女王エリザベス1世の誕生
NHKEテレ「木村多江の、いまさらですが・・・」。本日はイギリスのエリザベス1世、ビクトリア、エリザベス2世の3人の女王が主役である。1533年9月7日、イングランドのグリニッジ宮殿でヘンリー8世の愛人アン・ブーリンは女児を生んだ。男子の世継ぎを望む英王ヘンリー8世(1491-1547)は、最初の妻アラゴンのキャサリンには成人できる子供を産むことができないと確信し、数年前から離婚を切望していた。6歳年上のキャサリンは、6人の子供を産んだが、生きて残っているのは娘メアリーただ1人だけであった。ヘンリー8世は、子供が死んだのは、正しくない結婚を神が罰しているためと考えた。ふつうならば、教皇クレメンス7世は離婚したいヘンリー8世の望みを聞き入れたであろう。ローマ教皇はこのような場合、一般にものわかりがよく、国家の問題がからんでいればなおさらのことだった。ところが、キャサリンは神聖ローマ帝国皇帝カール5世の叔母であり、この皇帝は家族の忠誠という感情とはまったく別に、きわめて道徳堅固な人物であって、離婚など我慢がならなかった。皇帝が教皇に加えることのできる制裁は、王が及ぼしうる圧力などとは比較にならないほど強大であった。
しかしともかく、ヘンリー8世は1532年、侍女のアン・ブリーン(アン・ブリン、アン・ボレーン、1507-1536)を見初め二人は恋におち、アン・ブリーンは妊娠した。1533年1月25日に内密に結婚して、息子が正統の子であり、承認された王位継承者となることを保証した。しかし、ヘンリーとキャサリンの離婚の問題はなお未解決のままであった。ローマから離婚の承認を取りつける望みはなく、したがってカンタベリー大主教の手でかたをつける以外になかった。運良く、そのとき大主教のポストが空席になっていた。ウォーラム大主教は前年に死んだばかりであった。王は、聡明な若いケンブリッジの神学者トマス・クランマーを大主教に任命した。王室の主祭をしていた彼は、以前から離婚に対する支持を表明していたのである。3月30日、新任の大主教は正式に受任された。彼は通常教皇に対して行なう服従の宣誓をしたが、神の法、そしてイギリスの王、王国、法、およびその国王大権に反するいかなるものにも縛られないことを公式に宣言して、ヘンリー8世の離婚のための道を開いた。この上訴法は、イギリス大主教を、ローマとは関係なく、英国国教会法の最高の権威と認めるものである。聖職受任後ただちに、クランマーは議長としてヘンリー8世とキャサリンの結婚が神の法に反するものであることを決定し、5月10日、ダンスタブルで法廷を開いた。キャサリンは教皇の法廷に出されている問題を審理する権限をクランマーに認めず、出廷しなかった。5月23日、大主教は判決を下し、教皇はヘンリー8世の場合のような結婚に承認を与える権限をもたず、王とキャサリンはこれまで夫婦であったことはないと宣言した。5日後、クランマーはヘンリーとアン・ブリーンが合法的に結婚したと宣言し、6月1日、アンはウェストミンスター・アビーで王妃の座についた。7月11日、遅ればせながら教会の権威を守るため、ローマ教皇は破門の宣告文を作成し、9月にこれを送付した。その結果、ヘンリー8世はローマとのつながりをすべて断ち切ったのであり、イギリスの宗教改革は進展していった。
この問題では王の個人的な欲求が、たまたま国民の熱望と一致した。彼らは民族主義と教会に対する幻滅の波のなかで、なんとかローマの影響から逃れたいと強く望んでいた。しかし、そのほかの問題については、このような一致は見られなかった。キャサリンの屈辱に民衆は深く憤り、ヨーロッパは衝撃を受け、教皇と皇帝は辱められた。9月7日の日曜日の午後、アン王妃は女子を産んだ。次の水曜日、この子はエリザベスと名づけられた。エリザベス(1533-1603)はのちに、イギリスで最も偉大な君主となった。アン王妃は1536年、姦通罪の汚名を受け斬首された。(ElizabethⅠ,Anne Boleyn,9月7日)
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ケイト・ブランシェット演じる映画「エリザベス」、ナタリー・ポートマン、スカーレット・ヨハンソンの「ブーリン家の姉妹」見ましたが、このような経緯があった事を知る事が出来て、改めてまた見てみたいと思いました。
投稿: イクちゃん | 2014年11月16日 (日) 16時57分