パリ、パリ
花の都パリは、芸術、科学、ファッション、美食といった多様な現代文化の中で存在感を見せているが、同時に数々の歴史的大事件が繰り広げられた街でもある。フランス革命、ナポレオンの第一帝政期、パリ・コミューンと第三共和政など19世紀の世界史を動かす震源地となった。ゴシック様式の代表的建築物ノートルダム寺院の尖塔が2019年4月15日、大規模な火災はに見舞われた。1163年春、パリ司教モーリス・ド・シュリ―によって建築が始まった。そもそもパリの歴史は、現在ノートルダム寺院のあるセーヌ川の中州「シテ島」に始まる。パリの名も、このシテ島に紀元前1世紀ごろ住みついていたケルト人の一部族パリシー人に由来している。紀元前200年頃のこと、パリシー人たちが、セーヌを往来しているうちに中州を見つけ、ここに住み始めた。木造の砦が廻らされた村は、リュテス(リュテティア)と呼ばれ。パリ市の紋章には波に浮ぶ帆船と「たゆたえども沈まず」の銘が記されているが、シテ島は古く紀元前のガリア時代から、東西に流れるセーヌと南北にのびる陸路の交わる水運交通の要衝であった。ガリアがローマの支配下におかれると、石造りの神殿、宮殿の建設が進み、パリはローマ人の町として発展する。キリスト教布教が始まり、やがてリュテスは「パリ」と呼ばれるようになった。現在のフランスに相当する国の首都としてパリが出現するのは、フランク族のメロビング王朝時代である。カペー王朝の時代には、はじめてセーヌ両岸にまたがる城壁が築かれ、パリは要塞都市となった。
カペー歴代の王の中で、パリの歴史上忘れられないのはフィリップ2世である。王は道路の舗装、上下水道の工事、教会、修道院の建設に力をいれ、パリの最も美しいゴシック建築であるノートルダム寺院も、大部分はその治世の1345年に完成を見た。百年戦争中フランスはシャルル7世(アルマニャック派)と、イギリスと結んだブルゴーニュ派に分裂していた。当初イギリスがフランスのかなりの部分を占領したが、ジャンヌ・ダルクの出現により戦局は逆転した。
16世紀になると、政治・経済の中心は左岸から右岸へと移っていく。王家の宮殿ルーヴル宮、ブルボン宮、そしてマリー・アントワネットの最後の住まいであったコンシェル・ジュリー宮がある。18世紀末に始まるフランス革命、ナポレオン時代に際して、パリはいくたの劇的事件の舞台となり混乱をきわめた。現在のパリは右岸は政治・経済の街で高級住宅街、左岸は学問と芸術の街で庶民的で自由な雰囲気にあふれている。もし一日中、パリをぶらりとひとりで散歩するならルーブル美術館やシャンゼリゼ通りなどがある右岸よりも、ノートル・ダム教会前の広場からブキニスト(古書露天商)たちのいる左岸のカルチェラタンやサンジェルマンデュプレに足を運んでみよう。ソルボンヌ周辺は、今も昔もフランスの学問の中心地として、その伝統を保ち続けている。
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