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2023年5月30日 (火)

映像化された世界文学作品(戦後)

 戦争が終って、平和が訪れると、第一線の監督たちは腰をすえて仕事をはじめ、すぐれた作品を作るようになった。文芸作品では、スタンダール、ゾラ、ディケンズ、モーム、カミュなどの映画化にも優れた映画が生まれた。戦後第一作の文芸映画はアンドレ・ジッド原作の「田園交響楽」(ミッシェール・モルガン主演)。わがベストはトーマス・マンの名作をルキノ・ヴィスコンティが映画化した「ベニスに死す」。「アンナ・カレーニナ」は戦後だけでも8回映画化されている。21世紀に入ると映像化文芸作品は激減する傾向にある。近年はテレビドラマで世界文学の映像化がさかんである。

 

「シーザーとクレオパトラ」 ガブリエル・パスカル監督 1945年(バーナード・ショー脚本)

 

「田園交響楽」 ジャン・ドラノワ監督 1946年

 

「子鹿物語」 クラレンス・ブラウン監督 1946年

 

「剃刀の刃」 エドマンド・グールディング監督 1946年

 

「大いなる遺産」 デーヴィッド・リーン監督 1946年

 

「肉体の悪魔」 クロード・オータン・ララ監督 1947年

 

「パルムの僧院」 クリスチアン・ジャック監督 1947年

 

「美貌の友」 アルバート・リュ―イン監督 1947年(モーパッサン「ベラミ」)

 

「ボヴァリー夫人」Carlos Schieper監督 1947年(アルゼンチン)Mecha Ortiz

 

「凱旋門」 ルイス・マイルストン監督 1948年

 

「マクベス」 オースン・ウェルズ監督 1948年

 

「ハムレット」 アイリーン・ハーリー監督 1948年

 

「アンナ・カレニナ」 ジュリアン・デュヴィヴィエ監督 1948年

 

「情婦マノン」 アンリ―・ジョルジュ・クルーゾー監督 1948年

 

「オリヴァー・ツィスト」 デビッド・リーン監督 1948年

 

「忘れじの面影」 マックス・オフェルス監督 1948年

 

「カルメン」 チャールズ・ヴィダー監督 1948年

 

「若草物語」 マーヴィン・ルロイ監督 1949年

 

「ボヴァリー夫人」 ヴィンセント・ミネリ監督 1949年 ジェニファー・ジョーンズ

 

「第三の男」 キャロル・リード監督 1949年(グレアム・グリーンの戯曲)

 

「シラノ・ド・ベルジュラック」 マイケル・ゴードン監督 1950年

 

「輪舞」 マックス・オフュルス監督 1950年

 

「令嬢ジュリー」 アルフ・シェーベルイ監督 1950年

 

「クオ・ヴァディス」 マーヴィン・ルロイ監督 1951年

 

「文化果つるところ」 キャロル・リード監督 1951年

 

「欲望という名の電車」 エリア・カザン監督 1951年(テネシー・ウィリアムズの戯曲)

 

「レ・ミゼラブル」 ルイス・マイルストン監督 1952年

 

「三文オペラ」 ピーター・ブルック監督 1952年

 

「嵐」 ルイス・ブニュエル監督 1953年

 

「キリマンジャロの雪」 ヘンリー・キング監督 1953年

 

「嘆きのテレーズ」 マルセル・カルネ監督 1953年

 

「青い麦」 クロード・オータン・ララ監督 1953年

 

「雨に濡れた欲情」 カーティス・バーンハート監督 1953年(モーム「雨」)

 

「黄金の馬車」 ジャン・ルノワール監督 1953年(メリメ「黄金の馬車」)

 

「雨の朝巴里に死す」 リチャード・ブルックス監督 1954年

 

「海底二万哩」 リチャード・フライシャー監督 1954年

 

「ロミオとジュリエット」 レナート・カステッラーニ監督 1954年

 

「ユリシーズ」 マリオ・カメリーニ監督 1954年

 

「カルメン」 オットー・プレミンジャー監督 1954年

 

「皇太子の初恋」(アルト・ハイデルベルク)  1954年 

 

「エデンの東」 エリア・カザン監督 1955年

 

「足ながおじさん」 ジーン・ネグレスコ監督 1955年

 

「女優ナナ」 クリスチャン・ジャック監督 1955年

 

「オセロ」 セルゲイ・ユトケーヴィッチ監督 1955年

 

「ロメオとジュリエット」 エリ・アルンシタム監督 1955年

 

「チャタレイ夫人の恋人」 マルク・アレグレ監督 1955年

 

「戦争と平和」 キング・ヴィダー監督 1956年

 

「罪と罰」 ジョルジュ・ランバン監督 1956年

 

「居酒屋」 ルネ・クレマン監督 1956年

 

「ジャイアンツ」 ジョージ・スティーヴンス監督 1956年(エドナ・ファーバーの小説)

 

「八十日間世界一周」 マイケル・アンダーソン監督 1956年

 

「白鯨」 1956年

 

「武器よさらば」 チャールズ・ヴィダー監督 1957年

 

「陽はまた昇る」 ヘンリー・キング監督 1957年

 

「レ・ミゼラブル」ジャン・ポール・ル・シャノワ監督 1957年 

 

「ドン・キホーテ」 グリゴーリ・コージンツェフ監督 1957年

 

「悲しみよこんにちは」 オットー・プレミンガー監督 1958年

 

「老人と海」 ジョン・スタージェズ監督 1958年

 

「女の一生」 アレクサンドル・アストリュック監督 1958年

 

「静かなるドン」 セルゲイ・ゲラーシモフ監督 1958年

 

「白痴」 イワン・プイリエフ監督 1958年

 

「ベン・ハー」 ウィリアム・ワイラー監督 1958年

 

「カラマゾフの兄弟」 リチャード・ブルックス監督 1959年

 

「緑の館」 メル・フェーラー監督 1959年

 

「危険な関係」 ロジェ・ヴァディム監督 1959年

 

「小犬をつれた貴婦人」 ヨーゼフ・ヘイフイツ監督 1959年

 

「アッシャー家の惨劇」 ロジャー・コールマン監督 1960年

 

「オセロ」 セルゲイ・ユトケヴィッチ監督 1960年

 

「ガリバーの大冒険」 カーウィン・マシューズ 1960年

 

「復活」 ミハイル・シュヴァイツェル監督 1961年

 

「尼僧ヨアンナ」 イェジー・カヴァレロヴィチ監督 1961年(イヴァシュヴィッチの小説) 

 

「長距離ランナーの孤独」 トニー・リチャードソン監督 1962年

 

「審判」 オーソン・ウェルズ監督 1962年

 

「三文オペラ」 ヴォルフガング・シュタウチ監督 1963年

 

「軽蔑」 ジャン・リュック・ゴダール監督 1963年(アルベルト・モラヴィアの小説)

 

「トム・ジョーンズの華麗なる冒険」 トニー・リチャードソン監督 1963年

 

「ハムレット」 グリゴリー・コーシンツェフ監督 1964年

 

「人間の絆」 ケン・ヒューズ監督 1964年(モームの小説)

 

「マイ・フェア・レディ」 ジョージ・キューカー監督 1964年(バーナード・ショー「ピグマリオン」)

 

「戦争と平和 第一部」 セルゲイ・ボンダルチュク監督 1965年

 

「ロード・ジム」 リチャード・ブルックス監督 1965年

 

「オセロ」 スチュアート・バージ監督 1966年

 

「ドリトル先生と不思議な旅」 リチャード・フライシャー監督 1967年

 

「異邦人」 ルキノ・ヴィスコンティ監督 1967年

 

「昼顔」 ルイス・ブニュエル監督 1967年

 

「アンナ・カレーニナ」 アレクサンドル・ザルヒ監督 1967年

 

「二十五時」 アンリ・ヴェルヌイユ監督 1967年

 

「遥か群衆を離れて」 トマス・ハーディ原作 ジョン・シュレシンジャ―監督 1967年

 

「ロミオとジュリエット」 フランコ・ゼッフィレッリ監督 1968年

 

「カラマーゾフの兄弟」 イワン・プイリエフ監督 1968年

 

「うたかたの恋」 テレンス・ヤング監督 1968年

 

「チップス先生さようなら」 ハーバート・ロス監督 1969年

 

「クリスマス・キャロル」 ロナルド・ニーム監督 1970年

 

「ジェーン・エア」 デルバート・マン監督 1970年

 

「嵐が丘」 ロバート・ヒューズ監督 1970年

 

「罪と罰」 レフ・クリジャーノフ監督 1970年

 

「マクベス」 ロマン・ポランスキー監督 1970年

 

「ベニスに死す」 ルキノ・ヴィスコンティ監督 1971年

 

「デカメロン」 ピエロ・パオロ・パゾリーノ監督 1971年

 

「三銃士」 リチャード・レスター監督 1973年

 

「人形の家」 ジョゼフ・ロージー監督 1973年

 

「華麗なるギャッビー」 ジャック・クレートン監督 1974年

 

「遠雷」 イェジー・ホフマン監督 1974年

 

「デイジー・ミラー」 ピーター・ボグダノヴィッチ監督 1974年

 

「星の王子さま」 スタンリー・ドーネン監督 1974年

 

「アンナ・カレーニナ」 バレエ映画 1975年 マイヤ・プリセッカヤ

 

「バリー・リンドン」 スタンリー・キューブリック監督 1975年(サッカレーの小説)

 

「ラスト・タイクイーン」 エリア・カザン監督 1976年(フィッツジェラルドの小説)

 

「シンデレラ」 ブライアン・フォーブス監督 1976年

 

「ウイズ」 シドニー・ルメット監督 1978年

 

「テス」 ロマン・ポランスキー監督 1979年

 

「ブリキの太鼓」 フォルカー・シュレンドルフ監督 1979年

 

「チャタレイ夫人の恋人」 ジュスト・ジャカン監督 1981年

 

「スワンの恋」 フォルカ―・シュレンドルフ監督 1983年(プルースト「失われた時を求めて」)

 

「カルメンという名の女」 ジャン・リュック・ゴダール監督 1983年

 

「カルメン」 カルロス・サウラ監督 1983年

 

「インドへの道」 デヴィッド・リーン監督 1984年

 

「剃刀の刃」 ジョン・バライラム監督 1984年(モームの小説)

 

「赤毛のアン」 ケヴィン・サリヴァン監督 1985年

 

「肉体の悪魔」 マルコ・ベロッキオ監督 1986年

 

「ガラスの動物園」 ポール・ニューマン監督 1987年

 

「危険な関係」 スティーヴン・フリアーズ監督 1988年(ラクロ「危険な関係」)

 

「恋の掟」 ミロス・フォアマン監督 1989年(ラクロ「危険な関係」)

 

「レディ・チャタレー」 ローレンス・ウェーバー監督 マル― 1989年

 

「ヘンリー五世」 ケネス・プラナー監督 1989年

 

「チャタレイ夫人の恋人」 フランク・デ・ニーロ監督 ランバ・マル 1991年

 

「ファウスト」 ヤン・シュヴァンクマイエル監督 ベトル・チェペック 1991年

 

「ボヴァリー夫人」 アレクサンドル・N・ソクーロフ監督 1991年

 

「ボヴァリー夫人」 クロード・シャブロル監督 1991年

 

「美しき諍い女」 ジャック・リヴェット監督 1991年(バルザック「知られざる傑作」)

 

「嵐が丘」 ピーター・コズミンスキー監督 1992年

 

「二十日鼠と人間」 ゲイリー・シニ―ズ監督 1992年

 

「愛人 ラマン」 ジャン・ジャック・アノー監督 1992年

 

「チャタレイ夫人の恋人」 ケン・ラッセル監督 1993年 シャーリー・アン・フィールド

 

「いつか晴れた日に」 アン・リー監督 1995年

 

「ジエイン・エア」 フランコ・ゼフィレッリ監督 1996年

 

「日陰のふたり」 マイケル・ウィンター・ボトム監督 1996年

 

「ロビンソン・クルーソー」 ロッド・ハーディ、ジョージ・ミラー監督 1996年

 

「アンナ・カレーニナ」 バーナード・ロス監督 1997年 ソフィー・マルソー

 

「赤と黒」 ジャン・ダニエル・ヴェラーゲ監督 1997年(テレビ)

 

「レ・ミゼラブル」 ビレ・アウグスト監督 1998年

 

