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2023年7月31日 (月)

ジャン・ジョレス暗殺事件

6oupeu5z     フランス社会党のジャン・ジョレス(1859-1914)は独仏両国の社会主義政党の連携のうえに反戦平和の運動を推進しようとし、1914年サラエボ事件以後の国際情勢が切迫するなか、平和の意志を表明するため急遽パリ大会の招集を提案した。その直後の7月31日、彼はパリのカフェ・クロワッサンでラウール・ヴィラン(1885-1936)という熱狂的な愛国者に暗殺された。このころから各国の社会主義政党内に動揺が起こり、やがて第1次世界大戦が始まる。(Jean Jaures,Raoul Vilain)

 

 

2023年7月30日 (日)

土用の丑の日

土用うし 夫婦二人で鰻一尾

   今日は「土用の丑の日」。全国的にウナギを食べる日とされているけど、なぜこの日に鰻を食べるのか、その由来を調べることは雑学研究の定番ともといえる事柄である。 そもそも天然ものの鰻は初冬が旬である。そして土用といえば、夏のことと思われがちだが、実は年に4回ある。もともとは古代中国の五行説からきたもので、宇宙は木火土金水の五元素から成ると考えられていた。そして、立春、立夏、立秋、立冬のそれぞれ前の18日もしくは19日間を土用といった。つまり季節の変わり目で、土の働きが旺盛になる期間と考えたのであろう。しかし、今日では俳句の季語でも夏であるように、土用といえば夏の土用を指すのが一般的である。今年の土用の丑の日は7月30日に当たる。

    ところで、土用にウナギを食べる習慣は、奈良時代からある。『万葉集』の中で大伴家持が吉田石麿という老人がいくら飯を食べてもやせているのを見て、夏やせにウナギがいいよ、とからかっている歌がある。

石麻呂に吾れもの申す。夏痩せによしといふものぞ むなぎとり召せ   (いつも痩せている石麻呂君よ、夏痩せに良いという鰻でも食べたらどうかね)

   だが江戸時代、夏場に鰻が売れずに困っていた。ある鰻屋が蘭学者の平賀源内に相談し、源内は、さきの大伴家持の歌を思い出し、土用の丑の日にウナギを食えば夏痩せを防ぐことができるという意味から「今日は丑の日」という看板を書いて与えたところ、たちまち広く言い伝えられウナギ屋は大繁昌した。そこで、江戸中のウナギ屋も「今日は丑の日」の看板を掲げたという。こうして「土用の丑の日には鰻」という風習が定着していったといわれる。   地方によっては、丑の日にちなんで、ウのつく食物をとると暑気にあてられないといい、うどん、うり、牛肉などを食べるところもある。

 

 

 

 

雑学教室#1

Trivia_2 この世の中には、知らなくたって生きていくのに全然困らないのだけれど、知っていたほうが楽しく生きていけるというお話が無数にある。「新郎が花嫁をお姫様抱っこするのはローマ建国の略奪婚が由来」「リンカンが髭をはやしたわけ」「山の頂上で叫ぶのは、なぜ「ヤッホー!」なのか?」なんて話、知らなくたって、日々の暮らし、仕事になんの支障もない。でも、知っていればそれだけでなんだか楽しくなるし、人に話せば喜ばれること、間違いなし。それが雑学の面白さなのだ。

棒高跳の棒の長さは、ルールで決まっていない。つまり材質・太さ・長さは自由。4メートルが一般的だが5メートルほどのポールを使う選手もいる。▽リンカーンとダーウィンは1809年の同じ日に誕生している。▽動作が鈍重な人を「のろま」というが、江戸中期の野呂松勘兵衛という人形の遣い手がルーツである。▽講談「天保水滸伝」でおなじみの平手造酒。モデルの平田深喜は笹川繁蔵の筆の師匠。剣ではなく書道の達人だった。▽サトウキビの糖蜜または絞り汁を発酵させて作ったラム酒。日本では「バナナ・ボート」の歌がヒットした頃、バーで飲まれるようになった。▽石崎秋子が上流家庭に家政婦として派遣され、その欺瞞ぶりを覗き見る市原悦子主演ドラマ「家政婦は見た」。もとの原作者は松本清張。▽茨城弁「ごじゃっぺ」意味は「でたらめ、いいかげん」。

Langues_de_chat3 ▽細長い独特の形をしたフランスのクッキー「ラング・ド・シャー」。 猫の舌のような形をしているのでそう呼ばれる。▽すしのバッテラは、ポルトガル語でボートを意味するバッテイラからきたもので、形が似ているから。▽宮本武蔵は大男で身長は6尺、およそ180㎝くらいあった。▽「かもめのジョナサン」(リチャード・バック)がベストセラーになった頃、「にわとりのジョナサン」(アルブレヒト・ワインスタイン)も刊行された。▽かぐや姫が紅白歌合戦に出場することになった時、NHK側が「神田川」の歌詞の中の「24色のクレパス」は商品名なので、「クレヨン」に変えて歌ってほしいと言った。南こうせつは悩んだすえ、「歌詞の雰囲気が壊れる」と断り、出場を断念した。

Image1 ▽木版画を摺る際に用いられる「ばれん」を漢字で書くと「馬楝」▽「バカの壁」(養老孟司)というベストセラーがあるが、「アホの壁」(筒井康隆)という本もある。▽豊臣秀吉は右手指が6本あった。▽「女心と秋の空」は元々は「男心と秋の空」だった。▽日本で出版された本でタイトルの五十音に並べると間違いなく1番最初にくるのは、大槻あかね「あ」(こどものとも絵本)である。安藤富治「嗚呼硫黄島」もかなり最初にくるようだ。▽「キンコンカンコン」日本では学校で放送されているチャイムのメロディとして広く知られている。東京都大田区立第四中学校の教諭、井上尚美が1956年にロンドンのビッグベン(ウェストミンスターの鐘)をもとに使用したもの。それまでの鐘の音は空襲の警報や戦争のつらい思い出があるため、子どもたちがよみがえらせないためチャイムを考案したといわれる。(知らなくてもいい雑学,無用の雑学知識集、雑学ブログ) Langue de chat

 

 

 

 

2023年7月29日 (土)

死んでもラッパをはなしませんでした

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  五味清吉画 「木口小平」

 

   明治27年のこの日、日清戦争成歓(安城の渡し)の戦いに、ラッパ手の木口小平(1872-1894)は、敵弾で重傷を負ったけれども、死に至るまでラッパを吹きつづけて、軍の士気を鼓舞した。

 

木口小平ハ 敵ノタマニアタリマシタガ 死ンデモ ラッパヲ クチカラ ハナシマセンデシタ

 

   事実は成歓役のラッパ手は、白神源次郎(1868-1894)であったが、明治35年の小学校教科書に木口小平の名前が掲載されたため、木口の名前のほうが国民全体に広まって浸透していった。(7月29日)

 

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2023年7月28日 (金)

第一次世界大戦おこる(1914年)

 大正3年6月28日、ボスニアの首都サライェヴォを訪問中のオーストリア皇太子夫妻が、セルビア一青年、ガヴリロ・プリンツィプによって暗殺されるという事件(サラエボ事件)がおきた。翌7月28日、オーストリア=ハンガリーがセルビアに宣戦すると、これをきっかけにドイツ、オーストリアの同盟国側と、ロシア・フランス・イギリスの連合国側との間に戦争がはじまった。ドイツは、中立国ベルギーに侵入してフランスをやぶり、ついで全軍をロシアとの戦いに投入する計画(シュリーフェン・プラン)により、パリに急進撃した。しかし、イギリスとフランスの連合軍の反撃にあい、短期決戦のもくろみは失敗し、ここに第一次世界大戦となった。戦争は、勃発したときはせいぜい半年つづくものと思われた。ところが、予想を裏切って4年以上にわたる長期戦になり、しかも物量戦にもなったため、国家は、経済全体を戦争を支えるために動員し、国民の日常生活にも大きく干渉した。

 日本は、日英同盟にもとづいて連合国側に加わり、ドイツに宣戦を布告して参戦した。陸軍はドイツのアジアにおける根拠地青島をおとしいれ、海軍はドイツ領の南洋諸島を占領した。中国での権益の拡大をはかった大隈内閣は、翌大正4年、袁世凱政府に二十一か条の要求を示し、その大部分を承認させた。  Schlieffen-Plan

 

 

 

 

 

 

千姫の輿入れと巷説坂崎出羽守

   第2代将軍徳川秀忠の長女・千姫は、慶長8年のこの日、7歳で豊臣秀頼に嫁ぐ。千姫の半生は戦国の姫の中でも小説・映画などでトップクラスに多くあるが、史実からほど遠い作品ばかりである。なかでも大阪城落城の件は物語的である。大阪夏の陣で炎につつまれた大阪城からの千姫救出作戦の時、家康は姫を助けた者に妻として与えることを約束した。坂崎出羽守(直盛)は無事に千姫の救出を成し遂げた。しかし千姫は出羽守を嫌って、本多忠刻に嫁ぐことになった。出羽守としては約束を違えられて武士としての面目がたたなかった。 

   元和2年、本多忠刻と再婚のため江戸から桑名に向かおうとしたさい、出羽守は千姫の輿を奪おうと謀ったが、失敗し自害したという。この逸話は史実と巷説とが混在するが、坂崎出羽守は「愛のために死す」武将としてその名を後世に残すことになった。(7月28日)

 

2023年7月27日 (木)

ゴッホの自殺死

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   カラスのいる麦畑

 

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 シャボンヴァルのグレの茅葺き家

 

 オランダの画家ゴッホの自殺死はいわゆる「アンナチュラル・デス」Unnatural Deathである。その死を多くの専門家たちが究明しようとするが未だ謎である。敬虔な信仰心を持っていたゴッホの銃での自殺死は不可解である。ゴッホは1890年7月27日にピストルで自殺を図り、2日後の29日午前1時半に死んだ、と一般に知られている。とくに「カラスのいる麦畑」という絵を描き上げて、その場でピストル自殺をしたと思っている人が多い。それはカーク・ダグラスの映画「炎の人ゴッホ」の影響によるもので、あのシーンはあくまで演出でしかない。有名な「カラスのいる麦畑」が絶筆ではないことは、7月10日頃のテオ宛ての手紙にこの絵と思われる記述があることから明らかである。最晩年と思われる作品は全部で25点あるが、どの絵が絶筆であるかは決定する根拠がなく明らかではない。

Img_0027  ゴッホの25作品の中でとくに変わった1枚がある。「シャポンヴァルのグレの茅葺き家」である。シャボンヴァルとはオーヴェルから1駅はなれた村である。この絵の中には3人の男性が描かれているが、奇妙なのは左端にいる2人である。身なりのみすぼらしい青年のように見える。ゴッホの死に関する話には2人の不良少年(おそらく兄弟)のことがしばしば噂にあがる。そのころゴッホを変人扱いする不良の少年が、女性たちに偽りの誘惑をさせたり、コーヒーに塩を入れたり、ゴッホをからかったりイジメていたらしい。ゴッホとはピストルの件でもトラブルがあった。当時、フランスで人気のあった「ワイルド・ウエスト・ショー」の真似をして少年たちがピストルで遊んでいた。それをみたゴッホが本物のピストルを少年が持ち歩くのは危険を考え、2人からピストルを取り上げた。だが少年がゴッホのラヴ―下宿屋にしのび込んでピストルを奪い返した。そして27日、下宿屋から1.5キロ離れた場所へゴッホを呼び出し、ゴッホを脅している時に誤ってゴッホの胸を撃ってしまう。2人の少年たちは傷を負ったゴッホを夜中に抱えて下宿屋のベッドまで運び逃走してしまった。ゴッホにはまだ意識はあったが、事件を明らかにすることなくそのまま29日に死んだ。なぜ真相を明らかにしなかったのだろうか。事故死よりも自殺のほうが、経済的な負担をかけているテオのために絵が売れると考えたのか。それはあまりにも穿ちすきな勘ぐりで、不良少年の前途を考え、「もはやこれまで。これも人生」とあきらめ、少年たちをかばったというのが真実に近いのではないだろうか。ともかくも手紙のなかでも自殺を嫌悪するゴッホが、自殺をするというのは不自然である。(Les Chaumes du Gre a Chaponval 作品番号F780/JH2115)

 

 

スイカの日

P001   スイカがスーパーでよく売られている。スイカは夏の果物を代表する「横綱」であり、スイカの縞模様を綱に見立て、七(な)2(ツー)七(な)で「夏の綱」とよむ語呂合わせから。スイカが中国から渡来したのは南北朝時代である。義堂周信の漢詩集「空華集」の中で「西瓜」を詠じている。このときは、中国人に倣って「西瓜」を「シャアカ」と発音していたが、時代を経るにしたがって、日本人の発音しやすい「スイカ」に変わってきた、しかし、スイカはなかなか日本人には広まらなかった。当時の人々は赤い果肉が生首を思い出すので食べられなかったという。江戸時代にも由比正雪の乱の翌年、承応元年にスイカが出回ったが、正雪の首だといって食べられなかったという話が伝わる。江戸にスイカが広まったのは万治のころで、京都に広まったのは、寛文から延宝以後とある。明和7年以降、スイカは夏の味覚として広く庶民にまで食べられるようになった。(7月27日)

 

 

ばら寿司と倹約令

Photo  本日は「ちらし寿司の日」。岡山のちらし寿司「ばら寿司」が生まれる切っ掛けとなった備前岡山藩主・池田光政の天和2年の命日。光政は庶民の奢侈を禁止した。特に、神輿・だんじり等を用いた派手な祭礼を禁じ、元日・祭礼・祝宴以外での飲酒を禁じた。このため、備前は米どころであるにもかかわらず、銘酒が育たなかった。現在岡山名物となっている「ばら寿司」の誕生にも光政の倹約令が絡んでいる。倹約令の1つに食事は一汁一菜というのがあり、対抗策として魚や野菜を御飯に混ぜ込んで、これで一菜と称したという。(7月27日)

 

 

2023年7月26日 (水)

幽霊の日

Photo   古いビデオテープで「四谷怪談」(1992年)を観る。伊吹吾朗&八木孝子の新国劇コンビである。これまで映画・ドラマでお岩を演じた女優といえば、鈴木澄子、五月信子、田中絹代、相馬千恵子、中田康子、若杉嘉津子、藤代佳子、岡田茉莉子、稲野和子、南ゆき、関根恵子、高岡早紀、小雪、柴咲コウ、菅野美穂、須藤温子など。

   文政8年7月26日、江戸の中村座で「東海道四谷怪談」が初演された。四谷怪談には、江戸の元禄の頃、実際に起こった事件をモデルにしている。お岩稲荷の文書(文政10年)によると、四谷左門町に住む田宮又左衛門の娘、お岩がいた。19歳のとき疱瘡を患い、片目が潰れており、それを心配した父は浪人の伊右衛門を田宮家の婿にとった。しかし、伊右衛門が心変わりして一方的にお岩を離縁したため、お岩が狂乱して行方不明となり、その後、田宮家で異変が相次いだため、田宮邸の跡地にお岩稲荷を建てたという。これが現在の田宮神社である。現在この向かいの陽運寺にもお岩は祀られている。また、お岩の墓は妙行寺(東京都豊島区東巣鴨)にある。(7月26日)

2023年7月25日 (火)

ドーバーの白い崖

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 1909年7月25日、フランスのルイ・ブレリオは飛行機で初のドーバー海峡横断に成功した。当時、航空機によるイギリス入国は想定外のことで、飛行機を「ヨット」で見なして入国手続きを行った。それから僅か3年後、1912年4月16日、ハリエット・クインビー(1875-1912)が女性で初めてドーバー海峡60キロメートルを飛行機で横断した。その前日に起こったタイタニック号の沈没のためにメディアの注目を集めることは殆どなかった。ハリエットは7月に飛行機事故で37歳で亡くなっている。
   むかしアイリーン・ダン主演で「ドーバーの白い崖」という映画があった。戦時下のイギリスのドラマでヴェラ・リンが歌ってヒットした「ザ・ホワイト・クリフズ・オブ・ドーバー」という主題歌もよく知られている。YouTubeでみるとメッサーシュミットの航空ショーの映像がみえる。やはり「ドーバー」は飛行機と結びついて記憶に残っている。(Harriet Quimby,ハリエット・キンビー)

 

 

2023年7月24日 (月)

我れ色を好まず

Monicalewinsky   古来から、「英雄豪傑、色を好む」と言うが、権力と地位と富がすべて備われば女から自然とよってくるものである。英語でプレイボーイPlayboy、イタリア語seduttore、スペイン語でブルラドルburlador(色事師)、セドゥラトルseductor(誘惑者)、日本には「艶福家」という奇妙な言葉がある。その他「女たらし」「伊達男」「絶倫男」「もて男」など表現はさまざま。西洋はカサノバやドン・ファンを代表とするなら、本邦では業平、光源氏、歴史上の人物では豊臣秀吉や伊藤博文は好色家で知られ、平成の色男は石田純一。平成元年7月24日、宇野宗佑首相が神楽坂の芸者との醜聞が発覚して退陣したのは極めて異例なケース。総理在任期間はわずか69日だった。レーサーのネルソン・ピケはつねに複数の女性がいて誰が正妻かわからないほどの伊達男だった。ビル・クリントン大統領は研修生モニカとは肉体関係を否定したが、ドレスの青い精液がDNA鑑定でクリントン自身のものと断定され、男を下げた。日本でも女性問題で男をさげたセレブリティは枚挙に遑ない。横山ノックもセクハラ事件で晩節を汚したといえるだろう。艶福家にはたえず女性スキャンダルがつきまとう。

河童忌

20121022_62236_t河童忌や書架の全集墓碑のごと
           (鈴木まさゑ)

    昭和2年のこの日、芥川龍之介は田端の自室で服毒自殺をする。遺書として久米正雄に托した手紙の中で、動機について「少なくとも僕の場合は唯ぼんやりとした不安である」と記している。享年35歳。稀代の鬼才の短すぎる生涯であった。彼の死後、文藝春秋社主の菊池寛が新人文学賞「芥川賞」を設けた。芥川賞と直木賞は現在も続いている。最新の芥川賞作品は市川沙央「ハンチバック。

3620     芥川龍之介の墓は東京都豊島区の慈眼寺にある。本人の遺言によって墓石は愛用していた座布団と同じ形と寸法で作られている。(7月24日)

 

 

2023年7月23日 (日)

米騒動の日

Taka25    大正7年のこの日、富山県魚津の主婦たちが米の県外移出を阻止する行動から米騒動が全国に拡大していった。米騒動は8月になって勢いを増し、8月10日には京都と名古屋で大規模な騒動がおきる。13日には18市40町30村におよび、16日にかけて米騒動のピークをむかえる。騒動は、青森・岩手・秋田・沖縄の4県を除いて全国に波及し、9月11日の三池炭鉱を最後に収束。騒動鎮圧のために各地に警察や軍隊が出動し、約30人の死者をだした。7786人が起訴され、一審で2人が死刑、12人が無期懲役となる。この事件で寺内内閣は総辞職した。

  一般に米騒動は大正7年が有名であるが、明治23年1月18日にも富山市で300人余が市役所に押しかけるのを機に、各地に米騒動が広がっている。(7月23日)

 

 

2023年7月22日 (土)

キリスト教の伝来

Photo     天文18年(1549年)7月22日、イエズス会の宣教師フランシスコ・ザビエル(1506-1552)が6人の弟子(パウロ・ヤジロウ、ベルナルド、ロレンソ、マテオ、コスメ・デ・トルレス、フェルナンデス・ジョアン)と共に鹿児島の坊津に上陸した。ザビエルはスペイン・ナバラ生まれのバスク人。ザビエルを同地に案内したのは弟子の一人アンジロー(安次郎。弥次郎とも)だった。薩摩出身のアンジローは殺人を犯してマラッカに亡命していたところを、ザビエルと知り合った。アンジローはザビエルに従い、インドのゴアに赴き、ラテン語やキリスト教の教義を熱心に学んだ。鹿児島では当初、島津貴久の保護を受けて菩提寺福昌寺境内などで布教活動を許され、アンジローの知人や親類をはじめ、150人が洗礼を受けた。後には仏教徒からの妨害と、貿易に伴なう利益に期待した貴久の落胆から、キリスト教への改宗は禁止されるに至った。

    10か月の鹿児島滞在後、ポルトガル船の平戸入港に伴ない、同地に赴き、さらに山口、泉州堺を経て京都に入ったが、状況はザビエルの布教活動を拒否するものだった。以後、山口の大内氏や豊後の大友義鎮(宗麟)に庇護を求めて、布教活動を行なった。天文20年11月20日にザビエルの乗ったポルトガル船は沖の浜からゴアに向けて出帆した。ザビエルの日本滞在はわずか2年3か月だったが、布教活動が我が国のその後に与えた影響は決して少なくない。今時の教科書では「フランシスコ・シャビエル」とスペイン語読みが併記されている。(Francisco Javier 、Francis Xavier)

 

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  ゴアでは10年に一度遺体が公開される。ザビエルは相当なイケメンだったといわれる。

2023年7月21日 (金)

日本三景の日

_ds63834     本日は「日本三景の日」。林鵞峰の1618年の誕生日に因んでいる。日本には「三大○○」と称される名所がある。三大桜は三春滝桜・神代桜・淡墨桜、三名城は名古屋城・姫路城・熊本城、三名園は偕楽園・兼六園・後楽園、三名瀑は華厳の滝・袋田の滝・那智の滝、三古湯は有馬温泉・白浜温泉・道後温泉。しかし、古くから知られるのは松島・天橋立・宮島の日本三景であろう。17世紀、林鵞峰が『日本国事跡考』で絶賛したことに始まる。とくに松島は日本三景随一と称され、芭蕉が旅したことはあまりに有名である。元禄の頃はまだ街道も整備されていなかったが、八代将軍吉宗以後、不便なく旅ができるようになり、各地の名勝は賑った。箱根の関所の手前までなら、通行手形もいらず近場の旅が楽しめる。箱根七湯、江ノ島詣、金沢八景。相州大山詣。江戸から北では、日光東照宮の参拝。華厳の滝など。(7月21日)

 

 

2023年7月20日 (木)

人類、月面着陸(1969年)

Photo_2 1960年代のアメリカはベトナム戦争を背景に学生の反戦運動が始まった。フォークやロックは「愛と平和」や「体制への抵抗」をうたいあげヒッピー文化が花開く。日本でも激しい学生運動が巻き起こり、東大安田講堂や新宿騒乱など大事件が相次いだ。世界が争乱のさなかにあった1968年12月、アポロ8号が宇宙から青く美しい地球の映像を届けた。

   1969年7月16日、二ール・アームストロング船長、マイケル・コリンズ、エドウィン・オルドリンの3名を乗せたアポロ11号はケネディ宇宙センターから発射され、7月20日、アームストロングとオルドリンは人類として初めて月面に降り立った。

That's one small step for a man,one giant leap for mankind.

