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2023年6月29日 (木)

エカテリーナ女帝に謁見した日本人

 天明2年の12月、伊勢の白子の浦から、船頭大黒屋光太夫と16人の水夫の乗る1艘の船が江戸に向けて出発した。途中で風雨にあって漂流したこの船は、太平洋を北上し、7日後にようやくロシア領のアムチトカという小島に漂着した。かれらは、はじめは現地人とともに狩猟に従事した。その後、ロシアの保護のもとに、イルクーツクの日本語学校などで数年間を過ごしたが、光太夫はペテルブルグにおもむき、エカテリーナ女帝に謁見して、帰国を嘆願した。ロシアはこれを機会に、光太夫と生き残りの船員たちを松前まで送還するとともに、ラックスマンを使節にして、日本に国交を求めてきた。自分の意志と関わりなく11年間の国禁の海外生活を送った光太夫は、帰国後、幕府役人からきびしい尋問をうけたあと、他人との交流を断つために幕府の薬園に入れられ、その後、34年間もの拘禁状態のままで、78歳の生涯をおえた。鈴鹿市に大黒屋光太夫記念館がある。

 

家康を助けた佃煮

Tokugawa01   本能寺の変により堺からの脱出を試みた徳川家康は、摂津国の佃村の庄屋・森孫右衛門から道中食として小魚煮を与えられた。この佃煮を伊賀衆らと一緒に食べて、無事、岡崎城へたどりついたといわれる。以来、家康の佃村への信任は篤く、江戸幕府を開くや、彼らを招き、隅田川下流の中州を与えて厚遇した。正保3年6月29日、佃島に住吉神社が造営され、参拝客に振舞われた佃煮は、全国に広まった。この日にちなんで「佃煮の日」と制定されている。

どうする家康

Photo_6  徳川家康の側室の数は定かではないが、確認できるところ19名といわれている。実際はそれ以上いたらしい。そして家康は、これらの女性たちとの間に16人の子をもうけたといわれています。NHK大河ドラマ「どうする家康」は、松本潤をめぐる豪華な女優陣が集結。織田信長の娘に久保史緒里。側室於愛の方に広瀬アリス、側室お万に松井玲奈、側室お葉に北香那。亀姫に當真あみ。そして正室瀬名に扮するのが有村架純。瀬名は、家康より年長で驕悍な女性だった。瀬名は、今川義元の養女とされるが、実は義元の姪になる(母は今川義元の妹、父は今川氏の重臣の関口親永)。駿河の今川館へ人質として来ていた松平元信(徳川家康)と、弘治2年に結婚(家康15歳)した(のちの築山殿)。長男信康と亀姫が生まれたが、結婚生活は円満を欠いたという。今川義元が桶狭間で戦死すると、信康とともに岡崎城に入る。城の築山曲輪に館があったので、築山殿という。家康との不仲、甲斐の医者滅敬(めっけい)との不倫など悪評があった。信康の妻に織田信長の娘徳姫を迎えるが、嫁と姑は不仲だった。五徳は、築山と武田の使者・千代との密会を信長に報告する。天正7年8月29日、築山殿は浜松城へ呼びだされ、途中、佐鳴湖畔の富塚(浜松市)で、家康の命を受けた家臣に殺害された。廟所が浜松市の西来院にある。ついで、信康に切腹を命じた。この事件の背後には、徳川家内の浜松派と岡崎派の争いがあり、家康が武田氏寄りの岡崎派を一掃するために、信康を処断したのではないか、という見方もでている。(どうする家康第24・25回)   築山殿の死後さまざまな不吉がおこり、その殺害に加わった家臣が怨霊のために不幸にみまわれたという。そのため築山殿を殺害した家臣のひとり野中重政の子孫が、100年後、二基の石燈籠を寄進したという。八柱神社(岡崎市欠町)には築山殿の塚(画像)がある。「どうする家康」は本能寺の変まであと5回。大河で本能寺の変が描かれるのは19度目となる。天正10年、本能寺の変のときは堺にいて危うくまぬがれ、小牧・長久手で秀吉と戦うが和睦する。慶長5年、関ケ原で石田三成と戦い、勝利する。最強の武将となった家康は、征夷大将軍となって江戸に幕府を開く。30年前の「徳川家康」と比べ、今回はスローペースで進行している。(参考:久野仙雨「築山御前紅涙史」)

2023年6月28日 (水)

芙美子忌

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 林芙美子は、幼少より下層社会の生活を体験し、暗い人生経験を日記体で記した小説「放浪記」が昭和恐慌の時代ともあい大ベストセラーとなった。戦後も「うず潮」「晩菊」や「浮雲」など名品を残した。生前、色紙などで、「花の命は短くて苦しきことのみ多かりき」を書いた。 

    1951年のこの日、林芙美子(1903-51)は心臓麻痺で急逝した。47歳没。明治36年12月31日、山口県下関市田中町のブリキ屋槙野敬吉の二階で生まれ(北九州の門司説もあり)、本名は林フミコ。父宮田麻太郎(明治15年生まれ)は愛媛県周桑郡の出身で、この頃は行商人であった。母林キク(明治元年生まれ)は、鹿児島県東桜島故里温泉の自炊温泉宿林久吉の姉で、父新左衛門は鹿児島市で常磐紅という薬用製紅業をいとなんでいた。宮田麻太郎は温泉の泊り客で、キクと親しくなったのであろう。宮田は質流れの品を扱う店を繁盛させたが、芸者を呼び入れて妻妾同居を強いたため、明治43年の旧正月の雪の降る日に、キクは芙美子(7歳)を連れて19歳年下の番頭の沢井喜三郎と出奔した。沢井が古着の商いに失敗してから、親子は行商で九州を渡り歩いた。芙美子の男性遍歴は、岡野軍一にはじまり、田辺若男、野村吉哉、手塚緑敏と続く。 幼少よりの暗い人生経験を日記体で記した小説「放浪記」が昭和5年に改造社から出版されるとベストセラーになり、一躍流行作家の仲間入りを果たした。それまでの流転地は下記のとおり。

 

明治43年 長崎市勝山小学校に入学

明治44年 佐世保市、下関市

大正3年  鹿児島市

大正5年  尾道市

大正11年 東京雑司ヶ谷

大正12年 根津、芝浦、尾道

大正13年 神田、本郷

大正14年 渋谷道玄坂、世田谷区太子堂、世田谷区瀬田

大正15年 本郷3丁目、尾道、本郷蓬莱町、下谷茅町

昭和2年 高円寺、和田堀

昭和5年 淀橋区上落合三輪850番地(家賃月12円) 「放浪記」を改造社から出版し、印税により生活安定する。

2023年6月26日 (月)

呉下の阿蒙にあらず

   呂蒙(178-219)は、呉の孫権に仕えた謀将。字は子明、汝南郡富陂(ふは)の人。15、16歳のころから戦場で活躍してきたが、自分の勇気と膂力をたのんで学問をばかにしてきた。

   あるとき、孫権は武骨一点張りの呂蒙と蒋欽のふたりに「そちたちも、いまではひとかどの武将であるが、さらに伸びようとおもうなら、武芸だけでなく、きちんと学問を学んで、自己啓発につとめることだな」とさとした。

   主君の言で奮起した呂蒙は、それから勉学にいそしんだ。兵法や教養書を懸命に勉強し、数年後には、呉国でも有数の戦略家に成長していた。

  周瑜没後、その後任となった魯粛が任地の陸口へ赴く途中、魯粛は後輩の呂蒙を訪ねた。ひさしぶりにあれやこれや話してみると、どうしてどうして、呂蒙は見識も高く、兵法にもつうじており、その教養に驚かされた。

   「これは見直したよ。貴方は武辺一点張りの人と思っていたが、そんなに勉強しているとは知らなかったよ」

   そこで魯粛は感心したようにこうつぶやいた。

   「復(ま)た、呉下の阿蒙に非ず」(「呉志・呂蒙伝注」)

   いつまでも、昔の呉の城下にたむろする蒙ちゃんではない、という意味である。阿というのは人名につける接頭語で、日本語の○○ちゃんに相当する。

   この故事から、無学の徒を「呉下の阿蒙」というようになった。このとき、呂蒙はこう答えている。

   「士、別れて三日、すなわち更に刮目して相い待(たい)すべし」

   士たるもの、別れて三日もすれば、よくよく目をこすって見直さなければいけないという意味で、これも名言としてよく知られている。

では呂蒙は、どのような活躍したのか。晩年、荊州地区の責任者として陸口に駐屯していたが、巧みな謀略で蜀側の責任者関羽の油断を誘い、荊州から蜀の勢力を一掃することに成功した。

 

 

 

王安石の新法

    南宋の沈晦は「古えより現在に至るまで、大英才はたった三人しか現れなかった。まずは孔子。つぎは王安石と蘇東坡がセットで二人め。三人めはほかならぬ吾輩である」と言っている。三浦國雄は「王安石」(集英社)の劈頭で「沈晦が三人めに自分を加えたのはご愛嬌として、当時の人物評価を反映しており、公平である」としている。王安石のように、学・識・才の三拍子がそろっており、政治家としても傑出していた人物は中国の歴史を見渡してもざらにはいない。王安石の清廉な人柄を知る逸話を紹介する。

    王安石が知制誥(ちせいこう。詔書をつかさどる官職)となったときのこと。呉夫人は夫の王安石のために妾を一人買った。その妾を見て、王安石はたずねた。

「何だ、おまえは」

「夫人のお言いつけで身のまわりのお世話をしてまいった者です」

「どこの家の者だ」

「わたくしの夫は、軍の御用をつとめて、米を運んでいましたが、舟が沈没してしまいました。損害をつぐなうため、財産を全部売り払ったのですが、それでも足りないため、わたくしが身売りされた次第です」

王安石は気の毒そうに、

「わたしの妻は、おまえをいくらで買ったのか」

「九十万銭です」

それを聞くと、王安石は、彼女の夫を呼んで、もとどおり二人を夫婦にしてやり、そのうえ多額の金まで恵んだという。

(和田武司「宋名臣言行録」徳間書店)

  王安石(1021-86)。撫州・臨川の人。字は介甫。揚州の幕職官から諸官を歴任して翰林学士となり、神宗の信任を得て同中書門下平章事となる。宋は北方民族の侵入に備えるための防衛費が国家財政を圧迫したため、財政再建の革新政策を断行した。青苗法、募役法、保甲法、均輸法、市易法など。しかし、保守派からの激しい反対にあって、不遇な晩年であった。

   蘇軾(1036-1101)。蘇東坡。眉山の人。経書や歴史に精通し、一日に数千言を書くほどの文章家。宋代随一の詩人と称せられ、「赤壁賦」などは有名。紹聖(1094-1098)の初年、政争の犠牲となって弾劾せられて恵州に流され、さらに海南島に流された。徽宗のとき大赦で戻る途で客死。享年66歳。なお、父の蘇洵、弟の蘇轍とともに三蘇の称がある。