「虚栄の市」 マーク・マンデン監督 1998年

 

「オネーギンの恋文」マーサ・ファインズ監督 1999年(プーシキン「エヴゲーニイ・オネーギン」)

 

「サウダ―ハウス・ルール」 1999年(ジョン・アーヴィングの小説) 

 

「真夏の夜の夢」 マイケル・ホフマン監督 1999年

 

「クオ・ヴァディス」 イエジ―・カヴァレロヴィッチ監督 2001年

 

「イザベル・アジャーニの惑い」 ブノワ・ジャコー監督 2002年(コンスタン「アドルフ」)

 

「飛ぶ教室」 トミー・ヴィガント監督 2003年

 

「ウォーク・トゥ・リメンバー」 アダム・シャンクマン監督 2003年

 

「カルメン」 ヴィセンテ・アランダ監督 2003年

 

「チボー家の人々」 ジャン・ダニエル・ヴェルハージェ監督 2003年(テレビ)

 

「きみに読む物語」 ニック・カサヴェテス監督 2004年

 

「ゴリオ爺さん」 ジャン・ダニエル・ヴェラーゲ監督 2004年(テレビ)

 

「悪女」 ミーラー・ナーイル監督 2004年(サッカレー「虚栄の市」)

 

「ヴェニスの商人」 マイケル・ラドクォード監督 

 

「オリバー・ツイスト」 ロマン・ポランスキー監督 2005年

 

「プライドと偏見」 ジョー・ライト監督 2005年

 

「ベラミ」 フィリップ・トリボワ監督 2005年(テレビ)

 

「レディ・チャタレイ」 パスカル・フェラン監督 マリナ・ハンズ 2006年

 

「ベンジャミン・バトン 数奇な人生」 デヴィッド・フィンチャー監督 2008年(フィッツジェラルドの短編)

 

「嵐が丘」 2009年(テレビ)

 

「ガリヴァー旅行記」 ロブ・レクーマン監督 2010年

 

「ジエーン・エア」 キャリー・ジョージ・フクナガ監督 2011年

 

「ファウスト」 アレクサンドル・ソクーロフ監督 2011年 ヨハネス・ツァイラー

 

「レ・ミゼラブル」 トム・フーパー監督 2012年

 

「危険な関係」 ホ・ジノ監督 2012年

 

「アンナ・カレーニナ」 ジョー・ライト監督 2012年 キーラ・ナイトレイ

 

「ベラミ」 デクラン・ドネラン&ニック・オーメロッド監督 2012年

 

「華麗なるギャツビー」 バズ・ラーマン監督 2013年

 

「ボヴァリー夫人」 ソフィー・バルデス監督 2014年 ミア・ワシコウスカ

 

「マクベス」 ジャスティン・カーゼル監督 2015年

 

「チャタレイ夫人の恋人」 2015年(テレビ) ジェド・マーキュリオ監督 ホリデイ・グレンジャー

 

「戦争と平和」 2015年(BBC)

 

「シンデレラ」 2015年 ケネス・プラナー監督

 

「ソフィア・コッポラの椿姫」 ソフィア・コッポラ監督 2017年

 

「アンナ・カレーニナ」ロシア エリザベータ・ボヤルスカヤ 2017年

 

「若草物語」 グレタ・ガーウィグ監督 2019年 エマ・ワトソン、シアーシャ・ローヤン、エリザ・スカンレン、フローレンス・ピュー

 

「レ・ミゼラブル」 ラジ・リ監督 2019年

 

「透明人間」 リー・ワネル監督 2020年(H.G.ウェルズ)

 

「シンデレラ」 ケイ・キャノン監督 2021年

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

アレキサンダー・ポープ

Pope    18世紀の英詩人アレキサンダー・ポープは1744年のこの日、死去した。優雅で感受性にあふれた上品な詩が特徴である。生来虚弱で学校教育を受けず、身長がわずか137cmしかなかったといわれる。(Alexander Pope) 5月30日

2023年5月29日 (月)

コンスタンティノープル陥落

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    1453年、若きスルタン、メフメト2世(1430-1481)に率いられたオスマン軍は、東ローマ帝国の都コンスタンティノープルを包囲した。東ローマ皇帝コンスタンティノス11世バラオロゴス・ドラガセス(コンスタンティン・パレオロガス)はジェノヴァやヴェネツィアに援軍を求め、徹底抗戦の構えを見せる。そして5月29日、オスマン軍による総攻撃が開始され、コンスタンティノープルの西側の城壁を破って、市内に突入した。圧倒的な戦力差の前に皇帝は討死し、ついに東ローマ帝国は西暦330年以来、1123年間続いた歴史に幕が下ろされた。塩野七生は「一都市の陥落が一国の滅亡につながる例は、歴史上、さほど珍しいことではない。だが、一都市の陥落が、長い歳月にわたって周辺の世界に影響を与えつづけてきた一文明の終焉につながる例となると、人類の長い歴史のうえでも、幾例を数えることができるであろうか」(「コンスタンティノープルの陥落」新潮社)と記している。

    メフメト2世は19歳で父ムラートのあとを継いで、このとき23歳である。アレクサンドロス大王やユリウス・カエサルのような野望を抱いていた。16万のオスマン軍は海と陸からコンスタンティノープルを包囲していた。東ローマ帝国は西欧に向けて、援軍を要請していたが、ギリシア正教会とカトリック教会との問題があって、援軍はヴェネツィア艦隊のみであった。だがコンスタンティノープルは三重の城壁(メソティキオン城壁)で囲まれ、ボスポラス海峡と金角湾とは鉄鎖によって封鎖されていてオスマンの艦隊は侵入できなかった。

    メフメト2世は陸上に軌道を敷設して、ボスポラス海峡から船を運び入れ、船を車輪つきの荷台にのせて、海抜60mほどのガラタの丘を越えて、金角湾側のガラタ地区に移動させた。それを一夜のうちに移動させ、封鎖された金角湾内に船を送り込むという奇策であった。さすがの難攻不落を誇ったコンスタンティノープルも陸上と海上からの砲撃のために忽ちのうちに陥落した。血刀さげたトルコ兵の虐殺ぶりはまるで地獄絵をみるようだった。オスマン・トルコ帝国はキリスト教には寛大であった。しかしキリスト教徒に重い人頭税を課した(Konstantinos Palaiologos Dragases) 参考:地図で訪ねる歴史の舞台 世界 帝国書院25p

 

 

2023年5月26日 (金)

鳩はベトナム語で「チンポコ」

   ハトの種類は600種もあり、世界中どこでもいて、呼び方もさまざまである。英語で「ピジョン(pigeon)」、ドイツ語で「タウベ(Taube)」、フランス語で「コロンブ(colombe)」、イタリア語で「コロンバ(colomba)」、スペイン語で「パローマ(paloma)」、中国語で「グー」、韓国語で「ピトゥルギ」、フィリピン(タガログ語)で「カラパーティ」。そして、ベトナム語ではなんと「チンポコ(chim bo cau)」である。ベトナム語で「チン」は鳥、「ポコ」は鳩で、2つの語が組み合わさって「チンポコ」となる。「ポコ」だけでも鳩という意味だが、通常は「チンポコ」という。

俵万智と金賢姫

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「この味がいいね」と君が言ったから七月六日はサラダ記念日

 

    今朝の「あさイチ プレミアムトーク」は歌人・俵万智が出演している。36年前の昭和62年、俵万智の歌集「サラダ記念日」が280万部の大ベストセラーとなった年である。日本の世の中、バブル景気が始まった頃。出版界では他に、大江健三郎(2023年没、享年88歳)の「懐かしい年への手紙」、村上春樹「ノルウェイの森」、安部譲二「塀の中の懲りない面々」などがある。映画では、伊丹十三(1997年没、享年64歳)監督の「マルサの女」、リヴァー・フェニックス(1993年没、享年23歳)主演の「スタンド・バイ・ミー」などが話題を呼んだ。トム・クルーズは「トップガン」でトップスターへの仲間入りを果たした。歌謡曲ではテレサ・テン(1995年没、享年42歳)の「時の流れに身をまかせ」がヒットした。芸能界ではマイケル・ジャクソンのブーム、マドンナの来日公演、郷ひろみ・ニ谷友里恵の結婚、そして戦後最大のスター・石原裕次郎が7月17日亡くなっている(享年52歳)。そして昭和62年の最大の事件は金賢姫と大韓航空機爆破事件であろう。偶然にも俵万智と金賢姫は同年で当時24歳。現在60歳になる。こうして36年の歳月を振り返ると、人の世の無常と哀れさを知る。

石川啄木と函館大森浜

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  東海の小島の磯の白砂に

 

  われ泣きぬれて

 

  蟹とたはむる

 

 歌集「一握の砂」の巻頭を飾る秀歌で、石川啄木の作品中最も有名なものである。作歌は明治41年6月24日で、翌7月1日発行の「明星」に「石破集」の題下に発表された140首中の一首である。初出歌は「東海の小島の磯の白妙にわれ泣きぬれて蟹と戯る」と一行書きで発表され、明治43年7月の「創作」自選歌号にも再掲されている。「東海の小島」は特定の地名や場所を指すのではないという解釈も可能であるが、この一首を啄木の閲歴、実生活との関連において鑑賞するとき、彼が生涯において親しんだ唯一の海岸である函館大森浜を念頭において歌ったのではないかと考えられる。すでに函館に渡った直後の明治40年5月26日に作った「蟹」と題する詩が「ハコダテの歌」にある。

 

潮満ちくれば穴に入り、

 

潮落ちゆけば這ひ出でて、

 

ひねもす横に歩むなる

 

東の海の砂浜の

 

かしこき蟹よ、今此處を、

 

運命(さだめ)の浪にさらはれて、

 

心の龕(づし)の燈明(みあかし)の

 

汝(なれ)が眼よりも小(ささ)やかに

 

滅(き)えみ明るみすなる子の

 

行方も知らに、草臥れて、

 

辿り行くとは、知るや、知らずや。

 

    歌集「一握の砂」は明治43年12月1日、東雲堂書店から刊行された。四六判290頁、定価60銭であった。「東海の」歌は現在函館市住吉町共同墓地東南の一角、立待崎の眺望のよい断崖の上に建つ啄木一族の墓の碑面に刻まれているが、これは岡田健蔵と宮崎郁雨によって、大正15年8月1日建てられたもので、郁雨がその資金を提供した。岡田健蔵(1881-1944)は市立函館図書館(大正11年創設)の初代館長である。宮崎郁雨は本名宮崎大四郎といい、啄木が函館へ渡ったとき以来、生涯、生活的な援助をした人で、著書に「函館の砂」がある。

 

 

 

 

2023年5月25日 (木)

消えた韓流スター・リュ・シウォン

 日本で韓国ドラマ「冬のソナタ」が放送されて早いもので20年が経つ。今でも韓国ドラマは1日に20本から30本くらいはどこかの局で放送され、韓流ブームは変わらず続いている。だが俳優、歌、カーレースすべてが一流の貴公子、リュ・シウォンは最近あまりメディアで見ることはない。ある番組で「冬ソナ」のミニョン役はペ・ヨンジュンより先にオファーを受けた、と裏話を打ち明けた。相手役のチェ・ジウとは「真実」「美しき日々」と共演が続いたために僕が断った、今から思うと惜しいことをした(笑)と語る。「美しき日々」の挿入歌「約束」は20万枚売れた。カーレースにも出場して好成績を収めている。なぜ人気が凋落したのか。2010年に結婚したが、4年後、泥沼の離婚訴訟となり敗訴したことがあるかもしれない。しかし日本にはファンクラブもあり根強い人気があるようだ。2008年には2日間で合計7万人を動員し、韓流アーティスト初となる東京ドーム公演を成功させた人気者である。元祖韓流スターの復活が望まれる。