「これは一人の人間にとっては小さな一歩だが、人類にとっては偉大な飛躍である」とのメッセージを地球に送った。この瞬間はテレビでも放送され世界中が固唾を呑んで見守った。(Apollo,Neil Armstrong,Michael Collins,Edwin Aldrin,Jr.)

2023年7月19日 (水)

禁門の変

  元治元年のこの日、禁門の変がおこる。蛤御門の変ともいう。長州兵が蛤御門に迫ると、会津・桑名の兵と射ち合いになった。頃合を見計らった薩摩も長州兵へ射ちかけたので、ついに長州兵は大敗して退いた。長州藩の久坂玄瑞らは鷹司輔熙邸に立て篭もるが、会津・薩摩・幕府軍の攻撃を受けて焼失する。玄瑞は寺島忠三郎と共に自刃する。数え年25歳だった。真木和泉は山崎天王山で自刃する。(7月19日)

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   久坂玄瑞         寺島忠三郎

 

 

 

 

2023年7月18日 (火)

プチャーチンの来航

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 下田で大破したディアナ号

 

 嘉永6年6月のペリー来航に続いて、7月18日にはロシアの極東艦隊司令長官エフィム・プチャーチンが、4隻の軍艦を率いて長崎港にはいり、開国を要求してきた。要求を拒否されてプチャーチンは、いったん上海に引きあげたが、12月には、ふたたび長崎にきて、川路聖謨、筒井政憲と会談した。安政元年11月、地震が発生し下田に停泊していたディアナ号は沈没した。しかしプチャーチンは粘り強い外交交渉を続け、12月には日露和親条約締結に成功した。野蛮なペリーよりも、礼儀正しいプチャーチンのほうが幕府高官の受けもよく、プチャーチンは日本人が一番好きなロシア人といわれる。(Putyatin,Putjatin)

2023年7月17日 (月)

「あ」 ファースト・ネームから引く人名一覧

Ina_claire_by_blood_of_the_dragond4 「広辞苑」「マイ・ペディア」など総合事典の多くの外国人名の配列は、ファミリー・ネーム(日本の姓にあたる)のカナ表記の50音順であるが、本項ではファースト・ネームの50音順で配列した。▽「アアフメス」前16世紀中頃のエジプトの書記官。▽「アイディード」1934-1996。ソマリアの内戦のきっかけを作った人物。▽「アイナ・クレア」 Ina Claire(1893-1985)はアメリカの舞台女優(右画像)。▽「アイベックス」ヤギ属に属する哺乳類の一種。主にアルプス山脈に生息する。▽「アレクサンデル・セウェルス」第24代ローマ皇帝。▽「アインハルト」770?ー840。カール大帝とルートヴィヒ1世の2代に仕えた廷臣。教育者・歴史家。「カール大帝伝」が有名。▽「アーヴィング・バーリン」1888-1981。アメリカを代表する音楽家。代表曲「ホワイト・クリスマス」「ブルー・スカイ」「イースター・パレード」「オールウェイズ」。▽「アダム・ゴットロープ・エーレンシュレーゲル」1779-1850。デンマークの詩人・劇作家。「アラディンまたは魔法のランプ」「北欧詩集」「ハーコン・ヤール」「コレッジョ」。▽「アティージャ」982ー1054。中央チベット仏教の中興の祖。ディーパンカラシュリ―ジュニャーナ Dipankara Srijnana。▽「アニー・エドソン・テイラー」1901年樽に入ってナイアガラ滝を下り、無事生還した女性。▽「アベル・ガンス」フランスの映画監督。代表作「鉄路の白薔薇」。▽「アミルカル・カブラル」1924-1973。アフリカ独立運動の指導者。▽「アムル・イブン・アル=アース」583-664。第二代カリフ・ウマールの将軍で東ローマを破り、ミスル・アル・フスタート(カイロ市)を建設した。▽「アラン・チューリング」1912-1954。イギリスの数学者。▽「アンリ・ミルヌ・エドワード」は1844年潜水服を着て探検した最初の科学者。▽「A・A・ミルン」1882-1956。「クマのプーさん」フルネームはアラン・アレクサンダー・ミルン。▽「アルドゥス・ピウス・マヌティウス」ルネサンス時代の出版人。▽「アル・キンディー」800ころ~870ころ。イスラム哲学者。「知性論」。▽「アルビン・ワード・グールドナー」1920ー1980。アメリカの社会学者。代表作「産業における官僚制」ダイヤモンド社 1954年。▽「アルベルト・エバリスト・ヒナステラ」1916-1983。アルゼンチンの作曲家。代表作はバレエ音楽「エスシア」(1941)。▽「アルベルト・モッセ」1846-1925。ドイツの法学者。明治初期伊藤博文らの招きで来日。憲法・諸法令の起草をした。▽「アレクサンダー・アーキペンコ」1887-1964。ロシア出身のアメリカの彫刻家。キュビスムの影響を受けた独創的な彫刻スタイルで最もよく知られる。代表作「メドラノⅡ」(グッゲンハイム美術館)。▽「アレクしウス・マイノング」1853-1920。オーストリアの哲学者・心理学者。▽「アン・ブラドストリート」1612-72。詩的感性をもった最初のアメリカ詩人。▽「アルフレート・フォン・ティルピッツ」1848-1920。ドイツの海軍軍人。▽「アーロン・コープランド」1900-1990。米国の作曲家。「エル・サロン・メヒコ(酒場メキシコ)」で名声を高め、「ビリー・ザ・キッド」「ロデオ」「アパラチアの春」などのバレエ音楽で現代アメリカ作曲界の第一人者となった。▽「アンゲラ・ドロテア・メルケル」2005年11月22日、第8代ドイツ連邦共和国首相に選出される。ドイツ史上初めてとなる女性首相。▽「アンジェラ・カーター」1940-92。イギリスの小説家。▽「アンディ・マレー」イギリスのプロテニス選手。▽「アンドリュー・セス」1856-1931。イギリスの観念論の哲学者。▽「アンドレ・デュノワイエ・ド・スゴンザック」1884ー1974。フランスの風景画家。▽「アンナ・パブロワ」1881-1931。ロシアのバレエダンサー。▽「アンヌ・ルイーズ・ジェルメヌ・ド・スタール」1766-1817。一般にスタール夫人。フランスの作家。代表作「ディルフィーヌ」。▽「アンネグレート・クランプカレンバウアー」キリスト教民主同盟の新党首。▽「アンリ・アルカン」1909-2001。映画「ローマの休日」の撮影者。▽「アンリ・デュナン」1828-1910。スイス・国際赤十字創始。

アアウセルラー・アペピ
アアシェフイトエムワセト
アアフメス
アアヤバータ
アイヴァン・ライトマン
アイヴス・マガフィー
アイザック・アシモフ
アイザック・ウォルトン
アイザック・オリヴァー
アイザック・スターン
アイザック・ニュートン
アイザック・メリット・シンガー
ア・イ・シフマン
アイス・キューブ
アイスキュロス
アイスリング・フランシオン
アイソポス
アイダ・ルピーノ
アイダン・クイン
アイディード
アイナ・クレア
アイナル・ハンスン
アイバン・ライトマン
アイラ・フィッシャー
アイリス・チャン
アイリーン・キャッスル
アイリーン・キャラ
アイリーン・グー
アイリーン・ダン
アイリーン・プリングル
アイリーン・ヘッカート
アイリーン・リッチ
アイリン・セジヴィック
アイルトン・セナ
アインハルト
アーヴィング・バーリン
アウグスティン・ルイ・コーシー
アウグストー・ジェニーナ
アウグスト・ストリンドベリ
アウグスト・フェルディナント・メビウス
アウグスト・フォン・ワッセルマン
アウグスト・マッケ
アウド・エゲーテ・ニッセン
アウラングゼーブ
アヴリル・ラヴィーン
アウルス・ウィテッリウス(ローマ皇帝)
アウルス・ゲリウス
アウレリウス・アウグスティヌス
アウレリウス・マクシミアヌス
アウレリオ・ペッチェイ
アウン・サン・スー・チー
アーヴィング・ラングミュア
アエミリウス
アーガー・ムハンマド・カーン
アガサ・クリスティー
アガト(第79代ローマ教皇)
アキ・カウリスマキ
アクエンアテン(古代エジプト王)
アクセリ・ガレン=カレラ
アクタン・アリム・クバト
アクバル
アグネス・スメドレー
アグネス・ムーアヘッド
アゴスティーナ・セガトーリ
アゴスティーノ・カラッチ
アゴスティーノ・キージ
アーウィン・ショウ
アーヴィン・ウェルシュ
アーサー・ウィリアム・テッダー
アーサー・ウェイリー
アーサー・ウェルズリー(ウエリントン卿)
アーサー・キース
アーサー・ジョン・エバンズ
アーサー・ジョン・クロンキスト
アーサー・ケストラー
アーサー・コナン・ドイル
アーサー・コンプトン
アーサー・C・クラーク
アーサー・ストリートン
アーサー・デヴィス
アーサー・ネビル・チェンバレン
アーサー・バルフォア
アーサー・ヒュー・クラフ
アーサー・ヒラー
アーサー・ペン
アーサー・ボイド
アーサー・ホリー・コンプトン
アーサー・マッカーサー・ジュニア
アーサー・マッケン
アーサー・ミラー
アーサー・ルイス
アーシア・アルジェント
アシュトン・カッチャー
アーシュラ・ティリット
アシュリー・グリーン
アシュリー・ジャッド
アシュリー・ティスデール
アショーカ
アーシル・ゴーキー
アスガー・ヨルン
アスタ・ニールセン
アストリッド・リンドグレーン
アストル・ピアソラ
アスパシア
アタナシウス・キルヘル
アダム・エルスハイマー
アダム・ゴットロープ・エーレンシュレーゲル
アダム・サンドラー
アダム・シャール
アダム・スミス
アダム・ミツキエヴィチ
アダム・ラクスマン
アーダルベルト・シュティフター
アタワルパ
アーチボルド・コーチャン
アーチボルド・コックス
アーチボルト・ヒル
アーチボルト・プリムローズ
アーチボルト・マクマード
アーチャボールド・ジョゼフ・クローニン
アッシュル・バニパル
アッテリオ・ガッティ
アッテリオ・モミリアーノ
アッバス・キアロスタミ
アティージャ
アート・カーニー
アート・ガーファンクル
アドリアーン・ファン・オスターデ
アドリアーン・ファン・デ・ヴェルデ
アドリアーン・ファン・デル・ウェルフ
アドリアーン・ファン・デ・フェンネ
アドリアーン・ブラウエル
アドリアン・マリ・ルジャンドル
アドルフ・アイヒマン
アドルフ・ヴァレット
アドルフ・サックス
アドルフ・ティエール
アドルフ・バスチャン
アドルフ・ヒトラー
アドルフ・フォン・バイヤー
アドルフ・フォン・ヒルデブラント
アドルフ・ブーグロー
アドルフ・ベーム
アドルフ・マンジュー
アドルフ・ワーグナー
アナ・ケンドリック
アナ・デ・アルマス
アナ・パキン
アナ・ファリス
アナイス・ニン
アナイリン・バーナード
アナクシメネス
アナクシマンドロス
アナス・フォー・ラスムセン
アナスタシア・二コラエヴナ
アナスタシウス1世(東ローマ皇帝)
アナスタス・ミコヤン
アナソフィア・ロブ
アナトーリイ・ステッセル
アナトール・フランス
アナベラ
アナベラ・シオン
アニー・エドソン・テイラー
アニー・ジラルド
アニー・ローラック
アニエス・バルダ
アニシウス・マンリウス・セベリヌス・ポエティウス
アニセー・アルビナ
アニタ・オデイ
アニタ・エクバーグ
アニタ・ムイ(梅艶芳)
アニタ・ルイーズ
アニヤ・テーラー・ジョイ
アーニョロ・ブロンズィーノ
アブル・ワリ―・イスマエル
アベ・プレヴォ
アベリー・ブランデージ
アヌーク・エーメ
アーネスト・ヴァインシェンク
アーネスト・ウォルトン
アーネスト・クライン
アーネスト・サトウ
アーネスト・シェードザック
アーネスト・トレンス
アーネスト・ダウソン
アーネスト・トンプソン・シートン
アーネスト・バージェス
アーネスト・フランシスコ・フェノロサ
アーネスト・ボーグナイン
アーネスト・ミラー・ヘミングウェイ
アーネスト・メイスン・サトー
アーネスト・ラザフォード
アーネスト・ローレンス
アネット・ベニング
アーノルド・シュワルツェネッガー
アーノルド・シューンベルク
アーノルド・ジョゼフ・トインビー
アーノルド・パーマー
アーノルド・ファンク
アビー・コーニッシュ
アビゲール・アダムズ
アビゲール・セーケ
アビゲール・ブレスリン
アピチャッボン・ウィーラセタクン
アビラ・ヒロン
アービン・カーシュナー
アービング・バーリン
アブデュル・ハミト2世
アブド・アル・カリーム・カーシム
アブドゥルラザク・グルナ
アプトン・シンクレア
アフマッド・スバルジョ
アブラハム・オルテリウス
アブラハム・ブルーマールト
アブラハム・ホンディウス
アブラハム・リンカン
アブラ―ム・ド・モアブル
アベベ・ビキラ
アベラール・エリウゲナ・アンセルムス
アベリー・ブランデージ
アベル・ガンス
アベル・ヤンスゾーン・タスマン
アーマッド・シャマル
アマル・クルーニー
アマンダ・サイフリッド
アマンダ・スタントン
アマンダ・バインズ
アマンダ・プラマー
アーマンド・アサンテ
アーミー・ハマー
アミルカル・カブラル
アミルカレ・ボンキエッリ
アムル・イブン・アル=アース
アムルサナー
アメデオ・アボガドロ
アメデオ・モディリアーニ
アーメッド・スカルノ
アメリア・メリー・エアハート
アメリカ・フェレーラ
アメリゴ・ベスプッチ
アーヤットラー・ルーホッラー・ホメイニー
アラ・ナジモヴァ
アーラ・プガチョワ
アラ・ボリソヴナ・プガチョワ
アラム・ハチャトリアン
アラルート・ファン・エーフェルディンゲン
アラン・アーキン
アラン・アレクサンダー・ミルン
アラン・J・パクラ
アラン・シェパード
アラン・タネール
アラン・チューリング
アラン・ドロン
アラン・ドワン
アラン・パーカー
アラン・ベイツ
アラン・ラッド
アラン・リックマン
アラン・レネ
アラン・ロブ・グリエ
アリ・マッグロー
アリー・シーディ
アリー・ラーター
アリアナ・グランデ
アリエノール・ダキテーヌ
アリエル・ラミレス
アリギエーリ・ダンテ
アリシア・ヴィキャンデル
アリシア・シルヴァーストーン
アリス・ウォーカー
アリス・オシュデ=モネ
アリス・ジーン・ウェブスター
アリス・ヒリアード
アリス・フェイ
アリス・マンロー
アリスタルコス
アリスティア・マクリーン
アリスティード・ブリアン
アリストテレス
アリストファネス
アリソン・フェリックス
アリダ・バリ
アリソン・スドル
アリッサ・ミラノ
アリーナ・イルナゾヴナ・ザギトワ
アリーナ・カバエワ
アリーヌ・ルノワール
アリーヤ
アル・カポネ
アル・キンディー
アル・ジャザリー
アル・ジョルスン
アル・スミス
アル・パチーノ
アル・ビルニ
アル・マルティーノ
アルヴァ・アールト
アルヴィーゼ・ダ・カダモスト
アルカンゲロ・コレルリ
アルキメデス
アルクイン
アルジャー・ヒス
アルジャーノン・チャールズ・スウィンバーン
アルチュール・ランボー
アルテュール・オネゲル
アールト・ファン・デル・ネール
アルドゥス・ピウス・マヌティウス
アルトゥール・シュニッツラー
アルトゥール・ショーペンハウアー
アルトゥル・ニキシュ
アルトゥール・ランボー
アルトゥール・ルービンシュタイン
アルトゥーロ・トスカニーニ
アルナルド・モミリアーノ
アールネ・トンプソン
アルノルト・シェーンベルク
アルノルト・ゾンマーフェルト
アルノルト・ベックリン
アルハゼン
アルバート・アーノルド・アル・ゴア・ジュニア
アルバート・オブ・ザクセン・コーブルク・ゴータ
アルバート・スポルディング
アルバート・スミス
アルバート・セービン
アルバート・タッカー
アルバート・フィニー
アルバート・ムーア
アルバロ・オブレゴン
アルバロ・デ・メンダーニャ・デ・ネイラ
アルビン・トフラー
アルビン・ハーベイ・ハンセン
アルビン・ワード・グールドナー
アルフィーアス・ハーディー
アルフォンス・ガブリエル・カポネ(アル・カポネ)
アルフォンス・デーケン
アルフォンス・ド・ラマルティーヌ
アルフォンス・ドーデー
アルフォンス・ミュシャ
アルフォンス・ルゲロ
アルフォンソ10世(カスティーリャ王)
アルフォンソ・ガルシア・ロブレス
アルフォンソ・デ・アルブケルケ
アルフレッド・アドラー
アルフレッド・ヴェーバー
アルフレッド・キンゼイ
アルフレッド・ジョーゼフ・ヒッチコック
アルフレッド・ド・ミュッセ
アルフレッド・ドレフュス
アルフレッド・ニューマン
アルフレッド・ハウゼ
アルフレッド・ハーシェイ
アルフレッド・ヒッチコック
アルフレッド・ビネー
アルフレッド・マーシャル
アルフレッド・ラッセル・ウォーレス
アルフレッド・ワルデルゼー
アルフレート・フォン・ヴァルダーゼー
アルフレート・フォン・ティルピッツ
アルフレート・フリート
アルフレート・ロタール・ヴェーゲナー
アルフレート・ローラー
アルブレヒト・ヴェンツェル・オイゼービウス・フォン・ヴァレンシュタイン
アルベール2世(モナコ公)
アルベール・カミュ
アルベール・カルメット
アルベール・マルケ
アルベール・ルーセル
アルベルト・アインシュタイン
アルベルト・エバリスト・ヒナステラ
アルベルト・カイプ
アルベルト・クラウデ
アルベルト・ケンヤ・フジモリ・フジモリ
アルベルト・ザッケローニ
アルベルト・サントス・デュモン
アルベルト・ジャコメッテ
アルベルト・シュバイツァー
アルベルト・トンバ
アルベルト・フジモリ
アルベルト・モッセ
アルベルト・モラヴィア
アルベルト・ルス
アルベルヒト・コルネリウス
アルブレヒト・アルトドルファー
アルブレヒト・ケンペル
アルブレヒト・デューラー
アルブレヒト・フォン・ヴァレンシュタイン
アルブレヒト・フォン・ブランデンブルク
アルフレッド・アイゼンスタット
アルフレッド・キンゼイ
アルフレッド・コルトー
アルフレッド・シスレー
アルフレッド・ブーシェー
アルフレッド・ベルンハルト・ノーベル
アルフレッド・テニソン
アルフレート・ロータル・ヴェーゲナー
アルマン・ギヨマン
アルマン・ジャン・デュ・プレシ・ド・リシュリー
アルマン・ダヴィッド
アルマン・ヒッポリト・ルイ・フィゾー
アルマンド・マンサネーロ
アルレッティ
アレイスター・クロウリー
アレキサンダー・アガシ
アレキサンダー・アーキペンコ
アレキサンダー・アグリコラ
アレキサンダー・ウィリアムソン
アレキサンダー・カートライト
アレキサンダー・セルカーク(ロビンソン・クルーソーのモデル)
アレキサンダー・ポープ
アレクサンダ―・カートライト
アレクサンダー・カルダー
アレクサンダー・グラハム・ベル
アレクサンダー・ハミルトン
アレクサンダー・フォン・フンボルト
アレクサンダー・フレミング
アレクサンデル6世(教皇)
アレクサンデル・セウェルス(ローマ皇帝)
アレクサンデル・ドゥプチェク
アレクサンドラ・コロンタイ
アレクサンドラ・フョードロヴナ
アレクサンドラ・ダダリオ
アレクサンドル1世
アレクサンドル3世
アレクサンドル・アーキペンコ
アレクサンドル・イサエビチ・ソルジェニツィン
アレクサンドル・イヴァノビッチ・オパーリン
アレクサンドル・イワーノフ
アレクサンドル・ウリヤノフ
アレクサンドル・オストロフスキー
アレクサンドル・ギュスタブ・エッフェル
アレクサンドル・ケレンスキー
アレクサンドル・ゲルツェン
アレクサンドル・セルゲイビーチ・プーシキン
アレクサンドル・ニコラエビチ・スクリャービン
アレクサンドル・ソクーロフ
アレクサンドル・ソルジェニーツィン
アレクサンドル・デュマ
アレクサンドル・ネフスキー
アレクサンドル・ボロディン
アレクサンドル・ミルラン
アレクサンドル・ヤコブレフ
アレクサンドル・ルカシェンコ
アレクサンドル・ロトチェンコ
アレクサンドル・ロバノフ
アレクサンドロス3世(大王)
アレクシ・ド・トクヴィル
アレクしウス・マイノング・リッター・フォン・ハントシュースハイム
アレクシオス1世コムネノス(東ローマ皇帝)
アレクシス・スミス
アレクセイ・オクラドニコフ
アレクセイ・シリッチ・ノビコフプリボーイ
アレクセイ・ナワリヌイ
アレクセイ・ニコラエビチ・コスイギン
アレクセイ・フェオフィラクトヴィチ・ピーセムスキー
アレクセイ・フォン・ヤウレンスキー
アレクセイ・ボリソヴィッチ・ロバノフ=ロストフスキー
アレクセイ・ミハイロヴィチ
アレサ・フランクリン
アレック・ギネス
アレック・コックス
アレック・ボールドウィン
アレックス・インケルス
アレッサンドル・エヴァリスト・フラゴナール
アレッサンドロ・アキリーニ
アレッサンドロ・アローリ
アレッサンドロ・ヴァリニャーノ
アレッサンドロ・ヴェルテッロ
アレッサンドロ・チコニーニ
アレッサンドロ・ディ・カリオストロ
アレッサンドロ・デル・ピエロ
アレッサンドロ・バリニャーノ
アレッサンドロ・ボルタ
アレッサンドロ・マンゾーニ
アレハンドロ・ゴンザレス・イニャリトゥ
アレン・ギンスバーグ
アロイス・アルツハイマー
アロイス・リーグル
アーロン・エッカート
アーロン・カーター
アーロン・コープランド
アロンソ・デ・オヘーダ
アン・アーチャー
アン・サリヴァン
アン・シェリンダン
アン・ドヴォラク
アン・トッド
アン・バクスター
アン・ハサウェー
アン・ハーディング
アン・バンクロフト
アン・プライス
アン・ブラドストリート
アン・フランシス
アン・ブーリン
アン・ヘッシュ
アン・マーグレット
アン・ミラー
アン・ライス
アン・ラドクリフ
アン・リー
アンゲラ・ドロテア・メルケル
アンジー・ディッキンソン
アンジェー・ワイダ
アンジェイ・ズラウスキー
アンジェラ・カーター
アンジェラ・バセット
アンジェラ・ヒューイット
アンジェラ・ランズベリー
アンジェリカ・ヒューストン
アンジェリーナ・ジョリー
アンジェロ・ベオルコ
アンジェロ・ポリツィアーノ
アンジャネット・カマー
アンゼルム・キーファー
アンソニー・アシュレー・クーパー・シャフツベリー
アンソニー・イーデン
アンソニー・ヴァン・ダイク
アンソニー・エドワーズ
アンソニー・クイン
アンソニー・ニューリー
アンソニー・パーキンス
アンソニー・バージェス
アンソニー・ハピントン
アンソニー・ホプキンス
アンソニー・マン
アンソニー・ミンゲラ
アンティ・アールネ
アンディー・ガルシア
アンディー・フグ
アンディー・マクダウェル
アンディ・マレー
アンディー・ラウ
アンティオコス2世テオス
アンティミウス(西ローマ皇帝)
アンデルス・セルシウス
アントナン・アルトー
アントニー・アシュリー・クーパー
アントニ・タピエス
アントニ・フォン・ダイク
アントニ・ファン・レーウェンフック
アントニー・ブリンケン
アントニア・ブレンターノ
アントニオ・ヴィセンティーニ
アントニオ・ガウディ
アントニオ・カルロス・ジョビン
アントニオ・グテーレス
アントニオ・サランドラ
アントニオ・サリエリ
アントニオ・ストラディバリウス
アントニオ・デル・ボッライオーロ
アントニオ・バンデラス
アントニオ・ビバルディ
アントニオ・フォンタネージ
アントニオ・ボライウォーロ
アントニオ・マリア・アッバティーニ
アントニオ・メウッチ
アントニオ・ロッセリーノ
アントニオ・ロペス
アントニヌス・ピウス
アントニン・レオポルト・ドヴォルザーク
アントネッラ・ルアルディ
アントネロ・ダ・メッシーナ
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アンドリア・モホロヴチッチ
アンドリュー・カーネギー
アンドリュー・カミン・アーヴィン
アンドリュー・クオモ
アンドリュー・パーソンズ
アンドリュー・セス
アンドリュー・V・マクラグレン
アンドリュー・ロイド・ウェーバー
アンドリュー・ローソン
アンドルー・ガーフィールド
アンドルー・ジャクソン
アンドルー・マーヴェル
アンドルー・マッカーシー
アンドレ・カイヤット
アンドレ・ガルメット
アンドレ・ギャニオン
アンドレ・ジード
アンドレ・ジャック・ガルヌラン
アンドレ・デュノワイエ・ド・スゴンザック
アンドレ・ブルトン
アンドレ・マッソン
アンドレ・マリ・アンペール
アンドレ・ミシュラン
アンドレ・モーロワ
アンドレ・ル・ノートル
アンドレア・オルカーニャ
アンドレア・デル・ヴェロッキオ
アンドレア・デル・サルト
アンドレア・ドッティ
アンドレア・パラーディオ
アンドレア・ピサーノ
アンドレア・フルヴィオ
アンドレア・ボッツオ
アンドレア・マンテーニャ
アンドレア・ミア・ゲズ
アンドレア・リーズ
アンドレアス・ヴェサリウス
アンドレアス・ルドルフ・ボーデンシュタイン・フォン・カールシュタット
アンドレイ・アンドレーエヴィチ・グロムイコ
アンドレイ・サハロフ
アンドレイ・タルコフスキー
アンドレ・マジノ
アンドレ・ル・ノートル
アンドレス・ボニファシオ(フィリピン革命指導者)
アントワーヌ・アンリ・ベクレル
アントワーヌ・ヴァトー
アントワーヌ・ド・サンテグジュペリ
アントワーヌ・フランソワ・プレヴォ
アントワーヌ・ブールデル
アントワーヌ・ラヴォアジエ
アントン・イェルチン
アントン・ヴェーベルン
アントン・カラス
アントン・コーベルガー
アントン・ドボルザーク
アントン・パーヴロヴィチ・チェーホフ
アントン・フランチェスコ・グラッツィーニ
アントン・ブルックナー
アントン・ヘーシンク
アントン・ラファエル・メングス
アンナ・イヴァノヴナ
アンナ・カタリーナ・エンメリヒ
アンナ・カリーナ
アンナ・ガリエナ
アンナ・クラムスキー
アンナ・シュウエル
アンナ・ステン
アンナ・チポフスカヤ
アンナ・ネトレプコ
アンナ・パキン
アンナ・パブロワ
アンナ・マニアーニ
アンナ・メイ・ウォン
アンナトン・アルトー
アンニーバレ・カラッチ
アンヌ・パリロー
アンヌ・ビアゼムスキー
アンヌ・ブロシェ
アンヌ・ルイーズ・ジェルメヌ・ド・スタール
アンネ・フランク
アンネグレート・クランプカレンバウアー
アンネシュ・ベーリング
アンバー・ハード
アンバリアナムボイメリナ
アンブロシウス・ホルバイン
アンブロージオ・ロレンツェッティ
アンブローズ・ビアス
アンブロセ・マンドゥロ・ドラミニ
アンブロワーズ・ヴォラール
アンリ・アルカン
アンリ・エミール・ブノワ・マティス
アンリ・エドモン・クロス
アンリ・シャトリエ
アンリ・ジョルジュ・クルーゾー
アンリ・デュナン
アンリ・ド・サン・シモン
アンリ・ド・トゥールーズ・ロートレック
アンリ・ド・モンテルラン
アンリ・ドカエ
アンリ・ナヴィエ
アンリ・バルビュス
アンリ・バンジャマン・コンスタン・ド・ルベック
アンリ・ピレンヌ
アンリ・ファンタン=ラトゥール
アンリ・フィリップ・ペタン
アンリ・フレデリック・アミエル
アンリ・ベクレル
アンリ・ベルクソン
アンリ・ベルヌイユ
アンリ・ポアンカレ
アンリ・マティス
アンリ・マンギャン
アンリ・ミュルジェール
アンリ・ミルヌ・エドワード
アンリ・モアッサン
アンリ・ルイ・ベルクソン
アンリ・ルシャトリエ
アンリ・ルソー
アンリ・ロート
アンワル・サダト