    ところで、王安石には、釣りをしていて魚の餌を食べた話などユーモラスな逸話が多数伝わる。若いときから学問を好み、一度目を通した書物はけっして忘れることがなかった。菓子をそばにおいて食べながら勉強していたが、菓子のなくなったのに気づかず、自分の指を噛んでしまったという。

「す」 ファースト・ネームから引く人名一覧

Mv5bmji2ntuxotg4m15bml5banbnxkftztc   映画「ある愛の詩」でオリバーとジェニファーが出会う場面。ジェニファーが「オリバーは名、それとも姓?」と訊ねる。Oliverはオリバー・クロムウェル(清教徒革命の軍人)や女優スーザン・オリバー(画像)のように姓と名、両方につかわれる。▽「スヴェトラーナ・アレクサンドロヴナ・アレクシエ―ヴィッチ」ウクライナ生まれのノーベル賞作家。代表作「戦争は女の顔をしていない」。▽「スーリヤヴァルマン2世」アンコール王朝最盛期の王。アンコール・ワットを建設したことで有名。

スー・リヨン
スヴァトスラフ・リヒテル
スヴェトラーナ・アレクサンドロヴナ・アレクシエーヴィッチ
ズオン・バン・ミン
スカーレット・ヨハンソン
スキータ―・デイヴィス
スコット・ウルフ
スコット・グレン
スコルピオン1世(エジプト先王朝時代のファラオ)
スーザン・サランドン
スーザン・ジョージ
スーザン・ストラスバーグ
スーザン・ヘイワード
スーザン・ブライアリー・アイザックス
スザンナ・ヨーク
スザンヌ・プレシェット
スタニスラフ・ブーニン
スタニスワフ・レム
スターリング・ヘイドン
スタン・ゲッツ
スタン・フランク・ミュージアル
スタン・リー
スタンフォード・ムーア
スタンリー・キューブリック
スタンリー・クラーク
スタンリー・クレイマー
スタンリー・トゥッチ
スタンリー・ドーネン
スタンリー・ブラック
スタンリー・ベーカー
スタンリー・ボールドウィン
スティーヴィー・ワンダー
スティーブ・カレル
スティーブ・グッテンバーグ
スティーブ・ジョブズ
スティーブ・ジョーンズ
スティーブ・ブシェミー
スティーブ・マックィーン
スティーブ・マーティン
スティーブン・カンプマン
スティーブン・キング
スティーヴン・クレイン
スティーブン・スピルバーグ
スティーブン・セガール
スティーブン・ソーダーバーグ
スティーブン・ソマーズ
スティーブン・ソンドハイム
スティーブン・ダルドリー
スティーブン・ドーフ
スティーブン・フォスター
ステイーブン・フリアーズ
スティーブン・ボイド
スティーブン・ホーキング
ステイシー・キーチ
ステパン・ラージン(ステンカ・ラージン)
ステファーヌ・オードラン
ステファヌ・マラルメ
ステファニア・サンドレッリ
ステファノス・チチパス
ステファン・ウロシュ4世ドゥシャン
ステファン・ネマニャ
ステラン・スカーシュゴード
スパイク・ジョーンズ
スパイク・リー
スバス・チャンドラ・ボース
スハルト
スバンテ・ペーボ
スベトラーナ・アレクシエービツチ
スペンサー・トレーシー
ズビグニエフ・チブルスキー
スピロ・セオドア・アグニュ―
スーリヤヴァルマン2世
スロボタン・ミロシェヴィッチ

 

 

2023年6月25日 (日)

「活字離れ」50年 ことばの誕生

   週刊朝日が6月9日号で休刊した。ある調査によると日本人の6割は「読書習慣はない」という結果がでている。とくに文芸書の凋落は顕著で、ここ10年の間に読書人口は4分の1になっている。今の若者たちはスマホ、SNS、ゲームに興ずる時間が多く本にほとんど魅力を感じていない。「若者の活字離れ」という現象が教育関係者に問題視されてから久しい。「活字離れ」という変わった言葉が使われたのは何時ごろからだろうか?。言葉の初出を文献から調査することは気の遠くなるような労力を要する。たとえば「図書館雑誌」や「みんなの図書館」のバックナンバーなどを基にして調査することも可能であるがまだ実施していない。おそらく1980年代初頭には使われていたと記憶するが、実際には1970年代初頭に既に文献に見える。本来は「活字離れ」よりも「読書離れ」のほうが適切な場合もあるが、先行する言葉として「読書離れ」という言葉があったかどうか現在のところ不明である。読書調査などでは前置きのように頻繁に使われるのは何時頃からか明らかにしたいと思っている。主に出版界で「若者の活字離れ」「文芸書は売れない」などという噂が出回ったのが流行の一因であろうか。おそらく1978年の筑摩書房倒産がひとつの転機だったかもしれない。文学全集が売れない時代になった。ざっと50年の歴史がある言葉だが流行語といった華やかなものでないので用語辞典には初出があきらかではない。今後もずっと使われ続けるだろう。初期の文献には次のようなものがある。

 

「資料からみた活字ばなれ」福沢周亮 言語生活 1979年5月号

 

「活字離れ」論ノート 水野博介 桃山学院大学社会学論集14-1 1980年

 

「子どもの読書離れを防ぐには」 作山静男 学校図書館 1988年4月号

 

いろいろ調査していくうちに、「活字中毒」という言葉もあることに気がついた。文献で古いものをあげる。

 

「もだえ苦しむ活字中毒者地獄の味増蔵」 椎名誠 1982年

 

「素敵な活字中毒者」  日本ペンクラブ 1983年

 

「あえて時代錯誤に挑む二つの百科事典 活字ばなれ派(小学館)×活字中毒派(平凡社) 前田愛 Asahi Journal 1984年12月7日

 

   そして、現在確認できるなかで最も古い文献。

 

「活字離れの現実をどう考えるか」講演会の記録 出版科学研究所           
1972年11月

2023年6月24日 (土)

ソルフェリーノの戦い

  1859年のこの日、ナポレオン3世率いるフランス帝国とヴィットーリオ・エマヌエーレ2世率いるサルディーニャ王国軍の連合軍が、フランツ・ヨーゼフ1世率いるオーストリア帝国軍と戦い、フランス・サルディーニャ連合軍が勝利し、翌年イタリアの統一に向かう。日本史に例えるなら、鳥羽伏見の戦い。ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世が明治天皇、ガリバルディが西郷隆盛、アンリ・デュナンが松本良順か。

現代戦はプーチンやゼレンスキーは戦場からは離れた大本営に常にいるが、ソルフェリーノの戦いまでは、当事国の君主が親征に出て軍を指揮していたという、世界戦史上、最後の戦争といわれている。(6月24日)

 

加賀の一向一揆(1488年)

 富樫氏は、室町時代に加賀国を支配する守護大名である。富樫政親は応仁の乱が勃発すると細川勝元方の東軍に与した。ところが、弟・幸千代が西軍に与して敵対したので、政親は家督をめぐって弟と争う羽目となった。文明3年富樫幸千代を倒す。文明7年、一向衆徒を弾圧した。文明13年、越中で一揆が発生した。長享2年、政親が攻撃するや、本願寺門徒の農民・越中の門徒が協力して高尾城を攻めおとし、富樫政親は自害した。以後1世紀にわたり加賀国は自治支配を行った。

 

2023年6月23日 (金)

作家の前歴しらべ

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 「映画ストーリー」編集者時代の向田邦子

 

   ほとんどの作家はさまざまな職歴を経て職業作家として独立している。なかでも新聞社や出版社に勤務していた人は多い。横山秀夫は上毛新聞社、船山馨は北海道新聞、井上靖は毎日新聞社、司馬遼太郎は産経新聞社、そして松本清張は朝日新聞社の広告部だった。そのほか伊藤永之介は新秋田新聞社、北原武夫は都新聞社。古いところでは国木田独歩の国民新聞社。向田邦子は映画雑誌や雄鶏社の編集員。吉行淳之介や椎名誠は雑誌の編集員。教師も多い。石坂洋次郎、中島敦は女子高。海音寺潮五郎は中学教師。宮沢賢治は稗貫農学校。坂口安吾は小学校の代用教員。官公庁関係では芹沢光治良は農商務省、小田嶽夫は外務省、梅崎春生は東京市教育局、野間宏は大阪市役所。阿刀田高は国立国会図書館、中村地平は宮崎県立図書館長、又吉栄喜は図書館司書。医者では森鴎外は軍医、藤枝静男は眼科医、なだいなだ・北杜夫は精神科、伊藤左千夫は牛乳屋。

   会社員では山口瞳・開高開高健が洋酒の寿屋宣伝課。筒井康隆は展示装飾の乃村工芸社。

   変わったところでは、水上勉はお坊さん、吉川英治は横浜ドッグ会社の船具工。江戸川乱歩、出久根達郎は古書店。山本周五郎は質屋の店員。室生犀星は裁判所事務員。井上光晴は炭鉱夫。椎名麟三は車掌。村上春樹はジャズ喫茶店主。ほかにももっと意外な職業の作家がいるだろうが只今調査中。

遣唐使・井真成の謎

 遣唐使は、630年から894年の中止まで、十数回にわたって行われた。当時は、航海術が未発達で、船が途中で遭難することがたびたびあった。阿倍仲麻呂は帰国できないまま、生涯、唐の皇帝につかえた。

    2004年、西安近くの工事現場で一つの墓誌が発見された。「日本」という文字が記された歴史的史料のなかで、実物が確認されたもっとも古いものの一つである。井真成は阿部仲麻呂などともに717年留学生として唐に渡った。このとき19歳であった。(阿倍仲麻呂は20歳)そして734年に36歳の若さで亡くなっている。玄宗はその才能を惜しんで、栄誉を称えて官位を贈った。当時の遣唐使の生還率は6割以下といわれて、無事に帰国できない人も少なくなかった。井真成がとんな人だったかをめぐっては、さまざまな論議がある。中国の学者たちは当時「9年以上滞在できない」とする規則があったことから、亡くなる前年に中国に到着した遣唐使の一員と考えている。井真成は若い留学生だったのか、それとも中年の域を迎えた役人だったのか、あつい論争となっている。ちなみに「日本」が記された記録としては、これより数年古く、唐先天2年(713)の「徐州刺史杜嗣先墓誌」に「皇明遠被、日本来庭」とある。(葉国良「唐代墓誌考釈八則」同『右学続探』台北:大安出版社,1999年,128ページ)

 

Photo 蓋石拓本 贈尚衣奉御井府君墓誌之銘

ナポレオンのロシア遠征

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 背広の袖にボタンが付けられることになったのは、英雄のナポレオンが関わっている。ロシア遠征の時、フランス兵たちが寒さのあまり鼻水を袖で拭うの見かねて、外套の袖口にボタンを付けさせてそれを防止したのが始まりといわれている。

