王安石の新法
南宋の沈晦は「古えより現在に至るまで、大英才はたった三人しか現れなかった。まずは孔子。つぎは王安石と蘇東坡がセットで二人め。三人めはほかならぬ吾輩である」と言っている。三浦國雄は「王安石」(集英社)の劈頭で「沈晦が三人めに自分を加えたのはご愛嬌として、当時の人物評価を反映しており、公平である」としている。王安石のように、学・識・才の三拍子がそろっており、政治家としても傑出していた人物は中国の歴史を見渡してもざらにはいない。王安石の清廉な人柄を知る逸話を紹介する。
王安石が知制誥(ちせいこう。詔書をつかさどる官職)となったときのこと。呉夫人は夫の王安石のために妾を一人買った。その妾を見て、王安石はたずねた。
「何だ、おまえは」
「夫人のお言いつけで身のまわりのお世話をしてまいった者です」
「どこの家の者だ」
「わたくしの夫は、軍の御用をつとめて、米を運んでいましたが、舟が沈没してしまいました。損害をつぐなうため、財産を全部売り払ったのですが、それでも足りないため、わたくしが身売りされた次第です」
王安石は気の毒そうに、
「わたしの妻は、おまえをいくらで買ったのか」
「九十万銭です」
それを聞くと、王安石は、彼女の夫を呼んで、もとどおり二人を夫婦にしてやり、そのうえ多額の金まで恵んだという。
(和田武司「宋名臣言行録」徳間書店)
王安石(1021-86)。撫州・臨川の人。字は介甫。揚州の幕職官から諸官を歴任して翰林学士となり、神宗の信任を得て同中書門下平章事となる。宋は北方民族の侵入に備えるための防衛費が国家財政を圧迫したため、財政再建の革新政策を断行した。青苗法、募役法、保甲法、均輸法、市易法など。しかし、保守派からの激しい反対にあって、不遇な晩年であった。
蘇軾(1036-1101)。蘇東坡。眉山の人。経書や歴史に精通し、一日に数千言を書くほどの文章家。宋代随一の詩人と称せられ、「赤壁賦」などは有名。紹聖(1094-1098)の初年、政争の犠牲となって弾劾せられて恵州に流され、さらに海南島に流された。徽宗のとき大赦で戻る途で客死。享年66歳。なお、父の蘇洵、弟の蘇轍とともに三蘇の称がある。
ところで、王安石には、釣りをしていて魚の餌を食べた話などユーモラスな逸話が多数伝わる。若いときから学問を好み、一度目を通した書物はけっして忘れることがなかった。菓子をそばにおいて食べながら勉強していたが、菓子のなくなったのに気づかず、自分の指を噛んでしまったという。
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