自分の肖像を描かせたため、後世の詩人たちによって「暗殺の天使」とうたわれた。彼女の姿を一目見て、後を追い死刑になった青年さえ現れたという。(Jean Paul Marat,Charlotte Corday) 

 

 

2023年7月16日 (日)

ヒーローの恋人は何故それほどの美人じゃないの?

 シルヴェスター・スタローンの出世作「ロッキー」。ヒロインはニューヨークの小さなペットショップで働く眼鏡と毛糸の帽子をかぶった気難しそうな女性エイドリアン。なぜかロッキーは死ぬほど愛してしまう。ヒロインがいるからヒーローは頑張れる。でもタリア・シャイアはスタイル抜群のセクシー女優というタイプではない。スーパーマン(1978)の恋人の記者ロイス・レーンを演じるマーゴット・キダーも神経質で内気そうなタイプ。なぜかハリウッド・ヒーローの恋人はとびきりの美人じゃない。スター・ウォーズのレイア姫キャリー・フィッシャーは姫と言うにはほど遠い見た目である。スパイダーマンの恋人キルスティン・ダンストはましなほうか。

 これと真逆なのがが「男はつらいよ」シリーズ。毎回寅次郎が恋する女性は絶世の美女。目が細くて四角い顔の中年男が美女に恋する気持ちがペーソス漂う人情喜劇となる。

 

 

 

 

エディンバラ城の幽霊

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    7世紀初め、7王国の一つであるノーサンブリアの王エドウィン(在位617-633)が創建し、「エドウィンの城市」と呼ばれたが、これが通称となってエディンバラなる地名が生じた。中世のエディンバラは、国都としてよりもむしろイングランドに対する軍事的都市としての色彩が強かったので、国王にしても、常時ここに在住することきなかった。1296年、城はイングランド王エドワード1世に3日間包囲された末に攻め落とされた。伝説によると、この鼓手は、3日目にイングランド軍が総攻撃を開始したことをスコットランドの人々に知らせるも、頭を耳から耳まですぱりと斬り落とされてしまったのだという。17世紀、城から市の中心部を結ぶ秘密のトンネルが発見された。言い伝えでは、若いバグパイプ吹きがこのトンネルの調査を命じられたという。バグパイプを吹きながらトンネルの中を進み、その音をたどって地上の人々がトンネルの進路を探ろうというのだ。だがバグパイプ吹きは跡形もなく姿を消してしまう。その幽霊が今でも地下通路をさまよい歩いており、城ではそのバグパイプの音が聞こえると言う人もいる。

   エディンバラが名実ともにスコットランド王国の首都となるのは15世紀になってからで、現存するほとんどの建物はこの時以降のものである。スコットランド女王メアリ・ステュアート(在位1561-1568)は仏王フランソア2世と結婚したが死別し、のちにダーリン卿と再婚してジェームズ1世を生む。夫を暗殺させたためイングランドにのがれ、エリザベス1世に頼ったが、旧教徒の女王暗殺事件に連坐し斬首された。

    エディンバラは18世紀になってから整備された碁盤目状の新市街でつくられている。(Edinburgh)

情報時代と検索

Img_2605s   アメリカの社会学者A・トフラーは、著書の「第三の波」の中で人類史を大きく「三つの波」に分け、前8000~前1650年ごろの農耕と定住開始を「第一の波」として「農業革命」とよび「第二の波」を18世紀後半に起こった「産業革命」、そして「第三の波」を20世紀後半に起こった「情報革命」であるとした。

 日本では、1980年代になってから、パソコンやワープロなどのOA機器が普及し始めて、現在では、職場のみならず、一般家庭で誰でもが必要な情報を検索で取り出すことが当たり前になっている。「情報とは何か」。「情報」という言葉は明治時代から使われている。けれどもその当時は、情報そのものに価値を見出していたわけではない。2度にわたる世界大戦を経るなかで、「秘すべきものとしての価値」を意味する言葉として使われるようになる。情報が新たな行動を起こすための原動力となりうるものとして意識されるようになるのは、1950年代以降のことである。

    私は若い頃、図書館で目録カードを作成していたことがある。分類、書名、著者名、件名などの種類がある。アメリカでは辞書体目録といってこれを統一したような目録があると聞いていたが、ついに日本では実現できなかった。やがてコンピューターの時代となってキーワード(検索語)で検索できるシステムが開発された。カード目録式の索引は旧時代のものであるが、本から直接に書誌を作成できる時代に生きたことを喜びに感じている。「検索」ということばは日常的な言葉ではなかったが、スマホ全盛の現在では当たり前にだれでもが「検索」という言葉を用いているが、当時図書館では「情報の探索」とか「調べもの」と呼んでいた。

ここで一般的な検索までの流れを整理しておこう。

step1 調査目的・内容を明確にする

step2 データーベースを選ぶ

step3 検索語を選ぶ

step4 検索式の作成

検索

step5 検索結果の詳細

検索終了

step6 文献の入手

 検索者が思いついた言葉もそのまま検索語として使用できるが、検索漏れを防ぐためにあらかじめ1つの主題に関する検索語を集中化しておく方法(「統制法」)が考えだされました。たとえば、「エアコン」「クーラー」「冷房装置」「暖房装置」は、全て「空気調和装置」という言葉を使いましょうとルールブックのようなもので決めてあります。主な統制語には「シソーラス」と「件名標目」があります。シソーラスという言葉は、ギリシャ語の原意「宝庫」からきており、転じて「辞典、百科辞典その他同類の「知識の宝庫」を意味する用語となった。1852年、イギリスの医師ロジェ(1779-1868)が「英語修辞学辞典」を編集した。本書2部から成り、第1部は著者が着想語とよぶ概念語を体系的に分類排列し、その一つ一つの着想語のもとに、幾通りもの言い回しの言葉や語句を列挙した。この着想語の概念をドキュメンテーションに応用したのが、文献上、ルーン(1896-1964)が最初といわれる。1957年のことである。彼は情報検索用件名標目表をシソーラスとよび、件名標目に当たるキーワードを文献上にあらわれたる用語に結びつけ、キーワードは体系的に分類しておいて、別にキーワードもそうでない用語もすべて一連のアルファベット順に排列した索引と対にした。こうして作られたシソーラスは、上位語と下位語を体系づけて従来の件名標目では果たせなかった検索上の便宜を提供している。

 

 

2023年7月15日 (土)

モンローとコーラ

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  映画「ナイアガラ」(1953年)はマリリン・モンローがセクシー・シンボルとして世界中の男性の注目を浴びた作品として知られる。しかし、この作品にはジーン・ピータース(画像)という当時、売り出しの女優も共演している。彼女は「ナイアガラ」の後、「愛の泉」「折れた槍」「アパッチ」と出演し、ハワード・ヒューズと結婚し映画界から引退した。映画「ナイアガラ」にはコーラが出てくる。コカコーラの独特の「くびれ」のある瓶は、理想の女性の体のライン。ヒップが上がり、ウエストがくびれたホディ・ラインはマリリン・モンローのようである。当時の日本人がコーラの味を知っていたとは思われない。コーラは1886年に発明され、1919年には日本に輸入されている。しかし戦前は適性品で誰も飲むことはでなかった。第二次大戦下、コーラは世界に広がったアメリカ軍に支給され、押収品として一部の軍人が飲んでいたようだ。連続ドラマ「梅ちゃん先生」のコーラの話が出てくる。梅子が代用品でコーラを密造する。本当にあった話かは定かでない。日本コカコーラ株式会社の社史によると、製造開始は1957年6月25日である。したがって、映画「ナイアガラ」公開時、ほとんどの日本人はおそらくコーラの味を知らなかっただろう。

 

 

独歩の出生の秘密

Ip120227tan000018000_0000_mobj   国木田独歩は明治4年のこの日、千葉県銚子に生まれた。父専八、母(淡路)まん。幼名は亀吉、明治22年7月、哲夫と改む。明治30年以後は主として独歩を筆名とする。独歩の出生については異説が多い。

    通説によると、独歩の父親は、播州龍野藩の脇坂氏の家臣で国木田専八という人物とされている。専八は、明治4年に函館の五稜郭に立籠った榎本武揚討伐に仕立てた船の乗組員であり、その船が銚子沖で暴風雨にあった。助けられて銚子の吉野屋という旅籠に滞在中、そこで働いていた淡路善太郎の長女まんという女と知り合い、明治4年に独歩を生んだということになっている。

    ところが、まんはこれより先に雅治郎という米穀商と結婚していたが、事情があって別れ(他に死亡説あり)、同旅籠に奉公中であった。しかし一説によると専八とまんが出会った時にはすでに子供を連れていたという。専八が銚子に着いたのは明治4年ではなくて、早くても明治5年以後だろう。旧戸籍では以上の事情を反映して、亀吉が雅治郎の子であり、まんが亀吉を連れて専八に嫁したと記載されている。この戸籍面を信ずる限り、独歩が専八の実子でないとする説が生まれるが、戸籍以外の事実から判断すると、独歩を専八とまんの実子とするのが妥当である。なお出生年月にもいくつか異説がある。当時専八には故郷の竜野霞城町に妻とく、他三男があった。明治7年には、専八は母の死を契機に先妻とくを離別し、まん、亀吉と共に上京している。東京下谷徒士町脇坂旧藩邸内に別に一家を構えた。明治8年8月7日より司法所省に出仕していた専八は、明治9年3月22日、山口県山口裁判所に奉職のため、一家同地に転任。5月31日、専八は妻とくと正式に離婚、倉太郎、弁太郎、のぶとも事実上絶縁した。

   独歩は山口の小学校時代(錦見小学校)時代に出生の秘密を明らかにされて、しばしば、はっきりと「おまえは徹底的に隠し通せ」と言われたという。独歩は自分の出生の秘密を誰にもあかさなかったが、「運命論者」にはそのまま、養父が「出生の秘密を明らかにするな」と云ったことが中心になっている。独歩の全作品を通じて「孤児」を扱ったものが多いが、孤児という言葉自体も多い。また直接孤児を扱っていないにしても、何か孤独な、生れ故郷も肉親もないところからくる人生の哀感が全体にしみついている。それは、たえず自分の出生に思いをこらしていた、孤児の感慨に襲われていた独歩の深層心理と考えると非常にはっきりしてくるのではないだろうか。(7月15日)