 

 

 

 

 

 

シャルロット・コルデー処刑 (1793年)

Photo   革命を推進するジャコバン派の最大の実力者ジャン・ポール・マラー(1743-1793)は、たちの悪い皮膚病に苦しんでいた。1793年7月13日夜7時、ひとりの若い女性がマラーに面会を求めて来た。内妻のシモーヌ・エヴラールは、うさんなものは追い返すことにしていたが、しかし、シャルロットには疑いをもたなかった。地方出らしい娘のバラの頬、そして善良で上品な態度。そのときマラーはいつものように温浴効果のため入浴中だった。(もともとマラーは医者だった)浴室からマラーはこのやりとりを小耳にはさみ、彼女を部屋に通した。

   彼女はかねてからマラーに、故郷の陰謀者たちの情報の提供を約束していた。マラーはジロンド派の名前を問いただし、シャルロットはこれに答えた。「よろしい。これで奴らはみなギロチンゆきだ」このことばを聞いたとき、シャルロットは、胸から包丁を取り出して、マラーの心臓を突き刺した。

   シャルロット・コルデー(1768-1793)。劇詩人のコルネーユの子孫である貧乏貴族の娘としてノルマンディーに生れた。貴族出身のため、ジャコバン派を嫌悪し、ジロンド派を支持するようになる。シャルロットは7月17日に処刑されることになった。死刑場への護送の途中、道端の人々から罵声を浴びせられ、つばをかけられ続けた。しかし、シャルロットは自分のしたことに誇りを持っていたため、胸を張って、誇らしく微笑みを浮かべて、断頭台の露と消えた。シャルロットは、死の直前に画家をよんで自分の肖像を描かせたため、後世の詩人たちによって「暗殺の天使」とうたわれた。彼女の姿を一目見て、後を追い死刑になった青年さえ現れたという。(Jean Paul Marat,Charlotte Corday) 

 

 

2023年7月16日 (日)

ヒーローの恋人は何故それほどの美人じゃないの?

 シルヴェスター・スタローンの出世作「ロッキー」。ヒロインはニューヨークの小さなペットショップで働く眼鏡と毛糸の帽子をかぶった気難しそうな女性エイドリアン。なぜかロッキーは死ぬほど愛してしまう。ヒロインがいるからヒーローは頑張れる。でもタリア・シャイアはスタイル抜群のセクシー女優というタイプではない。スーパーマン(1978)の恋人の記者ロイス・レーンを演じるマーゴット・キダーも神経質で内気そうなタイプ。なぜかハリウッド・ヒーローの恋人はとびきりの美人じゃない。スター・ウォーズのレイア姫キャリー・フィッシャーは姫と言うにはほど遠い見た目である。スパイダーマンの恋人キルスティン・ダンストはましなほうか。

 これと真逆なのがが「男はつらいよ」シリーズ。毎回寅次郎が恋する女性は絶世の美女。目が細くて四角い顔の中年男が美女に恋する気持ちがペーソス漂う人情喜劇となる。

 

 

 

 

エディンバラ城の幽霊

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    7世紀初め、7王国の一つであるノーサンブリアの王エドウィン(在位617-633)が創建し、「エドウィンの城市」と呼ばれたが、これが通称となってエディンバラなる地名が生じた。中世のエディンバラは、国都としてよりもむしろイングランドに対する軍事的都市としての色彩が強かったので、国王にしても、常時ここに在住することきなかった。1296年、城はイングランド王エドワード1世に3日間包囲された末に攻め落とされた。伝説によると、この鼓手は、3日目にイングランド軍が総攻撃を開始したことをスコットランドの人々に知らせるも、頭を耳から耳まですぱりと斬り落とされてしまったのだという。17世紀、城から市の中心部を結ぶ秘密のトンネルが発見された。言い伝えでは、若いバグパイプ吹きがこのトンネルの調査を命じられたという。バグパイプを吹きながらトンネルの中を進み、その音をたどって地上の人々がトンネルの進路を探ろうというのだ。だがバグパイプ吹きは跡形もなく姿を消してしまう。その幽霊が今でも地下通路をさまよい歩いており、城ではそのバグパイプの音が聞こえると言う人もいる。

   エディンバラが名実ともにスコットランド王国の首都となるのは15世紀になってからで、現存するほとんどの建物はこの時以降のものである。スコットランド女王メアリ・ステュアート(在位1561-1568)は仏王フランソア2世と結婚したが死別し、のちにダーリン卿と再婚してジェームズ1世を生む。夫を暗殺させたためイングランドにのがれ、エリザベス1世に頼ったが、旧教徒の女王暗殺事件に連坐し斬首された。

    エディンバラは18世紀になってから整備された碁盤目状の新市街でつくられている。(Edinburgh)

最初の駅弁は握り飯だった

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    一般に日本最初の駅弁は明治18年7月16日、旅館「白木屋」の嘉平が宇都宮駅で竹皮に包んだ梅干し入りの握り飯を5銭で販売したのが始まりとされ、現在この日が「駅弁記念日」と制定されている。しかし最初の駅弁は他にも梅田駅(明治10年)、神戸駅(明治10年)、敦賀駅(明治15年)、上野駅(明治15年)、高崎駅(明治17年)など諸説あるようだ。ちなみに現在のような折り詰め「幕の内駅弁」は明治22年に「まねき食品」の竹田木八(画像 1851-1903)の発売したものが最初とされる。当初は列車が少なく、一緒に始めた友人は撤退したが、日清・日露戦争時には軍隊弁当がよく売れ、現「まねき食品」を創業した。(7月16日)

 

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  竹田木八

インノケンティウス3世

83c839383m83p839383e83b83e83x82r9_2     1212年、ナバス・デ・トロサの戦いでカトリック軍がイスラム軍を破る。以後イベリア半島のイスラム勢力は衰退の一途をたどる。37歳で176代のローマ教皇に就任インノケンティウス(1161-1216)は教皇権の絶頂期の教皇で、第4回十字軍を提唱し、フランス南部にアルビジョワ十字軍を派遣して弾圧したり、「教皇は太陽、皇帝は月」と演説して、教皇の至上性を主張した。少年十字軍(1212)やアッシジの聖フランチェスコ(1181-1226)もインノケンティウス3世の時代の話である。1216年7月16日、55歳で急死する。

情報時代と検索

Img_2605s   アメリカの社会学者A・トフラーは、著書の「第三の波」の中で人類史を大きく「三つの波」に分け、前8000~前1650年ごろの農耕と定住開始を「第一の波」として「農業革命」とよび「第二の波」を18世紀後半に起こった「産業革命」、そして「第三の波」を20世紀後半に起こった「情報革命」であるとした。

 日本では、1980年代になってから、パソコンやワープロなどのOA機器が普及し始めて、現在では、職場のみならず、一般家庭で誰でもが必要な情報を検索で取り出すことが当たり前になっている。「情報とは何か」。「情報」という言葉は明治時代から使われている。けれどもその当時は、情報そのものに価値を見出していたわけではない。2度にわたる世界大戦を経るなかで、「秘すべきものとしての価値」を意味する言葉として使われるようになる。情報が新たな行動を起こすための原動力となりうるものとして意識されるようになるのは、1950年代以降のことである。

    私は若い頃、図書館で目録カードを作成していたことがある。分類、書名、著者名、件名などの種類がある。アメリカでは辞書体目録といってこれを統一したような目録があると聞いていたが、ついに日本では実現できなかった。やがてコンピューターの時代となってキーワード(検索語)で検索できるシステムが開発された。カード目録式の索引は旧時代のものであるが、本から直接に書誌を作成できる時代に生きたことを喜びに感じている。「検索」ということばは日常的な言葉ではなかったが、スマホ全盛の現在では当たり前にだれでもが「検索」という言葉を用いているが、当時図書館では「情報の探索」とか「調べもの」と呼んでいた。

ここで一般的な検索までの流れを整理しておこう。

step1 調査目的・内容を明確にする

step2 データーベースを選ぶ

step3 検索語を選ぶ

step4 検索式の作成

検索

step5 検索結果の詳細

検索終了

step6 文献の入手

 検索者が思いついた言葉もそのまま検索語として使用できるが、検索漏れを防ぐためにあらかじめ1つの主題に関する検索語を集中化しておく方法(「統制法」)が考えだされました。たとえば、「エアコン」「クーラー」「冷房装置」「暖房装置」は、全て「空気調和装置」という言葉を使いましょうとルールブックのようなもので決めてあります。主な統制語には「シソーラス」と「件名標目」があります。シソーラスという言葉は、ギリシャ語の原意「宝庫」からきており、転じて「辞典、百科辞典その他同類の「知識の宝庫」を意味する用語となった。1852年、イギリスの医師ロジェ(1779-1868)が「英語修辞学辞典」を編集した。本書2部から成り、第1部は著者が着想語とよぶ概念語を体系的に分類排列し、その一つ一つの着想語のもとに、幾通りもの言い回しの言葉や語句を列挙した。この着想語の概念をドキュメンテーションに応用したのが、文献上、ルーン(1896-1964)が最初といわれる。1957年のことである。彼は情報検索用件名標目表をシソーラスとよび、件名標目に当たるキーワードを文献上にあらわれたる用語に結びつけ、キーワードは体系的に分類しておいて、別にキーワードもそうでない用語もすべて一連のアルファベット順に排列した索引と対にした。こうして作られたシソーラスは、上位語と下位語を体系づけて従来の件名標目では果たせなかった検索上の便宜を提供している。

 

 

2023年7月15日 (土)

モンローとコーラ

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  映画「ナイアガラ」(1953年)はマリリン・モンローがセクシー・シンボルとして世界中の男性の注目を浴びた作品として知られる。しかし、この作品にはジーン・ピータース(画像)という当時、売り出しの女優も共演している。彼女は「ナイアガラ」の後、「愛の泉」「折れた槍」「アパッチ」と出演し、ハワード・ヒューズと結婚し映画界から引退した。映画「ナイアガラ」にはコーラが出てくる。コカコーラの独特の「くびれ」のある瓶は、理想の女性の体のライン。ヒップが上がり、ウエストがくびれたホディ・ラインはマリリン・モンローのようである。当時の日本人がコーラの味を知っていたとは思われない。コーラは1886年に発明され、1919年には日本に輸入されている。しかし戦前は適性品で誰も飲むことはでなかった。第二次大戦下、コーラは世界に広がったアメリカ軍に支給され、押収品として一部の軍人が飲んでいたようだ。連続ドラマ「梅ちゃん先生」のコーラの話が出てくる。梅子が代用品でコーラを密造する。本当にあった話かは定かでない。日本コカコーラ株式会社の社史によると、製造開始は1957年6月25日である。したがって、映画「ナイアガラ」公開時、ほとんどの日本人はおそらくコーラの味を知らなかっただろう。

 

 

サムゲタン(「サ」 事項索引)

20080826160210 「算木」中国および日本で使用された古い計算用具。▽「サイス朝」古代エジプトの第26代王朝(前664頃ー前525)の別名。▽「佐倉宗吾」江戸前期の百姓一揆の指導者。▽「サブカルチャー」とは通常「下位文化」と訳され、主流ないし正統とされる文化に対する伏流といった意味をもつ。具体的に今日の視覚芸術においては、エンターテインメント映画や漫画、アニメ、ゲームソフトなど、広域にわたる大衆的な表現全般を総称している。▽「ザゼンソウ」早春に湿地で開花する。花を囲む仏炎苞が暗紅色をしており、その姿が袈裟を着て座禅を組む僧侶の姿にみえるところから、その名がついた。▽「サイネーテ sainete」一幕もの風俗喜劇。17世紀末スペインで劇の幕間に演じられた独特な社会風刺喜劇。18世紀ごろ南米でもよく演じられた。▽「サムゲタン」参鶏湯。丸鶏肉の中に高麗人参、もち米、ナツメ、ネギなどを詰めて煮込んだ朝鮮に古くから伝わる薬膳料理。▽「山窩」定住することなく山中や河原などで家族単位で野営しながら漂白の生活をおくっていたとされる人々。▽「サンアンドレアス断層」アメリカ合衆国の太平洋岸のカリフォルニア州南部から西部にかけて約800マイルにわたって続く巨大な断層。1895年、地質学者アンドリュー・ローソンが命名した。▽「笹子駅脱線事故」昭和20年9月6日、山梨県中央線の笹子駅で脱線事故。死者60名・負傷者91名。▽「笹森儀助」明治の探検家。▽「簓(ささら)」田楽、獅子舞など郷土芸能に用いられる竹製の楽器。▽「サウン(saung)」ビルマの楽器で、弓形ハープ。▽「サトラップ(Satrap)」紀元前6世紀頃ペルシア帝国の州の総督。▽「サヘル地域」サハラ砂漠南縁部に広がる半乾燥地域。降水量が年によって変動があり干ばつが飢饉をもたらす。▽「佐土原藩」日向にある佐土原藩は、薩摩藩の支藩とされる。幕末では、薩摩藩と行動をともにし、戊辰戦争の功により3万石を与えられた。▽「サーマッラー」イラクの都市。シーア派の聖地。▽「サミン運動」20世紀初頭、ジャワ島の農民に広がった宗教的な民族運動。理想的な王国の到来を説くスロンティコ・サミンの教えを信じるサミン主義者たちが、オランダ植民地支配に抵抗した。▽「サモリ・トゥーレ」19世紀後半、西アフリカに強大なサモリ帝国を築き、フランス軍と闘ったイスラム教改革者。▽「サルコペニア」加齢や疾患により筋肉量が減少すること。▽「三角波」進む方向が異なる二つ以上の波が重なり合ってできる、三角状の、波高の高い波のこと。▽「ザンジバル」タンザニア共和国。ウングジャ島。▽「サンドリヨン」童話シンデレラの原題。「灰かぶり」の意味。▽「サン・テグジュペリ」フランスの作家・飛行家。代表作「夜間飛行」「星の王子さま」。▽「三部会」1302年フランスのフィリップ4世が僧侶・貴族・市民からなる三部会を初めて開催。三部会の支持により教皇支配と王権を強化。(ささささ)