歴史ヒーロー伝「楠木正成」

Kusunoki_masashige     楠木正成(1294-1336)は43歳のとき、建武3年5月25日、兵庫・湊川で戦死したといわれるが、その年齢については、確かな証拠があるわけではなく、その生地も不詳である。楠木正成が史料にその名を現すのは元弘元年6月から8月ごろである。臨川寺領和泉国若松庄に、「悪党楠兵衛尉」として乱入押妨をしたという記事が天竜寺文書に見えるのが最初で、それ以前の行動はわからない。楠木正成といえば忠臣の代表として戦前は国民に親しまれた人物である。楠公ゆかりの場所は関西一円に多数存在するが、阪神間は神戸の湊川神社をはじめ、芦屋・西宮一帯にもゆかりの地はある。元弘元年、吉田定房の密告により、後醍醐天皇(1288-1339)は笠置山に逃れたが、幕府軍に攻められて陥落、後醍醐は捕らえられて隠岐に流された。しかし、足利尊氏や新田義貞らの反幕の動きが高まると、元弘3年隠岐を脱出した。帰洛をめざす後醍醐は山陽道をのぼって摂津の芦屋を過ぎて、「川東の手前までのところで」(太平記)楠木正成の出迎えをうけた。天皇はじきじきに「よくぞ参った。その方の忠誠と励ましこそ心の支えであった。回天の事業をなしたのは、ひとえにその方の忠誠にもとづくものだ」と声をかけられた。地に伏して感激する正成。この後醍醐天皇・楠木正成、面会の場所はどこであろうか。阪神香枦園駅の西方と考えられる。駅の西端を夙川が流れ、その東側は旧字名が川東で、今も川東町がある。阪神高速芦屋料金所(芦屋市大東町)あたりであろうか。

アフリカデー

Japan    本日は「アフリカデー」。1963年5月25日にアフリカ統一機構が設立されたことを記念して、アフリカ・デーが定められた。アフリカには現在54ヵ国の独立国があるが、そのうち日本(37.8万k㎡)の面積より広い国が30ヵ国ある。同じ島国であるマダガスカル共和国と面積を比較すれば、マダガスカルは日本の1.6倍の広さをもつ。アフリカ最大のヴィクトリア湖は九州と四国とを合わせてもまだ大きい。地図帳で認識する以上にアフリカは大きい。アフリカの大陸と島嶼部をあわせた面積は3036万k㎡。これは日本の80倍の大きさである。21世紀になってルワンダなど経済成長が著しく「アフリカの奇跡」と呼ばれている。

 アフリカは人類発祥の地であるが、エジプト文明のように古代文明の発祥地でもある。つまり旧石器時代、新石器時代、青銅器時代、鉄器時代の発展がアフリカ各地でみられるが、その裏付けとなる考古学の出土物がこれから期待できる。アフリカ中部ナイジェリアのノク遺蹟からテラコッタと呼ばれる粘土を焼いて作った人形が出土している。

 

 

 

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  携帯電話を使うマサイ族

 

 

2023年5月24日 (水)

李氏朝鮮はなぜ元号がなかったのか?

 今日は何の日。5月24日、李成桂が昌徳宮で薨去した(西暦では1408年)。太祖(イ・ソンギエ、あるいはイ・ソンゲ)は1392年から1897年までおよそ500年続いた李氏朝鮮の創始者である。太祖が没したのは第3代国王太宗の時代で、「李朝太宗実録」巻15には「太宗八年五月壬申条」とある。中国の暦では永楽6年5月24日。陽暦では1408年6月18日のことである。ところで李氏朝鮮ではなぜ日本のように元号を使用しなかったのだろうか。朝鮮時代の前は高麗時代。このときから、朝鮮半島は中国(元)を宗主国として尊重してきた。朝鮮王朝時代に入ってからも中国の影響力は衰えなかった。そこで李成桂は、中華統一を成し遂げた明に対して、宗主権を認めたり貢物をしたりするなどして独自の国家を維持してきた。ちなみに「朝鮮」という国号も「朝の静かさの国」という意味で、中国に了承してもらったものである。宮廷衣装なども、韓服といっていてもほとんど中国の服飾を採用している。元号を独自に採用するなどなおさら難題である。ちょうどその頃、明の永楽帝の時代、靖難の役(1399~1402)が起こり、反対勢力を弾圧した。建文帝の存在を歴史から抹殺するため、建文の元号を抹消し、この年を洪武35年として、翌年(1403年)を永楽元年とした。そのため朝鮮王朝では中国の元号を使うのが原則であり、ないしは後世の記録書では国王の在位で数える年号を記すことが慣例となり、徳川時代のような元禄・文化・文政という独自の元号はなかった。

2023年5月23日 (火)

ギャラの話

 韓国の女性が言っていましたが、日本では今でも木村拓哉や福山雅治の主演ドラマが放送していますが、根強い人気ですね、と。韓国では大スターになると、ギャラが高騰してドラマ製作費にかかって払えなくなる。むかしパク・シニャンが「銭の戦争」の1回当りの出演料1億7050ウォンになり、ドラマ製作協会側が、ひとりの俳優に製作費の過半数以上を支払うのは害をもたらすとして訴訟にまで発展した。結局、裁判ではパク・シニャンが勝利したものの、どこの国でも青天井になった大物スターのギャラに歯止めをかけることは悩ましい問題である。

 

サヴォナローラ焚殺される

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サヴォナローラの火刑(サン・マルコ美術館)

 

  ルネサンスの世俗文化が最高潮に達した15世紀末のフィレンツェで神権政治を行ってきたジロラモ・サヴォナローラ(1452-1498)が、1498年のこの日、シニョーリア広場で火刑に処された。背後には、彼の非難を苦々しく思っていたボルジア家の教皇アレクサンデル6世の圧力があるというのだ。サヴォナローラは、22歳のとき突然ドミニコ会修道士となり、30歳のときフィレンツェにやってきた。しかし、彼はそのとき以来、熱烈な説教とフィレンツェ人の堕落した享楽的な生活を批判しつづけていた。悔い改めなければ、フィレンツェは外敵の侵入によって滅ぶであろうと預言していた。人々は、シャルル8世によってこの預言が成就されようとしていると感じ、彼の神権政治を受け入れたのである。しかし、1498年5月23日、4年間の禁欲生活の強制に退屈してきたフィレンツェ市民はサヴォナローラを捕らえて裁判にかけた。その結果、彼は偽預言者として絞首刑ののち改めて火刑に処された。一時はあれほどのフィレンツェ人を感動させたのに、彼の最期を見とどけたのは2、3名にすぎなかったという。(Girolamo Savonarola)

ハインリヒ5世

 今日は何の日。1125年のこの日、神聖ローマ皇帝ハインリヒ5世が死去した。38歳没。ハインリヒ5世は父より続いていた叙任権闘争を解決させ、ヴォルムス協約を成立させた。(5月23日)

 

 

2023年5月22日 (月)

織田信長の身長は?(有名人の身長測定)

   BS「偉人たちの健康診断」という番組で織田信長の身長は170cmと推定している。

 

  最も背の高かった米国大統領は誰か。身長1.93mのアブラハム・リンカンである。彼はマルファン症候群という遺伝病だったと考えられる。これにかかった人は体がひょろ長く、異常に長い手足を持つ傾向がある。浅田真央のソチ五輪曲、「ピアノ協奏曲第二番ハ短調作品18」の作曲家ラフマニノフの身長は2m近くあったといわれる。作家マイケル・クライトン、経済学者ガルブレイスも2m以上の身長があった。作家チェーホフやヘミングウェイの身長が1.8m以上あったということも意外と知られていない。トルストイの身長はどれくらいあったのだろうか?あまり作家の身長など無意味なことかもしれないが、推計でもいいから知りたい。若いころの写真を見ると、砲兵隊の仕官候補生だったから1.75mくらいある美丈夫にみえるのだが。藤沼貴の「戦争と平和Q&A」に「トルストイ自身は太っておらず、背も案外高くありませんでした。ただ、がっちりしていて、体力は人並みすぐれていました」とあるだけで具体的なサイズはわからない(ワイド版「戦争と平和6」)。ウクライナのゼレンスキー大統領は170㎝と公表されていますが、広島サミットでの見た感じでは168㎝くらいではないでしょうか。

   参考までに、ネットなどで公表された有名人のデータをあげる(ただしかならずしも正確ではない)。ドラマや映画で活躍している新垣結衣。ある番組で現在の悩みとして「身長が伸び続けていること」を挙げ。一昨年から身長が1センチずつ続けていることを告白した。ネット上でガッキーの身長は諸説ありなぞのままである。公称は170cm前後だが、本当はもっとあるらしい。

 

カント            152 

 

橋本環奈          152 

 

サルトル                 159

 

広瀬すず          159 

 

有村架純          160 

 

ミッキー・ルーニー    160 

 

ナポレオン・ボナパルト  165

 

ドストエフスキー          169

 

テネシー・ウィリアムズ 170

 

パスカル          175

 

アベベ・ビキラ       177

 

カフカ            180

 

ランボー          180

 

アントン・チェーホフ   180

 

トマス・ウルフ       182

 

ヘミングウェイ       183 

 

コロンブス         183

 

ゲーテ            185 

 

サリンジャー        188-190

 

オスカー・ワイルド     190

 

ウィリアム・ハドソン    190

 

アブラハム・リンカン    193

 

ジョン・ケインズ       198

 

ラフマニノフ          200

 

マイケル・クライトン     206

 

孔子              216

 

   日本の有名人

 

織田信長           170

 

豊臣秀吉           154

 

徳川家康           157  

 

樋口一葉           143

 

猫ひろし            147

 

落合信彦           152

 

野口英世           153

 

勝海舟             156 

 

夏目漱石           159

 

石川啄木           159

 

江藤淳             160

 

梶井基次郎          160

 

京極夏彦           160 

 

森鷗外             161

 

三島由紀夫          163

 

筒井康隆           166

 

綾辻行人           166

 

芥川龍之介          167

 

村上春樹           168

 

吉行淳之介          170

 

北杜夫             170

 

太宰治             172

 

大江健三郎          172

 

佐久間象山          174 

 

坂本龍馬           176

 

平野啓一郎          176

 

安部譲二           176

 

星新一             179

 

永井荷風           179 

 

田中英光           180

 

遠藤周作           180

 

石原慎太郎          180

 

坂口安吾           180

 

景山民夫           185

 

荒俣宏             185

 

徳富蘇峰           185

 

蓮実重彦           190

 

女性では近年、長身作家もてでいる。

 

絲山秋子           174

 

川上弘美           175

 

曽野綾子           175

 

 

 

 

 

 

 

 

女王エリザベス1世の誕生

Elizabeth01  NHKEテレ「木村多江の、いまさらですが・・・」。本日はイギリスのエリザベス1世、ビクトリア、エリザベス2世の3人の女王が主役である。1533年9月7日、イングランドのグリニッジ宮殿でヘンリー8世の愛人アン・ブーリンは女児を生んだ。男子の世継ぎを望む英王ヘンリー8世(1491-1547)は、最初の妻アラゴンのキャサリンには成人できる子供を産むことができないと確信し、数年前から離婚を切望していた。6歳年上のキャサリンは、6人の子供を産んだが、生きて残っているのは娘メアリーただ1人だけであった。ヘンリー8世は、子供が死んだのは、正しくない結婚を神が罰しているためと考えた。ふつうならば、教皇クレメンス7世は離婚したいヘンリー8世の望みを聞き入れたであろう。ローマ教皇はこのような場合、一般にものわかりがよく、国家の問題がからんでいればなおさらのことだった。ところが、キャサリンは神聖ローマ帝国皇帝カール5世の叔母であり、この皇帝は家族の忠誠という感情とはまったく別に、きわめて道徳堅固な人物であって、離婚など我慢がならなかった。皇帝が教皇に加えることのできる制裁は、王が及ぼしうる圧力などとは比較にならないほど強大であった。

   しかしともかく、ヘンリー8世は1532年、侍女のアン・ブリーン(アン・ブリン、アン・ボレーン、1507-1536)を見初め二人は恋におち、アン・ブリーンは妊娠した。1533年1月25日に内密に結婚して、息子が正統の子であり、承認された王位継承者となることを保証した。しかし、ヘンリーとキャサリンの離婚の問題はなお未解決のままであった。ローマから離婚の承認を取りつける望みはなく、したがってカンタベリー大主教の手でかたをつける以外になかった。運良く、そのとき大主教のポストが空席になっていた。ウォーラム大主教は前年に死んだばかりであった。王は、聡明な若いケンブリッジの神学者トマス・クランマーを大主教に任命した。王室の主祭をしていた彼は、以前から離婚に対する支持を表明していたのである。3月30日、新任の大主教は正式に受任された。彼は通常教皇に対して行なう服従の宣誓をしたが、神の法、そしてイギリスの王、王国、法、およびその国王大権に反するいかなるものにも縛られないことを公式に宣言して、ヘンリー8世の離婚のための道を開いた。この上訴法は、イギリス大主教を、ローマとは関係なく、英国国教会法の最高の権威と認めるものである。聖職受任後ただちに、クランマーは議長としてヘンリー8世とキャサリンの結婚が神の法に反するものであることを決定し、5月10日、ダンスタブルで法廷を開いた。キャサリンは教皇の法廷に出されている問題を審理する権限をクランマーに認めず、出廷しなかった。5月23日、大主教は判決を下し、教皇はヘンリー8世の場合のような結婚に承認を与える権限をもたず、王とキャサリンはこれまで夫婦であったことはないと宣言した。5日後、クランマーはヘンリーとアン・ブリーンが合法的に結婚したと宣言し、6月1日、アンはウェストミンスター・アビーで王妃の座についた。7月11日、遅ればせながら教会の権威を守るため、ローマ教皇は破門の宣告文を作成し、9月にこれを送付した。その結果、ヘンリー8世はローマとのつながりをすべて断ち切ったのであり、イギリスの宗教改革は進展していった。

