第二次世界大戦により多くの国民は家族との死別を体験し、苦しい生活に投げ込まれた。食糧難やインフレは深刻で、人々は農村への買い出しや闇市でかろうじて飢えをしのがなければならない状況だった。しかし、生活は悲惨であっても、戦時中の巨大な国家とその戦争目的の重圧から解放されて、人々は自分と家族のために働いた。しかし女性にはまともな仕事や就職先はなく、あるのはひとつ娼婦になることだけが生きぬく道であった。松本清張の小説「ゼロの焦点」は戦後、混乱に苦しみながら売春行為をしていた女性(俗にパンパンと呼ばれた)が、数年後元警官と偶然に再会し、忌まわしい過去を知られたくないために殺人を犯す話である。
昭和21年4月、NHKラジオで「街頭録音」の放送が始まる。終戦後、上野を「ノガミ」、池袋を「ブクロ」、有楽町を「ラクチョウ」といった。とくに有楽町のガード下は闇の女たち、いわゆるパンパンと呼ばれる売春婦がいた。1947年4月、NHKアナウンサーの藤倉修一(1914-2008)は小型マイクをコートの内側にしのばせて、潜入取材をしている。
女の子①「たばこもってない?」
藤倉 「こんなのでいいかな?よっぱらってるね」
女の子①「カストリ(粕取り焼酎)だよ。ピーナッツおごってよ」
藤倉 「はい10円」
女の子②「おじさん、いい男だね。あたしたちと親類だよ。有楽町で顔あわせればみんな親類」
女の子③「おじさん新聞社だろ。おれたち新聞社きらいなんだ。おとしまえとっちゃうぞ」
おねえさん(あねご) 「あたしは戦災でやかれて両親も兄弟もないけど中流以上の子が多いわよ」
NHK街頭録音「青少年の不良化をどう防ぐか、カード下の娘たち」は、全国に大反響を巻き起こした。手紙やカンパがNHKに寄せられた。しかし「ラクチョウのお時」は放送の翌日姿を消した。
戦後、戦争未亡人は187万人。中には生活に困り、街頭に立つ道を選んだ戦争未亡人もいた。闇の女は男子大量戦死の結果、将来に希望を見出すことが出来ない社会への無言の抗議でもあった。菊地章子が歌う「星の流れに」の「荒む心でいるのじゃないが、なけて涙も涸れ果てた、こんな女に誰がした」に切実さがよく表現されている。
「パンパン」とは、一般的には「占領軍兵士を相手にする娼婦」と解される。パンパンのスタイルはアメリカ軍から放出された布地によるタイトスカートをはき、ネッカチーフを身につけ、オキシフルで髪を茶色に染め、爪を赤く塗り、「ラッキーストライク」「キャラメル」を吸う。「パンパン」の語源については定説はない。現代用語の基礎知識の創刊号(昭和23年版)に次のようにある。
「終戦後の流行語だが、海軍復員者はみんな戦争中から使っていた。
語源1.軍港に碇泊し上陸許可が出て早速慰安街に駆けつけるが、もうあたりは寝しずまっている。こら起きろ、と表戸をパンパンと叩いて女を起こした。その戸を叩く音から出たという。
語源2.仏印のある街で、食料不足から物乞いが氾濫していた。上陸した日本兵を見ると、若い女たちが手をさしのべて「パン、パン」と哀願した。パンは彼女等にとっては麺麭であった。ちょうど終戦後の日本娘も、パンのためにこれと全く同じような哀願を米兵に示したのと同様である。転じて米人や中国人にゴマをすってボロ儲けする男をパンパンボーイなどという」 いずれにしても、戦争中からの軍隊用語で海軍の兵隊が使っていた卑語らしい。マレー沖海戦で撃沈したイギリスの戦艦プリンス・オブ・ウェールズには40mm8連装のポムポム砲を搭載していた。このポムポム砲はピストン運動をすることから、ポムポムが売春婦を意味する卑語となり、パンパンに転化したという新説もある。
「広辞苑 第3版」では「(原語不詳)第二次大戦後の日本で、街娼・売春婦のことを指した」とあるが、新しくでた第6版では「第二次大戦後の日本で、主に進駐軍を相手とした街娼・売春婦のことを指した」と修正している。(修正はすでに第4版か第5版でなされたのかもしれない)
「第二次大戦後」とあるが、実際は戦時中から軍人が使用していた言葉であることは当時の人の証言から明らかである。また、米軍あるいは進駐軍を相手に特定した言葉ではなく、日本軍人がアジアの女性に対しての呼称であるので、広辞苑の修正は改悪といわざるを得ない。パンパンという言葉は日帝アジア侵略の加害者であった証拠であり、それを被害者としての面のみを強調することは、辞書の編集者としての見識が問われることになるであろう。
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