「どうする家康」長篠の戦い前後
大河ドラマ「どうする家康」は岡田准一が演じる織田信長をたくさん活躍させようとする狙いがあるようで、本能寺の変までは、ゆっくりとしたペースが物語は進行している。天正5年4月、甲斐の武田勝頼は奥三河の長篠城を攻略するため、1万5000の大軍を率いて甲府を進発した。裏切者の奥平貞昌を攻め滅ぼすためである。貞昌は徳川家康の長女、亀姫を妻に迎える約束を交わして、武田方と敵対したのである。鳥居強右衛門は、援軍を求めて岡崎城の家康のもとへと走った。「武田勢、三河に侵攻」の報を受けた家康は、信長に対して何度も救援を求める使者を送った。だが信長は、なかなか動こうとはしなかった。そこで家康は、3回目に送った使者に「もし援軍を出してくれぬなら、武田に遠江を譲って和睦し、武田の先鋒となって尾張を攻める」といわせて信長を脅した。信長は、5月13日、3万の兵を率いて岐阜を出発した。信長、この時41歳、家康35歳。信長と家康は15日に岡崎で合流し、総勢3万8000となった。設楽原に武田の騎馬攻撃を防ぐため、馬防柵を巡らせた。5月21日、織田信長、徳川家康連合軍と武田勝頼とは、三河国南設楽郡(愛知県新城市)の長篠城と、その西南の設楽原で激突した。「長篠合戦図屏風」にも馬防柵の内側には、本多忠勝を筆頭に、鳥居元忠、平岩親吉、石川数正など徳川勢の主力がずらりと描かれている。鳶ヶ巣山の陥落で、武田軍の退路が断たれて、設楽原の戦いの行方は織田・徳川連合軍の優位に動いた。合戦の行方は、信長が用意した3000挺の鉄砲隊が勝負を決めた。この戦術は、信長が周到に準備し、ほかのどの戦国大名よりも多くの鉄砲足軽を揃えることができた「信長プロジェクト」の成果であった。しかし信長が鉄砲の「3段撃ち」をしたという事実は同時代の史料にはない。3段撃ちは江戸後期の軍記物に登場し、明治になって陸軍参謀本部編「日本戦史」に採用され、広く世間に広まったのだ。徳川家康の長男、松平信康はこのとき初陣で16歳。その戦いぶりを敵将勝頼は「かの小冠者長生せば必ず天下に旗を立つべし」と評したという。4年後、武田と内通したと信長に問責され築山殿と信康は自害する。
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信長は、天下人となる資質を見抜いて、切腹させたのでしょうか。
投稿: | 2014年5月20日 (火) 20時34分
長男信康が生きていて德川二代将軍になっていたならば、また違っていたかもしれませんね。
投稿: | 2014年5月20日 (火) 20時46分