    ヨーロッパ統一をめざすナポレオン(1769-1821)は、1812年6月22日、47万の大軍を率いて、コヴノ付近の4つの橋で、国境付近を流れるニーメン(ネマン)川を渡り、ロシア領内に侵攻した。ここに同年12月までの約半年、ロシアにおいて戦争が始まった。ナポレオン軍は9月14日にはモスクワに入城したが、ロシアのクトゥーゾフ(1745-1813)の焦土作戦により兵糧米が不足し、厳寒のなかでの撤退を余儀なくされ、ヴィヤシマ、スモレンスクの戦いは壊滅的な敗北を喫した。6月に47万人の兵士がニーメン川に架かる橋を渡ったが、12月にこの橋を渡った者はわずか5000人だった。ニーメン川はベラルーシに源を発して、リトアニアとロシア連邦カリーニングラード州を流れ、バルト海の一部であるカルシュ海に注いでいる。

ナポレオン軍の兵力消耗状況
6月 ニーメン川渡河   47.5万
7月 ヴィテブスク     37.5万
8月 スモレンスク     15.5万
9月 ボロディノ       13万
9.14  モスクワ入城     11万
10.19 モスクワ退却    10万
11.9   ヴィヤシマ      5万
11.9   スモレンスク      3.7万
11.28 ベレジナ       3万
12.10 ニーメン川渡河   0.5万

 

 Napoleon,Kutuzov

2023年6月22日 (木)

春秋の五覇

   中国文明は周辺の諸民族に普及してその興起をうながすが、ときに異民族の侵入を受ける時代もある。周王朝は前770年、西夷、犬戎などの難をさけて、都を東の洛陽に移した。以後を東周と呼ぶ。周は弱体化し、諸侯は領土国家を形成し、互いに覇を争った。この同盟の盟主を覇者と呼ぶ。春秋の五覇とは、斉の桓公、晋の文公、宋の襄公、秦の穆公、楚の荘王とする説と、宋襄、秦穆を除いて、呉王夫差、越王勾践を加える説とがある。

 春秋時代のはじまりは、周の平王が洛陽に遷都した前770年とする説と、孔子が編纂した『春秋』の記録に、魯の隠公元年、つまり周の平王の在位49年に始まることから、春秋時代の開始を前722年とする説がある。

七難を(しちなんを、前770年) 背負いて競う春秋の五覇

地名、人名をルーツにした名称の由来

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   エポニムとは、既に存在する事物の名に因んで二次的に命名された言葉のこと。ジーンズはイタリアのジェノバで製造され、外国へ輸出されたことからジェノバという地名に由来する。デニムも同様にフランスのニームに由来する。バドミントンはイギリスのグロースターシャーにあるボーフォート公の所領と邸館の名称。1870年代、バドミントンが考案されて、ここの地名が競技の名称として広まった。競馬ダービーはダービー卿と所領地名に由来。

898900041f596749   新発見の地名には発見者などの名前をつかわれることが多い。有名なのはアメリカの名の由来、アメリゴ・ベスプッチだろう。エベレスト、マゼラン海峡、ビクトリア湖、ビスマーク諸島、クック諸島、間宮海峡、タスマニア島などもよく知られている。タスマニア島の発見はオランダの探検家アベル・タスマン(1603-1659)である。ブーゲンビル島は発見者のブーガンヴィル(1729-1811)に因む。ギルバート諸島も発見者のイギリス人のトーマス・ギルバート船長に因む。マーシャル諸島もイギリス東インド会社に属するジョン・マーシャル船長に因んでいる。南極のロス海は発見者ジェームズ・クラーク・ロス(1800-1862)に因んでいる。カナダ北東にある大きなハドソン湾は1610年に湾を探検したヘンリー・ハドソンに因んでつらられた。同じくカナダにあるドーソンという山は発見した地理学者ジョージ・マーサー・ドーソンに因む。ニューヨークはオランダからイギリスの支配下に移った1664年、ヨーク公に因んでニューアムステルダムからニューヨークと改称された。ペンシルヴェニアはウィリアム・ペンにちなむ。カナダのバンクーバーはイギリス海軍士官・探検家ジョージ・バンクーバー(1757-1798)が名祖である。

 

    モスクワの東方400㎞にある都市ゴーリキーは文豪マクシム・ゴーリキーに因んで付けられたが1990年、旧名ニジニ・ノヴゴロドに戻った。中央アメリカにあるニカラグアは酋長二カラオ(Nicarao)に因んでつけられた。カナダのバンクーバーは英探検家ジョージ・バンクーバーに由来する。アメリカのペンシルバニア州はウィリアム・ペンに因んで「ペンの森」(ペンシルバニア)と命名された。ニュージーランドの首都ウエリントンはワーテルローの戦いでナポレオンに勝利したウエリントン卿にちなんでいる。ベトナムのサイゴンは革命家ホーチミンの名前にちなんで改名した。月形町は月形潔、道玄坂は大和田道玄に因んでいる。

 

Vitusbering1sized   アジア大陸と北アメリカ大陸との間にあるベーリング海峡。デンマークの探検家ヴィトゥス・ベーリング(1681-1741)に因む。近年に発見された遺骨から推測するベーリングは肖像画(画像)とは大きく異なっていることが判明した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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それでも地球は回っている

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ヴァチカンの宗教裁判に引き出されたガリレオ ジョゼフ・フルーリ 1846年

   1632年2月22日、ガリレオ・ガリレイは地動説の解説書「天文対話」を刊行した。翌年の4月12日には、ガリレオの異端審問が始まった。ローマ法王庁の機密文書館が開設400年を迎えたのを記念し、一般に公開されるようになった。目玉の一つがガリレオが異端審問にかけられた際の裁判記録。ガリレオの署名がはっきりと確認できる。

  ガリレオ・ガリレイ(1564-1642)がはじめて望遠鏡を空に向けた時、宇宙の法則はコペルニクスが正しく、プトレマイオスはまちがっていることを確信した。しかし、ガリレオの提示した理論は、いずれも当時において反論の余地ある仮説の域を脱していなかった。1600年にはジョルダーノ・ブルーノが異端として火刑に処せられている。ガリレオもまた宗教裁判において終身の自宅軟禁を言い渡され、2度とふたたびこの問題を取り上げることは禁止された。1633年6月22日、ガリレオに異端判決が下され、「それでも地球は動いている」と呟いたと伝えられる。盲目となってからもガリレオの研究は最後まで衰えることはなかった。1642年、ガリレオは熱病にかかってフィレンチェ郊外のアルチェトリで死んだ。(Galileo Galilei、4月12日)

浅野長矩辞世の歌は後世の偽作

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    浅野長矩の辞世の歌として知られる「風さそふ花よりもなほ我はまた春の名残をいかにとかせん」は、忠臣蔵映画には欠くことができないものである。これは、刃傷松の廊下の当日、御目付部屋に詰めていた目付、多門伝八郎が記した「多門伝八郎筆記」にみえる。しかし、宝永2年7月(陽暦1705年8月)以降に都乃錦という浮世作家(本名、宍戸円喜)の著作「播磨椙原」にある「風さそふ花よりも亦われは猶春の名残をいかにとかせむ」と酷似している。長矩の辞世は本人の作ではなく、円喜の創作とみるのが自然であろう。

  多門伝八郎重共は元禄14年の赤穂事件において浅野長政の取調べと切腹副検死役をつとめた。「多門筆記」は赤穂側に肩入れした記述が多く見られ、多門の著作ではなく、後世に別人が書いたとする説が有力である。刃傷事件後、元禄16年10月から多門は防火の仕事に従事し、宝永元年6月にはその功績で黄金三枚を賜わった。ところが8月2日になってその務めが良くなかったとされて小普請入りにされ、宝永2年には埼玉郡の所領も多摩郡に移された。享保8年6月22日に死去、享年65歳。硬骨漢は出世コースをはずされ、不遇のうちに一生を過ごしたらしい。

 

 

2023年6月20日 (火)

「アズ・タイム・ゴーズ・バイ」と「イッツ・ビーン・ア・ロング・ロング・タイム」

Casablanca2   パリが舞台の映画はたくさんある。しかしアカデミー作品賞を受賞した恋愛映画となると意外に少ない。「カサブランカ」(1943)と「巴里のアメリカ人」と「恋の手ほどき」。パリでの回想シーンなどはすべてハリウッドのスタジオで撮影されたものである。「カサブランカ」は第二次世界大戦下、政情不安な仏領モロッコを舞台に、恋と友情と自由への闘争を描く。ボガートの渋い男の魅力と、当時27歳のバーグマンの輝くばかりの美しさが、時代を越えて私たちの胸をときめかせてくれる。1946年6月20日、日本で封切りされる。

What about us?

We'll always have Paris?

「私たちはどうなるの?」「僕たちにはいつだってパリの思い出がある」

    ヒットラーの野望が全欧州に広がり、パリがすでにナチスに占領されていた1940年、フランス領モロッコの港町カサブランカには政治亡命者、反ナチの闘士、スパイ、犯罪者、利権屋などが渦巻いていた。そうした人たちの出入りする「カフェ・アメリカン」の経営者リックは苦労人で、侠気からいろんな人々に頼られていた。彼らは一様に転出査証を求めているのだ。折りしもドイツからの2人の急使が殺害されて旅券が奪われる。犯人はリックの店に逃げこみ、偶然その1枚がリックの手にはいった。

   反ナチの大立者ヴィクター・ラズロも妻と共にカサブランカにやってきてアメリカへの脱出の機会をうかがっていたが、それを阻止するためこの地に派遣されたゲシュタポ、ストラッサー少佐の監視はきびしかった。ラズロはリックの手にある旅券を譲ってほしいと頼む。

   カフェを訪れたイルサ・ラズロは、店にピアノひきの黒人がいるのを知って驚く。イルサは鼻歌で「♪ララララララ~」とハミングする。「時の過ぎ行くままに」という曲がかつての恋人イルサとリックを再会させたのだ。パリ陥落の日、愛し合うリックとイルサはともに脱出するはずだった。だがイルサのやむを得ぬ裏切りからふたりは離ればなれになったのだった。

   灼熱の太陽が白壁にまぶしい辺地で、昔日の愛情は再び燃えあがる。イルサははじめてなぜにパリで約束の時間に行かなかったかをリックに語る。それはナチスに捕らえられて死んだと思っていた夫が、重態でかくまわれていることを知ったためだった。

   ラズロは暗黒街の顔役フェラリに頼んで旅券を手に入れようとする。1枚さえあれば妻をアメリカへ逃避させることが出来るのだ。またイルサはリックに1枚を夫に渡してくれと頼む。ラズロが妻を深く愛していることを知ったリックは、夫の解放運動にもどんなに彼女が必要であるかを知って自分の恋をあきらめる決心をする。

   カサブランカの警視総監ルノオ大尉はリックの身辺や「カフェ・アメリカン」に大きな変化があるのを感じていたが、ストラッサー少佐には報告しなかった。彼には自由のために戦う尊さが次第に分かりかけてきたのだった。

   リックの体内にも昔日の闘志がよみがえってきた。ルノオ大尉をあざむいて同志の会合に出かけて捕らえられたラズロを釈放させ、それから脱出の手はずを整える。それはリツクがイルサとリスボンへ駆け落ちするかのようにみせかける大芝居をうつことだった。

