呉下の阿蒙にあらず
呂蒙(178-219)は、呉の孫権に仕えた謀将。字は子明、汝南郡富陂(ふは)の人。15、16歳のころから戦場で活躍してきたが、自分の勇気と膂力をたのんで学問をばかにしてきた。
あるとき、孫権は武骨一点張りの呂蒙と蒋欽のふたりに「そちたちも、いまではひとかどの武将であるが、さらに伸びようとおもうなら、武芸だけでなく、きちんと学問を学んで、自己啓発につとめることだな」とさとした。
主君の言で奮起した呂蒙は、それから勉学にいそしんだ。兵法や教養書を懸命に勉強し、数年後には、呉国でも有数の戦略家に成長していた。
周瑜没後、その後任となった魯粛が任地の陸口へ赴く途中、魯粛は後輩の呂蒙を訪ねた。ひさしぶりにあれやこれや話してみると、どうしてどうして、呂蒙は見識も高く、兵法にもつうじており、その教養に驚かされた。
「これは見直したよ。貴方は武辺一点張りの人と思っていたが、そんなに勉強しているとは知らなかったよ」
そこで魯粛は感心したようにこうつぶやいた。
「復(ま)た、呉下の阿蒙に非ず」(「呉志・呂蒙伝注」)
いつまでも、昔の呉の城下にたむろする蒙ちゃんではない、という意味である。阿というのは人名につける接頭語で、日本語の○○ちゃんに相当する。
この故事から、無学の徒を「呉下の阿蒙」というようになった。このとき、呂蒙はこう答えている。
「士、別れて三日、すなわち更に刮目して相い待(たい)すべし」
士たるもの、別れて三日もすれば、よくよく目をこすって見直さなければいけないという意味で、これも名言としてよく知られている。
では呂蒙は、どのような活躍したのか。晩年、荊州地区の責任者として陸口に駐屯していたが、巧みな謀略で蜀側の責任者関羽の油断を誘い、荊州から蜀の勢力を一掃することに成功した。
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