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2023年6月30日 (金)

名誉革命のはじまり(1688年)

    イギリスでは、1688年から89年にかけて名誉革命が起こった。1688年のこの日、ジェームズ2世にかわって、時のオランダ総督オラニエ公ウィレムは、公妃メアリー(ジェームズ2世の娘)とともにホイッグとトーリー両党の招請を受けた。これが名誉革命のはじまりである。のちに1万4000の軍を率いてイギリスに上陸し、イギリスの王位を継承した。ウィレム3世として即位した新王は「人権宣言」を発し、「宗教寛容令」を公布した。ジェームズ2世時代、王を支持する一派をトーリー党(首領ダンビー伯トマス・オズボーン)、議会と非国教徒への寛容を重要視する一派をホイッグ党(首領シャフツベリ伯爵アントニー・アシュリー・クーパー)の両派が争ったが、綱領など明確な物はまだなかった。後にトマスが結成した宮廷党がトーリー党ーと発展する。名誉革命によってイギリスの立憲王政が確立した。

  1689年、王妃メアリーと同船してイギリスに帰ってきた一人の哲学者があった。ジョン・ロック(1632-1704)である。彼は「名誉革命の哲学者」として知られ、1690年公けにした「政府二論」の目的は「わが国の偉大な再興者である現在ウィリアムの玉座を確立し、王の正統性を人民の同意のうちに基礎づけること」であった。

Locke     ロックの最大の業績は、政治理論家として近代市民社会を支える民主主義的原理を追求した。とくに、近代的な「自由」の観念を明らかにしたことである。「社会における人間の自由は、国家における同意によって確立された立法府の権力以外のいかなる権力にも屈せず、この立法府がみずからに託された信託に従って制定する法以外には、いかなる意思の支配も、いかなる法の拘束も受けないということのうちに存する」(「政府二論」第8章政治社会の起源について)のである。ロックの思想は名誉革命の理論づけだけでなく、アメリカ独立宣言にも影響を与えている。(6月30日、the Glorious Revolution)

 

 

 

 

ロンドン観光

 テムズ河に架かるタワーブリッジは1894年6月30日に開通した。いつかロンドン観光をゆっくりしてみたい。まずロンドンという地名の語源について、イギリスでも定説はないそうだ。紀元前43年、ブリタニアを占領したローマ人がテムズ川北岸に交易所ロンデニウムを設置した。だがこれはローマ人がつけた地名ではなく、おそらくケルト語の一種である古代アイルランド語のロンド(「野性味のある」「勇敢な」)が、人名か部族名に用いられて、ロンデヌスになり、その形容詞形ロンデニウムが地名になったと推定される。

  「ロンドンに飽きた者は、人生に倦きた者だ」といったのは18世紀の文学者サミュエル・ジョンソン博士の名言だが、ロンドンの街は大英帝国のおもかげを今に残しながら、ビートルズからローリングストーンズ、ミニスカート、パンク、とここで生まれた音楽やファッションはつねに時代をリードしている。観光地もバッキンガム宮殿の衛兵交代式、ロンドン塔、タワー・ブリッジ、英国国会議事堂のビッグベン、セント・ポール寺院、トラファルガー広場、ハイドパーク、ピカデリーサーカス周辺といった有名なスポットから、ロンドン・アイの観覧車、サザーク地区にあるバラ・マーケットまで見所が豊富である。Borough Market、

 

 

「風と共に去りぬ」題名の由来

Kaze9   1926年、マーガレット・ミッチェルは落馬による左足首を捻挫し、関節炎を起こし、回復に手間どったため、5月にアトランタ・ジャーナル社を退社。この頃からむさぼるように読書する。読書の範囲は広く、文学、歴史、医学、考古学、探偵小説等。一日8冊を読み上げるので、夫のジョン・ロバート・マーシュは毎日一抱えの本を持って市立図書館へ往復しなければならなかった。この年、夫のすすめに従い「風と共に去りぬ」を書き始める。執筆の動機は母の話がきっかけだった。少女時代、あまり学問が好きでなかったので、母はある日の午後アトランタの郊外へ彼女を伴い、南北戦争で荒廃したままの土地を見せて歩いた。戦争から多くの歳月が過ぎたそのころでも、この地方の土地や生活には戦禍のあとがまだなまなましく残っていた。母はあちこちの建物を指して、戦争と復興の苦難を乗り越える意力と能力のあった家と、うちつづく困苦を切りぬけるだけの力がなかったために没落していった家とを教えて、彼女の心に、あくまでも生きぬく力を喚起させ、そのためには学業がいかにゆるがせにならぬものかを説いてきかせた。そのときのことはのちのちまでも忘れられなかったという。その人たちの中には成功しようとして戦いぬいた人と、その戦いに雄々しくいどんで敗れた人と、やっと生きのびているだけの人とがあったわけで、これをテーマに小説を書こうと思ったのが、畢生の大作を生む動機となったのである。1933年、前後7年間にわたって断続的に書きつづけた「風と共に去りぬ」はほぼ脱稿した。1935年、マクミラン出版社の副社長ハロルド・S・レイサムは、ミッチェルが大作の草稿を筐底に秘めていることを知り、ぜひそれを見せるようにと懇願した。ミッチェルは気がすすまなかったが、ついに決心して原稿を副社長に見せることにした。マクミラン出版社がこれの刊行を決定したのは同年夏のことである。1936年6月30日、「風と共に去りぬ」はニューヨークのマクミラン出版社から刊行され、一年間で150万部を売りつくした。

   本の題名については、出版社側は「明日がある」(アナザー・デイ)を採用することを内定していたが、彼女はさまざまな題名を提案しつづけた。その一部をあげると、「苦難を荷え」「一里塚」「めえ、めえ、黒羊=無頼の嘆き」「いつかは日が開く」「無情の星」「ラッパの調べは切なし」

    最後の題名は、つぎのような南北戦争時代の戦歌からとったものである。「ラッパの調べは切なし、夜の雲低く垂れ、星が空にきらめくころ。兵士みな地に伏す。疲れしものは眠り、傷つきしものは死に」この題名そのものは、かなり彼女の気に入ったのだが、「ラッパの調べ」が彼女のいわんとするところを切実に物語るものとも思えなかった。しかし、それを契機として、何かほかの詩のなかに引用できる辞句があるのではないかという期待をもつようになり、それとなく気をつけていた。やがて10月の最後の週に、マーガレットは一冊の英詩集を開いて、アーネスト・ダウスンの詩「われはもはやシナラをともに愛せしころのわれにあらず」に、なにげなく目をやった。この題はホレースの頌詩からとったものである。マーガレットは以前からこの詩を愛していた。1900年に肺結核で短い数奇な生涯をとじた審美派の英詩人ダウスンの代表的叙事詩で、当時の若い世代の人々はこの詩の冒頭を読んだだけで、異常な感動にうたれたのであった。「前夜、ああ、昨夜、かの女とわが唇の間に、きみは影を落とした。シナラ!」そして、つぎの反復句がつづく。「われはわれなりに、きみにまことをささげてきた。シナラ!」やがてつぎの二行がマーガレットの目をとらえた。

「われは多くを忘れ去った。シナラよ!すべては風と共に去った。バラは、棘もろともあらあらしく吹き飛ばされた」 I have forgot much,Cynara!gone with the wind

「風と共に去った」 これこそ、まさに彼女が探していた言葉だった。(参考:フィニス・ファー「マーガレット・ミッチェル物語」河出書房)

( Margaret Mitchell,Ernest Dowson、アーネスト・ダウサン )

 

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2023年6月29日 (木)

エカテリーナ女帝に謁見した日本人

 天明2年の12月、伊勢の白子の浦から、船頭大黒屋光太夫と16人の水夫の乗る1艘の船が江戸に向けて出発した。途中で風雨にあって漂流したこの船は、太平洋を北上し、7日後にようやくロシア領のアムチトカという小島に漂着した。かれらは、はじめは現地人とともに狩猟に従事した。その後、ロシアの保護のもとに、イルクーツクの日本語学校などで数年間を過ごしたが、光太夫はペテルブルグにおもむき、エカテリーナ女帝に謁見して、帰国を嘆願した。ロシアはこれを機会に、光太夫と生き残りの船員たちを松前まで送還するとともに、ラックスマンを使節にして、日本に国交を求めてきた。自分の意志と関わりなく11年間の国禁の海外生活を送った光太夫は、帰国後、幕府役人からきびしい尋問をうけたあと、他人との交流を断つために幕府の薬園に入れられ、その後、34年間もの拘禁状態のままで、78歳の生涯をおえた。鈴鹿市に大黒屋光太夫記念館がある。

 

家康を助けた佃煮

Tokugawa01   本能寺の変により堺からの脱出を試みた徳川家康は、摂津国の佃村の庄屋・森孫右衛門から道中食として小魚煮を与えられた。この佃煮を伊賀衆らと一緒に食べて、無事、岡崎城へたどりついたといわれる。以来、家康の佃村への信任は篤く、江戸幕府を開くや、彼らを招き、隅田川下流の中州を与えて厚遇した。正保3年6月29日、佃島に住吉神社が造営され、参拝客に振舞われた佃煮は、全国に広まった。この日にちなんで「佃煮の日」と制定されている。

御真影は焼けてなかった

Image002   明治23年10月29日、「教育ニ関スル勅語」が発布された。教育政策はしだいに国家主義的な方向に転換し、忠君愛国が教育の目的として強調され、こののちながく教育の基本理念とされた。小説家・久米正雄は幼いころ父、由太郎を亡くしている。長野県の町立上田尋常高等小学校長だった久米由太郎は、明治31年3月27日夜に起きた、原因不明の火災で全焼し、学校の奉安殿(御真影と教育勅語を奉納してある場所)にあった御真影が焼失したため責任を取ってその3日後に割腹自殺をしている。また札幌の小学校では豪雪から御真影を死守するため校長が殉職している。戦前にはこのように火事や災害から御真影を守ろうとして、死亡するという悼しい話は数多くあった。ところが近年、久米由太郎の自殺の原因は御真影ではなかったという説がでてきた。実はこの時、宿直の先生が御真影と教育勅語をうまく持ち出して助かっていた。由太郎が自殺した原因は、かつて天皇の行在所となった由緒ある建物を焼失したという責任をとって自殺したのである。しかし新聞各紙は御真影を焼いた責任として「見事な死」として美談に仕立てたというのである。(10月29日) 参考:「御真影に殉じた教師たち」岩本努 平成元年

 

 

どうする家康

Photo_6  徳川家康の側室の数は定かではないが、確認できるところ19名といわれている。実際はそれ以上いたらしい。そして家康は、これらの女性たちとの間に16人の子をもうけたといわれています。NHK大河ドラマ「どうする家康」は、松本潤をめぐる豪華な女優陣が集結。織田信長の娘に久保史緒里。側室於愛の方に広瀬アリス、側室お万に松井玲奈、側室お葉に北香那。亀姫に當真あみ。そして正室瀬名に扮するのが有村架純。瀬名は、家康より年長で驕悍な女性だった。瀬名は、今川義元の養女とされるが、実は義元の姪になる(母は今川義元の妹、父は今川氏の重臣の関口親永)。駿河の今川館へ人質として来ていた松平元信(徳川家康)と、弘治2年に結婚(家康15歳)した(のちの築山殿)。長男信康と亀姫が生まれたが、結婚生活は円満を欠いたという。今川義元が桶狭間で戦死すると、信康とともに岡崎城に入る。城の築山曲輪に館があったので、築山殿という。家康との不仲、甲斐の医者滅敬(めっけい)との不倫など悪評があった。信康の妻に織田信長の娘徳姫を迎えるが、嫁と姑は不仲だった。五徳は、築山と武田の使者・千代との密会を信長に報告する。天正7年8月29日、築山殿は浜松城へ呼びだされ、途中、佐鳴湖畔の富塚(浜松市)で、家康の命を受けた家臣に殺害された。廟所が浜松市の西来院にある。ついで、信康に切腹を命じた。この事件の背後には、徳川家内の浜松派と岡崎派の争いがあり、家康が武田氏寄りの岡崎派を一掃するために、信康を処断したのではないか、という見方もでている。(どうする家康第24・25回)   築山殿の死後さまざまな不吉がおこり、その殺害に加わった家臣が怨霊のために不幸にみまわれたという。そのため築山殿を殺害した家臣のひとり野中重政の子孫が、100年後、二基の石燈籠を寄進したという。八柱神社(岡崎市欠町)には築山殿の塚(画像)がある。「どうする家康」は本能寺の変まであと5回。大河で本能寺の変が描かれるのは19度目となる。天正10年、本能寺の変のときは堺にいて危うくまぬがれ、小牧・長久手で秀吉と戦うが和睦する。慶長5年、関ケ原で石田三成と戦い、勝利する。最強の武将となった家康は、征夷大将軍となって江戸に幕府を開く。30年前の「徳川家康」と比べ、今回はスローペースで進行している。(参考:久野仙雨「築山御前紅涙史」)

2023年6月28日 (水)

芙美子忌

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 林芙美子は、幼少より下層社会の生活を体験し、暗い人生経験を日記体で記した小説「放浪記」が昭和恐慌の時代ともあい大ベストセラーとなった。戦後も「うず潮」「晩菊」や「浮雲」など名品を残した。生前、色紙などで、「花の命は短くて苦しきことのみ多かりき」を書いた。 

    1951年のこの日、林芙美子(1903-51)は心臓麻痺で急逝した。47歳没。明治36年12月31日、山口県下関市田中町のブリキ屋槙野敬吉の二階で生まれ(北九州の門司説もあり)、本名は林フミコ。父宮田麻太郎(明治15年生まれ)は愛媛県周桑郡の出身で、この頃は行商人であった。母林キク(明治元年生まれ)は、鹿児島県東桜島故里温泉の自炊温泉宿林久吉の姉で、父新左衛門は鹿児島市で常磐紅という薬用製紅業をいとなんでいた。宮田麻太郎は温泉の泊り客で、キクと親しくなったのであろう。宮田は質流れの品を扱う店を繁盛させたが、芸者を呼び入れて妻妾同居を強いたため、明治43年の旧正月の雪の降る日に、キクは芙美子(7歳)を連れて19歳年下の番頭の沢井喜三郎と出奔した。沢井が古着の商いに失敗してから、親子は行商で九州を渡り歩いた。芙美子の男性遍歴は、岡野軍一にはじまり、田辺若男、野村吉哉、手塚緑敏と続く。 幼少よりの暗い人生経験を日記体で記した小説「放浪記」が昭和5年に改造社から出版されるとベストセラーになり、一躍流行作家の仲間入りを果たした。それまでの流転地は下記のとおり。

 

明治43年 長崎市勝山小学校に入学

明治44年 佐世保市、下関市

大正3年  鹿児島市

大正5年  尾道市

大正11年 東京雑司ヶ谷

大正12年 根津、芝浦、尾道

大正13年 神田、本郷

大正14年 渋谷道玄坂、世田谷区太子堂、世田谷区瀬田

大正15年 本郷3丁目、尾道、本郷蓬莱町、下谷茅町

昭和2年 高円寺、和田堀

昭和5年 淀橋区上落合三輪850番地(家賃月12円) 「放浪記」を改造社から出版し、印税により生活安定する。

2023年6月27日 (火)

ラッフルズの日本侵略計画

Photo_2  文化10年(1813年)6月27日、イギリス船が出島のオランダ商館を乗っ取りのため長崎に入港してきた。オランダ商館長ズーフはこれを拒否し、イギリスの侵略計画し失敗に終わった。黒幕はイギリス東インド会社、ジャワ副総督だったトーマス・ラッフルズ(1781-1826)だ。ラッフルズはインドネシアのジャワの植民政策で成功し(ボロブドゥールの復元、動植物の新種の発見などもしている)、その後、東アジアの貿易の拠点となる港を探していた。日本を諦めたラッフルズはシンガポールに貿易港を建設した。もともとシンガプラ(サンスクリット語で「獅子の都市」の意)と現地では言っていたが、イギリス人に発音しやすいようシンガポールと改めた。(参考:永積洋子訳「ドゥーフ日本回想録」) Thomas Stamford Raffles

2023年6月26日 (月)

呉下の阿蒙にあらず

   呂蒙(178-219)は、呉の孫権に仕えた謀将。字は子明、汝南郡富陂(ふは)の人。15、16歳のころから戦場で活躍してきたが、自分の勇気と膂力をたのんで学問をばかにしてきた。

   あるとき、孫権は武骨一点張りの呂蒙と蒋欽のふたりに「そちたちも、いまではひとかどの武将であるが、さらに伸びようとおもうなら、武芸だけでなく、きちんと学問を学んで、自己啓発につとめることだな」とさとした。

   主君の言で奮起した呂蒙は、それから勉学にいそしんだ。兵法や教養書を懸命に勉強し、数年後には、呉国でも有数の戦略家に成長していた。

  周瑜没後、その後任となった魯粛が任地の陸口へ赴く途中、魯粛は後輩の呂蒙を訪ねた。ひさしぶりにあれやこれや話してみると、どうしてどうして、呂蒙は見識も高く、兵法にもつうじており、その教養に驚かされた。

   「これは見直したよ。貴方は武辺一点張りの人と思っていたが、そんなに勉強しているとは知らなかったよ」

   そこで魯粛は感心したようにこうつぶやいた。

   「復(ま)た、呉下の阿蒙に非ず」(「呉志・呂蒙伝注」)

   いつまでも、昔の呉の城下にたむろする蒙ちゃんではない、という意味である。阿というのは人名につける接頭語で、日本語の○○ちゃんに相当する。

   この故事から、無学の徒を「呉下の阿蒙」というようになった。このとき、呂蒙はこう答えている。

   「士、別れて三日、すなわち更に刮目して相い待(たい)すべし」

   士たるもの、別れて三日もすれば、よくよく目をこすって見直さなければいけないという意味で、これも名言としてよく知られている。

では呂蒙は、どのような活躍したのか。晩年、荊州地区の責任者として陸口に駐屯していたが、巧みな謀略で蜀側の責任者関羽の油断を誘い、荊州から蜀の勢力を一掃することに成功した。

 

 

 

王安石の新法

    南宋の沈晦は「古えより現在に至るまで、大英才はたった三人しか現れなかった。まずは孔子。つぎは王安石と蘇東坡がセットで二人め。三人めはほかならぬ吾輩である」と言っている。三浦國雄は「王安石」(集英社)の劈頭で「沈晦が三人めに自分を加えたのはご愛嬌として、当時の人物評価を反映しており、公平である」としている。王安石のように、学・識・才の三拍子がそろっており、政治家としても傑出していた人物は中国の歴史を見渡してもざらにはいない。王安石の清廉な人柄を知る逸話を紹介する。

    王安石が知制誥(ちせいこう。詔書をつかさどる官職)となったときのこと。呉夫人は夫の王安石のために妾を一人買った。その妾を見て、王安石はたずねた。

「何だ、おまえは」

「夫人のお言いつけで身のまわりのお世話をしてまいった者です」

「どこの家の者だ」

「わたくしの夫は、軍の御用をつとめて、米を運んでいましたが、舟が沈没してしまいました。損害をつぐなうため、財産を全部売り払ったのですが、それでも足りないため、わたくしが身売りされた次第です」

王安石は気の毒そうに、

「わたしの妻は、おまえをいくらで買ったのか」

「九十万銭です」

それを聞くと、王安石は、彼女の夫を呼んで、もとどおり二人を夫婦にしてやり、そのうえ多額の金まで恵んだという。

(和田武司「宋名臣言行録」徳間書店)

  王安石(1021-86)。撫州・臨川の人。字は介甫。揚州の幕職官から諸官を歴任して翰林学士となり、神宗の信任を得て同中書門下平章事となる。宋は北方民族の侵入に備えるための防衛費が国家財政を圧迫したため、財政再建の革新政策を断行した。青苗法、募役法、保甲法、均輸法、市易法など。しかし、保守派からの激しい反対にあって、不遇な晩年であった。

   蘇軾(1036-1101)。蘇東坡。眉山の人。経書や歴史に精通し、一日に数千言を書くほどの文章家。宋代随一の詩人と称せられ、「赤壁賦」などは有名。紹聖(1094-1098)の初年、政争の犠牲となって弾劾せられて恵州に流され、さらに海南島に流された。徽宗のとき大赦で戻る途で客死。享年66歳。なお、父の蘇洵、弟の蘇轍とともに三蘇の称がある。

    ところで、王安石には、釣りをしていて魚の餌を食べた話などユーモラスな逸話が多数伝わる。若いときから学問を好み、一度目を通した書物はけっして忘れることがなかった。菓子をそばにおいて食べながら勉強していたが、菓子のなくなったのに気づかず、自分の指を噛んでしまったという。

マダガスカルの歴史

  アフリカ大陸の南東、インド洋西部に位置する世界第4位の面積を持つマダガスカル島。この島には、約2000年前からインドネシアと東アフリカの船乗りたちがカヌーに乗って移住してきた。インド洋は中世初期にインドネシア人とインド人によって盛んに航海が行われており、現在の住民構成にもその跡を残している。9世紀からはアラブのイスラム教徒がアフリカ東海岸にも移民していた。南東岸では彼らは先住民、特にアンテモロ族と混血していった。北西岸にはいくつかの大きなアラブ植民地があり、アノロツェンガナ、マジュンガその他の港を支配し、その固有の風俗を保持していた。17世紀初めのおもな王国はアンテモロ、アンテサカ、ベツィレオ、ならびにメリナであったが、いずれもまだ小地域を支配するにすぎず、メリナ族はタナナリブ周辺を支配するだけであった。18世紀の末にはアンバリアナムボイニメリナ(在位1787-1810)という英雄が現れ、分裂していたメリナ王国を統一した。しかし19世紀になるとフランスからの攻撃を受け、やがてメリナ王国は衰退の道をたどる。1897年フランスはマダガスカルを占領し、メリナ王国の最後の国王ラナヴァルナ2世は退位した。1946年までフランス植民地であり、58年までフランス連合内の海外領土。それ以後はフランス共同体に属する一国となった。1960年6月26日マダガスカル共和国として独立する。フィリベール・ツィラナナが初代大統領となった。

「す」 ファースト・ネームから引く人名一覧

Mv5bmji2ntuxotg4m15bml5banbnxkftztc   映画「ある愛の詩」でオリバーとジェニファーが出会う場面。ジェニファーが「オリバーは名、それとも姓?」と訊ねる。Oliverはオリバー・クロムウェル(清教徒革命の軍人)や女優スーザン・オリバー(画像)のように姓と名、両方につかわれる。▽「スヴェトラーナ・アレクサンドロヴナ・アレクシエ―ヴィッチ」ウクライナ生まれのノーベル賞作家。代表作「戦争は女の顔をしていない」。▽「スーリヤヴァルマン2世」アンコール王朝最盛期の王。アンコール・ワットを建設したことで有名。

