無料ブログはココログ

« 2023年3月 | トップページ | 2023年5月 »

2023年4月30日 (日)

人生の至楽は読書にあり

4271_nss__oxford_university__in_l_2

 

  何事にも意欲や興味がわかないのは、ひじょうに診断の難しい病だ。退屈病や、無気力病と混同されやすく、素人目にはたんに活力のない老人と見られがちだ。だが何もせずに放っておくと、人生を棒に振ることになる。死ぬまでに、新しい本を見つけて、すこしでも意欲ある人生を過ごしたい。そう決めても、この世のおもしろ本の全てを読めるわけではないのだが。

古本を漁りて過ごす桜桃忌

 

富山和子「川は生きている」

 

岡田淳「図書館からの冒険」

 

藤沢道郎「物語イタリアの歴史」 中公新書

 

中島京子「夢見る帝国図書館」 文藝春秋

 

歴史街道「土方歳三なぜ戦い続けたのか」

 

フランス文化読本 鈴木雅生 丸善出版

 

「四つの小さなパン切れ」 マグダ・オクンデール・ラフォン

 

柴崎友香「寝ても覚めても」

 

アダムとイヴ 岡田温司 中央公論新社

 

わたしはマララ マララ・ユスフサイ 学研プラス

 

韓国語完全対訳シナリオ「四月の雪」 脚本ホ・ジノ ワニブックス

 

平成生まれは知らない昭和の常識 服部淳 イースト・プレス

 

太平天国にみる異文化受容 菊池秀明 山川出版社

 

ジョゼと虎と魚たち 田辺聖子

 

黎明の世紀 大東亜会議とその主役たち 深田祐介

 

レンズが撮らえた19世紀ヨーロッパ 海野弘

 

危険学 畑村洋太郎

 

すごい古書店・変な図書館 井上理津子

 

女の人差し指 向田邦子

 

梅干と日本刀 樋口清之

 

禅のすべて 篠原壽雄・佐藤達玄

 

文人たちの俳句 坂口昌弘

 

もういちど読む山川地理(新版 2017年)

 

できる大人の常識力事典 話題の達人倶楽部

 

ユーラシアの東西 杉山正明

 

忠臣蔵と元禄群像 中江克己

 

一冊でわかる朝鮮の歴史 井野誠一

 

名画で読み解く世界史 祝田秀全

 

ロビンソン・クルーソー 伊集院静

 

地図で訪ねる歴史の舞台 帝国書院

 

人間失格 上  太宰治

 

肩甲骨は翼のなごり  デイヴィッド・アーモンド

 

虚子俳話録 赤星水竹居 学陽書房 1949

 

ガラスの城の記憶  手塚治虫

 

アメリカ名詩選 岩波文庫

 

夏目漱石 文藝別冊 河出書房新社

 

文字と組織の世界史 鈴木薫

 

イギリス文学 名作と主人公 加藤光也

 

ギリシア人の物語 民主政のはじまり 塩野七生

 

現代政治の思想と行動 丸山真男

 

省略の文学 外山滋比古

 

こころの処方箋 河合隼雄

中間文化論 加藤秀俊

雑種文化 加藤周一

日中韓はひとつになれない 小倉紀蔵

一流の人は空気を読まない 堀紘一

ナポレオンで仕事上達 斎藤孝

文明が衰亡するとき 高坂正堯

名城と合戦の日本史 小和田哲男

本を愛しなさい 長田弘

パピルスが伝えた文明 箕輪成男

名張毒ブドウ酒殺人事件 田中良彦

年下の男 内館牧子

おもちゃと金米糖 戸田盛和

サミュエル・ジョンソン伝 ジェイムズ・ボズウェル 1791

社会科学概論 森谷克己 法律文化社 1953

社会構成史大系 日本評論社 1950

社会と革命 世界平和への道 小島祐馬 宇田政治経済研究所 1954

火星人ゴーホーム フレドリック・ブラウン 1954

社会史上から見た漢代の思想と文学の基本的性格の研究 田所義行 中国学術研究会 1965


社会主義の経済・貿易問題 中国を中心として 上野秀夫 晃洋書房 1973

社会主義への道 現代中国の歴史3 岩村三千夫 徳間書店 1966

社会人のための漢詩漢文小百科 田部井文雄ほか編 大修館書店 1990

あなたがほしい 安達千夏 集英社 1999

セーヌ川の書店主 ニーナ・ゲオルグ

文明ネットワークの世界史 宮崎正勝 原書房 2003

文学効能事典 エラ・バーサド フィルムアート社 2017

ノーマンズランド 誉田哲也

おもかげ 浅田次郎

 