ゲティスバーグ演説 (1863年)

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  1863年7月3日、アメリカ独立戦争の転換点となったゲティスバーグの戦いは北軍の勝利で終結した。戦場に横たわる戦死者の数は、南軍北軍合わせて数千人にのぼった。11月19日、ペンシルヴェニア州南部のゲティスバーグで行われた国立戦没者墓地奉献の式典でリンカン大統領は「人民の、人民による、人民のための政治を地上から消滅させてはならない」と演説した。この演説はわずか2、3分の短いものであったが、後年になって民主主義の真髄を表現する歴史的な名言となった。しかしこのとき、ほとんどの聴衆は疲れて演説を聴いていなかったし、たいした反応もなかった。そして実はこの句はリンカンのオリジナルではなく、イギリスの宗教改革者ジョン・ウィクリフ(1320-1384)が1384年に出版した旧約聖書の序文に書いたものである。それもウィクリフの言葉を直接引用したものではなく、ユニテリアン派の牧師セオドア・パーカー(1810-1860)の著書からの孫引きだった。(Abraham Lincoln,Gettysburg,Theodore Paker)

2023年7月14日 (金)

2023年の夏ドラマ

   月9ドラマ「真夏のシンデレラ」。男女8人の海での恋模様を描く王道ラブストーリー。森七菜、神尾楓珠、間宮祥太郎、吉川愛、仁村紗和。「VIVANT」堺雅人、二階堂ふみ、阿部寛、役所広司、松坂桃李という豪華キャスト。大手商社の社員の堺雅人がVIVANTの謎に巻き込まれていく。「CODE 願いの代償」坂口健太郎の刑事もの。染谷将太、松下奈緒。「ブラックポストマン」表の顔は陽気で落語好きな郵便配達人の副島だが、裏の顔は事件の被害者を救うため加害者を制裁するダークヒーロー。この2つの顔を持つ主人公を田中圭が演じる。「やわ男とカタ子」三浦翔平、松井玲奈、筧美和子。「転職の魔王様」小芝風花、成田凌、石田ゆり子。「カメラ、はじめてもいいですか?」田牧そら、手島美憂。「わたしの一番最悪なともだち」髙石あかり、蒔田彩珠、久間田彬加。「紅さすライフ」大西流星、井桁弘恵。「シッコウ!!犬と私と執行官」伊藤沙莉、織田裕二。「18/40~ふたりなら夢も恋も」深田恭子、福原遥、松本若菜、嵐莉菜。「ウソ婚」菊池風磨、長濱ねる。「リズム」岡本玲、岡本圭人。「君には届かない」前田拳太郎、柏木悠。「こっち向いてよ向井くん」赤埜衛二、生田絵梨花、波瑠、藤原さくら。「ばらかもん」杉野遥亮、遠藤憲一。「ハヤブサ消防団」中村倫也、川口春奈。「この素晴らしき世界」若村麻由美、沢村一樹、木村佳乃。「量産型リコ」与田祐希。「新婚予定日」松田元太、大原櫻子。「癒やしのお隣さんには秘密がある」田辺桃子、前田公輝。「トリリオンゲーム」目黒蓮、佐野勇斗、今田美桜、福本莉子。「警部補ダイマジン」生田斗真、向井理、土屋太鳳。「やさしい猫」優香。「ノッキンオン・ロックドア」松村北斗、西畑大吾。「最高の生徒」畑芽育。「最高の教師 1年後、私は生徒に騙された」松岡茉優、芦田愛菜。「彼女たちの犯罪」深川麻衣、前田敦子、石井杏奈、朝倉あき。「アラウンドクォーター」佐藤大樹、美山加恋、工藤遥。「ハレーションラブ」高橋ひかる。「褒めるひと褒められるひと」森川葵。「何曜日に生まれたの」飯豊まりえ。「初恋、ざらり」小野花梨、風間俊介。海外ドラマでは「コッソンビ 二花院(イファウォン)の秘密」宿屋を営む女性タノと科挙受験生3人が繰り広げるロマンス時代劇。シン・イェウンは「おかえり」「2人の恋は場合の数」に出演した注目の美人女優。

 再放送ドラマにも注目。「スカーレット」「なつぞら」がチャンネル銀河。小芝風花の「妖怪シェアハウス」、高畑充希の「にじいろカルテ」テレ朝。「石の繭 殺人分析班」ファミリー劇場。「秋の童話」がホームドラマチャンネルで再放送される(7月15日・毎週土曜)。「美しき日々」JCOM。

アテネの裁判は美人がトク

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    アテネで民主政がすすむと衆愚政となり、役人はクジで定められた。裁判は陪審制だった。有名なソクラテスは神々の信仰をきずつけ、青年に悪い影響を与えるという理由で、死刑の宣告をうけた。国外逃亡をすすめるものもいたが、ソクラテスは、毒杯をあおいで静かに死んでいった。フリュネという高級娼婦があるとき訴えられた。雄弁家たちが彼女のために弁護してくれたが効果がなく、有罪になりそうだった。そのときフリュネは法廷でパッと裸になった。すると陪審員たちは、「こんな美しいからだに悪い心が宿っているはずがない」といって、彼女を無罪にした。日本中が固唾をのんで見守った小保方晴子の記者会見。彼女が涙を流すと擁護する人が相次いだという。いつの世も美人はトクである。

犬公方綱吉と生類憐みの令(1685年)

E5beb3e5b79de7b6b1e59089851d6    5代将軍徳川綱吉は家康の曽孫にあたる。三代将軍家光には、家綱、綱重、綱吉という3人の子がいた。家光が死んだので、家綱は11歳で将軍になり、40歳で死んだ。次男の綱重は兄より先に35歳で死んだ。そこで三男の館林城主・綱吉が次期将軍になるはずであったが、大老酒井忠清は綱吉はふさわしくないと考えた。理由は綱吉が低身長症を患っていたからだ。しかし綱吉は勇猛果断で学問好きの英明な君主だった。堀田正俊らの意見で綱吉は35歳で5代将軍職についた。彼は剛毅果敢であったが、たぶんに偏執的であった。学問を好み、儒学を奨励した。

   綱吉は嗣子徳松が5歳で病死して以来、信心によって嗣子を得ようとしたがいなく、前世において殺生を行った応報であるとする護持院隆光の説を信じ、鳥獣の愛護を志した。当初は、鷹狩をやめたり、鳥・貝類を食膳に供しない程度であったが、次第に極端になり、生類奉行を新設して鳥獣の殺生捕獲を一切禁止するに至った。
歴史上、綱吉が暗君といわれるのはあの「生類憐みの令」のためだろう。「伊勢屋稲荷に犬の糞」という言葉があった。江戸に多いものをいう。江戸に犬が多かったことは、綱吉の「生類憐みの令」とも関係する。俗説では綱吉が戌年生まれであるから、犬を愛護したといわれる。実際は野犬が増えて疫病が発生したからである。「生類憐れみの令」は貞享4年(1687年)1月28日に初めて発布された(近年は貞享2年7月14日とする根崎光男の説が有力となっている)。元禄8年(1695年)11月13日、中野、大久保に犬小屋が設けられ、江戸中の野犬を収容し、お犬奉行以下の役人をおいて丁重に世話をさせた。この令を犯したものは、死罪、遠島などの極刑に処せられたが、誤って刑にふれるものが多く数万人にものぼったという。しかしこの数字はのちの新井白石らの記録によるもので誇大な数字と考えられる。「生類憐みの令」は24年にわたり130もの法令が発令された。とくに宝永4年(1707年)8月11日の法令には、どじょう、うなぎ、鳥を扱う商売が禁止された。

   綱吉の悪評は大地震、勅願大火、宝永富士山噴火など自然災害に悩まされた庶民がその原因を為政者に押しつけたからであろう。綱吉は戦国遺風を儒学を重んじる文治政治に変革した名君であった。新田開発などの成功により、減税で庶民の暮らしに余裕がでて元禄文化が生れたのも綱吉の治世の成果である。宝永6年(1709年)、綱吉が死ぬと、生類憐れみの令はすぐに廃止された。近衛基熙はその日の日記に「この将軍の治世には、歳々古事なく、諸民の愁憂は日々に増益した」とある。世上評判の悪い将軍であった。

 

 

 

 

ビリー・ザ・キッドは生きていた

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 ビリー・ザ・キッド     パット・ギャレット

 

   早撃ちのガンマン・ビリー・ザ・キッド(1859-1881)は西部史では最も名が知られた人物で、本日が命日である。しかしその生涯については不明な部分が多い。名前は、ウイリアム・H・ボニー、ヘンリー・マッカーティ、ヘンリー・アントリム、キッド・アントリム、ウィリアム・アントリムなど様々な名前で知られる。生まれは1859年11月23日、父はウィリアム・マッカーティ、母はキャサリーン。凄腕のガンマンとして知られ、生涯に16回のガンファイトで、21歳の短い人生に21人を殺したといわれる。ビリー・ザ・キッドは左ききのガンマンだったといわれる。いや二丁拳銃の使い手だったなど、いろいろな説がある。事実は右ききの一丁拳銃の使い手だった。当時、写真というものが存在した。右側の腰に拳銃を下げたビリーの写真も残されている。しかし、今世紀に入り、さまざまなビリーに関する出版物がでる過程で、ネガを反対にして焼きつけた写真が世に出回ってしまったのだ。

  ニューメキシコ州フォート・サムナーの保安官パット・ギャレット(1849-1908)は、1880年12月にビリーを逮捕した。しかし、1881年4月18日、ビリーは脱獄する。メキシコ人の恋人セルサ・グティエッレスを訪ねて行き、知人のピート・マックスウェルの家に身を隠した。7月14日、パットはキッドを暗い寝室で射殺した。キッドの最後の言葉はスペイン語で「誰れ」(キエン・エス)だったという。しかし、実際にはその場の状況は確かでない。パツト・ギャレットはビリーの親しい友人であったので射殺劇を演じてみせ、事実は彼をこっそり見逃したとする説もある。