スー・リヨン
スヴァトスラフ・リヒテル
スヴェトラーナ・アレクサンドロヴナ・アレクシエーヴィッチ
ズオン・バン・ミン
スカーレット・ヨハンソン
スキータ―・デイヴィス
スコット・ウルフ
スコット・グレン
スコルピオン1世(エジプト先王朝時代のファラオ)
スーザン・サランドン
スーザン・ジョージ
スーザン・ストラスバーグ
スーザン・ヘイワード
スーザン・ブライアリー・アイザックス
スザンナ・ヨーク
スザンヌ・プレシェット
スタニスラフ・ブーニン
スタニスワフ・レム
スターリング・ヘイドン
スタン・ゲッツ
スタン・フランク・ミュージアル
スタン・リー
スタンフォード・ムーア
スタンリー・キューブリック
スタンリー・クラーク
スタンリー・クレイマー
スタンリー・トゥッチ
スタンリー・ドーネン
スタンリー・ブラック
スタンリー・ベーカー
スタンリー・ボールドウィン
スティーヴィー・ワンダー
スティーブ・カレル
スティーブ・グッテンバーグ
スティーブ・ジョブズ
スティーブ・ジョーンズ
スティーブ・ブシェミー
スティーブ・マックィーン
スティーブ・マーティン
スティーブン・カンプマン
スティーブン・キング
スティーヴン・クレイン
スティーブン・スピルバーグ
スティーブン・セガール
スティーブン・ソーダーバーグ
スティーブン・ソマーズ
スティーブン・ソンドハイム
スティーブン・ダルドリー
スティーブン・ドーフ
スティーブン・フォスター
ステイーブン・フリアーズ
スティーブン・ボイド
スティーブン・ホーキング
ステイシー・キーチ
ステパン・ラージン(ステンカ・ラージン)
ステファーヌ・オードラン
ステファヌ・マラルメ
ステファニア・サンドレッリ
ステファノス・チチパス
ステファン・ウロシュ4世ドゥシャン
ステファン・ネマニャ
ステラン・スカーシュゴード
スパイク・ジョーンズ
スパイク・リー
スバス・チャンドラ・ボース
スハルト
スバンテ・ペーボ
スベトラーナ・アレクシエービツチ
スペンサー・トレーシー
ズビグニエフ・チブルスキー
スピロ・セオドア・アグニュ―
スーリヤヴァルマン2世
スロボタン・ミロシェヴィッチ

 

 

ハーメルンの笛吹き男

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  1284年6月26日、まだら模様の服を着た男が笛を吹くと、まちの子供130人が踊りながらその男について行き、遠くに消えてしまった。親たちはわが子を探したが、ついに見つからなかった。あの子供たちはどこに消えてしまったのだろうか。これまで25もの学説が生まれた。舞踏病にかかった子供たちが踊りながら消えてしまったと考える人、子供十字軍に徴兵されて聖地へ出かけていったと考える人、ペストなどの病気による大量死、崖に落ちて死んだという事故説などもある。当時、ドイツ東部、チェコ、ポーランドなどで開発がさかんに進められた。領主である貴族たちが各都市に植民請負人を派遣して移住者を募っていた。この植民請負人こそが笛吹き男であり、消えた130人の子供たちは、ハーメルンを捨てて新天地へ旅立った若者たちだと考える説もある。「ハメルンの笛吹き男」の話はゲーテ、グリム、ロバート・ブラウニングの詩などで知られる。昔話はたいていは「むかしむかし」と、期日が明確でないが、この話ははっきりと日付が記されており、史実として残っている。

   アニメ映画「千と千尋の神隠し」のように日本にも「神隠し」といって、子供などが、にわかにいなくなって、どれだけ探してもついに戻ってこなかったという話が残っている。すなわち、天狗、鬼、隠し神、隠し婆、隠れ座頭など、さまざまな妖怪によって隠されるという。平田篤胤による寅吉少年の神隠しの物語もある。( The Pied Pier of Hamelin )参考文献;阿部謹也「ハメルンの笛吹き男伝説の成立と変貌」 思想581   1972.11

2023年6月25日 (日)

「活字離れ」50年 ことばの誕生

   週刊朝日が6月9日号で休刊した。ある調査によると日本人の6割は「読書習慣はない」という結果がでている。とくに文芸書の凋落は顕著で、ここ10年の間に読書人口は4分の1になっている。今の若者たちはスマホ、SNS、ゲームに興ずる時間が多く本にほとんど魅力を感じていない。「若者の活字離れ」という現象が教育関係者に問題視されてから久しい。「活字離れ」という変わった言葉が使われたのは何時ごろからだろうか?。言葉の初出を文献から調査することは気の遠くなるような労力を要する。たとえば「図書館雑誌」や「みんなの図書館」のバックナンバーなどを基にして調査することも可能であるがまだ実施していない。おそらく1980年代初頭には使われていたと記憶するが、実際には1970年代初頭に既に文献に見える。本来は「活字離れ」よりも「読書離れ」のほうが適切な場合もあるが、先行する言葉として「読書離れ」という言葉があったかどうか現在のところ不明である。読書調査などでは前置きのように頻繁に使われるのは何時頃からか明らかにしたいと思っている。主に出版界で「若者の活字離れ」「文芸書は売れない」などという噂が出回ったのが流行の一因であろうか。おそらく1978年の筑摩書房倒産がひとつの転機だったかもしれない。文学全集が売れない時代になった。ざっと50年の歴史がある言葉だが流行語といった華やかなものでないので用語辞典には初出があきらかではない。今後もずっと使われ続けるだろう。初期の文献には次のようなものがある。

 

「資料からみた活字ばなれ」福沢周亮 言語生活 1979年5月号

 

「活字離れ」論ノート 水野博介 桃山学院大学社会学論集14-1 1980年

 

「子どもの読書離れを防ぐには」 作山静男 学校図書館 1988年4月号

 

いろいろ調査していくうちに、「活字中毒」という言葉もあることに気がついた。文献で古いものをあげる。

 

「もだえ苦しむ活字中毒者地獄の味増蔵」 椎名誠 1982年

 

「素敵な活字中毒者」  日本ペンクラブ 1983年

 

「あえて時代錯誤に挑む二つの百科事典 活字ばなれ派(小学館)×活字中毒派(平凡社) 前田愛 Asahi Journal 1984年12月7日

 

   そして、現在確認できるなかで最も古い文献。

 

「活字離れの現実をどう考えるか」講演会の記録 出版科学研究所           
1972年11月

朝鮮戦争73年目の夏

Photo_7   朝鮮戦争は今年で73年目を迎える。韓国ドラマ「愛の不時着」など南北問題を取り上げた作品は多いが、国際法上は現在も戦争状態が続いている。1950年のこの日に朝鮮戦争は勃発した。大韓民国と朝鮮民主主義人民共和国とが、第二次大戦後の米国・ソ連の対立を背景として、国際紛争にまで発展、いわゆる朝鮮戦争と呼ばれ、戦後のわが国には特需が増大する。10月8日、国連軍が38度線を突破。1953年7月休戦。その5年後の1958年に建てられた高さ332.6メートルの東京タワー。この東京タワーは、実は米軍の戦車で出来ている。朝鮮戦争が終わって不要になった米軍の戦車は日本の民間業者に払い下げられていた。当時、日本には、基幹産業である高炉会社はまだ十分に育っておらず、戦車のスクラップは貴重である。そこで質のよい戦車90台の精鉄が3000トン分が使用された。それは東京タワーのおよそ3分の1を占めているといわれる。(6月25日、参考:生方幸夫「解体屋の戦後史」)

2023年6月24日 (土)

ソルフェリーノの戦い

  1859年のこの日、ナポレオン3世率いるフランス帝国とヴィットーリオ・エマヌエーレ2世率いるサルディーニャ王国軍の連合軍が、フランツ・ヨーゼフ1世率いるオーストリア帝国軍と戦い、フランス・サルディーニャ連合軍が勝利し、翌年イタリアの統一に向かう。日本史に例えるなら、鳥羽伏見の戦い。ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世が明治天皇、ガリバルディが西郷隆盛、アンリ・デュナンが松本良順か。

現代戦はプーチンやゼレンスキーは戦場からは離れた大本営に常にいるが、ソルフェリーノの戦いまでは、当事国の君主が親征に出て軍を指揮していたという、世界戦史上、最後の戦争といわれている。(6月24日)

 

サディ・カルノー暗殺事件

 1894年6月24日、仏大統領マリー・フランソワ・サディ・カルノーはリヨンで演説後にイタリア人アナーキスト、サンテ・ジェロニモ・カゼリオに刺され、翌6月25日に死亡した。56歳だった。

加賀の一向一揆(1488年)

 富樫氏は、室町時代に加賀国を支配する守護大名である。富樫政親は応仁の乱が勃発すると細川勝元方の東軍に与した。ところが、弟・幸千代が西軍に与して敵対したので、政親は家督をめぐって弟と争う羽目となった。文明3年富樫幸千代を倒す。文明7年、一向衆徒を弾圧した。文明13年、越中で一揆が発生した。長享2年、政親が攻撃するや、本願寺門徒の農民・越中の門徒が協力して高尾城を攻めおとし、富樫政親は自害した。以後1世紀にわたり加賀国は自治支配を行った。

 

田沼意次の失脚(1786年)

 史上まれにみる汚職政治によって田沼意次の悪評は高い。意次の屋敷には、連日多数の大名や旗本が金品を持ってつめかけ、しきりに接近をはかったといわれる。田沼家はもともと紀州藩士で門閥家系ではなかった。父の意行が吉宗につき従って江戸に移り、小姓を勤めていた。意次は将軍家重のもとで着実に出世していく。家重が死んでからは、新将軍家治のもとで、さらに栄達はめざましく側用人、老中と大出世をなした。財政の立て直しを図り、株仲間の大幅公認と冥加金の収納・外国貿易の奨励・専売制度・下総印旛沼の干拓計画・商品作物栽培奨励など経済政策を積極的な経済政策をとったが、彼の政策が商業資本と結びつき、民衆の利益を収奪する結果となり、賄賂による政治の乱れや、天災・飢饉による百姓一揆の頻発で動揺をきたし、世人の恨みを買った。「まいない鳥の図」や川柳「役人の子はにぎにぎをよく覚え」など世人の多くは田沼政治を批判した。不安な世情の続くうちに江戸城中で刃傷事件が起きた。天明4年3月24日夕刻、江戸城中において田沼意次の長男、意知が新番の佐野善左衛門政言(まさこと)に突然斬りつけられ、その傷がもとで4月2日死亡した。佐野政言は田沼政権下での立身を願い、系図の明らかでない意次に、自分の佐野家の系図に手を加えて、田沼家が佐野家の庶流であるように改竄を申し出て恩を売ろうとした。しかし、もともと出自などに全く拘泥しない意次は、佐野の申し出を断った。このことに遺恨をもった佐野は逆恨みし、ついに子の意知を殺害したのである。意知が亡くなった翌日、佐野が切腹すると、高騰していた米価が偶然下がり民衆は佐野を「世直し大明神」と称えた。この事件を契機に松平定信ら反田沼派が台頭することとなった。そして天明6年、田沼を信任してきた将軍家治が病死した。さすがの意次もついに力つきた。老中を免ぜられ、ついに10年におよぶ田沼時代はその幕を閉じた。現代まで田沼悪人説が残るが、これは大正期の辻善之助の著作(「田沼時代」)の影響が大きいが、後年大石慎三郎は資料を検討し、田沼を革新政治家として肯定的に捉える傾向が高まってその評価が一変している。

 

2023年6月23日 (金)

作家の前歴しらべ

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 「映画ストーリー」編集者時代の向田邦子

 

   ほとんどの作家はさまざまな職歴を経て職業作家として独立している。なかでも新聞社や出版社に勤務していた人は多い。横山秀夫は上毛新聞社、船山馨は北海道新聞、井上靖は毎日新聞社、司馬遼太郎は産経新聞社、そして松本清張は朝日新聞社の広告部だった。そのほか伊藤永之介は新秋田新聞社、北原武夫は都新聞社。古いところでは国木田独歩の国民新聞社。向田邦子は映画雑誌や雄鶏社の編集員。吉行淳之介や椎名誠は雑誌の編集員。教師も多い。石坂洋次郎、中島敦は女子高。海音寺潮五郎は中学教師。宮沢賢治は稗貫農学校。坂口安吾は小学校の代用教員。官公庁関係では芹沢光治良は農商務省、小田嶽夫は外務省、梅崎春生は東京市教育局、野間宏は大阪市役所。阿刀田高は国立国会図書館、中村地平は宮崎県立図書館長、又吉栄喜は図書館司書。医者では森鴎外は軍医、藤枝静男は眼科医、なだいなだ・北杜夫は精神科、伊藤左千夫は牛乳屋。

   会社員では山口瞳・開高開高健が洋酒の寿屋宣伝課。筒井康隆は展示装飾の乃村工芸社。

   変わったところでは、水上勉はお坊さん、吉川英治は横浜ドッグ会社の船具工。江戸川乱歩、出久根達郎は古書店。山本周五郎は質屋の店員。室生犀星は裁判所事務員。井上光晴は炭鉱夫。椎名麟三は車掌。村上春樹はジャズ喫茶店主。ほかにももっと意外な職業の作家がいるだろうが只今調査中。

遣唐使・井真成の謎

 遣唐使は、630年から894年の中止まで、十数回にわたって行われた。当時は、航海術が未発達で、船が途中で遭難することがたびたびあった。阿倍仲麻呂は帰国できないまま、生涯、唐の皇帝につかえた。

    2004年、西安近くの工事現場で一つの墓誌が発見された。「日本」という文字が記された歴史的史料のなかで、実物が確認されたもっとも古いものの一つである。井真成は阿部仲麻呂などともに717年留学生として唐に渡った。このとき19歳であった。(阿倍仲麻呂は20歳)そして734年に36歳の若さで亡くなっている。玄宗はその才能を惜しんで、栄誉を称えて官位を贈った。当時の遣唐使の生還率は6割以下といわれて、無事に帰国できない人も少なくなかった。井真成がとんな人だったかをめぐっては、さまざまな論議がある。中国の学者たちは当時「9年以上滞在できない」とする規則があったことから、亡くなる前年に中国に到着した遣唐使の一員と考えている。井真成は若い留学生だったのか、それとも中年の域を迎えた役人だったのか、あつい論争となっている。ちなみに「日本」が記された記録としては、これより数年古く、唐先天2年(713)の「徐州刺史杜嗣先墓誌」に「皇明遠被、日本来庭」とある。(葉国良「唐代墓誌考釈八則」同『右学続探』台北:大安出版社,1999年,128ページ)

 

Photo 蓋石拓本 贈尚衣奉御井府君墓誌之銘

ナポレオンのロシア遠征

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 背広の袖にボタンが付けられることになったのは、英雄のナポレオンが関わっている。ロシア遠征の時、フランス兵たちが寒さのあまり鼻水を袖で拭うの見かねて、外套の袖口にボタンを付けさせてそれを防止したのが始まりといわれている。

    ヨーロッパ統一をめざすナポレオン(1769-1821)は、1812年6月22日、47万の大軍を率いて、コヴノ付近の4つの橋で、国境付近を流れるニーメン(ネマン)川を渡り、ロシア領内に侵攻した。ここに同年12月までの約半年、ロシアにおいて戦争が始まった。ナポレオン軍は9月14日にはモスクワに入城したが、ロシアのクトゥーゾフ(1745-1813)の焦土作戦により兵糧米が不足し、厳寒のなかでの撤退を余儀なくされ、ヴィヤシマ、スモレンスクの戦いは壊滅的な敗北を喫した。6月に47万人の兵士がニーメン川に架かる橋を渡ったが、12月にこの橋を渡った者はわずか5000人だった。ニーメン川はベラルーシに源を発して、リトアニアとロシア連邦カリーニングラード州を流れ、バルト海の一部であるカルシュ海に注いでいる。

ナポレオン軍の兵力消耗状況
6月 ニーメン川渡河   47.5万
7月 ヴィテブスク     37.5万
8月 スモレンスク     15.5万
9月 ボロディノ       13万
9.14  モスクワ入城     11万
10.19 モスクワ退却    10万
11.9   ヴィヤシマ      5万
11.9   スモレンスク      3.7万
11.28 ベレジナ       3万
12.10 ニーメン川渡河   0.5万

 

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2023年6月22日 (木)

春秋の五覇

   中国文明は周辺の諸民族に普及してその興起をうながすが、ときに異民族の侵入を受ける時代もある。周王朝は前770年、西夷、犬戎などの難をさけて、都を東の洛陽に移した。以後を東周と呼ぶ。周は弱体化し、諸侯は領土国家を形成し、互いに覇を争った。この同盟の盟主を覇者と呼ぶ。春秋の五覇とは、斉の桓公、晋の文公、宋の襄公、秦の穆公、楚の荘王とする説と、宋襄、秦穆を除いて、呉王夫差、越王勾践を加える説とがある。

 春秋時代のはじまりは、周の平王が洛陽に遷都した前770年とする説と、孔子が編纂した『春秋』の記録に、魯の隠公元年、つまり周の平王の在位49年に始まることから、春秋時代の開始を前722年とする説がある。

七難を(しちなんを、前770年) 背負いて競う春秋の五覇

地名、人名をルーツにした名称の由来

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   エポニムとは、既に存在する事物の名に因んで二次的に命名された言葉のこと。ジーンズはイタリアのジェノバで製造され、外国へ輸出されたことからジェノバという地名に由来する。デニムも同様にフランスのニームに由来する。バドミントンはイギリスのグロースターシャーにあるボーフォート公の所領と邸館の名称。1870年代、バドミントンが考案されて、ここの地名が競技の名称として広まった。競馬ダービーはダービー卿と所領地名に由来。

898900041f596749   新発見の地名には発見者などの名前をつかわれることが多い。有名なのはアメリカの名の由来、アメリゴ・ベスプッチだろう。エベレスト、マゼラン海峡、ビクトリア湖、ビスマーク諸島、クック諸島、間宮海峡、タスマニア島などもよく知られている。タスマニア島の発見はオランダの探検家アベル・タスマン(1603-1659)である。ブーゲンビル島は発見者のブーガンヴィル(1729-1811)に因む。ギルバート諸島も発見者のイギリス人のトーマス・ギルバート船長に因む。マーシャル諸島もイギリス東インド会社に属するジョン・マーシャル船長に因んでいる。南極のロス海は発見者ジェームズ・クラーク・ロス(1800-1862)に因んでいる。カナダ北東にある大きなハドソン湾は1610年に湾を探検したヘンリー・ハドソンに因んでつらられた。同じくカナダにあるドーソンという山は発見した地理学者ジョージ・マーサー・ドーソンに因む。ニューヨークはオランダからイギリスの支配下に移った1664年、ヨーク公に因んでニューアムステルダムからニューヨークと改称された。ペンシルヴェニアはウィリアム・ペンにちなむ。カナダのバンクーバーはイギリス海軍士官・探検家ジョージ・バンクーバー(1757-1798)が名祖である。

 

    モスクワの東方400㎞にある都市ゴーリキーは文豪マクシム・ゴーリキーに因んで付けられたが1990年、旧名ニジニ・ノヴゴロドに戻った。中央アメリカにあるニカラグアは酋長二カラオ(Nicarao)に因んでつけられた。カナダのバンクーバーは英探検家ジョージ・バンクーバーに由来する。アメリカのペンシルバニア州はウィリアム・ペンに因んで「ペンの森」(ペンシルバニア)と命名された。ニュージーランドの首都ウエリントンはワーテルローの戦いでナポレオンに勝利したウエリントン卿にちなんでいる。ベトナムのサイゴンは革命家ホーチミンの名前にちなんで改名した。月形町は月形潔、道玄坂は大和田道玄に因んでいる。

 

Vitusbering1sized   アジア大陸と北アメリカ大陸との間にあるベーリング海峡。デンマークの探検家ヴィトゥス・ベーリング(1681-1741)に因む。近年に発見された遺骨から推測するベーリングは肖像画(画像)とは大きく異なっていることが判明した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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それでも地球は回っている

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ヴァチカンの宗教裁判に引き出されたガリレオ ジョゼフ・フルーリ 1846年

   1632年2月22日、ガリレオ・ガリレイは地動説の解説書「天文対話」を刊行した。翌年の4月12日には、ガリレオの異端審問が始まった。ローマ法王庁の機密文書館が開設400年を迎えたのを記念し、一般に公開されるようになった。目玉の一つがガリレオが異端審問にかけられた際の裁判記録。ガリレオの署名がはっきりと確認できる。

  ガリレオ・ガリレイ(1564-1642)がはじめて望遠鏡を空に向けた時、宇宙の法則はコペルニクスが正しく、プトレマイオスはまちがっていることを確信した。しかし、ガリレオの提示した理論は、いずれも当時において反論の余地ある仮説の域を脱していなかった。1600年にはジョルダーノ・ブルーノが異端として火刑に処せられている。ガリレオもまた宗教裁判において終身の自宅軟禁を言い渡され、2度とふたたびこの問題を取り上げることは禁止された。1633年6月22日、ガリレオに異端判決が下され、「それでも地球は動いている」と呟いたと伝えられる。盲目となってからもガリレオの研究は最後まで衰えることはなかった。1642年、ガリレオは熱病にかかってフィレンチェ郊外のアルチェトリで死んだ。(Galileo Galilei、4月12日)

浅野長矩辞世の歌は後世の偽作

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    浅野長矩の辞世の歌として知られる「風さそふ花よりもなほ我はまた春の名残をいかにとかせん」は、忠臣蔵映画には欠くことができないものである。これは、刃傷松の廊下の当日、御目付部屋に詰めていた目付、多門伝八郎が記した「多門伝八郎筆記」にみえる。しかし、宝永2年7月(陽暦1705年8月)以降に都乃錦という浮世作家(本名、宍戸円喜)の著作「播磨椙原」にある「風さそふ花よりも亦われは猶春の名残をいかにとかせむ」と酷似している。長矩の辞世は本人の作ではなく、円喜の創作とみるのが自然であろう。

  多門伝八郎重共は元禄14年の赤穂事件において浅野長政の取調べと切腹副検死役をつとめた。「多門筆記」は赤穂側に肩入れした記述が多く見られ、多門の著作ではなく、後世に別人が書いたとする説が有力である。刃傷事件後、元禄16年10月から多門は防火の仕事に従事し、宝永元年6月にはその功績で黄金三枚を賜わった。ところが8月2日になってその務めが良くなかったとされて小普請入りにされ、宝永2年には埼玉郡の所領も多摩郡に移された。享保8年6月22日に死去、享年65歳。硬骨漢は出世コースをはずされ、不遇のうちに一生を過ごしたらしい。

 

 

2023年6月21日 (水)

参勤交代と大名行列

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歌麿「駿河路の大名行列」


   徳川家康は関ヶ原の役ののち、外様大名の江戸参勤や妻子の江戸居住を奨励した。慶長7年に前田利長が母の芳春院をたずねて江戸に参勤したのが、その最も早い例といわれる。翌年、家康が征夷大将軍に就任すると西国大名の江戸参勤が急にふえ、幕府も諸大名に江戸に邸宅を与え、刀剣・書画・鷹・馬などを参勤のときにおくり、大大名に対しては鷹狩に託して秀忠が東海道は高輪御殿、中山道は白山御殿、奥州街道は小菅御殿など迎えて優遇し慶長の末年には参勤が一般の風となった。はじめ幕府は参勤の供連れの人数を規定しただけで、参勤を命令することはなかったが、寛永11年8月4日、譜代大名の妻子の江戸居住を命じ、翌寛永12年6月21日の武家諸法度で毎年4月の外様大名の参勤交代が義務化することとなり、参勤交代は法制として確立した。通則は隔年交代、関東の大名は半年交代、対馬の宗氏は3年1度の参勤、水戸家や役付大名は定府(じょうふ)であった。当初は外様大名にのみ適用されたものであったが、寛永19年5月9日には譜代大名へも拡充されて、参勤交代は確立した。

  大名行列は本来、軍事に備える移動形態であったが、太平が続くと大名の権威と格式を誇示するための華美なものに変容した。参勤の道中には武具一式、衣服、雨具、非常食糧、漬物、湯道具、娯楽道具、休憩用具(幕・床几など)、ろうそくなどに至るまで持って歩く。他家の行列とすれちがう場合には、道中では格式にかかわらず、乗り物のとびらあるいは窓をあけ、行列は止まらない。長途の旅行で病気におちいり、一命を失うという場合も少なくなかった。加賀藩では最盛期には4000人の従者がいたといわれる。行列の際、先払いが「下に下に」と触れ声をかけ、庶民は土下座して道を譲る。ただし沿道の人を土下座させることができたのは親藩だけで、譜代と外様は「片よけ片よれ」と命令して通行した。

参勤交代は、大名の財政に大きな負担となり、軍事力が低下し、謀反を起こさせないとする結果となったが、反面、都市や交通が発展する一因となった。(参考文献;平山敏治郎「参勤交代する旗本」 人文研究大阪市立大学大学院文学研究科紀要7-8,1956)

 

 

 

 

 

 

 

 

今日も雨

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    夏至。北半球では一年中で昼が最も長く、夜が最も短い。低気圧が黄海付近を東へ進み、梅雨前線が九州付近にのびてきたため、九州は広い範囲で雨が降っている。関西では空はどんより曇っているが、これから雨になるだろう。朝から蒸し暑い。

2023年6月20日 (火)

「アズ・タイム・ゴーズ・バイ」と「イッツ・ビーン・ア・ロング・ロング・タイム」

Casablanca2   パリが舞台の映画はたくさんある。しかしアカデミー作品賞を受賞した恋愛映画となると意外に少ない。「カサブランカ」(1943)と「巴里のアメリカ人」と「恋の手ほどき」。パリでの回想シーンなどはすべてハリウッドのスタジオで撮影されたものである。「カサブランカ」は第二次世界大戦下、政情不安な仏領モロッコを舞台に、恋と友情と自由への闘争を描く。ボガートの渋い男の魅力と、当時27歳のバーグマンの輝くばかりの美しさが、時代を越えて私たちの胸をときめかせてくれる。1946年6月20日、日本で封切りされる。

What about us?

