俊寛の流刑
俊寛(1142-1179)の自筆書状が陽明文庫が所蔵する公家の日記「兵範記」の紙背文書から見つかった。書状は平信範に宛てたもので、末尾に署名がある。これまで「法師快□」と判読していたが、デジタル化によって見やすくなり、「法眼俊□」と読めることがわかった。当時、俊寛は法勝寺の所領を管理していることなどから判断して、手紙は俊寛の自筆であると考えられる。俊寛は平家討滅の謀議に加わった罪で、安元3年6月3日(陽暦1177年7月1日)に逮捕され、同月20日、薩摩国鬼界ヶ島に流された。しかし翌年に中宮徳子の安産祈願のための大赦があり、他の人たちは許されて帰ったが、俊寛だけは許されず島に残されていた。悲嘆のうちに治承3年3月2日、37歳の若さで餓死したという。その悲劇的な最期のためか、俊寛の墓といわれるものは西日本各地に十数か所あるという。だが鬼界ヶ島が現在の何島にあたるのかはっきりしない。喜界島(鹿児島県大島郡喜界町)、硫黄島、伊王島に俊寛の墓がある。
俊寛は法勝寺(京都市左京区岡崎)という寺の僧都であったというが、法勝寺は承保3年(1076年)に建立された真言宗の寺で九重の塔で知られていたが、応仁の乱以降さびれて廃寺となり、現在は満願寺に碑がある。また佐賀県に同名の法勝寺があったが、現在は撤去されて小さな碑のみある。(6月20日)
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俊寛は若くして亡くなったのですね。
なぜかもっと年寄りのようなイメージでしたが・・。
投稿: 根保孝栄・石塚邦男 | 2013年3月 1日 (金) 23時36分