2023年7月13日 (木)

義経の逃避経路 (亀割山)

 源義経は、吉野山で追手から逃れ、まず敦賀へ出て、そこから越後へ。念珠ヶ関を通って、最上川、白糸の滝、会津の津。そして亀割山(標高594m)は新庄市と最上町との境界に位置するところ迄きた。近くに亀割子安観音という子授けと安産の守り神が祀られている。時は文治2年のこと、山伏に身をやつした義経と十数人の家来と、稚児の姿に身を女たちが、険しい山道を登っていた。亀割山にさしかかったところで、北の方(郷御前)が急に産気づいた。見るに見かねた兼房が、大木の下に敷皮を敷き、ここを応急の産所とした。弁慶が南無八幡大菩薩と願うと、北の方は、無事にお産を終えた。立派な男の子であった。亀割山にちなんで亀鶴御前と名づけられた。めざす平泉はあと少し。義経は亀井六郎と伊勢三郎の二人を平泉へ使者に向かわせた。

はじめてタバコをヨーロッパに広めたのはウォルター・ローリー卿

 1584年のこの日、イギリスの軍人ウォルター・ローリーの探検隊の船が北米ノースカロライナ沖に到着した。エリザベス女王にちなみバージニアと命名する。アンデスの高地で生育する煙草の原料となる植物ルスチカ。現在、ルスチカはニコチンの含有量が多くて大規模に栽培されていないが、最も古い時代、煙草の原料として使われていた。15~16世紀に栄えたインカ帝国の人々はルスチカを愛飲していた。このルスチカを初めて紹介したのはベルギーの植物学者ドドエンス。その著書「薬用植物学全書」(1554年)にはまだ煙草のことは触れられていない。1550年頃フランスに二コティアナ(タバコ属種)を伝えたのはジャン・ニコ(その名はニコチンの由来となっている)。1580年代になると、ルスチカのことは北米の大西洋沿岸部に拠点をもちイギリス人によって知られるようになった。サー・ウォルター・ローリーはイギリスの邸内にルスチカを栽培し、社交界に広めたといわれている。ある日、ウォルター・ローリーが暖炉の前でタバコをふかしていた。今まで、タバコなるものを見たことも聞いたこともなかった召使が、部屋に入ってきて、主人の後姿から煙が上がっているのを見、これは主人の着物に火が付いたかと、バケツの水をざばっと主人に浴びせかけた。火事と間違えて、水をかけたのだ。

タバコの日本への伝来は早かった。タバコとはポルトガル語で、南蛮貿易によって日本語になった。(7月13日)

 

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2023年7月12日 (水)

フォークの歯はなぜ4本なのか

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 16世紀イタリアの初期のフォーク

 

 本日は「洋食器の日」。七(な)一(い)二(ふ)で「ナイフ」の語呂合わせ。中世の人びとはナイフで肉を切り、手づかみで食事をしていた。ナイフが食卓で使われたのは、15世紀以後のことである。ルイ15世紀は先端恐怖症で、ナイフの携帯を禁ずる法令をつくった。貴族社会の人びとがフォークを使いはじめたのは16世紀ころからのことである。ルネサンスのはなやかな舞台となったイタリアでは銀、白鑞(びゃくろう)ときには黄金などの貴金属に華美な彫刻をほどこしたフォークを専門の職人につくらせ、その豪華さと料理の豊かさを自慢しあっていた。4本歯のフォークが登場するのは18世紀のイタリアである。ナポリ国王フェルディナンド4世はスパゲッティが大好物であった。そこで何とか上品に食べられる方法はないかと技術者のチェーザレ・スパダッチーニが4本歯を考案したといわれている。スプーンは16世紀に入ってからだといわれている。(7月12日)

 

 

源頼朝が征夷大将軍に就任(1192年)

500_10881307   治承4年(1180年)、源頼政は、後白河法皇の皇子以仁王の令旨を奉じて挙兵したが、宇治で敗死した。しかし、以仁王の名で発せられた平氏討伐の令旨は、諸国の源氏が挙兵するきっかけとなり、以後10年間、全国的な内乱となった。これまで源平の合戦などと言われてきたが、実はそれだけにとどまらない。源氏の中でも頼朝と義仲、義経のように、互いに対立した。このように対立関係も多様なので、最近では1180年から1189年の頼朝による奥州平定までの戦いを「治承・寿永の内乱」と呼ぶようになっている。

   では本格的な武家政権である鎌倉幕府の成立はいつであろうか。古くから建久3年7月12日、頼朝が後鳥羽天皇によって征夷大将軍に任命されたときとする説があり、近年、「山槐記」に頼朝の征夷大将軍任官の記述も発見された。これは幕府という語の意味に着目したものであるが、現在では1192年説をとなえる学者は少数派である。軍事政権としての幕府が成立した過程が問題となり、さまざまな説がみられる。

   そのなかでも、文治元年(1185年)11月、守護・地頭の任命権を獲得したときを幕府の成立とみる学者は多い。しかし、幕府の基盤は東国にあり、東国の支配権を強調してみるならば、寿永2年(1183年)10月宣旨を重視する学者もいる。これはこれは頼朝が、北条時政を上洛させて、義経の追捕をせまり、それを口実として、諸国に惣追捕使(のちの守護)・地頭(国地頭)を任命する権利と一反あたり5升の兵糧米を徴収する権利などを獲得した時期である。このように鎌倉幕府創設年代は諸説あり、「鎌倉幕府1192年成立」として覚えるのではなく、「1185年は守護・地頭設置」というように、具体的史実を中心に年代をまとめておく。歴史は単なる暗記物ではなく、歴史的事実のうえに立って構成していくものである。

 

 

2023年7月10日 (月)

北海道の魅力

Map300  北海道は広大な大陸である。山も川も、湖も平原も、そして海さえもが本州のそれとはスケールを異にし、しかも文明と原始の自然とがともに併存する天地として、かぎりない魅力と神秘さに満ちている。札幌や函館その他の近代都市にも、北海道開拓の歴史の歩みがその跡をとどめ、ある町は異国的な情緒や青年のような生気を、ある町は哀愁のかげりの表情をみせる。古く蝦夷地とよばれていた道内の各地には、数々の伝統や神々の宿るアイヌのふるさと、神秘な自然がある。そして、船すら着けぬ知床半島、おとずれる人も住む人もまれな広漠とした根釧・サロベツの原野、千古斧を知らぬ大雪山など、秘境の名にふさわしい大自然が横たわっている。北海道には179の市町村がある。道民は35市129町15村、全部いえるのだろうか。4区分が一般的。道央(石狩、空知、胆振、日高、後志)、道南(渡島、檜山)、道北(上川、留萌、宗谷)、道東(網走、十勝、釧路、根室)。画像のように石狩、空知、日胆、後志、道南、上川、留萌宗谷、オホーツク、釧路、十勝という10区分もある。▽北海道の中学生の修学旅行、行き先は約半数が道内、次に東北地方が多い。▽松浦武四郎が蝦夷を調査したとき、アイヌからこの地を「カイ」と呼んでいることを知る。それで日本の「北」にある「カイ」、それに旧領土を指す「道」をつけ「北加伊道(ほっかいどう)」という地名を創案した。これが現在の「北海道」の由来である。▽函館山から眺める町の夜景の美しさはたとえようもなく、武家政治終焉の地・五稜郭やトラピスト・トラピスチヌス修道院がある。また市内には「北海道坂本龍馬記念館」がある。龍馬の甥、直寛は明治に北見に入植している。▽洞爺丸台風があった日(1954年9月26日)岩内町で大火があった。死者35人、行方不明者45人。水上勉の小説「飢餓海峡」では仮名で岩幌大火となっている。▽小樽には、ニシン御殿や、小樽水族館、断崖のオタモイ海岸、など名所も多い。▽札幌は雪まつりをはじめ、四季の行事も多彩で、魅力ある国際観光都市としての役割を果たしている。▽流氷の町網走は北辺の小都市ながら、オホーツク海の漁場をひかえた漁業基地の明るい活気と磯の香りに満ちた町である。美幌峠は釧路と北見の境にある高原である。北見はかつては薄荷の産地で知られたが、近年は常呂といえば「カーリングの町」となっている。だがなんといっても北海道観光の一番人気は富良野のラベンダーの花畑であろう。▽ほつかいどう北海道では水産業もさかんである。道内には釧路港や稚内港など多くの漁港があり、近海のオホーツク海やベーリング海は、たら、さけ、かになどをとる北洋漁業の好漁場である。

 

 

本州の中央になぜ都が置かれなかったのか

  岸田文雄首相が2023年の元日のラジオ番組で歴史上で好きな人物を聞かれ、「徳川家康」と答えた。首相は山岡荘八の小説「徳川家康」を全巻通読したと明かした。凶弾に倒れた安倍を信長に、菅を秀吉に、そして自分を家康になぞらえたのかもしれない。 だが増税、コロナ、物価高対策など課題山積で支持率が低迷。どうする岸田首相。

 「織田がつき羽柴がこねし天下餅 すわりしままに くらう徳川」という歌がある。戦国の乱れた世を統一する事業は、織田信長が土台を固め、豊臣秀吉がその事業を継承し、そのあとの徳川家康が江戸幕府を開き、天下統一の事業を完成させた。

   「鳴かぬなら殺してしまえ時鳥」「鳴かぬなら鳴かせてみしょう時鳥」「鳴かぬなら鳴くまでまとう時鳥」という句は、信長、秀吉、家康の戦国三大英雄の性格の違いをよく表わしたものとしてよく知られているが、もともとある大名の随筆に書きとめられたもので、政治家としての家康の大器がしのばれるであろう。