直木賞受賞エッセイ集成 文藝春秋 2014

 

暮らしの韓国語単語8800  今井久美雄 語研 2005

 

3秒に1回驚く「雑学」の本 王様文庫 三笠書房 2014

 

バリ島芸術をつくった男 ヴァルター・シュピースの魔術的人生 伊藤俊治 平凡社 2002

 

ねこMONO ねこグッズ😹パラダイス ダイアプレス 2014

 

いつも買うもやし・卵・とうふがおいしいおかず 主婦の友 2009

 

サピエンス全史の読み方 宝島社 2017

 

職業としての小説家 村上春樹 スイッチ・パブリッシング 2015

 

大辞泉 松村明監修 小学館

 

暗殺の歴史 リンゼイ・ボーター 創元社 

 

独立の民 ハルドル・ラックスネス

 

パレオマニア 池澤夏樹

 

銀漢の賦  葉室麟

 

ベスト・エッセイ2011  「光速老人」三浦しをん他。

 

夜型人間のための知的生産術 斎藤孝

 

ホトトギスの俳人101 阪西敦子ほか

 

マクベス 斉藤洋

 

聖書入門 大島力

 

図解日本音楽史 田中鍵次

 

「違うこと」をしないこと 吉本ばなな

 

ある男 平野啓一郎

 

江戸ものしり用語事典 宝島社

 

心理学英和・和英基本用語集 福村出版

 

なるほど日本地理 宇田川勝司

 

現代日本映画人名事典 女優 キネマ旬報社

 

現代日本映画人名事典 男優 キネマ旬報社

 

中国文章家列伝 井波律子

 

キネマ旬報 2018年12月号上旬号

 

新・冬のソナタ 上 キム・ウニ、ユン・ウンギョン

 

大いなる逃亡  田中光二

 

誤植聖書殺人事件 ロバート・リチャードソン

 

日本古代国家の構造 直木孝次郎 青木書店 1958

 

生活のための闘い ピーサレフ著 金子幸彦訳 岩波文庫 1952年

 

そして、バトンは渡された 瀬尾まいこ

 

初学者のための中国古典文献入門 坂出祥伸

 

東京都の歴史散歩 山川出版社

 

100のトピックで知るドイツ歴史図鑑 原書房

 

手塚治虫シェイクスピア漫画館 実業之日本社

 

詳細地理資料 COMPLETE2018  帝国書院

 

戦国武将 群雄ビジュアル百科 二木謙一 ポプラ社

 

英日対訳 日本現代史 ジェムズ・M・バーグマン IBCパブリッシング

 

あやうく一生懸命生きるところだった ハ・ワン ダイヤモンド社

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ヴァルプルギスの夜

Walpurgisnacht    北欧・中欧で行われる行事で、春を祝う祭「五月祭」の前夜祭。ブロッケン山で魔女が集まって酒宴を開くと信じられている。アドルフ・ヒトラーがこの日に秘書エヴァ・ブラウンと共に自殺したのは、この日が悪魔崇拝の上で重要な日であることを認識していたからだといわれる。(Walpurgisnacht、4月30日)

 

 

2023年4月29日 (土)

「昭和の日」雑感

Img_2

 

Img_0001_2

 明治・大正・昭和・平成・令和・・・と元号は変わっていきましたが、昭和の建物や制度、映画や歌謡曲など、まだまだコンテンツとしてよく耳にし、目にします。日本人の総人口の割合では、明治・大正生まれが0.9%、昭和生まれが71.7%、平成生まれが27.1%、令和生まれが0.3%だそうです。

   昭和天皇のラジオ放送で、突然の敗戦を知らされた私たち親世代の気持ちはさぞかし複雑であったであろう。ある者は、「日本が負けるはずはない」「絶対にデマだ」と思い、ある者は「よかった。新しい出発点だ!」「ほっとした」と感じていた。

   しかし、敗戦は事実であり、戦争は終わった。廃墟と化した町からも、やがて、平和への願いをこめた再建のつち音が聞えてきた。

   だが、祖国のためにと信じて戦場に散った若者たち、戦争で肉親を失い、家を焼かれた人々、身一つで帰国した引揚者たち…戦争の傷あとは深かった。原爆症で今なお苦しむ人さえある。われわれは、二度と戦争を起こさず、未来の明るい幸福な社会を築くために、最大限の努力を傾けねばならない。