   この問題では王の個人的な欲求が、たまたま国民の熱望と一致した。彼らは民族主義と教会に対する幻滅の波のなかで、なんとかローマの影響から逃れたいと強く望んでいた。しかし、そのほかの問題については、このような一致は見られなかった。キャサリンの屈辱に民衆は深く憤り、ヨーロッパは衝撃を受け、教皇と皇帝は辱められた。9月7日の日曜日の午後、アン王妃は女子を産んだ。次の水曜日、この子はエリザベスと名づけられた。エリザベス(1533-1603)はのちに、イギリスで最も偉大な君主となった。アン王妃は1536年、姦通罪の汚名を受け斬首された。(ElizabethⅠ,Anne Boleyn,9月7日)

読書する女性

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    ゴッホの有名な絵に「アルルの女」がある。モデルはゴッホがよく通ったカフェの経営者ジヌー夫人。夢中で読書している様子ではなく、ひとつは思案しているポーズであり、もう一つはこちらを向いて、本を机に置いてある。2枚とも、「読書と女性」という画題ではどちらかというと珍しい趣向である。大衆向きに売れそうな絵を描くならば、若い娘の横顔あるいは、伏目がちで、物静かに読書しているというスタイルが一般的であろう。古典例としては、フラゴナール「読書する女」(1776年)がある。

 

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19世紀の風景画家コローにも読書する女の作品がある。

 

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印象派ではルノアールやカサットの作品がある。

 

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イワン・クラムスコイ「読書する女、ソフィの肖像」 1866年

 

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ヴィルヘルム・ハンマースホイ「読書する女性」 1903年

 

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アンリ・ファンタン=ラトゥール「読書する女」 1861年

 

日本の画家の「読書」はオーソドックスな作品が多い

 

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  黒田清輝「読書」(1890) 浅井忠「読書」(1902)

 

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テオドル・アクセントヴィチ(1859-1938)はポーランドの画家

 

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 ダニエル・ハンティントンは現代の画家

 

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 ルギ・ブラッチは現代イタリアの画家

 

 

2023年5月20日 (土)

7世紀唐王朝・高句麗・新羅と日本

   天皇という号がいつ成立したか定説はないが、近年の木簡の出土から天武天皇の時代とする説が有力である。ただし「日本書紀」に推古朝16年(608)に小野妹子を大使として持たせた国書には「東の天皇、敬みて西の皇帝に白す」とある。この国書の「天皇」の文字が天皇そのものをさすのか、文飾であるのかわからない。ともかく7世紀前半から後半にかけての東アジア世界は激動の時代であった。

    618年6月18日、李淵(高祖)が隋の恭帝から禅譲を受けて唐朝の初代皇帝に即位し、やがて太宗のときに貞観の治とよばれる最盛期を迎え、周辺諸国を圧迫した。半島では、百済、新羅、高句麗が対立していた。百済では、641年、義慈王がクーデタによって権力を掌握し、642年以降、新羅に侵攻した。高句麗では642年、残忍暴虐な泉蓋蘇文が栄留王や貴族を惨殺し、百済と結んで新羅を攻撃した。新羅は唐に救援を求め、唐の太宗は644年から5回にわたって大軍を率いて高句麗を攻めたが、泉蓋蘇文は唐軍を退けた。しかし彼の死後、国内の権力闘争で分裂し、660年百済が滅ぼされ、668年、高句麗が唐に亡ぼされた。百済と高句麗を滅ぼした後、唐は新羅を討って朝鮮半島全体を支配しようとした。そこで新羅は、百済・高句麗の遺民と力をあわせて唐軍を追い出すための戦争を行った。そして新羅は長年の戦争の末に、ついに大同江以南から唐軍を完全に追い出し、676年、朝鮮半島の統一をなしとげた。倭国皇極天皇期の政変(中大兄皇子、中臣鎌足らによる蘇我氏滅亡、乙巳の変)もこのような東アジア情勢の変化と関連して考えることができる。

お子様ランチの謎

 ハンバーグやスパゲッティ、コロッケなど、子どもに人気なメニューが1枚の皿に載った「お子様ランチ」。NHK番組「チコちゃんに叱られる」では「なんでお子様ランチには旗が立っているのか?」という疑問。梅花女子大学で日本の食文化に詳しい東四栁祥子教授によると、お子様ランチが誕生したのは昭和になってからだという。昭和5年12月1日、東京日本橋にある三越デパートの食堂部主任だった安藤太郎(当時23歳)が数種類の人気メニューを揃えた子供用定食を考案し販売したのが始まりという。値段は30銭。世界恐慌の暗い時代でもあり、子供には楽しい気持ちになってもらおうと開発したという。ではなぜケチャップライスのてっぺんに爪楊枝と紙でつくられた小さな旗(日章旗など)が立てられたのか。番組では安藤太郎さんが登山が好きで富士山をイメージし、ごはんを山に見立てて旗を立てたと考えている。安藤さんは、その後どのように人生を歩んだのか、戦地へ行ったのか、戦後も生き抜いたのか、当時の記録や写真が一切残っておらず(おそらく空襲で焼失したのであろう)、一言でいえば「誰にもわからない」という事なのです。(参考文献:「文化教養講座 日本はじめて物語デパート事始め・大食堂とお子様ランチの始まり」渡邊洋一 歴史研究60-5、2018年5月)

 

2023年5月19日 (金)

読書療法

 みなさんは夜中に不安を感じてなかなか眠れないとき、本を読んで気持ちを静めたりすることはありませんか。これは一種の読書療法です。読書療法とは、読書によって問題が解決されたり、なんらかの癒しが得られることをいいます。ちょうどビタミン剤の投薬に似ています。元来、読書は読者自身の心の投影であることから、読書傾向や読後の感想などの分析によって、診断の一つの手がかりを与えることができます。適度の孤立化の傾向がある者への、治療の効果をあげることが期待できます。

 読書が治療的価値があると考えられたのは、歴史的に古く、古代ギリシアの都市テーベにあった図書館の入口に「魂の癒す所」という意味の銘刻が掲げられていたといわれる。イスラムのカリフ・マルマンスールはカイロに建てられた病院でコーランを日夜患者に読ませて病気を治療したといわれる。フランスのラブレーは、患者に与えた処方箋に文学書を加えた。また17世紀の医師シデンハムも、「良好なる書は百の医薬に勝る」と述べている。しかし、精神療法の一つとして科学的に取り上げられたのは20世紀になってからの事であり、1937年アメリカのメニンジャー・クリニックが始まりであり、20世紀半ばに精神療法のひとつの技術としてビブリオセラピーの研究が広まってきた。(参考文献:「読書療法」阪本一郎・室伏武 明治図書 昭41年)

 

 

 

2023年5月18日 (木)

新語集

863ebe8f    新語は毎日のように生まれては消えていく。「終活」「コピペ」「既読スルー」「病弱フェイス」「塩対応」「マラニック」「ステマ(ステルスマーケティング)」「エボラ出血熱」「氷バケツ」。「ハニートラップ」とは何か?「甘い罠」の意。つまり007ジェームス・ボンドに接近する女性スパイのようなものか。たいてはプレイボーイのボンドの手練にかかって寝返るパターンが多い。「絶対領域広告」2012年秋ころ、渋谷に太ももに広告ステッカーを貼った女性が出現。2014年には英紙にも紹介され賛否を呼んでいる。「憑依型俳優」。憑依型とは、別のものが身体に入る体質のこと。演者が乗り移ったように自分が変化してしまう。堺雅人、松山ケンイチ、荻野目慶子、上野樹里など。「ヌーブラはもう古い。今年の夏はヌーサン」。「ヌーサン」は、ストラップの無いサンダル。ヌードサンダルの略。「タギング」はスプレーペンキの落書き。「全裸待機」とは期待して待つこと。「パイスラ現象」とは女性がショルダーバッグを斜め掛けした際、ちょうど紐が食い込んで乳房のふくらみが強調されるので、おっぱいスラッシュ、略して「パイスラ」という。

 

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2023年5月15日 (月)

世界で一番幸福な国ノルウェー

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  国連がさまざまな指標から世界でいちばん幸せな国はノルウェーであると発表した。ちなみに日本は第51位。地震や台風などの自然災害も多いし、競争社会で生きていくことが難しい国家で、国民から笑顔は消えている。

   ノルウェーはスカンディナヴィア半島の北西半を占め、その面積は32.4万平方キロで日本よりわずかに広い。沿岸部は深く陸地に入り込んだフィヨルドによって複雑な海岸線をかたちづくっている。総人口はわずかに約470万人にしか過ぎず、人口密度はアイスランドについでヨーロッパ2番目に低い。農業は不振であるが、国土の24%を森林が占めており、その森林資源を利用した林業と製紙業が盛んである。また北海での漁業、海運業などが盛んであるが、北海油田が開発されて以来、原油、天然ガスが輸出の中心を占めるようになった。

   ノルウェーの自然は神秘的なまでに美しく、しかも冷厳な様相を呈している。北欧の詩人や哲学者の作品のもつ神秘的な雰囲気も、この特有な自然環境の中にこそ生まれ育ったものだと思われる。画家のムンク、彫刻家グスタフ・ヴィーゲラン、音楽家グリーグ、劇作家イブセンなどがいる。

 

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   ノルウェーの歴史は複雑で、北欧3国といわれるノルウェー・デンマーク・スウェーデンとの連合時代と独立時代が繰り返される。885年ハーラルが国内を統一し、ノルウェー王国が成立する。1397年にカルマル同盟が成立して、デンマークの支配下に入る。1814年、ナポレオン戦争時代のキール条約によって、ノルウェーが独立宣言をする。クリスチャン・フレデリック(クリスチャン8世)が即位。しかし翌年にはノルウェー人に反対にもかかわらず、スウェーデンとの同君連合時代になる。19世紀後半に独立運動が高まり、1905年スウェーデンからの独立を宣言する。

   ノルウェー第2の都市ベルゲンから北のトロンへイムへ、またベルゲンから南のスタバンゲルへと向かうフィヨルド見物の遊覧船は外国からの観光客を集めている。観光客相手の土産物にはトロールといわれる人形が売られている。トロールとはノルウェーの森に住む妖精である。日常生活でふっと物が無くなった際には、「トロールのいたずら」と言われている。ノルウェーの森は妖精たちがひっそりと静かに息づいている秘密の楽園のような場所だ。(Norway)

宝塚の家庭文庫「女性の書斎・ひとり好き」

  インドの財宝を挙ぐるも、

  読書の楽しみにはかえがたし

          エドワード・ギボン

 

   家庭文庫とは、民間の個人が、自宅の一部を開放して、本を収集・提供して、読書活動を行なう私設の図書館のことです。自治会・婦人会・PTAなどのグループが公民館や集会所など地域の施設を利用して行うものを「地域文庫」と称しています。一個人がどんなに財力を投資して珍しい本を収集してもおのずと限界があります。スペースの問題と収集範囲の問題です。あらゆるジャンルにわたり収集し、かつ一定の新鮮度を保つことは至難の業です。非公開の文庫は鮮度が落ちてきます。スペースの問題も一万冊を超えることは難しいですが、一人の人が書棚に立つと視界に入るのは数千冊が限度です。つまり百万冊の大図書館だと膨大な書庫に迷い本と出合うことはかえって難しくなります。新刊書店も新しい本との出会いには刺激がありますが、出版洪水に溺れて適書との出会いはできません。古くもなく、新しくもなく、意図的な選書ではなく、教養人にとっての理想的な書棚づくりをめざしていきます。