 ところで日本列島を7のブロックに分けると、関東と関西の間に位置する中部地方は過去に一度も都がおかれていない。奈良、平安、鎌倉、室町、安土桃山、江戸、明治。どの時代も本州の中央にある場所をさけるかのように東西に都が遷都されている。なぜそのようなことがおこなわれたのか。戦国時代は日本中に群雄が割拠した内戦状態が続いたが、やはり平安時代から天皇が居住する御所が置かれた京都に上り、諸国に覇者として号令することであった。地理的にみて美濃の斎藤道三、尾張の織田信長、その家臣の羽柴秀吉、三河の徳川家康が生と死が紙一重であるが、天下人になる順当なコースだったことは必然である。家康が三河を離れ、関東への移封された当時は、まだ草深い未開の地であった。中部地方に都がなかったのは歴史の偶然であるような気がしている。

 

井伏鱒二と福山城

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  本日は小説家・井伏鱒二の忌日。本名は満寿二。明治31年2月15日、広島県深安郡加茂村粟根89番邸(現在の福山市加茂町)に生まれた。父は井伏郁太、母は美耶、鱒二はその次男で本名を満寿二という。父郁太は鱒二が5歳のとき亡くなった。その年、祖父の民左衛門に連れられて福山の町を初めて見物に行く。汽車を見て、初めて写真を撮ってもらったのもこのときである。一番印象に残ったのは福山城だった。井伏が見た福山城の天守閣は昭和20年まであったが、戦災にあって焼失した。現在の天守閣は昭和41年に復元されたものである。

    福山城は元和5年、徳川家康の従兄弟、水野勝成が備後東南部に入封して築城した。3年後、城と城下町が完成し、地名を福山と改めた。当時からの建物で現存するのは、伏見櫓、筋鉄御門、鐘櫓である。井伏は祖父から矢尻を買ってもらったことを覚えている。おそらく、井伏の最初の骨董品であったであろう。(7月10日)

 

2023年7月 9日 (日)

関東地方

   関東地方には、東京・横浜・川崎・さいたまの4つの100万人をこえる都市がある。一都6県を合わせた人口は、日本の総人口の約35%になる。GDPの41%が関東に集中している。政治・経済の中心地として発展してきたが、人口の集中と過密化は大きな問題がある。100年前に首都圏を襲った大震災から今年で100年を迎える。首都直下や南海トラフ大地震がやってくる前に東京一極集中を見直し、経済活動の3割を地方に分散するように考えてもらいたい。

どっちが有名人

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   大正5年のこの日、上田敏が腎臓疾患で急逝した。まだ41歳だった。シュリ・プリュドムとカール・ブッセ、どちらの詩人を知っていますか。「山のあなたの空遠く 幸(さいわい)住むと人のいふ」  やはりカール・ブッセだろう(写真右)。でも世界的には第1回のノーベル文学賞を受賞したシュリ・プリュドムだろうか。わが国では、上田敏「海潮音」の翻訳の影響はとても大きい。ブッセの「山のあなた」以外の詩としては、万足卓が訳した「三人兄弟」(「ドイツ詩評釈」所収)がある。(7月9日)

 

 

2023年7月 8日 (土)

弁慶の「勧進帳」の話はなかった

  文治元年、後鳥羽上皇、源頼朝臨席の元、東大寺再建供養が行われた。これは5年前、平重衡による南都焼討で大仏殿が焼失したためである。歌舞伎十八番の演目「勧進帳」。勧進帳とは、お寺に寄付を募るお願いが書いてある巻物で、「安宅」で出てくる勧進帳は東大寺再建の寄付を募る内容だった。 一ノ谷の合戦の後、源義経は頼朝の許しを得ぬまま、官位をもらい、さらに昇殿まで許された。こうした義経の行動に頼朝は激しく立腹した。京の堀河に潜伏した義経はあやうく暗殺されそうになり、ついに都を離れることを決意する。文治三年、雪の吉野山で追ってから逃れたのち、山伏の姿に身を変えた義経主従一行は、大津の浦から琵琶湖を渡り、岐阜から加賀へと北陸道の苦難の旅がはじまる。

    歌舞伎「勧進帳」や能「安宅」で知られるように、安宅の関守、富樫左衛門がその正体を怪しんだが情をもって見逃した話や、如意の渡で弁慶が義経を滅多打ちにして渡し守の疑いを晴らしたなどという事績なども、もちろん史書には見当たらない。だが富樫左衛門は実在の人物であるという。富樫氏は、平安中期に活躍した鎮守府将軍藤原利仁の末裔という北陸の名門で、代々、国司のもとで実務を行う在庁官人をつとめる地方豪族だった。富樫左衛門の実名は富樫泰家といい、倶利伽羅峠では燃える松明を牛の角に結びつけ、平家軍に夜襲をかけて、義仲軍を大勝利に導いている。義仲が義経に討たれた後は、頼朝によって加賀国の守護に任ぜられていた。富樫泰家は豪胆な武将だったのだ。はじめて安宅の関の話があらわれるのは「義経記」という軍記物においてである。以後、この「義経記」から謡曲や歌舞伎の安宅の関の名場面がさらに創作されていった。「義経記」が成立したのは、室町時代のことなので、義経に対する庶民人気を反映し、いわゆる「判官びいき」的な話が創作され、こうした「勧進帳」の話が形をなしていったものと思われる。(小和田哲男「誤伝の日本史」)

 

 

活動的なファーストレディ

  安倍晋三元首相の襲撃事件からはや1年が経つ。献花台には花が絶えることはないが、昭恵さんには、遺産5億円を注ぎ込み「安倍晋三記念館」を建設する計画があるという。これまでわが国では総理夫人の活動はほとんどメディアの注目するところではなかったが、安倍昭恵さんの頃から海外の例に倣い「ファーストレディ」と呼ばれることもある。女性が輝く時代となったということなのだろうか。さてご本家のアメリカ合衆国バイデン大統領のファーストレディはジル・バイデン。最初の妻は交通事故死し、ジルと再婚。高校の英語教師だった。ヒラリー・クリントン、ジャクリーン・ケネディ・オナシス、エレノア・ルーズベルトも活動的なファーストレディとして知られた。初代ファースト・レディのマーサ・ワシントンや第2代大統領ジョン・アダムズの夫人アビゲイル・アダムズもよく知られている。メアリー・リンカンは悪妻として知られている。明るくて活動的だが、虚栄心が強く、嫉妬心も強かった。

 

 

 

ヴァスコ・ダ・ガマとインド航路

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   16世紀大航海時代をもたらした要因の一つは、香辛料をはじめアジア物産に対するヨーロッパ人の欲求であったが、ヴァスコ・ダ・ガマ(1469-1524)とカリカット領主のやりとりはアジア物産の豊かさを物語っている。1497年7月8日土曜日、ヴァスコ・ダ・ガマはインド航路開拓のためリスボンを出発した。1498年5月20日、ガマは香辛料や宝石の交易で賑わうカリカットに上陸すると、この地の領主ザモリンに面会を求めた。ガマが領主に用意した贈物は、布、帽子、珊瑚玉などである。領主の執事はこれを見て、「とても王様に差し出す品物ではない。アジアの最も貧しい商人でもこれ以上の贈物を持ってくる」と罵った。ガマはどうにか香辛料を手に入れたが、結局、贈物は拒否され、出航許可として税金を命じられた。しかし、ガマはその税金も支払わず、出航を強行したのであった。( Vasco da Gama,Zamorin )

2023年7月 7日 (金)

メソポタミア文明の形成

Sumerian  ナイル流域のエジプトと、ティグリス・ユーフラテス両大河の流域メソポタミア。農耕遺蹟や都市国家成立はどちらが古いのか?1948年、50-51年にアメリカの考古学者ロバート・J・ブレイドウッドらが北イラク、キルクークの東、ザグロス山脈の山麓地帯にあるジャルモ遺跡を発掘した。紀元前7000年頃から紀元前4950年に存在した遺跡で、レバントのイェリコやアナトリアのチャタル・ヒュコク遺蹟とほぼ同時期に存在していた。ジャルモ遺蹟は定住的な村落がはじまったと考えられる。牛・羊が飼育され、穀物が栽培されていた。もっとも、はじめのころの農法は、もっぱら天水にたより肥料もほどこさないものだった。近年はシリアのテル・アブ・フレイア遺蹟から旧石器時代の集落が発見され、ライムギの栽培が確認され、人類最古の農耕の開始とされている。紀元前6000年期前半には、ティグリス川中流域におけるサマラ文化の下で灌漑農耕が始まった。イラク北部のハラフ期(前5000年ころ)に、はじめて灌漑をおこない、沼沢地を農地に変えて、バビロニア南部を開拓したのは、エリドゥ人である。この地方は、新石器時代末までは、定住は全くおこなわれなかった。次のウバイド期(前4000年ころ)になるとシュメール人が南メソポタミア地方のアル・ウバイド、ウル、ウルク、ラガシュ、ウカイルなどにウバイド文化を形成する。シュメール人の原住地は不明で、メソポタミア周辺のセム族の言語でもなく、中央アジアを原住地とするアーリア民族の言語でもないところから、インド原住民との関係があるのではないかといわれている。ともかくシュメール人は前4000年ごろに移住定着し、沼地を干拓し、原始農耕を営んでエリドゥ、ウル、ウルク、ラガシュなどの都市国家を建設し、楔形文字と青銅器農具の使用を発明して、古代オリエント文化の基礎を築いた。とくにラガシュは、紀元前2500年頃から紀元前2000年頃まで、時にはメソポタミアの中心都市として、時には他の帝国の属国として、変遷を遂げながらも存続した。紀元前21世紀の半ばにはラガシュが世界で一番人口の多い都市であった。メソポタミアからパレスチナにおける農耕文明の発生地域を「肥沃な三日月地帯」と言う。アメリカの学者ジェームズ・ヘンリー・ブレステッドがその著書「エジプトの古代記録」で初めて使われた。メソポタミアとはギリシア語で、メソは「間」、ポタモスは「川」のことで、「川と川の間の地」という意味である。

  ウルク期になると、人間の集住のあり方でも、村落をこえて都市というべきものが生まれ、かつての小さな祭祀場も、神殿というべきものに発達していった。そして都市神を奉ずる諸都市では、王権が生まれ、シュメール人の諸王朝が成立した。考古学編年としては、ウバイド期、ウルク期、ジュムデト・ナスル期、初期王朝時代へと続く。(Shumer,Sumerians) 世界史