      *

未来の人間よ

君達こそ人間らしく生活してくれるだろう

愚かなことをくり返さずに

幸福に生活してくれるだろう

すべての人がよろこべるよう

働いてくれるだろう

         武者小路実篤

五月のバラ

Photo_2  バラの季節となった。伊丹市荒牧バラ公園には世界のバラ約250種1万本が咲いている。「五月のバラ」というバラードを聴き比べ。塚田三喜夫、尾崎紀世彦、布施明、松崎しげる、舟木一夫、鹿内孝、秋川雅史、岩出和也など。この曲のオリジナルは、「思い出のバラ」という題名でフランツ・フリーデル(津川晃)が1969年に創唱した。その後、ブレンダ・リーがカバーして広く知られるようになった。

2023年4月28日 (金)

オリーヴの下に平和はない

   イタリア中部の丘陵地帯のチォチャリア。ある日、一人の若者が復員してきた。彼はフランチェスコといい、戦前は羊飼いだったが、彼の以前所有していた羊は今では村のボスであるアゴスティーノに盗まれていた。フランチェスコはこの事件を訴えたくとも証人がアゴスティーノに脅迫され沈黙しているのでどうすることもできなかった。そのわずかな証人の中にはフランチェスコのかつての恋人リチアもいた。彼女は今でも彼を愛していたが両親のためには好きでもないアゴスティーノの婚約者にならなければならなかった。

   その婚約披露の晩、フランチェスコは妹のマリアを連れて自分たちの羊の群を取り戻しリチアと一緒に逃げようとアゴスティーノの家を襲った。だが家の外で逃げ遅れたマリアはアゴスティーノに掴まって暴行を受けてしまった。

   翌朝フランチェスコは窃盗のかどで逮捕され、間もなく開かれた裁判はことごとく彼に不利なものであった。フランチェスコが投獄されてもなお、アゴスティーノは満足せず、貪欲な彼は高い地代で羊飼たちに牧場を貸そうと、この地一帯の牧場を手に入れることに成功した。このことは、彼に対する反感を一層はげしくした。

   一方、監獄を脱走して山に逃げ込んだフランチェスコは妹のマリアの復讐のためにアゴスティーノの間隙を狙っていた。それを知ったルチアは矢も盾もたまらずフランチェスコの隠れている山へ走った。彼はルチアと手を携えて警官隊の包囲を逃れアゴスティーノの家へ向かった。

   いち早くフランチェスコを見つけたアゴスティーノは機銃をとって発射した。フランチェスコはかすり傷を負った。既にアゴスティーノに犯され行く処もなく彼の家にいたマリアはアゴスティーノと逃げた。恐怖に襲われた彼は、羊飼たちに助けを求めた。しかしすべての家の戸は閉められていた。気狂いのように逃げまどう彼は逆上のあまり怒りをマリアに向けてついに彼女を絞殺した。

   マリアの屍体を発見して激怒した羊飼たちはアゴスティーノの逃げ道をすべて封じた。フランチェスコは死にもの狂いで機銃を撃ってくるアゴスティーノに一歩一歩と近づいていった。やがて、弾丸を射ちつくして崖ぎわまで追いつめられたアゴスティーノは足をふみはずして、まっさかさまに谷底へ落ちていった。今は復讐を終えたフランチェスコは駆けつけた警官隊に潔く両手を差し出すのであった。(イタリア映画 1950年、ジュゼッペ・デ・サンティス監督 ラフ・パローネ、ルチア・ボゼー)

 

 

 

 

粽(ちまき)と柏餅

Img_997653_34974248_2     なぜ「こどもの日」(端午の節句)に粽や柏餅を食べるのか。むかし関西では粽、関東では柏餅を食べるという傾向があった。

    粽や柏餅は葉っぱに意味があります。そもそも柏餅のような葉っぱに包んだ食べ物は、弥生時代や古墳時代にかけて、田植えをする女性たちが外で働きながら食べる携帯食として葉っぱで包んだものが始まりです。

次にこどもの日ですが、さの由来は平安時代に中国から端午の節句が伝来したとき粽が伝えられた。粽は中国の戦国時代の詩人、屈原の霊を慰めたのが由来とされる。汨羅(べきら)という河に身を投げた屈原が、魚に食べられないように、楚の人々が小船の上から供物を投げ入れて弔ったのがはじまり。ある日、屈原があらわれて「米を龍にとられてしまうから、今後は楝樹(れんじゅ)の葉でもち米を包んで、色糸で結んでいただきたい。この2つは龍が嫌うものだから」といった。これが粽のはじまりだといわれる。(「続斉諧記」)