We'll always have Paris?

「私たちはどうなるの?」「僕たちにはいつだってパリの思い出がある」

    ヒットラーの野望が全欧州に広がり、パリがすでにナチスに占領されていた1940年、フランス領モロッコの港町カサブランカには政治亡命者、反ナチの闘士、スパイ、犯罪者、利権屋などが渦巻いていた。そうした人たちの出入りする「カフェ・アメリカン」の経営者リックは苦労人で、侠気からいろんな人々に頼られていた。彼らは一様に転出査証を求めているのだ。折りしもドイツからの2人の急使が殺害されて旅券が奪われる。犯人はリックの店に逃げこみ、偶然その1枚がリックの手にはいった。

   反ナチの大立者ヴィクター・ラズロも妻と共にカサブランカにやってきてアメリカへの脱出の機会をうかがっていたが、それを阻止するためこの地に派遣されたゲシュタポ、ストラッサー少佐の監視はきびしかった。ラズロはリックの手にある旅券を譲ってほしいと頼む。

   カフェを訪れたイルサ・ラズロは、店にピアノひきの黒人がいるのを知って驚く。イルサは鼻歌で「♪ララララララ~」とハミングする。「時の過ぎ行くままに」という曲がかつての恋人イルサとリックを再会させたのだ。パリ陥落の日、愛し合うリックとイルサはともに脱出するはずだった。だがイルサのやむを得ぬ裏切りからふたりは離ればなれになったのだった。

   灼熱の太陽が白壁にまぶしい辺地で、昔日の愛情は再び燃えあがる。イルサははじめてなぜにパリで約束の時間に行かなかったかをリックに語る。それはナチスに捕らえられて死んだと思っていた夫が、重態でかくまわれていることを知ったためだった。

   ラズロは暗黒街の顔役フェラリに頼んで旅券を手に入れようとする。1枚さえあれば妻をアメリカへ逃避させることが出来るのだ。またイルサはリックに1枚を夫に渡してくれと頼む。ラズロが妻を深く愛していることを知ったリックは、夫の解放運動にもどんなに彼女が必要であるかを知って自分の恋をあきらめる決心をする。

   カサブランカの警視総監ルノオ大尉はリックの身辺や「カフェ・アメリカン」に大きな変化があるのを感じていたが、ストラッサー少佐には報告しなかった。彼には自由のために戦う尊さが次第に分かりかけてきたのだった。

   リックの体内にも昔日の闘志がよみがえってきた。ルノオ大尉をあざむいて同志の会合に出かけて捕らえられたラズロを釈放させ、それから脱出の手はずを整える。それはリツクがイルサとリスボンへ駆け落ちするかのようにみせかける大芝居をうつことだった。

   脱出を知ったゲシュタポのストラッサー少佐は、阻止せんものと飛行場にかけつけるが、リックは射殺してしまう。それを見ていてもルノオ大尉は逮捕しようとしなかった。彼もまた自由人なのだ。

   リックはルノオ大尉と共に夜空にリスボンをめざして飛んで行くラズロ夫妻の機をじっと見送るのだった。

主題歌「アズ・タイム・ゴーズ・バイ」(原曲は1931年)は自由を求める最高のラブソングである。後年、バーグマンはある番組でスペシャル・ゲストでフランク・シナトラが突然に現れて「時の過ぎ行くままに」を披露し、感激のあまり抱擁する映像がyoutubeでみれる。

 「時の過ぎ行くままに」と同じように、第二次世界大戦の終結で、人々に平和な日々が帰ってきたことの喜びを感じさせてくれる歌がある。歌詞は「私に一度キスして、それから私に二回キスして。それからもう一回私にキスして。それはそれは長い、長い時間」英語の歌詞「It's  been a long、iong time」(原曲は1932年)とかいった。先日、たまたま伊東ゆかりの「ひさしぶりね」という歌を聴くと、懐かしいその曲だった。原曲は1945年の「イッツ・ビーン・ア・ロング・ロング・タイム」だった。ハリー・ジェイムズの甘美なトランペットとキティ・カレンのボーカル。長らく会えなかった夫や恋人の器官ほ待ちわびていた人たちの心情に合い、大ヒットした。

平清盛は白河法皇の落胤だった

  「尊卑分脈」の平氏系図には、清盛が忠盛の嫡男となっているが、母についての記載がないということは長い間の日本史の謎の一つであった。清盛が元永元年に生まれたことは確かであり、忠盛には数人の妻がいた。それは「尊卑分脈」の系図に明らかであるが、少なくとも4人が確認されるし、その他にもまだいたと思われる。さて、「平家物語」には清盛の母はどのように伝えられているか。「平家物語」には種々の異本があり、大きく分類すると、①白河天皇の寵姫の祇園女御とするもの②祇園女御に仕えた中﨟女房③祇園女御と関係のない兵衛佐局の三つとなる。また「源平盛衰記」には、清盛の父は忠盛ではなく、白河法皇が祇園女御との間に儲けたという説を記している。ところが「コンサイス日本人名辞典」では、母は祇園女御の妹とある。祇園女御とは、白河天皇の後宮にあった女性だが、姓氏は明らかでない。その祇園女御が、帝の胤を宿したまま、平忠盛のもとへ嫁ぎ、清盛が生まれた、と「今鏡」には説かれている。一般には明治時代まで清盛皇胤説が信じられていた。明治26年、星野恒は胡宮神社の古文書の中に、「仏舎利相承系図」を発見し、清盛の母は祇園女御の妹であることを説いた。この説が学界でも、ほとんど定説化し、清盛落胤説を裏付ける資料となっている。大河ドラマの清盛皇胤説は十分に根拠あることである。しかし五味文彦は白河上皇の落胤説を否定し、忠盛が祇園女御に仕えるなかで、その妹との間に清盛を儲けたとしている。

    「平家物語」の冒頭の語り出し、「おごれるもの久しからず、ただ春の夜の夢のごとし」は平家滅亡と秦帝国崩壊が重なり合うところがうかがえる。「史記」の記述には始皇帝が呂不韋の子であったとあるが、近代の学者、馬非百や郭沫若などはこの記述は虚構であると指摘している。清盛皇胤説にも信憑性が少ない。(人物叢書「平清盛」)

 

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石塚友二「松風」

 小説家・石塚友二の短編「松風」を読む。私小説的な味わいのある佳品である。富岡夫妻が私に縁談をすすめた。相手は君も知っている人で、君のこともよく知っていてそして君のとろへなら来てもいいといっている。早く返事がききたいといっているので、なるべる近いうちに僕のところへ来てくれたまえ。ただ一度だけあったことがある。5年ほど前のことである。十五六で母を喪って以来、父には妻代わり、幼い弟妹には母親がわりになつて、これまでむずかしい嘉慶をきりもりしてきたこと、それでもちっともいじけずに純良な心を保っていること、そして今年二十二歳のこと、などがきかされた。私は「貰うことに決めた」といった。富岡は「そう、それはほんとうによかった」日曜に家に来てもらうことにした。男1人ずまいの荒れきった室内とともに余さず琴音に示した。「まあいい家だこと」こういう表現が何らの嫌味を伴わずに、まさに奔ったかのようにききなされたのだった。結納の取交しの日取りも極り、それはほんの形ばかり目録だけの交換ですます言い合せだったが、それにしても私には皆目見当がつかないので、言われただけの金額を富岡の許へ持参して万事託することにした。式の日取りも決まった。四月五日だ。もの憂く、落着かなない日が続いた。その間にもたいてい琴音と会った。「なんにもできない不束者でございます。あなたのお思いどおりに叱って行っていただきます」琴音はそういうと手をついて静かに頭を垂れた。青年が結婚するまでのありふれた話であるが、さわやかな読後感がある。

 

 

 

 

 

 

カタラウヌムの戦い

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 カタラウヌムの戦い

 

    パリ東方シャンパーニュ地方のカタラウヌム(またはカンプス・マウリアクス)。ここで451年6月20日、東西の雌雄を決する大戦が行われた。西ローマのアエティウスを総大将とする西ヨーロッパ連合軍とフン族のアッティラ(406?-453)の率いる大軍が激突。凄惨な戦いは一日中続き、ローマ側主力軍の西ゴートのテオドリックが戦死したが、軍配はかろうじて西ヨーロッパ連合軍にあがった。敗れたアッティラは、452年、ヴェネツィアを荒らし、ミラノを占拠する。だがアッティラの陣営に疫病と飢餓が発生する。教皇レオ1世はアッティラと交渉し、フン族は莫大な貢納の約束とひきかえに、イタリアから撤退することになった。(Attila)

2023年6月19日 (月)

ベースボール記念日

Cartwrightalexabio   1846年のこの日、公式の記録に残る史上初の野球の試合がニュージャージー州ホーボーケンで行われた。前年、アレクサンダー・カートライト(1820-1892)はイギリスの球技であるタウンボールを、文書化して統一ルールを定めた。これが現在の野球のはじまりといわれる。いわゆるニッカーボッカー・ルールでは「先に21点を取ったチームが勝ち」となっていた。あるとき「いつ試合が終わるか分からないから、料理の準備ができない」と野球チームのコックが苦情を言った。20対0で、あと1点取ればゲームは終了になるのに、点がはいらない場合など観客も飽きてくるだろう。そこで1試合最低1人3打席回ってくるようにした結果9イニング制となった。試合はカートライト率いるニューヨーク・ニッカーボッカーズがニューヨーク・ナイン相手に1-23で負けてしまった。この出来事が、「ベースボールの記念日」もしくは「ベースボールの日」と呼ばれている。その後、南北戦争を機に南部にも広まり、全米で人気を博するようになった。(Alexander Joy Cartwright Jr. 6月19日)

スターの人気ランキング

 戦後から今日までのランキング表には、各種のものがある。しかし、大抵のものは、相撲の番付的なもので、来月になったら順位はわからないものである。ロードショーという古雑誌に邦画スターベスト・テンが載っている(昭和50年8月号)1位は志穂美悦子で、以下、秋吉久美子、早乙女愛、島田陽子、中野良子、大原麗子、吉永小百合、桃井かおり、栗原小巻、関根恵子である。現役で活躍しているのは吉永小百合ひとりである。志穂美は日本初のアクションスター女優で、当時の人気のバロメーターであったブロマイドの売上げが№ワンとなっていた。ちなみに現在のベスト・テンを挙げておこう。1位は浜辺美波、以下、広瀬すず、今田美桜、新垣結衣、有村架純、橋本環奈、長澤まさみ、川口春奈、綾瀬はるか、吉高由里子、小芝風花、芳根京子などである。50年後、誰が残っているのだろうか。

 

猫の名前あれこれ

P4_img1_e   お茶の水小学校(東京都千代田区猿楽町1丁目)の校庭には夏目漱石の記念碑が建てられている。「吾輩は猫である。名前はまだ無い。明治11年夏目漱石 錦華に学ぶ」とある。当時の校名は錦華小学校だった。

    漱石家の3代目の猫が死んだあと、書斎を訪ねた野村胡堂が、次の猫を飼うのですかと質問すると、「それなのです。私は、実は猫が好きじゃない。世間では、よっぽど猫好きのように思っているが、犬の方がずっと好きです」と答えたという。漱石が実際に飼っていた黒猫も名前をつけてもらえなかったらしい。猫の名前も昭和と令和の時代では大きく変化している。むかしは「ミケ」「タマ」「タロー」「ハナコ」「トラ」「チー」など平凡な名前に人気があった。アニメ「トムとジェリー」からとった「ジェリー」もあった。令和5年の総合ランキングでは「ムギ」が今年も4年連続で1位を獲得した。男の子部門では3位、女の子部門では2位。呼びやすく、かわいらしい響きが人気なのかもしれない。そのほかには、ムギ、ソラ、レオ、ルナ、ココ、モモ、ヤナコ、マル、モカ、ベルなど。

漢字部門では、男の子部門では、福、琥珀、茶々丸、空、大福。女の子部門では、麦、凛、花、琥珀、姫。

 

2023年6月18日 (日)

リクルート事件と江副浩正(1988年)

  昭和63年6月18日、朝日新聞が川崎市助役のリクルートコスモス未公開株譲渡疑惑をスクープした。さらに7月になって未公開株の譲渡先が竹下首相ら政府・党要人に及んでいたことが判明した。

  この年3月、川崎駅前再開発計画をめぐって、川崎市助役がリクルートから関連会社の未公開株を受け取っていたことが発覚、一連のリクルート事件の発端となった。未公開株は竹下首相、宮沢大蔵大臣などの閣僚をはじめ、自民党の領袖、大物財界人などにわたっていたことが明らかになり、12月宮沢大蔵大臣は辞任した。東京地検特捜部は政界・官界・財界人への未公開株の譲渡のうち贈収賄にあたる事件の捜査を進め、この翌年藤波元官房長官、NTT前会長らを起訴した。自民党の長期政権が続くなかで、政財界の癒着も進んだ。昭和51年のロッキード事件、昭和63年のリクルート事件、平成4年の佐川急便事件などの贈収賄事件で国民の政治不信はつのり、政治改革がさけばれるようになった。

   事件の中心人物、江副浩正とはどのような人物なのか。昭和11年、愛媛県に生まれる。戦後、甲南中学校・高等学校を経て東京大学を卒業。大学在学中に、リクルートの前身である株式会社大学広告を設立した。高度成長の波に乗って事業を急拡大させる。生み出した利益を新事業に先行投資する方法で、不動産、金融、レジャー、情報通信にまで手を広げ、「ニュービジネスの旗手」と呼ばれた。事業の拡大とともに80年代から財界での活動に力を入れ、政界とのパイプづくりを励むようになる。92年、経営不振からダイエー傘下での再建を決意して自社株を売却、一線を退く。平成25年、死去した。

 

 

おにぎりの日

Onigiri_01  本日は「おにぎりの日」。「おにぎり」は英語で、rice ball。おにぎりと思われる米粒の塊が弥生時代の遺跡から発見されている。おにぎりの直接の起源は平安時代の「頓食」(とんじき)という食べ物だと考えられている。この頃のおにぎりは楕円形のかなり大型で、使われているのは蒸したもち米であった。鎌倉時代の末期頃には、うるち米が使われるようになった。おにぎりに海苔が巻かれ、現在のような形になったのは、そんなに古いことではなく、江戸時代中期と言われている。加工された四角い板海苔が「浅草海苔」などの名称で一般に普及したのは元禄の頃である。海苔は、栄養が豊富でかつ、手にご飯がつかないという便利さも相まってむ、おにぎりに海苔を巻く習慣が定着した。今や国民食となった「おにぎり」だが、もっとも一番好まれる具は何か?ある調査によると、1位が鮭で、以下、ツナマヨ、梅干し、明太子、昆布、たらこ、おかか、と続く。一般的に高菜は人気がないが、新垣結衣、ガッキーの好物は意外にも高菜ということである。(6月18日)

 

 

 

 

 

 

ワーテルローの敗因は情報伝達ミスだった…

  映画「ワーテルロー」は19世紀初頭ヨーロッパの運命を決定したワーテルローの戦いを早朝から夕方までの戦況を克明に描いた作品。フランス皇帝ナポレオンをロッド・スタイガー、イギリス軍司令官ウェリントン提督をクリストファー・プラマーが扮する。1815年、追放先のエルバ島を脱走し、フランス皇帝として復権したナポレオン。ヨーロッパ各国はこれに対して軍備を整え、1815年6月18日ワーテルローの大決戦がはじまる。ワーテルローはべるぎーのブリュッセル東南にある村。10万の兵を超えるフランスのナポレオン軍と、知将ウェリントン率いる6万の英軍とブリュッヒャー率いる7万のプロイセンとの連合軍が激突する。ブリッヘル指揮するプロシア軍が攻撃し、結果はナポレオンの大敗に終わる。映画では仏軍エマニュエル・ド・クルーシー(チャールズ・ミロットが演じる)がプロシア軍を深追いしたためワーテルローの主戦場に到着が遅れたといわれる。また一説によると、ワーテルローの敗因は、ナポレオンの命令書の文字が悪筆のため「援軍よこせ」と書いたつもりが、「うまくいっている」と誤読したため、味方の将軍が援軍に行かなかったからといわれる。

 

 

2023年6月17日 (土)

世界遺産タージ・マハル

Lrg_10669522  インド北部のアグラにある「世界で最も美しい建築」といわれるタージ・マハルはムガール帝国の第5代皇帝シャー・ジャハーン(1592-1666)が愛妃ムムターズ・マハル(1595-1631)の死を悲しんで建てた廟墓である。建築者ウスタッド・アーマド・ラホーリはインド・イスラーム建築に大きな業績を残した。ムムターズがまだ皇太子だったシャー・ジャハーンと結婚したのは1612年、ムムターズ18歳の時だった。彼女はもちろん初婚だったが、シャー・ジャハーンには2年前に結婚した妃がおり彼女とのあいだに娘が1人いた。美貌の皇妃として知られたムムターズは、夫に深く寵愛され、男子8人、女子6人という子沢山であった。そして20年近く、ムガール朝の大奥で権勢をほしいままにした。1631年6月17日、王がデカン遠征中、妃は36歳で産褥死した。王はその死を悲しみ、彼女の廟の建設を翌年から着工し、21年の歳月をかけて1653年タージ・マハルが完成した。タージ・マハル Taj Mahal とは「マハル妃の王冠」の意味。王妃の墓は、このドームの真下の地下にある。(世界史)

楠公父子「桜井駅の別れ」はなかった

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  楠公訣別之図  松岡映丘筆

 

  延元元年5月、 足利尊氏の賊軍が九州から再び京都に攻め上って来るとの知らせが朝廷にあった。楠木正成は宮居の松にしばし名残を惜しみ、これが最期の戦と決して、兵庫へ向かった。途中、青葉繁れる桜井の駅(現在、大阪府三島郡島本町)で、嫡子の楠木正行を河内から呼び寄せ、諄々として向後を諭して言った。

    「この度の合戦は天下安危の分かれ目なれば、汝の顔を見るも今日が限りと思う。我れ討死せば世は必ず足利のものとなろう。されど我が楠木一族郎党一人でも生きてあらん限りは、生きかわり死にかわりて七たび生まれても朝敵を攻め滅ぼせ。(七生報国)事成らざれば潔く身命を大君に捧げ参らせよ。命を惜しんで忠義の心を失うべからず。これが父の志にて、汝はこれを継ぐことこそ第一の孝行なるぞ。父がいま申すこと返す返すも忘るるな」と心をこめて諭して、遺品に菊水の銘打ったる短刀を渡した。しかし正行はあくまで父の軍に従いたいと願った。すると正成は「汝もすでに十一。父の志がわからぬか。今死んでは父の志を継ぐ者は誰ぞ」と叱ったので、正行も泣く泣く故郷に帰った。

 これが有名な「桜井の別れ」の名場面である。    正成はそれから兵庫に行って湊川の戦いで敗死した。

 

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   「桜井の別れ」の名場面は戦前、落合直文作詞の「青葉茂れる桜井の(桜井訣別)」が小学唱歌として歌われ続けてきたことからも、一般的には史実として受け入れている人も多い。しかし現在の歴史研究者の多くは「太平記」の桜井の別れの記述は創作とみている。「七生報国」という言葉は、太平洋戦争中に標語となり、出征兵士の揮毫に取り上げられ、特攻隊の襷の文字となった。

    松岡映丘(1881-1938)は兵庫県福崎町に生まれた。実兄に国文学者の井上通泰や民俗学者の柳田国男がいる。上京して、橋本雅邦に狩野派を、山名貫義に大和絵を学んだ。さらに東京美術学校へ入り小堀鞆音の指導を得た。

 

 

2023年6月16日 (金)

楊貴妃の墓

Photo  小野小町、楊貴妃、クレオパトラといえばおなじみ「世界の三大美女」。しかし、この組み合わせは日本だけしか通用しない。中国では、楊貴妃は当然として、あとは貂蝉、王昭君、西施の四美人。インドでは、メンカとシャクントラ、ルップマティの3人。ところで中国の楊貴妃(ヤンクイフェイ)だが、わが国では古代から人気があり、「源氏物語」「今昔物語」「十訓抄」「浜松中納言物語」「唐物語」「太平記」と楊貴妃を題材にあげたものは数えきれないほどある。しかし、やはり「天に在りて願わくば比翼の鳥、地に在りては連理の枝とならん」と白楽天の「長恨歌」に歌われて、楊貴妃は日本人の心の中にいつまでも絶世の美女として生きているのである。

  本日、り天宝15年(756年)の楊貴妃の忌日(諸説あり)。享年38歳。楊貴妃の墓は西安から西に約60.㎞の興平県の馬嵬坡にある。墓の全体はレンガで覆われたかまくら状になっている。これは墓の土で白粉をつくると美人になるという噂が広まり、墓を訪れた人が土を持ち帰るため、現在のようにコンクリートで覆われるようになったのである。

Yjimage2ilbljno ところが楊貴妃の墓は中国だけでなく、日本にもある。山口県長門市油谷は「楊貴妃の里」として知られ、楊貴妃の墓があるという。伝説によれば、安禄山の変で死んだ楊貴妃は身代わりで、実は危うく難を逃れて、向津具半島の北西、唐渡口に漂流した。しかし、まもなく病没し、憐れんだ里人たちが亡骸を二尊院に埋葬した。楊貴妃の墓と伝えられる五輪塔は、唐の方に向いて建っている。この墓に参ると美しい子が授かるという。

 

   日本にある楊貴妃伝説には、このほか、京都東山泉湧寺に楊貴妃観音があり、名古屋の熱田神宮には楊貴妃にまつわる蓬莱伝説がある。江戸の建部綾足「本朝水滸伝」(1773年)という読本には、時代を奈良時代後期の道鏡の専横に抗して、恵美押勝、和気清麻呂、大伴家持らが立ち上がるという物語であるが、なんと楊貴妃までが登場する。