 

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古代エジプトの形成

   エジプト文明が誕生し、人びとが定住し農耕を開始したのは、およそ紀元前5000年ごろと考えられている。紀元前4500年ごろにはモーリス湖畔にファイユーム文化が成立し、紀元前4400年ごろから上エジプトの峡谷地帯を中心にナカダ文化が興った。「ナイルのたまもの」ということばのとおり、ナイル川が用水と沃土をもたらしただけでなく、重要な交通路でもあった。ここでははやくから流域に多くの村落が分立していた。古代エジプトには伝統的な行政区が42あり、これを「セペト」(sepet)と呼んでいた。現在、歴史用語としては、ギリシア語の「ノモス」(nomos)という呼び名のほうが知られている。国土を行政区に分割する制度は少なくとも初期王朝時代(前3100年)から存在していた。セペトは、それぞれに守護神をもち、ヒエログリフでは運河の形で表される。これは古代エジプトの地方行政の最も重要な事業はナイル河の治水にあったことを物語る。セペトに関する記録は第4王朝(前2613年)から現れるが、その起源は先史時代末期の小王国群に由来するといわれる。中央政府の衰微した時代には、セペトがしばしば独立国家のごとき観を呈した。いくつもの部族国家が徐々に統合されていくつかの国家が誕生した。先史時代の上エジプトの最初のファラオを現代の学者はスコルピオン1世と呼んでいる。これはサソリの女神セルケトに因んだもので、考古学上のナルメルと同一人物であることが有力視されている。やがて紀元前3千年紀年紀前半、ピラミッド建造の第4王朝を含む古王国、ヒクソク人が支配した第15王朝を含む中王国と、第18王朝から新王国に入る。第18王朝は紀元前16世紀前半から約200年間続いた大王朝で、イクナートン王の、太陽神アトンを唯一神とする一神教の宗教改革で知られる。王の築いた王宮跡テル・エル・アマルナから大量の粘土板文書が出土した。

 

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剣豪スタア・阪妻没後70年

 日本映画史において無声映画からトーキーへの転換期に活躍した阪東妻三郎。昭和28年大曽根辰夫監督「あばれ獅子」で勝海舟の父で奔放無頼のの御用人・勝小吉の役で阪妻は撮り始めたが、撮影中に倒れた。持病の高血圧から疲労のため自宅静養していたが、7月7日午後1時15分脳内出血により死去した。51歳没。代表作は「雄呂血」「魔保露詩」「無明地獄」「新納鶴千代」「維新の曲」「無法松の一生」「王将」「破れ太鼓」。

2023年7月 6日 (木)

戦後ハリウッド映画の日本人への影響

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 戦後、アメリカGHQの対日本への民主化政策もあってハリウッド映画が大量に公開された。娯楽に飢えた日本人にとつて、アメリカ映画は、文化であり教養であり青春であった。「我が道を往く」「カサブランカ」「キュリー夫人」「断崖」「荒野の決闘」「心の旅路」「我等の最良の年」「失われた週末」「ママの思い出」「仔鹿物語」「裸の町」「三人の妻への手紙」「女相続人」「虹を掴む男」「イヴの総て」「我が谷は緑なりき」「サンセット大通り」。そしてヴィヴィアン・リー、ロバート・テーラー主演の「哀愁」は昭和24年3月に日本公開され、婦女子の紅涙を絞った。センチメンタルな悲劇の代表として類似映画は世界中にあり、枚挙に遑が無い。ハリスン・フォードの「ハノーバー・ストリート」(1979)はそのリメイクではあるが悲劇性は少ない感がある。日本映画では「君の名は」や「銀座の恋の物語」(記憶喪失の部分は「心の旅路」の影響)などにウォータールー橋ならぬ数寄屋橋が登場する。だが「哀愁」マイラが汚れた職業に堕ち轢死するヒロインの悲劇性を最も忠実に再現した日本映画は浅丘ルリ子主演の「十六歳」(1960)であろう。

 

  玉川せん子(浅丘)は埼玉の米軍基地のある貧しい農家の娘。中学3年生でバトミントン部のキャプテン。健康で明るい少女だが、近所に住むパンパンに好奇心をもつ。中根先生(葉山良二)が好きであるが、本間先生(長門裕之)から就職の斡旋をしてもらう。御礼に本間の下宿を訪れ、レイプされる。そして本間の子を宿すが、堕せといわれる。家出をしたせん子は売春婦となる。ある霧の夜、路上で倒れているせん子を中根が見つける久しぶりの再会であるが、すでに汚れたせん子は逃げ出した瞬間、疾走してきたトレーラーにひき殺される。あらすじのとおり救いようのない悲惨な結末で映画は終わる。当時すでに20歳の浅丘は、中学生をムリなく演じている。名作という評価は聞かないが「哀愁」のペシミズムが見事に再現されている。もちろん恋愛映画としてみた場合、教師と生徒との関係が恋愛としては不十分で、児童文学の映画化という感じはする。原作は打木村治の「雑草のような命」。

 

 

大航海時代

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 貿易圏の拡大をめざしたイベリア半島の2国、ポルトガルとスペインは、その後西ヨーロッパ諸国が巨大なエネルギーを爆発させて大航海時代となる端緒をつくった。ポルトガルはアジアとの間に香辛料を中心とする貿易を拡大し、スペインはアメリカ大陸から大量の金銀を入手して、ヨーロッパに商業革命や価格革命を巻き起こした。中世末の地中海貿易の時代から、西ヨーロッパ人が香料(胡椒)を強く求めていたのは、肉食に原因がある。飼料作物の栽培の発達していなかった当時にあっては、家畜の飼料は自然の牧草にたよっており、冬は牧草が枯れるので、その前に多くの家畜を殺して肉として貯蔵する必要があった。大部分は塩漬けにするが、それでも冬の数ヶ月のうちには臭くなる。この臭みを消すために胡椒が調味料として用いられた。したがって胡椒は彼らにとって必需品であるが、遠い東南アジアから運ばれるためにたいへん高価であり、その取り引きによる多大な利益は、アラビア商人とイタリア商人、とくにヴェニス商人によって独占されていた。そこで新興のスペイン・ポルトガルの商人は、海路東洋に至る道を得て、直接胡椒を手に入れ、その取り引きによる利益の獲得をねらって、地理上の発見に乗り出したのである。ヨーロッパ人の世界進出、大航海時代の到来は胡椒を入手するのが一つの要因であるといえる。ちなみに「大航海時代」という言葉は日本人の造語。1962年に岩波書店から出版企画があったとき増田義郎が「大航海時代叢書」と考えた。それまでは「地理上の発見」と表現されていた。

 

 

アフリカの文明

 アフリカを暗黒大陸と呼ぶのは、もはや間違いである。アフリカは人類が誕生した故郷であり、古来、豊かな文明をはぐくんだ大陸である。人類は約700万年前、最古の人類サヘラントロプス・チャデンシスがアフリカに誕生した。歴史時代にはいってからも、さまざまな民族集団が移動し、混じり合った地域である。アフリカには古代からさまざまな黒人が築いた王国がいくつもあった。それらは、イスラーム世界やヨーロッパなどとの交易で、独自の文明が発達した。しかし、過去の歴史を記録した資料が少なく、正確な歴史を知ることがなかなか困難である。ナイル川流域に発達したエジプト王国は巨大なピラミッドを建設し、文明が発達したことが古くから知られているが、北部のナイル川の上流域にはクシュ王国(前10~後4世紀)が、ニジェール川北部流域にはアフリカ最古の鉄器文化クノ文化(前10~後2世紀)、ザンベジ川流域にはモノモタパ王国(11~16世紀)、南西部のコンゴ川流域にはコンゴ王国(14~19世紀)が、西部のニジェール川流域にはソンガイ王国(15~16世紀)がさかえるなど、いずれも大河を中心にさかえ、金や象牙などの交易が行われていた。とくにガーナ王国は世界有数の貿易地帯で、16世紀から18世紀の時期に、ヨーロッパ諸国の奴隷商人たちがアフリカのベニン湾の沿岸地帯や、内陸から連れて、ヨーロッパやアメリカ大陸へ送り出す奴隷貿易を行った。一説によれば5000万人以上のアフリカ人が奴隷貿易の犠牲者となった。これによってコンゴ王国やアンゴラ王国、モノモタバ王国など労働力を損出したのみならず、社会構造そのものを破壊されるという大きな痛手をこうむった。近年の歴史研究によって次第に明らかになってきているが、17世紀のンドンゴ王国のンジンガ女王はポルトガルに抵抗して独立を獲得したとして民族的英雄として称えられている。しかし1870年代以降におこる西欧諸国の帝国主義によってアフリカは植民地として分割支配された。

2023年7月 5日 (水)

ティ・アーモからはじまった恋

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   イングリッド・バーグマンがロサンゼルスの小さな映画館でイタリアの鬼才ロベルト・ロッセリーニ監督の「無防備都市」を見たのは、1948年の春、彼女32歳の時だった。その後、こんどはニューヨークで「戦火のかなた」を見てバーグマンはたいそう感動して、ロッセリーニ宛てに一通の手紙を書いた。

「親愛なるロッセリーニ様、私はあなたの映画をたいへん楽しく拝見しました。もしスウェーデンの女優が必要でしたら、私は出かけて行き、あなたと映画をつくる用意があります。私は英語はたんのうで、ドイツ語も忘れておりませんが、フランス語はまったく忘れ、イタリア語で知っているのは「Ti Amo」(ティ・アーモ)あなたを愛する、だけです。尊敬をこめて、イングリッド・バーグマン」