   脱出を知ったゲシュタポのストラッサー少佐は、阻止せんものと飛行場にかけつけるが、リックは射殺してしまう。それを見ていてもルノオ大尉は逮捕しようとしなかった。彼もまた自由人なのだ。

   リックはルノオ大尉と共に夜空にリスボンをめざして飛んで行くラズロ夫妻の機をじっと見送るのだった。

主題歌「アズ・タイム・ゴーズ・バイ」(原曲は1931年)は自由を求める最高のラブソングである。後年、バーグマンはある番組でスペシャル・ゲストでフランク・シナトラが突然に現れて「時の過ぎ行くままに」を披露し、感激のあまり抱擁する映像がyoutubeでみれる。

 「時の過ぎ行くままに」と同じように、第二次世界大戦の終結で、人々に平和な日々が帰ってきたことの喜びを感じさせてくれる歌がある。歌詞は「私に一度キスして、それから私に二回キスして。それからもう一回私にキスして。それはそれは長い、長い時間」英語の歌詞「It's  been a long、iong time」(原曲は1932年)とかいった。先日、たまたま伊東ゆかりの「ひさしぶりね」という歌を聴くと、懐かしいその曲だった。原曲は1945年の「イッツ・ビーン・ア・ロング・ロング・タイム」だった。ハリー・ジェイムズの甘美なトランペットとキティ・カレンのボーカル。長らく会えなかった夫や恋人の器官ほ待ちわびていた人たちの心情に合い、大ヒットした。

石塚友二「松風」

 小説家・石塚友二の短編「松風」を読む。私小説的な味わいのある佳品である。富岡夫妻が私に縁談をすすめた。相手は君も知っている人で、君のこともよく知っていてそして君のとろへなら来てもいいといっている。早く返事がききたいといっているので、なるべる近いうちに僕のところへ来てくれたまえ。ただ一度だけあったことがある。5年ほど前のことである。十五六で母を喪って以来、父には妻代わり、幼い弟妹には母親がわりになつて、これまでむずかしい嘉慶をきりもりしてきたこと、それでもちっともいじけずに純良な心を保っていること、そして今年二十二歳のこと、などがきかされた。私は「貰うことに決めた」といった。富岡は「そう、それはほんとうによかった」日曜に家に来てもらうことにした。男1人ずまいの荒れきった室内とともに余さず琴音に示した。「まあいい家だこと」こういう表現が何らの嫌味を伴わずに、まさに奔ったかのようにききなされたのだった。結納の取交しの日取りも極り、それはほんの形ばかり目録だけの交換ですます言い合せだったが、それにしても私には皆目見当がつかないので、言われただけの金額を富岡の許へ持参して万事託することにした。式の日取りも決まった。四月五日だ。もの憂く、落着かなない日が続いた。その間にもたいてい琴音と会った。「なんにもできない不束者でございます。あなたのお思いどおりに叱って行っていただきます」琴音はそういうと手をついて静かに頭を垂れた。青年が結婚するまでのありふれた話であるが、さわやかな読後感がある。

 

 

 

 

 

 

カタラウヌムの戦い

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 カタラウヌムの戦い

 

    パリ東方シャンパーニュ地方のカタラウヌム(またはカンプス・マウリアクス)。ここで451年6月20日、東西の雌雄を決する大戦が行われた。西ローマのアエティウスを総大将とする西ヨーロッパ連合軍とフン族のアッティラ(406?-453)の率いる大軍が激突。凄惨な戦いは一日中続き、ローマ側主力軍の西ゴートのテオドリックが戦死したが、軍配はかろうじて西ヨーロッパ連合軍にあがった。敗れたアッティラは、452年、ヴェネツィアを荒らし、ミラノを占拠する。だがアッティラの陣営に疫病と飢餓が発生する。教皇レオ1世はアッティラと交渉し、フン族は莫大な貢納の約束とひきかえに、イタリアから撤退することになった。(Attila)

2023年6月19日 (月)

猫の名前あれこれ

P4_img1_e   お茶の水小学校(東京都千代田区猿楽町1丁目)の校庭には夏目漱石の記念碑が建てられている。「吾輩は猫である。名前はまだ無い。明治11年夏目漱石 錦華に学ぶ」とある。当時の校名は錦華小学校だった。

    漱石家の3代目の猫が死んだあと、書斎を訪ねた野村胡堂が、次の猫を飼うのですかと質問すると、「それなのです。私は、実は猫が好きじゃない。世間では、よっぽど猫好きのように思っているが、犬の方がずっと好きです」と答えたという。漱石が実際に飼っていた黒猫も名前をつけてもらえなかったらしい。猫の名前も昭和と令和の時代では大きく変化している。むかしは「ミケ」「タマ」「タロー」「ハナコ」「トラ」「チー」など平凡な名前に人気があった。アニメ「トムとジェリー」からとった「ジェリー」もあった。令和5年の総合ランキングでは「ムギ」が今年も4年連続で1位を獲得した。男の子部門では3位、女の子部門では2位。呼びやすく、かわいらしい響きが人気なのかもしれない。そのほかには、ムギ、ソラ、レオ、ルナ、ココ、モモ、ヤナコ、マル、モカ、ベルなど。

漢字部門では、男の子部門では、福、琥珀、茶々丸、空、大福。女の子部門では、麦、凛、花、琥珀、姫。

 

2023年6月18日 (日)

おにぎりの日

Onigiri_01  本日は「おにぎりの日」。「おにぎり」は英語で、rice ball。おにぎりと思われる米粒の塊が弥生時代の遺跡から発見されている。おにぎりの直接の起源は平安時代の「頓食」(とんじき)という食べ物だと考えられている。この頃のおにぎりは楕円形のかなり大型で、使われているのは蒸したもち米であった。鎌倉時代の末期頃には、うるち米が使われるようになった。おにぎりに海苔が巻かれ、現在のような形になったのは、そんなに古いことではなく、江戸時代中期と言われている。加工された四角い板海苔が「浅草海苔」などの名称で一般に普及したのは元禄の頃である。海苔は、栄養が豊富でかつ、手にご飯がつかないという便利さも相まってむ、おにぎりに海苔を巻く習慣が定着した。今や国民食となった「おにぎり」だが、もっとも一番好まれる具は何か?ある調査によると、1位が鮭で、以下、ツナマヨ、梅干し、明太子、昆布、たらこ、おかか、と続く。一般的に高菜は人気がないが、新垣結衣、ガッキーの好物は意外にも高菜ということである。(6月18日)

 

 

 

 

 

 

ワーテルローの敗因は情報伝達ミスだった…

  映画「ワーテルロー」は19世紀初頭ヨーロッパの運命を決定したワーテルローの戦いを早朝から夕方までの戦況を克明に描いた作品。フランス皇帝ナポレオンをロッド・スタイガー、イギリス軍司令官ウェリントン提督をクリストファー・プラマーが扮する。1815年、追放先のエルバ島を脱走し、フランス皇帝として復権したナポレオン。ヨーロッパ各国はこれに対して軍備を整え、1815年6月18日ワーテルローの大決戦がはじまる。ワーテルローはべるぎーのブリュッセル東南にある村。10万の兵を超えるフランスのナポレオン軍と、知将ウェリントン率いる6万の英軍とブリュッヒャー率いる7万のプロイセンとの連合軍が激突する。ブリッヘル指揮するプロシア軍が攻撃し、結果はナポレオンの大敗に終わる。映画では仏軍エマニュエル・ド・クルーシー(チャールズ・ミロットが演じる)がプロシア軍を深追いしたためワーテルローの主戦場に到着が遅れたといわれる。また一説によると、ワーテルローの敗因は、ナポレオンの命令書の文字が悪筆のため「援軍よこせ」と書いたつもりが、「うまくいっている」と誤読したため、味方の将軍が援軍に行かなかったからといわれる。

 

 

2023年6月17日 (土)

楠公父子「桜井駅の別れ」はなかった

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  楠公訣別之図  松岡映丘筆

 

  延元元年5月、 足利尊氏の賊軍が九州から再び京都に攻め上って来るとの知らせが朝廷にあった。楠木正成は宮居の松にしばし名残を惜しみ、これが最期の戦と決して、兵庫へ向かった。途中、青葉繁れる桜井の駅(現在、大阪府三島郡島本町)で、嫡子の楠木正行を河内から呼び寄せ、諄々として向後を諭して言った。

    「この度の合戦は天下安危の分かれ目なれば、汝の顔を見るも今日が限りと思う。我れ討死せば世は必ず足利のものとなろう。されど我が楠木一族郎党一人でも生きてあらん限りは、生きかわり死にかわりて七たび生まれても朝敵を攻め滅ぼせ。(七生報国)事成らざれば潔く身命を大君に捧げ参らせよ。命を惜しんで忠義の心を失うべからず。これが父の志にて、汝はこれを継ぐことこそ第一の孝行なるぞ。父がいま申すこと返す返すも忘るるな」と心をこめて諭して、遺品に菊水の銘打ったる短刀を渡した。しかし正行はあくまで父の軍に従いたいと願った。すると正成は「汝もすでに十一。父の志がわからぬか。今死んでは父の志を継ぐ者は誰ぞ」と叱ったので、正行も泣く泣く故郷に帰った。

 これが有名な「桜井の別れ」の名場面である。    正成はそれから兵庫に行って湊川の戦いで敗死した。

 

  *  *  *  *  *  *  *  *

 

   「桜井の別れ」の名場面は戦前、落合直文作詞の「青葉茂れる桜井の(桜井訣別)」が小学唱歌として歌われ続けてきたことからも、一般的には史実として受け入れている人も多い。しかし現在の歴史研究者の多くは「太平記」の桜井の別れの記述は創作とみている。「七生報国」という言葉は、太平洋戦争中に標語となり、出征兵士の揮毫に取り上げられ、特攻隊の襷の文字となった。

    松岡映丘(1881-1938)は兵庫県福崎町に生まれた。実兄に国文学者の井上通泰や民俗学者の柳田国男がいる。上京して、橋本雅邦に狩野派を、山名貫義に大和絵を学んだ。さらに東京美術学校へ入り小堀鞆音の指導を得た。

 

 

2023年6月16日 (金)

マクドナルド マクドナルド1号店  

 昭和46年7月20日、銀座三越1階にマクドナルド1号店がオープンした。ハンバーグを主力商品として、世界規模で展開するファーストフードチェーン店・マクドナルド。マクドナルドはアメリカの大量消費文化やアメリカ帝国による経済支配の象徴と考えられ、各国の民族主義派・保守派や、環境保護活動家、反グローバリズム運動家の攻撃目標となるケースが少なくない。当時、日本人は「ハンバーガー」という食べ物にはなじみがなく、敗戦国という反米思想も一部には残っており懸念する要素もあった。ハンバーガー80円、チーズバーガー100円、コーラ50円。1号店は大変な評判になり、日本各地に続々と店舗が作られ、ファストフードが身近なものとなっていく。日本人は好奇心が旺盛で、新しいものはどんどん受け入れる国民性がある。反米は杞憂のものであった。

 

 

2023年6月14日 (水)

焼跡と映画館

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 名古屋栄町のバラック(昭和20年)

 