端午の節句の厄除け行事が、日本では菖蒲の葉を軒先に飾ったりして邪気を払った。これが戦国時代になると菖蒲が「尚武」または「勝負」の響きに似ていることから男子の出生や成長を祝う行事に変化した。となると健康な男子を生むためにはお母さんが健康であることが、まず第一になってくるので、田植えの季節に古くから食べられてきた柏の葉で巻かれたお餅を食べられるようになった。柏餅の柏は昔から神聖な木とされていたことや、子孫繁栄に結びつけ、縁起のいい食べ物となったということである。

眠れてますか?しっかり食べてますか?

Photo

 

  さし当る用も先なし夕涼み 岩田涼菟

 明日からゴールデンウィークに入る。でも朝晩の温度差は大きく、新生活になじめず五月病になる人も多い。1年でも自殺者が多い頃だそうです。決算期で支払いのできない自営業者、年金生活者、無職やホームレス状態の人、うつ病者、いろいろな問題を抱える人、ひっそり自死しています。自殺者は年間で3万人を超えています。日露戦争の戦死者数はおよそ8万4千人ですが、自殺による死者は3年で日露戦争を超えることになります。みなさん、毎晩、眠れてますか?しっかり食事できてますか?楽しいことをあれこれ考えて暮しましょう。

 

 

「あまちゃん」再放送が じぇじぇじぇ!。

   NHKBSの「あまちゃん」再放送が「らんまん」よりずっと面白い。母・春子の言葉を借りれば、東京では「地味で、暗くて、向上心も協調性も存在感も個性も華もないバッとしない」内気で引きこもりがちな高校生の天野アキが地元に帰ってさまざきな人々との出会いによって元気を取り戻し、海女やアイドルとして活躍しながら次第に成長していく物語である。オープニングの大友良英作曲のインストゥルメンタルのテーマ曲から「あまちゃん」の世界に戻れる。挿入歌には「潮騒のメロディー」「地元に帰ろう」「暦の上ではディセンバー」などあるが、「南部ダイバーの歌」を忘れちゃいけない。種市先輩が通う岩手県で唯一潜水の技術を学ぶ高校がある。この歌はドラマのために作ったものではなく、実際にある。高校も岩手県立種市高校が実在する。じぇじぇじぇ。ベイビー・レイズはGMT6の影武者だった。じぇじぇじぇ。うに弁当、まめぶ、双眼鏡、ジオラマ、北三陸鉄道、観光協会、喫茶リアス、パチンコ、灯台、琥珀、ストーブさん、夏ばっぱ、南部ダイバー。みんな2013年からいろいろあったけど、ちょっとなつかしい気分。

 

 

日本人物伝・左甚五郎

   慶安4年(1651年)のこの日、日光東照宮の眠り猫などで知られる江戸寛永の名工・左甚五郎が56歳で逝去した。播磨国の生まれで、京都に出て禁裏大工の棟梁遊佐与平次に師事し、豊臣秀吉・徳川家康とも面識があった。寛永12年、師のあとを継いで禁裏大工の棟梁となった。日光東照宮・上野寛永寺の造営に従事したが、晩年は讃岐国高松の松平家に召しかかえられ、そこで没した。東照宮の眠り猫寛永寺の水呑み竜などは彼の作とされるが、いずれも疑わしい。その作品があまりにも精巧をきわめたために、それらが抜け出て行動するという伝説がある。甚五郎は、きわめてさっぱりとした性格で、すこしもモノに対する執着というものが無かった。だから貯えているものがなくれば、その業につとめるという有様だった。ある人がこれを諌めると、甚五郎はニッコリとして、

 たのしみは貧しさにあり梅の花

と詠じたという。ただし類似の歌は「講談・紀伊国屋文左衛門」にもある。(4月28日)

 

100610052
 左甚五郎作「大黒天」 

 

   左甚五郎のまとまった伝記資料は講談などでお馴染みの人物のわりに少ない。出身地も播磨明石、紀伊根来、讃岐高松など諸説ある。

 

匠左甚五郎伝 柳沢武運三 福老館 1888

 

左甚五郎 名人奇談 中村兵衛 大学館 1908

 

左甚五郎 山本瑞雲 書画骨董雑誌100  1916

 

左甚五郎利勝の略史 香川県先哲宣揚会編刊 1934

 

名匠左小刀実記左甚五郎伝  左光挙 世界社 1953

 