    バーグマンが「ティ・アーモ」という言葉を知っていたのは、映画「凱旋門」(1948)の彼女のセリフがあったからだ。ロッセリーニからの返事はすぐに届いた。「私にとってもあなたとの仕事は夢でした」と書かれてあった。そしてほどなくパリでの初会合。翌年アメリカでの再会。顔を合わせるたびに二人の心は微妙に触れ合い、マスコミが書きたてる無責任なゴシップを否定しつつも、彼の演出による第1作「ストロンボリ」を撮るためイタリアへ向かったときの彼女は恋人のもとへ急ぐ女心のときめきにあふれていた。バーグマンには37年にスウェーデンで結婚した夫がいた。ピーター・リンドストロームという医者だったが、アメリカへ移住してからはほとんど妻のマネージャーと化し、46年に彼女が離婚話を持ち出して断られて以来、不仲は誰の眼にも明らかな状態であった。
 だから彼女は新作の舞台となる火山の島ストロンボリに堕ちつくとほどなく夫へ離婚要請の書状を送ったのだったが、駆けつけてきた彼は2人の前に離婚の拒否を宣言し、妻のあるイタリア人監督と自分の妻との恋の不倫を世間に訴えて、世論を味方に引き入れようとした。  
 夫を捨て、幼い娘を捨て、自分たちのファンの愛情をも裏切ってイタリアへ去った女優に対するアメリカ人の非難の声が、完全な敵意に変わったのは、彼女がロッセリーニとの愛の結晶を早くも生み落としたというニュースが伝えられてからだ。そんな敵意の渦の中で2人はそれぞれの離婚を急いだが、5つの国に訴訟提起を拒否されたあげく、ようやくメキシコ政府に書類を受理されて、正式に結婚にたどりついたのは1950年5月24日のことだった。

 

世界地図の歴史

Johptolemymap トレミーの世界地図

 

    古代の人びとは、自分たちの考える世界像を世界地図として表現した。紀元前700年ころのバビロニアで作られた地図では、地球は円盤状で、天空がこれをおおい、自分たちはその中心に住んでいると考えていた。ギリシア時代にも同じような考えがあり、陸地はオケアノスとよばれる大洋に囲まれ、ギリシア神話の神アトラスがこの天空を支えていると考えていた。しかし、当時の世界はバビロニアの地図と違い、地中海をめぐる国々に拡大されていた。アレキサンドリアのエラトステネスは地球の大きさを推定した。さらにローマ時代にはいると、トレミーはアリストテレスの地球球体説に基づき、経緯線を描いて、世界最初の科学的地図を作成した。その範囲は、地中海沿岸から、イギリス・ドイツ、東はインドまで含まれていた。ただ、世界各地の位置、特に経度を正確に実測することができなかった時代なので、東西方向の経度差が実際よりかなり過大に描かれている。中世ヨーロッパでは西ローマ帝国の滅亡とともに、古代科学も衰退し、円盤状の世界観と聖書の記述にしたがった地図が流布した。TとOを組み合わせたような形の「TO図」がその代表である。

2023年7月 4日 (火)

泣斬馬謖(きゅうざんばしょく)

Img_0940   日本でいう「三人寄れば文殊の知恵」と同様のことわざが中国にもある。「平凡な靴屋でも、三人集れば諸葛亮の知恵」(三個臭皮匠、合成一個諸葛亮)という。智謀の軍師・諸葛孔明は兵法だけでなく、知恵の象徴でもある。
    日本では孔明といえば劉備との理想的な君臣関係(「三顧の礼」「水魚の交わり」)として知られ、至誠至忠の臣、南朝の忠臣・楠木正成に比せられることが多い。俗諺に「楠も孔明も跣足」というのがあった。「跣足(せんそく)」とは、はきものをはかない、すあしのこと。智謀の優れたことをいい、よい智恵の出た時などに使う言葉だった。

    孔明の故事で有名なのは「涙を揮って馬謖を斬る」(揮涙斬馬謖」)である。「十八史略」が出典で、孔明は部下の馬謖を可愛がっていたが、彼が命令違反をして街亭の戦いに敗れたので、孔明は泣きながら馬謖を斬って軍律を順守した。上司が私情を捨てて部下を処断する時に使われる。

 

 

数字の魔力

 「嫌よ嫌よも好きのうち」 184(いやよ)を6回足すと1104(いいわよ)になる。数字とは摩訶不思議なものである。

   とくに人の運命は時として数字と深くかかわっていることがある。たとえば、誕生日と死亡日が一致することがある。女優のイングリッド・バーグマンは1915年8月29日に生まれ、1982年8月29日に亡くなっている。これを「生没同日」という。著名人ではほかに小津安二郎と船越英二。坂本龍馬は旧暦の天保6年11月15日に生まれ慶応3年11月15日に亡くなっている。龍馬の命日は「没年月日データーベース」では12月10日となっているが、いまでも旧暦の11月15日を命日とする人もいる。龍馬は奇数と関係が深い。短命ではあったが、歴史的に見ると稀な幸運児だった。
 「ゼロの呪い」という言葉がある。アメリカ大統領には在職中に暗殺もしくは急死をすることが多い。

 

1860年選出のリンカーン(暗殺)
1880年選出のガーフィールド(暗殺)
1900年選出のマッキンレー(暗殺)
1920年選出のハーディング(食中毒か肺炎)
1940年選出のルーズベルト(脳出血)
1960年選出のケネディ(暗殺)

  7月4日といえばアメリカ独立記念日。この祝祭日に2代目大統領ジョン・アダムス、3代大統領トマス・ジェファーソン、5代大統領ジェームズ・モンローらはいずれも同日の7月4日に亡くなっている。長嶋茂雄と背番号3は縁起のいい数字の代表例であろう。昭和33年に巨人に入団、三塁手と数字「3」がラッキーナンバーだった。3が幸運な数字なのは世界共通の奇数信仰による。
   逆に獣の数字といわれる666は不吉な数字として嫌われている。ヨハネの黙示録に記述される数字666はローマ皇帝ネロとも関係するといわれる(ネロのギリシア語表記をヘブライ語に置き換え、これを数値化すると合計が666になる)が、一般にも適用されることがある。阪神大震災は1月17日だったが、1+17=18は獣の数字(6+6+6=18)と一致する。キリスト教では6と666は不吉に数であるが、他の民族でもだいたい悪い意味をもつ。マヤ族においても、6日目は雨と嵐の神々に属する不吉な数である。仏教においても「六(ろく)」は「殺人」「殺傷」、「六字(ろくじ)」は「死ぬこと」を意味する。これは「南無阿弥陀仏」が6文字であるためらしい。フジテレビで放送されたドラマ「ほんとうにあった怖い話」の中の「6番目の部屋」はカラオケボックスの6番という部屋で女高生が体験した奇妙な話であった。現代では「6」が最も不吉な数字とされるようである。
   太古の時代からモノを数える場合に指をつかう。バビロニアの十二進法は4本の指の節の数、つまり4×3=12 から生まれたという説がある。そして13という数が凶数とされるのは、12から「はみでた嫌な数」だからであるという。だがおおむね奇数は縁起の良い数字、偶数は不吉な数字という考え方が古代からどの国や民族にもあるようだ。男は奇数、女は偶数という考えも一般的である。女性は子どもを生むため、2でわれる偶数という考え方があるためという。
   3と7の奇数信仰は顕著にみられる。「三度目の正直」「三度目は定の目」「三度目はみんなうまく行く」(イギリスの諺)など数字にまつわることわざは多数伝えられている。小室圭さんが、昨年二度不合格となったニューヨーク司法試験に三度目で合格したことがニュースとして大きく取り上げられた。英米では「三度目の正直」が大好きなようだ。

アジア文化圏では古代中国の五行思想(木・火・土・金・水)に由来するものも多い。「七・五・三」「三三九度の盃」など3・5・7など奇数は縁起がよいものとしている。とくに7は「ラッキーセブン」「七福神」「七色の虹」「セブンスター」「ウルトラセブン」「女性セブン」など多い。
    太平洋戦争開戦日は昭和16年12日8日である。そして連合艦隊司令長官は山本五十六。つまり16、12、8、56と偶数並びだった。日本の敗北は数字で予言する限り、初めから明らかだった。偶数は不吉である。阪神大震災は午前5時46分、東日本大震災は午後2時46分と、同じ46という数字だった。
    やはり数字には科学では説明できない魔力のようなものが潜んでいるのではないだろうか。

青森県の猿ヶ森砂丘

 日本の巨大砂丘と聞いて、多くの人が鳥取砂丘を思い浮かべるであろう。しかし広さで日本一なのは、青森にある猿ヶ森砂丘である。面積は鳥取砂丘は545haなのに対して、猿ヶ森砂丘は1500haあり、およそ3倍の広さがある。なぜあまり知られていないのか。その理由は、猿ヶ森砂丘が防衛庁の管理地で、自衛隊が兵器の試験場に使用しているため、一般人の立ち入り禁止区域だからである。

 

先ず隗より始めよ

   戦国時代、燕の昭王は、賢者を求めるのに熱心であった。ある日、昭王は宰相郭隗に、どうしたら国を興すに足る人材を得られるか訪ねた。すると、郭隗は答えた。

   「昔、千金をもって千里の馬を求めましたが、三年経ても手に入りません。するとある者が、『私が手に入れましょう』というので、その者に頼んだところ、千里の馬の骨を五百金で買って帰りました。君主が怒りますと、『世間では、死んだ馬でも五百金で買うくらいだから、生きている馬ならどんなに高く買うだろうと人は思います。そのうちにお望みがかないます」と申しました。はたせるかな、一年もたたぬうちに、千里の馬が三頭も手に入ったということです。いま王が、まことに賢才をお求めになるのでしたら、まず私に師としての礼をおとりなさいませ。隗ですらあんなに厚く遇せられるということになれば、私よりすぐれた人物が、千里を遠しとせずに集まることでしょう」

   そこで昭王は、郭隗のために宮殿を新築して、これに師事した。すると、言葉通り、天下の賢士が争って燕に赴いた。(参考:村松暎『新版・十八史略物語 2』河出書房新社 1961)

2023年7月 3日 (月)

