川端康成の生い立ち
川端康成(1899-1972)は明治32年6月14日に大阪市天満此花町1丁目79番屋敷(現・大阪市北区天神橋1丁目16-12)に医師川端栄吉とその妻げんの子として生まれた。康成は長男で、七つ年上の姉芳子がいた。父栄吉は東京の医学校を出て、大阪の学塾漢学の教養を身につけており、漢詩、文人画、文学趣味もあった人で、大阪の此花町で開業していた。胸を痛み、虚弱な人であったらしく、康成が生まれた翌年に死んだ。またその翌年、康成が三歳の時母が死んだ。二人とも結核であった。
二歳で父を、三歳で母を失った康成は、父母の顔の見覚えがない。孤児としての心情がこの作家の生涯につきまとったのは当然である。母が死んだのちは、大阪府三島郡豊川村大字宿久庄字東村という原籍のあるところに祖父母と暮らした。祖母かねは康成を寵愛した。しかしこの祖母もまた康成が八歳のとき死んだ。康成は祖父と二人きりの生活に入った。康成は小学生のころには画家になりたい考えもあったが、中学に入って本を乱読するようになってから小説家を志した。このころ、死んだ母の腹ちがいの姉であった伯母が後家になってこの家にしばらく住み、祖父と孫の二人を世話したことがあった。この伯母にはのちに東京で世話になることが多かったが、康成が肉親として最も大事にした人である。
祖父は盲であった。盲目の祖父とたった一人の孫の男の子という生活は、たいへん淋しいものに思われる。のちに川端康成はみずから、自分は人の顔を見ている習慣があるが、それはこの祖父との生活の中で得た習慣らしい、と書いている。その祖父も、康成が16歳のときに死んだ。この当時の日記が残っていて、それから10年ほどのちに偶然に発見され「十六歳の日記」として発表された。
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肉親を次々に失う、そのような寂しい生い立ちとは、初めて知りました。作家にそのような境遇の人物が多いのが後世に残る作品を残す資質を育むのでしょうか。
投稿: | 2014年7月 3日 (木) 12時52分