 

   「己に唐国にては、玄宗皇帝の御心をみだし給へるばかりの御色におはせば、是を妾などにしたてて、阿曽丸にちかづけば、県主が娘といふともけをされ、終には其しるべをもて、我々が心のままに事をしおふせん」と、みそかにはかりあひたまへど、大倭言をわきまへたまはぬにすべなく、「是より二人して御言風俗をなほし、大倭言におしへたてんず」と。

 

    「本朝水滸伝」の梗概は、馬隗で死んだはずの楊貴妃は身代わりで、実は叔父の楊蒙という男に救助されていた。楊蒙は彼女を遣唐使の藤原清川に託して日本へ亡命させる。二人は無事九州に着き、兄妹と偽って暮らした。そのころ都では道鏡が政権を握り、九州でも道鏡配下の豪族阿曽丸が支配していた。藤原清川は楊貴妃に日本語を教えて、女刺客として、阿曽丸を色仕掛けで暗殺を図る。しかし、その計画は失敗し、楊貴妃は尾張熱田へ逃げる。この奇抜な作り話の中にも少しは史実を織り混ぜているところがある。例えば、阿曽丸を阿曽麻呂に、藤原清川を藤原清河(?-779)に充てると、楊貴妃(719-756)とまずは同時代の人物である。史書によれば、開元・天宝の状況は、開元(733)の多治比広成、天宝九戴(750)の藤原清河ら遣唐使節一行によって、わが国に伝えられている。安史の乱についても「続日本紀」に淳仁天皇の天平宝宇2年(758)つまり反乱勃発後3年目の12月、遣渤海使の小野朝臣田守らが帰朝し、詳しく伝えている。太宰府帥船王、大弐吉備真備(695-775)らに安禄山が侵攻するかもしれないから備えを固めるよう指命を発している。楊貴妃の情報も逐一わが国に伝わっていたようである。(6月16日)

参考文献
鎌田重雄「渤海国小史」(史論史話第二) 1967
村山孚「美人薄命」(人物中国志5) 1975
石井正敏「日本渤海関係史の研究」 2001
東北亜歴史財団編「渤海の歴史と文化」
酒寄雅志「渤海と古代の日本」 2001

 

 

マクドナルド マクドナルド1号店  

 昭和46年7月20日、銀座三越1階にマクドナルド1号店がオープンした。ハンバーグを主力商品として、世界規模で展開するファーストフードチェーン店・マクドナルド。マクドナルドはアメリカの大量消費文化やアメリカ帝国による経済支配の象徴と考えられ、各国の民族主義派・保守派や、環境保護活動家、反グローバリズム運動家の攻撃目標となるケースが少なくない。当時、日本人は「ハンバーガー」という食べ物にはなじみがなく、敗戦国という反米思想も一部には残っており懸念する要素もあった。ハンバーガー80円、チーズバーガー100円、コーラ50円。1号店は大変な評判になり、日本各地に続々と店舗が作られ、ファストフードが身近なものとなっていく。日本人は好奇心が旺盛で、新しいものはどんどん受け入れる国民性がある。反米は杞憂のものであった。

 

 

和菓子の日

 平安時代、国に疫病が蔓延していた。元号を承和から嘉祥へと変えた。嘉祥元年の6月16日、仁明天皇は、16の数にちなんで菓子、餅などを神前に供えて、疫病を除いて健康招福を祈誓したといわれる。こうして嘉祥菓子(かじょうがし)という風習は江戸時代まで続いたが、明治になって廃れた。昭和54年に全国和菓子協会が「和菓子の日」として制定した。

 

2023年6月15日 (木)

オウムとインコの日

Ba87475bbfd60372296eb07a19706c01    本日は「オウムとインコの日」だそうだ。「オウム(06)インコ(15)」の語呂合わせ。世の中、似て非なるものがある。海峡と水道(たとえば紀淡海峡と紀伊水道)。バターとマーガリン。おかきとせんべい。幕の内弁当と折詰弁当。柚子と酢橘。カレイとヒラメ。ハマチとブリ。タラコと明太子。しることぜんざい。 しるこは、古くは、汁の実である。コは実である。「芋の子もくふやしるこのもち月夜」とは満月の夜に芋の子を汁の実(しるこ)として食べたという意で、「寛永発句帳」にある名月(幸和)の句。寛永のころに「しるこ」は「汁の実」のことだった。一条兼良(1402-1481)の「尺素往来」に「新年の善哉は修正の祝着」とあるが、年の初めに餅を祝うことはよろこび(仏語で善哉)であった。善哉餅といって、小豆を煮て餅を入れた食べ方が考えられ、関西で「ぜんざい」という名称で用いられた。関西の「ぜんざい」が、東京で「汁粉」とよばれ、汁を濃く、とろりとさせたものを「ぜんざい」と呼んで区別するようになった。現在、一般的には、小豆を使った汁物に白玉やおかきが入ったものを「しるこ」、つぶあんと餅の入ったものを「ぜんざい」と呼ぶが、地方によっては「ぜんざい」という呼び名のない所もある。フラミンゴはツルに似て、首と脚が長いので「紅鶴(べにづる)」と和名でいうが、指間に水かきがあり、むしろガンやカモの類に近縁の水鳥である。ふ化した直後の体色は白く、色素を摂取することで紅色になる。色素を摂取しない状態が続くと徐々に白色に戻る。(6月15日)

2023年6月14日 (水)

焼跡と映画館

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 名古屋栄町のバラック(昭和20年)

 

  昭和20年8月、日本は太平洋戦争に敗れて、混乱と絶望におちいっていた。終戦後、配給は1人1日1合だった。不法だが闇市で買うしかない。近郊農家への買い出しが男の仕事だった。「戦後いちはやく復興し始めたのは、陸の玄関名古屋駅前であった。焼跡にはバラックやマーケットが建ち始め、大がかりな闇市、納屋橋河畔の大道市、笹島東北角にずらりと並んだアロハ・アーケードなど現在の姿からは想像もつかない状景であった」(名古屋中村区誌)当時の世相を3S時代とか3P時代とかよんでいた。Sはセックス・スクリーン・ストリップ、Pはパンパン・パチンコ・ヒロポンをさしていた。

     戦後の混乱のなかで広小路にいちはやく目をつけた人物がいる。今は無き日本ヘラルド・グループの創業者である古川為三郎(1890-1993)だ。焼跡に立ち、戦後は必ず映画の時代が来ると予想した彼は、昭和21年に「今池国際劇場」「メトロ劇場」、昭和35年には「毎日ホール大劇場」「毎日地下劇場」を開館する。古川の予想どおりどの映画館も長蛇の列ができた。

たばこのはじまり

 世界で一番最初にたばこを吸ったのは誰なのだろうか?たばこを手にしながら、誰しも一度は考えたことがあるのではないだろうか。その答えを探るには、どうやら古代マヤ文明の時代にまでさかのほる必要があるようだ。メキシコにあったマヤ文明の都市遺跡パレンケのエル・フマドールの壁面には「たばこを吸う神」(十字架の神殿)にという、なんとタバコを吸う神の姿が描かている。これが人類とたばこのつながりを示す最古の資料だといわれる。少なくとも7世紀末ごろ(692年)と考えられる。古代マヤの人々は、神へ願いごとをしたり神のお告げを聞いたりする祭祀や儀式に、たばこの葉をいぶした。たばこの葉から立ちのぼる「けむり」と「香り」を天上の神へささげていたのだ。当然、神がお喜びになるという考えから、そうしたのであろう。神と人との交信の道具としてパイプや葉巻などが作られた。

フラッグ・デー

800pxflag_of_the_united_states_svg   連続クイズ・ホールドオン最終回の問題。「アメリカ合衆国の国旗「星条旗」。星の色は?」答えは白。四角に区切った左上部(カントン)には青地に50の白い星が配置されている。

  1777年のこの日、「星条旗」を正式にアメリカ合衆国の国旗と定めた。アメリカが独立宣言を行った頃の旗にはイギリスの国旗が入っていた。しかし、独立戦争で戦った相手の国旗が畑に入っていては国民の士気に影響するということで、ワシントンらがフィラデルフィアの旗作り職人ベッツィ・ロスに依頼し、星条旗を完成させた。他方、アメリカの国歌「星条旗」は、1814年、米英戦争のとき、交渉のためイギリス軍艦を訪問したF・S・キーが、要塞にひるがえる星条旗を見て感激し、詩をつくった。曲はイギリスのJ・S・スミスの乾杯歌「天なるアナクレオン」からの流用。1931年に「星条旗」がアメリカの国歌として正式に採用された。(6月14日)

川端康成の生い立ち

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 談笑する川端康成(右)と笹川良一(左)

 

    川端康成(1899-1972)は明治32年6月14日に大阪市天満此花町1丁目79番屋敷(現・大阪市北区天神橋1丁目16-12)に医師川端栄吉とその妻げんの子として生まれた。康成は長男で、七つ年上の姉芳子がいた。父栄吉は東京の医学校を出て、大阪の学塾漢学の教養を身につけており、漢詩、文人画、文学趣味もあった人で、大阪の此花町で開業していた。胸を痛み、虚弱な人であったらしく、康成が生まれた翌年に死んだ。またその翌年、康成が三歳の時母が死んだ。二人とも結核であった。

   二歳で父を、三歳で母を失った康成は、父母の顔の見覚えがない。孤児としての心情がこの作家の生涯につきまとったのは当然である。母が死んだのちは、大阪府三島郡豊川村大字宿久庄字東村という原籍のあるところに祖父母と暮らした。祖母かねは康成を寵愛した。しかしこの祖母もまた康成が八歳のとき死んだ。康成は祖父と二人きりの生活に入った。康成は小学生のころには画家になりたい考えもあったが、中学に入って本を乱読するようになってから小説家を志した。このころ、死んだ母の腹ちがいの姉であった伯母が後家になってこの家にしばらく住み、祖父と孫の二人を世話したことがあった。この伯母にはのちに東京で世話になることが多かったが、康成が肉親として最も大事にした人である。

    祖父は盲であった。盲目の祖父とたった一人の孫の男の子という生活は、たいへん淋しいものに思われる。のちに川端康成はみずから、自分は人の顔を見ている習慣があるが、それはこの祖父との生活の中で得た習慣らしい、と書いている。その祖父も、康成が16歳のときに死んだ。この当時の日記が残っていて、それから10年ほどのちに偶然に発見され「十六歳の日記」として発表された。

2023年6月13日 (火)

読書は最もストレス解消に効果的

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    ストレス解消にはさまざまな方法がある。お金の多寡と関係なく、楽しいことはいくらでもあるはず。家庭菜園、釣り、囲碁、カラオケ。イギリスのサセックス大学で読書、音楽鑑賞、一杯のコーヒー、テレビゲーム、散歩、のうちどれが一番ストレス解消に効果があるのかを実験した。その結果、読書が一番効果があることがわかった。ルイス博士は「我を失うくらいに本に没頭することが究極のリラックス法」だとコメントしている。読書療法は古くから言われているがなかなか進歩していない研究分野である。被験者によって読書の種類が異なる。昔は難しい本が効果的といわれたこともあるが、最近は雑誌など軽読書が良いと言われる。良書ではなく、その人にあった適書が大切である。

 

今日もやっぱり処女でした 夏石鈴子

 

冷蔵庫より愛をこめて 阿刀田高

 

転がる石のように 景山民夫

 

国語入試問題必勝法 清水義範

 

独断流「読書」必勝法 清水義範

 

メディアで欲情する本 別冊宝島

「浮雲」と屋久島

   林芙美子(1903-1951)の名作「浮雲」は、屋久島の豪雨を有名にしたという。

   「ここは、雨が多いんだそうですね」富岡が一服つけながら、軽い箱火鉢を引き寄せて聞いた。「はァ、一ヶ月、ほとんど雨ですな。屋久島の月のうち、三十五日は雨といふ位でございますからね……」

    この有名な件は「一月(ひとつき)に35日雨が降る屋久島は……」とブログ検索で調べても、現在、屋久島の枕詞のように使われている。しかし林芙美子は「屋久島紀行」を残しているように綿密な現地取材をする作家なので、おそらくこの言葉は現地の人から実際に聞いた言葉であろう。また小説の主人公の終焉の地であるところから、文学ファンにとって、屋久島は暗く悲しいイメージがつきまとった。しかし現在は世界遺産として観光客も多く暗いイメージは微塵もない。身近に屋久島に旅行した人に話を聞いたが、小説「浮雲」のことは全然知らなかった。戦後の話は遠い過去だったのだ。

    終戦直後、幸田ゆき子は恋人の富岡兼吾を追って、仏印ダラットから福井の敦賀へ引き揚げてきた。だが、富岡には妻がいるばかりか、複数の愛人とも情事を重ねている。それでも、富岡と別れられないゆき子は、もう一度やり直そうと二人は旅にでる。ゆき子は屋久島に向かう途中で病気になる。やっとのことで屋久島にたどりつくが身動きできないようになった。ある豪雨の日、勤務中の富岡に急変の知らせが届く。富岡は、明かりを持ってきてゆき子の死に顔を見つめて、すすり泣くばかりだった。

 

                       *

 

   風が出た。ゆき子の枕許のローソクの灯が消えた。富岡は、よろめきながら、新しいローソクに灯を点じ、枕許へ置きに行った。面のように、表情のない死者の顔は、孤独に放り出された顔だったが、見るものが、淋しそうだと思ふだけのものだと、富岡は、ゆき子の額に手をあててみる。だが、すぐ、生き身でない死者の非情さが、富岡の手を払いのけた。富岡は、新しい手拭いも、ガーゼもなかったので、半紙の束を、屋根のように拡げて、ゆき子の顔へ被せた。

 

                       *

 

「花のいのちはみじかくて、苦しきことのみ多かりき」

日本名城めぐりの旅

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   日本の城は、古記録に残る城を含めると、その数3万余りあるともいわれる。慶長20年6月13日(陽暦1615年8月7日)、江戸幕府は一国一城令を布告した。数日のうちに約400の城が壊された。これによって安土桃山時代に3000近くもあった城郭が約170ほどに激減した。また、武家諸法度という法令によって、新築はもちろん櫓や石垣の改築にすら厳しい規制がかかり、城に手が入ることは少なくなった。

   城を地形で区分けすると、山城、水城、平山城、平城と区別される。現在、天守閣、櫓、城門、石垣などが揃っている城となると、数百にすぎない。城郭を中心に家臣団の屋敷と町家が集中し、城下町として発達し、明治以降は近代都市が形成された。

   世界遺産の姫路城の大天守保存修理が全て完了し、一般公開が始まった。あまりにも白すぎて綺麗に見えないというのが正直な感想。色が落ち着くまで数年はかかりそうだ。おもな名城を北からあげると、五稜郭、松前城、弘前城、盛岡城、仙台城、山形城、会津若松城、松本城、小諸城、岐阜城、犬山城、小谷城、安土城、彦根城、名古屋城、大坂城、明石城、赤穂城、岡山城、広島城、高松城、高知城、松山城、宇和島城、鳥取城、小倉城、熊本城、人吉城、鹿児島城、今帰仁城、中城城、首里城。いつか全国城めぐり旅をしたいものである。

 

 

三日天下

Img0e2fb17czik3zj     天正10年のこの日、明智光秀は山崎の戦いで敗れ、敗走中に小栗栖で落武者狩りの百姓・中村長兵衛により竹槍で刺殺される。光秀の短命政権から「三日天下」と呼ばれている。実際は本能寺の変から、殺害されるまで11日間あった。光秀は9日に細川氏あての手紙で「50日100日の間には近国を平定し、自分は隠退する」と書き、短期間で敗北するとは思っていなかった。(6月13日)

 

2023年6月12日 (月)

「り」 ファースト・ネームから引く人名一覧

53968  リチャード・ジョージ・ロジャースはイギリスの建築家。パリの「ポンピドゥー・センター」やロンドンの保険会社本社ビル「ロイズ・オブ・ロンドン」の設計が知られる。▽「リチャード・ヘンリー・トーニイ」1880-1962。イギリスの経済史家。▽「リリアン・ラッセル」1860-1922。19世紀末から20世紀初頭の米国ブロードウェイで活躍したオペレッタの女優。▽「リュ―リク」?ー879。ノルマン人のロシア建国者。伝承によれば862年に次兄シネウス、末弟トルヴォルと共にルーシーに入ってノブゴロド国を建国した。▽「リンダ・ラヴレース」1949-2002。米国のポルノ女優。70年代のセックスシンボル。「ディープ・スロート」。

リー・グラント
リー・J.コッブ
リー・トレビノ
リー・トンプソン
リー・ハーヴェイ・オズワルド
リー・バン・クリーフ
リー・マービン
リー・ミッシェル
リー・モーガン
リー・レミック
リーアム・ニースン
リーアム・ヘムズワース
リヴ・アーネセン
リヴ・ウルマン
リヴ・タイラー
リーヴ・シュライバー
リヴァー・フェニックス
リオネル・メッシ
リカルド・モンタルバン
リザベス・スコット
リシ・スナク
リシャール・ボーランジェ
リス・エヴァンズ
リース・ウィザースプーン
リタ・ヘイワース
リチャード1世(獅子心王)
リチャード2世
リチャード・アークライト
リチャード・アダムス
リチャード・アッテンボロー
リチャード・アーミテージ
リチャード・イヴリン・バード
リチャード・ウィスリー・ハミング
リチャード・ウィドマーク
リチャード・ウィルソン
リチャード・カーティス
リチャード・ギア
リチャード・クレイダーマン
リチャード・クレンナ
リチャード・クロムウェル
リチャード・コブデン
リチャード・コンテ
リチャード・ジェンキンズ
リチャード・ジョーダン・ガトリング
リチャード・ジョンソン
リチャード・ストーン
リチャード・チェンバレン
リチャード・ドナー
リチャード・ドレイファス
リチャード・トレヴィシック
リチャード・ニクソン
リチャード・バック
リチャード・バートン
リチャード・ハリス
リチャード・パワーズ
リチャード・プライヤー
リチャード・フランシス・バートン
リチャード・ブリンズリー・シェリダン
リチャード・ベースハート
リチャード・ベイマー
リチャード・ヘンリー・トーニイ
リチャード・ライト
リチャード・リーキー
リック・モラニス
リドリー・スコット
リナ・ホーン
リノ・バンチュラ
リーバイ・ストラウス
リヒャルト・シュトラウス
リヒャルト・ゾルゲ
リヒャルト・デーデキント
リリー・コリンズ
リリー・ソビエスキー
リュー・エアーズ
リュシアン・フェーヴル
リュシエンヌ・ドリール
リュシエンヌ・ボワイエ
リュック・ベッソン
リュドミラ・ウリツカヤ
リュドミラ・サベーリエワ
リュドミラ・サムソノワ
リュ―リク
リリー・パーマー
リリアン・ギッシュ
リリアン・ヘルマン
リリアン・ラッセル
リリウオカラニ
リロイ・ランシング・ジェーンズ
リンゴ・スター
リンジー・ローハン
リンジー・ワグナー
リンダ・ダーネル
リンダ・ハミルトン
リンダ・ブレア
リンダ・フィオレンティーノ
リンダ・ラヴレース
リンダ・ルイス
リンドール・ファウンズ・アーウィック
リンドン・ベインズ・ジョンソン

恋人の日

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    6月12日は「恋人の日」。ブラジルでは夫婦や恋人同士が贈り物をしあってお互いの気持ちを確かめあう。伊豆市土肥温泉に恋人岬には「愛の鐘」と呼ばれる鐘があり、この鐘を3回鳴らすと恋愛が成就すると言われている。年間23万人の観光客が訪れる。

エスペラントの日

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    世界の言語の数については、正確なことはよくわからないが、約6900くらいの言語があるといわれている。そこで、少し勉強しさえすれば、万国の人が理解できる言葉があるならどんなに便利だろうという発想が出てくるのも当然である。こうした考え方は古くからあり、17世紀ごろから多数の国際語の創造が企てられたが、どれも実用にはならなかった。このような中にあって、ポーランドの眼科医ラザロ・ルドヴィコ・ザメンホフ(1859-1917)によって1887年に考案された「エスペラント」(「希望をもつ者」という意味)は、今もその生命を保ち続けており、国際語としてただ一つのものであろう。ザメンホフは聖書や多くの文学作品をエスペラントに訳し、1905年には「エスペラント語の基礎」を出版して、その言語の構造の原理を示した。エスペラントの使用人口は確定されないが、母語話者200人から2000人、第二言語話者100万人から200万人と推定される。戦前は日本でもエスペラントを学習する人がいた。宮沢賢治の「イーハトーブ」(岩手をもじった理想郷を意味する造語)はエスペラント風の言葉であり、宮沢は世界の人に解ってもらえるようにエスペラント語を勉強しようとしていた。また安部公房の父・安部浅吉は満州で医業のかたわら「奉天エスペラント会」の中心人物として活動していた。しかし近年、エスペラント運動はあまりマスコミでも取り上げられることはない。欧米においてもエスペラント運動は停滞ないしは衰退しているそうだ。インターネットの普及でエスペラントの用途が増える可能性もあるのでエスペラントにこれからも注目していきたい。( keyword;Lazarus Ludwik Zamenhof,Esperanto ) 6月12日

2023年6月11日 (日)

傘の日

1372684272195191   きょうは「傘の日」。この日が雑節である入梅にあたることが由来になって、1989年に日本洋傘振興協議会によって制定された。雨傘の語は世界中いろいろである。英語はアンブレラ、ドイツ語はシルム、フランス語はパラブリュイ、イタリア語はオンブレッロ、スペイン語はパラグワス、ロシア語はゾーンチク、ギリシア語はオンブレラ、韓国語はウサン。

傘がモチーフに扱われる映画といえばフランスの「シェルブールの雨傘」(1964)。結婚を年誓い合った恋人同士。だが、男に送られてきた徴兵令状が、ふたりの人生を大きく変えてしまう。ミッシェル・ルグランの甘美で哀愁漂うメロディが、涙をさそう。もう一本は「雨に唄えば」(1952)ジーン・ケリーがどしゃぶりの雨の中、キャシーへの愛を歌い躍るシーンがミュージカル映画史上の名場面。元歌は古くトーキー初期の名作「ハリウッド・レヴュー」(1929)の中で評判になったナンバーで、クリフ・エドワーズがガラスで張ったフロアでウクレレをひきながらうたい、ブロックス・シスターズの合唱がそのあとを受け、また盛りあげにはレインコートを着たコーラス・ガールのラインダンスとなる。「私は雨の中で歌う。この素敵なフィーリング!私はまた幸せをとりもどし、雲に微笑をなげかける。暗い心の中にだって太陽が輝きはじめる。私は恋をしているのだ・・・・」。

 

   日本には「相合傘」という乙な言葉がある。雨の中を一つの傘をさして男と女が歩く。男は女が濡れないようにと女の方に傘を寄せて歩く。川柳に「相合傘 惚れてる方が 濡れている」とある。(6月11日)

 

2023年6月10日 (土)

原語不詳「パンパン」の一考察

Yorunoonna 第二次世界大戦により多くの国民は家族との死別を体験し、苦しい生活に投げ込まれた。食糧難やインフレは深刻で、人々は農村への買い出しや闇市でかろうじて飢えをしのがなければならない状況だった。しかし、生活は悲惨であっても、戦時中の巨大な国家とその戦争目的の重圧から解放されて、人々は自分と家族のために働いた。しかし女性にはまともな仕事や就職先はなく、あるのはひとつ娼婦になることだけが生きぬく道であった。松本清張の小説「ゼロの焦点」は戦後、混乱に苦しみながら売春行為をしていた女性(俗にパンパンと呼ばれた)が、数年後元警官と偶然に再会し、忌まわしい過去を知られたくないために殺人を犯す話である。