サイイド朝
西王母
西園寺公望
西行
サイクス・ピコ協定(1916年)
蔡元培
最高善
西郷隆盛
最後の晩餐
最初に来た者がイチゴを食う(アラブのことわざ)
サイス朝
財政
最大多数の最大幸福
最澄
彩陶
斎藤道三
済南事件
サイバー攻撃
裁判員制度
サイプレス(糸杉)
サイネーテ
西遊記
蔡倫
骰子は投げられた
サヴァン症候群
サウジアラビア
サウン
佐賀

酒井忠田比(さかいただます)
坂下門の変
サカジャウィア
嵯峨天皇
坂上田村麻呂
坂本龍馬
サガン
先島諸島
サキタリ洞遺蹟
左義長
防人
サーク島(イギリス)
佐倉宗吾
桜田門外の変
鎖国
笹子駅脱線事故
笹子トンネル
笹森儀助
簓(ささら)
ササン朝
サスカチュワン州(カナダ)
ザゼンソウ
サータヴァーハナ朝
佐竹義重
薩英戦争
サッカー
サッカレー
サッコ・バンゼッティ事件
雑誌
サッター砦
札幌
サチリアージス(男子色情狂)
サド
佐渡
佐土原藩
サトラップ
サヌカイト
砂漠
ザパドニキ
サバナ気候
サファヴィー朝
サブカルチャー
サブプライムローン(2008年)
ザプルーダー・フィルム
サヘラントロプス・チャデンシス
サヘル地域
サボテン
座間9人殺害事件(2017年)
ザマの戦い
サーマッラー
サマラ文化
サマルカンド
サミン運動
サムゲタン
サモリ・トゥーレ
サライェヴォ事件
サラゴサ(スペイン)
サラゴサ条約
更級日記
サラディン
サラミスの海戦
サランスク
サリンジャー
笊ヶ岳(ざるがたけ)
サルコペニア
サルスエラ(スペインの国民劇)
サルタナ沈没事故(1865年)
猿田毘古神(さるたびこのかみ)
サルタンバンク(旅芸人)
ザルツブルク
サルディニア
サル痘
サルトル
サルモネラ菌
サンアンドレアス断層
三・一独立運動(1919年)
三角州
三月革命
参議院
山窩(さんか)
三角波
三角縁神獣鏡
三角貿易
三寒四温
算木
産業革命
三峡ダム
参勤交代
サン・クレメンテ教会
三毛別羆事件
三権分立
三国志
三国時代
三国同盟
3C政策
ザンジバル
サン・シモン
サンジャシントの戦い
三十八度線
三十年戦争
三種の神器
三省六部
三色旗(トリコロール)
サン・ジョバンニ祭
三線(さんしん)
サンスクリット語
サン・ステファノ条約
三頭政治
三世一身の法
三星堆
サン・セバスティアン(スペイン)
酸素ヘモグロビン
サンソン図法
サンタクロース
サンタバーバラ
サンタルチア
サンチアゴ
三内丸山遺跡(青森県)
サンパウロ
三位一体
山東出兵
サンチアゴ(チリ)
サンティアゴ・デ・コンポステーラ(スペイン)
サン・テグジュペリ
サン・マルコ寺院
サンテミリオン(フランス)
サントメ島
サンドリヨン
サン・バルテルミの虐殺(1572年)
3B政策
三部会
サンフランシスコ
三圃制
サン・ポール・ド・ヴァンス(南フランス)
サンマリノ
サン・マルタン運河
三民主義
三割自治
三民主義
山陽新幹線
サンヨウチュウ

 

 

独歩の出生の秘密

Ip120227tan000018000_0000_mobj   国木田独歩は明治4年のこの日、千葉県銚子に生まれた。父専八、母(淡路)まん。幼名は亀吉、明治22年7月、哲夫と改む。明治30年以後は主として独歩を筆名とする。独歩の出生については異説が多い。

    通説によると、独歩の父親は、播州龍野藩の脇坂氏の家臣で国木田専八という人物とされている。専八は、明治4年に函館の五稜郭に立籠った榎本武揚討伐に仕立てた船の乗組員であり、その船が銚子沖で暴風雨にあった。助けられて銚子の吉野屋という旅籠に滞在中、そこで働いていた淡路善太郎の長女まんという女と知り合い、明治4年に独歩を生んだということになっている。

    ところが、まんはこれより先に雅治郎という米穀商と結婚していたが、事情があって別れ(他に死亡説あり)、同旅籠に奉公中であった。しかし一説によると専八とまんが出会った時にはすでに子供を連れていたという。専八が銚子に着いたのは明治4年ではなくて、早くても明治5年以後だろう。旧戸籍では以上の事情を反映して、亀吉が雅治郎の子であり、まんが亀吉を連れて専八に嫁したと記載されている。この戸籍面を信ずる限り、独歩が専八の実子でないとする説が生まれるが、戸籍以外の事実から判断すると、独歩を専八とまんの実子とするのが妥当である。なお出生年月にもいくつか異説がある。当時専八には故郷の竜野霞城町に妻とく、他三男があった。明治7年には、専八は母の死を契機に先妻とくを離別し、まん、亀吉と共に上京している。東京下谷徒士町脇坂旧藩邸内に別に一家を構えた。明治8年8月7日より司法所省に出仕していた専八は、明治9年3月22日、山口県山口裁判所に奉職のため、一家同地に転任。5月31日、専八は妻とくと正式に離婚、倉太郎、弁太郎、のぶとも事実上絶縁した。

   独歩は山口の小学校時代(錦見小学校)時代に出生の秘密を明らかにされて、しばしば、はっきりと「おまえは徹底的に隠し通せ」と言われたという。独歩は自分の出生の秘密を誰にもあかさなかったが、「運命論者」にはそのまま、養父が「出生の秘密を明らかにするな」と云ったことが中心になっている。独歩の全作品を通じて「孤児」を扱ったものが多いが、孤児という言葉自体も多い。また直接孤児を扱っていないにしても、何か孤独な、生れ故郷も肉親もないところからくる人生の哀感が全体にしみついている。それは、たえず自分の出生に思いをこらしていた、孤児の感慨に襲われていた独歩の深層心理と考えると非常にはっきりしてくるのではないだろうか。(7月15日)

ゲティスバーグ演説 (1863年)

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  1863年7月3日、アメリカ独立戦争の転換点となったゲティスバーグの戦いは北軍の勝利で終結した。戦場に横たわる戦死者の数は、南軍北軍合わせて数千人にのぼった。11月19日、ペンシルヴェニア州南部のゲティスバーグで行われた国立戦没者墓地奉献の式典でリンカン大統領は「人民の、人民による、人民のための政治を地上から消滅させてはならない」と演説した。この演説はわずか2、3分の短いものであったが、後年になって民主主義の真髄を表現する歴史的な名言となった。しかしこのとき、ほとんどの聴衆は疲れて演説を聴いていなかったし、たいした反応もなかった。そして実はこの句はリンカンのオリジナルではなく、イギリスの宗教改革者ジョン・ウィクリフ(1320-1384)が1384年に出版した旧約聖書の序文に書いたものである。それもウィクリフの言葉を直接引用したものではなく、ユニテリアン派の牧師セオドア・パーカー(1810-1860)の著書からの孫引きだった。(Abraham Lincoln,Gettysburg,Theodore Paker)

円空と芭蕉

Photo     生涯を旅の中に送った漂白の詩人といえば「奥の細道」の俳人・松尾芭蕉(1644-1694)を思いうかべるだろう。だが円空(1632-1695)という謎の僧も苦難の旅を生涯続けながら、10万とも12万ともいわれる多数の仏像を彫り続けた。円空は元禄8年7月15日に関市の弥勒寺で亡くなっているが、芭蕉も前年に世を去っているので、二人が旅の途中に出会っている可能性もある。だが二人の旅は対照的だったともいわれる。自己を追求した芭蕉に対して、円空は他者救済に自らの生涯を捧げた。富士川で芭蕉は捨て子に出会うが、食べ物を与えたものの、「汝の性のつたなきを泣け」と突き放して去っていく。円空は美濃の宿に泊まっていた。宿屋の主人は円空の身なりをみて、寒さしのぎの半纏を贈った。ところが円空は旅の途中で物乞いの女に出会いその半纏をあげただけでなく、持っていた金もすべて与えてしまった、という逸話が残されている。江戸時代初期、みちのくは未開の地という観があるが、円空は芭蕉よりもさらに遠く、北海道に渡り、2年ほど滞在している。芭蕉の旅にくらべ、円空の旅は想像を絶する過酷なものだったであろう。

 

 

2023年7月14日 (金)

2023年の夏ドラマ

   月9ドラマ「真夏のシンデレラ」。男女8人の海での恋模様を描く王道ラブストーリー。森七菜、神尾楓珠、間宮祥太郎、吉川愛、仁村紗和。「VIVANT」堺雅人、二階堂ふみ、阿部寛、役所広司、松坂桃李という豪華キャスト。大手商社の社員の堺雅人がVIVANTの謎に巻き込まれていく。「CODE 願いの代償」坂口健太郎の刑事もの。染谷将太、松下奈緒。「ブラックポストマン」表の顔は陽気で落語好きな郵便配達人の副島だが、裏の顔は事件の被害者を救うため加害者を制裁するダークヒーロー。この2つの顔を持つ主人公を田中圭が演じる。「やわ男とカタ子」三浦翔平、松井玲奈、筧美和子。「転職の魔王様」小芝風花、成田凌、石田ゆり子。「カメラ、はじめてもいいですか?」田牧そら、手島美憂。「わたしの一番最悪なともだち」髙石あかり、蒔田彩珠、久間田彬加。「紅さすライフ」大西流星、井桁弘恵。「シッコウ!!犬と私と執行官」伊藤沙莉、織田裕二。「18/40~ふたりなら夢も恋も」深田恭子、福原遥、松本若菜、嵐莉菜。「ウソ婚」菊池風磨、長濱ねる。「リズム」岡本玲、岡本圭人。「君には届かない」前田拳太郎、柏木悠。「こっち向いてよ向井くん」赤埜衛二、生田絵梨花、波瑠、藤原さくら。「ばらかもん」杉野遥亮、遠藤憲一。「ハヤブサ消防団」中村倫也、川口春奈。「この素晴らしき世界」若村麻由美、沢村一樹、木村佳乃。「量産型リコ」与田祐希。「新婚予定日」松田元太、大原櫻子。「癒やしのお隣さんには秘密がある」田辺桃子、前田公輝。「トリリオンゲーム」目黒蓮、佐野勇斗、今田美桜、福本莉子。「警部補ダイマジン」生田斗真、向井理、土屋太鳳。「やさしい猫」優香。「ノッキンオン・ロックドア」松村北斗、西畑大吾。「最高の生徒」畑芽育。「最高の教師 1年後、私は生徒に騙された」松岡茉優、芦田愛菜。「彼女たちの犯罪」深川麻衣、前田敦子、石井杏奈、朝倉あき。「アラウンドクォーター」佐藤大樹、美山加恋、工藤遥。「ハレーションラブ」高橋ひかる。「褒めるひと褒められるひと」森川葵。「何曜日に生まれたの」飯豊まりえ。「初恋、ざらり」小野花梨、風間俊介。海外ドラマでは「コッソンビ 二花院(イファウォン)の秘密」宿屋を営む女性タノと科挙受験生3人が繰り広げるロマンス時代劇。シン・イェウンは「おかえり」「2人の恋は場合の数」に出演した注目の美人女優。

 再放送ドラマにも注目。「スカーレット」「なつぞら」がチャンネル銀河。小芝風花の「妖怪シェアハウス」、高畑充希の「にじいろカルテ」テレ朝。「石の繭 殺人分析班」ファミリー劇場。「秋の童話」がホームドラマチャンネルで再放送される(7月15日・毎週土曜)。「美しき日々」JCOM。

アテネの裁判は美人がトク

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    アテネで民主政がすすむと衆愚政となり、役人はクジで定められた。裁判は陪審制だった。有名なソクラテスは神々の信仰をきずつけ、青年に悪い影響を与えるという理由で、死刑の宣告をうけた。国外逃亡をすすめるものもいたが、ソクラテスは、毒杯をあおいで静かに死んでいった。フリュネという高級娼婦があるとき訴えられた。雄弁家たちが彼女のために弁護してくれたが効果がなく、有罪になりそうだった。そのときフリュネは法廷でパッと裸になった。すると陪審員たちは、「こんな美しいからだに悪い心が宿っているはずがない」といって、彼女を無罪にした。日本中が固唾をのんで見守った小保方晴子の記者会見。彼女が涙を流すと擁護する人が相次いだという。いつの世も美人はトクである。

犬公方綱吉と生類憐みの令(1685年)

E5beb3e5b79de7b6b1e59089851d6    5代将軍徳川綱吉は家康の曽孫にあたる。三代将軍家光には、家綱、綱重、綱吉という3人の子がいた。家光が死んだので、家綱は11歳で将軍になり、40歳で死んだ。次男の綱重は兄より先に35歳で死んだ。そこで三男の館林城主・綱吉が次期将軍になるはずであったが、大老酒井忠清は綱吉はふさわしくないと考えた。理由は綱吉が低身長症を患っていたからだ。しかし綱吉は勇猛果断で学問好きの英明な君主だった。堀田正俊らの意見で綱吉は35歳で5代将軍職についた。彼は剛毅果敢であったが、たぶんに偏執的であった。学問を好み、儒学を奨励した。

   綱吉は嗣子徳松が5歳で病死して以来、信心によって嗣子を得ようとしたがいなく、前世において殺生を行った応報であるとする護持院隆光の説を信じ、鳥獣の愛護を志した。当初は、鷹狩をやめたり、鳥・貝類を食膳に供しない程度であったが、次第に極端になり、生類奉行を新設して鳥獣の殺生捕獲を一切禁止するに至った。
歴史上、綱吉が暗君といわれるのはあの「生類憐みの令」のためだろう。「伊勢屋稲荷に犬の糞」という言葉があった。江戸に多いものをいう。江戸に犬が多かったことは、綱吉の「生類憐みの令」とも関係する。俗説では綱吉が戌年生まれであるから、犬を愛護したといわれる。実際は野犬が増えて疫病が発生したからである。「生類憐れみの令」は貞享4年(1687年)1月28日に初めて発布された(近年は貞享2年7月14日とする根崎光男の説が有力となっている)。元禄8年(1695年)11月13日、中野、大久保に犬小屋が設けられ、江戸中の野犬を収容し、お犬奉行以下の役人をおいて丁重に世話をさせた。この令を犯したものは、死罪、遠島などの極刑に処せられたが、誤って刑にふれるものが多く数万人にものぼったという。しかしこの数字はのちの新井白石らの記録によるもので誇大な数字と考えられる。「生類憐みの令」は24年にわたり130もの法令が発令された。とくに宝永4年(1707年)8月11日の法令には、どじょう、うなぎ、鳥を扱う商売が禁止された。

   綱吉の悪評は大地震、勅願大火、宝永富士山噴火など自然災害に悩まされた庶民がその原因を為政者に押しつけたからであろう。綱吉は戦国遺風を儒学を重んじる文治政治に変革した名君であった。新田開発などの成功により、減税で庶民の暮らしに余裕がでて元禄文化が生れたのも綱吉の治世の成果である。宝永6年(1709年)、綱吉が死ぬと、生類憐れみの令はすぐに廃止された。近衛基熙はその日の日記に「この将軍の治世には、歳々古事なく、諸民の愁憂は日々に増益した」とある。世上評判の悪い将軍であった。

 

 

 

 

ビリー・ザ・キッドは生きていた

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 ビリー・ザ・キッド     パット・ギャレット

 

   早撃ちのガンマン・ビリー・ザ・キッド(1859-1881)は西部史では最も名が知られた人物で、本日が命日である。しかしその生涯については不明な部分が多い。名前は、ウイリアム・H・ボニー、ヘンリー・マッカーティ、ヘンリー・アントリム、キッド・アントリム、ウィリアム・アントリムなど様々な名前で知られる。生まれは1859年11月23日、父はウィリアム・マッカーティ、母はキャサリーン。凄腕のガンマンとして知られ、生涯に16回のガンファイトで、21歳の短い人生に21人を殺したといわれる。ビリー・ザ・キッドは左ききのガンマンだったといわれる。いや二丁拳銃の使い手だったなど、いろいろな説がある。事実は右ききの一丁拳銃の使い手だった。当時、写真というものが存在した。右側の腰に拳銃を下げたビリーの写真も残されている。しかし、今世紀に入り、さまざまなビリーに関する出版物がでる過程で、ネガを反対にして焼きつけた写真が世に出回ってしまったのだ。

  ニューメキシコ州フォート・サムナーの保安官パット・ギャレット(1849-1908)は、1880年12月にビリーを逮捕した。しかし、1881年4月18日、ビリーは脱獄する。メキシコ人の恋人セルサ・グティエッレスを訪ねて行き、知人のピート・マックスウェルの家に身を隠した。7月14日、パットはキッドを暗い寝室で射殺した。キッドの最後の言葉はスペイン語で「誰れ」(キエン・エス)だったという。しかし、実際にはその場の状況は確かでない。パツト・ギャレットはビリーの親しい友人であったので射殺劇を演じてみせ、事実は彼をこっそり見逃したとする説もある。

フランス革命

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  18世紀末のフランスでは、流血をともなう革命によって、古い体制が打ち砕かれ、国民国家が誕生した。王政から共和政へ展開する政局は複雑である。革命前の国王政府は、けっして単純に反動的だったわけではない。むしろ、時代の要請にあった近代的な改革を試みようとしていた。1789年5月ルイ16世は反対する貴族に圧されて175年ぶりに三部会を招集した。1789年6月20日、農民・市民らの第三身分代表議員らがヴェルサイユ宮殿で「球戯場の誓い」を宣言。7月9日に憲法制定国民議会ほ制定。7月14日、パリの民衆は武装蜂起し、バスチーユ牢獄を襲撃した。これにより反革命軍来襲のデマとともに農民暴動と各都市の武装という無政府状態がはじまった。騒乱はただちにフランス全土に波及し、ヴェルサイユのルイ16世にも伝えられた。このときルイが「暴動か」とたずねると、側近は「いえ、陛下、革命でございます」と答えたと伝えられる。以後10年にわたって続くフランス革命の、これが始まりである。同年8月26日に人間の自由と平等、国民主権などを謳った「人権宣言」が採択された。

  1932年公開の映画Le Quatorze Juillet(7月14日)の邦題が「巴里祭」だったことから、日本ではこの日を「パリ祭」と呼ばれるが、正式には「革命記念日」。バスティーユ牢獄は、14世紀シャルル5世のときパリ防衛の目的で築かれた要塞で、ブルボン朝のもとでは政治犯を投獄する牢獄として使用され、専制政治の象徴とみられていた。だが民衆がバスティーユを襲撃したのは、武器を得る目的であり、実際に解放された囚人は精神障碍者2人、文書偽造犯2人、非行貴族1人の計7人で、政治犯はひとりもいなかった。民衆は100人以上の死傷者を出しながらも、バスティーユを陥落させた。フランス語のbastilleは、要塞を意味する。要塞は革命後に解体され、痕跡は残っていない。現在はバイティーユ広場となっている。革命はロベスピエールらジャコバン派の恐怖政治を経て、テルミドールのクーデター(1794年)がおこり革命の嵐は10年間続くが、ナポレオンが国民の支持を得て、1799年11月9日、「プリュ―メル18日」のクーデターで政権を掌握する。フランス革命によって旧時代の地代生活者が没落し、新しい市民階級が登場する。(Fernch Revolution,Bastille、7月14日)

 

2023年7月13日 (木)

義経の逃避経路 (亀割山)

 源義経は、吉野山で追手から逃れ、まず敦賀へ出て、そこから越後へ。念珠ヶ関を通って、最上川、白糸の滝、会津の津。そして亀割山(標高594m)は新庄市と最上町との境界に位置するところ迄きた。近くに亀割子安観音という子授けと安産の守り神が祀られている。時は文治2年のこと、山伏に身をやつした義経と十数人の家来と、稚児の姿に身を女たちが、険しい山道を登っていた。亀割山にさしかかったところで、北の方(郷御前)が急に産気づいた。見るに見かねた兼房が、大木の下に敷皮を敷き、ここを応急の産所とした。弁慶が南無八幡大菩薩と願うと、北の方は、無事にお産を終えた。立派な男の子であった。亀割山にちなんで亀鶴御前と名づけられた。めざす平泉はあと少し。義経は亀井六郎と伊勢三郎の二人を平泉へ使者に向かわせた。

はじめてタバコをヨーロッパに広めたのはウォルター・ローリー卿

 1584年のこの日、イギリスの軍人ウォルター・ローリーの探検隊の船が北米ノースカロライナ沖に到着した。エリザベス女王にちなみバージニアと命名する。アンデスの高地で生育する煙草の原料となる植物ルスチカ。現在、ルスチカはニコチンの含有量が多くて大規模に栽培されていないが、最も古い時代、煙草の原料として使われていた。15~16世紀に栄えたインカ帝国の人々はルスチカを愛飲していた。このルスチカを初めて紹介したのはベルギーの植物学者ドドエンス。その著書「薬用植物学全書」(1554年)にはまだ煙草のことは触れられていない。1550年頃フランスに二コティアナ(タバコ属種)を伝えたのはジャン・ニコ(その名はニコチンの由来となっている)。1580年代になると、ルスチカのことは北米の大西洋沿岸部に拠点をもちイギリス人によって知られるようになった。サー・ウォルター・ローリーはイギリスの邸内にルスチカを栽培し、社交界に広めたといわれている。ある日、ウォルター・ローリーが暖炉の前でタバコをふかしていた。今まで、タバコなるものを見たことも聞いたこともなかった召使が、部屋に入ってきて、主人の後姿から煙が上がっているのを見、これは主人の着物に火が付いたかと、バケツの水をざばっと主人に浴びせかけた。火事と間違えて、水をかけたのだ。(7月13日)