  昭和20年8月、日本は太平洋戦争に敗れて、混乱と絶望におちいっていた。終戦後、配給は1人1日1合だった。不法だが闇市で買うしかない。近郊農家への買い出しが男の仕事だった。「戦後いちはやく復興し始めたのは、陸の玄関名古屋駅前であった。焼跡にはバラックやマーケットが建ち始め、大がかりな闇市、納屋橋河畔の大道市、笹島東北角にずらりと並んだアロハ・アーケードなど現在の姿からは想像もつかない状景であった」(名古屋中村区誌)当時の世相を3S時代とか3P時代とかよんでいた。Sはセックス・スクリーン・ストリップ、Pはパンパン・パチンコ・ヒロポンをさしていた。

     戦後の混乱のなかで広小路にいちはやく目をつけた人物がいる。今は無き日本ヘラルド・グループの創業者である古川為三郎(1890-1993)だ。焼跡に立ち、戦後は必ず映画の時代が来ると予想した彼は、昭和21年に「今池国際劇場」「メトロ劇場」、昭和35年には「毎日ホール大劇場」「毎日地下劇場」を開館する。古川の予想どおりどの映画館も長蛇の列ができた。

たばこのはじまり

 世界で一番最初にたばこを吸ったのは誰なのだろうか?たばこを手にしながら、誰しも一度は考えたことがあるのではないだろうか。その答えを探るには、どうやら古代マヤ文明の時代にまでさかのほる必要があるようだ。メキシコにあったマヤ文明の都市遺跡パレンケのエル・フマドールの壁面には「たばこを吸う神」(十字架の神殿)にという、なんとタバコを吸う神の姿が描かている。これが人類とたばこのつながりを示す最古の資料だといわれる。少なくとも7世紀末ごろ(692年)と考えられる。古代マヤの人々は、神へ願いごとをしたり神のお告げを聞いたりする祭祀や儀式に、たばこの葉をいぶした。たばこの葉から立ちのぼる「けむり」と「香り」を天上の神へささげていたのだ。当然、神がお喜びになるという考えから、そうしたのであろう。神と人との交信の道具としてパイプや葉巻などが作られた。

フラッグ・デー

   連続クイズ・ホールドオン最終回の問題。「アメリカ合衆国の国旗「星条旗」。星の色は?」答えは白。四角に区切った左上部(カントン)には青地に50の白い星が配置されている。

  1777年のこの日、「星条旗」を正式にアメリカ合衆国の国旗と定めた。アメリカが独立宣言を行った頃の旗にはイギリスの国旗が入っていた。しかし、独立戦争で戦った相手の国旗が畑に入っていては国民の士気に影響するということで、ワシントンらがフィラデルフィアの旗作り職人ベッツィ・ロスに依頼し、星条旗を完成させた。他方、アメリカの国歌「星条旗」は、1814年、米英戦争のとき、交渉のためイギリス軍艦を訪問したF・S・キーが、要塞にひるがえる星条旗を見て感激し、詩をつくった。曲はイギリスのJ・S・スミスの乾杯歌「天なるアナクレオン」からの流用。1931年に「星条旗」がアメリカの国歌として正式に採用された。(6月14日)

川端康成の生い立ち

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 談笑する川端康成(右)と笹川良一(左)

 

    川端康成(1899-1972)は明治32年6月14日に大阪市天満此花町1丁目79番屋敷(現・大阪市北区天神橋1丁目16-12)に医師川端栄吉とその妻げんの子として生まれた。康成は長男で、七つ年上の姉芳子がいた。父栄吉は東京の医学校を出て、大阪の学塾漢学の教養を身につけており、漢詩、文人画、文学趣味もあった人で、大阪の此花町で開業していた。胸を痛み、虚弱な人であったらしく、康成が生まれた翌年に死んだ。またその翌年、康成が三歳の時母が死んだ。二人とも結核であった。

   二歳で父を、三歳で母を失った康成は、父母の顔の見覚えがない。孤児としての心情がこの作家の生涯につきまとったのは当然である。母が死んだのちは、大阪府三島郡豊川村大字宿久庄字東村という原籍のあるところに祖父母と暮らした。祖母かねは康成を寵愛した。しかしこの祖母もまた康成が八歳のとき死んだ。康成は祖父と二人きりの生活に入った。康成は小学生のころには画家になりたい考えもあったが、中学に入って本を乱読するようになってから小説家を志した。このころ、死んだ母の腹ちがいの姉であった伯母が後家になってこの家にしばらく住み、祖父と孫の二人を世話したことがあった。この伯母にはのちに東京で世話になることが多かったが、康成が肉親として最も大事にした人である。

    祖父は盲であった。盲目の祖父とたった一人の孫の男の子という生活は、たいへん淋しいものに思われる。のちに川端康成はみずから、自分は人の顔を見ている習慣があるが、それはこの祖父との生活の中で得た習慣らしい、と書いている。その祖父も、康成が16歳のときに死んだ。この当時の日記が残っていて、それから10年ほどのちに偶然に発見され「十六歳の日記」として発表された。

2023年6月13日 (火)

読書は最もストレス解消に効果的

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    ストレス解消にはさまざまな方法がある。お金の多寡と関係なく、楽しいことはいくらでもあるはず。家庭菜園、釣り、囲碁、カラオケ。イギリスのサセックス大学で読書、音楽鑑賞、一杯のコーヒー、テレビゲーム、散歩、のうちどれが一番ストレス解消に効果があるのかを実験した。その結果、読書が一番効果があることがわかった。ルイス博士は「我を失うくらいに本に没頭することが究極のリラックス法」だとコメントしている。読書療法は古くから言われているがなかなか進歩していない研究分野である。被験者によって読書の種類が異なる。昔は難しい本が効果的といわれたこともあるが、最近は雑誌など軽読書が良いと言われる。良書ではなく、その人にあった適書が大切である。

 

今日もやっぱり処女でした 夏石鈴子

 

冷蔵庫より愛をこめて 阿刀田高

 

転がる石のように 景山民夫

 

国語入試問題必勝法 清水義範

 

独断流「読書」必勝法 清水義範

 

メディアで欲情する本 別冊宝島

2023年6月12日 (月)

「り」 ファースト・ネームから引く人名一覧

53968  リチャード・ジョージ・ロジャースはイギリスの建築家。パリの「ポンピドゥー・センター」やロンドンの保険会社本社ビル「ロイズ・オブ・ロンドン」の設計が知られる。▽「リチャード・ヘンリー・トーニイ」1880-1962。イギリスの経済史家。▽「リリアン・ラッセル」1860-1922。19世紀末から20世紀初頭の米国ブロードウェイで活躍したオペレッタの女優。▽「リュ―リク」?ー879。ノルマン人のロシア建国者。伝承によれば862年に次兄シネウス、末弟トルヴォルと共にルーシーに入ってノブゴロド国を建国した。▽「リンダ・ラヴレース」1949-2002。米国のポルノ女優。70年代のセックスシンボル。「ディープ・スロート」。

リー・グラント
リー・J.コッブ
リー・トレビノ
リー・トンプソン
リー・ハーヴェイ・オズワルド
リー・バン・クリーフ
リー・マービン
リー・ミッシェル
リー・モーガン
リー・レミック
リーアム・ニースン
リーアム・ヘムズワース
リヴ・アーネセン
リヴ・ウルマン
リヴ・タイラー
リーヴ・シュライバー
リヴァー・フェニックス
リオネル・メッシ
リカルド・モンタルバン
リザベス・スコット
リシ・スナク
リシャール・ボーランジェ
リス・エヴァンズ
リース・ウィザースプーン
リタ・ヘイワース
リチャード1世(獅子心王)
リチャード2世
リチャード・アークライト
リチャード・アダムス
リチャード・アッテンボロー
リチャード・アーミテージ
リチャード・イヴリン・バード
リチャード・ウィスリー・ハミング
リチャード・ウィドマーク
リチャード・ウィルソン
リチャード・カーティス
リチャード・ギア
リチャード・クレイダーマン
リチャード・クレンナ
リチャード・クロムウェル
リチャード・コブデン
リチャード・コンテ
リチャード・ジェンキンズ
リチャード・ジョーダン・ガトリング
リチャード・ジョンソン
リチャード・ストーン
リチャード・チェンバレン
リチャード・ドナー
リチャード・ドレイファス
リチャード・トレヴィシック
リチャード・ニクソン
リチャード・バック
リチャード・バートン
リチャード・ハリス
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リナ・ホーン
リノ・バンチュラ
リーバイ・ストラウス
リヒャルト・シュトラウス
リヒャルト・ゾルゲ
リヒャルト・デーデキント
リリー・コリンズ
リリー・ソビエスキー
リュー・エアーズ
リュシアン・フェーヴル
リュシエンヌ・ドリール
リュシエンヌ・ボワイエ
リュック・ベッソン
リュドミラ・ウリツカヤ
リュドミラ・サベーリエワ
リュドミラ・サムソノワ
リュ―リク
リリー・パーマー
リリアン・ギッシュ
リリアン・ヘルマン
リリアン・ラッセル
リリウオカラニ
リロイ・ランシング・ジェーンズ
リンゴ・スター
リンジー・ローハン
リンジー・ワグナー
リンダ・ダーネル
リンダ・ハミルトン
リンダ・ブレア
リンダ・フィオレンティーノ
リンダ・ラヴレース
リンダ・ルイス
リンドール・ファウンズ・アーウィック
リンドン・ベインズ・ジョンソン

エスペラントの日

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    世界の言語の数については、正確なことはよくわからないが、約6900くらいの言語があるといわれている。そこで、少し勉強しさえすれば、万国の人が理解できる言葉があるならどんなに便利だろうという発想が出てくるのも当然である。こうした考え方は古くからあり、17世紀ごろから多数の国際語の創造が企てられたが、どれも実用にはならなかった。このような中にあって、ポーランドの眼科医ラザロ・ルドヴィコ・ザメンホフ(1859-1917)によって1887年に考案された「エスペラント」(「希望をもつ者」という意味)は、今もその生命を保ち続けており、国際語としてただ一つのものであろう。ザメンホフは聖書や多くの文学作品をエスペラントに訳し、1905年には「エスペラント語の基礎」を出版して、その言語の構造の原理を示した。エスペラントの使用人口は確定されないが、母語話者200人から2000人、第二言語話者100万人から200万人と推定される。戦前は日本でもエスペラントを学習する人がいた。宮沢賢治の「イーハトーブ」(岩手をもじった理想郷を意味する造語)はエスペラント風の言葉であり、宮沢は世界の人に解ってもらえるようにエスペラント語を勉強しようとしていた。また安部公房の父・安部浅吉は満州で医業のかたわら「奉天エスペラント会」の中心人物として活動していた。しかし近年、エスペラント運動はあまりマスコミでも取り上げられることはない。欧米においてもエスペラント運動は停滞ないしは衰退しているそうだ。インターネットの普及でエスペラントの用途が増える可能性もあるのでエスペラントにこれからも注目していきたい。( keyword;Lazarus Ludwik Zamenhof,Esperanto ) 6月12日

2023年6月10日 (土)