  昭和21年4月、NHKラジオで「街頭録音」の放送が始まる。終戦後、上野を「ノガミ」、池袋を「ブクロ」、有楽町を「ラクチョウ」といった。とくに有楽町のガード下は闇の女たち、いわゆるパンパンと呼ばれる売春婦がいた。1947年4月、NHKアナウンサーの藤倉修一(1914-2008)は小型マイクをコートの内側にしのばせて、潜入取材をしている。

女の子①「たばこもってない?」

藤倉 「こんなのでいいかな?よっぱらってるね」

女の子①「カストリ(粕取り焼酎)だよ。ピーナッツおごってよ」

藤倉 「はい10円」

女の子②「おじさん、いい男だね。あたしたちと親類だよ。有楽町で顔あわせればみんな親類」

女の子③「おじさん新聞社だろ。おれたち新聞社きらいなんだ。おとしまえとっちゃうぞ」

おねえさん(あねご) 「あたしは戦災でやかれて両親も兄弟もないけど中流以上の子が多いわよ」

    NHK街頭録音「青少年の不良化をどう防ぐか、カード下の娘たち」は、全国に大反響を巻き起こした。手紙やカンパがNHKに寄せられた。しかし「ラクチョウのお時」は放送の翌日姿を消した。

  戦後、戦争未亡人は187万人。中には生活に困り、街頭に立つ道を選んだ戦争未亡人もいた。闇の女は男子大量戦死の結果、将来に希望を見出すことが出来ない社会への無言の抗議でもあった。菊地章子が歌う「星の流れに」の「荒む心でいるのじゃないが、なけて涙も涸れ果てた、こんな女に誰がした」に切実さがよく表現されている。

   「パンパン」とは、一般的には「占領軍兵士を相手にする娼婦」と解される。パンパンのスタイルはアメリカ軍から放出された布地によるタイトスカートをはき、ネッカチーフを身につけ、オキシフルで髪を茶色に染め、爪を赤く塗り、「ラッキーストライク」「キャラメル」を吸う。「パンパン」の語源については定説はない。現代用語の基礎知識の創刊号(昭和23年版)に次のようにある。

「終戦後の流行語だが、海軍復員者はみんな戦争中から使っていた。

語源1.軍港に碇泊し上陸許可が出て早速慰安街に駆けつけるが、もうあたりは寝しずまっている。こら起きろ、と表戸をパンパンと叩いて女を起こした。その戸を叩く音から出たという。

語源2.仏印のある街で、食料不足から物乞いが氾濫していた。上陸した日本兵を見ると、若い女たちが手をさしのべて「パン、パン」と哀願した。パンは彼女等にとっては麺麭であった。ちょうど終戦後の日本娘も、パンのためにこれと全く同じような哀願を米兵に示したのと同様である。転じて米人や中国人にゴマをすってボロ儲けする男をパンパンボーイなどという」   いずれにしても、戦争中からの軍隊用語で海軍の兵隊が使っていた卑語らしい。マレー沖海戦で撃沈したイギリスの戦艦プリンス・オブ・ウェールズには40mm8連装のポムポム砲を搭載していた。このポムポム砲はピストン運動をすることから、ポムポムが売春婦を意味する卑語となり、パンパンに転化したという新説もある。

   「広辞苑 第3版」では「(原語不詳)第二次大戦後の日本で、街娼・売春婦のことを指した」とあるが、新しくでた第6版では「第二次大戦後の日本で、主に進駐軍を相手とした街娼・売春婦のことを指した」と修正している。(修正はすでに第4版か第5版でなされたのかもしれない)

   「第二次大戦後」とあるが、実際は戦時中から軍人が使用していた言葉であることは当時の人の証言から明らかである。また、米軍あるいは進駐軍を相手に特定した言葉ではなく、日本軍人がアジアの女性に対しての呼称であるので、広辞苑の修正は改悪といわざるを得ない。パンパンという言葉は日帝アジア侵略の加害者であった証拠であり、それを被害者としての面のみを強調することは、辞書の編集者としての見識が問われることになるであろう。

 

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義和団事件

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    1900年6月10日、英海軍中将エドワード・シーモアの率いる8ヵ国連合軍が、天津から北京へ侵攻した。前日、英公使クロード・マクドナルド(1852-1915)の援助を求める電報が届いたためである。6月11日には清国軍の董福祥配下の兵士が北京の日本人大使館員・杉山彬を殺害した。これに対し、清の西大后は義和団を公認し、6月20日、20万人の義和団が北京に入城し列国の公使館などを焼き打ちし列強に宣戦布告する。8月14日、義和団は鎮圧され、西大后は西安に逃れることになる。

  義和団とは清代の白蓮教系の秘密結社。義和拳教徒が組織した自衛団。日清戦争後、キリスト教および列国の中国侵略に反抗、山東省で蜂起。8ヵ国とは、日・英・米・露・独・仏・伊・墺である。事件後、清朝に4億5000万両の賠償金を支払わせた。 Edward Seymour

義和団 中国とヨーロッパ 中国近現代史双書1 G.N.スタイガー著 藤岡喜久男訳 桃源社 1967
義和団事件 小田嶽夫 新潮社 1969
義和団民話集 中国の口承文芸1 東洋文庫 牧田英二、加藤千代編訳 平凡社 1973
義和団の研究 村松祐次 巌南堂 1976
義和団と明治国家 小林一美 汲古書院 1986
義和団 光風社選書 G,N.スタイガー 光風社出版 1990

能登金剛と東尋坊

650togihukuurahoppozekkei7   ラストにおいて主人公と犯人が崖上で相対する演出はサスペンスドラマの定番である。これは映画「ゼロの焦点」(1961)が原型といわれる。映画のロケ地は、よく福井の東尋坊と勘違いされるが、能登金剛のヤセの断崖である。松本清張の小説には崖上で相対する場面はなく、ヤセの断崖を特定する描写もない。志賀町の赤住という地名が出て来るが、実際の赤住は平坦な地形で断崖はない。清張は断崖のある「赤崎」と勘違いをしたのかもしれない。とにかく能登半島や福井の東尋坊は戦後の一時期、自殺の名所になった。

 

 

ポルトガルの日

 ポルトガルの国花は何か知っていますか?ラベンダーです。よい香りのする花として有名で、香水に用いられます。ラベンダーという名前が、もともとラテン語の「洗う」という意味からきており、香水として使われたことを示しています。本日はポルトガルの日。ポルトガルの大詩人ルイス・ヴァス・デ・カモンイスが亡くなった日(1580年)に由来する。ポルトガルのリスボンにあるベレンの塔は、マヌエル1世によってヴァスコ・ダ・ガマの偉業を記念して作られたテージョ川の船の出入りを監視する目的の要塞である。1515年着工、1521年完成。リスボン最西端のロカ岬にはカモンイスの詩「ここに地終わり海始まる」を刻んだ石碑が建っている。17生気、スペインの支配に対する反発が高まり、1640年ブラガンサ公が蜂起して新王朝を名乗り、オランダ、フランス、イギリスの援助を得て、1668年スペインに再独立を認めさせた。(6月10日)

 

 

 

 

 

時の記念日

June02_m10     天智天皇10年4月25日に、「漏刻を新しき台に置く。始めて候時を打つ。鐘鼓を動す」(日本書紀)とある。漏刻とは水時計のこと。大正10年に「時展覧会」が開催されたとき、その故事からその日を太陽暦(グレゴリオ暦)に直して、6月10日を「時の記念日」と制定した。

    ところで、なぜ時計は12時までなのか?古代エジプト人がシリウスが日の出直前に出現するころなると、ナイル川が氾濫し、農業や生活に重大な影響を与えるところから、その結果1年が365日であることを知り、1日を昼間と夜間の12等分にした。

「時計」という言葉は世界各国でまちまちで共通点が見当たらない。(6月10日)

英語 clock  クロック

ドイツ語 Uhr ウーア

フランス語 pendule パンデュール

イタリア語 orologio  オロロージョ

スペイン語 reloj   レロー

ギリシア語  ホーロロギオン

ロシア語  スチイー

スウェーデン語 klocka  クロッカ

フィンランド語 kello  ケッロ

タイ語 ナリカー

韓国語 シゲ

 

  機械式時計が最初に作られたのは、996年頃のことで、後にローマ教皇シルウェステル2世となるオーリャツクのジェルベール(950-1003)がドイツのマグデブルクの教会に作ったといわれている。ちなみに腕時計の発明は、1810年、スイスの時計師アブランアン・ルイ・ブレゲ(1747-1823)がナポリ王妃から依頼を受けてブレスレット用の腕時計を考案・製作した。

 

 

2023年6月 9日 (金)

ネロは暴君ではなかった(異説世界史)

Nero_mus_munchen    ネロ・クラウディウス・カエサル(37-68、在位54-68)。アヘノバルブス家の出身で、本名ルキウス・ドミチウス・アヘノバルブス。彼の父グナイウス・ドミチウス・アヘノバルブスは40歳ぐらいで死去し、彼の母で、アウグスツスの曾孫の小アグリッピナは、49年に彼女のおじにあたる皇帝クラウディウス1世の皇妃となった。クラウディウスと彼の前妃メッサリアの子ブリタニクスは、ネロよりも三歳しか年少ではなかったが、アグリッピナはクラウディウスを説得して50年2月25日、ネロを養子にさせた。その後、ネロとブリタニクスの姉オクタウィアを結婚させ、さらにまたさまざまな栄誉を与えて、ネロをクラウディウスの後継者に仕立てた。54年クラウディウス1世は急死したが、アグリッピナによって毒殺されたものらしい。アグリッピナはただちに近衛軍の支持を取付けて、ネロをローマ皇帝と宣言させた。ここに初めて、帝権がまだ17歳に満たない一少年に付与されることになったのである。

   ネロは、ストア派哲学者セネカを家庭教師としてギリシア的教養を身につけたローマ人であり、ギリシア旅行をしたり、詩を作ったり、演劇に興じたり、竪琴をひいて音楽に興じることを好んだ。ネロは後世に脚色されて暴君の典型とされるが、実際は賢明で寛大な政治を行なった。後年に、政治に口を挟もうとする母親のアグリッピナを暗殺して以後、現実社会を嫌悪するようになった。64年になると、ネロは過密となったローマに放火させ、焦土と化したローマを理想的な都市として再生しようとした。火事は蜜集したローマの半分を焼き尽くし、ネロは莫大な費用を費やしてローマを再建した。しかし、のちに放火の事実がばれそうになると、ネロの側近はキリスト教徒に放火の罪を押し付け、多くの信者をとらえられて公開火刑に処した。これが、ローマ帝国における最初のキリスト教徒迫害事件である。孤立したネロは、翌年政府転覆事件を口実に師のセネカにも自殺を強要し、強権政治を強めた。しかし、横暴な支配のためにネロは、元老院、近衛兵からも見放され、68年6月9日、ローマから脱出して自殺した。彼は元老院と軍隊には人気がなかったが、構成に語られるほど暴君ではなく、支持者がいなかつたわけではなく、数年後まで彼の墓前には花が絶えなかった。ここに暴君ネロの支配は終わり、ユリウス・クラウディウス朝は断絶した。(参考:宮崎正勝「世界史の海へ」小学館) Nero,Augustus

排蘆小船(「ア」事項索引)

Alticamelus[  あ  ]

 石川さゆりの「あぁ・・・あんた川」はカラオケのインデックスで一番最初にでてくるのをねらって曲名をつけたようだ。▽俳優の斎藤工はレンタルビデオ屋で、映画のタイトルの「あ」から順番に借りて見ていった。1925年のフランス映画「ああ無情」(アンリ・フェスクール監督)が最初の一本か。▽「アイルロポダ・メラノレウカ」とは何か。上野動物園でもお馴染みのジャイアント・パンダの学名である。この世の中、すべての知的活動は人種・民族を問わず全て言葉と文字で成り立っている。そこで先ず「ア」で始まる語句・用語、主要な人名・地名を徹底的に探しまくる事項索引インデックス。

「アーイラ」アラビア語で「家族」や「共同体」を意味する。▽「アーウー」1978年11月に大平正芳が首相になった。牛のようにもっさりした風体に、「アー」とか、「ウー」とやたら間延びした口調で演説したことから、この年の流行語になった。▽「アーケアンサス」白亜紀に生息した被子植物の一種。学名は「最初の花」を意味しており、花はモクレンに似ている。▽「アーティゾン美術館」東京・京橋にある日本・西洋美術を絵画を中心に幅広く収集している。旧・ブリヂストン美術館。▽「噫呼無情」ヴィクトル・ユーゴーの「レ・ミゼラブル」黒岩涙香訳。▽「アーガイル」菱形格子柄(の靴下)。▽「アアフメス」前16世紀中頃のエジプトの書記官。▽「アーホテッブ」エジプトの女王。?‐紀元前1546)。▽「アイオナ修道院」563年に聖コルンバがアイオナ島に創建した中世ケルト教会の修道院。▽「アイダ」小惑星ディディモスを周回する小さな衛星ディディムーンの小惑星に宇宙船を衝突させて、その軌道を変更することができるのか。このミッションをNASAはアイダ(AIDA)と呼んでいる。Asteroid Impact & Deflection Assessmentの略称。▽「アイゼナハ」ドイツ中部の年。1869年ドイツ社会民主労働者党(アイゼナハ党)を結成した地。作曲家バッハの生地。▽「アイソザイム」同一個体内で、同一の触媒反応を行うが、化学構造が異なる酵素の総称。イソ酵素。▽「壒嚢鈔(あいのうしょう)」室町時代に編纂された辞典。▽「アイメリア」Eimeria脊椎動物の消化管上皮細胞に寄生する原生動物。▽「アイバク」インドの奴隷王朝初代のスルタン。在位1206年ー1204年。▽「アイルランガ王」11世紀インドネシア、ジャワ島に繁栄してクディリ王国の君主。▽「アインハルト」カール大帝の秘書。710-840。その著「カール大帝伝」は中世伝記文学として価値がある。▽「アウスピキウム(鳥占)」ローマの政務官や将軍は、民会の開催や戦闘の開始といった公的な活動を行なうとき、それらが神々の意にかなうか否か占いで確かめた。占いには鳥がよく用いられたので、この占いをアウスビキウム、アウグル(鳥占官)という。▽「アウタルキー」経済的自給自足。国民経済の自立を目指して、原料の自給化、外国依存の廃止をはかる政策。Autarkieは1930年代のドイツでブロック経済の意味で使われたが、もとはギリシャ語の「自給」の意。▽「アウディエンシア」audiencia スペイン・カスティーリャ王にあった高等司法裁判所。▽「アウト・デ・フェ」中世スペインの異端判決宣告式。15世紀末から16世紀はじめ、スペインの宗教裁判はその残酷さで悪名高かった。アウト・デ・フェ(auto de fe)とは「信仰の成せるわざ」を意味する。▽「アウフヘーベン」Aufheben(独語)「止揚」などと訳されているが、普通はただ「やめる」という意味。ヘーゲルが弁証法的発展を示す特殊なことばとして使用した。▽「阿吽の呼吸」二人以上で何かをするときに、おたがいの微妙な調子や気持ちがぴったりと合っているいること。「あうん」とは古代インド語で、「阿」は吐く息、「吽」は吸う息を意味する。▽「青いバナナ」ブルーバナナ。イギリス南部からドイツ西部とフランス東部を経て北イタリアにいたる地域で、特に経済的、人口的に発展しているバナナ型の地帯のこと。▽「アオザイ」ベトナムの女性用民族衣装。「アオ」とは「上着」、「ザイ」とは「長い」を意味する。▽「赤潮」プランクトンが大量に発生することによって、海水の色が変わる現象。▽「アカンソル」鉤頭虫類。口と消化管のない腸寄生虫。中間宿主中に二つの異なった幼生形がある(アカンソル=鉤幼虫からアカンテラとなる)。最終宿主は脊椎動物。▽「飽咋之宇斯能神」伊耶那岐神が禊を祓い、投げ捨てた冠から生れた神。▽「木通」アケビ科の蔓性落葉低木。4月頃淡紅紫色の花をつける。果実は長楕円形で、果皮は紫色を帯び、果肉とともに食用、木部は薬用となる。▽平凡社の世界大百科事典33(1972年版)の総索引を見ると、「ア」は「阿」「ああ革命は近づけり」「ああ玉杯に花うけて」「ああそはかの人か」「嗚呼忠臣楠之墓」の順に項目が並んでいる。▽「アア溶岩」玄武岩質溶岩の表面がガサガサで棘々しい状態になったもの。「アア」はハワイ語。▽「商場知行制度(あきないばちぎょうせいど)」江戸時代、松前藩が蝦夷地の一定の区域(商場)におけるアイヌの人々との交易圏を家臣に知行として与えた制度のこと。▽「アビダルマ」仏教の教説の解釈・注釈書。▽「阿毘曇心論」東晋の慧遠の漢訳。▽「アエピカメルス」(画像)中新世後期から鮮新世後期にかけての約2000万年前~200万年前に生息していたラクダ科の一種。背が高く、木の高い部分の葉を食べた。▽「アキテーヌ盆地」フランス南西部にあるアキテーヌ地方は大西洋に面した温暖な気候でボルドーワインの産地ボルドーがある。▽「阿闍世コンプレックス」阿闍世とは、サンスクリット語で「アジャータシャトル」といい、未生怨すなわち出生以前に母親に抱く怨みの事を意味する。▽「排蘆小船」あしわけをぶね。本居宣長の歌論書。▽「アシュヴァゴーシャ」古代インドの仏教僧侶。後80年頃~後150年頃。馬鳴。

275pxaskia   「アスキア墳墓」マリ共和国ガオ地方にあるソンガイ王国盛時のアスキア・ムハマンド1世の墓。▽「アストラハン・ハン国」15世紀から16世紀ヴォルガ川下流域、カスピ海北岸にあったトルコ系アストラハン・タタール族の国家。1556年ロシアのイヴァン雷帝に滅ぼされる。▽「ああ言えば上祐」オウム真理教上祐史浩は学生時代の英語のディベートで鍛えただけあって、立て板に水のごとく喋りまくった。この詭弁について、日刊ゲンダイの二木啓孝が命名したことばで、一言いうと倍以上の言葉が返ってくるという意味に使われた。1995年の流行語。▽「アイギストス」ギリシャ神話に登場する英雄。▽「阿弖流為(あてるい)」奈良末期・平安前期の蝦夷の族長。802年4月に降伏し、同年8月河内国杜山で斬刑に処せられる。▽「アルティメット」フリスビーを用いた競技の一種。▽「アイコン」書類やフォルダーに相当するプログラムを、その内容を象徴したデザインの絵文字で表したもの。▽「アイ・ハノン」Ai khanon アフガニスタン北部クンドゥズ東北方、アム川とコクチャ川の合流点に発見されたギリシャ文化の遺跡。▽「アシガバート」トルクメニスタンの首都。▽「アスクレーピオス」ギリシャ神話に登場する名医。▽「アステカ」1428年頃から1521年までの約95年間メキシコ中央部に栄えたメソアメリカ文明の国家。▽「アタラクシア(Ataraxie)」心の平静不動なる状態のこと。▽「穴熊」将棋用語で、香車の位置に王将が入り、金将・銀将で守りを固めるもの。▽「アポトーシス」細胞の自然死。▽「アルハンガイ」モンゴルの行政区(県)。逸ノ城の出身地。▽「アヌンチャタ」アンデルセンの即興詩人に登場するオペラ歌手。▽「アエノコト」石川県奥能登で古くから行なわれている新嘗の祭礼。▽「アンチョビーanchovy」いわし類の小魚。▽「アベノミクス」安倍晋三政権の経済政策。地域格差が拡大。▽「アサバスカ湖」カナダのほぼ中央に位置し、国内8番目に大きい湖。▽「藍大島」藍染めの大島紬。大島紬は鹿児島県奄美大島で生産される高級の紬で、泥染めが特徴である。▽「アステロイド ベルト」太陽系の中で火星と木星の間にある小惑星の軌道が集中している領域のこと。▽「アダダ」1987年の韓国映画。過酷な運命を生きる聾唖の美しい少女アダダの半生。シン・イエソ(申惠秀)主演。▽「アタナシウス派」323年二カイア宗教会議の正統派教父。その教理は三位一体説とロゴス・キリスト論にある。▽「アタワルパ」インカ帝国の実質的な最後の皇帝。▽「アチェ」インドネシア・スマトラ島。16~17世紀の貿易拠点として栄えた。▽「アミ族」台湾原住民のなかで一番多く14万8992人の人口規模を持つ民族集団。▽7「アメイジア」約2億5000万年後までに地球に出現すると考えられている超大陸。▽「阿里山」台湾嘉義県。▽「アルデバラン」おうし座で最も明るい恒星で、占星術では、富と幸福の前兆となる幸運の星といわれる。▽「アレンの法則」寒い地方にすむ動物は、暖かい地方に住むものに比べて、耳、鼻面、尾などの突出した部分が小さくなる傾向にある。▽「アンチョビー」片口イワシをオリーヴオイルで漬けたもの。▽「アバロウニ」 abalone アワビ。▽「アスターポヴォ」ロシアの文豪トルストイが没した駅名。▽「アイオワ州」アメリカ合衆国中西部に位置する「アメリカのハートランド(中心地)」と呼ばれる州。▽「アラリスク」カザフスタン共和国。かつてはアラル海の北端の漁港で栄えた港町。▽「アレシアの戦い」紀元前52年、カエサル率いるローマ軍がアレシアの戦いでアルウェルニ族のウェルキンゲトクス率いるガリア人に勝利する。▽「合せ砥」あわせど。刀剣・剃刀などを研ぐ時、仕上げに用いる砥石。▽「アングリラ・ジャポニカ」二ホンウナギの学名。Angurila japonica。▽「アンゴラ兎」トルコのアンゴラ地方産の兎のことで、純白の長い毛を持ち、高級毛織物の原料となるので、飼育が流行したが、たくさん飼い過ぎて失敗する者が多かった。▽「安楽庵策伝」江戸前期の僧・咄家。

 