 

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ハリウッド物語

Wilcoxdaeida     1923年のこの日、ハリウッドの象徴ともいえる看板が設置された。ロサンゼルス市にある映画産業の中心地ハリウッドは1884年に禁酒運動家であるホーレス・ウィルコックス夫妻がその運動を広めるためにこの地を訪れ、ここに理想の村を建てる計画を立て、48万5600㎡の土地を購入した。1884年2月1日この地を「Hollywood(ひいらぎの森)」と命名した夫人のダイエダ・ウィルコックス(1862-1914)が考えたものといわれている。

 

Al_christie_sm   20世紀の初めの頃、映画はニューヨークやシカゴで撮影製作されていた。MPPCというエジソンのトラストが映画産業を支配していたが、トラストに加入していないアル・クリスティー(1881-1941)が新天地ハリウッドへ逃れ、ここで映画を作った。これがロサンゼルスのタレー座で大いに当たり、これがハリウッドと映画との第一歩となった。

 

 

 

 

 

Laemmlejr     東部でユニヴァーサル映画社を1909年に創立していたカール・レムレ(1867-1939)という映画興業家は1914年にハリウッドに移転。ときあたかも第一次世界大戦の勃発で、これまで映画製作していたイタリア、フランス、ドイツが困難となり、アメリカはその映画市場が発展した。D・W・グリフィス、セシル・B・デミル、さらに喜劇のチャールズ・チャップリンなどがこのハリウッドに集まり、ついにアメリカ映画は世界を征服する勢いを示したのである。

 

(Hollywood,Harvey Wilcox,Daeida Wilcox,Al Christie,Carl Laemmle、7月13日)

後鳥羽上皇、隠岐に配流される(1221年)

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伊賀の局 伊藤小坡  昭和5年

   歴代天皇のうち、第82代後鳥羽天皇ほど多芸多才な天皇は見当たらない。歌道、書画、管弦、蹴鞠などの宮廷に伝統の技芸は玄人はだしであったし、刀剣の鍛錬も行った。天皇みずからの鍛刀は「菊一文字」と称して現在も幾振りか伝えられている。なかでも秀でているのは歌道だった。元久2年(1205)3月26日、「新古今和歌集」が完成した。1978首、20巻。撰者は源通具、藤原有家、藤原定家、藤原家隆、藤原雅経。

 ところで後鳥羽上皇の愛妃に伊賀の局がいた。もとは白拍子で亀菊という。上皇は寵愛のあまり摂津国長江・倉橋の二荘を賜った。鎌倉幕府はこの荘園に地頭を補任したが、地頭の横暴が激しいという理由で、上皇はその地頭の罷免を幕府に命じた。しかし執権・北条義時は聞き入れず拒否したため、関係が悪化していき、義時追討の院宣を発布し挙兵したが、敗れて隠岐に配流される(承久の乱)。延応元年に同島で崩御した。いわば伊賀局も傾国の美女といえなくもない。

    伊藤小坡(1877-1968)は、三重県宇治山田(現・伊勢市)の猿田彦神社の宮司の長女として生まれた。明治31年京都に来て、谷口香嶠に師事。大正4年第9回文展で「制作の前」で三等賞となり、以後文展、帝展に出品、大正8年日本自由画壇の結成に参加したが、翌年には竹内栖鳳のすすめで脱退し再び官展に帰った。上村松園につぐ閨秀作家といわれる。昭和43年に90歳で没した。

2023年7月12日 (水)

禁煙の話

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 なぜ人は、たばこを吸うのか。精神分析の創始者とされるフロイトによれば口唇要求(幼児の指しゃぶり)のあらわれだとか。この真偽はともかくフロイト自身、毎日20本以上の葉巻を吸うヘビー・スモーカーだった。一度、禁煙をしたことがあったが、「葉巻を吸うというすばらしい習慣をやめたことで、私の知的関心が大幅に減退する結果となった」と後悔したという。

    マーク・トウェインが言った。「煙草をやめるなんて非常に簡単なものだ。私はもう百回以上も禁煙している」

    煙草の伝来はポルトガル人が鉄砲とともに伝えたといわれる。江戸幕府は贅沢禁止と防火のため慶長14年に煙草禁止令を出し、栽培と喫煙を取り締まった。しかし煙草は庶民の嗜好品として広まった。明治政府は明治9年、煙草税を課し、日清戦争の財源とした。そして日露戦争中の明治37年に完全な専売制をしいた。昭和49年頃から、非喫煙者が煙を吸わされる受動喫煙が問題になり始めた。近年、煙草の健康への被害を理由に煙草の値上げが著しい。大阪市では煙草1本で懲戒処分された運転士がいる。

 

 

フォークの歯はなぜ4本なのか

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 16世紀イタリアの初期のフォーク

 

 本日は「洋食器の日」。七(な)一(い)二(ふ)で「ナイフ」の語呂合わせ。中世の人びとはナイフで肉を切り、手づかみで食事をしていた。ナイフが食卓で使われたのは、15世紀以後のことである。ルイ15世紀は先端恐怖症で、ナイフの携帯を禁ずる法令をつくった。貴族社会の人びとがフォークを使いはじめたのは16世紀ころからのことである。ルネサンスのはなやかな舞台となったイタリアでは銀、白鑞(びゃくろう)ときには黄金などの貴金属に華美な彫刻をほどこしたフォークを専門の職人につくらせ、その豪華さと料理の豊かさを自慢しあっていた。4本歯のフォークが登場するのは18世紀のイタリアである。ナポリ国王フェルディナンド4世はスパゲッティが大好物であった。そこで何とか上品に食べられる方法はないかと技術者のチェーザレ・スパダッチーニが4本歯を考案したといわれている。スプーンは16世紀に入ってからだといわれている。(7月12日)

 

 

源頼朝が征夷大将軍に就任(1192年)

500_10881307   治承4年(1180年)、源頼政は、後白河法皇の皇子以仁王の令旨を奉じて挙兵したが、宇治で敗死した。しかし、以仁王の名で発せられた平氏討伐の令旨は、諸国の源氏が挙兵するきっかけとなり、以後10年間、全国的な内乱となった。これまで源平の合戦などと言われてきたが、実はそれだけにとどまらない。源氏の中でも頼朝と義仲、義経のように、互いに対立した。このように対立関係も多様なので、最近では1180年から1189年の頼朝による奥州平定までの戦いを「治承・寿永の内乱」と呼ぶようになっている。

   では本格的な武家政権である鎌倉幕府の成立はいつであろうか。古くから建久3年7月12日、頼朝が後鳥羽天皇によって征夷大将軍に任命されたときとする説があり、近年、「山槐記」に頼朝の征夷大将軍任官の記述も発見された。これは幕府という語の意味に着目したものであるが、現在では1192年説をとなえる学者は少数派である。軍事政権としての幕府が成立した過程が問題となり、さまざまな説がみられる。

   そのなかでも、文治元年(1185年)11月、守護・地頭の任命権を獲得したときを幕府の成立とみる学者は多い。しかし、幕府の基盤は東国にあり、東国の支配権を強調してみるならば、寿永2年(1183年)10月宣旨を重視する学者もいる。これはこれは頼朝が、北条時政を上洛させて、義経の追捕をせまり、それを口実として、諸国に惣追捕使(のちの守護)・地頭(国地頭)を任命する権利と一反あたり5升の兵糧米を徴収する権利などを獲得した時期である。このように鎌倉幕府創設年代は諸説あり、「鎌倉幕府1192年成立」として覚えるのではなく、「1185年は守護・地頭設置」というように、具体的史実を中心に年代をまとめておく。歴史は単なる暗記物ではなく、歴史的事実のうえに立って構成していくものである。

 

 

2023年7月11日 (火)

生活インフラとしてのコンビニ

Photo  本日7月11日は「セブンイレブンの日」。コンビニエンスストアとは年中無休で長時間の営業を行い、小規模な店舗において主に食品、日用雑貨など多数の品種を扱う形態の小売店。略称は「コンビニ」。1927年、アメリカのテキサス州オーククリフという小さな町でコンビニ「サウスランド社」が誕生した。創業者は当時26歳だったジョー・トンプソンという青年だった。日本でのコンビニは1974年に東京豊洲店がセブンイレブン第1号。翌年にはローソンも開業した。1983年ころ全国に7000店舗しかなかったコンビニは現在は5万店舗を超えている。

  「コンビエンスストア conveience store」「便利なお店」「コンビニ」という言葉は、いつ頃から使われるようになったのか?レファレンス協同データーベースの事例を読むと、言葉としての「コンビニストア」の初出は日経テレコム21で、1976年にみられるものの、現代用語の基礎知識が1990年版から掲載されていることなどから、「1990年代初めにはコンビニという表現がかなり一般化してくる」という結論を下している。確かに下図の店舗数の推移をみても90年代がコンビニ業界の成長期とみるのは正しい。

  だが私の記憶では、都市部ではこれより早く店舗が増加し、社会に定着してきたような感じがする。セブンイレブンだけの推移をみると、1980年に1000店舗となり、1984年に2000店舗、1987に年に3000店舗、1990年に4000店舗に到達している。1986年にはドラマ「深夜にようこそ」(山田太一脚本)全4話が放送されている。コンビニは80年代に日本各地に浸透していった。

 

 

 

 

ラーメンの日

ぼくらの少年発明王

いつも明るい えがおの中に

輝くひとみも いきいきと

ゆめはとぶとぶ 宇宙のはてへ

そこから生れる大発明

    子どもの頃みたフジテレビ系の番組「少年発明王」(昭和36年)、上高田少年合唱団が歌う主題歌を聞くと「チキンラーメン」の記憶とダブってくる。おそらく日清食品の提供だったと思う。同じ頃、映画館で家族全員でみた石原裕次郎主演の映画「堂堂たる人生」。倒産寸前の玩具会社をアイデアで若いサラリーマン中部周平(石原裕次郎)が救うという物語。風邪で寝込んだ中部の下宿先に同僚OLの石岡いさみ(芦川いづみ)が見舞いに来て、チキンラーメンをつくるシーンが印象的であった。

   つまりケペルの子供時代、インスタントラーメンがようやく家庭に普及した頃で、チキンラーメン1袋35円だった。「少年サンデー」が40円の時代であるから、少し高い値段であろう。「少年サンデー」といえば、あの頃「おばけのQ太郎」に頻繁に登場する眼鏡でパーマをかけた小池さんという人も何故か必ずラーメンを食べていた。

    このように子供にとってラーメンは大人気の食品であったが、明治生まれのオヤジは何故かラーメンといわず「支那そば」といっていた。国鉄のことを大人は「省線」(戦前は鉄道省だった)といったのは素直に理解できたが、ラーメンを「支那そば」と呼ぶことには抵抗感があった。

  ところでラーメンの「ラー」って何か?中国語の拉麺がそのままラーメンになったというのが定説である。そもそも「拉麺(ラーミエン)」とは、中央アジアの麺・ラグマンが語源である。明治33年頃、浅草の来々軒は中国料理だったが、なかでも「支那そば」「南京そば」と言われた中華麺は人気だった。そこに王文彩というロシア革命の亡命料理人が、手延べでさっさと麺をつくり、「ラーメン」と称した。

    だがラーメンの語源は諸説あり、これよりのちの大正10年、北海道大学の前の竹屋食堂の大久タツが中国風の麺を出した。好了(ハオ・ラー)=料理ができた、とロースーメン(肉絲麺)の合成語、これをもって日本でのラーメンの発祥とする説もある。(NHK番組「チコちゃんに叱られる」)番組によると、タツさんが支那という差別的なニュアンスのある言葉を、中国人留学生に聞かせたくないという食堂のおかみさなの優しさから、ラーメンという呼称が考えられたという。

    大正期には、夜鳴きそば、夜鳴きうどんを真似て、チャルメラを鳴らしながら町々を周る屋台が全国で現れるようになった。ラメーンの具材には、チャーシュー、メンマ、ネギ、のり、コーン、ナルト、焼豚などが一般的である。

     しかしながら、戦前においては、「ラーメン」は店で食べるもので、一般的には「支那そば」「シナソバ」「中華ソバ」という呼び名が普通であった。『日本の味探求事典』(東京堂)によれば、「ラーメンという言葉が初めて使われたのは、昭和25~27年頃である」とある。かなり断定的に年代を決めているのは、おそらくその頃、ラーメン屋が急激に増加したのであろう。「ラーメン」という言葉そのものは、昭和5年の「モダン辞典」に「ラーメン(食)支那そば」と記載されている。

    つまり、昭和25年以降は、「ラーメン」は「支那そば」「中華そば」と同じように用いられていた。しかし、昭和33年8月、安藤百福が日清食品を設立し、チキンラーメンの名で発売するや、爆発的な売れ行きとなった。これによって「ラーメン」という呼び方が一般的になったということはいうまでもないであろう。(7月11日)

 

 

2023年7月10日 (月)

北海道の魅力

Map300  北海道は広大な大陸である。山も川も、湖も平原も、そして海さえもが本州のそれとはスケールを異にし、しかも文明と原始の自然とがともに併存する天地として、かぎりない魅力と神秘さに満ちている。札幌や函館その他の近代都市にも、北海道開拓の歴史の歩みがその跡をとどめ、ある町は異国的な情緒や青年のような生気を、ある町は哀愁のかげりの表情をみせる。古く蝦夷地とよばれていた道内の各地には、数々の伝統や神々の宿るアイヌのふるさと、神秘な自然がある。そして、船すら着けぬ知床半島、おとずれる人も住む人もまれな広漠とした根釧・サロベツの原野、千古斧を知らぬ大雪山など、秘境の名にふさわしい大自然が横たわっている。北海道には179の市町村がある。道民は35市129町15村、全部いえるのだろうか。4区分が一般的。道央(石狩、空知、胆振、日高、後志)、道南(渡島、檜山)、道北(上川、留萌、宗谷)、道東(網走、十勝、釧路、根室)。画像のように石狩、空知、日胆、後志、道南、上川、留萌宗谷、オホーツク、釧路、十勝という10区分もある。▽北海道の中学生の修学旅行、行き先は約半数が道内、次に東北地方が多い。▽松浦武四郎が蝦夷を調査したとき、アイヌからこの地を「カイ」と呼んでいることを知る。それで日本の「北」にある「カイ」、それに旧領土を指す「道」をつけ「北加伊道(ほっかいどう)」という地名を創案した。これが現在の「北海道」の由来である。▽函館山から眺める町の夜景の美しさはたとえようもなく、武家政治終焉の地・五稜郭やトラピスト・トラピスチヌス修道院がある。また市内には「北海道坂本龍馬記念館」がある。龍馬の甥、直寛は明治に北見に入植している。▽洞爺丸台風があった日(1954年9月26日)岩内町で大火があった。死者35人、行方不明者45人。水上勉の小説「飢餓海峡」では仮名で岩幌大火となっている。▽小樽には、ニシン御殿や、小樽水族館、断崖のオタモイ海岸、など名所も多い。▽札幌は雪まつりをはじめ、四季の行事も多彩で、魅力ある国際観光都市としての役割を果たしている。▽流氷の町網走は北辺の小都市ながら、オホーツク海の漁場をひかえた漁業基地の明るい活気と磯の香りに満ちた町である。美幌峠は釧路と北見の境にある高原である。北見はかつては薄荷の産地で知られたが、近年は常呂といえば「カーリングの町」となっている。だがなんといっても北海道観光の一番人気は富良野のラベンダーの花畑であろう。▽ほつかいどう北海道では水産業もさかんである。道内には釧路港や稚内港など多くの漁港があり、近海のオホーツク海やベーリング海は、たら、さけ、かになどをとる北洋漁業の好漁場である。

 

 

本州の中央になぜ都が置かれなかったのか

  岸田文雄首相が2023年の元日のラジオ番組で歴史上で好きな人物を聞かれ、「徳川家康」と答えた。首相は山岡荘八の小説「徳川家康」を全巻通読したと明かした。凶弾に倒れた安倍を信長に、菅を秀吉に、そして自分を家康になぞらえたのかもしれない。 だが増税、コロナ、物価高対策など課題山積で支持率が低迷。どうする岸田首相。

 「織田がつき羽柴がこねし天下餅 すわりしままに くらう徳川」という歌がある。戦国の乱れた世を統一する事業は、織田信長が土台を固め、豊臣秀吉がその事業を継承し、そのあとの徳川家康が江戸幕府を開き、天下統一の事業を完成させた。

   「鳴かぬなら殺してしまえ時鳥」「鳴かぬなら鳴かせてみしょう時鳥」「鳴かぬなら鳴くまでまとう時鳥」という句は、信長、秀吉、家康の戦国三大英雄の性格の違いをよく表わしたものとしてよく知られているが、もともとある大名の随筆に書きとめられたもので、政治家としての家康の大器がしのばれるであろう。

 ところで日本列島を7のブロックに分けると、関東と関西の間に位置する中部地方は過去に一度も都がおかれていない。奈良、平安、鎌倉、室町、安土桃山、江戸、明治。どの時代も本州の中央にある場所をさけるかのように東西に都が遷都されている。なぜそのようなことがおこなわれたのか。戦国時代は日本中に群雄が割拠した内戦状態が続いたが、やはり平安時代から天皇が居住する御所が置かれた京都に上り、諸国に覇者として号令することであった。地理的にみて美濃の斎藤道三、尾張の織田信長、その家臣の羽柴秀吉、三河の徳川家康が生と死が紙一重であるが、天下人になる順当なコースだったことは必然である。家康が三河を離れ、関東への移封された当時は、まだ草深い未開の地であった。中部地方に都がなかったのは歴史の偶然であるような気がしている。

 

井伏鱒二と福山城

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  本日は小説家・井伏鱒二の忌日。本名は満寿二。明治31年2月15日、広島県深安郡加茂村粟根89番邸(現在の福山市加茂町)に生まれた。父は井伏郁太、母は美耶、鱒二はその次男で本名を満寿二という。父郁太は鱒二が5歳のとき亡くなった。その年、祖父の民左衛門に連れられて福山の町を初めて見物に行く。汽車を見て、初めて写真を撮ってもらったのもこのときである。一番印象に残ったのは福山城だった。井伏が見た福山城の天守閣は昭和20年まであったが、戦災にあって焼失した。現在の天守閣は昭和41年に復元されたものである。

    福山城は元和5年、徳川家康の従兄弟、水野勝成が備後東南部に入封して築城した。3年後、城と城下町が完成し、地名を福山と改めた。当時からの建物で現存するのは、伏見櫓、筋鉄御門、鐘櫓である。井伏は祖父から矢尻を買ってもらったことを覚えている。おそらく、井伏の最初の骨董品であったであろう。(7月10日)

 

江戸っ子と納豆

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 本日は納豆の日。よく煮た大豆を納豆菌で発酵させた食品が納豆である。納豆を入れた縄文土器が出土しており、日本人が古くから大豆を蛋白源として利用していたことがわかる。縄文人が何と呼んでいたか明らかではないが、後漢の中国では「豉(し)」と文献にある。平安朝の「和名抄」に「クキ」と見える。平安時代、寺院の納所(納屋)に置いていた豆が発酵して美味しかったので、売り出され、それが「納所の豆」と言われ納豆という語が生まれた。もともと納豆がよく食べるようになったのは山国である京都の人が最初であり、昔から納豆が作られ食されてきたが、江戸時代になって江戸で納豆が大流行した。早食いものが江戸っ子の気性に合っていたらしい。紀州田辺藩の原田某が書き記した随筆「江戸自慢」(安政年間成立か)の中で、「江戸に烏の鳴かぬ日はあれど、納豆売りの来ぬ日はなし」とある。このように江戸の町では、毎朝、夜明けと共に納豆売りが長屋の隅々までやってきたのである。納豆といえば水戸の名産が有名だが、意外と新しく明治になってからのことである。笹沼清左衛門が明治22年、天狗納豆を水戸駅で売り始め評判となった。

 

 

 

 

東北六魂祭

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 鉄道やバスの交通機関が発達しているとはいえ、東北の自然は大きく、しかも中央に南北に長くのびた奥羽山脈が連なっいるため青森、秋田、岩手、山形、宮城、福島と各県それぞれの歴史と文化が大きく異なる。奥羽山脈を境にして、太平洋側の気候と日本海側の気候に分けられる。太平洋側は、初夏から夏にかけてやませが吹くと気温が下がり、冷害がおこることがある。一方、日本海側は春や夏にフェーン現象がおこり、高温になることがあるが、冬は北西の季節風の影響で雪が多く降る。東北の早期復興を願って開かれる東北六魂祭。六魂祭とは、青森ねぶた祭、秋田竿灯まつり、盛岡さんさ踊り、山形花笠まつり、仙台七夕まつり、福島わらじまつり。各地の伝統行事についてくわしくみていこう。

2月 横手かまくら

4月 天童・人間将棋

4月 弘前桜まつり

6月 盛岡・ちゃぐちゃぐ馬こ

7月 出羽三山花まつり

7月 恐山大祭

8月 青森・ねぷた祭

8月 秋田・竿灯

8月 花笠祭

8月 仙台・七夕

8月 松島・燈籠流し

9月 花巻祭

9月 会津白虎祭

10月 二本松提灯祭

12月 羽黒山松例祭

 

 