 

 

2023年5月14日 (日)

春のおススメ新番組紹介

 やはり注目はNHKの朝ドラ「らんまん」。激動の時代を天真爛漫に駆け抜けた植物学者・槙野万太郎の物語。高知出身の牧野富太郎をモデルにした長田育恵のオリジナルストーリー。神木隆之介、浜辺美波。主題歌はあいみょん「愛の花」。波瑠(わたしのお嫁くん)VS芳根京子(それってパクリじゃないですか?)の水曜ガチンコ対決も優劣つけがたく、面白い。小芝風花が金髪のやさぐれ女子の「波よ聞いてくれ」がたいへんな話題になっている。「Dr.チョコレート」は秋元康の企画・原案で、天才的オペスキルを持つ10歳少女・寺島唯がくり広げるリーガル・ミステリー。スクープを狙う新聞記者に西野七瀬。「勝利の法廷式」も見てためになる。高畑充希「unknown」は吸血鬼の娘と交番警察官が新婚生活がスタートするが・・・。今後の展開が予測不能なコメディタッチのラブサスペンス。奈緒「あなたがしてくれなくても」はハルノ晴の話題のコミックのドラマ化。「シガテラ」とは南海に生息する魚によって起こる食中毒の総称。ある男子高校生の非日常=毒という切り口で描く。今期の春ドラマには過去のヒット作と「似ている」「既視感」「パクリ」などの声が視聴者から寄せられている。「波を聞いてくれ」がいちばん新鮮である。

月曜。「風間公親 教場0」木村拓哉、堀田真由、赤楚衛二、新垣結衣。「合理的にあり得ない」天海祐希、松下洸平。「かしましめし」前田敦子、成海璃子、塩野瑛久。

火曜。「unknown」高畑充希、田中圭、「王様に捧ぐ薬指」橋本環奈、山田涼介、「ホスト相続しちゃいました」桜井ユキ、三浦翔平。

水曜。「それってパクリじゃないですか?」芳根京子、重岡大毅、野間口徹。「わたしのお嫁くん」波瑠、高杉真宙、前田拳太郎。「隣の男はよく食べる」倉科カナ、菊池風磨。「特捜9」井ノ原快彦。

木曜。「あなたがしてくれなくても」 奈緒、永山瑛大、岩田剛典、田中みな美。

金曜。「ペンディングトレイン」山田裕貴、赤楚衛二、上白石萌歌。「弁護士ソドム」福士蒼汰、玄理、山下美月。「̪シガテラ」醍醐虎汰朗、関水渚。「波よ聞いてくれ」北村一輝、小芝風花、片寄涼太、原菜乃華、平野綾。

土曜。「Dr.チョコレート」坂口健太郎、白山乃愛。「めんつゆひとり飯」鞘師里保、山口まゆ。「何かおかしい2」浅利陽介、津田寛治。「グランマの憂鬱」萬田久子、足立梨花。

日曜。「ラストマン」福山雅治、大泉洋、今田美桜。「日曜の夜ぐらいには」清野菜名、岸井ゆきの、生見愛瑠。「ガチ恋粘着獣」香音、石井杏奈。「家族だから愛したんじゃなくて愛したのが家族だった」河合優実、坂井真紀、吉田葵、錦戸亮。「サブスク彼女」紺野彩夏、望月歩、逢沢りな、寺本莉緒。Nitfilix「サンクチュアリ 聖域」染谷将太、忽那汐里。

 

島田一郎の墓

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2b005  現代人は有名願望がつよい。ということは元代の人間評価のものさしが有名・無名にあるからだ。島田一郎は有名人であろうか。歴史に相当に詳しい人なら知っている名前である。ちなみにコンサイス日本人名事典には所載されている。名前は「島田一良」とある。明治11年5月14日、島田一郎(左画像、1848-1878)ほか5人は、内務卿大久保利通を東京麹町紀尾井坂清水谷で暗殺した。その足で自首し、同年7月27日に斬首された。49歳であった。谷中霊園(台東区)には、6人の墓が並んでいる。実行犯は、石川県士族島田一郎、長連豪、杉本乙菊、脇田巧一、杉村文一および島根県士族の浅井寿篤である。

陽が当たらないからどいてくれ

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   世の中、お金を儲けたい人や地位や名声・権勢を得たいと思っている人がほとんどであろう。ゆえにこの世界史挿話は永遠に語り継がれることだろう。アレクサンドロスはディオゲネスの評判を聞いて、コリントにいた老哲学者を訪ねた。学者は酒樽を住まいとし、物質的なものを求めず、無欲な生活をしていた。王は「ディオゲネスよ、望みを1つ言うがよい。かなえてやろう。費用はいくらかかっても構わぬ」と言うと、ディオゲネスは「ならば、ちょっとよけて陽が当たるようにしてくれ」と言った。居合わせた供の者たちは、学者の無礼に憤激してしきりに愚弄した。それをなだめて王は言った。「余が仮にアレクサンドロスでないならば、ディオゲネスになりたいところだ」

 

    この逸話は世界史の数あるエピソードのうちでも秀逸である。大王が33歳の若さで夭折したことを思うと、「陽が当たらないからどいてくれ」という言葉は、老哲学者の警告と取れないこともない。人生の大事なことを認識しなさい、物質的なもの、予測可能なものばかりを追わずに、心のなか、精神や魂に目を向けなさい、と言いたかったのかもしれない。参考;ヘルゲ・ヘッセ「その一言が歴史を変えた」(Diogenes)

2023年5月13日 (土)

「蒲団」横山芳子のモデル・岡田美知代

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 本日は「花袋忌」。明治・大正の自然主義の文豪、田山花袋の昭和5年の忌日。

  芳子が常に用いていた蒲団、萌黄唐草の敷蒲団と、綿の厚く入った同じ模様の夜着とが重ねられてあった。時雄はそれを引き出した。女のなつかしい油の匂いと汗のにおいとが言いも知らず時雄の胸をときめかした。夜着の襟のビロードの際立って汚れているのに顔を押し付けて、心のゆくばかりなつかしい女の匂いを嗅いだ。性欲と悲哀と絶望とがたちまち時雄の胸を襲った。時雄はその蒲団を敷き、夜着をかけ、冷たい汚れたビロードの襟に顔を埋めて泣いた。

 

    田山花袋(1871-1930)が明治40年9月、「新小説」に短編小説「蒲団」を発表したが、この作品は自然主義文学の代表作といわれたのみならず、私小説のさきがけとして日本近代文学史上の記念碑的作品となった。花袋(当時36歳)の大胆な告白と「蒲団」のモデルとなった「私のアンナ・マアル」こと岡田美知代(当時23歳)との恋愛関係の事実性が当時から世間の注目を浴びた。文学上で言い換えれば「蒲団」の虚実論争であろう。

   神戸の女学院の生徒で、生まれは備中の新見町で、渠の著作の崇拝者で、名を横山芳子という女から崇拝の情をもって充てられた一通の手紙を受け取ったのはそのころのことであった。竹中古城と謂えば、美文的小説を書いて、多少世間に聞えておったので、地方から来る崇拝者渇仰者の手紙はこれまでにも随分多かった。

 

                         *

 

   芳子の家は新見町でも第三とは下らぬ豪家で、父も母も厳格なる基督教信者、母はことにすぐれた信者で、かつては同志社女学校に学んだこともあるという。総領の兄は英国へ洋行して、帰朝後は某官立学校の教授となっている。

 

                       *

 

    最初の一月ほどは時雄の家に仮寓していた。華やかな声、艶やかな姿、今までの孤独な淋しいかれの生活に、靴下を編む、襟巻を編む、子供を遊ばせるという生き生きした態度、時雄は新婚当座に再び帰ったような気がして、家門近く来るとそそるように胸が動いた。門をあけると、玄関にはその美しい笑顔、色彩に富んだ姿、夜も今までは子供とともに細君がいぎたなく眠ってしまって、六畳の室に徒に明らかな洋燈も、かえって侘しさを増す種であったが、今はいかに夜更けて帰って来ても、洋燈の下には白い手が巧みに編物の針を動かして、膝の上に色ある毛糸の丸い玉!賑やかな笑い声が牛込の奥の小柴垣の中に充ちた。

 

                       *

 

   けれど一月ならずして時雄はこの愛すべき女弟子をその家に置くことの不可能なのを覚った。従順なる家妻はあえてそのことに不服をも唱えず、それらしい様子も見せなかったが、しかもその気色は次第に悪くなった。限りなき笑声の中に限りなき不安の情が充ち渡った。妻の里方の親戚間などには現に一問題として講究されつつあることを知った。時雄はいろいろに煩悶した後、細君の姉の家、軍人の未亡人で恩給と裁縫とで暮らしている姉の家に奇遇させて、そこから麹町の某女塾に通学させることにした。

 

  後年、花袋の弟子・水守亀之助は「わが文壇紀行」(昭和28年11月)で次のような面白いエピソードを残している。

 

   会の席で、「先生、ああいふ小説を書かれると奥さんに対して具合がわるくないですか」と、中村武羅夫君が質問して大笑いになったことがあった。「そりゃあ わるいよ」といって先生は苦笑された

 

Photo_2     横山芳子こと岡田美知代(1885-1968)は広島県府中市上下町出身で、兄の岡田実麿(1878-1943)は明治期、神戸高商の英語教授だった。明治40年には夏目漱石の後任として旧制第一高等学校の教授となった。まもなく、明治大学に移り、同僚の山崎寿春に誘われて東京高等受験講習会(現在の駿台予備校)で昭和14年まで英語を教えた。妹の岡田美知代は兄を頼って神戸女学院に学んだ。その後上京して田山花袋の弟子となった。美知代は「蒲団」の学生田中のモデルの永代静雄(ながよしずお 1886-1944)とは結婚を反対されたが一男一女をもうけ、大正6年には入籍する。その後離婚し、両者は異なる相手と結婚しそれぞれの道を歩む。永代との間にできた子を花袋はみるにみかねて親友の太田玉茗(1871-1927、「田舎教師」の山形古城のモデル、建福寺住職)に養育をたのんだが、子供は3歳くらいで死んだ。田山花袋と岡田美知代との関係は花袋の書簡などからもあくまで作品は虚構であり、実際上二人の間に恋愛関係があったわけではなく、花袋の胸中にのみあった片思いなのだ。美知代自身も「蒲団」のモデルが自分であることを知らなかったという。(この話には少し無理がある)。美知代は「蒲団」のモデルとされたことに対して花袋に抗議する手紙を書いている。その後の永代(岡田)美知代の文学者としての活動は詳しく知らない。作品には「女学生の恋物語」「森の黄昏」(明治39年10月文芸倶楽部)「縁談」「岡沢の家」「里子」等が残されている。(「岡田美知代作品集」全3巻、上下町教育委員会)のち婦人記者として大正15年、長男を連れて渡米し、17年間を過ごす。晩年はアメリカで再婚した花田氏と庄原市に住み、昭和43年、83歳で他界する。(永代美知子「「蒲団」、「縁」及び私」新潮大正4年9)5月13日。

芭蕉と平泉

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   藤原清衡が平泉に中尊寺金色堂をつくったのは天治元年(1124年)で、松尾芭蕉が憧れの平泉にたどりついたのは元禄2年5月13日(陽暦6月29日)のことで565年後であった。高館に登って一望すると、武士の夢の跡の儚さが感じられる。高館にたてこもった源義経は、応戦むなしく自刃。享年31歳であった。山頂には義経堂が建てられ木像が祀られている。

    高館の丘を下り、中尊寺へと向かうと、金色堂と経堂の二つだけを残して、その他は一面の廃墟であった。さぞかし荒れ果てた景色に芭蕉は涙をおとしたことだろう。明治30年に中尊寺の金色堂が再建・修理された。金色堂内陣には、本尊阿弥陀如来、その前には蓮を持った観音・勢至菩薩、左右に三体ずつ六地蔵が立つ。最前列に持国天と増長天。須弥壇の中央に初代清衡、向かって左に二代基衡、右に三代秀衡の遺骸が納められている。

  夏草や 兵どもが 夢のあと

   五月雨に降り残してや光堂

2023年5月10日 (水)