原語不詳「パンパン」の一考察

Yorunoonna 第二次世界大戦により多くの国民は家族との死別を体験し、苦しい生活に投げ込まれた。食糧難やインフレは深刻で、人々は農村への買い出しや闇市でかろうじて飢えをしのがなければならない状況だった。しかし、生活は悲惨であっても、戦時中の巨大な国家とその戦争目的の重圧から解放されて、人々は自分と家族のために働いた。しかし女性にはまともな仕事や就職先はなく、あるのはひとつ娼婦になることだけが生きぬく道であった。松本清張の小説「ゼロの焦点」は戦後、混乱に苦しみながら売春行為をしていた女性(俗にパンパンと呼ばれた)が、数年後元警官と偶然に再会し、忌まわしい過去を知られたくないために殺人を犯す話である。

  昭和21年4月、NHKラジオで「街頭録音」の放送が始まる。終戦後、上野を「ノガミ」、池袋を「ブクロ」、有楽町を「ラクチョウ」といった。とくに有楽町のガード下は闇の女たち、いわゆるパンパンと呼ばれる売春婦がいた。1947年4月、NHKアナウンサーの藤倉修一(1914-2008)は小型マイクをコートの内側にしのばせて、潜入取材をしている。

女の子①「たばこもってない?」

藤倉 「こんなのでいいかな?よっぱらってるね」

女の子①「カストリ(粕取り焼酎)だよ。ピーナッツおごってよ」

藤倉 「はい10円」

女の子②「おじさん、いい男だね。あたしたちと親類だよ。有楽町で顔あわせればみんな親類」

女の子③「おじさん新聞社だろ。おれたち新聞社きらいなんだ。おとしまえとっちゃうぞ」

おねえさん(あねご) 「あたしは戦災でやかれて両親も兄弟もないけど中流以上の子が多いわよ」

    NHK街頭録音「青少年の不良化をどう防ぐか、カード下の娘たち」は、全国に大反響を巻き起こした。手紙やカンパがNHKに寄せられた。しかし「ラクチョウのお時」は放送の翌日姿を消した。

  戦後、戦争未亡人は187万人。中には生活に困り、街頭に立つ道を選んだ戦争未亡人もいた。闇の女は男子大量戦死の結果、将来に希望を見出すことが出来ない社会への無言の抗議でもあった。菊地章子が歌う「星の流れに」の「荒む心でいるのじゃないが、なけて涙も涸れ果てた、こんな女に誰がした」に切実さがよく表現されている。

   「パンパン」とは、一般的には「占領軍兵士を相手にする娼婦」と解される。パンパンのスタイルはアメリカ軍から放出された布地によるタイトスカートをはき、ネッカチーフを身につけ、オキシフルで髪を茶色に染め、爪を赤く塗り、「ラッキーストライク」「キャラメル」を吸う。「パンパン」の語源については定説はない。現代用語の基礎知識の創刊号(昭和23年版)に次のようにある。

「終戦後の流行語だが、海軍復員者はみんな戦争中から使っていた。

語源1.軍港に碇泊し上陸許可が出て早速慰安街に駆けつけるが、もうあたりは寝しずまっている。こら起きろ、と表戸をパンパンと叩いて女を起こした。その戸を叩く音から出たという。

語源2.仏印のある街で、食料不足から物乞いが氾濫していた。上陸した日本兵を見ると、若い女たちが手をさしのべて「パン、パン」と哀願した。パンは彼女等にとっては麺麭であった。ちょうど終戦後の日本娘も、パンのためにこれと全く同じような哀願を米兵に示したのと同様である。転じて米人や中国人にゴマをすってボロ儲けする男をパンパンボーイなどという」   いずれにしても、戦争中からの軍隊用語で海軍の兵隊が使っていた卑語らしい。マレー沖海戦で撃沈したイギリスの戦艦プリンス・オブ・ウェールズには40mm8連装のポムポム砲を搭載していた。このポムポム砲はピストン運動をすることから、ポムポムが売春婦を意味する卑語となり、パンパンに転化したという新説もある。

   「広辞苑 第3版」では「(原語不詳)第二次大戦後の日本で、街娼・売春婦のことを指した」とあるが、新しくでた第6版では「第二次大戦後の日本で、主に進駐軍を相手とした街娼・売春婦のことを指した」と修正している。(修正はすでに第4版か第5版でなされたのかもしれない)

   「第二次大戦後」とあるが、実際は戦時中から軍人が使用していた言葉であることは当時の人の証言から明らかである。また、米軍あるいは進駐軍を相手に特定した言葉ではなく、日本軍人がアジアの女性に対しての呼称であるので、広辞苑の修正は改悪といわざるを得ない。パンパンという言葉は日帝アジア侵略の加害者であった証拠であり、それを被害者としての面のみを強調することは、辞書の編集者としての見識が問われることになるであろう。

 

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能登金剛と東尋坊

650togihukuurahoppozekkei7   ラストにおいて主人公と犯人が崖上で相対する演出はサスペンスドラマの定番である。これは映画「ゼロの焦点」(1961)が原型といわれる。映画のロケ地は、よく福井の東尋坊と勘違いされるが、能登金剛のヤセの断崖である。松本清張の小説には崖上で相対する場面はなく、ヤセの断崖を特定する描写もない。志賀町の赤住という地名が出て来るが、実際の赤住は平坦な地形で断崖はない。清張は断崖のある「赤崎」と勘違いをしたのかもしれない。とにかく能登半島や福井の東尋坊は戦後の一時期、自殺の名所になった。

 

 

2023年6月 8日 (木)

イパネマの娘

Photo_2    ブラジルのリオでジャネイロ近郊の海水浴場といえば以前はコパカバーナが有名だったが、1960年代はじめあたりからイパネマ海岸も急にクローズ・アップされるようになった。それは原名を「カロータ・ジ・イパネマ」英名を「ガール・フロム・イパネマ」という曲がビニシウス・ジ・モライス作詞、アントニオ・カルロス・ジョビン(通称トム・ジョビン)作曲で1962年に作られたからであろう。その初吹き込みと思われるものは1963年3月、スタン・ゲッツによって行われたが、この時、英語の詞も入れたほうがいいということになり、ジョアン・ジルベルト夫人であったアストラッド・ジルベルトが歌い、一躍彼女もスターになった。その彼女も先ごろ亡くなられた。

    曲の内容は、イパネマ海岸を腰のリズムもさっそうと歩んでいく、ビキニ姿の美少女エロイーザの姿にまるでロマン派の詩人のような賛辞を捧げている。「この世でもっとも美しい天の贈り物が歩いていく。彼女が歩いているだけで、この世は愛を知りすべてが美しく光輝く」とうたう。ビニシウス(1913-1980)は誰かにいつもより新しい幸福を追いかけることばかり熱心で生涯9回も結婚したという。イパネマの娘のモデルとなった娘は、結婚してエロイーザ・ピニェイロという名前で現在84歳となっている。Heloisa Pinheiro

 

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紛らわしい芸能人の名前

 名前が似ている芸能人は意外と多い。いま不倫問題で話題の渡部建。「独眼竜政宗」の渡辺謙と紛らわしい。二刀流の大リーガー大谷翔平。「逃げ恥」俳優の大谷亮平の名前と紛らわしい。「どんと晴れ」のヒロイン比嘉愛未が福士誠治と熱愛騒動。しかし福士蒼汰と間違えられる。 ガッキーこと新垣結衣。名前はもちろん「あらがきゆい」と読む。元モーニング娘の新垣里沙は「にいがきりさ」である。SPEEDの新垣仁絵は「あらがきひとえ」である。

   おニャン子クラブの渡辺美奈代と渡辺満里奈も同姓なので紛らわしかった。他に、黒川智花と黒川芽以、木村佳乃と木村文乃、田中麗奈と田中れいな、西内まりあと竹内まりあ、水野真紀と水野美紀、蒼井優と蒼井そら、酒井若菜と酒井美紀、椎名林檎と椎名法子、奥菜恵と奥貫薫、木内みどりと木之内みどり、森高千里と森下千里、鰐淵晴子と馬淵晴子、夏川純と夏川りみ、綾戸智恵と上戸彩、陣内智則と陣内孝則、沢村一樹と北村一樹、大石吾郎と大橋吾郎、川村龍一と河村隆一、高橋克典と高橋克実、玉木宏と玉山鉄二、三浦和義と三浦知良、大辻司郎と大辻伺郎、永井智雄と永井秀明、香川真司と香川照之、高橋長英と高野長英、有島一郎と有島武郎、人見明と人見きよし、タッド若松と若松孝二、藤原釜足と藤原鎌足も紛らわしい。ジェラード・バトラーとジェラール・ドパルデュー。ジョッシュ・デュアメル、ジョッシュ・ハートネット、ジョッシュ・ブローリング、ジョッシュ・ルーカスの区別つきますか。

ウィリアム・コベット忌日

何を書こうかと考えるために座るのではなく、貴方が考えたことを書くために座りなさい(ウィリアム・コベット)

 

Photo_2   ウィリアム・コベット(1763年3月9日生。1835年6月8日没)はイギリスの急進的政治家・文筆家・編集者。イギリス南東部サリー州の貧しい農家に生まれた。軍隊に入り、除隊後フランス、アメリカに渡り、帰国後急進的ジャーナリストに転向。農民、労働者の懐旧的感情に訴え、産業主義社会を批判した。議会改革を通じて社会改革を考え、議会議事録の発行を創始した。1823年議員に当選したが、政治的には成功しなかった。彼の文章は明快であり、農業問題についてはすぐれた識見を述べている。農村疲弊の実状見聞録「農村紀行」(1830年)は名著として高く評価されている。コベットの本はすべてよく売れたが、特にプロテスタント史に関する本は、世界中で聖書に次いでよく売れたと言われる。

   コベットは驚くほどの多作家で、そのいくつかをあげる。「アメリカ生活一年の記録」「英文典」「小住宅の経済」「アメリカの園芸」「イギリスの園芸」「コベット講演集」「移民ガイド」「スコットランドの旅」「アンドリュー・ジャクソンの生涯」「仏文典」「イギリスおよびウェールズの地理辞典」「プロテスタント改革史」「イギリス議会史」「議会討議録」「ビッグOとグローリー卿」「余剰人口」「若き人々への提言」(庄司淺水訳)。

    ロンドンでは1803年に週刊新聞「ポリティカル・レジスター」を発行し、書店を経営した。記者や編集者などを、10人以上雇い、週刊誌はじめ書籍の出版を続け、印刷の発展にも寄与した。(William Cobbett)

2023年6月 7日 (水)

龍馬、池田屋に行かず

 司馬遼太郎の年譜を見ていると、興味あることを発見した。「竜馬がゆく」が昭和37年6月に産経新聞夕刊に連載がスタート、同年11月に「燃えよ剣」が週刊文春で開始している。つまり同時に2つの長編連載を、敵と味方で描き分けていたのである。