油を売る

Abura_uri  7月10日は「潤滑油の日」。OILを半回転させると710に見えることから。

 無駄話に時を過ごすことを「油を売る」という。江戸時代の「油売り」からでた言葉で、婦女に髪油(つばき油)を売る者が世間話などをしてゆっくり話し込んで商売をしてことから、その様子が怠けているように見えたことから転じた言葉となってうまれた。一説には行灯油ともいわれる。(ことばの疑問)

 

 

2023年7月 9日 (日)

孔子と喜怒哀楽

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 孔子像(湯島聖堂)

 

  元禄3年のこの日、5代将軍徳川綱吉によって湯島聖堂が建てられた。喜怒哀楽は人間の本来誰しもが持っている感情である。ただ、これに振り回されると、道義を見失うことがある。孔子も本当は激しく感情的な人であったかもしれない。弟子の顔回が死んだとき、「ああ、天はわれをほろぼした」と嘆き悲しんだ。喜怒哀楽に関しては『中庸』にふれている。「喜怒哀楽の未だ発せざる、之を中と謂う。発して皆な節に中る、之を和と謂う。中なる者は、天下の大本なり。和なる者は、天下の達道なり。中和を致して、天地位し、万物育す」とある。考えや行動などが1つの立場に偏らず中正であり、過不足なくさりとて単純に中間をとればよいというのではなく、極端にならないことがよい。(黄紹祖「孔子之喜怒哀楽」 1987年)7月9日

関東地方

   関東地方には、東京・横浜・川崎・さいたまの4つの100万人をこえる都市がある。一都6県を合わせた人口は、日本の総人口の約35%になる。GDPの41%が関東に集中している。政治・経済の中心地として発展してきたが、人口の集中と過密化は大きな問題がある。100年前に首都圏を襲った大震災から今年で100年を迎える。首都直下や南海トラフ大地震がやってくる前に東京一極集中を見直し、経済活動の3割を地方に分散するように考えてもらいたい。

サイパン陥落と南雲中将の自決

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 日本軍の南方の防衛線であったマリアナ諸島のサイパンは、昭和19年6月15日にはアメリカ軍が上陸し、日本軍との激しい戦闘となった。7月9日、部隊は全滅した。同島に航空基地を確保した米軍は、日本本土への本格的な空爆を開始する。

   太平洋戦争中、真珠湾攻撃、ミッドウェー海戦など主要な海戦の指揮をとった南雲忠一の名前は広く知られている。真珠湾作戦での詰めの甘さを指摘されることが多いが、南雲の最期についてはあまり語られることは少ない。サイパン迎撃作戦の指揮をとり7月6日に自決した。(一説に翌7日)。国立国会図書館憲政資料室には南雲忠一文書として日記、ノート等6点が収蔵されている。(参考:児島襄「悲劇の提督」)

鷗外忌

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 森鷗外墓(津和野)

 

    森鴎外はその死に当って、賀古鶴所に遺言を口述した。「余は石見人森林太郎として死せんと欲す。墓は森林太郎の外一字もほる可からず。栄典は絶対に取りやめを請ふ」と厳命している。実際には従2位勲1等が贈られている。

     大正11年7月9日午前7時、千駄木の自宅にて没した。腎委縮、肺結核。享年60歳。12日、谷中斎場で仏式により、葬儀、翌13日、日暮里火葬場で荼毘に付し、向島弘福寺に納骨された。その後、分骨され郷里の永明寺(島根県鹿足郡津和野町)にも墓がつくられた。現在、三鷹の禅林寺にある鴎外の墓は、弘福寺から昭和2年に移されたものである。

どっちが有名人

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   大正5年のこの日、上田敏が腎臓疾患で急逝した。まだ41歳だった。シュリ・プリュドムとカール・ブッセ、どちらの詩人を知っていますか。「山のあなたの空遠く 幸(さいわい)住むと人のいふ」  やはりカール・ブッセだろう(写真右)。でも世界的には第1回のノーベル文学賞を受賞したシュリ・プリュドムだろうか。わが国では、上田敏「海潮音」の翻訳の影響はとても大きい。ブッセの「山のあなた」以外の詩としては、万足卓が訳した「三人兄弟」(「ドイツ詩評釈」所収)がある。(7月9日)

 

 

予の辞書に不可能という言葉はない

Photo   革命後のフランスに登場したナポレオンは、イタリアに遠征して連戦連勝であった。1799年11月のクーデターで権力の座についてからは、ヨーロッパ大陸の大半を手中におさめ、全ヨーロッパの支配者として権力の絶頂にたった。「余の辞書に不可能という言葉はない」この言葉は、1800年、再度オーストリア軍を攻撃するために、愛馬マレンゴに乗ったナポレオンが吹雪のアルプスを越えるときに放った名言として知られている。将兵は「この険しいサン・ベルナール峠は、とうてい大軍がとおることはできそうにありません」しかし、ナポレオンは大きな声でいった。「わたしの辞書には、不可能という言葉はないのだ。人間の力で、この峠が越せないはずはない」フランス軍は、進撃をつづけた。この強い自信と、決断力から「予の辞書に不可能という言葉はない」という名文句が生まれた。

   このエピソードは、海外の書物にも記されているのか、それとも日本の子ども向けの伝記だけなのか。だがなんとなく源義経の鵯越の逆落としを思いおこさせる。実際にナポレオンが「余の辞書に不可能という言葉はない」に近い言葉を残したのは、10年以上のちのことである。ワーテルローで敗戦して、連敗続きでチェルリ宮に籠っていた1813年初夏のころ。前線にいるドイツのマグデブルクの司令官ルマロワが「この街を守るのは不可能な気がいたします」と弱気の報告書をナポレオンに寄こした。これに対してナポレオンは7月9日付で「不可能ですと。あなたはそうお書きになりましたが、不可能という言葉はフランス語にはありせん」と書いて送った。ここからナポレオンの名言「余の辞書に不可能という言葉はない」が生れたと思われる。

2023年7月 8日 (土)

弁慶の「勧進帳」の話はなかった

  文治元年、後鳥羽上皇、源頼朝臨席の元、東大寺再建供養が行われた。これは5年前、平重衡による南都焼討で大仏殿が焼失したためである。歌舞伎十八番の演目「勧進帳」。勧進帳とは、お寺に寄付を募るお願いが書いてある巻物で、「安宅」で出てくる勧進帳は東大寺再建の寄付を募る内容だった。 一ノ谷の合戦の後、源義経は頼朝の許しを得ぬまま、官位をもらい、さらに昇殿まで許された。こうした義経の行動に頼朝は激しく立腹した。京の堀河に潜伏した義経はあやうく暗殺されそうになり、ついに都を離れることを決意する。文治三年、雪の吉野山で追ってから逃れたのち、山伏の姿に身を変えた義経主従一行は、大津の浦から琵琶湖を渡り、岐阜から加賀へと北陸道の苦難の旅がはじまる。

    歌舞伎「勧進帳」や能「安宅」で知られるように、安宅の関守、富樫左衛門がその正体を怪しんだが情をもって見逃した話や、如意の渡で弁慶が義経を滅多打ちにして渡し守の疑いを晴らしたなどという事績なども、もちろん史書には見当たらない。だが富樫左衛門は実在の人物であるという。富樫氏は、平安中期に活躍した鎮守府将軍藤原利仁の末裔という北陸の名門で、代々、国司のもとで実務を行う在庁官人をつとめる地方豪族だった。富樫左衛門の実名は富樫泰家といい、倶利伽羅峠では燃える松明を牛の角に結びつけ、平家軍に夜襲をかけて、義仲軍を大勝利に導いている。義仲が義経に討たれた後は、頼朝によって加賀国の守護に任ぜられていた。富樫泰家は豪胆な武将だったのだ。はじめて安宅の関の話があらわれるのは「義経記」という軍記物においてである。以後、この「義経記」から謡曲や歌舞伎の安宅の関の名場面がさらに創作されていった。「義経記」が成立したのは、室町時代のことなので、義経に対する庶民人気を反映し、いわゆる「判官びいき」的な話が創作され、こうした「勧進帳」の話が形をなしていったものと思われる。(小和田哲男「誤伝の日本史」)

 

 

活動的なファーストレディ

  安倍晋三元首相の襲撃事件からはや1年が経つ。献花台には花が絶えることはないが、昭恵さんには、遺産5億円を注ぎ込み「安倍晋三記念館」を建設する計画があるという。これまでわが国では総理夫人の活動はほとんどメディアの注目するところではなかったが、安倍昭恵さんの頃から海外の例に倣い「ファーストレディ」と呼ばれることもある。女性が輝く時代となったということなのだろうか。さてご本家のアメリカ合衆国バイデン大統領のファーストレディはジル・バイデン。最初の妻は交通事故死し、ジルと再婚。高校の英語教師だった。ヒラリー・クリントン、ジャクリーン・ケネディ・オナシス、エレノア・ルーズベルトも活動的なファーストレディとして知られた。初代ファースト・レディのマーサ・ワシントンや第2代大統領ジョン・アダムズの夫人アビゲイル・アダムズもよく知られている。メアリー・リンカンは悪妻として知られている。明るくて活動的だが、虚栄心が強く、嫉妬心も強かった。

 

 

 

ローマのカタコンベ

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 キリスト教は東方で確立したが、早い時期にローマに伝えられたのを別にすると、西方世界では3世紀まであまり受け入れられなかった。ドミティアヌス帝は、ネロと同じようにキリスト教を迫害し、デキウス帝が250年に勅令を出して、迫害を行った。258年8月6日、ローマ皇帝ウァレリアヌスは第24代ローマ教皇シクストゥス2世がカタコンベで儀式中のところを捕らえて、その場で斬首したと伝えられる。ウァレリアヌスによる迫害のため、ヤヌアリウス、ウィンケンティウス、マグヌス、ステファヌス、ウェリキシムス、アガピトゥスら6人の助祭も共に殉教した。シクストゥス2世の墓は現在もサン・カッリストのカタコンベにある。 カタコンベとは帝政ローマ時代のキリスト教の地下墓所。

  サン・カッリストのカタコンベはローマの南のサン・セバスティアーノ門を起点とするアッピア旧街道に沿った場所にある。中に入ると墓所は地下4層からなり、全長10㎞以上の通路は迷路のように延びている。約10万人以上の人が葬られているが、最も注目すべき地下室墓は「教皇の地下室墓」である。3~4世紀、初期のローマ教皇12人の遺体がここに葬られている。最も古いのが第19代教皇ポンティアヌス(在位232-235)。20代アンテルス(235-236)、21代ファビアヌス(236-254)、23代ルキウス(253-254)、24代シクストゥス2世、25代ティオニュシウス(259-268)、26代フェリクス1世(269-274)、27代エウティキアヌス(275-283)、28代カイウス(283-296)、31代エウセビウス(311-314)、32代ミルティアデス(311-314)、そして第37代教皇ダマスス1世(366-384)である。キリスト教徒にとって最も聖なる教皇の墓が存在するこの地下室墓は、1854年デ・ロッシによって発見されたが、長い年月をかけて名前を確認することができたといわれる。(Catacombe di San Calisto,Pontian,SixtusⅡ,De Rossi、世界史)

ヴァスコ・ダ・ガマとインド航路

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   16世紀大航海時代をもたらした要因の一つは、香辛料をはじめアジア物産に対するヨーロッパ人の欲求であったが、ヴァスコ・ダ・ガマ(1469-1524)とカリカット領主のやりとりはアジア物産の豊かさを物語っている。1497年7月8日土曜日、ヴァスコ・ダ・ガマはインド航路開拓のためリスボンを出発した。1498年5月20日、ガマは香辛料や宝石の交易で賑わうカリカットに上陸すると、この地の領主ザモリンに面会を求めた。ガマが領主に用意した贈物は、布、帽子、珊瑚玉などである。領主の執事はこれを見て、「とても王様に差し出す品物ではない。アジアの最も貧しい商人でもこれ以上の贈物を持ってくる」と罵った。ガマはどうにか香辛料を手に入れたが、結局、贈物は拒否され、出航許可として税金を命じられた。しかし、ガマはその税金も支払わず、出航を強行したのであった。( Vasco da Gama,Zamorin )

池田屋の入江惣兵衛はどうなったのか?

  元治元年6月5日(新暦7月8日)、三条小橋にある池田屋で新選組が宮部鼎蔵ら志士7人を殺害、23人を捕らえた事件は、幕末暗殺史の中でもひときわ凄惨をきわめる。だがドラマなどで池田屋の主人、入江惣兵衛(1823-1864)がその後どうなったのか描かれることはほとんどない。惣兵衛は事件後、家族を連れて親戚宅へ逃れ、自分も隠れたが翌6日捕らえられ、7日入獄。7月13日に獄死している。42歳の若さだった。墓は浄円寺(京都市上京区下立売通七本松西北角)にある。墓は入江姓になっている。京都霊山護国神社にある墓は池田惣兵衛と記されている。

 

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 池田屋の内部

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 京都霊山護国神社の墓

2023年7月 7日 (金)

メソポタミア文明の形成

Sumerian  ナイル流域のエジプトと、ティグリス・ユーフラテス両大河の流域メソポタミア。農耕遺蹟や都市国家成立はどちらが古いのか?1948年、50-51年にアメリカの考古学者ロバート・J・ブレイドウッドらが北イラク、キルクークの東、ザグロス山脈の山麓地帯にあるジャルモ遺跡を発掘した。紀元前7000年頃から紀元前4950年に存在した遺跡で、レバントのイェリコやアナトリアのチャタル・ヒュコク遺蹟とほぼ同時期に存在していた。ジャルモ遺蹟は定住的な村落がはじまったと考えられる。牛・羊が飼育され、穀物が栽培されていた。もっとも、はじめのころの農法は、もっぱら天水にたより肥料もほどこさないものだった。近年はシリアのテル・アブ・フレイア遺蹟から旧石器時代の集落が発見され、ライムギの栽培が確認され、人類最古の農耕の開始とされている。紀元前6000年期前半には、ティグリス川中流域におけるサマラ文化の下で灌漑農耕が始まった。イラク北部のハラフ期(前5000年ころ)に、はじめて灌漑をおこない、沼沢地を農地に変えて、バビロニア南部を開拓したのは、エリドゥ人である。この地方は、新石器時代末までは、定住は全くおこなわれなかった。次のウバイド期(前4000年ころ)になるとシュメール人が南メソポタミア地方のアル・ウバイド、ウル、ウルク、ラガシュ、ウカイルなどにウバイド文化を形成する。シュメール人の原住地は不明で、メソポタミア周辺のセム族の言語でもなく、中央アジアを原住地とするアーリア民族の言語でもないところから、インド原住民との関係があるのではないかといわれている。ともかくシュメール人は前4000年ごろに移住定着し、沼地を干拓し、原始農耕を営んでエリドゥ、ウル、ウルク、ラガシュなどの都市国家を建設し、楔形文字と青銅器農具の使用を発明して、古代オリエント文化の基礎を築いた。とくにラガシュは、紀元前2500年頃から紀元前2000年頃まで、時にはメソポタミアの中心都市として、時には他の帝国の属国として、変遷を遂げながらも存続した。紀元前21世紀の半ばにはラガシュが世界で一番人口の多い都市であった。メソポタミアからパレスチナにおける農耕文明の発生地域を「肥沃な三日月地帯」と言う。アメリカの学者ジェームズ・ヘンリー・ブレステッドがその著書「エジプトの古代記録」で初めて使われた。メソポタミアとはギリシア語で、メソは「間」、ポタモスは「川」のことで、「川と川の間の地」という意味である。

  ウルク期になると、人間の集住のあり方でも、村落をこえて都市というべきものが生まれ、かつての小さな祭祀場も、神殿というべきものに発達していった。そして都市神を奉ずる諸都市では、王権が生まれ、シュメール人の諸王朝が成立した。考古学編年としては、ウバイド期、ウルク期、ジュムデト・ナスル期、初期王朝時代へと続く。(Shumer,Sumerians) 世界史

 

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古代エジプトの形成

   エジプト文明が誕生し、人びとが定住し農耕を開始したのは、およそ紀元前5000年ごろと考えられている。紀元前4500年ごろにはモーリス湖畔にファイユーム文化が成立し、紀元前4400年ごろから上エジプトの峡谷地帯を中心にナカダ文化が興った。「ナイルのたまもの」ということばのとおり、ナイル川が用水と沃土をもたらしただけでなく、重要な交通路でもあった。ここでははやくから流域に多くの村落が分立していた。古代エジプトには伝統的な行政区が42あり、これを「セペト」(sepet)と呼んでいた。現在、歴史用語としては、ギリシア語の「ノモス」(nomos)という呼び名のほうが知られている。国土を行政区に分割する制度は少なくとも初期王朝時代(前3100年)から存在していた。セペトは、それぞれに守護神をもち、ヒエログリフでは運河の形で表される。これは古代エジプトの地方行政の最も重要な事業はナイル河の治水にあったことを物語る。セペトに関する記録は第4王朝(前2613年)から現れるが、その起源は先史時代末期の小王国群に由来するといわれる。中央政府の衰微した時代には、セペトがしばしば独立国家のごとき観を呈した。いくつもの部族国家が徐々に統合されていくつかの国家が誕生した。先史時代の上エジプトの最初のファラオを現代の学者はスコルピオン1世と呼んでいる。これはサソリの女神セルケトに因んだもので、考古学上のナルメルと同一人物であることが有力視されている。やがて紀元前3千年紀年紀前半、ピラミッド建造の第4王朝を含む古王国、ヒクソク人が支配した第15王朝を含む中王国と、第18王朝から新王国に入る。第18王朝は紀元前16世紀前半から約200年間続いた大王朝で、イクナートン王の、太陽神アトンを唯一神とする一神教の宗教改革で知られる。王の築いた王宮跡テル・エル・アマルナから大量の粘土板文書が出土した。

 

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盧溝橋事件おこる

    昭和12年7月7日、北京西南の盧溝橋で起きた日本軍と中国軍との衝突事件は、もともとは銃が聞こえただけの小事件だった。陸軍参謀本部作戦課長の河辺虎太郎(1890-1960)の元に届いたのは8日早朝のことだった。「厄介なことが起こったな」それが軍務課長・柴山兼四郎の電話の第一声だった。第三課長・武藤章は「愉快なことが起こったね」と言っていた。一方はこれを何かもみ潰しをしなければならなぬという風に思い、一方では此奴は面白いから油をかけて燃やそうという気持ちの違いがある。(「河辺虎太郎少将回想応答録」)不拡大派と拡大派の対立を象徴するような言葉だった。小事件が全面衝突に発展して、日本が破滅への道を歩んだのは、後の歴史が語る通りである。このとき第1連隊長として攻撃命令を行い指揮を取っていたのは、のちにインパール作戦で多くの部下を餓死させた牟田口廉也である。

  盧溝橋事件を契機に起こった日中戦争は国家総力戦となり、政府による国民の戦争への総動員と国家総動員法をてことする戦時統制経済への移行が強力に推進された。昭和14年9月に第二次世界大戦が勃発すると、日本は不介入を声明したが、翌年には日独伊三国同盟を結んで米英との対立を深め、国内では大政翼賛会を結成し、ファシズム体制を成立させた。昭和16年12月、日本は真珠湾攻撃を行いアジア・太平洋戦争へと突入した。

剣豪スタア・阪妻没後70年

 日本映画史において無声映画からトーキーへの転換期に活躍した阪東妻三郎。昭和28年大曽根辰夫監督「あばれ獅子」で勝海舟の父で奔放無頼のの御用人・勝小吉の役で阪妻は撮り始めたが、撮影中に倒れた。持病の高血圧から疲労のため自宅静養していたが、7月7日午後1時15分脳内出血により死去した。51歳没。代表作は「雄呂血」「魔保露詩」「無明地獄」「新納鶴千代」「維新の曲」「無法松の一生」「王将」「破れ太鼓」。

七夕

20110806221616205   本日は七夕(たなばた)。本来は「しちせき」と読むのが正しい。七夕の日が雨だと牽牛と織女が会えないという伝説がある。だが韓国のチルソクではちょっと違う。この日2人は会う。流す嬉し涙。そして2日間夜に雨が続けば、別れを惜しむ涙といわれている。 

  7月7日の夜に牽牛と織女が天の川で会うという伝説がいつごろ成立したかは明らかではない。牽牛、織女の星名は「詩経」に見えるが、ここではまだ恋物語として扱われていない。七夕伝説は、傳元(217-278)の「擬天問」や文選に引かれた漢代の古詩に、天の川の女が機を織りながら牽牛星を想い雨のように涙を流すという故事がある。つまり牽牛織女の説話はすでに漢代にラブロマンスの原型が成立していたと考えられる。唐の時代には七夕の行事が宮中で盛大に行なわれていた。日本にも8世紀には伝来している。古事記には「多那婆多」と見える。万葉集に「たなばたの今夜あひなばつねのごと明日をへだてて年は長けむ」の歌が見える。

2023年7月 6日 (木)

戦後ハリウッド映画の日本人への影響

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 戦後、アメリカGHQの対日本への民主化政策もあってハリウッド映画が大量に公開された。娯楽に飢えた日本人にとつて、アメリカ映画は、文化であり教養であり青春であった。「我が道を往く」「カサブランカ」「キュリー夫人」「断崖」「荒野の決闘」「心の旅路」「我等の最良の年」「失われた週末」「ママの思い出」「仔鹿物語」「裸の町」「三人の妻への手紙」「女相続人」「虹を掴む男」「イヴの総て」「我が谷は緑なりき」「サンセット大通り」。そしてヴィヴィアン・リー、ロバート・テーラー主演の「哀愁」は昭和24年3月に日本公開され、婦女子の紅涙を絞った。センチメンタルな悲劇の代表として類似映画は世界中にあり、枚挙に遑が無い。ハリスン・フォードの「ハノーバー・ストリート」(1979)はそのリメイクではあるが悲劇性は少ない感がある。日本映画では「君の名は」や「銀座の恋の物語」(記憶喪失の部分は「心の旅路」の影響)などにウォータールー橋ならぬ数寄屋橋が登場する。だが「哀愁」マイラが汚れた職業に堕ち轢死するヒロインの悲劇性を最も忠実に再現した日本映画は浅丘ルリ子主演の「十六歳」(1960)であろう。