世界の中心で、愛をさけぶ

9a7a22d7c0e4732497031495c8be91801  「世界の中心で、愛をさけぶ」は、2001年4月20日発行の片山恭一のベストセラー小説である。一説によると紫咲コウの本の帯にある「泣きながら一気に読みました」というコピーが若者たちにブームの火をつけたといわれている。ただ小説の評価としては、初恋の相手が白血病で死ぬというベタな話が「あまりに通俗的」(朝日新聞2003.12.3記事)であり、斉藤美奈子も香山リカら評論家(?)の意見も若者たちは経験が少ないので陳腐な内容であってもそれを新鮮に感じるという程度の評価であった。ところで紫咲コウのコピーの元ネタは雑誌「ダ・ヴィンチ」のインタビュー記事である。「『世界の中心で、愛をさけぶ』は、久々に純粋に物語として楽しめた作品。本屋さんでみつけて、たまには恋愛ものもいいかなと思って。(笑)これは、泣きながら一気に読みました。それに、全体にユーモアもあって、ちょっとしたひとことも面白いんですよ」とある。

   斉藤美奈子や香山リカには、理解できない、あるいは感じとれない部分を紫咲コウは楽しんで読み取っていたようだ。そのベストセラーの謎をライターズ・ジム(見崎鉄)は「謎解き世界の中心で、愛をさけぶ」という本で丹念な作品研究をしていて面白い。単なる便乗本ではない。とりあえず今回はヒロインの広瀬アキを中心にまだ小説を読んでないかたのために紹介しよう。

広瀬アキのプロフィール 風の谷のナウシカに似ている。性格は明るく勉強もできるために男子に人気がある。中学2年で同じクラスになる前からアキは朔太郎(小説の主人公)のことを見ており、彼の音楽の趣味(ロック)も知っていた。だが自分はロックは苦手で聞かない。また、音楽の授業で歌を歌わされたとき声が小さくて恥をかいたことがある。音痴なのかもしれない。小さいころから、ほとんど風邪もひいたことがなかったのに白血病で夭折する。

名前の謎 朔太郎は、つきあって4年近くもたつのに、アキの本名を季節の「秋」だと思っていた。それが間違いだということをアキの死の数日前に知る。本当の名前は「廣瀬亜紀」が正しい。また、彼女自身も自分の名前を「アキ」と片仮名で書いていた。その理由をアキの母は「面倒くさがり屋なのよ」と言っていた。この自分の名前に対する無頓着さを見崎鉄は次のように分析している。

   つまり「廣瀬亜紀」を「広瀬アキ」と簡略化して書くことに、どういう意味があるのでしょうか。普通、人は「広瀬」が「廣瀬」であることに特別さを見出し、面倒くさくても「廣瀬」と書くものではないでしようか。とくに名前にアイデンティティを託している人はそうですし、女性のほうが姓名判断などの占いを信じる傾向が強いから、なるべく正確に書こうとするものです。アキはこの点で変わっています。アキが漢字で「亜紀」と書かなかったために、名前のもつ呪術効果、つまり父親の願いである「白亜紀のように生命が栄えること」が発揮されなかつたのかもしれません。しかし「廣瀬亜紀」という文字はいかにも重い感じがすることも事実です。アキは自分の名前を「広瀬アキ」と書くことによって、両親の託した思いと表意文字としての漢字の二重の重みから自分を解き放ち軽くなりたかったのかもしれません。では、なぜ平仮名で「あき」とせずに片仮名で「アキ」としたのでしょうか。それは片仮名にしたほうが、「本当は漢字の名前だけど省略して片仮名で書いている」という「省略している」感じがよく伝わるからです。平仮名で「あき」と書いてしまうと、それが本当の記名だと誤解されてしまいますが、片仮名のほうがその可能性が少ないと言えます。また、小説として読むときも、平仮名で「あき」という名前でしたら地の文に埋もれて非常に読みにくくなりますが、片仮名でしたら名前がパッと目に入ってきます。アキが名前に頓着しないたちであることをよくあらわしているのが、朔太郎の呼び方です。「朔太郎」という時代がかった名前を大胆に省略して「朔ちゃん」にしてしまいます。アキの頭の中ではたぶん、もっと簡単に「サクちゃん」となっていたことでしょう。アキの名前に対する無頓着さは、彼女がおおざっぱな性格であることを表わしています。アキが深刻にならないことでこの小説は暗さから救われています。

   紫咲コウが指摘する「全体にユーモアがあって」と見崎鉄のいう「アキが深刻にならないことで小説は暗さから救われている」とは共通するものがある。容姿はナウシカに似た少女、透明感(実在感の希薄性)、無頓着さと明るさ、これらヒロイン広瀬アキの性格をうまく表出できたことが成功の要因の一つと考えられる。

 なお映画化に際しては片山恭一の小説では説明不足な部分があるので、脚本家が17年後の朔太郎と藤村律子との結婚を基本にオーストラリアのアキの遺灰をまくというラストシーンを加筆した。律子は当時9歳で、母親が亜紀と同じ病院に入院していて、2人は知り合いになった。手品を教えてもらうかわりに、亜紀の声を録音したテープを高校の下駄箱に入れる約束をした。しかし最後のテープだけは交通事故に遭い渡せなかった。結婚を前に控えて幼少期に育った四国の町へ赴いた。そこである真実にたどり着く。死んだ亜紀のことが忘れられない朔太郎と一緒にオーストラリアへ行って遺灰をまいて、「二人で世界の中心をつくろう」と誓う。

 

 

2023年7月 1日 (土)

人類ホモ・サピエンスへの道

   現世人類(ホモ・サピエンス)の祖先は、これまでアフリカで生まれたホモ・ハビルスがホモ・エレクトスに進化したと考えられてきた。(わかりやすくいえばラミダス猿人やアファール猿人はヒトの直接の祖先の可能性があると考えられていた)しかし、このたびケニアやイギリスの国際研究チームがケニア北西部のトゥルカナ湖北で6本の歯が残った上あごの化石を発見し、ホモ・ハビルスのものと結論づけた報道があった。(朝日新聞2007.8.9夕刊)今回の発見で、ハビルスとエレクトスは同じアフリカで約50万年間共存していた兄弟分の関係であるという。(つまり親子の関係ではないということか)

   1992年から1993年にかけて、鮮新世初めの440万年前の地層から、ヒトの祖先と思われる化石が発見され、1995年にラミダス猿人(アルディピテクス・ラミダス)と命名された。アファール猿人は1974年以来、エチオピア北東部のアファール低地、タンザニア北部で発見され、今から300万年前にさかのぼる。アファール猿人とアフリカヌス猿人とは約50万年共存していたが、アファール猿人は140万年前ごろには消えて、アフリカヌス猿人のみが残り、ホモ・サピエンスに進化していったと考えられる。更新性中期に入った約70万年前から40万年前ごろを中心に、ホモ・エレクトスとよばれる段階の人類がアフリカからユーラシアに広がっていった。ジャワ原人と北京原人などである。だが、原人と旧人は絶滅してしまった。約20万年前以降に出現した新人が私たちの直接的な祖先である。更新性末期(約4万年から3万年前)になると現代人とほぼ同じ形態の新人(ホモ・サピエンス・サピエンス)が広がった。

ああ、戦中派

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   日本で戦中派といえば、第二次大戦という最も困難な時期に青春を送った世代という意味であろう。いまだいたい100歳以上の世代。このような言葉はドイツはじめ諸外国にはあまりないらしい。日本における戦中派の特色としては、「戦争責任という道徳的な問題から触発されて生まれている。戦争中のギリギリの体験が、戦後になるとすべてむなしくむだになことに思える。それまでの鬼畜米英といっていたかと思うと、8月15日以後は一億総懺悔ということになる」(石田英一郎「日本文化論」)このような思いを一様に抱いて戦後を生きてきたといえよう。ドイツ人には、戦中派意識などは微塵もない。戦争に加担したといいだせば、なにが責任だ、戦争に協力するのが国民として当然である、と割り切ることができる。戦争についてはドイツ国民が一枚岩の感情を持つ続けていたという。ところが日本人は複雑である。ドラマ「泣いてたまるか」の一編に「ああ軍歌」という話がある。渥美清が扮するサラリーマンは宴会で軍歌を歌うことを拒否する。彼には戦争体験があるからだ。しかし同僚のなかにも軍隊経験者はいるが、平気で懐かしんで歌っている。日本人の戦争への感情は一枚岩ではなく、それぞれが複雑な思いを持ち続けている。たとえば戦中派といわれる作家や著述家をみてもそのスタンスはさまざまである。松本清張(1909年生れ)、丸山真男(1914年生れ)、野間宏(1915年生れ)、司馬遼太郎(1923年生れ)などなど。だが「一億総懺悔」という言葉には抵抗があるであろう。戦争指導者の国民に対する責任を国民にすりかえるだけで終わってしまった。そして天皇陛下にお詫びしなければならない・・・という奇妙な論理までがつくりだされてしまった。いまや戦後派、あるいは戦無派の時代となってしまった。

高校世界史 あの「人類進化の図」は間違いだった!?

