17世紀、斜陽の帝国スペイン
スペインの王権は15世紀末にイスラム教徒を追いだして国内統一をはかった。16世紀になると、相続関係によってオーストリアのハプスブルク家の支配を受け、以後広大なるハプスブルク帝国の本拠としての役割を果たすことになる。16、17世紀スペインは「太陽の没することなき帝国」とか、「スペインが動けば世界がふるえる」といわれ世界一富裕で軍事大国であり、「シグロ・デ・オロ」と呼ばれる。芸術文化でもセルバンテス(1547-1616)が「ドン・キホーテ」を著わし(1605)、絵画ではエル・グレコ(1541-1614)、ベラスケス(1599-1660)らが活躍した。だが17世紀には芸術文化が花咲く一方で、スペイン国家自体は衰退していた。スペインの繁栄を支えていたものは、銀と毛織物業である。1522年に王室はもっぱら貿易商人の利潤のみに着目して、いっさいの輸入制限を廃止したので、以後スペインの毛織物は外国との不利な競争に立たされることとなった。また、フェリペ2世のカトリック主義のため、新教徒の多い毛織物業者がネーデルランドなどに逃れていった。そのため、毛織物業が衰退しはじめ、そのうえにオランダの独立や、無敵艦隊アルマダがイギリスに敗れ(1588年)、スペインの衰退を促進させた。
フェリペ4世は最後のスペイン黄金時代の王であった。芸術文化のパトロンとしては優れていたが、優柔不断な性格で統治者として不向きであった。フェリペ4世の治世には、ほとんど絶えることない戦争が続き、国土は疲弊し、スペインの黄金時代は終焉を迎えることとなった。
フェリペ4世時代、権勢をほしいままにして30年近く宰相の座にいたのがオリバーレス伯ドン・ガスパール・デ・グスマン(1587-1645)である。彼は非凡な人物で、あらゆる点で王とは対照的だった。オリバーレス伯(フェリペより18歳年長だった)はスペインにかつての栄光を取り戻す決意であったが、フランスの宰相にはマザランがおり、ヨーロッパの覇権をめぐる争いに敗れた。1643年1月、オリバーレス伯は辞職を余儀なくされて田舎に引っ込み、敗残の人として数年後に世を去った。(Siglo de Oro)
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