    大河ドラマ「龍馬伝」第23話「池田屋に走れ」。望月亀弥太が攘夷派の浪士たちと京で会うため海軍操練所を抜け出したことを知った坂本龍馬は連れ戻すために京へ向かおうとする。だが海軍総連所の皆は逃げた者を追っても仕方がないと冷たい。結局、龍馬ひとり京の池田屋へ行くが、時すでに遅く介抱むなしく望月亀弥太は自死する。

    坂本龍馬は池田屋事件の直後に現場にいたのだろうか?神戸から京都、坂本の足であれば一日あれば行けるかもしれない。だが坂本も勝も池田屋事件のことを知るのは少したってからのこと。この事件発生時はふたりは江戸にいたらしい。池田屋に集結していた志士の中に、坂本と同じ海軍操練所で学んでいた望月のことが明らかとなり、まずいことになった。今で言えば国立の海軍大学で、反乱学生を養うのと同様である。そのため勝は軍艦奉行を罷免され、海軍操練所もやがて閉鎖される。史実はもちろん坂本龍馬は池田屋には行っていない。

 

 

2023年6月 6日 (火)

「どうする家康」長篠の戦い前後

Obj09   大河ドラマ「どうする家康」は岡田准一が演じる織田信長をたくさん活躍させようとする狙いがあるようで、本能寺の変までは、ゆっくりとしたペースが物語は進行している。天正5年4月、甲斐の武田勝頼は奥三河の長篠城を攻略するため、1万5000の大軍を率いて甲府を進発した。裏切者の奥平貞昌を攻め滅ぼすためである。貞昌は徳川家康の長女、亀姫を妻に迎える約束を交わして、武田方と敵対したのである。鳥居強右衛門は、援軍を求めて岡崎城の家康のもとへと走った。「武田勢、三河に侵攻」の報を受けた家康は、信長に対して何度も救援を求める使者を送った。だが信長は、なかなか動こうとはしなかった。そこで家康は、3回目に送った使者に「もし援軍を出してくれぬなら、武田に遠江を譲って和睦し、武田の先鋒となって尾張を攻める」といわせて信長を脅した。信長は、5月13日、3万の兵を率いて岐阜を出発した。信長、この時41歳、家康35歳。信長と家康は15日に岡崎で合流し、総勢3万8000となった。設楽原に武田の騎馬攻撃を防ぐため、馬防柵を巡らせた。5月21日、織田信長、徳川家康連合軍と武田勝頼とは、三河国南設楽郡(愛知県新城市)の長篠城と、その西南の設楽原で激突した。「長篠合戦図屏風」にも馬防柵の内側には、本多忠勝を筆頭に、鳥居元忠、平岩親吉、石川数正など徳川勢の主力がずらりと描かれている。鳶ヶ巣山の陥落で、武田軍の退路が断たれて、設楽原の戦いの行方は織田・徳川連合軍の優位に動いた。合戦の行方は、信長が用意した3000挺の鉄砲隊が勝負を決めた。この戦術は、信長が周到に準備し、ほかのどの戦国大名よりも多くの鉄砲足軽を揃えることができた「信長プロジェクト」の成果であった。しかし信長が鉄砲の「3段撃ち」をしたという事実は同時代の史料にはない。3段撃ちは江戸後期の軍記物に登場し、明治になって陸軍参謀本部編「日本戦史」に採用され、広く世間に広まったのだ。徳川家康の長男、松平信康はこのとき初陣で16歳。その戦いぶりを敵将勝頼は「かの小冠者長生せば必ず天下に旗を立つべし」と評したという。4年後、武田と内通したと信長に問責され築山殿と信康は自害する。

2023年6月 5日 (月)

誠忠・児島高徳の墓

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 「児島高徳」 羽石光志画

 1333年のこの日、隠岐から脱出した後醍醐天皇が無事に京都に到着した。その功労の第1人者は児島高徳である。児島高徳(生没年不詳)の実在性には疑問はあるが、備前の人、本姓は三宅、備前守範長の子といわれる。後醍醐天皇が隠岐に配流される途中、児島高徳は舟坂山や杉坂で救出しようと企てたが果たせず、せめて自分の覚悟なりともお知らせしたいと美作院庄(岡山県津山市)の宿所に潜入して、庭の桜の大木の皮を削って詩句を書きつけた。

天勾践を空しゅうすることなかれ。時に范蠡なきにしもあらず。

(天よ、どうか後醍醐天皇をお見捨てなきよう。天皇も范蠡のような忠臣がここにおりますことをお信じ下さい)

   翌朝、警護の武士たちが見つけて騒いでいたが、天皇はその意味がお分かりで、快げにお笑いになったという。

    1333年2月24日、児島高徳は、天皇が隠岐を脱出して船上山で旗を揚げると、一族を率いて馳せ参じ、千草忠顕や新田義貞に属して各地に転戦した。正平7年、兵を集めて入洛を企てたが、失敗した。戦いに敗れて剃髪し、志淳と称したというがその後の消息は分からない。現在、鳥取県米子市の涼善寺(岩倉町99)に児島高徳の小さな墓がある。

この故事が有名なので、日本人には范蠡=忠臣というイメージがあるが、実は、日本流の忠臣とは、ずいぶん異なっている。中国では、陶朱公の名で富豪の代名詞として知られている。(6月5日)

 

 

 

 

2023年6月 3日 (土)

俊寛の流刑

022115    俊寛(1142-1179)の自筆書状が陽明文庫が所蔵する公家の日記「兵範記」の紙背文書から見つかった。書状は平信範に宛てたもので、末尾に署名がある。これまで「法師快□」と判読していたが、デジタル化によって見やすくなり、「法眼俊□」と読めることがわかった。当時、俊寛は法勝寺の所領を管理していることなどから判断して、手紙は俊寛の自筆であると考えられる。俊寛は平家討滅の謀議に加わった罪で、安元3年6月3日(陽暦1177年7月1日)に逮捕され、同月20日、薩摩国鬼界ヶ島に流された。しかし翌年に中宮徳子の安産祈願のための大赦があり、他の人たちは許されて帰ったが、俊寛だけは許されず島に残されていた。悲嘆のうちに治承3年3月2日、37歳の若さで餓死したという。その悲劇的な最期のためか、俊寛の墓といわれるものは西日本各地に十数か所あるという。だが鬼界ヶ島が現在の何島にあたるのかはっきりしない。喜界島(鹿児島県大島郡喜界町)、硫黄島、伊王島に俊寛の墓がある。

    俊寛は法勝寺(京都市左京区岡崎)という寺の僧都であったというが、法勝寺は承保3年(1076年)に建立された真言宗の寺で九重の塔で知られていたが、応仁の乱以降さびれて廃寺となり、現在は満願寺に碑がある。また佐賀県に同名の法勝寺があったが、現在は撤去されて小さな碑のみある。(6月20日)

 

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 喜界島の俊寛の像

 

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 佐賀の俊寛の碑

 

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 満願寺(京都市左京区岡崎)の境内には「法勝寺執行俊寛僧都居住跡」の碑がある

2023年6月 2日 (金)

明智光秀謀反の謎

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錦絵「本能寺焼討之図」延一画 東京都立中央図書館蔵

 「敵は本能寺にあり」

  この有名な言葉を明智光秀は本当は言っていない。文政10年刊行の頼山陽「日本外史」に初めて見えるもので、光秀生誕から300年後の創作。信長が寝所に入ってしばらくすると、外が騒がしくなった。「これは謀反ではないか。いったい誰が?」森蘭丸が答えた。「明智の勢かと思われます」「光秀なら是非もなし」(信長公記)

    光秀ならば完璧の布陣で攻めて来たであろう。もはや助かる道はあるまい。そう思った信長は殿中深く入って、自ら切腹して果てた。

   本能寺の変は、戦国時代最大のミステリーといっていいかもしれない。「老人雑話」のなかに、「明智日向守が云ふ。仏のうそを方便と云ひ、武士のうそを武略と云ふ、百姓はかはゆきことなりと、名言也」という一節がある。光秀は、仏教におけるうそが方便として認められるならば、武士のうそも武略として是認されるものだという考えを持っていたようだ。なぜ光秀が信長を襲ったのか?その動機は江戸時代初期より、光秀が怨恨を晴らすためであった、というのが一般であった。とくに信長が家康を饗応した時の献立が豪華すぎると、光秀を叱責したことにあるといわれる。

    高柳光壽は人物叢書「明智光秀」(1958)で野望説を唱えた。これに対して、一番ポピュラーなのが怨恨説。近年も桑田忠親がルイス・フロイスの資料を根拠に怨恨説を支持している。最近では黒幕・関与説が主流である。立花京子は、勧修寺晴豊の日記の断片である「天正十年夏記(日々記)」により朝廷が変に関与していたとする。いわゆる三職推任問題である。朝廷が信長に関白、太政大臣、征夷大将軍の何れに就任してもらおうと工作したが、信長はそれを断ったことが背景にあるというのである。つまり天皇の権威を見限って、信長が日本の王になろうとしたので、光秀がそれを阻止しようとしたとする。

   最近、光秀の書状の原本が見つかったことで四国説が浮上している。光秀が土橋重治に宛てた書状で、将軍義昭入洛の際に協力することを伝えた内容である。本能寺の変の動機は長宗我部元親の窮地を救ったために起こしたとして、まず信長を倒し、長宗我部や毛利ら反信長勢力とともに幕府を再興させる構想があったらしい。だが本能寺の変後、光秀は細川忠興、筒井順慶らを誘い天下人たることを策したが成功せず、中国から兵を返した秀吉と山崎に戦うも、兵力差から総崩れとなり敗北。光秀は勝竜寺城へ逃れ、その夜密かに坂本へ脱出を図り秀吉軍の包囲を突破するものの、その途次醍醐もしくは山科のあたりで、雑兵・中村長兵衛により殺害される(「兼見卿記」)。享年55歳。

参考文献
高柳光寿「明智光秀」 吉川弘文館 1958
立花京子「本能寺の変と朝廷 「天正十年夏記」の再検討に関して」古文書研究39  1994年
谷口克広「検証本能寺の変」 吉川弘文館 2007

 

 

 

 

2023年6月 1日 (木)

日本でチョコレートが大衆化したのはゲーリー・クーパーのためか?

