芙美子忌
林芙美子は、幼少より下層社会の生活を体験し、暗い人生経験を日記体で記した小説「放浪記」が昭和恐慌の時代ともあい大ベストセラーとなった。戦後も「うず潮」「晩菊」や「浮雲」など名品を残した。生前、色紙などで、「花の命は短くて苦しきことのみ多かりき」を書いた。
1951年のこの日、林芙美子(1903-51)は心臓麻痺で急逝した。47歳没。明治36年12月31日、山口県下関市田中町のブリキ屋槙野敬吉の二階で生まれ(北九州の門司説もあり)、本名は林フミコ。父宮田麻太郎(明治15年生まれ)は愛媛県周桑郡の出身で、この頃は行商人であった。母林キク(明治元年生まれ)は、鹿児島県東桜島故里温泉の自炊温泉宿林久吉の姉で、父新左衛門は鹿児島市で常磐紅という薬用製紅業をいとなんでいた。宮田麻太郎は温泉の泊り客で、キクと親しくなったのであろう。宮田は質流れの品を扱う店を繁盛させたが、芸者を呼び入れて妻妾同居を強いたため、明治43年の旧正月の雪の降る日に、キクは芙美子(7歳)を連れて19歳年下の番頭の沢井喜三郎と出奔した。沢井が古着の商いに失敗してから、親子は行商で九州を渡り歩いた。芙美子の男性遍歴は、岡野軍一にはじまり、田辺若男、野村吉哉、手塚緑敏と続く。 幼少よりの暗い人生経験を日記体で記した小説「放浪記」が昭和5年に改造社から出版されるとベストセラーになり、一躍流行作家の仲間入りを果たした。それまでの流転地は下記のとおり。
明治43年 長崎市勝山小学校に入学
明治44年 佐世保市、下関市
大正3年 鹿児島市
大正5年 尾道市
大正11年 東京雑司ヶ谷
大正12年 根津、芝浦、尾道
大正13年 神田、本郷
大正14年 渋谷道玄坂、世田谷区太子堂、世田谷区瀬田
大正15年 本郷3丁目、尾道、本郷蓬莱町、下谷茅町
昭和2年 高円寺、和田堀
昭和5年 淀橋区上落合三輪850番地(家賃月12円) 「放浪記」を改造社から出版し、印税により生活安定する。
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