聖断の演出家、鈴木貫太郎
1945年のこの日、前の小磯内閣の総辞職を受け、枢密院議長だった鈴木貫太郎が第42代内閣総理大臣に就任した。当時、鈴木は76歳の高齢であった。鈴木内閣は4月30日にベルリンでヒトラーが自殺し、5月8日にはドイツ軍が無条件降伏したことによって、日本は有力な同盟国を失った。国内各都市への空襲が日増しに激しくなり、6月23日には沖縄戦が終結するなど、日日本の敗色は濃厚となっていた。7月26日、イギリス・中華民国・アメリカの署名によるポツダム宣言に対して、鈴木は「政府としては、重大な価値あるものとは認めず黙殺し、断固戦争完遂に邁進する」とコメントした。しかし6日に広島、9日に長崎に原子爆弾が投下され、日本の敗戦が決定的になっていた。8月9日から10日未明にかけて、宮城内の防空壕で最高戦争指導者会議(御前会議)がおこなわれた。鈴木貫太郎(1867-1948)は最後の御前会議において、天皇との阿吽の呼吸により劇的な御聖断に持ち込めた。しかしあくまでポツダム宣言受諾拒否の阿南惟幾陸軍大臣(58歳)は、「聖断」が下ると、その夜、陸相官邸で切腹自殺した。鈴木邸は軍の焼打ちにあって全焼した。連合軍には天皇の御聖断によりポツダム宣言を受諾することが伝えられた。午後11時過ぎから宮城内で終戦に関する詔書の吹き込みが行われた。これを知った一部将校グループがクーデターを計画、録音盤奪取を試みたが失敗した。鈴木はかなり前から終戦を決意していた。だが、当時の軍部、とくに陸軍統帥部は徹底抗戦に凝り固まっていた。性急にことを選べば、軍の過激派が決起し、内乱になる恐れがあった。鈴木は、主戦派も和平派もだましながら、天皇の裁断で和平の道をつくるという、誰も予想しない離れ技を演じた。15日正午、昭和天皇はラジオ放送をもって日本の敗戦を国民に伝え、ここに全ての日本軍の戦闘行為は停止した。戦後、鈴木は「われは敗軍の将であるただいま郷里に帰って、畑を相手にして生活しております」とインタヴューで述べている。終戦から3年後の昭和23年4月17日、肝臓癌のため死去した、享年81歳の生涯を閉じた。(4月7日)
« 女郎谷 | トップページ | 畑正憲と大江健三郎 »
「日本史」カテゴリの記事
- 河越城の戦い(1546年)(2024.04.20)
- かえり船(2024.03.23)
- 鍋島騒動(2024.03.20)
- 勘解由使(2024.01.14)
- 藤原兼家(2024.01.12)
« 女郎谷 | トップページ | 畑正憲と大江健三郎 »
コメント