讃岐と左甚五郎:考証左甚考  左光挙 先哲宣揚会 1958

 

左甚五郎考 森本一雄 飛騨春秋35  1959

 

 

 

 

 

 

 

 

2023年4月27日 (木)

いよいよゴールデンウィーク

 山や川でのレジャーを計画している人も多いが、GM序盤は雨風が強まる恐れがある。大型連休中は、ほとんどの医療機関が休診となるので高齢者にとっては不安な日々が続く。銀行、郵便局も休業。とくにゆうちょ銀行はATMや携帯ATMでのキャッシュカード利用ができない、スマホアプリやスマホ決済のチャージなど利用できない。GMはすべての国民が喜んでいるわけではなく、迷惑な季節と考えている高齢者層もいるだろう。そもそもゴールデンウィークとは何か。むかし「飛び石連休」などといっていたが、いろいろな法改正で振替休日などで9日から10日くらい連休がつながるようになった。ゴールデンウィークの呼称の起源は大映常務取締役であった松山英夫によって作成された宣伝用語といわれる。NHKでは原則として「大型連休」を使うことにしている。大型連休は必要なのであろうか。29日は「昭和の日」、3日が「憲法記念日」4日が「みどりの日」、5日が「こどもの日」。祝祭日の起源や由来はそれぞれ異なるが、大型連休導入の真のねらいは経済効果である。昭和は百貨店での買い物、近郊の遊園地への行楽、近くの公園や山へのハイキングなどの日帰り旅行が一般的であった。近年になって大型イベントや海外旅行も盛んとなり、大きな経済効果を生み出すビジネス・チャンスとなつている。しかし、人間や人間の組織、マネーを基本にした社会のしくみだけで祝祭日を本来の意味からすり替えてよいものであろうか。祝いの由来や起源をしっかりと周知することが大切ではないだろうか。

サルタナ沈没事故

 1865年のこの日、アメリカのミシシッピ川を就航していた蒸気船サルタナ号で爆発・火災事故が発生し、翌日には沈没した。およそ2500人が乗船していたが、1450人以上(1700人とする説もある)が死亡した。当時、南北戦争の後であり、リンカン大統領暗殺事件もあって、世相が混乱しており、北部の新聞は余り大きく取り上げることもなく、責任の追及もあいままなまま、事故は一般社会から忘れ去られた。(4月27日)

 

 

 

忠臣蔵 悲運の若武者、間瀬定八

Oosima_ohaka020227_02s
 大島本町墓地の間瀬定八の墓

   幕府は赤穂義士たちの切腹後、僧籍にある者と女性を除く15歳以上の男の遺児を遠島処分にした。大石内蔵助の次男吉千代(13歳)以下14人は若年により処分猶予となった。15歳以上の男児、間瀬定八(当時20歳、間瀬久太夫の次男)、吉田伝内、中村忠三郎、川松正右衛門らは伊豆大島に流罪となる。4年後の宝永4年(1707年)、将軍綱吉の死去により、大赦となり、遺児全員が赦免となった。しかしこのとき間瀬定八だけは既に他界していた。これまで正確な命日は不明であったが、近年の調査によれば、宝永2年(1705年)4月27日、伊豆大島で22歳で病死したとのことである。記録によれば定八が流罪中だった元禄16年(1703年)に大地震があった。2005年には伊豆大島で300年遠忌慰霊祭がおこなわれたという。

哲学の日

  本日は「哲学の日」。紀元前399年のこの日、ギリシアの哲学者・ソクラテスは、死刑宣告を受けて、「悪法もまた法なり」と言って、自ら毒杯を飲んで亡くなったとされる。だがソクラテスの有名な言葉「悪法もまた法なり」の出典は、いくらさがしてもない。弟子のプラトンが書き残したという事実もない。この言葉は本当にソクラテスの言葉なのであろうか。プラトン(前427-前347)がソクラテス(前470頃-前399)に出会ったのは、ディオゲネス・ラエルティオスの「哲学者列伝」によればプラトン20歳、ソクラテス56歳、前407年と推定している。一説によると、プラトンの兄のアディマントスかグラウコンがソクラテスと親しかったからといわれる。ともかく、プラトンは以後8年間ソクラテスの弟子となる。その後ソクラテスは前399年、死刑となるが、その時、プラトンは28歳だった。ソクラテスの死は、プラトンにとって哲学の原点となった。