あ (大槻あかね著、こどものとも絵本)
あああああ(石崎虚空の詩集)
アアア・ア・ア(松島節の小説)
あああ あああ ああ渚のシンドバット(ピンク・レディー)
あ~あぁ やんなっちゃった(牧伸二)
ああ青森(平川幸夫の歌謡曲)
あぁ・・・あんた川(石川さゆりの歌謡曲)
嗚呼硫黄島(安藤富治著)
ああいう(「あのような」の意)
ああ言えば上祐
亜愛一郎の転倒(泡坂妻夫の小説)
あゝ!一軒家プロレス(2004年の久保直樹監督の映画)
アイルロポダ・メラノレウカ
アーイラ
アーウー
アーヴィング,ジョン(「ガープの世界」の小説家)
アーヴィング,ワシントン(「スケッチ・ブック」の作家)
ああ上野駅(井沢八郎の歌謡曲)
嗟内田喜作中尉(須永弘編著)
アアウセルラ・アペピ(古代エジプト王)
嗚呼、おんなたち猥歌(神代辰巳監督の映画)
アーカイブ(公文書館)
アーガイル
アーガイル・ローバトソン瞳孔
ああ革命は近づけり(築比地仲助の作詞「革命歌」)
アーカディン(オーソン・ウェルズの映画)
アーカンソー(アメリカの州)
アーキオプタリスク(始祖鳥)
アーキテクチャー(建築物)
アーキペラゴ(多島海)
アーキペンコ,アレクサンダー(彫刻家)
嗚呼玉杯に花うけて(佐藤紅緑)
アークェット,パトリシア(女優)
アークェット,ロザンナ(女優)
アーク燈
アークライト,リチャード(発明家)
アーケアンサス(古代の花)
アーケイド
アーケオテクトニクス時代
アーケオプテリスク(始祖鳥)
ああ結婚(ヴィットリオ・デシーカ監督の映画)
アーケロン
アーサー王物語
ああしやごしや
ああ人生に涙あり(ドラマ「水戸黄門」主題歌)
アース
アアソウカイ(キョウチクトウ科の多肉植物)
ああそはかの人か(歌劇「椿姫」のアリア)
アーチ
アーチヴォルト(建築開口部の拱部)
アーチェリー
アーチスト
嗚呼忠臣楠子之墓(湊川神社)
アーツ・アンド・クラフツ運動
アーティ・チョーク
アーティゾン美術館
アードウルフ
アートタイプ
アードバーク(ツチブタ)
アートマン
アーニー・パイル
あーのねおっさん(高勢実乗)
アーノルド,マシュー(歴史家)
アーパネット(1969年)
アーバン
アーバン・インスティテュート(民間の政策研究機関)
アーバン・クライシス
アアフメス(古代の数学者)
アーベーセー(a.b.c.)
アーベルカンブ,ヘンドリック
アーヘン(ドイツの都市)
アーヘン大聖堂
アーヘンの和約(1748年)
アーホテップ
アーマダバード(インドの都市)
ああ みずいろの雨(八神純子の歌謡曲)
アーミッシュ
噫無情(ユゴー作「レ・ミゼラブル」、黒岩涙香訳)
アーメン
アーモンド
アアヤバータ(インドの数学者)
ああ、大和にしあらましかば(薄田泣菫)
アーユルヴェーダ・ススルタ大医典
アア溶岩
アアラ島
アーリア語系言語
アーリア人
アーリマン(ゾロアスター教の悪神)
アール・グレイ
アール・ヌーヴォー
アアルスメール(オランダの都市)
アールデマ,ヴェルナ
ああ 私の恋は(松田聖子「青い珊瑚礁」)
ああ、私の幽霊さま(2015年韓国ドラマ、パク・ボヨン主演)
アーンドラ王朝
安威(あい) 茨木市の地名
AI(あい) 女性ミュージシャン
アイ(能)
アイアイ(マダガスカル島にすむ夜行性のサル)
相合傘
アイアトン,ヘンリー(清教徒革命期の軍人)
アイアム野田(タレント、鬼ヶ島)
アイアン(ゴルフのクラブ)
アイアンクロス(ベゴニア)
アイアンズ,ジェレミー(俳優)
アイアンノブ(オーストラリアの鉱山町)
アイアンロー
阿育王
愛育会
愛上男(あいうえお)
愛内里菜(ミュージシャン)
アイヴァンホー(スコットの小説)
アイウン(西サハラ)
アイエコール(抗悪性腫瘍薬)
アイエルツ
合縁奇縁(あいえんきえん)
秋穂(あいお)
相生(あいおい)
相生ペーロン祭
愛多き者は則ち法立たず(韓非子)
藍大島(あいおおしま)
アイオナ修道院
アイオリス人
アイオワ州
アイオン台風
アイオン島(ロシア・チュクチ半島)
アイガー(スイス)
アイガー・サンクション(トレヴェアンの小説)
合鍵
アイカメラ
アイカラー
相川恵里(歌手)
愛川欣也(俳優)
アイギストス
合気術
アイギナ島(ギリシャ)
アイキャッチャー
IQ アイ・キュー(知能指数)
間狂言(あいきょうげん)
アイク兄弟(画家)
匕首伝説(ドイツ)
愛琿条約
aiko(ミュージシャン)
愛国社(板垣退助)
愛国心(パトリティズム)
アイゴスポタモイの海戦(前405年)
合言葉
アイコニクス
アイコノスコープ(撮像管)
アイコン
アイコンタクト
挨拶
アイザックス症候群
相沢事件(相沢三郎)
相沢忠洋
艾山(あいざん) 中国山東省
愛して愛して愛しちゃったのよ(田代美代子&和田弘とマヒナ・スターズ)
アイシャドー
哀愁(映画)
愛傷歌(森昌子)
阿井渉介(小説家)
アイ・ジョージ(歌手)
アイソレーショニズム(国内問題優先主義)
愛新覚羅溥儀
アイシンギョロ
アイシング
アイシングルム(後金)
相生千恵子(女優)
相生由太郎(実業家)
相川佳予子(服飾研究家)
相川梨絵(アナウンサー)
相川七瀬(ミュージシャン)
あいざき進也
相沢事件
会沢正志斎
会津小鉄
アイズシモツケ(樹木)
会津塗
会津磐梯山は宝の山よ(会津盆踊唄)
会津八一
会津屋八右衛門
アイシンギョロ(愛新覚羅)
愛洲移香斎
アイスキューブ
アイスキュロス
アイスクリーム
アイスランド
愛すれど心さびしく(映画)
アイゼナハ(ドイツ)
アイセル湖(オランダ)
愛染かつら(映画)
アイゼンカンツラー(鉄血宰相)
アイゼンハウアー,ドワイト
愛染明王
アイゼンメンゲル症候群
アイソザイム
アイソポス
アイソレイト・フォーカス
アイソン彗星
アイソスタシー
アイソトープ(同位元素)
愛想もこそも尽き果てる
藍染め
アイダ(AIDA)
アイーダ
相対死(あいたいじに)
相対済し令
開いた口へ牡丹餅
愛他主義(道徳の基礎は愛にあるとする説)
アイダホ州
愛知県
愛知大学
愛知万博
愛知用水
愛着慈悲心(あいぢゃくじひしん)
アイディア
愛弟通信
アイテム(品目)
アイデンティティ(自我同一性)
愛別離苦(あいべつりく)
愛と死(武者小路実篤の小説)
愛と死をみつめて(映画)
愛と追憶の日々(映画)
愛と認識との出発
アイドマの法則
アイドル(Idol 偶像)
アイナメ(魚)
アイネアス
アイネ・クライネ・ナハトムジーク(モーツァルト作曲)
アイネシモデス
愛のあいさつ(エドワード・エルガー作曲)
愛の一家(ザッパーの小説)
壒嚢鈔(あいのうしょう)
愛の学校(アミーチス「クオレ」)
愛の詩集(室井犀星の詩集)
間(あい)ノ岳(山梨県・静岡県)
相ノ谷古墳群
アイバク,クトゥブッディーン
アイパグゴル川(艾不蓋河) 中国内蒙古自治区
アイ・ハノン
アイバンク
アイビー(韓国のミュージシャン)
アイビー・グリーン(ヘレン・ケラーの生家)
ips細胞
逢びき(デビッド・リーンの映画)
アイヒマン
アイフェル丘陵(ドイツの地名)
相武紗季(女優)
アイベックス
相棒(水谷豊主演のドラマ)
アイヌ
アイヌキンオサムシ
アイネアス
曖昧模糊(あいまいもこ)
靉光(あいみつ)
藍美代子(歌手)
アイメリア
あいや節
アイユーブ朝
愛欲之海(あいよくのうみ)
姶良市
姶良カルデラ(鹿児島県)
アイリス
アイリッシュ・ウイスキー
アイリッシュ海(イギリス)
アイル(蒙古語で村)
アイルランガ王
アイルランド
アイルワースのモナリザ
アイレ可愛や(笠置シヅ子)
アイロニー
アイロン
アイワゾーフスキー,イワン
アイン・ジャールートの戦い
アインシュタイン,アルベール(物理学者)
アイントホーフェンの法則
アインハルト
アヴァターラ
アヴァール人
アヴァンギャルド
アヴィケンナ(哲学者)
アヴィニョン捕囚
アヴェスタ(ゾロアスター教の経典)
アヴェロエス(哲学者)
アヴェロンの野生児
アヴォガドロ,アメディオ(物理学者)
奥義抄(あうぎせう)
アウグスティヌス(神学者)
アウグストゥス(ローマ皇帝)
アウグスブルク(ドイツ)
アウグスブルクの和議
鶯宿梅(あうしゅくばい)
アウシュヴィッツ・ビルケナウ強制収容所
アウステルリッツの戦い
アウストラシア
アウストラル諸島
アウストラロピテクス・アファレンシス
アウスピキウム(鳥占)
アウタルキー(自給自足経済)
アウディエンシア
アウトゴルぺ
アウトサイダー
アウト・デ・フェ
アウトバーン
アウトリーチ・サービス
会うは別れの始め
アウフヘーベン
アウランゼーブ
アヴリル,ジャンヌ
阿吽の呼吸
アウンサンスーチー
阿英
アエタ族(フィリピンに住む部族)
アエティウス
あえて寸を進まずして尺を退く(老子)
アエノコト
アエピカメルス
アエミリアヌス(小スキピオ) カルタゴの破壊者
和(あ)え物
アエリア・カピトリナ
亜鉛
青い山脈(石坂洋次郎の小説)
蒼い時(山口百恵)
青い鳥(メーテルリンクの戯曲)
青いバナナ
青色申告書
アオカビ
青木ヶ原樹海
青木昆陽
青木湖(長野県)
青木繁
青木周蔵
青木文蔵
アオザイ
青島海岸(宮崎県)
青写真
アオテアロア序曲
青野季吉
青田買い
敖漢旗(アオハンチ―)
青髭
アオミドロ
青森県
青山京子
青山孝
あおり運転
亜音層
赤穴宗右衛門(「雨月物語」菊花の約)
アカイア人
赤い靴(アンデルセンの童話)
赤いハンカチ(石原裕次郎の歌謡曲)
赤紙召集
アカシアの雨がやむとき(西田佐知子の歌謡曲)
赤いスイートピー(松田聖子の歌謡曲)
赤木圭一郎
赤城山
赤く咲くのはけしの花(藤圭子)
赤毛のアン
赤潮
明石海峡大橋
明石覚一
明石原人
明石縮(ちぢみ)
明石家さんま
赤染衛門
赤線
県召除目
アカディール事件
アカデミー賞
アカデミー・フランセーズ
赤銅鈴之助
赤根武人(奇兵隊初代総督)
赤の広場
赤旗
アカバ(ヨルダン)
赤羽(東京都北区の地名)
赤福
赤船
赤堀又次郎
ア・カペラ
アガメムノン
アガラス岬
阿川弘之
明るい表通りで
阿寒湖
アカンソル
亜漢文
アギオスデメトリオス教会(アテネ)
飽咋之宇斯能神(あきぐひのうしのかみ)
穐田定樹
秋田城
秋月の乱
秋津嶋物語
秋でもないのに(本田路津子の歌謡曲)
商場知行制度(あきないばちぎょうせいど)
アギナルド
アキノ,コラソン
アキノ,ベニグノ
アキュラス訳
秋吉台
アキレウス
アキレス腱
アキンボー
アクィナス、トマス
アクセス権
アクセント
阿骨打(アクダ)
芥川賞
芥川龍之介
悪太郎の一生(ジョン・バニヤン)
アクチュエータ
悪徳商法
アクバル(ムガール帝国の皇帝)
握斧
アグネス論争
悪魔の詩
アクラ(ガーナの首都)
アグラ(インドの都市)
胡坐
アグリッパ
アグリッピナ
アクリルアミド
アグレマン
アグロバクテリウム
アクロバット
アクロポリス
アクワム王国
アグン火山(インドネシア)
明智光秀
アゲハ蝶(ポルノグラフィティ)
アケビ
上げ米の制
あげまん
アケメネス朝
朱樂菅江(あけらかんこう)
アゲラタム
アコイメタイ派
赤穂義士
吾郷寅之進
アゴラ
アコンカグア山
阿含経

浅井長政
麻丘めぐみ
朝丘雪路
浅丘ルリ子
あさ香社
アサギマダラ
浅草
朝倉義景
アサド
字(あざな)
浅沼稲次郎
浅間山
浅野長矩
アサバスカ湖
旭川
朝日新聞
朝日訴訟
Asahidainipponbeer_1937 アサヒビール
朝熊ヶ岳(あさまがたけ)
アサリ
アザレア
アサンソール(インド)
アジア
あじあ号
アジア的生産様式
アシアナ航空(韓国の航空会社)
アジア・モンロー主義(1932年)
足洗(千葉県旭市の地名)
足尾銅山
足利尊氏
足利義政
足利義満
アシガバート
芦川いづみ
アジサイ
アジスアベバ(エチオピア)
足摺岬 
芦田式七変化
芦田伸介
朝(あした)に道を聞かば、夕(ゆうべ)に死すとも可なり
あしたのジョー(ちばてつやの漫画)
芦田均
芦ノ湖
アージービカ派
アシモフ,アイザック
排蘆小船
芦屋
阿闍世コンプレックス
アジャニー,イザベル(女優)
アジャパー
アジャンクールの戦い(1415年)
アジャンター窟院
アシュヴァゴーシャ
アシュケナジム
アシュモレアン博物館
アジュール文化
アショカ王
飛鳥時代
アスクレーピオス
アスクレピオン遺跡
アスコット競馬場
アスコルビン酸
アスタキサンチン
アスターナ
アスター図書館
アスターポヴォ
アスタリスク
アステカ文化
アステロイド ベルト(小惑星帯)
アストラハン・ハン国
明日に向かって撃て
アスパラガス
アスファルト
アスフォデリネ
アスペルガー症候群
東歌
吾妻鏡
アスワン・ダム
アスワン・ハイ・ダム
アスンシオン(パラグアイの首都)
校倉造
アゼス貨幣(古代ギリシャの貨幣)
アセチルグルコサミン
アセチレンガス
アセンション島
アゼルバイジャン
アセロラ
阿蘇一揆(1877年)
阿蘇山
麻生太郎
アゾフ海
アゾレス海
アタカマ砂漠(チリ)
愛宕山事件(1945年)
アダダ
アタックNo.1(浦野千賀子の漫画)
アタマジラミ
アタナシウス派
アタナヒルド
アダム(旧約聖書世で最初の人)
アダムズ・オニス条約
アダムとイヴの遺産
アタラクシア
新しい女(青鞜)
新しい貧困
あたりき車力車引き
あたり前田のクラッカー(藤田まこと)
アタワルパ
アチェ
アチェー戦争
阿直岐(あちき)
アチソンライン
あちゃら漬
アッカド
アッケルマン条約(1826年)
アッコン
暑さ寒さも彼岸まで
アッサム
アッシジ(イタリア)
あっしにはかかわりのねぇことで(木枯し紋次郎)
アッシャー家の末裔(ポーの小説)
安土城
あっせん収賄罪
アッティラ
アットゥシ織
あっと驚くタメゴロー(ハナ肇)
アッパー・スヴァネティ(ジョージアにある世界遺産)
アッピア街道
アップダイク
アップルコンピューター
渥美清
アディアフォラ論争
当て字
アテナ(ゼウスの娘で、オリンポス十二神の1人)
アデニン
アテネ
アテネの七賢人
アデリーペンギン
阿弖流為(あてるい)
アトウォーター係数
アドウォルトン・ムーアの戦い
アトピー性皮膚炎
阿堵物(金銭のこと)
アドラー,アルフレッド
アトランタ
アドリアノーブルの戦(378年)
アドリアノープル条約
アトリエ洗濯船
アドレナリン
アドワの戦い(1896年)
アナウワカリ美術館(メキシコ) ディエゴ・リベラ博物館
穴窯
アナクロニズム(時代錯誤)
アナーキスト(無政府主義者)
アナバシス
アナフィラキシー・ショック
アナベラ
穴穂部皇子
アナポリス(メリーランド州の都)
アナルセックス(肛門性交)
アナロギア・エンティス
アニサキス症
アニソドンティア(アオイ科)
アニミズム
アヌンチャタ
姉川の戦い(1570年)
アネモネ
穴太積(あのうづみ)
アノマロカリス
アノミア(失名辞)
アバ Abba(大司教に用いる敬称)
アバカ
アバター
アハ体験
痘痕も靨(あばたもえくぼ)
アバダン
アパーチュアカード
アパッチ
アパトサウルス
アパートの鍵貸します(映画)
アパルトヘイト
アバロウニ
アビガイル
アビシニアン
アビダルマ(阿毘達磨)
阿眦曇心論
アフォリズム(警句)
アフガニスタン・イスラーム共和国
アブガル物語
阿武隈川(福島県および宮城県を流れる一級河川)
アプシス(キリスト教聖堂の半円形の所)
アフシャール朝(ペルシア)
阿仏尼
アプト式線路
アブハシア共和国
あぶみ骨
油すまし
アブラハム(イスラエル国民の父で傑出した信仰の人)
アフリカ
アプレゲール
アーブロース宣言(1320年)
アプローチ
アベイの牢獄
アベノマスク訴訟
アベノミクス
アベラール
アペリティフ(食前酒)
アベル派
アベルキウス碑文
アヘン戦争
アポイ岳
阿房宮
アボカド
アボガドロの法則
アポトーシス
アポマトックス・コーストハウスの戦い(南北戦争)
アボミナブル・スノーマン(雪男)
アボリジニ
アポリネール,ギョーム
アポロ11号
アヌイ,ジャン
姉崎正治
アネロイド気圧計
あの鐘を鳴らすのはあなた(和田アキ子の歌謡曲)
網走番外地(高倉健)
アブシンベル神殿
アプバクの戦い
アフラ・マズダ(ゾロアスター教の善神)
アフロディテ(オリュンポス十二神の1人)
安部公房
阿部次郎
安倍晋三
阿部知二
安倍なつみ
阿倍仲麻呂
阿倍比羅夫
アベノミクス
阿部寛
アヘン戦争
アポフセグマタ
アボリジニ
アポリネール,ギョーム
アポロン(オリンポス十二神の1人)
亜麻色の髪の乙女(ドビュッシー)
アマガエル
甘粕事件
甘樫の丘
天城越え(石川さゆりの歌謡曲)
天草四郎
天知茂
天地真理
あまちゃん(2013年放送のNHK連続テレビ小説)
アマチュア
アマデウス(映画)
天照大御神(あまてらすおおみかみ)
アマルダ戦争
アマルフィ海岸
余部橋梁(1912年)
天野貞祐
アミアン大聖堂
アミアンの和約
アミスタッド号事件(1839年)
アミ族
阿弥陀経
阿弥陀堂
アミタール面接
アミノ酸
アムステルダム
アムネスティ・インターナショナル
アムネマチン山脈(青海省)
アムリットルサル事件(1919年)
アムールトラ
安室奈美恵
アムンセン
アメイジア大陸
アメイジング・グレイス
雨に唄えば(映画)
アメニティ(生活の快適さ・住みよさなどの意味)
天の御柱(あめのみはしら)
アメリカ
アメリカ横断鉄道
アメリカン・グラフティー
アメリカンフットボール
アメンホテプ3世
アメンホテプ4世
厦門(アモイ)
アモーレ
安邪国
綾瀬はるか
アユイ,バランタン
鮎川信夫
鮎川義介
アユタヤ(王国)
アユルシリダル(元の昭宗)
アーユルベーダ
アラー
新井白石
新井声風
新井春美
荒尾(熊本県)
新垣結衣
荒川バラバラ事件(1952年)
荒木久美子(ジュリアナ東京)
アラキドン酸
荒木又右衛門
荒木道子
アラコシア
アラゴン,ルイ
嵐が丘(エミリー・ブロンテの小説)
嵐寛寿郎
アラスカ(アメリカの州)
荒畑寒村
アラバマ(アメリカの州)
アラビア
アラビア海
アラビアン・ナイト
アラブ
アラファト
アラフラ海
アラベスク模様
アラミス(エチオピアのアウストラロピテクス化石発見場所)
アラミド繊維
アラム人
アララギ
アララート
アラリスク
アラリック
アラルコン
アラン諸島(アイルランド)
アラン・ドロン
有明海の干拓
阿里山(ありさん)
有島生馬
有島一郎
有島武郎
有栖川宮熾仁親王
アリスタルコス
アリストテレス
アリストファネス
有田・クレーギー会談
孔(ありな) ラ行変格活用
有馬稲子
有馬皇子
有馬温泉
有村架純
有村次左衛門
有吉佐和子
在原業平
有松絞り
アリューシャン列島
ある愛の詩(映画)
アルヴィナ,アニセー
アルカイダ
アルカイック・スマイル
アルカトラズ島
アル・カーミル
アルキトラヴ(列柱の上に乗る水平の無装飾の梁部)
アルギニン要求株
アルキメデス
アルクイン
アルクトゥルス
アルコール・ハラスメント
アルコールランプ
アルサクレイグ島(スコットランド)
アルザシアン
アルストロメリア・アウランティアカ Alstromeria auratiaca
アルチンボルド(画家)
アルザス・ロレーヌ
アルサンピエール美術館
アルジェ
アルジェリア戦争
アルジャントゥーユ(フランス)
アルジュバロータの戦い
アルストロメリア
アルゼンチン
アルタイ語系
アルタ・バディア(イタリア)
アルタミラ(スペインの旧石器時代遺跡)
アルタン・ハン
アルティメット
アルディピテクス・カダバ
アルディピテクス・ラミダス
アルデバラン
アルテミア
アルテミシオンの海戦(紀元前480年)
アルトドルファー,アルブレヒト(画家)
アルドラ王国
アルドリッチ,ロバート
アルヌール,フランソワ
アルバ公
アルバ公爵夫人(ゴヤによる肖像画)
アルハゼン
アルバニア
アルハンガイ
アルハンゲリスク
アルハンブラ宮殿
或る日突然(トワ・エ・モワ)
アルビノーニのアダージョ
アルピジョア十字軍
アルファベット
アルブケルケ
アルプス
アルフレッド大王
アルペジオ
アルベラの戦い
アルベロベッロのトゥルッリ
アルマアタ宣言
アルマゲドス(プトレマイオス)
アルメイダ(宣教師)
アルメニア
アルモハード帝国
アルルの女(ジョルジュ・ビゼー作曲)
アルレッティ
アールト,アルヴァ(建築家)
アルマダの海戦
アレオパジティカ
アレキサンドリア(エジプト)
アレキサンドリア派文献学
アレクサンドロス大王
アレクシウス1世
アレシアの戦い
アレシボ天文台(プエルトリコ)
アレッポ(シリア)
アレフ
アレルギー
アレン,ウデン
アレンの法則
アロー号事件
アロマンティック・アセクシュアル
アロン(モーゼの兄)
阿波
阿波おどり
泡宇宙
淡路恵子
淡路島
淡島千景
合せ砥
アワビ
あわれな辻音楽師(グリルバルツァーの小説)
哀れなハインリヒ(ハルトマン・フォン・アウエの詩)