 

  玉川せん子(浅丘)は埼玉の米軍基地のある貧しい農家の娘。中学3年生でバトミントン部のキャプテン。健康で明るい少女だが、近所に住むパンパンに好奇心をもつ。中根先生(葉山良二)が好きであるが、本間先生(長門裕之)から就職の斡旋をしてもらう。御礼に本間の下宿を訪れ、レイプされる。そして本間の子を宿すが、堕せといわれる。家出をしたせん子は売春婦となる。ある霧の夜、路上で倒れているせん子を中根が見つける久しぶりの再会であるが、すでに汚れたせん子は逃げ出した瞬間、疾走してきたトレーラーにひき殺される。あらすじのとおり救いようのない悲惨な結末で映画は終わる。当時すでに20歳の浅丘は、中学生をムリなく演じている。名作という評価は聞かないが「哀愁」のペシミズムが見事に再現されている。もちろん恋愛映画としてみた場合、教師と生徒との関係が恋愛としては不十分で、児童文学の映画化という感じはする。原作は打木村治の「雑草のような命」。

 

 

大航海時代

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 貿易圏の拡大をめざしたイベリア半島の2国、ポルトガルとスペインは、その後西ヨーロッパ諸国が巨大なエネルギーを爆発させて大航海時代となる端緒をつくった。ポルトガルはアジアとの間に香辛料を中心とする貿易を拡大し、スペインはアメリカ大陸から大量の金銀を入手して、ヨーロッパに商業革命や価格革命を巻き起こした。中世末の地中海貿易の時代から、西ヨーロッパ人が香料(胡椒)を強く求めていたのは、肉食に原因がある。飼料作物の栽培の発達していなかった当時にあっては、家畜の飼料は自然の牧草にたよっており、冬は牧草が枯れるので、その前に多くの家畜を殺して肉として貯蔵する必要があった。大部分は塩漬けにするが、それでも冬の数ヶ月のうちには臭くなる。この臭みを消すために胡椒が調味料として用いられた。したがって胡椒は彼らにとって必需品であるが、遠い東南アジアから運ばれるためにたいへん高価であり、その取り引きによる多大な利益は、アラビア商人とイタリア商人、とくにヴェニス商人によって独占されていた。そこで新興のスペイン・ポルトガルの商人は、海路東洋に至る道を得て、直接胡椒を手に入れ、その取り引きによる利益の獲得をねらって、地理上の発見に乗り出したのである。ヨーロッパ人の世界進出、大航海時代の到来は胡椒を入手するのが一つの要因であるといえる。ちなみに「大航海時代」という言葉は日本人の造語。1962年に岩波書店から出版企画があったとき増田義郎が「大航海時代叢書」と考えた。それまでは「地理上の発見」と表現されていた。

 

 

アフリカの文明

 アフリカを暗黒大陸と呼ぶのは、もはや間違いである。アフリカは人類が誕生した故郷であり、古来、豊かな文明をはぐくんだ大陸である。人類は約700万年前、最古の人類サヘラントロプス・チャデンシスがアフリカに誕生した。歴史時代にはいってからも、さまざまな民族集団が移動し、混じり合った地域である。アフリカには古代からさまざまな黒人が築いた王国がいくつもあった。それらは、イスラーム世界やヨーロッパなどとの交易で、独自の文明が発達した。しかし、過去の歴史を記録した資料が少なく、正確な歴史を知ることがなかなか困難である。ナイル川流域に発達したエジプト王国は巨大なピラミッドを建設し、文明が発達したことが古くから知られているが、北部のナイル川の上流域にはクシュ王国(前10~後4世紀)が、ニジェール川北部流域にはアフリカ最古の鉄器文化クノ文化(前10~後2世紀)、ザンベジ川流域にはモノモタパ王国(11~16世紀)、南西部のコンゴ川流域にはコンゴ王国(14~19世紀)が、西部のニジェール川流域にはソンガイ王国(15~16世紀)がさかえるなど、いずれも大河を中心にさかえ、金や象牙などの交易が行われていた。とくにガーナ王国は世界有数の貿易地帯で、16世紀から18世紀の時期に、ヨーロッパ諸国の奴隷商人たちがアフリカのベニン湾の沿岸地帯や、内陸から連れて、ヨーロッパやアメリカ大陸へ送り出す奴隷貿易を行った。一説によれば5000万人以上のアフリカ人が奴隷貿易の犠牲者となった。これによってコンゴ王国やアンゴラ王国、モノモタバ王国など労働力を損出したのみならず、社会構造そのものを破壊されるという大きな痛手をこうむった。近年の歴史研究によって次第に明らかになってきているが、17世紀のンドンゴ王国のンジンガ女王はポルトガルに抵抗して独立を獲得したとして民族的英雄として称えられている。しかし1870年代以降におこる西欧諸国の帝国主義によってアフリカは植民地として分割支配された。

七月六日はサラダ記念日じゃなかった!?

「この味がいいね」と君が言ったから七月六日はサラダ記念日

 

1199858297    いまの若い人でこの歌を知らない人はいない。国語の教科書に載ったからである。歌集としては異例のミリオンセラーとなった、俵万智の『サラダ記念日』のタイトルのもととなった代表歌である。でも、あの本の初版されたのが1987年5月8日である。もう36年も前のことである。現役高校生には、すでに国語の教科書にある古典なのかもしれない。先日、若い人が俵万智ってもう死んでいる人かと思った、といっていた。教科書にのる人は故人が多いので勘違いしたのだろうが、若い人に「わかりやすく、親しみやすく、興味をもたせる」ように新しい短歌の代表として載せているのだろう。100年後の日本文学史に確固たる位置を示すかどうかはわからない。万智は震災後、仙台から石垣島へ移住し、そして現在は宮崎市に住んでいる。歌集のタイトルにもなったこの歌は、当時の恋人と広島カープの野球観戦に行って持参した手作り弁当を褒められたことから着想を得ている。つまり、美味しいと言われたのはサラダではなく唐揚げ、そして7月6日じゃないそうです。(7月6日)

2023年7月 5日 (水)

ティ・アーモからはじまった恋

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   イングリッド・バーグマンがロサンゼルスの小さな映画館でイタリアの鬼才ロベルト・ロッセリーニ監督の「無防備都市」を見たのは、1948年の春、彼女32歳の時だった。その後、こんどはニューヨークで「戦火のかなた」を見てバーグマンはたいそう感動して、ロッセリーニ宛てに一通の手紙を書いた。

「親愛なるロッセリーニ様、私はあなたの映画をたいへん楽しく拝見しました。もしスウェーデンの女優が必要でしたら、私は出かけて行き、あなたと映画をつくる用意があります。私は英語はたんのうで、ドイツ語も忘れておりませんが、フランス語はまったく忘れ、イタリア語で知っているのは「Ti Amo」(ティ・アーモ)あなたを愛する、だけです。尊敬をこめて、イングリッド・バーグマン」

    バーグマンが「ティ・アーモ」という言葉を知っていたのは、映画「凱旋門」(1948)の彼女のセリフがあったからだ。ロッセリーニからの返事はすぐに届いた。「私にとってもあなたとの仕事は夢でした」と書かれてあった。そしてほどなくパリでの初会合。翌年アメリカでの再会。顔を合わせるたびに二人の心は微妙に触れ合い、マスコミが書きたてる無責任なゴシップを否定しつつも、彼の演出による第1作「ストロンボリ」を撮るためイタリアへ向かったときの彼女は恋人のもとへ急ぐ女心のときめきにあふれていた。バーグマンには37年にスウェーデンで結婚した夫がいた。ピーター・リンドストロームという医者だったが、アメリカへ移住してからはほとんど妻のマネージャーと化し、46年に彼女が離婚話を持ち出して断られて以来、不仲は誰の眼にも明らかな状態であった。
 だから彼女は新作の舞台となる火山の島ストロンボリに堕ちつくとほどなく夫へ離婚要請の書状を送ったのだったが、駆けつけてきた彼は2人の前に離婚の拒否を宣言し、妻のあるイタリア人監督と自分の妻との恋の不倫を世間に訴えて、世論を味方に引き入れようとした。  
 夫を捨て、幼い娘を捨て、自分たちのファンの愛情をも裏切ってイタリアへ去った女優に対するアメリカ人の非難の声が、完全な敵意に変わったのは、彼女がロッセリーニとの愛の結晶を早くも生み落としたというニュースが伝えられてからだ。そんな敵意の渦の中で2人はそれぞれの離婚を急いだが、5つの国に訴訟提起を拒否されたあげく、ようやくメキシコ政府に書類を受理されて、正式に結婚にたどりついたのは1950年5月24日のことだった。

 

天正遣欧少年使節

    天正10年1月、九州のキリシタン大名大村・大友・有馬の三侯は、宣教師バリニャーニの勧めによりローマ法王グレゴリー13世とイスパニア国王のもとに4人の少年使節団を派遣した。しかし、この年6月、本能寺の変がおこる。天正12年7月5日、伊東マンショ(満所)、千々石ミゲル(清左衛門)、中浦ジュリアン、原マルチノらはポルトガルのリスボンに到着した。天正13年2月22日、ローマ教皇グレゴリウス13世に謁見する。使節の少年たちは14,15歳であったが、いずれも礼儀正しく馬上豊かに胸を張って町を歩いたので、人々の驚嘆を浴び、法王や国王にも好印象を与えた。8年後帰国した時は、すでにキリスト教禁制で少年たちの活動の場はなかった。しかし、日本とヨーロッパを結ぶ役割を果たしたことは重要である。それからの4人の人生は過酷なものであった。伊東マンショは43歳で病死した。中浦ジュリアンは逆さ吊りの刑で殉教した。原マルチノは追放されマカオで死んだ。千々石ミゲルは唯一棄教したといわれる。だが近年お墓が発掘され棄教していないという説もある。

世界地図の歴史

Johptolemymap トレミーの世界地図

 

    古代の人びとは、自分たちの考える世界像を世界地図として表現した。紀元前700年ころのバビロニアで作られた地図では、地球は円盤状で、天空がこれをおおい、自分たちはその中心に住んでいると考えていた。ギリシア時代にも同じような考えがあり、陸地はオケアノスとよばれる大洋に囲まれ、ギリシア神話の神アトラスがこの天空を支えていると考えていた。しかし、当時の世界はバビロニアの地図と違い、地中海をめぐる国々に拡大されていた。アレキサンドリアのエラトステネスは地球の大きさを推定した。さらにローマ時代にはいると、トレミーはアリストテレスの地球球体説に基づき、経緯線を描いて、世界最初の科学的地図を作成した。その範囲は、地中海沿岸から、イギリス・ドイツ、東はインドまで含まれていた。ただ、世界各地の位置、特に経度を正確に実測することができなかった時代なので、東西方向の経度差が実際よりかなり過大に描かれている。中世ヨーロッパでは西ローマ帝国の滅亡とともに、古代科学も衰退し、円盤状の世界観と聖書の記述にしたがった地図が流布した。TとOを組み合わせたような形の「TO図」がその代表である。

2023年7月 4日 (火)

泣斬馬謖(きゅうざんばしょく)

Img_0940   日本でいう「三人寄れば文殊の知恵」と同様のことわざが中国にもある。「平凡な靴屋でも、三人集れば諸葛亮の知恵」(三個臭皮匠、合成一個諸葛亮)という。智謀の軍師・諸葛孔明は兵法だけでなく、知恵の象徴でもある。
    日本では孔明といえば劉備との理想的な君臣関係(「三顧の礼」「水魚の交わり」)として知られ、至誠至忠の臣、南朝の忠臣・楠木正成に比せられることが多い。俗諺に「楠も孔明も跣足」というのがあった。「跣足(せんそく)」とは、はきものをはかない、すあしのこと。智謀の優れたことをいい、よい智恵の出た時などに使う言葉だった。

    孔明の故事で有名なのは「涙を揮って馬謖を斬る」(揮涙斬馬謖」)である。「十八史略」が出典で、孔明は部下の馬謖を可愛がっていたが、彼が命令違反をして街亭の戦いに敗れたので、孔明は泣きながら馬謖を斬って軍律を順守した。上司が私情を捨てて部下を処断する時に使われる。

 

 

数字の魔力

Ingridbergmaningridbergman515258134  「嫌よ嫌よも好きのうち」 184(いやよ)を6回足すと1104(いいわよ)になる。数字とは摩訶不思議なものである。

   とくに人の運命は時として数字と深くかかわっていることがある。たとえば、誕生日と死亡日が一致することがある。女優のイングリッド・バーグマンは1915年8月29日に生まれ、1982年8月29日に亡くなっている。これを「生没同日」という。著名人ではほかに小津安二郎と船越英二。坂本龍馬は旧暦の天保6年11月15日に生まれ慶応3年11月15日に亡くなっている。龍馬の命日は「没年月日データーベース」では12月10日となっているが、いまでも旧暦の11月15日を命日とする人もいる。龍馬は奇数と関係が深い。短命ではあったが、歴史的に見ると稀な幸運児だった。
 「ゼロの呪い」という言葉がある。アメリカ大統領には在職中に暗殺もしくは急死をすることが多い。

 

1860年選出のリンカーン(暗殺)
1880年選出のガーフィールド(暗殺)
1900年選出のマッキンレー(暗殺)
1920年選出のハーディング(食中毒か肺炎)
1940年選出のルーズベルト(脳出血)
1960年選出のケネディ(暗殺)

  7月4日といえばアメリカ独立記念日。この祝祭日に2代目大統領ジョン・アダムス、3代大統領トマス・ジェファーソン、5代大統領ジェームズ・モンローらはいずれも同日の7月4日に亡くなっている。長嶋茂雄と背番号3は縁起のいい数字の代表例であろう。昭和33年に巨人に入団、三塁手と数字「3」がラッキーナンバーだった。3が幸運な数字なのは世界共通の奇数信仰による。
   逆に獣の数字といわれる666は不吉な数字として嫌われている。ヨハネの黙示録に記述される数字666はローマ皇帝ネロとも関係するといわれる(ネロのギリシア語表記をヘブライ語に置き換え、これを数値化すると合計が666になる)が、一般にも適用されることがある。阪神大震災は1月17日だったが、1+17=18は獣の数字(6+6+6=18)と一致する。キリスト教では6と666は不吉に数であるが、他の民族でもだいたい悪い意味をもつ。マヤ族においても、6日目は雨と嵐の神々に属する不吉な数である。仏教においても「六(ろく)」は「殺人」「殺傷」、「六字(ろくじ)」は「死ぬこと」を意味する。これは「南無阿弥陀仏」が6文字であるためらしい。フジテレビで放送されたドラマ「ほんとうにあった怖い話」の中の「6番目の部屋」はカラオケボックスの6番という部屋で女高生が体験した奇妙な話であった。現代では「6」が最も不吉な数字とされるようである。
   太古の時代からモノを数える場合に指をつかう。バビロニアの十二進法は4本の指の節の数、つまり4×3=12 から生まれたという説がある。そして13という数が凶数とされるのは、12から「はみでた嫌な数」だからであるという。だがおおむね奇数は縁起の良い数字、偶数は不吉な数字という考え方が古代からどの国や民族にもあるようだ。男は奇数、女は偶数という考えも一般的である。女性は子どもを生むため、2でわれる偶数という考え方があるためという。
   3と7の奇数信仰は顕著にみられる。「三度目の正直」「三度目は定の目」「三度目はみんなうまく行く」(イギリスの諺)など数字にまつわることわざは多数伝えられている。小室圭さんが、昨年二度不合格となったニューヨーク司法試験に三度目で合格したことがニュースとして大きく取り上げられた。英米では「三度目の正直」が大好きなようだ。

アジア文化圏では古代中国の五行思想(木・火・土・金・水)に由来するものも多い。「七・五・三」「三三九度の盃」など3・5・7など奇数は縁起がよいものとしている。とくに7は「ラッキーセブン」「七福神」「七色の虹」「セブンスター」「ウルトラセブン」「女性セブン」など多い。
    太平洋戦争開戦日は昭和16年12日8日である。そして連合艦隊司令長官は山本五十六。つまり16、12、8、56と偶数並びだった。日本の敗北は数字で予言する限り、初めから明らかだった。偶数は不吉である。阪神大震災は午前5時46分、東日本大震災は午後2時46分と、同じ46という数字だった。
    やはり数字には科学では説明できない魔力のようなものが潜んでいるのではないだろうか。

青森県の猿ヶ森砂丘

 日本の巨大砂丘と聞いて、多くの人が鳥取砂丘を思い浮かべるであろう。しかし広さで日本一なのは、青森にある猿ヶ森砂丘である。面積は鳥取砂丘は545haなのに対して、猿ヶ森砂丘は1500haあり、およそ3倍の広さがある。なぜあまり知られていないのか。その理由は、猿ヶ森砂丘が防衛庁の管理地で、自衛隊が兵器の試験場に使用しているため、一般人の立ち入り禁止区域だからである。

 

先ず隗より始めよ

   戦国時代、燕の昭王は、賢者を求めるのに熱心であった。ある日、昭王は宰相郭隗に、どうしたら国を興すに足る人材を得られるか訪ねた。すると、郭隗は答えた。

   「昔、千金をもって千里の馬を求めましたが、三年経ても手に入りません。するとある者が、『私が手に入れましょう』というので、その者に頼んだところ、千里の馬の骨を五百金で買って帰りました。君主が怒りますと、『世間では、死んだ馬でも五百金で買うくらいだから、生きている馬ならどんなに高く買うだろうと人は思います。そのうちにお望みがかないます」と申しました。はたせるかな、一年もたたぬうちに、千里の馬が三頭も手に入ったということです。いま王が、まことに賢才をお求めになるのでしたら、まず私に師としての礼をおとりなさいませ。隗ですらあんなに厚く遇せられるということになれば、私よりすぐれた人物が、千里を遠しとせずに集まることでしょう」

   そこで昭王は、郭隗のために宮殿を新築して、これに師事した。すると、言葉通り、天下の賢士が争って燕に赴いた。(参考:村松暎『新版・十八史略物語 2』河出書房新社 1961)

2023年7月 3日 (月)

徳川家継

 宝永6年のこの日、第6代将軍・徳川家宣の四男・鍋松が生まれた。生母は喜世、のちの月光院。鍋松は正徳3年に第7代将軍に就任したが、正徳6年にわずか8歳で死去した。史上最年少で任官し、また史上最年少で死去した征夷大将軍である。幼少であったので、幕政の実権は側用人の間部詮房が握っていた。室鳩巣の手紙によれば、聡明仁慈でふるまいも静かで上品だったという。家継の死によって秀忠の流れの男系男子は途絶えた。(7月3日)

 

 

 

世界の中心で、愛をさけぶ

9a7a22d7c0e4732497031495c8be91801  「世界の中心で、愛をさけぶ」は、2001年4月20日発行の片山恭一のベストセラー小説である。一説によると紫咲コウの本の帯にある「泣きながら一気に読みました」というコピーが若者たちにブームの火をつけたといわれている。ただ小説の評価としては、初恋の相手が白血病で死ぬというベタな話が「あまりに通俗的」(朝日新聞2003.12.3記事)であり、斉藤美奈子も香山リカら評論家(?)の意見も若者たちは経験が少ないので陳腐な内容であってもそれを新鮮に感じるという程度の評価であった。ところで紫咲コウのコピーの元ネタは雑誌「ダ・ヴィンチ」のインタビュー記事である。「『世界の中心で、愛をさけぶ』は、久々に純粋に物語として楽しめた作品。本屋さんでみつけて、たまには恋愛ものもいいかなと思って。(笑)これは、泣きながら一気に読みました。それに、全体にユーモアもあって、ちょっとしたひとことも面白いんですよ」とある。

   斉藤美奈子や香山リカには、理解できない、あるいは感じとれない部分を紫咲コウは楽しんで読み取っていたようだ。そのベストセラーの謎をライターズ・ジム(見崎鉄)は「謎解き世界の中心で、愛をさけぶ」という本で丹念な作品研究をしていて面白い。単なる便乗本ではない。とりあえず今回はヒロインの広瀬アキを中心にまだ小説を読んでないかたのために紹介しよう。

広瀬アキのプロフィール 風の谷のナウシカに似ている。性格は明るく勉強もできるために男子に人気がある。中学2年で同じクラスになる前からアキは朔太郎(小説の主人公)のことを見ており、彼の音楽の趣味(ロック)も知っていた。だが自分はロックは苦手で聞かない。また、音楽の授業で歌を歌わされたとき声が小さくて恥をかいたことがある。音痴なのかもしれない。小さいころから、ほとんど風邪もひいたことがなかったのに白血病で夭折する。

名前の謎 朔太郎は、つきあって4年近くもたつのに、アキの本名を季節の「秋」だと思っていた。それが間違いだということをアキの死の数日前に知る。本当の名前は「廣瀬亜紀」が正しい。また、彼女自身も自分の名前を「アキ」と片仮名で書いていた。その理由をアキの母は「面倒くさがり屋なのよ」と言っていた。この自分の名前に対する無頓着さを見崎鉄は次のように分析している。

