楠公父子「桜井駅の別れ」はなかった
延元元年5月、 足利尊氏の賊軍が九州から再び京都に攻め上って来るとの知らせが朝廷にあった。楠木正成は宮居の松にしばし名残を惜しみ、これが最期の戦と決して、兵庫へ向かった。途中、青葉繁れる桜井の駅(現在、大阪府三島郡島本町)で、嫡子の楠木正行を河内から呼び寄せ、諄々として向後を諭して言った。
「この度の合戦は天下安危の分かれ目なれば、汝の顔を見るも今日が限りと思う。我れ討死せば世は必ず足利のものとなろう。されど我が楠木一族郎党一人でも生きてあらん限りは、生きかわり死にかわりて七たび生まれても朝敵を攻め滅ぼせ。(七生報国)事成らざれば潔く身命を大君に捧げ参らせよ。命を惜しんで忠義の心を失うべからず。これが父の志にて、汝はこれを継ぐことこそ第一の孝行なるぞ。父がいま申すこと返す返すも忘るるな」と心をこめて諭して、遺品に菊水の銘打ったる短刀を渡した。しかし正行はあくまで父の軍に従いたいと願った。すると正成は「汝もすでに十一。父の志がわからぬか。今死んでは父の志を継ぐ者は誰ぞ」と叱ったので、正行も泣く泣く故郷に帰った。
これが有名な「桜井の別れ」の名場面である。 正成はそれから兵庫に行って湊川の戦いで敗死した。
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「桜井の別れ」の名場面は戦前、落合直文作詞の「青葉茂れる桜井の(桜井訣別)」が小学唱歌として歌われ続けてきたことからも、一般的には史実として受け入れている人も多い。しかし現在の歴史研究者の多くは「太平記」の桜井の別れの記述は創作とみている。「七生報国」という言葉は、太平洋戦争中に標語となり、出征兵士の揮毫に取り上げられ、特攻隊の襷の文字となった。
松岡映丘(1881-1938)は兵庫県福崎町に生まれた。実兄に国文学者の井上通泰や民俗学者の柳田国男がいる。上京して、橋本雅邦に狩野派を、山名貫義に大和絵を学んだ。さらに東京美術学校へ入り小堀鞆音の指導を得た。
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松岡映丘の楠公訣別之図は、何処が所蔵しているかご存知でしたら、教えてください。
掲載の写真は何からお取りになりましたか。
投稿: Y・M | 2019年3月 3日 (日) 23時08分
神戸は湊川神社があり、いわば楠公の聖地です。1985年に神戸新聞社主催そごう神戸店で「大楠公展」が開催されました。松岡映丘のこの作品も出品されました。図録には不思議ですが、所蔵先が記されていません。個人臓かもしれません。美術書などで紹介されることもないので、いけないこととは知りつつ、プリンターで図録をスキャンしたものです。
投稿: ケペル | 2019年3月 4日 (月) 14時07分
お返事ありがとうございました。
1981年に山種美術館の「映丘」展に出展されていたようですが、こちらの図録は白黒印刷です。カラーで見ることができて嬉しかったです。
投稿: Y・M | 2019年3月 4日 (月) 15時00分