羊羹の歴史

Mizuyookan   羊羹はもともと中国のもので羊肝と書き、羊の肉を使った羹(あつもの)だった。それが羊の肝の色をした赤小豆と白砂糖でつくった蒸し餅のようなものに変わる。鎌倉・室町時代に、留学した禅僧により禅宗文化が渡来し、この羊肝餅が中国から日本に入った。獣肉食を喜ばない日本では、羊の肝ではいけない。そこで中国語句にある「羊羹」という料理名を用いて、点心の1つとしてつくられたのが羊羹である。肝(カン)に近いオンである羹(キョウ)またはカウだが、カウがカンと音転する。

 

  羊羹は初め蒸し羊羹であった。赤小豆の粉、砂糖、葛の粉にもち米の粉を練り合わせて、木枠に入れて蒸したものである。京都で煉羊羹ができたのは天正17年(1589年)で伏見の駿河屋の岡本善右衛門が小豆と寒天と砂糖を原料に、練り羊羹をつくったといわれている。つづいて、寛永3年に金沢で遠州流茶人金物下屋忠左衛門が初めて練羊羹をつくった。

2023年5月 9日 (火)

17世紀、斜陽の帝国スペイン

   スペインの王権は15世紀末にイスラム教徒を追いだして国内統一をはかった。16世紀になると、相続関係によってオーストリアのハプスブルク家の支配を受け、以後広大なるハプスブルク帝国の本拠としての役割を果たすことになる。16、17世紀スペインは「太陽の没することなき帝国」とか、「スペインが動けば世界がふるえる」といわれ世界一富裕で軍事大国であり、「シグロ・デ・オロ」と呼ばれる。芸術文化でもセルバンテス(1547-1616)が「ドン・キホーテ」を著わし(1605)、絵画ではエル・グレコ(1541-1614)、ベラスケス(1599-1660)らが活躍した。だが17世紀には芸術文化が花咲く一方で、スペイン国家自体は衰退していた。スペインの繁栄を支えていたものは、銀と毛織物業である。1522年に王室はもっぱら貿易商人の利潤のみに着目して、いっさいの輸入制限を廃止したので、以後スペインの毛織物は外国との不利な競争に立たされることとなった。また、フェリペ2世のカトリック主義のため、新教徒の多い毛織物業者がネーデルランドなどに逃れていった。そのため、毛織物業が衰退しはじめ、そのうえにオランダの独立や、無敵艦隊アルマダがイギリスに敗れ(1588年)、スペインの衰退を促進させた。

   フェリペ4世は最後のスペイン黄金時代の王であった。芸術文化のパトロンとしては優れていたが、優柔不断な性格で統治者として不向きであった。フェリペ4世の治世には、ほとんど絶えることない戦争が続き、国土は疲弊し、スペインの黄金時代は終焉を迎えることとなった。

   フェリペ4世時代、権勢をほしいままにして30年近く宰相の座にいたのがオリバーレス伯ドン・ガスパール・デ・グスマン(1587-1645)である。彼は非凡な人物で、あらゆる点で王とは対照的だった。オリバーレス伯(フェリペより18歳年長だった)はスペインにかつての栄光を取り戻す決意であったが、フランスの宰相にはマザランがおり、ヨーロッパの覇権をめぐる争いに敗れた。1643年1月、オリバーレス伯は辞職を余儀なくされて田舎に引っ込み、敗残の人として数年後に世を去った。(Siglo de Oro)

 

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「オリバーレス公・伯爵騎馬像」  ベラスケス

 

 

 

 

2023年5月 8日 (月)

スペイン語用語集

Flamenco_082  大型連休が済んだと思ったら各地大荒れの天候が続く。昨夜の大雨で伊丹市内の天神川の堤防が決壊して、100件を超す浸水被害が出た。

 「スペインに城を建てる」ということわざがヨーロッパにある。空中に楼閣を築く、つまり他愛もない実現不可能の計画という意味である。16世紀から17世紀にかけてスペインは黄金時代に入ったので、外国人からみてスペインに城を建てることは空想的な考えを表わしたものではないだろうか。動物園のことは、英語、仏語、独語、伊語などみな「zoo」だが、スペイン語は「パルケ・ソロヒコ」という。

 

sol    ソル  太陽

 

luna ルナ  月

 

estrella エストゥレリャ  星

 

tiempo ティエンポ  天気

 

despejado  デスペハード  晴れ

 

nublado  ヌブラド  曇り

 

lluvia    ジュビア   雨

 

nieve   ニエベ     雪

 

primavera  プリマベーラ 春

 

verano     ベラーノ    夏

 

otono      オトーニョ   秋

 

invierno   インヴェルノ  冬

 

chico      チコ       男性

 

chica      チカ       女性

 

me gusta  メ・グスタ   好き

 

bonita   ボニータ   かわいい

 

nombre     ノンブレ   名前

 

manzana  マンサーナ   りんご

 

madarina  マンダリーナ  みかん

 

musica      ムジカ     音楽

 

flamenco     フラメンコ

 

jabon         ハボン    石鹸

 

lapiz           ラピス    鉛筆

 

goma          ゴマ     消しゴム

 

paraguas    パラグアス  傘

 

cigarrillo     シガリージョ  タバコ

 

reloj           レロー      時計

 

deporte      デポルテ    スポーツ

 

paseo        パセオ      散歩

 

pelicula      ペリクラ     映画

 

parque zoologico  パルケ・ソロヒコ 動物園

 

ferrocarril  フェロカリル  鉄道

 

universidad    ウニベルシダ 大学

 

biblioteca      ビブリオテカ  図書館

 

literatura      リテラトゥーラ  文学

 

casado        カサード  結婚している

 

soltero        ソルテーロ  独身

 

estoy buscando pareja エストイ・ブスカンド・パレハ 恋人募集中

 

buenas tardes  ブエナス・タルデス  こんにちは

 

buenos dias     ブエノス・ディアス   お早うございます

 

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ジャンヌ・ダルク祭

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  イザボー・ド・バヴィエール

  1429年5月8日、ジャンヌ・ダルク(1412-1431)はオルレアンの包囲を破ってイギリス軍を大敗させた。ジャンヌの父はジャック・ダルク、母はイザベル・ロメールといわれる。しかしフランスには「フランスはイザボーによって破滅し、ジャンヌによって救われた」という言葉がある。この意味はジャンヌ・ダルクはフランス王室(シャルル)の血を受け継ぐものであったという伝説にもとづくものである。イザボーとはシャルル5世の王妃イザボー・ド・バヴィエール(1370-1433)のこと。イザボーは夫のシャルル5世が発狂したあと、シャルル5世の弟ルイ・ド・ヴァロア(オルレアン公)と親密な関係となり、生まれた子がジャンヌ・ダルクと一説にいわれている。ところがヴァロワは1407年謀殺されているので、ジャンヌ・ダルクの生年は定説よりも5年もさかのぼることになるので、24歳で処刑されたことになる。もちろん生年とされる1412年説も明確な根拠があるわけではないのだが、これらの伝説が生まれる背景には、聖女の母親がたとえ裏切者、売国奴、淫乱とされるイザボーであっても、オルレアン党を正当な王統とする史観があるからであろうか。ジャンヌの王女伝説を信奉する人々を「バタルディザン」(バタールとは私生児の意)と呼ぶ。

 

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2023年5月 7日 (日)

ルシタニア号沈没、隠された真実

  1915年5月7日、午後3時10分、ドイツのUボートは、第一次大戦の最中、南部アイルランド沖を航行中の英豪華客船ルシタニア号に魚雷を発射した。一発の魚雷は命中し、2度の大爆発を起こして、客船は10分たらずで沈没した。この混乱の中、米国人128人を含む1198人の命が失われた。イギリスは「無実の一般市民を攻撃」とドイツを非難。ところがルシタニア号の積み荷には、173トンの弾薬があり、当時の国際法に照らし合わせると、ルシタニア号は攻撃を受けても仕方がなかった。最近おこなわれた海底調査で、沈没したルシタニア号の船内には違法な武器と火薬が積載されていたことが判明された。ドイツの野蛮な攻撃に対してアメリカの世論は沸騰、これによってそれまで中立であった米国議会でも反ドイツの雰囲気が強まり、アメリカも参戦することとなった。このルシタニア号沈没からおよそ2年後の1917年4月6日、ウィルソン大統領はドイツに宣戦布告した。

 

 

 

 

古代の枕

Photo_2   日本人はいつ頃から枕なしでは眠られぬようになったのだろうか。縄文人や弥生人が枕で寝ていたという話はあまり聞いたことがない。万葉人は枕して寝ていたことは確実である。「麻久良」(まくら)という語が万葉集に見える。それより以前の古墳時代にも石製の枕が出土(実際に使用したものでない)しているから、おそらく卑弥呼は枕をして眠っていたかもしれない。枕をして寝る風習も中国から伝えられたものであろう。「木枕」(こまくら)とか「草枕」(くさまくら)などが用いられた。木枕には黄楊(つげ)、朴(ほお)、杉(すぎ)、桑(くわ)などが使われ、草枕には菅(すげ)、茅(かや)、菰(こも)、藁(わら)、篠(しの)などが用いられた。江戸時代から用いられる木枕は「垜(あずら)まくら」とも言われた。

 

 

 

 

 

 

 

 

2023年5月 6日 (土)

武田家の最後

  戦国最強騎馬軍団を率いた甲斐の武田信玄。その強さの秘密は苦悩と愛憎の人生にある。幼いころから父信虎との確執、言うことを聞かない家臣たちの独断、そして度重なる天災。信玄は、計略を用いて信虎を追放して、武田家の当主となる。さらに家臣を育て、治水や金山開発によって、国を豊かにして、天下統一をめざした。元亀3年、三方ヶ原の戦いで徳川家康をやぶるが、持病が悪化し、京の都にのぼることを夢見ながら、天正元年、伊那の駒場で病死した。四男、勝頼が信玄の後継者となる。天正3年、長篠の戦いで、織田・徳川連合軍に大敗した。多くの将兵を失った勝頼は、本拠地を躑躅ヶ崎城から、新府城に移した。天正10年、信長・家康によって甲斐の天目山に追いつめられると、勝頼はそこで一族たちと自殺した。

 

2023年5月 5日 (金)

幕末史のヒーロー土方歳三

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2023年5月 4日 (木)

近くて遠い国

 日本列島と朝鮮半島は、同じく東アジアに属し、玄界灘をへだてて隣接している。日韓両国は、古代以来の交流を通じて深い影響を分かち合ってきた。日韓両国は対立する問題も山積するが、今日、世界でも最も活発に人、物、情報が飛び交う関係となった。日本と韓国の交流が必要な理由は、両国が自由民主主義と市場経済体制を共有しているからである。価値観を共有する両国の友好が増大することは、東アジアの平和と繁栄のために望ましいことである。たとえば、日本人はのなかでは韓国のキムチとビビンバが栄養豊富で美容にも良いとして好んで食べる人が多くなった。韓国人は好きな食べ物はカレーライスとラーメン、そして海苔巻きである。刺身や焼肉なとの看板を出して日本式に客を接待する店もソウル市内には多く見られるようになった。ハングルの看板さえなければ日本の街並みと変わらない景観である。また日本人と韓国人は容貌や体格が似ている。サッカーや野球など得意な競技が重なるので、国際大会などで激しい試合が繰り広げられる。日韓両国は、長い歴史の中で、時々不幸なことを経験したが、希望に満ちた未来の歴史を共に開拓していかなければならない。

 

2023年5月 3日 (水)

男女の寿命格差

640x450_1107_pri_svechah_candle_sti   天国には「命のろうそく」という部屋があって、そこには、すべての生きている人の数だけ、ろうそくがある。長いの短いの様々なろうそくがたくさん並んでいる。今まさに、燃えつきようとしているろうそくがある。どのろうそくも、持ち主が決まっていて、ろうそくの火が消える時、持ち主の命も終わってしまう。アイルランドやフィンランド、グリム童話などに同じような話が伝わる。日本の落語、三遊亭圓朝の「死神」は翻案物。

 戦前の日本人の平均寿命は、男46.93歳。女49.63歳だった(昭和10年)。結核による死亡が多かった。いまは男性が81.47歳、女性が87.57歳。これは厚生労働省が発表した2021年の日本人の平均寿命である。女性の方が男性より6.07歳も長生きである。戦後男女同権がうたわれる世の中になり、女性の地位も向上した。それに比べて、現代の厳しい競争社会の中で行き抜かなければならない男性は、ストレスも増している。死因の上位であるがん、心臓病、脳血管疾患などの生活習慣病は、喫煙・飲酒・ストレスなどが影響するといわれているが、一般に男性の方がその機会が多いので、リスクも高くなるといえる。男女における性ホルモンの働きの違いが男女の寿命に影響しているという説もある。(Marcus Manilius,candle of life)

本と読書に関する名言・ことわざ・文献書誌学

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   印刷術が広くゆきわたるまで、写本図書の利用は一握りの学者に限られていた。刊本の図書がその数を増すにつれて、書物は万人のためにあり、民主主義の精神にとって重要であることがわかってきた。ここでは、古今東西の本と読書に関する格言・箴言・名言・文献を集める。

有益な書物とは、読者に補足を要求せずにはおかれぬような書物のことである。(ボルテール)

 

三日、書を読まざれば、語言味わいなし。(世説新語)

 

単に知るのみならず、その知識に従って行動せよ。(フィヒテ)

 

どの時代にもそれぞれの課題があり、それを解くことによって人類は進歩する。(ハイネ)

 

人生の至楽は読書にあり。(永井荷風)

 

書物はひもとかなければ、一片の木片にすぎない。(イギリスのことわざ)

 

A closed mind is like a closed book,just a block of wood.