   つまり「廣瀬亜紀」を「広瀬アキ」と簡略化して書くことに、どういう意味があるのでしょうか。普通、人は「広瀬」が「廣瀬」であることに特別さを見出し、面倒くさくても「廣瀬」と書くものではないでしようか。とくに名前にアイデンティティを託している人はそうですし、女性のほうが姓名判断などの占いを信じる傾向が強いから、なるべく正確に書こうとするものです。アキはこの点で変わっています。アキが漢字で「亜紀」と書かなかったために、名前のもつ呪術効果、つまり父親の願いである「白亜紀のように生命が栄えること」が発揮されなかつたのかもしれません。しかし「廣瀬亜紀」という文字はいかにも重い感じがすることも事実です。アキは自分の名前を「広瀬アキ」と書くことによって、両親の託した思いと表意文字としての漢字の二重の重みから自分を解き放ち軽くなりたかったのかもしれません。では、なぜ平仮名で「あき」とせずに片仮名で「アキ」としたのでしょうか。それは片仮名にしたほうが、「本当は漢字の名前だけど省略して片仮名で書いている」という「省略している」感じがよく伝わるからです。平仮名で「あき」と書いてしまうと、それが本当の記名だと誤解されてしまいますが、片仮名のほうがその可能性が少ないと言えます。また、小説として読むときも、平仮名で「あき」という名前でしたら地の文に埋もれて非常に読みにくくなりますが、片仮名でしたら名前がパッと目に入ってきます。アキが名前に頓着しないたちであることをよくあらわしているのが、朔太郎の呼び方です。「朔太郎」という時代がかった名前を大胆に省略して「朔ちゃん」にしてしまいます。アキの頭の中ではたぶん、もっと簡単に「サクちゃん」となっていたことでしょう。アキの名前に対する無頓着さは、彼女がおおざっぱな性格であることを表わしています。アキが深刻にならないことでこの小説は暗さから救われています。

   紫咲コウが指摘する「全体にユーモアがあって」と見崎鉄のいう「アキが深刻にならないことで小説は暗さから救われている」とは共通するものがある。容姿はナウシカに似た少女、透明感(実在感の希薄性)、無頓着さと明るさ、これらヒロイン広瀬アキの性格をうまく表出できたことが成功の要因の一つと考えられる。

 なお映画化に際しては片山恭一の小説では説明不足な部分があるので、脚本家が17年後の朔太郎と藤村律子との結婚を基本にオーストラリアのアキの遺灰をまくというラストシーンを加筆した。律子は当時9歳で、母親が亜紀と同じ病院に入院していて、2人は知り合いになった。手品を教えてもらうかわりに、亜紀の声を録音したテープを高校の下駄箱に入れる約束をした。しかし最後のテープだけは交通事故に遭い渡せなかった。結婚を前に控えて幼少期に育った四国の町へ赴いた。そこである真実にたどり着く。死んだ亜紀のことが忘れられない朔太郎と一緒にオーストラリアへ行って遺灰をまいて、「二人で世界の中心をつくろう」と誓う。

 

 

2023年7月 2日 (日)

「初恋の味」カルピス

271337_2 カルピスの創業者・三島海雲は、明治11年のこの日、大阪府豊島郡下萱野村(現・箕面市)に生まれた。大正8年、乳酸菌飲料カルピスを発売した。100年以上の歴史を持つが、戦後の一時期、あまり飲まれない時期もあった。山口瞳の小説に「昭和の日本人」がある。「カルピスという飲料がある。いま、東京銀座の表りの喫茶店でカルピスを飲ませる店は、ほとんど、ない。あつたとしてもカルピスをオーダーするときは、ちょっと気後れを感ずる。」と記されている。昭和37年発表の短編で、高度成長期、コーラやジュースなどの他の飲料に押されて営業不振の時期があった。しかし実際のカルピスの売れ行きは令和5年の現在まで、日本人に飲まれ続け流行遅れでも古さを感じるでもなくロングセラー商品として定着している。 

  大正13年、カルピスの広告でパナマ帽を被った黒人がストローでカルピスを飲んでいるマークが現れた。だが平成元年には差別思想につながるとしてこのマークは廃止された。(7月2日)

 

ダーツと亀の子たわし

Photo_2     本日は「たわしの日」。かつてどこの家庭の台所でもみられた「亀の子たわし」。棕櫚などの繊維を短く切り揃えて、楕円形に束ねたブラシ。焦げついた鍋の底をゴシゴシこするのによいが、ステンレス製を擦ると傷がつくのが最大の欠点。最近は合成のスポンジたわしに洗剤を染み込ませて洗浄するようになったので「亀の子たわし」は台所から消えてしまった。だが身近な日用品「亀の子たわし」は日本発明史の金字塔といわれる。1908年、東京の醤油屋の奉公人、西尾正左衛門(画像)が樽の掃除のために考案した。1915年7月2日、「束子」として特許を取得した。だが昭和の後半には束子はテレビ番組「関口宏の東京フレンドパーク」のダーツの外れの景品となった。これによって、束子が一番低級品の商品という印象を国民に与えてしまった。水切りの簀子を洗うときなど便利なものだと思うが。

   一方のダーツの起源を知っているだろうか?ダーツとは、ダーツボードと呼ばれる円形の的から、一定の距離から手投げの矢を投げ、得られた得点により優劣を競う射的競技である。15世紀後半、イギリスのバラ戦争の時代、酒場にたむろしていた兵士たちが、余興でワイン樽めがけて矢を放つようになったことがダーツの起こりと言われている。戦争が続くにつれて木樽がなかなか手に入らなくなると、大木を切って作られる丸太が樽の代用品として使われるようになった。丸太には年輪があるので、それを利用してゲーム性がさらに高まった。1896年にブライアン・ガムリンによってボードに番号をつけて点数配置が考案され、ダーツはスポーツとして一気に広まったいった。

2023年7月 1日 (土)

人類ホモ・サピエンスへの道

   現世人類(ホモ・サピエンス)の祖先は、これまでアフリカで生まれたホモ・ハビルスがホモ・エレクトスに進化したと考えられてきた。(わかりやすくいえばラミダス猿人やアファール猿人はヒトの直接の祖先の可能性があると考えられていた)しかし、このたびケニアやイギリスの国際研究チームがケニア北西部のトゥルカナ湖北で6本の歯が残った上あごの化石を発見し、ホモ・ハビルスのものと結論づけた報道があった。(朝日新聞2007.8.9夕刊)今回の発見で、ハビルスとエレクトスは同じアフリカで約50万年間共存していた兄弟分の関係であるという。(つまり親子の関係ではないということか)

   1992年から1993年にかけて、鮮新世初めの440万年前の地層から、ヒトの祖先と思われる化石が発見され、1995年にラミダス猿人(アルディピテクス・ラミダス)と命名された。アファール猿人は1974年以来、エチオピア北東部のアファール低地、タンザニア北部で発見され、今から300万年前にさかのぼる。アファール猿人とアフリカヌス猿人とは約50万年共存していたが、アファール猿人は140万年前ごろには消えて、アフリカヌス猿人のみが残り、ホモ・サピエンスに進化していったと考えられる。更新性中期に入った約70万年前から40万年前ごろを中心に、ホモ・エレクトスとよばれる段階の人類がアフリカからユーラシアに広がっていった。ジャワ原人と北京原人などである。だが、原人と旧人は絶滅してしまった。約20万年前以降に出現した新人が私たちの直接的な祖先である。更新性末期(約4万年から3万年前)になると現代人とほぼ同じ形態の新人(ホモ・サピエンス・サピエンス)が広がった。

ああ、戦中派

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   日本で戦中派といえば、第二次大戦という最も困難な時期に青春を送った世代という意味であろう。いまだいたい100歳以上の世代。このような言葉はドイツはじめ諸外国にはあまりないらしい。日本における戦中派の特色としては、「戦争責任という道徳的な問題から触発されて生まれている。戦争中のギリギリの体験が、戦後になるとすべてむなしくむだになことに思える。それまでの鬼畜米英といっていたかと思うと、8月15日以後は一億総懺悔ということになる」(石田英一郎「日本文化論」)このような思いを一様に抱いて戦後を生きてきたといえよう。ドイツ人には、戦中派意識などは微塵もない。戦争に加担したといいだせば、なにが責任だ、戦争に協力するのが国民として当然である、と割り切ることができる。戦争についてはドイツ国民が一枚岩の感情を持つ続けていたという。ところが日本人は複雑である。ドラマ「泣いてたまるか」の一編に「ああ軍歌」という話がある。渥美清が扮するサラリーマンは宴会で軍歌を歌うことを拒否する。彼には戦争体験があるからだ。しかし同僚のなかにも軍隊経験者はいるが、平気で懐かしんで歌っている。日本人の戦争への感情は一枚岩ではなく、それぞれが複雑な思いを持ち続けている。たとえば戦中派といわれる作家や著述家をみてもそのスタンスはさまざまである。松本清張(1909年生れ)、丸山真男(1914年生れ)、野間宏(1915年生れ)、司馬遼太郎(1923年生れ)などなど。だが「一億総懺悔」という言葉には抵抗があるであろう。戦争指導者の国民に対する責任を国民にすりかえるだけで終わってしまった。そして天皇陛下にお詫びしなければならない・・・という奇妙な論理までがつくりだされてしまった。いまや戦後派、あるいは戦無派の時代となってしまった。

「ら」 ファースト・ネームから引く人名一覧

Lanaturnermgmportraitca1940everett     ラナ・ターナー(1920-1995)は、MGMに入り、タイトなスウェーターが似合う抜群のプロポーションが注目され「スウェーター・ガール」と呼ばれ評判となった。そして第二次大戦中の兵隊たちのピンナップ・ガールとしてもトップ・クラスの人気を誇った。「郵便配達は二度ベルを鳴らす」(1946)でトップスターとなる。▽「ラザフォード・ヘイズ」第19代アメリカ合衆国大統領。▽「ラージ・カプール」1924-1988。インドの俳優・監督。

ライアン・オニール
ライアン・ゴズリング
ライアン・フィリップ
ライアン・レーノルズ
ライオネル・リッチー
ライオネル・ロイ・マッコルビン
ライザ・ミネリ
ライナー・マリア・リルケ
ライナス・ボーリング
ラーヴル・ゲオールギエヴィチ・コルニーロニ
ラウラ・アントネリ
ラウラ・パウジーニ
ラウル・ジュリア
ラウル・デュフィ
ラオール・ウォルシュ
ラクウェル・ウェルチ
ラクシュミー・バーイー
ラザフォード・オールコック
ラザフォード・ヘイズ
ラーザリ・カガノーヴィチ
ラージェーンドラ・プラサード
ラージ・カプール
ラジニカーント
ラース・ファン・トリアー
ラーズ・ヌートバー
ラッセ・ハルストレム
ラッセル・クロー
ラナ・ターナー
ラニル・ウィクラマシンハ
ラビントラナート・タゴール
ラフ・バローネ
ラファイエット夫人
ラファエル・コラン
ラファエル・トルヒーヨ
ラファエル・ナダル
ラーマ―ティボーディー1世(アユタヤ王朝)
ラミ・マレック
ラムゼイ・マクドナルド
ラモントマルセル・ヤコブス
ララ・アンデルセン
ララ・フリン・ボイル
ラリー・ハグマン
ラルフ・ベラミー
ラルフ・マッチオ
ラルフ・リチャードソン
ラルフ・ワルド・エマーソン
ラングドン・ウォーナー
ランス・ウエア
ランディ・クエイド
ランドルフ・コルデコット
ランドルフ・スコット
ランブイエ侯爵夫人カトリーヌ・ド・ヴィヴォンヌ
ランフォード伯ベンジャミン・トンプソン

 

 

 

 

 

 

 

高校世界史 あの「人類進化の図」は間違いだった!?

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 人類はいつごろ誕生したのか。この謎は永遠に続くかもしれない。19世紀の終わりごろ、オランダの軍医ウジェーヌ・デュボワはジャワ島トリニールで化石人類を発見した。当時は50万年前と言われていたが、最新の研究では130万年前といわれる。そして1921年に北京市房山県周口店竜骨山の森林で北京原人の化石が発見された。68万から78万年前と推定されている。その後、人類の祖先はアフリカであると考えられ、100万年前、200万年前、450万年と人類の起源はどんどん遡り、現在では700万年前といわれている。

   世界史教科書は人類進化の説明で始まる。ここ数年、DNAの解析によって人類の進化過程は大きく変化している。だがむかし学校で学んだ誤解はなかなか消せるものではない。大きな誤解の一つは、およそ700万年前に誕生した人類は、アウストラロピテクス(猿人)→ピテカントロプス(原人)→ネアンデルタール人(旧人)→サピエンス(新人)という人間へ向けての進化を示す模式図にある。近年のDNAの研究の結果、わずか10数万年前にアフリカを出た一団が現生人類(ホモ・サピエンス・サピエンス)となって、世界各地に広がり、現代人の祖先となったとする単一起源説が有力である。これに対して、北京原人などが原シナ人と関係するとする多地域起源説を唱える学者も一部にいる。またネアンデルタール人がクロマニョン人と混血したと考える学者もいる。すべての解明は今後の研究を待つしかないが、画像にみられるような猿人、旧人、新人という一直線的な単純な図式はある誤解を生む。伊藤嘉昭の「人間の起原」(紀伊国屋新書、1966年)の「人間へむけてのヒトニザルの進化を示す模式図」(48p)は教科書や副教材に転載され、よく見られた図版の一例である。この図を生徒が見れば、ホモ・エレクトゥスからネアンデルタール人へと進化し、クロマニョン人になったと誤解するだろう。なにか1つの種がほかの種に変わって、そしてまた別の種に変わっていくということはない。偶然に各地で発見された人類化石を発達段階に並べても、絶滅している場合もあるので、相互に関係していないことが多い。かつて20種にもおよぶ人類が誕生と絶滅を繰り返してきた。それは「優れた者が生き残る」という進化の物語とは少し違い、時には強者が絶滅し、弱者が生き残ることもあったと考えられている。また文化的特性にも誤解は多い。北京原人が火を使用したことは歴史学習では常識であったが、現代の欧米の学者たちは北京原人の火の使用までも疑問視している。日本ではネアンデルタール人が花をもって死者を悼み、埋葬したことが広く知れ渡っているが、ネアンデルタール人の前頭葉から考えると、ネアンデルタール人の生死観に懐疑的な見解を示している。ジャワ原人、北京原人、ネアンデルタール人たちは絶滅してしまったのだ。つまり化石人類の文化的特徴を誇張するよりも、むしろ新人との相違を理解させることがより重要ではないだろうか。( keyword;Homo sapiens sapiens ) 参考文献:「図解人類の進化 猿人から原人、旧人、現生人類へ」斎藤成也編 講談社ブルーバックス 2021年11月

 

 

 

戦後日本の経済発展

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   日本の国内生産(GDP)は、米国、中国に次ぐ世界第3位である。戦争によって廃墟と化した日本は「戦後78年」の間に、2度も五輪開催国となって平和主義を希求する世界有数の先進国となった。だが現在の繁栄は廃墟と壕舎の窮乏生活の戦後から始まる。戦争のもたらす恐るべき破壊と損耗について改めて知っておく必要がある。戦争でこうむった国民の被害は、310万人をのぼる多数の戦死傷病者を出したことにある。また空襲によって住居や職場を失い、家族が路頭に迷ったこともある。また戦後の食糧不足から栄養不良となり、餓死したものも多数いたであろう。こうした国民生活の窮乏はなかなか数値に表しにくいものである。岩波講座日本歴史 現代4には「戦時戦後の国富統計」が掲載されている(45頁、島恭彦「戦争と国家独占資本主義」)。これをみても1945年の国富総額は1935年の基準から著しく低下している。

 

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1945年 53,958

   (単位,百万円)

 戦後、昭和24年までは経済混乱によりインフレが進行していた。自動車産業はドッジラインによる不況もあっで低迷が続いていた。しかし、朝鮮戦争の勃発でアメリカから大量の自動車の注文がおこり、日本経済の復興のきざしがみえた。つまり戦後日本の経済成長の過程には3つのターニング・ポイントがある。1つ目は昭和25年に勃発した朝鮮戦争である。この戦争の兵站基地となった日本では、起死回生の特需ブームに湧いた。2つ目は「もはや戦後ではない」と言い切った昭和31年の経済白書。この言葉通りにゆとりある大衆社会状況が生まれた。3つ目は高度成長のひとつのシンボルとなっている国民所得倍増計画がスタートした昭和37年である。池田勇人は安保闘争で左右の対立を緩和させた。日本はGNP大国に上昇し、伝統的な貧困から脱出した。しかし、物価、環境などの面で新しい難問も発生した。昭和39年のオリンピック東京大会、昭和45年の大阪での日本万国博覧会は、世界に開かれた平和な経済国家としてよみがえつた戦後日本を象徴するイベントとなった。豊かさの象徴と呼ばれていたのが、次々と登場する新しい家庭電化製品である。「三種の神器」といわれた白黒テレビ、電気洗濯機、電気冷蔵庫に始まり、昭和35年ごろには、カラーテレビ、クーラー、ステレオが登場。さらに、ラジオにはFMが加わり、洗濯機は脱水装置付き、冷蔵庫は冷凍庫付きと、新たな技術開発が日進月歩で進んだ。家庭製品を一つ買いそろえるごとに生活レベルが一ランク上がると誰もが信じ、事実、新製品は爆発的に売れた。なぜ日本が世界有数の経済大国にまで発展できたのだろう。戦後の経済成長は予想をはるかに超えたものであった。戦後の日本経済の発展の原因をめぐっては今日、さまざまな角度からの研究が行われている。たとえば、戦後欧米から積極的に新技術を導入し、それを体現化した民間設備投資が精力的に展開されたこと、さらに欧米経済の長期的繁栄に支えられて輸出が世界貿易の増加テンポをはるかに上回つて伸び続けたこと、などが発展の原動力になったとする説明などはその代表的な例である。また、戦後の西ドイツが住宅重視の経済復興に力を入れたのに対し、日本は民間設備投資主導型の高度成長を可能にした、という研究がある。このほか、「日本株式会社」といった表現にみられるように、政治と民間との協力がうまくいったことを強調する説、さらに経営学的アプローチとして、労使協調路線による「日本的経済」に発展の原因を求めようとする分析も盛んである。最近では日本人の勤勉精神にスポットライトを当てて、日本経済発展の原因を探ろうとする試みも始まっている。このように、戦後の経済発展の原因をめぐっては、経済学的アプローチだけではなく、日本人の精神風土の分析など経済学以外の学問分野からの研究も盛んになっている。

 最新の統計によると、2021年の日本の実質GDP実額は536.8兆円で。内閣府による成長率は前年より2.5%増になる見通しである。しかし国交省のよる統計不正が明らかとなり、その影響はどのくらいなのか「現時点では不明」としている。

 

 

 

 

 

 

 

 

ふるさと栃木

    江戸時代、日光に東照宮が造営されてから、宇都宮は北関東の要地となった。だがかつては栃木市に県庁があった。「路傍の石」「真実一路」の山本有三(1887-1974)は栃木市の生れ。日立製作所とソニーの二社の創業者はともに栃木県で生れた。日立製作所の小平浪平(1874-1951)とソニーの井深大(1908-1997)である。演歌界では森昌子、作曲家の船村徹がいる。横綱には栃木山守也は下都賀郡赤麻村(現・下都賀郡藤岡町)の出身。熊本出身の森高千里はおそらく栃木のことはほとんど知らないようだが、「渡良瀬橋」という名曲がある。渡良瀬橋で夕日を見ながら別れた人を思い出す、と言う内容で、今でも多くの歌手がカバーしている。しかしこの渡良瀬川は足尾銅山の開発により排煙、鉱毒ガス、鉱毒水などの有害物質が周辺環境に著しい影響をもたらし、明治23年より田中正造が中心となり、国に問題提起するものの、加害者決定はされなかったという事件が近代史上で重要である。田中正造は下野国小中村(現・佐野市)の生まれ。

 

 

農村の窮乏と満州移民

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  奥山儀八郎の版画による「凶作地を救へ」 のポスター  昭和9年

 昭和の開幕は、金融恐慌にはじまり、世界恐慌の荒波に巻き込まれた大不況の時代であった。そして日本の脆弱な資本主義は根底から揺るぎだし、昭和5年の大豊作による米価の大暴落、生糸の暴落によって、農村恐慌が起こった。翌6年に東北・北海道を襲った冷害、昭和8年の三陸地震、昭和9年の大凶作に見舞われ、東北農村は飢餓地獄と化した。そして、この不況と凶作のなかで東北農村では、娘の身売りが多発した。昭和9年11月、山形県の保安課がまとめた娘の身売りの実態調査によると、県内娘の身売りの数は3,298人、内訳は芸妓249人、娼婦1,420人、酌婦1,629人と発表している。当時の東京の娼妓7,540人のうち1,149人(約7分の1)までを山形出身者で占めている。秋田県では県内娘の身売り件数が1万1,182人、前年の4,417人に比べて実に2.7倍も増加した。娘の身売りは人道上のこととして、大きな社会的関心を呼び、これを防止しようと身売り防止のポスターを作って広く呼びかけた。しかし、小作農民の貧しさの根本的解決がないかぎり、娘の身売りの根絶は困難であった。

 農村の窮乏の中から、農民たちは立ち上がった。その一つは農村経済更生運動と呼ばれる村おこしであり、その中心は産業組合(現在の農協)を全国的に整備することであった。もう一つは、小作貧農を満州に押しだし、自作農にすることであった。こうして都市と農村の危機は満州移民という排外的国策にからめとられていった。また、日本政府と軍部は、「満州国」の治安対策を目的として、中国人を治めるために日本人の満州への渡航をあおったのである。このように不況下の社会的矛盾は侵略を通して他国に転嫁されていったのである。

ジャック・カルティエとカナダ

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 カナダは、世界でロシアに次いで2番目に大きい国で、その面積は998.5万平方㎞です。(日本の面積の26.4倍) 1864年、ケベック決議が採択されイギリスの4つの植民地が連邦を結成してカナダとなった。そして1867年7月1日、イギリス連邦カナダ自治領が成立した。これを記念して毎年7月1日はカナダ建国記念日とされている。カナダの探検はフランス人が始まりで、16世紀はカナダの一部はフランス領であったが、1763年のパリ条約によりフランスからイギリスへ割譲された。カナダという国名は、1535年、インディアンのイロコイ族のカナタ(Kanata=小屋の集落)という言葉を、この地に来た探険家ジャック・カルティエ(1491-1557)が地名と思い込んだことからついたという。Jacques   Cartier

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