五・四運動
1919年1月、第一次世界大戦の戦勝国である連合国27ヵ国の代表がパリに集まり、パリ講和会議を開催した。中国側は、領事裁判権の廃止、関税自主権の回復、租借地の租界の返還など7項目の要求とともに、21ヵ条条約の廃棄、旧ドイツ権益の返還を要求したが、主要国は、この要求を退けた。中国民衆の怒りは爆発し、強い排日運動が勃発した。
1919年5月4日、北京大学の学生3000人がデモ行進し、32人が逮捕された。デモ隊はさらに曹汝霖宅を襲撃した。この事件を契機によって火蓋をきった学生運動はたちまち全国各地に波及した。これにより、二千数百年中国を支配し続けてきた中国の封建的な制度と王朝を批判し、これらを打倒して近代文化をつくりあげようという運動が起こった。そのなかで指導的地位にあったのは胡適(1892-1962)、陳独秀(1879-1942)、魯迅(1881-1926)などである。胡適がとくに力を注いだのは、新文学運動である。白話文学による文学革命は、この五・四運動の中心をなした。さらに1912年のロシアの十月革命や1917年のロシア革命は、この運動に影響を及ぼし、マルクス・レーニン主義が大きな力を与えた。また胡適はアメリカの留学生であったのでプラグマティズムの影響がみられる。さらに、クロポトキンを祖とする無政府主義の運動も中国で行われていた。こういうさまざまな思想が入り乱れていたのが五・四運動である。やがて日本製品のボイコット運動、工場のストライキへと発展した。現在、中国では5月4日は「青年節」という祝日となっている。参考:「五四運動の研究」京都大学人文科学研究所共同報告 全4冊 竹内実・小林善文・吉田富夫 同朋舎 1985
五四運動のその後の情勢を略記しておこう。1921年11月から翌年2月にかけてワシントン会議が開催された。中国からは顔恵慶を団長とする7人の代表団を送り、ベルサイユ講和会議に提出した要求を発展させた10項目の要求を提出したが、中国の半植民地的な現状を何らか変えるものではなかった。国内では1920年から段祺瑞を頭目とする安徽派、呉佩孚、張作霖の奉天派など軍閥による分裂への危機がはじまった。
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文学運動とは?面白いですね。
投稿: 根保孝栄・石塚邦男 | 2013年5月 4日 (土) 23時14分