 

閉じられた本は塊でしかない

 

A book that is shut is but a block.

 

すべて良き書物を読むことは、過去の最もすぐれた人々と会話をかわすようなものである。(デカルト)

 

書を読みて栄える者を見たり、書を読みて落ちぶれる者を見ず。(金言童子教)

 

機知に富みうちとけた言葉は永久に生命を持つ。(ゲーテ)

 

身体には鍛錬、心には読書。(アディソン)

 

この世のあらゆる書物もお前に幸福をもたらしはしない。だが書物はひそかにお前自身の中にお前を立ち帰らせる。(ヘッセ)

 

書物なき部屋は魂なき肉体のごとし。(キケロ)

 

私の実際的な読書の法則は三つある。
1.一年を経過していない本はどれも読まないこと
2.有名な本のほかは読まないこと
3.好きな本のほかは読まないこと(エマーソン)

 

私は人生を知ったのは人と接したからではなく、本と接したからである。(アナトール・フランス)

 

人生は短い。この書物を読めばあの書物は読めないのである。(ラスキン)

 

人の品格はその読む書物によって判断できる。それはあたかも、人の品格がその交わる友によって判断できるがごときものである。(スマイルズ)

 

本の世界では物事が説明されるが、実人生では説明なんかありはしない。人生よりも本を好むという人がいるが、驚くにはあたらないと思う。本は人生に意味づけしてくれるものだから。(バーンズ「フローベールの鸚鵡」)

 

読書百遍、義自(ぎおのずから)見(あら)わる。(魏志)

 

万巻の書を読み万里の路を行けば自ずと胸中に自然が映し出されるようになる。(董其昌)

 

読書とは、著者の魂との邂逅である。(亀井勝一郎)

 

読書は人間としての純粋な時間である。(亀井勝一郎)

 

インドの全財宝をあげても、読書の楽しみには換え難い。(エドワード・ギボン)

 

書物は友人と同様、数多くあるべきであり、そしてよく選択すべきである。(フラア)

 

読書のほんとうの喜びは、なんどもそれを読み返すことにある。(ロレンス)

 

読書に費やしただけの時間を、考えることに費やせ。(アーノルド・ベネット)

 

書物は一冊一冊が一つの世界である。(ワーズワース)

 

用例なき辞書は骸骨である(ヴォルテール)

 

書物を読むということは、他人が辛苦してなしとげたことを、容易に自分に取り入れて自己改善する最良の方法である。(ソクラテス)

 

本は知性のさまざまな機能に働きかける(フランシス・ベーコン)

 

おろかな学者は、おろかな馬鹿者よりも、ずっとおろかである(モリエール)

 

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   書物に関する文献目録

図書の部
倭板書籍考 幸島宗意撰 1702
官板書籍解題略 杉山精一訳 1847
日本書籍考 林羅山撰 1850
文芸類纂 榊原芳郎 1878
古梓一覧 西村兼文 1882
本朝書籍刊考 黒川真頼 1895
日本訪書誌 楊守敬 1897
国書解題 佐村八郎 1897
日本印書考 中根粛治 1899
明治出版史話 三木佐助 1901
古文旧書考 島田翰 民友社 1905
漢籍解題 桂五十郎 明治書院 1905
近藤正斎全集 近藤守重 1907
日本古刻書史 朝倉亀三 1907
徳川幕府時代書籍考 牧野善兵衛 1912
朝鮮図書解題 朝鮮総督府 1914
江戸物語 和田維四郎 1915
慶長以来書賈集覧 井上和雄編 1916
嵯峨本考 和田維四郎 1916
訪書余禄 和田維四郎 1918
製本術 島屋政一 1918
図書学概論 田中敬 冨山房 1924
解題叢書 経籍訪古志 廣谷雄太郎 廣谷国書刊行会 1925
典籍叢談 新村出 岡書院 1925
敦煌石室の遺書 石浜純太郎 懐徳堂 1925
書庫之起原 植松安 間宮書店 1927
京阪書籍商史 蒔田稲城 1928
書物装釘の歴史と実際 庄司浅水 1929
思想名著解題 春秋社 1929
本邦書誌学概要 植松安 図書館研究会 1929
書物の敵 庄司浅水  1930
書誌学とは何か 寿岳文章 ぐろりあそさえて 1930
装釘の常識 三村清三郎 岡書院 1930
日本訪書志補 王重民 1930
修訂建武年中行事註解 和田英松 明治書院 1930
中国図書館事業的史的研究 馬宗榮 中華学藝社編 商務印書館 1930
製本術 ブレガー著 赤坂・庄司訳 ブックドム 1931
日本蔵書印考 小野則秋 文友堂 1931
書誌学 小見山寿海 芸艸会 1931
宋元版の話 内藤虎次郎 名古屋市立図書館 1931
正徹本徒然草 川瀬一馬 文学社 1931
善本影譜 長沢・川瀬編 日本書誌学会 1931~35
影宋刊本御注孝経 長沢規矩也編 日本書誌学会 1932
好書雑載 高木文 井上書店 1932
西洋書誌学要略 橘井清五郎 図書館事業研究会 1932
粘葉考 田中敬 巌松堂 1932
成簣堂善本書目 川瀬・長沢 民友社 1932
成簣堂善本書影七十種 川瀬・長沢 民友社 1932
舊刊影譜 川瀬・長沢 日本書誌学会 1932
嵯峨本図考 川瀬・長沢 一誠堂  1932
漢籍解題1 漢文学講座2 長沢規矩也 共立社 1933
書誌学論考 長沢規矩也 松雲堂書店 1937
書誌学序説 長沢規矩也 吉川弘文館 1960
漢籍分類目録 集部東洋文庫之部 東洋学文献センター連絡協議会 東洋文庫 1967
書林清話 葉徳輝 世界書局 1968
書林掌故 葉徳輝等撰 中山図書公司 1972
書林清話・書林雑話 楊家駱主編 台湾・世界書局 1974
中国訪書志 阿部隆一 汲古書院 1976
書誌学序説 長沢規矩也 吉川弘文館 1979
図書の歴史と中国 劉国鈞著 松見弘道訳 理想社 1980
江浙蔵書家史略 呉辰伯 中華書局 1982
中国古代蔵書与近代図書館史料 春秋至五四前後 李希泌、張椒華編 中華書局 1982
書籍装幀芸術簡史 邱陵編著 黒龍江人民出版社 1984
目で見る本の歴史 庄司浅水、吉村善太郎 出版ニュース社 1984
造紙の源流 久米康生 雄松堂 1985
中国省市図書館概況 1919-1949 楊宝華・韓徳昌編 書目文献出版社 1985
書物に関する名句・名言・名文 エンカイリーディオン アリグザーンダー・アイアランド編 タングラム 1986
簡明中国古籍辞典 呉楓編 吉林文史出版社 1987
中国古代図書館事業史概要 来新夏 天津古籍出版社 1987
中国図書和図書館史 謝灼華編 武漢大学出版社 1987
中国図書の歴史 庄威著 吉村善太郎訳 臨川書店 1989
西洋図書の歴史 吉村善太郎 臨川書店 1990
中国蔵書史話 焦樹安著 商務印書館 1997
図書及び図書館史 寺田光孝ほか著 樹村房 1999
図説図書館の歴史 スチュアート・A・P・マレー 原書房 2011
写真でみる本の歴史 庄司浅水、吉村善太郎 日本図書センター 2011
図書・図書館史 三浦太郎編著 ミネルヴァ書房 2019
西洋書物史への扉 岩波新書 高宮利行 岩波書店 2023
中国目録学史 新・中国文化史叢書4 李端良 商務印書館
古今偽書考 姚際恒撰 清

 

論文の部
写本時代と板本時代とに於ける支那書籍の存亡聚散 市村瓚次郎 史学雑誌第13編1・3号 1902
唐以前の図書 那波利貞 歴史と地理2-2  1918
支那に於ける屋瓦使用の起源に就きて 那波利貞 支那学2-8 1922
支那における図書館事業 岡野一郎 支那研究5 1923
書帙の歴史 那波利貞 歴史と地理19-3・4・5 1927
支那書籍小史 1・2・3 長沢規矩也 書誌学1-4・5・6 1933
清代図書館発展史 譚卓垣著 西村捨也訳 図書館研究14(2)~(4) 1941
中国図書館の沿革及び現況 兪爽迷 書香128  1941
国立北京図書館の概況に就いて 法本義弘 支那文化雑攷 1943
毛沢東戸図書館 平和彦 読書春秋4-11 1953
中国図書館の揺籃時代 松見弘道 図書館界6-5  1954
中国の文教政策 内田幸一 日本及び日本人 1954
転期に立つ中国の図書館活動 図書館雑誌51-3  1957
記録の文化史 小倉親雄 図説世界文化史体系別巻 1961
武英殿輯聚珍版について 金子和正 ビブリア23   1962
年表図書館物語 矢島玄亮 東北地区大学図書館協議会誌13,14,15  1962-63
図書・図書館の歴史(断章) 中村初雄 早稲田大学図書館紀要4  1963
唐本の値段 餘自録 大庭脩 東洋史研究24-4  1966
洛図洛書の一考察 原田正己 早大・東洋文学研究6  1967
支那における図書館の誕生 長沢規矩也 書誌学11  1968
中国図書館学史序説 加納正巳 静岡女子大研究紀要3  1970
中国における著作意識の発達 石田公道 図書館界21-5~23・4 1970~71
香港の図書館 木村宗吉 日本歴史270  1970
古代中国図書史 木村靖 文化史学26  1971
図書館に就いて 内藤湖南 大阪朝日新聞明治33年11月29・30日 (内藤湖南全集3所収)  1971
北周の麒麟殿と北斉の文林館 山崎宏 鈴木由次郎博士古稀記念東洋学論叢所収 1972
清代の官書局の設置について 大西寛 長沢先生古稀記念図書学論集 1973
書禁と禁書 宮崎市定 アジア史研究2所収 1974
中国に於ける図書館事業史(1) 漢代の図書館事業 宮内美智子 青葉女子短期大学紀要1  1976
中国本ものがたり1~8  劉国鈞著 松見弘道訳 東海地区大学図書館協議会誌22  1977~78
中国の図書館事情 各地の図書館を参観して1 中原ますえ びぶろす29-11  1978
中国における図書分類法 井坂清信 参考書誌研究17  1979
図書館起源小記 黎紅 広西大学学報1979年第3期 1979
秘閣図書の源流について 神田喜一郎 「芸林談叢」所収 1981
洛陽の紙価 小池秋羊 東西交渉1 1982
中国に於ける刻書事業 宮内美智子 青葉女子短期大学紀要7 1982
禁書に関する二三の資料 長崎聖堂文書研究1 大庭脩 史泉40 1970
篠崎小竹旧蔵の「欽定四庫全書拾遺目録」について 大庭脩 近世大阪芸文叢談 1973

 

 

 

 

