忠臣蔵 悲運の若武者、間瀬定八
幕府は赤穂義士たちの切腹後、僧籍にある者と女性を除く15歳以上の男の遺児を遠島処分にした。大石内蔵助の次男吉千代(13歳)以下14人は若年により処分猶予となった。15歳以上の男児、間瀬定八(当時20歳、間瀬久太夫の次男)、吉田伝内、中村忠三郎、川松正右衛門らは伊豆大島に流罪となる。4年後の宝永4年(1707年)、将軍綱吉の死去により、大赦となり、遺児全員が赦免となった。しかしこのとき間瀬定八だけは既に他界していた。これまで正確な命日は不明であったが、近年の調査によれば、宝永2年(1705年)4月27日、伊豆大島で22歳で病死したとのことである。記録によれば定八が流罪中だった元禄16年(1703年)に大地震があった。2005年には伊豆大島で300年遠忌慰霊祭がおこなわれたという。
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