コンスタンティノープル陥落
1453年、若きスルタン、メフメト2世(1430-1481)に率いられたオスマン軍は、東ローマ帝国の都コンスタンティノープルを包囲した。東ローマ皇帝コンスタンティノス11世バラオロゴス・ドラガセス(コンスタンティン・パレオロガス)はジェノヴァやヴェネツィアに援軍を求め、徹底抗戦の構えを見せる。そして5月29日、オスマン軍による総攻撃が開始され、コンスタンティノープルの西側の城壁を破って、市内に突入した。圧倒的な戦力差の前に皇帝は討死し、ついに東ローマ帝国は西暦330年以来、1123年間続いた歴史に幕が下ろされた。塩野七生は「一都市の陥落が一国の滅亡につながる例は、歴史上、さほど珍しいことではない。だが、一都市の陥落が、長い歳月にわたって周辺の世界に影響を与えつづけてきた一文明の終焉につながる例となると、人類の長い歴史のうえでも、幾例を数えることができるであろうか」(「コンスタンティノープルの陥落」新潮社)と記している。
メフメト2世は19歳で父ムラートのあとを継いで、このとき23歳である。アレクサンドロス大王やユリウス・カエサルのような野望を抱いていた。16万のオスマン軍は海と陸からコンスタンティノープルを包囲していた。東ローマ帝国は西欧に向けて、援軍を要請していたが、ギリシア正教会とカトリック教会との問題があって、援軍はヴェネツィア艦隊のみであった。だがコンスタンティノープルは三重の城壁(メソティキオン城壁)で囲まれ、ボスポラス海峡と金角湾とは鉄鎖によって封鎖されていてオスマンの艦隊は侵入できなかった。
メフメト2世は陸上に軌道を敷設して、ボスポラス海峡から船を運び入れ、船を車輪つきの荷台にのせて、海抜60mほどのガラタの丘を越えて、金角湾側のガラタ地区に移動させた。それを一夜のうちに移動させ、封鎖された金角湾内に船を送り込むという奇策であった。さすがの難攻不落を誇ったコンスタンティノープルも陸上と海上からの砲撃のために忽ちのうちに陥落した。血刀さげたトルコ兵の虐殺ぶりはまるで地獄絵をみるようだった。オスマン・トルコ帝国はキリスト教には寛大であった。しかしキリスト教徒に重い人頭税を課した(Konstantinos Palaiologos Dragases) 参考:地図で訪ねる歴史の舞台 世界 帝国書院25p
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