珊瑚海海戦

    開戦以来、緒戦に赫々たる戦果を収めた日本軍であったが、ニューギニアのポートモレスビーを攻略することが作戦上絶対に必要であった。MO作戦といい、日本海軍の指揮官は井上成美中将であった。昭和17年5月3日、海軍のツラギ攻略隊は占領に成功した。ところが、いち早く敵の察知するところとなり、5月7日、祥鳳が米艦載機の攻撃を受け撃沈される。祥鳳の沈没は日本空母としては初の損失である。5月8日、日本側の瑞鶴、翔鶴、米側のレキシントン、ヨークタウン、世界初の空母対空母の海戦となった。海戦の損害は、日本側は祥鳳・沈没、祥鶴・中破、艦載機81機喪失、米側は空母レキシントン、給油船ネオショー、駆逐艦シムス・沈没、空母ヨークタウン・中破、艦載機66機喪失。この戦いは戦術的に見れば日本側の勝利だが、戦略的に見ると翔鶴・瑞鶴がしばらく戦線に復帰できず、ポートモレスビー攻略も中止になったため、必ずしも日本が勝利したとはいえない。アメリカもこの海戦でレキシントンを失ったため、次のミッドウェー海戦で戦力を充分に発揮できるのは、エンタープライズとホーネットだけという苦境に立たされた。しかし損傷したヨークタウンは真珠湾に帰港し、日本側が3ヶ月かかるであろうと予測したが、不休の突貫工事で、ミッドウェー沖に出撃し活躍した。これがミッドウェーにおける日本の敗因の一つとなったとも言える。

2023年5月 2日 (火)

20世紀初頭のイギリス思想と宗教界

Photo チェスタートン

 

  今日からみれば、19世紀から20世紀へと移り変わってゆくときは、時代の終焉をきざむ平穏な時期のようにみえる。しかし、一見穏やかにみえたヨーロッパ文明の背後には、実は多くの緊張がかくされていたのである。植民地の獲得によって、ヨーロッパの前に世界市場への門戸が開かれたが、そのため国家間の競争ははげしさを加え、敵対意識が生まれ、強力な同盟が諸国の間に結ばれるきっかけとなった。これら一触即発の状況が、のちに悲惨な大爆発を引き起こすことになるのである。ヴィクトリア女王が崩御した後に王位に就いたのはエドワード7世。エドワード7世の治世は1901年~1910年と10年だった。ヴィクトリア女王の治世をヴィクトリア朝と呼ぶのに対してエドワード朝と呼ばれている。次がジョージ5世。1910年~1936年。名探偵ポアロの時代はジョージ5世の頃である。ここで取り上げるイギリス人、とくにロンドンっ子といえば思想的には保守的でジェントルマンという固定したイメージがある。そして宗教は英国国教会でカトリックは少ないと考えるだろう。イギリスのバイブルを定めたルターの影響がいろいろあったが、教会は本質的にはカトリック的であった。19世紀の初め、産業革命の結果として商業主義がはびこると、1833年から1841年にオックスフォード大学に宗教運動が起こり、英国国教会をローマへ近づけようとした。イギリスの社会主義はトーマス・ヒル・グリーン(1836-1882)が先駆で、第一次世界大戦からバートランド・ラッセルが社会主義を主張し、思想界ではラスキやコールら知識人がマルクス主義に傾倒していく。宗教ではギルバート・ケイス・チェスタートン(1874-1936)やイーヴリン・ウォー(1903-1966)、グレアム・グリーン(1904-1991)ら作家も1920年代、カトリックへの改宗がみられる。またラッセルなどの無神論もみられる。個人の信仰や思想の自由が相当保障されていたのであろうか。

三十八度線と板門店

03d山が高くて、来られないのか
水が深くて、来られないのか
同じふるさとの、土でありながら
南と北に引きさかれた怨恨千里の道
三十八度線をさまよう

 朝鮮民族を分断した三十八度線の歌の一節である。作詞者も作曲家も分からない。いつの間にか、朝鮮民族の間に、口伝えに広まった。この歌はおおっぴらには歌えない。サンパルソンの歌は哀しみの歌として今もひそかに口ずさまれている。 

 板門店(はんもんてん)は、ソウルの北62㎞の地点にある韓国と北朝鮮との共同警備地域(JSA)。中学社会科で習うが、「板門店」とは食堂の名前みたいだと思った。本来、この地域は「ノルムンリ(板門里)」という一寒村であったが、1953年、北緯38度線付近に停戦ラインが設けられ、朝鮮戦争の軍事休戦協定がここで締結された。カナ表記はむかし「バンムンチョム」と覚えたが、最近は「パンムンジョム」に統一されている。ではなぜ「ノルムンリ」が「パンムンジョム」になったのか。朝鮮戦争時の中国兵士が書いた漢字の落書きが発端らしい。ここに一軒食堂があった。兵士は食堂の壁に「ノル」は漢字で「板」なので、「板門店」と書き残したところ、それが正式の地名になってしまった。正面の建物は、パンムンガク(板門閣)という北朝鮮の事務室である。

 

2023年5月 1日 (月)

今を生きる女性たちを描く

   テレビ朝日系日曜夜10時ドラマ「日曜の夜ぐらいは・・・」初回を観る。ラジオ番組をきっかけに運命的な出会いを果たした3人の若い女性たち。サチは足の不自由な母を支えて、バイトに励んでいる。若葉は祖母と借家で暮らして、工場勤務をしている。翔子は元ヤンキーで、タクシー運転手。3人はラジオが主催した大人遠足会で親しくなった。でもSNSなど連絡先は交換しないで別れた。これから彼女たちの行き詰った人生がどのように動き出すのか。脚本は岡田恵和。山田太一の「思い出づくり」を思い出させる。

にぎわう夜の盛り場

  2016年12月18日、ハリウッド女優のザ・ザ・ガボールさんが死去した。99歳だった。代表作は「赤い風車」「黒い罠」。生涯9回結婚し、夫にはブルハン・アザス・ベルガ(トルコの政治家)、コンラッド・ヒルトン(ホテル経営者)、ジョージ・サンダース(俳優)などがいた。   カーティス・クリーク・バンドに「ザ・ザ・ガボールのおしりのエクボ」というちょっと風変わりのタイトルの曲がある。

 日本でもカジノ建設の計画が進められているようだが、19世紀末のパリではキャバレーやナイトクラブが隆盛を極めてヨーロッパの歓楽の中心地であった。モンマルトルの丘には、赤い風車が屋根の上にあるキャバレー「ムーラン・ルージュ」が有名である。ロートレックやボナール、ゴッホたちがその狂乱の様子を描いている。ほかにもピガール広場にあった「死んだ鼠」(ラ・モール)、「門衛の賭博場」「花嫁の寝床」なども有名だった。野外の舞踏場「リラの園」では、たくさんの花の香りに包まりながら、マズルカ、ポルカ、カンカンなどをオーケ―ストラが演奏しながら、大勢の人々が踊っている。

歴代子役スター、No.1は誰れ?

Img_0008 現在NHKドラ放送中の「舞いあがれ!」主演の福原遥はクッキンアイドル「まいんちゃん」である。むかしは「子役は大人になると売れない」というジンクスがあった。大林林宣彦監督の「さびしんぼう」(1985)に魚屋の売り子で柿崎澄子がワン・シーン出演している。「透明ドリちゃん」(1977)で人気子役だったが、当時13歳、「さびしんぼう」では21歳と美しく成長していた。最近どうしているだろう。

 あるランキング調査によると、歴代最強の子役第一位は芦田愛菜でした。以下、安達祐実、えなりかずき、神木隆之介、鈴木福、志田未来、加藤清志郎、井上真央、須賀健太、寺田心、美山加恋、本田望結、大橋のぞみ、内山信二、福原遥、間下このみ、ウエンツ瑛士、宮沢りえ、小林星蘭、吉岡秀隆。近年、子役スターの呪縛がとけたのは、もともと役者としての素質が高く、キャリアを早くから磨いてきたのでしっかりした役者としての基礎ができているから実力派として活躍できの環境になったのであろう。

Matusimatomoko     1900年代でも、日本映画やテレビで数多くの子役たちが登場し、楽しませてくれました。片山明彦、大泉晃、松島トモ子、二木てるみ、浜田光夫、市川好郎、太田博之、風間杜夫、江木俊夫、池田秀一、上原ゆかり、中山千夏、蔵忠芳、四方晴美、宮脇康之、金子吉延、雷門ケン坊、林寛子、斎藤こず恵、小林綾子。子役から大スターになったのは、高峰秀子、中村メイコ、美空ひばり、浅丘ルリ子、外国ではシャーリー・テンプル、エリザベス・テーラー、ジュディー・ガーランド、ナタリー・ウッド、テータム・オニール、ジョディー・フォスター、クリスティナ・リッチー、ドルー・バリモア、ナタリー・ポートマン、レオナルド・ディカプリオ、リヴァー・フェニックス。クリステン・スチューワートも「パニック・ルーム」当時は12歳で子役がスタートだった。ケペルが選ぶ歴代子役No.1は、チャップリン主演映画「キッド」に出演したジャッキー・ク―ガンが映画界で最も有名な子役であろう。

2420   韓国ドラマ「太陽を抱く月」でヒロインのハン・ガインの少女時代を演じたキム・ユジョンに注目が集まる。2012MBC演技大賞を受賞した。髪を長くしてすっかり美しく成長している。新作「コンビニのセッピョル」(2020)も大好評のようだ。

 

 

 

 

 

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Photo

宗教改革時代の人々

95theses   宗教改革は、ルネサンスと並んで近世初期を飾る2大精神運動のひとつであり、新興の市民層とともに生れたものであった。宗教改革はなぜ起こったのか?さまざまな原因を説明されているが、従来、もっとも一般的になされている説明は道徳的説明だあった。ローマ教皇や、堕落した僧侶の生活や免罪符の濫発などの、教会の世俗化が指摘された。それは、教皇やカトリック教会の権威をはじめ、その他もろもろの既成の権威を否定し、神と一般信徒とのなかだちをなす救いの施設としてのカトリック教会のあり方、教会に対する善行・喜捨などを否認することによって、救いをひたすら神にのみ求めようとする単純・率直な精神態度であり、聖書を唯一のよりどころとする神信仰のあり方であった。かつての教会がもっていた世俗的性格は、ここにおいて重大な批判の対象となり、けっきょく、否定されるにいたったのである。 

 

ジョン・ウィクリフ   1320-1384
ヤン・フス       1369-1415
アルドゥス・マヌティウス 1450-1515
セバスティアン・ブラント 1458-1510
ヨハン・ティツェル   1465-1519
ジョン・フィシャー   1469-1535
トマス・ウルジー   1475-1530
ジョヴァンニ・ピエトロ・カラファ 1476-1559
トマス・モア      1478-1536 
フランツ・フォン・ジッキンゲン 1481-1523
マルティン・ルター  1483-1546
フルドリッヒ・ツヴィングリ 1484-1531
アンドレアス・ルドルフ・ボーデンシュタイン・フォン・カールシュタット 1486-1541
ウルリヒ・フォン・フッテン 1488-1523
トマス・クランマー   1489-1556 
ギヨーム・ファレム  1489-1565 
アダム・ウィアス    1490-1534 
マルティン・ブツァー 1491-1551
イグナチオ・デ・ロヨラ 1491-1556
ウィリアム・ティンダル 1495-1536
フィリップ・メランヒトン 1497-1560
ディアーヌ・ド・ポワチエ 1499-1566
オットー・ハインリヒ   1502-1559
ハインリヒ・ブリンガー 1504-1575
フランシスコ・ザビエル 1506-1565
アン・ブーリン     1507-1536
ジャン・カルヴァン  1509-1564 
ジェーン・シーモア  1509-1537
フェルナンド・アルヴァレス・デ・トレド 1507-1582
ジョン・ノックス    1510-1572
グラルドゥス・メルカトル 1512-1594
アンドレアス・ヴェサリウス 1514-1564
コンラート・ゲスナー    1516-1565
ガスパール・ド・コリニー 1519-1572
カトリーヌ・ド・メディシス 1519-1589
マティアス・フラキウス・イリリクス 1520-1575
テオドール・ド・プライ   1528-1598
ミシェル・アイケル・モンテーニュ 1533-1592
ルーカス・ヴァン・ヴァルケンボルク 1535-1597
メアリ・スチュアート   1542-1587
ペトルス・プランシウス 1552-1622
エドマンド・スペンサー 1552-1599
マテオ・リッチ      1552-1610
ウィリアム・パーキンズ 1558-1602
ヒュー・オニール     1565-1616
ガイ・フォークス            1570-1616
ロベルト・デ・ノビリ    1577-1656

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