    ソクラテスの死後、プラトンは他の人々とともに、メガラのエウクレイデスのところに一時身を寄せたほか、キュレネやエジプトに旅をしたと伝えられている。この頃、亡きソクラテスを主人公とする対話篇を書きはじめた。「政治家が哲学するか、哲学者が政治をするようにならないかぎり、人類は不幸から救われないであろう」(『国家』)というプラトンの政治哲学が生まれた。

   ソクラテスが投獄されたとき、毒逃亡の機会があったにもかかわらず、国法に従って毒杯をあおいで死んだ、という話が日本では明治以来伝わるが、実はこれは作りはなしである。ソクラテス自身の著作はなく、弟子の伝聞にもない。英語でそれらしき部分には、「obey and do not do otherwise」つまり「自分の哲学に殉じて死を選ぼう」という意味。悪法でも刑に服する、の意味とは正反対。むしろ「法だからといって従う義務はない。自分自身の信念にのみ従う」ということである。明治の法曹はソクラテスの故事を遵法精神として鼓吹した。まことに国家にとって都合のよい名言である。(4月27日)

 

 

2023年4月26日 (水)

ガルチは太刀魚の意味(韓国語単語)

11244606_1430174397285070_449390853   長瀬智也主演の「ごめん、愛してる」を見ている。池脇千鶴の子供が「さかな」という名前。韓国ドラマでは「ガルチ」だった。韓国語で魚は「ムルコギ」とか「センソン」とかいうが、ガルチは太刀魚の意味。「スッカラ」は韓国のスプーン。ビビンバが食べやすい。「スジョンガ」は、韓国伝統の飲み物。干し柿などの甘味とショウガとシナモンが入り、食後のデザート飲料として好まれている。

  日本では自転車のことを「チャリンコ」または「チャリ」と呼ぶが、この言葉の由来には諸説あるが韓国語の「チャジョンゴ」からきているらしい。日本語と韓国語には似た発音のことばがいくつかある。数(スゥ)、雲(クルム)、熊(コム)、蝉(メミ)、カモメ(カルメギ)、蛇(ペム)などなど。

  韓国のドラマを見ていると、「パボ」がよく出て来る。「馬鹿」という意味だが、語源は「パブボ」が変化したものである。「パブ」は「ご飯」、「ボ」はコッボ(弱虫)、ウルボ(泣き虫)の「ボ」で、「~虫」「~者」のような意味。つまりパブボとは、「飯を食べるだけで何もせずにぐうたらしている、おひつ(パブトン)のような間抜け(モンチョンイ)ということ。

   ドラマ「冬のソナタ」(キョウルヨンガ)をもう一度最初から観る。ミニョンが、教会でユジンにプロポーズする場面。愛する女性とその子供の「暖かい手」「丈夫な足」になりたいと祈る。「タトゥタン ソン(暖かい手)」「トゥントゥンナン タリ(丈夫な足)」という。

 

アギ(赤ちゃん)

 

エンムセ(オウム)

 

ケー(犬)

 

コヤンイ(猫)

 

ウォーンスゥンイ(猿)

 

サランセ(インコ)

 

ポーム(虎)

 

チェㇰ (本)

 

ヨンピㇽ (鉛筆)

 

ハッキョ(学校)

 

ウネン(銀行)

 

ソエ(書道)

 

ソジョム(書店)

 

ヌン(目、雪)

 

コッ(花)

 

ウネン(銀行)

 

シージャン(市場)

 

チェ―ソ(八百屋)

 

ヤーグ(野球)

 

アルモㇺ(はだか)

 

ソーソㇽ(小説)

 

タル(娘)

 

セー(鳥)

 

パラㇺ(風)

 

プㇽ(火事)

 

ポㇺ(春)

 

ヨルㇺ(夏)

 

カウル(秋)

 

キョウル(冬)

 

コ(鼻)

 

イプ(口)

 

イ(歯)

 

オルグル(顔)

 

ソン(手)

 

クィ(耳)

 

モク(首)

 

カスム(胸)

 

タリ(足)

 

テーヤン(太陽)

 

ダル(月)

 

ビョル(星)

 

ハヌル(空)

 

バダ(海)

 

ムジゲ(虹)

 

ファジャンシル(トイレ)

 

ヌンサラム(雪だるま)

 

ナム(木)

 

サグァ(りんご)

 

タルギャル(卵)

 

ムㇽコギ(魚)

 

シㇰサ(食事)

 

ぺ(船、フェリー)

 

トーシムㇽ(動物)

 

コブク(亀)

 

ヨルデオ(熱帯魚)

 

ナイテ(年輪)

 

タマネギ(ヤンパ)

 

カウィ(鋏)

 

ポジャンマチャ(屋台)

 

キム(海苔)

 

ミヨク(わかめ)

 

ミョンラン(明太子)

 

マルンオジンオ(するめ)

 

オジンオ(イカ)

 

ヤチェ(野菜)

 

パ(長ねぎ)

 

ヤンパ(玉ねぎ)

 

コチュ(唐辛子)

 

タルギ(いちご)

 

ブンジエ(盆栽)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

何故ホームランを量産する選手がでないのか?

