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2023年6月 5日 (月)

池田屋襲撃事件

   元治元年6月5日夜、京都三条池田屋で尊王攘夷派の志士が新選組に襲われ多数殺害された。この池田屋襲撃事件は新選組の名を一夜にして轟かせたが、隊士たちのその後の人生にも大きな転機となっている。当夜、近藤勇は隊員を二手に分けて、表出口には谷万太郎、武田観柳斎、浅野藤太郎が、裏口には奥沢栄助、安藤早太郎、新田革左衛門らが固めた。そして店内へ近藤勇が先に立って、沖田総司、永倉新八、藤堂平助、近藤周平の4人を従えて突入した。近藤は裏階段から2階へ駆け上がり、土佐藩士北添佶麿を斬る。2階に上がった沖田は、数人の浪士を斬ったが、結核の発作に襲われ倒れた、とするのが通説である。なぜ近藤らわずか5人で20人もの浪士に勝てたのか。それは真剣を使い慣れた近藤らと剣道しか知らない志士との差、それに池田屋は幅6m、奥行き約27m京都特有のうなぎの寝床が近藤らに有利となった。永倉新八の「新撰組顛末記」によれば、表口には谷三十郎、原田左之助となっている。また池田屋襲撃には谷三兄弟の3男、谷周平が参加したという記録もある。事件当日の奮戦ぶりから、周平は近藤の養子となって、近藤周平と改名する。その後、周平は近藤の信を失なって縁組は解消され、旧姓に復している。原田左之助は十七両の褒賞金を受領している。長州志士を中心とする20名余りのうち7人が討ち死にするも、裏口を固めていた3人が斬られて突破され、多くの志士が脱走した。当夜の新選組の犠牲者は奥沢栄助ひとりとされている。後日、安藤早太郎、新田革左衛門ら死亡したとある。他方、尊攘派は、吉田稔麿、北添佶麿、宮部鼎蔵、大高又二郎、石川潤次郎、杉山松助、松田重助らの逸材が戦死した。

    武田観柳斎は長沼流軍学をもって知られ、二十両の褒賞金を受領している。その後、薩摩に通じ、竹田街道の銭取橋で斎藤一に斬殺される。浅野藤太郎も同額の二十両を受領している。浅野はその後、金策が露見して、島原において斬殺されている。藤堂平助は活躍により二十両を受領している。その後、高台寺党に加わり、三条油小路において新選組に斬殺される。沖田総司はよく知られるように池田屋襲撃時、戦闘中に喀血昏倒する。池田屋襲撃の近藤配下の隊士の中で明治まで生存したのは永倉新八ただ一人だった。原田左之助に関しては死亡時期不明。通説では上野戦争で戦死したとされるが、満州で馬賊となったという生存説もある。土方歳三ら本隊は洛東大仏辺から祇園、縄手通りから四国屋などを探索の後、池田屋の近藤に合流した。池田屋参加の名簿には、斎藤一、篠塚岸三、林信太郎、島田魁、川島勝司、葛山武八郎、三品仲治、蟻通勘吾、松原忠司、伊木八郎、中村金吾、尾崎弥八郎、佐々木蔵之丞、河合耆三郎、坂井兵庫、木内峯太、松木喜三郎、竹内元三郎らの名前がみえる。(6月5日)

 

 

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