アンアン
アンカラ
アンガライオン(古代ペルシアの駅伝制)
アンガラ楯状地
アンガラランド
アンカレッジ
安閑天皇
暗記
アンギラ
アンキロサウルス
アンクケペルウラ・メリィワァエンラー(スメンクカラー)
アングラ・マインユ
アングリラ・ジャポニカ
アングル,ジャン・オーギュスト・ドミニク
アングロ・サクソン
アンコウ
暗号
鞍鋼憲法
安康天皇
暗黒星雲
アンゴラ兎
アンゴラの戦い
安西郷子
安西冬衛
アンジェラ・アキ
アンジェラスの鐘
アンジオテンシンン変換酵素阻害薬
安市城の戦い(645年)
安史の乱
鞍山製鉄所
アンシャン・レジーム
安重根(アンジュングン)
アンスリウム
安政五ヵ国条約
安政の大獄
安全保障理事会
アンソール,ジェームズ(画家)
安息日(Sabbath)
アンダーソン,ヨハン
アンダーヒル,イーヴリン(イギリスの宗教家)
アンダマン島(インドネシア)
アンチョビー
安珍・清姫(娘道成寺)
アンティグア(グアテマラ)
アンティグア・バーブーダ
アンティノミニズム(反律法主義)
アンティーブ(フランス)
アンティフォーナ(交誦)
アンティボディーズ諸島
アンデス
アンデスの秘密(アン・ノーラン・クラークの児童文学)
アンデルセン,ハンス・クリスチャン
安直戦争
アントウェルペン(ベルギー)
安藤昌益
安藤太郎(禁酒運動家)
安藤信睦
安藤広重
アントニオーニ,ミケランジェロ
アンドレス,ウルスラ
アントネッリ,ラウラ
アントネロ・ダ・メッシーナ(画家)
アンドラ
アンドラ・ラ・ベリャ
アンドルソヴォ条約
アンドレア・デル・サルト(画家)
アントレライト
アンドロジナス(両性具有)
アンドロポフ,ユーリ・ウラジーミロヴィチ(ソ連の政治家)
アンドロメダ銀河
アンナ・カレーニナ(トルストイの小説)
あんなに可愛い瞳を、私どうしても汚してはいけないと思ったわ(二十四の瞳)
安和の変
安南都護府
安寧天皇
アンネの日記
アンパサンド(&)
アンバリッド
アンパンマン(やなせたかし)
アンピール様式(19世紀初めヨーロッパで流行した建築・家具・装飾などの様式)
アンフォラ(2つの把手がある壷)
アンブラー,エリック
アン・ブリン(ヘンリ8世の第2の妃)
アンベルス(アントワープ)
アンペールの右ねじの法則
アンボイナ虐殺事件
安保闘争
アンマン
アンモナイト
安楽庵策伝
安楽死(ユーサネイジア Euthanasia)
暗夜行路(志賀直哉の小説)
アンリオ,エミール(フランスの批評家)
アンリ三世とその宮廷(デュマの戯曲)
アンリ4世(フランス国王)
安禄山
アンワリー(イランの詩人)
アンワル,ハイリル(インドネシアの革命詩人)
アンワル・イブラヒム(マレーシアの元副首相)
アンワンティボ(樹上滋養で生活するリス科の動物)
Photo

 

 

 

 

 

 

 

 

2023年6月 8日 (木)

イパネマの娘

Photo_2    ブラジルのリオでジャネイロ近郊の海水浴場といえば以前はコパカバーナが有名だったが、1960年代はじめあたりからイパネマ海岸も急にクローズ・アップされるようになった。それは原名を「カロータ・ジ・イパネマ」英名を「ガール・フロム・イパネマ」という曲がビニシウス・ジ・モライス作詞、アントニオ・カルロス・ジョビン(通称トム・ジョビン)作曲で1962年に作られたからであろう。その初吹き込みと思われるものは1963年3月、スタン・ゲッツによって行われたが、この時、英語の詞も入れたほうがいいということになり、ジョアン・ジルベルト夫人であったアストラッド・ジルベルトが歌い、一躍彼女もスターになった。その彼女も先ごろ亡くなられた。

    曲の内容は、イパネマ海岸を腰のリズムもさっそうと歩んでいく、ビキニ姿の美少女エロイーザの姿にまるでロマン派の詩人のような賛辞を捧げている。「この世でもっとも美しい天の贈り物が歩いていく。彼女が歩いているだけで、この世は愛を知りすべてが美しく光輝く」とうたう。ビニシウス(1913-1980)は誰かにいつもより新しい幸福を追いかけることばかり熱心で生涯9回も結婚したという。イパネマの娘のモデルとなった娘は、結婚してエロイーザ・ピニェイロという名前で現在84歳となっている。Heloisa Pinheiro

 

Foto1

Heloisapinheirolagarotadeipanema3

 

Heloevini

紛らわしい芸能人の名前

 名前が似ている芸能人は意外と多い。いま不倫問題で話題の渡部建。「独眼竜政宗」の渡辺謙と紛らわしい。二刀流の大リーガー大谷翔平。「逃げ恥」俳優の大谷亮平の名前と紛らわしい。「どんと晴れ」のヒロイン比嘉愛未が福士誠治と熱愛騒動。しかし福士蒼汰と間違えられる。 ガッキーこと新垣結衣。名前はもちろん「あらがきゆい」と読む。元モーニング娘の新垣里沙は「にいがきりさ」である。SPEEDの新垣仁絵は「あらがきひとえ」である。

   おニャン子クラブの渡辺美奈代と渡辺満里奈も同姓なので紛らわしかった。他に、黒川智花と黒川芽以、木村佳乃と木村文乃、田中麗奈と田中れいな、西内まりあと竹内まりあ、水野真紀と水野美紀、蒼井優と蒼井そら、酒井若菜と酒井美紀、椎名林檎と椎名法子、奥菜恵と奥貫薫、木内みどりと木之内みどり、森高千里と森下千里、鰐淵晴子と馬淵晴子、夏川純と夏川りみ、綾戸智恵と上戸彩、陣内智則と陣内孝則、沢村一樹と北村一樹、大石吾郎と大橋吾郎、川村龍一と河村隆一、高橋克典と高橋克実、玉木宏と玉山鉄二、三浦和義と三浦知良、大辻司郎と大辻伺郎、永井智雄と永井秀明、香川真司と香川照之、高橋長英と高野長英、有島一郎と有島武郎、人見明と人見きよし、タッド若松と若松孝二、藤原釜足と藤原鎌足も紛らわしい。ジェラード・バトラーとジェラール・ドパルデュー。ジョッシュ・デュアメル、ジョッシュ・ハートネット、ジョッシュ・ブローリング、ジョッシュ・ルーカスの区別つきますか。

ウィリアム・コベット忌日

何を書こうかと考えるために座るのではなく、貴方が考えたことを書くために座りなさい(ウィリアム・コベット)

 

Photo_2   ウィリアム・コベット(1763年3月9日生。1835年6月8日没)はイギリスの急進的政治家・文筆家・編集者。イギリス南東部サリー州の貧しい農家に生まれた。軍隊に入り、除隊後フランス、アメリカに渡り、帰国後急進的ジャーナリストに転向。農民、労働者の懐旧的感情に訴え、産業主義社会を批判した。議会改革を通じて社会改革を考え、議会議事録の発行を創始した。1823年議員に当選したが、政治的には成功しなかった。彼の文章は明快であり、農業問題についてはすぐれた識見を述べている。農村疲弊の実状見聞録「農村紀行」(1830年)は名著として高く評価されている。コベットの本はすべてよく売れたが、特にプロテスタント史に関する本は、世界中で聖書に次いでよく売れたと言われる。

   コベットは驚くほどの多作家で、そのいくつかをあげる。「アメリカ生活一年の記録」「英文典」「小住宅の経済」「アメリカの園芸」「イギリスの園芸」「コベット講演集」「移民ガイド」「スコットランドの旅」「アンドリュー・ジャクソンの生涯」「仏文典」「イギリスおよびウェールズの地理辞典」「プロテスタント改革史」「イギリス議会史」「議会討議録」「ビッグOとグローリー卿」「余剰人口」「若き人々への提言」(庄司淺水訳)。

    ロンドンでは1803年に週刊新聞「ポリティカル・レジスター」を発行し、書店を経営した。記者や編集者などを、10人以上雇い、週刊誌はじめ書籍の出版を続け、印刷の発展にも寄与した。(William Cobbett)

2023年6月 7日 (水)

龍馬、池田屋に行かず

 司馬遼太郎の年譜を見ていると、興味あることを発見した。「竜馬がゆく」が昭和37年6月に産経新聞夕刊に連載がスタート、同年11月に「燃えよ剣」が週刊文春で開始している。つまり同時に2つの長編連載を、敵と味方で描き分けていたのである。

    大河ドラマ「龍馬伝」第23話「池田屋に走れ」。望月亀弥太が攘夷派の浪士たちと京で会うため海軍操練所を抜け出したことを知った坂本龍馬は連れ戻すために京へ向かおうとする。だが海軍総連所の皆は逃げた者を追っても仕方がないと冷たい。結局、龍馬ひとり京の池田屋へ行くが、時すでに遅く介抱むなしく望月亀弥太は自死する。

    坂本龍馬は池田屋事件の直後に現場にいたのだろうか?神戸から京都、坂本の足であれば一日あれば行けるかもしれない。だが坂本も勝も池田屋事件のことを知るのは少したってからのこと。この事件発生時はふたりは江戸にいたらしい。池田屋に集結していた志士の中に、坂本と同じ海軍操練所で学んでいた望月のことが明らかとなり、まずいことになった。今で言えば国立の海軍大学で、反乱学生を養うのと同様である。そのため勝は軍艦奉行を罷免され、海軍操練所もやがて閉鎖される。史実はもちろん坂本龍馬は池田屋には行っていない。

 

 

マリア・ルス号事件

  明治5年6月7日、横浜港に停泊中のマリア・ルス号(ペルー船籍)内の231名の清国人苦力が奴隷状態であるとして日本政府が解放した事件。条約未締結国ペルーとの係争については日本の法律があると解し、外務卿副島種臣は大江卓を裁判長に任じ、アメリカ人の日本法律顧問P・スミスの協力を得て、清国人船籍の解放を宣言した。船長の報告でペルー政府は日本政府に抗議したが、ロシア皇帝アレクサンドル2世の仲裁裁判で日本側が勝利した。参考: 「マリア・ルス号事件の再検討」笠原英彦 法学研究69巻12号(1996年12月号) Maria Lus Incident

 

 

ルイ14世「朕は国家なり」

Louis14aftrigaud_16381715l   1654年のこの日、フランス王ルイ14世が16歳で戴冠した。「太陽王」と呼ばれたルイ14世は史上最長の在位期間を持つ君主である。1643年に5歳で即位し、1715年に死ぬまで72年間フランス国王に君臨した。王権神授説をとる彼は絶対主義王制の典型とされ、豪華を好む彼か造ったヴェルサイユ宮は18世紀には各国で模倣されることとなる。ハード面だけではなく宮廷エチケットや祭典・凱旋行列なども手本とされて、王権とはそういうものというイメージが形成される。フランスは文化のうえでもヨーロッパの中心となった。

    1655年4月13日、パリ高等法院。17歳のルイ14世は狩猟の帰りに反対派の巣窟である議会に立ち寄った。スペイン戦争での出費が嵩むことを議員が語りだしたとき、「朕は国家なり」(L'etat c'est moi)という有名な言葉がルイ14世の口から出されたとされる。このエピソードはヴォルテールの「ルイ14世の時代」に記述されているが、王が実際に言ったかどうかはわからない。神学者ボシュエらが王を神格化したらしい。

   ルイ14世の親政が始まったのは1661年3月10日からで、フランス絶対王政は全盛期をむかえたが、傲慢で贅沢の限りをつくした国王は民衆から嫌われ、王の没後80年たらずでフランス革命がおこる要因にもなった。(6月7日)

2023年6月 6日 (火)

梅の日

 本日は「梅の日」です。天文14年(1545年)6月6日、後奈良天皇が京都・賀茂神社で祭神を祀る際に、梅が献上されたことに由来します。「万葉集」に、「むつきたち春の来たらばかくしこそ鳥梅を折りつつ楽ぬしきをへめ」とある。ウメとよんでいる。後にムメと発音するようになるが、ウメが正しい。鳥梅は中国の古名だが、鳥はカラスで黒いことを意味する。薬用として干した梅は黒かった。燻製の梅である。諸々の木の花にさきがけて雪中に花開くというので梅を「花の兄」といい、兄花ともいう。また中国で、哀帝(武帝ともいう)が本を読むと梅の花が開き、読むのをやめると花が閉じたというので「好文木」ともいわれた。また木母ともいう。梅は木扁に毎だが、木母なら栂、トガと読む。トガの木を関東でツガともいう。梅の木は奈良朝以前に朝鮮を経て中国から日本に渡ってきたもので、鳥梅をウメとよんだものである。。もともと、未熟な実を塩漬けにして干し、薬用としていたが、これが江戸時代に梅干しとして広く食用されるようになった。シソの葉で赤く着色する。

雨恐怖症

666celebritywallpaper1fbab  最近の台風襲来や集中豪雨の気象情報で線状降水帯が発生したとか、大雨に対する警戒感が高まっている。雨恐怖症という言葉もある。英語で訳すと、ombrophobia。雨のザッーと言う音や、雨が降ることに対して、恐怖感を抱く。反対に女性には雨の日が好き、という人もいる。晴れの日の厳しい紫外線から逃れられるという理由からである。高所恐怖症や閉所恐怖症、対人恐怖症などいろいろある。ところで6月6日は「恐怖の日」。我が国ではこの日は昔から踊りや邦楽などの芸事は6歳の6月6日から始めると上達するといわれた吉日だった。ところが1976年に映画「オーメン」が公開されて以降、悪魔の子ダミアンが6月6日の6時に誕生し、頭に666の文字が隠されていて、666は獣の数字としてキリスト教では嫌われていることが知られるようになった。一般的に言っても、1、3、5などの奇数は吉数で、2、4、6などの偶数は不吉な数というのは、だいたいどの民族でも共通しているらしい。とくに6という数字はキリスト教以外にも、仏教において、「六(ろく)」は「殺人」「殺傷」、「六字(ろくじ)」は「死ぬこと」を意味する。これは南無阿弥陀仏が6文字であるためである。また三途の川の渡し賃が六文銭というのも死と係わりがあるためであろう。兵庫県川西市の郵便番号が「666」である。6という数字は見えないところに隠れて存在するかもしれない。

「どうする家康」長篠の戦い前後

Obj09   大河ドラマ「どうする家康」は岡田准一が演じる織田信長をたくさん活躍させようとする狙いがあるようで、本能寺の変までは、ゆっくりとしたペースが物語は進行している。天正5年4月、甲斐の武田勝頼は奥三河の長篠城を攻略するため、1万5000の大軍を率いて甲府を進発した。裏切者の奥平貞昌を攻め滅ぼすためである。貞昌は徳川家康の長女、亀姫を妻に迎える約束を交わして、武田方と敵対したのである。鳥居強右衛門は、援軍を求めて岡崎城の家康のもとへと走った。「武田勢、三河に侵攻」の報を受けた家康は、信長に対して何度も救援を求める使者を送った。だが信長は、なかなか動こうとはしなかった。そこで家康は、3回目に送った使者に「もし援軍を出してくれぬなら、武田に遠江を譲って和睦し、武田の先鋒となって尾張を攻める」といわせて信長を脅した。信長は、5月13日、3万の兵を率いて岐阜を出発した。信長、この時41歳、家康35歳。信長と家康は15日に岡崎で合流し、総勢3万8000となった。設楽原に武田の騎馬攻撃を防ぐため、馬防柵を巡らせた。5月21日、織田信長、徳川家康連合軍と武田勝頼とは、三河国南設楽郡(愛知県新城市)の長篠城と、その西南の設楽原で激突した。「長篠合戦図屏風」にも馬防柵の内側には、本多忠勝を筆頭に、鳥居元忠、平岩親吉、石川数正など徳川勢の主力がずらりと描かれている。鳶ヶ巣山の陥落で、武田軍の退路が断たれて、設楽原の戦いの行方は織田・徳川連合軍の優位に動いた。合戦の行方は、信長が用意した3000挺の鉄砲隊が勝負を決めた。この戦術は、信長が周到に準備し、ほかのどの戦国大名よりも多くの鉄砲足軽を揃えることができた「信長プロジェクト」の成果であった。しかし信長が鉄砲の「3段撃ち」をしたという事実は同時代の史料にはない。3段撃ちは江戸後期の軍記物に登場し、明治になって陸軍参謀本部編「日本戦史」に採用され、広く世間に広まったのだ。徳川家康の長男、松平信康はこのとき初陣で16歳。その戦いぶりを敵将勝頼は「かの小冠者長生せば必ず天下に旗を立つべし」と評したという。4年後、武田と内通したと信長に問責され築山殿と信康は自害する。

ノルマンディー上陸作戦

   1944年6月6日。Dデー(攻撃開始日)、すなわち連合軍の「史上最大の作戦」によるフランスのノルマンディー海岸上陸が開始された。ドイツ軍がフランス海岸に構築した「大西洋の壁」にいど連合軍は第1波兵力15万6000人以上。空軍はイギリス1万1590機、アメリカ6080機、他の連合軍5510機、海軍戦艦7隻、巡洋艦23隻、駆逐艦・フリゲート艦168隻、上陸用艇4126隻。総司令官はこの1月にアイゼンハワーが任命されていた。迎え撃つドイツ軍はUボートを除いて海軍はほとんどなく、空軍も連合軍の50分の1と、劣勢にあった。ここを守るB軍団司令官は「砂漠の狐」と称されたロンメルであった。連合軍を上陸させてから撃滅しようと考える西部戦線ドイツ軍総司令官ルントシュテットに対し、ロンメルは水際での迎撃を主張したが、双方ともに最善と思われる方法はヒトラーによって却下された。ヒトラーは、連合軍の侵攻を頭からあなどっていたのである。連合軍の攻撃はこの日午前1時30分、空挺部隊降下に空爆、艦砲射撃で始まった。シェルブールを目指すアメリカ軍は6時30分ビール川河口の2地点に、カーンを目指すイギリス・カナダ軍は7時30分オルヌ川周辺の3地点に上陸を開始した。上陸初日の連合軍は、わずかな地域しか占領できなかった。しかし、連合軍を上陸地点で破砕するロンメルの意図は崩れた。この日「6月6日」は連合軍にとって、大戦を勝利に導く第一歩として、忘れてはならない記念の日となる。

 

 

2023年6月 5日 (月)

池田屋襲撃事件

   元治元年6月5日夜、京都三条池田屋で尊王攘夷派の志士が新選組に襲われ多数殺害された。この池田屋襲撃事件は新選組の名を一夜にして轟かせたが、隊士たちのその後の人生にも大きな転機となっている。当夜、近藤勇は隊員を二手に分けて、表出口には谷万太郎、武田観柳斎、浅野藤太郎が、裏口には奥沢栄助、安藤早太郎、新田革左衛門らが固めた。そして店内へ近藤勇が先に立って、沖田総司、永倉新八、藤堂平助、近藤周平の4人を従えて突入した。近藤は裏階段から2階へ駆け上がり、土佐藩士北添佶麿を斬る。2階に上がった沖田は、数人の浪士を斬ったが、結核の発作に襲われ倒れた、とするのが通説である。なぜ近藤らわずか5人で20人もの浪士に勝てたのか。それは真剣を使い慣れた近藤らと剣道しか知らない志士との差、それに池田屋は幅6m、奥行き約27m京都特有のうなぎの寝床が近藤らに有利となった。永倉新八の「新撰組顛末記」によれば、表口には谷三十郎、原田左之助となっている。また池田屋襲撃には谷三兄弟の3男、谷周平が参加したという記録もある。事件当日の奮戦ぶりから、周平は近藤の養子となって、近藤周平と改名する。その後、周平は近藤の信を失なって縁組は解消され、旧姓に復している。原田左之助は十七両の褒賞金を受領している。長州志士を中心とする20名余りのうち7人が討ち死にするも、裏口を固めていた3人が斬られて突破され、多くの志士が脱走した。当夜の新選組の犠牲者は奥沢栄助ひとりとされている。後日、安藤早太郎、新田革左衛門ら死亡したとある。他方、尊攘派は、吉田稔麿、北添佶麿、宮部鼎蔵、大高又二郎、石川潤次郎、杉山松助、松田重助らの逸材が戦死した。

    武田観柳斎は長沼流軍学をもって知られ、二十両の褒賞金を受領している。その後、薩摩に通じ、竹田街道の銭取橋で斎藤一に斬殺される。浅野藤太郎も同額の二十両を受領している。浅野はその後、金策が露見して、島原において斬殺されている。藤堂平助は活躍により二十両を受領している。その後、高台寺党に加わり、三条油小路において新選組に斬殺される。沖田総司はよく知られるように池田屋襲撃時、戦闘中に喀血昏倒する。池田屋襲撃の近藤配下の隊士の中で明治まで生存したのは永倉新八ただ一人だった。原田左之助に関しては死亡時期不明。通説では上野戦争で戦死したとされるが、満州で馬賊となったという生存説もある。土方歳三ら本隊は洛東大仏辺から祇園、縄手通りから四国屋などを探索の後、池田屋の近藤に合流した。池田屋参加の名簿には、斎藤一、篠塚岸三、林信太郎、島田魁、川島勝司、葛山武八郎、三品仲治、蟻通勘吾、松原忠司、伊木八郎、中村金吾、尾崎弥八郎、佐々木蔵之丞、河合耆三郎、坂井兵庫、木内峯太、松木喜三郎、竹内元三郎らの名前がみえる。(6月5日)

 

 

誠忠・児島高徳の墓

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 「児島高徳」 羽石光志画

 1333年のこの日、隠岐から脱出した後醍醐天皇が無事に京都に到着した。その功労の第1人者は児島高徳である。児島高徳(生没年不詳)の実在性には疑問はあるが、備前の人、本姓は三宅、備前守範長の子といわれる。後醍醐天皇が隠岐に配流される途中、児島高徳は舟坂山や杉坂で救出しようと企てたが果たせず、せめて自分の覚悟なりともお知らせしたいと美作院庄(岡山県津山市)の宿所に潜入して、庭の桜の大木の皮を削って詩句を書きつけた。

天勾践を空しゅうすることなかれ。時に范蠡なきにしもあらず。

(天よ、どうか後醍醐天皇をお見捨てなきよう。天皇も范蠡のような忠臣がここにおりますことをお信じ下さい)

   翌朝、警護の武士たちが見つけて騒いでいたが、天皇はその意味がお分かりで、快げにお笑いになったという。

    1333年2月24日、児島高徳は、天皇が隠岐を脱出して船上山で旗を揚げると、一族を率いて馳せ参じ、千草忠顕や新田義貞に属して各地に転戦した。正平7年、兵を集めて入洛を企てたが、失敗した。戦いに敗れて剃髪し、志淳と称したというがその後の消息は分からない。現在、鳥取県米子市の涼善寺(岩倉町99)に児島高徳の小さな墓がある。

この故事が有名なので、日本人には范蠡=忠臣というイメージがあるが、実は、日本流の忠臣とは、ずいぶん異なっている。中国では、陶朱公の名で富豪の代名詞として知られている。(6月5日)

 

 

 

 

2023年6月 4日 (日)

歯の衛生週間

Photo    6月4日は「虫歯予防デー」だった。現在は4日から10日まで「歯の衛生週間」となっている。みなさんは歯磨きはいつしますか? わたしは、朝起きたら顔を洗ったら歯磨きをします。本当は食後にするのがいいのですが長年の習慣なので。これからは寝る前にもして1日2回に増やそうかなと思っています。1964年のコマーシャルで「リンゴをかじると血がでませんか」というフレーズが流行りました。俳優座の福田豊土(1934-1998)が出演していましたが、実は彼のお父さんは高名な日本画家、福田豊四郎(1904-1970)ですね。代表作に「海女」(1950年)があります。

 