 昭和34年のこの日、王貞治は後楽園球場で国鉄スワローズの村田元一投手から7回に決勝の2ランホームランを打った。これが王の公式戦初安打で記念すべき第一号本塁打だった。あらためてホームランランキングをみる。王貞治868、野村657、門田567、山本536、清原525、落合510、張本504、衣笠504と500を超えた選手は8人である。今後8位以内に入る可能性があるのは、いまのところヤクルトの村上宗隆だけだろう。今シーズンは不調だが、現在160本で、年間30本を20年間打ったとすれば、160+600で760本となる。大きな怪我さえなければ到達するかもしれない。それにしてもなぜ昔と比べるとホームランを量産する選手がここ最近はいなくなった。理由は球場が広くなったことや投手の技術が向上したことである。また強打者も晩年になると怪我や故障で出場する機会が減ることもあるだろう。村上の場合、メジャーへの移籍もあるので、やはり本塁打ランキング10位に入る選手は今後もでそうにない。(4月26日)

この名画はジャンヌ・ダルクではない

Marianne20de20delacroix 1798年のこの日、19世紀フランスのロマン主義を代表する画家ウジェーヌ・ドラクロワはパリ近郊のシャラントン(現在のサン・モーリエ)に生まれた。フマキラーのゴキブリ革命のCMには、教科書にも載っているドラクロワの有名な絵画「民衆を導く自由の女神」が使用され、「フランス革命」というナレーションがつけられる。これは大きな間違いである。フランス革命より40年くらい後の1830年7月27日に起こった七月革命に想を得て描かれた作品である。もっと酷いのはジャンヌ・ダルクに間違われることがある。広瀬すずの ドラマ「学校のカイダン」第7話。謎の男、雫井彗を演ずる神木隆之介がドラクロワの絵を指して「ジャンヌ・ダルクも下からのし上がってきた」と説く。このドラマには仏百年戦争の英雄ジャンヌ・ダルクの名前がしばしば引き合いに出される。ジャンヌ・ダルクにしては乳房が豊満すぎるし、百年戦争当時はまだフランス国旗や銃はなかった。ルーヴル美術館にあるこの絵画を観て、なぜかジャンヌ・ダルクだと勘違いしている日本人観光客は多いという。三色旗を持っている女神は、フランスという国家自体を擬人化したマリアンヌという架空の人物といわれる。一説によると、戦闘で弟を失い、仇を討とうと奮戦したアンヌ・シャルロットという洗濯女の伝説をモデルにしているともいわれる。なおミュージカル「レ・ミゼラブル」で描かれる暴動もフランス革命ではなく、この六月暴動と七月革命である。(4月26日)

 

 

 

 

 

「よい風呂の日」雑記帳

Photo_7_2 児(こ)の眼澄むや雪の風呂屋の籠の中

 中島斌雄、昭和22年作。銭湯脱衣場風景。外は雪の降りしきる寒い昼だが、ここばかりはあたたかい湯気を立ちこめさせている。寒い日は風呂であったまるのがいいですね。4月26日は語呂合わせで「よい(4)ふ(2)ろ(6)の日」。太宰治は、東京のアパートの窓から見る富士山をクリスマスの飾り菓子といい、天下茶屋から見た富士山を「風呂屋のペンキ絵」と言った。「おあつらえむき」にできすぎて「恥ずかしく」俗な富士であると短編小説「富獄百景」で書いている。太宰独特のユーモア精神と通俗的な権威に対する反抗心でもある。銭湯に富士山の絵が多いのはなぜか?

