どうする家康
徳川家康の側室の数は定かではないが、確認できるところ19名といわれている。実際はそれ以上いたらしい。そして家康は、これらの女性たちとの間に16人の子をもうけたといわれています。NHK大河ドラマ「どうする家康」は、松本潤をめぐる豪華な女優陣が集結。織田信長の娘に久保史緒里。側室於愛の方に広瀬アリス、側室お万に松井玲奈、側室お葉に北香那。亀姫に當真あみ。そして正室瀬名に扮するのが有村架純。瀬名は、家康より年長で驕悍な女性だった。瀬名は、今川義元の養女とされるが、実は義元の姪になる(母は今川義元の妹、父は今川氏の重臣の関口親永)。駿河の今川館へ人質として来ていた松平元信(徳川家康)と、弘治2年に結婚(家康15歳)した(のちの築山殿)。長男信康と亀姫が生まれたが、結婚生活は円満を欠いたという。今川義元が桶狭間で戦死すると、信康とともに岡崎城に入る。城の築山曲輪に館があったので、築山殿という。家康との不仲、甲斐の医者滅敬(めっけい)との不倫など悪評があった。信康の妻に織田信長の娘徳姫を迎えるが、嫁と姑は不仲だった。五徳は、築山と武田の使者・千代との密会を信長に報告する。天正7年8月29日、築山殿は浜松城へ呼びだされ、途中、佐鳴湖畔の富塚(浜松市)で、家康の命を受けた家臣に殺害された。廟所が浜松市の西来院にある。ついで、信康に切腹を命じた。この事件の背後には、徳川家内の浜松派と岡崎派の争いがあり、家康が武田氏寄りの岡崎派を一掃するために、信康を処断したのではないか、という見方もでている。(どうする家康第24・25回) 築山殿の死後さまざまな不吉がおこり、その殺害に加わった家臣が怨霊のために不幸にみまわれたという。そのため築山殿を殺害した家臣のひとり野中重政の子孫が、100年後、二基の石燈籠を寄進したという。八柱神社(岡崎市欠町)には築山殿の塚(画像)がある。「どうする家康」は本能寺の変まであと5回。大河で本能寺の変が描かれるのは19度目となる。天正10年、本能寺の変のときは堺にいて危うくまぬがれ、小牧・長久手で秀吉と戦うが和睦する。慶長5年、関ケ原で石田三成と戦い、勝利する。最強の武将となった家康は、征夷大将軍となって江戸に幕府を開く。30年前の「徳川家康」と比べ、今回はスローペースで進行している。(参考:久野仙雨「築山御前紅涙史」)
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