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    チョコレートは長い間、飲み物として愛されてきたが、現在のような食べ物に変わったのは、英国ビクトリア女王の時代といわれる。1920年代にはカカオ豆の暴落により安価なチョコレートがつくられ、チョコレートブームが起る。昭和4年に原料の輸入関税が撤廃され、安い国産品が製造販売されるようになった。昭和6年、森永製菓は「パラマウント・チョコレート」を発売した。おまけは映画スターのブロマイドだった。長谷川一夫ら日本のスターも多いようだが、当時、パラマウントのスターといえば、ナンシー・キャロル、エスター・ラルストン、フェイ・レイ、フランシス・ディー、シルヴィア・シドニー、キャロル・ロンバード、ジーン・アーサーといろいろいたけど、やっぱりマレーネ・ディートリッヒとゲーリー・クーパーが黄金期を彩った大スターだった。なかでもクーパーはアメリカの正義と良心を代弁した人気者で、女性たちはクーパー様の写真がほしくてチョコレートを買った。日本でチョコレートを普及したのはゲーリー・クーパーの人気にあやかったものだった。

アレオパジティカ

 1644年、イギリスの市民革命のさなかに、革命派に属していた詩人ミルトンが、議会による出版物閲覧の強化に反対して非合法出版したパンフレット。近代的な言論・出版の自由を主張した名著で「言論の自由」と訳されている。 Areopagitica

 

 

映画にみるクレオパトラ

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  ヘレニズム時代のエジプト、プトレマイオス朝は15代続いたが、最後の女王クレオパトラ(前69-前30)はその美貌をもってして歴史にその名を知られる。はたして彼女は本当に美人だったのだろうか。残念なことにクレオパトラが美人だったという証拠は何もない。ただプルタルコスの記録には、「彼女に親しく接することには、抵抗できない魅力があった。そして彼女の容姿は、説得力にみちた言葉や、そのふるまいに多少とも表れていた独自の性格と結びついて、一種の心地よい刺激をかもし出した。彼女が語るとき、その声の響きは甘く快かった」とあるように魅力的な女性だったことは間違いなさそうだ。実際は小柄で痩せ型だったといわれるクレオパトラを絶世の美女にしたのは、やはり映画の影響が大きいだろう。

   無声映画時代からスクリーンに登場したクレオパトラは少なくとも10回以上はいる。最も古いクレオパトラは、1911年の米女優ヘレン・ガードナーが演じたエレオパトラ。「春雨秋雨二千載、今もなお、旅人の話頭にのぼる物語」と、弁士・染井三郎の名調子で知られる「アントニイとクレオパトラ」(伊・1913年)のジョヴァンナ・テリビリ・ゴンザレス(1882-1940)も有名だ。

    セダ・バラの「クレオパトラ」(1917年)は彼女の数ある出演作のなかでも有名な作品となった。続いてクローデット・コルベールの「クレオパトラ」(1939年)、ヴィヴィアン・リーの「シーザーとクレオパトラ」(1945年)、リンダ・クリスタルの「クレオパトラ」(1959年)などがある。パスカル・プティの「妖姫クレオパトラ」(1962年)、マガリ・ノエルの「トトとクレオパトラ」(1962年)、ジョーン・クレールの「世界の夜の歴史」(1963年)などある。が、なんといっても20世紀フォックスが社運をかけた超大作、エリザベス・テーラーの「クレオパトラ」(1963年)がクレオパトラ映画の決定版であろう。その後もヒルデガード・ニールが「アントニーとクレオパトラ」(1971年)、アンジェリーナ・ジョリーが演じているが、エリザベス・テーラーを超える存在感のあるクレオパトラはスクリーンに登場していない。近年は、ガル・ガドットやアデル・ジェイムズがクレオパトラを演じている。ネットフィリックスの新作ドラマ「アフリカン・クイーンズ・クレオパトラ」ではクレオパトラを黒人として描き、ジェイダ・ピンケット・スミスを起用している。

 

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  セダ・バラ

 

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  クローデット・コルベール

 

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  ヴィウィアン・リー

 

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  リンダ・クリスタル

 

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  ヒルデガード・ニール

チューインガムの日

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 ジョン・カーティス

 

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ウィリアム・リグレー・ジュニア

振り返ってみた

  北海道で一番人口の少ない村は、音威子府で、人口679人である。富良野はスキー場があり、北海道を代表する観光地となり人口2万人ある。 ドラマ「北の国から」が一挙放送されていた。田中邦衛の追悼番組。北海道富良野を舞台に黒板五郎の家族3人を中心に雄大な自然が美しい。成長した子供も様々な体験をし、出会いと別れがある。全編、北海道を走る鉄道風景も懐かしい。20年以上わたるドラマには流行、世相などが良く出ている。例えば84年にはパソコンやテレビゲームが、92年には純がラブホテルで初体験、02年は携帯、メル友。80年代から2000年にわたる様々な庶民の生活がよく描かれている。後半は純の成長譚(?)。「95秘密」すったもんだがあった宮沢りえが最高。1980年代後半から、強い円のもとで土地も株も値上がりが続くなかで、「バブル」と呼ばれた景気が生じたが、それは90年代に入って一挙にはじけた。90年代の日本経済は、長く続く反動不況に苦しみ、また住専問題やイトマン事件などの不祥事も噴き出した。そして2020年代以降はコロナ対策の緊急事態宣言で我慢の生活が続いている。現在を戦時中にたとえる記事をみるが、戦時中の苦労は比較できるものではあるまい。食料は配給で餓死する者がいたのだから。40年代から80年代まで。国家総動員令。学童疎開。ポツダム宣言。広島・長崎原爆投下。無条件降伏。財閥解体。ベルリンの壁。赤狩り。日米安保条約。キューバ危機。文化大革命。ベトナム戦争。公害。バブル経済。コロナ流行。ロシアのウクライナ侵攻。安倍晋三銃撃事件。円安。役所広司のカンヌ男優賞。「やっと柳楽優弥くんに追いついた(笑)」柳楽が「誰も知らない」で受賞したのは19年前。阪神タイガースは18年ぶりに優勝に向かって独走している。18年前の平成17年、流行語は「小泉劇場」、「想定内」、「アスベスト(被害)」、「電車男」。ブログ流行。JR福知山線脱線事故。

年寄りの聞き違い、いえ音韻連鎖です

T02080600_0208060011054087923  梅雨入りしたそうだが、6月は衣替えの季節。セーラー服の女学生やOLの夏服はいいもんだ。

オフィス街ブラウス眩し夏来たる(西村正男)

  でも夏が来たとニヤニヤした顔していると痴漢と思われるので注意しよう。

  「パプアニューギニア」と発音すると、なぜか「パパは牛乳屋」と聞える、どことなく似ていると思いませんか。これを音韻連鎖というそうです。ある課長が女子社員に「鼻がかみたい」といってティッシュを求めたところ、急に恥ずかしそうな顔をして、ブラウスのボタンをはずし脱ぎ始めた。どうしたのかとたずねたら、「だって、わたしの裸が見たい、とおっしゃったでしょ」という。言葉の聞き違いにご用心。

 

   「札幌、稚内」と「さっぱりわからない」、「水質汚濁」と「スィーツおたく」、「府中原産トマト」と「宇宙戦艦ヤマト」、 「汚職事件」と「お食事券」、「おまんた(新潟で「あなた達」という意味)と「おまんこ」、「肩透かし」と「横須賀市」、「中臣鎌足」と「生ゴミのかたまり」、「美文字研究家」と「いぼ痔研究家」。(9月16日)

アフリカの歴史

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左から直立猿人、ネアンデルタール人、クロマニョン人。しかし単線的に進化したのではなく、それぞれ複雑に分化、絶滅、置換、進化を繰り返してきた

 岸田首相のアフリカ歴訪が29日スタートした。エジプト、ガーナ、ケニア、モザンビークとアフリカ4ヶ国を訪問し、シンガポール経由で5月5日帰国する予定である。ヨーロッパの植民地主義は15世紀にはじまったが、当初はポルトガル人が西アフリカの沿岸に貿易基地を設置する程度で黒アフリカの社会は18世紀まで独自の発展を示していた。しかし、16世紀半ばから、奴隷貿易は黒アフリカの社会・経済に重大な打撃をあたえることになった。19世紀末から20世紀はじめにかけて欧米は独占資本主義・帝国主義の段階に入っていったが、黒アフリカは帝国主義列強の激しい植民地獲得の対象とされ、1885年のベルリン会議をへて第一次世界大戦前にはイギリス、フランス、ドイツ、ベルギーなどの間で完全に分割され、以後第一次大戦と第二次大戦を機に再分割、再々分割されていくことになった。1960年は「アフリカの年」といわれ、多くのアフリカ諸国が独立した。かつてアフリカ大陸のほとんどの国がヨーロッパの植民地であったが、現在はほとんどが独立した。あれから60年。アフリカ大陸には54の独立国があり、国連加盟国のおよそ3分の1を占めている。その歩みは平坦ではなく、地域紛争とクーデターによる政権交代が相次いだ。現在、北アフリカのリビア、西アフリカのマリからナイジェリア北部、中央アフリカ共和国とコンゴ民主共和国東部、そして東アフリカの南スーダンとソマリア南部といった地域では、近年深刻な紛争が続いている。

 古代の歴史をみると最古の人類はアフリカに出現し、進化していった。宇宙論ではおよそ138億年前、ビッグバンと呼ばれる大爆発によって宇宙が誕生したと考えられている。そして48億年前にこの地球が誕生した。さまざまな生命が長い年月をかけて進化を続け、鳥・魚・植物など多様な生きものが3000万種いる。そしてわれわれ人類の祖先は約700万年前から600万年前にかけてアフリカで誕生したことは間違いあるまい。現在の段階で最古の人類と認められるのは猿人であり、アウストラロピテクス属の化石人骨は20世紀に入って多数発見されている。1924年、レイモンド・ダートが南アフリカでアウストラロピテクスの化石を発見した。しかし当時のイギリスの学界は「キースのルビコン」(脳の容積が750cc以上がヒトで、それより以下がサルとする説、Cerebral Rubicon)といわれる学説が支配的でダートが発見した化石は類人猿とみなされた。しかし1950年にアメリカの学界でアウストラロピテクスは猿人として認められ、ダートの名誉は回復している。猿人は原人へと進化し、100万年以上前にアフリカを出て世界各地に広がったが、アジアに渡ったジャワ原人、北京原人やヨーロッパに渡ったネアンデルタール人は、少なくとも3万年前には絶滅したとされる。つまり旧人から新人へと進化した(多地域進化説)のではなく、約16万年前にアフリカで登場した新人(初期ホモ・サピエンス)が約10万年前にアジアにも広がり、それが現代人へとつながったという説(アフリカ単一説)が有力である。とくに旧人(ネアンデルタール人)と新人の関係はその順ではなく、新人の方が早く登場した。現在では猿人、原人、旧人、新人という化石人類の4分類は、人類学会では用いられなくなっている。ミトコンドリアDNAの研究では、世界中に分布する人間の集団におけるマイクロサテライト(人類の遺伝的差違の大部分を占める遺伝子領域)解析の結果、中東に住む集団と北東シベリアに住むヤクート族の集団の先祖において、ボトルネックが生じた可能性が高いという。つまり20種類もの人類が現れては消えてゆき、わずか4~6万年前に「出アフリカ」を果たした一団が現生人類(ホモ・サピエンス・サピエンス)となって世界各地に広がったとされる。これまでに人類はおよそ1000億人が生まれたと推計される。そして高度な文明を築いた人類は77億人を数えるまで増加した。

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  やがてそれぞれの地方の気候や風土に適応してモンゴル(黄色)人種、ネグロ(黒色)人種、コーカサス(白色)人種などの人種にわかれた。(世界史、アーサー・キース)

 

脳容積の比較
 猿人(490万年前) 435~600cc
  原人(70~40万年前) 800~1300cc
  旧人(15万年前)  1300~1600cc
  新人(数万年前)  平均1600cc

 

 

 

 

 

 

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