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ミッドウェー海戦が始まる

   ミッドウェー海戦は1942年6月5日から7日まで続いた。実は日付変更線を越えた海域だったから現地時間では開始日は6月4日である。日本軍はミッドウェイ島を占領して北方の西部アリューシャン攻略の足がかりとする作戦を展開し、反撃のため出現が予想される米空母群を殲滅すべく、ほぼ全力で出撃した。この日本側に対し、暗号を解読していた米側は作戦を看破し、これを迎撃した。結果、日本は赤城・加賀・蒼龍・飛龍の4隻と重巡1隻が沈没し、航空機280機以上を失った。これに対し、米軍は空母1隻、航空機150機喪失にとどまり、日本は制空・制海権を失い、8月にはガダルカナル島への上陸をもって米軍の反撃が始まる。

 

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  沈没寸前の空母赤城

 

 

2023年6月 3日 (土)

黒船来航

  東インド艦隊を率いるマシュー・ペリーの黒船4隻が、江戸湾入口の浦賀に現れたのは、嘉永6年6月3日(陽暦1853年7月8日)のことであった。天気は快晴で、富士山がよく見えた。浦賀奉行組与力の中島三郎助は、オランダ語の通訳の堀達之助とともに、交渉に当る。中島が、日本の法律では、外交問題は長崎で交渉することになっているで、長崎で交渉するよう、副官のジョン・コンティ大尉に申し入れた。しかし、コンティはこれを拒否した。ペリーは3日後までに聞き入れなければ、大砲をうちだすという。老中・阿部正弘や勘定奉行・川路聖謨は諸大名と協議し、結局6月9日(陽暦7月14日)に、アメリカの国書を受け取ることにした。アメリカ大統領の国書は、アメリカ漂流民の保護、アメリカ捕鯨船の食糧・薪水の補給、日本の地に貿易港を開く、というものであった。幕府側は、すぐに回答できない、なんとか来年までまってほしい、とペリーに頼んだ。ペリーは来春に再び来航して、日本側の回答を求めることを述べ、12日にようやく江戸湾を去り、琉球にむけていった。「太平のねむりをさます上喜撰たった四はいで夜もねられず」と狂歌に詠まれるほど、江戸の街は大混乱となった。(Matthew Perry,John Contee、史料「南浦書信」嘉永六年七月十四日)

 

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黒船来航の地 浦賀久里浜海岸

 

 

俊寛の流刑

022115    俊寛(1142-1179)の自筆書状が陽明文庫が所蔵する公家の日記「兵範記」の紙背文書から見つかった。書状は平信範に宛てたもので、末尾に署名がある。これまで「法師快□」と判読していたが、デジタル化によって見やすくなり、「法眼俊□」と読めることがわかった。当時、俊寛は法勝寺の所領を管理していることなどから判断して、手紙は俊寛の自筆であると考えられる。俊寛は平家討滅の謀議に加わった罪で、安元3年6月3日(陽暦1177年7月1日)に逮捕され、同月20日、薩摩国鬼界ヶ島に流された。しかし翌年に中宮徳子の安産祈願のための大赦があり、他の人たちは許されて帰ったが、俊寛だけは許されず島に残されていた。悲嘆のうちに治承3年3月2日、37歳の若さで餓死したという。その悲劇的な最期のためか、俊寛の墓といわれるものは西日本各地に十数か所あるという。だが鬼界ヶ島が現在の何島にあたるのかはっきりしない。喜界島(鹿児島県大島郡喜界町)、硫黄島、伊王島に俊寛の墓がある。

    俊寛は法勝寺(京都市左京区岡崎)という寺の僧都であったというが、法勝寺は承保3年(1076年)に建立された真言宗の寺で九重の塔で知られていたが、応仁の乱以降さびれて廃寺となり、現在は満願寺に碑がある。また佐賀県に同名の法勝寺があったが、現在は撤去されて小さな碑のみある。(6月20日)

 

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 喜界島の俊寛の像

 

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 佐賀の俊寛の碑

 

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 満願寺(京都市左京区岡崎)の境内には「法勝寺執行俊寛僧都居住跡」の碑がある

2023年6月 2日 (金)

明智光秀謀反の謎

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錦絵「本能寺焼討之図」延一画 東京都立中央図書館蔵

 「敵は本能寺にあり」

  この有名な言葉を明智光秀は本当は言っていない。文政10年刊行の頼山陽「日本外史」に初めて見えるもので、光秀生誕から300年後の創作。信長が寝所に入ってしばらくすると、外が騒がしくなった。「これは謀反ではないか。いったい誰が?」森蘭丸が答えた。「明智の勢かと思われます」「光秀なら是非もなし」(信長公記)

    光秀ならば完璧の布陣で攻めて来たであろう。もはや助かる道はあるまい。そう思った信長は殿中深く入って、自ら切腹して果てた。

   本能寺の変は、戦国時代最大のミステリーといっていいかもしれない。「老人雑話」のなかに、「明智日向守が云ふ。仏のうそを方便と云ひ、武士のうそを武略と云ふ、百姓はかはゆきことなりと、名言也」という一節がある。光秀は、仏教におけるうそが方便として認められるならば、武士のうそも武略として是認されるものだという考えを持っていたようだ。なぜ光秀が信長を襲ったのか?その動機は江戸時代初期より、光秀が怨恨を晴らすためであった、というのが一般であった。とくに信長が家康を饗応した時の献立が豪華すぎると、光秀を叱責したことにあるといわれる。

    高柳光壽は人物叢書「明智光秀」(1958)で野望説を唱えた。これに対して、一番ポピュラーなのが怨恨説。近年も桑田忠親がルイス・フロイスの資料を根拠に怨恨説を支持している。最近では黒幕・関与説が主流である。立花京子は、勧修寺晴豊の日記の断片である「天正十年夏記(日々記)」により朝廷が変に関与していたとする。いわゆる三職推任問題である。朝廷が信長に関白、太政大臣、征夷大将軍の何れに就任してもらおうと工作したが、信長はそれを断ったことが背景にあるというのである。つまり天皇の権威を見限って、信長が日本の王になろうとしたので、光秀がそれを阻止しようとしたとする。

   最近、光秀の書状の原本が見つかったことで四国説が浮上している。光秀が土橋重治に宛てた書状で、将軍義昭入洛の際に協力することを伝えた内容である。本能寺の変の動機は長宗我部元親の窮地を救ったために起こしたとして、まず信長を倒し、長宗我部や毛利ら反信長勢力とともに幕府を再興させる構想があったらしい。だが本能寺の変後、光秀は細川忠興、筒井順慶らを誘い天下人たることを策したが成功せず、中国から兵を返した秀吉と山崎に戦うも、兵力差から総崩れとなり敗北。光秀は勝竜寺城へ逃れ、その夜密かに坂本へ脱出を図り秀吉軍の包囲を突破するものの、その途次醍醐もしくは山科のあたりで、雑兵・中村長兵衛により殺害される(「兼見卿記」)。享年55歳。

参考文献
高柳光寿「明智光秀」 吉川弘文館 1958
立花京子「本能寺の変と朝廷 「天正十年夏記」の再検討に関して」古文書研究39  1994年
谷口克広「検証本能寺の変」 吉川弘文館 2007

 

 

 

 

平清盛、福原に遷都

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    平清盛の時代の大きな特徴は、物々交換から宋銭の流通による貨幣経済に変わったことである。治承4年6月2日、平清盛は周囲の反対を押し切り神戸・福原に遷都した。ただ和田京との関係や、大輪田泊、福原京が、現在の地図の上にどのように都が配置されたのか専門家の間にも異論がある。元京都大学大学院人間環境研究科教授の足立健亮の復元プラン(E-F-G-H)が広く知られている。最近、楠・荒田遺跡(神戸市兵庫区荒田町)から平頼盛邸宅の遺構が発掘され、福原京の一部が少しづつわかりかけてきた。

 

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2023年6月 1日 (木)

日本でチョコレートが大衆化したのはゲーリー・クーパーのためか?

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    チョコレートは長い間、飲み物として愛されてきたが、現在のような食べ物に変わったのは、英国ビクトリア女王の時代といわれる。1920年代にはカカオ豆の暴落により安価なチョコレートがつくられ、チョコレートブームが起る。昭和4年に原料の輸入関税が撤廃され、安い国産品が製造販売されるようになった。昭和6年、森永製菓は「パラマウント・チョコレート」を発売した。おまけは映画スターのブロマイドだった。長谷川一夫ら日本のスターも多いようだが、当時、パラマウントのスターといえば、ナンシー・キャロル、エスター・ラルストン、フェイ・レイ、フランシス・ディー、シルヴィア・シドニー、キャロル・ロンバード、ジーン・アーサーといろいろいたけど、やっぱりマレーネ・ディートリッヒとゲーリー・クーパーが黄金期を彩った大スターだった。なかでもクーパーはアメリカの正義と良心を代弁した人気者で、女性たちはクーパー様の写真がほしくてチョコレートを買った。日本でチョコレートを普及したのはゲーリー・クーパーの人気にあやかったものだった。

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 1644年、イギリスの市民革命のさなかに、革命派に属していた詩人ミルトンが、議会による出版物閲覧の強化に反対して非合法出版したパンフレット。近代的な言論・出版の自由を主張した名著で「言論の自由」と訳されている。 Areopagitica

 

 

映画にみるクレオパトラ

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  ヘレニズム時代のエジプト、プトレマイオス朝は15代続いたが、最後の女王クレオパトラ(前69-前30)はその美貌をもってして歴史にその名を知られる。はたして彼女は本当に美人だったのだろうか。残念なことにクレオパトラが美人だったという証拠は何もない。ただプルタルコスの記録には、「彼女に親しく接することには、抵抗できない魅力があった。そして彼女の容姿は、説得力にみちた言葉や、そのふるまいに多少とも表れていた独自の性格と結びついて、一種の心地よい刺激をかもし出した。彼女が語るとき、その声の響きは甘く快かった」とあるように魅力的な女性だったことは間違いなさそうだ。実際は小柄で痩せ型だったといわれるクレオパトラを絶世の美女にしたのは、やはり映画の影響が大きいだろう。

   無声映画時代からスクリーンに登場したクレオパトラは少なくとも10回以上はいる。最も古いクレオパトラは、1911年の米女優ヘレン・ガードナーが演じたエレオパトラ。「春雨秋雨二千載、今もなお、旅人の話頭にのぼる物語」と、弁士・染井三郎の名調子で知られる「アントニイとクレオパトラ」(伊・1913年)のジョヴァンナ・テリビリ・ゴンザレス(1882-1940)も有名だ。

    セダ・バラの「クレオパトラ」(1917年)は彼女の数ある出演作のなかでも有名な作品となった。続いてクローデット・コルベールの「クレオパトラ」(1939年)、ヴィヴィアン・リーの「シーザーとクレオパトラ」(1945年)、リンダ・クリスタルの「クレオパトラ」(1959年)などがある。パスカル・プティの「妖姫クレオパトラ」(1962年)、マガリ・ノエルの「トトとクレオパトラ」(1962年)、ジョーン・クレールの「世界の夜の歴史」(1963年)などある。が、なんといっても20世紀フォックスが社運をかけた超大作、エリザベス・テーラーの「クレオパトラ」(1963年)がクレオパトラ映画の決定版であろう。その後もヒルデガード・ニールが「アントニーとクレオパトラ」(1971年)、アンジェリーナ・ジョリーが演じているが、エリザベス・テーラーを超える存在感のあるクレオパトラはスクリーンに登場していない。近年は、ガル・ガドットやアデル・ジェイムズがクレオパトラを演じている。ネットフィリックスの新作ドラマ「アフリカン・クイーンズ・クレオパトラ」ではクレオパトラを黒人として描き、ジェイダ・ピンケット・スミスを起用している。

 

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  セダ・バラ

 

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  クローデット・コルベール

 

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  ヴィウィアン・リー

 

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  リンダ・クリスタル

 

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  ヒルデガード・ニール

振り返ってみた

  北海道で一番人口の少ない村は、音威子府で、人口679人である。富良野はスキー場があり、北海道を代表する観光地となり人口2万人ある。 ドラマ「北の国から」が一挙放送されていた。田中邦衛の追悼番組。北海道富良野を舞台に黒板五郎の家族3人を中心に雄大な自然が美しい。成長した子供も様々な体験をし、出会いと別れがある。全編、北海道を走る鉄道風景も懐かしい。20年以上わたるドラマには流行、世相などが良く出ている。例えば84年にはパソコンやテレビゲームが、92年には純がラブホテルで初体験、02年は携帯、メル友。80年代から2000年にわたる様々な庶民の生活がよく描かれている。後半は純の成長譚(?)。「95秘密」すったもんだがあった宮沢りえが最高。1980年代後半から、強い円のもとで土地も株も値上がりが続くなかで、「バブル」と呼ばれた景気が生じたが、それは90年代に入って一挙にはじけた。90年代の日本経済は、長く続く反動不況に苦しみ、また住専問題やイトマン事件などの不祥事も噴き出した。そして2020年代以降はコロナ対策の緊急事態宣言で我慢の生活が続いている。現在を戦時中にたとえる記事をみるが、戦時中の苦労は比較できるものではあるまい。食料は配給で餓死する者がいたのだから。40年代から80年代まで。国家総動員令。学童疎開。ポツダム宣言。広島・長崎原爆投下。無条件降伏。財閥解体。ベルリンの壁。赤狩り。日米安保条約。キューバ危機。文化大革命。ベトナム戦争。公害。バブル経済。コロナ流行。ロシアのウクライナ侵攻。安倍晋三銃撃事件。円安。役所広司のカンヌ男優賞。「やっと柳楽優弥くんに追いついた(笑)」柳楽が「誰も知らない」で受賞したのは19年前。阪神タイガースは18年ぶりに優勝に向かって独走している。18年前の平成17年、流行語は「小泉劇場」、「想定内」、「アスベスト(被害)」、「電車男」。ブログ流行。JR福知山線脱線事故。

「と」 ファースト・ネームから引く人名一覧

Nr_hancock   輪ゴムは1820年イギリスのトーマス・ハンコック(1786-1865)が中南米の先住民族が使用していたゴム製の袋をヒントにして靴下や服の袖をとめるのに利用できるのを発見したことに始まる。▽「トゥーサン・ルーヴェルデュール」1743-1803。ハイチ独立に活躍した黒人指導者。▽「トバイアス・スモレット」1721-1771。イギリスの小説家。代表作「ロデリック・ランダム」「ハンフリー・クリンカー」。▽「トーマス・マコ―リー」1800-1859。イギリスの歴史家。代表作「イギリス史」。▽「トマス・クロル」オランダ。2022年冬季オリンピック、スピードスケート金メダリスト。▽「ドランド・ピエトリ」イタリアのマラソン選手。▽「ドロシー・L・セイヤーズ」1893-1957。アガサ・クリスティと並び称される英国の女流推理作家。▽「ドロシー・カミンゴア」1913-1971。アメリカの女優。代表作「市民ケーン」。

▽IOC会長はトーマス・バッハ。

トゥーサン・ルーヴェルムチュール
ドゥニ・ディドロ
ドゥニ・ビルヌーブ
トゥパク・アマル(インカ帝国)
トゥンク・アブドゥル・ラーマン
トクタミシュ
ドス・パソス
ドナテルロ
ドナト・ブラマンテ
ドナルド・キーン
ドナルド・サザーランド
ドナルド・ジョハンソン
ドナルド・ジョン・トランプ
ドナルド・トランプ
ドナルド・プレゼンス
ドナルド・フランクリン・ダンカン
トニー・カーティス
トニー・ザイラー
トーニ・パゴット
トニー・レオン
トバイアス・スモレット
トーべ・マリカ・ヤンソン
トマ・ピケティ
トーマス・アーネスト・ヒューム
トーマス・アルバ・エジソン
トーマス・ウォルター
トーマス・エジソン
トーマス・エドワード・ロレンス
トーマス・カーライル
トークス・クック
トーマス・グレシャム
トーマス・ジェファーソン
トーマス・シデナム
トーマス・シンプソン
トーマス・スターンズ・エリオット
トーマス・バッハ
トーマス・ハンコック
トーマス・ハント・モーガン
トーマス・ビーチャム
トーマス・フッド
トーマス・マコーリー
トーマス・マン
トーマス・ミッチェル
トーマス・ラッフルズ
トーマス・リプトン
トマス・ア・ケンピス
トマス・アクィナス
トマス・アーノルド
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トマス・ヘンリー・ハクスリー
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ドミトリー・ドンスコイ
ドミニク・アングル
ドミニク・ヴィヴァン・ドノン
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ドミニク・ティーム
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トール・ヘイエルダール
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トレーシー・ハイド
トロイ・ドナヒュー
ドロタ・ケンジェジャフスカ
ドロシー・カミンゴア
ドロシー・ガロッド
ドロシー・セイヤーズ
ドロシー・マクガイア
ドロシー・ラムーア
トロフィム・デニソヴィチ・ルイセンコ
ドワイト・デーヴィッド・アイゼンハワー
ドン・アントニオ・アギラール
ドーン・ウェルズ
ドン・エバリー
ドン・シーゲル
ドン・バッジ
ドン・レオ・ジョナサン

 

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 ドロシー・マクガイア

孔子はジャイアント馬場より大きかった!?

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 むかしチャールズ・バーン(1761-1783)という男がいた。1780年代のロンドンで大衆の注目を集めたアイルランド出身の巨人症の人物である。彼の正確な身長は推測の域を出ないが、大多数の記述が8フィート2インチ(248cm)から8フィート4インチ(254cm)の身長であったと言及している。彼はロンドンですぐさま街の人気者となり、富と名声を手に入れたが、やがて市民の関心はなくなり廃れていく。1783年6月1日、22歳の若さで茶リングクロスのコックスパーストリートの安アパートで大酒が原因で死んだ。

   孔子の身長は9尺6寸で、春秋時代の1尺が22.5㎝だから、およそ216㎝ということになる。ちなみにジャイアント馬場が209㎝だから、それよりも大きい。三国志の諸葛孔明も長身で190㎝くらいはあったという。長身というのが中国の偉人像の1つの条件なので、あまりあてになる話ではない。参考:「孔子の身長について 春秋時代の尺度と評価」若江賢三 人文学論叢16  2014年

年寄りの聞き違い、いえ音韻連鎖です

T02080600_0208060011054087923  梅雨入りしたそうだが、6月は衣替えの季節。セーラー服の女学生やOLの夏服はいいもんだ。

オフィス街ブラウス眩し夏来たる(西村正男)

  でも夏が来たとニヤニヤした顔していると痴漢と思われるので注意しよう。

  「パプアニューギニア」と発音すると、なぜか「パパは牛乳屋」と聞える、どことなく似ていると思いませんか。これを音韻連鎖というそうです。ある課長が女子社員に「鼻がかみたい」といってティッシュを求めたところ、急に恥ずかしそうな顔をして、ブラウスのボタンをはずし脱ぎ始めた。どうしたのかとたずねたら、「だって、わたしの裸が見たい、とおっしゃったでしょ」という。言葉の聞き違いにご用心。

 

   「札幌、稚内」と「さっぱりわからない」、「水質汚濁」と「スィーツおたく」、「府中原産トマト」と「宇宙戦艦ヤマト」、 「汚職事件」と「お食事券」、「おまんた(新潟で「あなた達」という意味)と「おまんこ」、「肩透かし」と「横須賀市」、「中臣鎌足」と「生ゴミのかたまり」、「美文字研究家」と「いぼ痔研究家」。(9月16日)

アフリカの歴史

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左から直立猿人、ネアンデルタール人、クロマニョン人。しかし単線的に進化したのではなく、それぞれ複雑に分化、絶滅、置換、進化を繰り返してきた

 岸田首相のアフリカ歴訪が29日スタートした。エジプト、ガーナ、ケニア、モザンビークとアフリカ4ヶ国を訪問し、シンガポール経由で5月5日帰国する予定である。ヨーロッパの植民地主義は15世紀にはじまったが、当初はポルトガル人が西アフリカの沿岸に貿易基地を設置する程度で黒アフリカの社会は18世紀まで独自の発展を示していた。しかし、16世紀半ばから、奴隷貿易は黒アフリカの社会・経済に重大な打撃をあたえることになった。19世紀末から20世紀はじめにかけて欧米は独占資本主義・帝国主義の段階に入っていったが、黒アフリカは帝国主義列強の激しい植民地獲得の対象とされ、1885年のベルリン会議をへて第一次世界大戦前にはイギリス、フランス、ドイツ、ベルギーなどの間で完全に分割され、以後第一次大戦と第二次大戦を機に再分割、再々分割されていくことになった。1960年は「アフリカの年」といわれ、多くのアフリカ諸国が独立した。かつてアフリカ大陸のほとんどの国がヨーロッパの植民地であったが、現在はほとんどが独立した。あれから60年。アフリカ大陸には54の独立国があり、国連加盟国のおよそ3分の1を占めている。その歩みは平坦ではなく、地域紛争とクーデターによる政権交代が相次いだ。現在、北アフリカのリビア、西アフリカのマリからナイジェリア北部、中央アフリカ共和国とコンゴ民主共和国東部、そして東アフリカの南スーダンとソマリア南部といった地域では、近年深刻な紛争が続いている。

 古代の歴史をみると最古の人類はアフリカに出現し、進化していった。宇宙論ではおよそ138億年前、ビッグバンと呼ばれる大爆発によって宇宙が誕生したと考えられている。そして48億年前にこの地球が誕生した。さまざまな生命が長い年月をかけて進化を続け、鳥・魚・植物など多様な生きものが3000万種いる。そしてわれわれ人類の祖先は約700万年前から600万年前にかけてアフリカで誕生したことは間違いあるまい。現在の段階で最古の人類と認められるのは猿人であり、アウストラロピテクス属の化石人骨は20世紀に入って多数発見されている。1924年、レイモンド・ダートが南アフリカでアウストラロピテクスの化石を発見した。しかし当時のイギリスの学界は「キースのルビコン」(脳の容積が750cc以上がヒトで、それより以下がサルとする説、Cerebral Rubicon)といわれる学説が支配的でダートが発見した化石は類人猿とみなされた。しかし1950年にアメリカの学界でアウストラロピテクスは猿人として認められ、ダートの名誉は回復している。猿人は原人へと進化し、100万年以上前にアフリカを出て世界各地に広がったが、アジアに渡ったジャワ原人、北京原人やヨーロッパに渡ったネアンデルタール人は、少なくとも3万年前には絶滅したとされる。つまり旧人から新人へと進化した(多地域進化説)のではなく、約16万年前にアフリカで登場した新人(初期ホモ・サピエンス)が約10万年前にアジアにも広がり、それが現代人へとつながったという説(アフリカ単一説)が有力である。とくに旧人(ネアンデルタール人)と新人の関係はその順ではなく、新人の方が早く登場した。現在では猿人、原人、旧人、新人という化石人類の4分類は、人類学会では用いられなくなっている。ミトコンドリアDNAの研究では、世界中に分布する人間の集団におけるマイクロサテライト(人類の遺伝的差違の大部分を占める遺伝子領域)解析の結果、中東に住む集団と北東シベリアに住むヤクート族の集団の先祖において、ボトルネックが生じた可能性が高いという。つまり20種類もの人類が現れては消えてゆき、わずか4~6万年前に「出アフリカ」を果たした一団が現生人類(ホモ・サピエンス・サピエンス)となって世界各地に広がったとされる。これまでに人類はおよそ1000億人が生まれたと推計される。そして高度な文明を築いた人類は77億人を数えるまで増加した。

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  やがてそれぞれの地方の気候や風土に適応してモンゴル(黄色)人種、ネグロ(黒色)人種、コーカサス(白色)人種などの人種にわかれた。(世界史、アーサー・キース)

 

脳容積の比較
 猿人(490万年前) 435~600cc
  原人(70~40万年前) 800~1300cc
  旧人(15万年前)  1300~1600cc
  新人(数万年前)  平均1600cc

 

 

 

 

 

 

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