遣唐使・井真成の謎
遣唐使は、630年から894年の中止まで、十数回にわたって行われた。当時は、航海術が未発達で、船が途中で遭難することがたびたびあった。阿倍仲麻呂は帰国できないまま、生涯、唐の皇帝につかえた。
2004年、西安近くの工事現場で一つの墓誌が発見された。「日本」という文字が記された歴史的史料のなかで、実物が確認されたもっとも古いものの一つである。井真成は阿部仲麻呂などともに717年留学生として唐に渡った。このとき19歳であった。(阿倍仲麻呂は20歳)そして734年に36歳の若さで亡くなっている。玄宗はその才能を惜しんで、栄誉を称えて官位を贈った。当時の遣唐使の生還率は6割以下といわれて、無事に帰国できない人も少なくなかった。井真成がとんな人だったかをめぐっては、さまざまな論議がある。中国の学者たちは当時「9年以上滞在できない」とする規則があったことから、亡くなる前年に中国に到着した遣唐使の一員と考えている。井真成は若い留学生だったのか、それとも中年の域を迎えた役人だったのか、あつい論争となっている。ちなみに「日本」が記された記録としては、これより数年古く、唐先天2年(713)の「徐州刺史杜嗣先墓誌」に「皇明遠被、日本来庭」とある。(葉国良「唐代墓誌考釈八則」同『右学続探』台北:大安出版社,1999年,128ページ)
« ナポレオンのロシア遠征 | トップページ | 作家の前歴しらべ »
「世界史」カテゴリの記事
- 同盟市戦争(2025.02.10)
- 英領インドにおける高等文官制度(2024.12.20)
- ムハンマドの死後(2024.10.06)
- 世界史探求(2024.05.21)
- ルイ3世(西フランク王)(2025.04.10)
コメント