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 人類はいつごろ誕生したのか。この謎は永遠に続くかもしれない。19世紀の終わりごろ、オランダの軍医ウジェーヌ・デュボワはジャワ島トリニールで化石人類を発見した。当時は50万年前と言われていたが、最新の研究では130万年前といわれる。そして1921年に北京市房山県周口店竜骨山の森林で北京原人の化石が発見された。68万から78万年前と推定されている。その後、人類の祖先はアフリカであると考えられ、100万年前、200万年前、450万年と人類の起源はどんどん遡り、現在では700万年前といわれている。

   世界史教科書は人類進化の説明で始まる。ここ数年、DNAの解析によって人類の進化過程は大きく変化している。だがむかし学校で学んだ誤解はなかなか消せるものではない。大きな誤解の一つは、およそ700万年前に誕生した人類は、アウストラロピテクス(猿人)→ピテカントロプス(原人)→ネアンデルタール人(旧人)→サピエンス(新人)という人間へ向けての進化を示す模式図にある。近年のDNAの研究の結果、わずか10数万年前にアフリカを出た一団が現生人類(ホモ・サピエンス・サピエンス)となって、世界各地に広がり、現代人の祖先となったとする単一起源説が有力である。これに対して、北京原人などが原シナ人と関係するとする多地域起源説を唱える学者も一部にいる。またネアンデルタール人がクロマニョン人と混血したと考える学者もいる。すべての解明は今後の研究を待つしかないが、画像にみられるような猿人、旧人、新人という一直線的な単純な図式はある誤解を生む。伊藤嘉昭の「人間の起原」(紀伊国屋新書、1966年)の「人間へむけてのヒトニザルの進化を示す模式図」(48p)は教科書や副教材に転載され、よく見られた図版の一例である。この図を生徒が見れば、ホモ・エレクトゥスからネアンデルタール人へと進化し、クロマニョン人になったと誤解するだろう。なにか1つの種がほかの種に変わって、そしてまた別の種に変わっていくということはない。偶然に各地で発見された人類化石を発達段階に並べても、絶滅している場合もあるので、相互に関係していないことが多い。かつて20種にもおよぶ人類が誕生と絶滅を繰り返してきた。それは「優れた者が生き残る」という進化の物語とは少し違い、時には強者が絶滅し、弱者が生き残ることもあったと考えられている。また文化的特性にも誤解は多い。北京原人が火を使用したことは歴史学習では常識であったが、現代の欧米の学者たちは北京原人の火の使用までも疑問視している。日本ではネアンデルタール人が花をもって死者を悼み、埋葬したことが広く知れ渡っているが、ネアンデルタール人の前頭葉から考えると、ネアンデルタール人の生死観に懐疑的な見解を示している。ジャワ原人、北京原人、ネアンデルタール人たちは絶滅してしまったのだ。つまり化石人類の文化的特徴を誇張するよりも、むしろ新人との相違を理解させることがより重要ではないだろうか。( keyword;Homo sapiens sapiens ) 参考文献:「図解人類の進化 猿人から原人、旧人、現生人類へ」斎藤成也編 講談社ブルーバックス 2021年11月

 

 

 

戦後日本の経済発展

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   日本の国内生産(GDP)は、米国、中国に次ぐ世界第3位である。戦争によって廃墟と化した日本は「戦後78年」の間に、2度も五輪開催国となって平和主義を希求する世界有数の先進国となった。だが現在の繁栄は廃墟と壕舎の窮乏生活の戦後から始まる。戦争のもたらす恐るべき破壊と損耗について改めて知っておく必要がある。戦争でこうむった国民の被害は、310万人をのぼる多数の戦死傷病者を出したことにある。また空襲によって住居や職場を失い、家族が路頭に迷ったこともある。また戦後の食糧不足から栄養不良となり、餓死したものも多数いたであろう。こうした国民生活の窮乏はなかなか数値に表しにくいものである。岩波講座日本歴史 現代4には「戦時戦後の国富統計」が掲載されている(45頁、島恭彦「戦争と国家独占資本主義」)。これをみても1945年の国富総額は1935年の基準から著しく低下している。

 

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   (単位,百万円)

 戦後、昭和24年までは経済混乱によりインフレが進行していた。自動車産業はドッジラインによる不況もあっで低迷が続いていた。しかし、朝鮮戦争の勃発でアメリカから大量の自動車の注文がおこり、日本経済の復興のきざしがみえた。つまり戦後日本の経済成長の過程には3つのターニング・ポイントがある。1つ目は昭和25年に勃発した朝鮮戦争である。この戦争の兵站基地となった日本では、起死回生の特需ブームに湧いた。2つ目は「もはや戦後ではない」と言い切った昭和31年の経済白書。この言葉通りにゆとりある大衆社会状況が生まれた。3つ目は高度成長のひとつのシンボルとなっている国民所得倍増計画がスタートした昭和37年である。池田勇人は安保闘争で左右の対立を緩和させた。日本はGNP大国に上昇し、伝統的な貧困から脱出した。しかし、物価、環境などの面で新しい難問も発生した。昭和39年のオリンピック東京大会、昭和45年の大阪での日本万国博覧会は、世界に開かれた平和な経済国家としてよみがえつた戦後日本を象徴するイベントとなった。豊かさの象徴と呼ばれていたのが、次々と登場する新しい家庭電化製品である。「三種の神器」といわれた白黒テレビ、電気洗濯機、電気冷蔵庫に始まり、昭和35年ごろには、カラーテレビ、クーラー、ステレオが登場。さらに、ラジオにはFMが加わり、洗濯機は脱水装置付き、冷蔵庫は冷凍庫付きと、新たな技術開発が日進月歩で進んだ。家庭製品を一つ買いそろえるごとに生活レベルが一ランク上がると誰もが信じ、事実、新製品は爆発的に売れた。なぜ日本が世界有数の経済大国にまで発展できたのだろう。戦後の経済成長は予想をはるかに超えたものであった。戦後の日本経済の発展の原因をめぐっては今日、さまざまな角度からの研究が行われている。たとえば、戦後欧米から積極的に新技術を導入し、それを体現化した民間設備投資が精力的に展開されたこと、さらに欧米経済の長期的繁栄に支えられて輸出が世界貿易の増加テンポをはるかに上回つて伸び続けたこと、などが発展の原動力になったとする説明などはその代表的な例である。また、戦後の西ドイツが住宅重視の経済復興に力を入れたのに対し、日本は民間設備投資主導型の高度成長を可能にした、という研究がある。このほか、「日本株式会社」といった表現にみられるように、政治と民間との協力がうまくいったことを強調する説、さらに経営学的アプローチとして、労使協調路線による「日本的経済」に発展の原因を求めようとする分析も盛んである。最近では日本人の勤勉精神にスポットライトを当てて、日本経済発展の原因を探ろうとする試みも始まっている。このように、戦後の経済発展の原因をめぐっては、経済学的アプローチだけではなく、日本人の精神風土の分析など経済学以外の学問分野からの研究も盛んになっている。

 最新の統計によると、2021年の日本の実質GDP実額は536.8兆円で。内閣府による成長率は前年より2.5%増になる見通しである。しかし国交省のよる統計不正が明らかとなり、その影響はどのくらいなのか「現時点では不明」としている。

 

 

 

 

 

 

 

 

ふるさと栃木

    江戸時代、日光に東照宮が造営されてから、宇都宮は北関東の要地となった。だがかつては栃木市に県庁があった。「路傍の石」「真実一路」の山本有三(1887-1974)は栃木市の生れ。日立製作所とソニーの二社の創業者はともに栃木県で生れた。日立製作所の小平浪平(1874-1951)とソニーの井深大(1908-1997)である。演歌界では森昌子、作曲家の船村徹がいる。横綱には栃木山守也は下都賀郡赤麻村(現・下都賀郡藤岡町)の出身。熊本出身の森高千里はおそらく栃木のことはほとんど知らないようだが、「渡良瀬橋」という名曲がある。渡良瀬橋で夕日を見ながら別れた人を思い出す、と言う内容で、今でも多くの歌手がカバーしている。しかしこの渡良瀬川は足尾銅山の開発により排煙、鉱毒ガス、鉱毒水などの有害物質が周辺環境に著しい影響をもたらし、明治23年より田中正造が中心となり、国に問題提起するものの、加害者決定はされなかったという事件が近代史上で重要である。田中正造は下野国小中村(現・佐野市)の生まれ。

 

 

農村の窮乏と満州移民

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  奥山儀八郎の版画による「凶作地を救へ」 のポスター  昭和9年

 昭和の開幕は、金融恐慌にはじまり、世界恐慌の荒波に巻き込まれた大不況の時代であった。そして日本の脆弱な資本主義は根底から揺るぎだし、昭和5年の大豊作による米価の大暴落、生糸の暴落によって、農村恐慌が起こった。翌6年に東北・北海道を襲った冷害、昭和8年の三陸地震、昭和9年の大凶作に見舞われ、東北農村は飢餓地獄と化した。そして、この不況と凶作のなかで東北農村では、娘の身売りが多発した。昭和9年11月、山形県の保安課がまとめた娘の身売りの実態調査によると、県内娘の身売りの数は3,298人、内訳は芸妓249人、娼婦1,420人、酌婦1,629人と発表している。当時の東京の娼妓7,540人のうち1,149人(約7分の1)までを山形出身者で占めている。秋田県では県内娘の身売り件数が1万1,182人、前年の4,417人に比べて実に2.7倍も増加した。娘の身売りは人道上のこととして、大きな社会的関心を呼び、これを防止しようと身売り防止のポスターを作って広く呼びかけた。しかし、小作農民の貧しさの根本的解決がないかぎり、娘の身売りの根絶は困難であった。

 農村の窮乏の中から、農民たちは立ち上がった。その一つは農村経済更生運動と呼ばれる村おこしであり、その中心は産業組合(現在の農協)を全国的に整備することであった。もう一つは、小作貧農を満州に押しだし、自作農にすることであった。こうして都市と農村の危機は満州移民という排外的国策にからめとられていった。また、日本政府と軍部は、「満州国」の治安対策を目的として、中国人を治めるために日本人の満州への渡航をあおったのである。このように不況下の社会的矛盾は侵略を通して他国に転嫁されていったのである。

郵便番号の振り方が「朝敵は後回し」なのは?

   本日は「郵便番号記念日」。1968年のこの日、日本で郵便番号がスタートした。郵便番号の頭2桁を地域番号という。00から99までの割り当ては、北海道から始まって、東京10番台、関東・甲信・東海・近畿・中国・四国・九州・沖縄と南下し、なぜかそこから北陸へ飛んで、新潟・福島・宮城と続き、99山形で終わっている。つまり94・95新潟、96・97福島、98宮城、99山形である。郵便物の集中度合いを考慮しての効率性のためといわれるが、一説によると、戊辰戦争のとき朝敵だった地域を後にまわしたとも言われている。会津戦争、北越戦争は戊辰戦争最大の激戦地だった。そして郵便番号は皇居(〒100-0001)を起点にしている。また900番台の地域には原子力発電所が集中しているのは単なる偶然であろう。本当の理由は、郵便番号が制定された当時、郵便物が主に鉄道で輸送されていた名残だ。最も郵便物の多い東京都から番号を割り振りはじめ、東海道線、山陽線の沿って番号が増えるというように、鉄道網の流れに沿った割り振りになつたのである。董旻物のちなみに英語で郵便番号はなんて言うのか?postal numberではなくて、postal codeという。(7月1日)

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