    都会の銭湯にペンキ絵が現れたのは大正になってから。大正元年、神田猿岩町にあるキカイ湯の店主、東雄三郎が子どもが喜んで銭湯に入れるようにと思い、川越広四郎画伯に依頼した。静岡県掛川市出身であった川越は子供の頃から親しんでいる富士山の絵をペンキで描いたのが始まりという。やっぱり富士山と銭湯はお似合いでキカイ湯は大繁盛し、全国各地でこれを真似た銭湯がつくられた。太宰のあの有名な言葉「富士には、月見草がよく似合う」という言葉は聖書の「マタイによる福音書」のソロモンの栄華と野の百合の対比を想起させる。だが太宰の欧米での文学評価のイマイチなのは、聖書からの引用が作品に深みを与えていなという指摘がなされていることにあるようだ。ドナルド・キーンも太宰が私生活でどの程度までキリスト教を信仰することができたか懐疑的であると述べている。海外では聖書の成句をヒントにした小話は文学的な深みを感じさせないようである。

 

Gnj1004060508015p1   風呂といえば視聴率アップの秘策として「水戸黄門」は毎回かげろうお銀の入浴シーンがあった。全部で200回以上されたが、1回の撮影に1時間かかる。実は由美かおるは長風呂が苦手だったとか。▽フランス革命の指導者マラーは皮膚病の治療をするため長風呂だった。ある日、若い娘コルデーに入浴中に刺殺された。▽江戸の侠客幡随院長兵衛は入浴中に水野十郎左衛門に殺害された。▽三冠王の捕手で強打者の野村克也は2020年2月に入浴中に亡くなった。享年84歳。

 

 

 

2023年4月25日 (火)

パリ、パリ

Img_   花の都パリは、芸術、科学、ファッション、美食といった多様な現代文化の中で存在感を見せているが、同時に数々の歴史的大事件が繰り広げられた街でもある。フランス革命、ナポレオンの第一帝政期、パリ・コミューンと第三共和政など19世紀の世界史を動かす震源地となった。ゴシック様式の代表的建築物ノートルダム寺院の尖塔が2019年4月15日、大規模な火災はに見舞われた。1163年春、パリ司教モーリス・ド・シュリ―によって建築が始まった。そもそもパリの歴史は、現在ノートルダム寺院のあるセーヌ川の中州「シテ島」に始まる。パリの名も、このシテ島に紀元前1世紀ごろ住みついていたケルト人の一部族パリシー人に由来している。紀元前200年頃のこと、パリシー人たちが、セーヌを往来しているうちに中州を見つけ、ここに住み始めた。木造の砦が廻らされた村は、リュテス(リュテティア)と呼ばれ。パリ市の紋章には波に浮ぶ帆船と「たゆたえども沈まず」の銘が記されているが、シテ島は古く紀元前のガリア時代から、東西に流れるセーヌと南北にのびる陸路の交わる水運交通の要衝であった。ガリアがローマの支配下におかれると、石造りの神殿、宮殿の建設が進み、パリはローマ人の町として発展する。キリスト教布教が始まり、やがてリュテスは「パリ」と呼ばれるようになった。現在のフランスに相当する国の首都としてパリが出現するのは、フランク族のメロビング王朝時代である。カペー王朝の時代には、はじめてセーヌ両岸にまたがる城壁が築かれ、パリは要塞都市となった。

Photo    カペー歴代の王の中で、パリの歴史上忘れられないのはフィリップ2世である。王は道路の舗装、上下水道の工事、教会、修道院の建設に力をいれ、パリの最も美しいゴシック建築であるノートルダム寺院も、大部分はその治世の1345年に完成を見た。百年戦争中フランスはシャルル7世(アルマニャック派)と、イギリスと結んだブルゴーニュ派に分裂していた。当初イギリスがフランスのかなりの部分を占領したが、ジャンヌ・ダルクの出現により戦局は逆転した。

 16世紀になると、政治・経済の中心は左岸から右岸へと移っていく。王家の宮殿ルーヴル宮、ブルボン宮、そしてマリー・アントワネットの最後の住まいであったコンシェル・ジュリー宮がある。18世紀末に始まるフランス革命、ナポレオン時代に際して、パリはいくたの劇的事件の舞台となり混乱をきわめた。現在のパリは右岸は政治・経済の街で高級住宅街、左岸は学問と芸術の街で庶民的で自由な雰囲気にあふれている。もし一日中、パリをぶらりとひとりで散歩するならルーブル美術館やシャンゼリゼ通りなどがある右岸よりも、ノートル・ダム教会前の広場からブキニスト(古書露天商)たちのいる左岸のカルチェラタンやサンジェルマンデュプレに足を運んでみよう。ソルボンヌ周辺は、今も昔もフランスの学問の中心地として、その伝統を保ち続けている。

5729158_2460248
 イザボー・ド・バヴィエール

 

 

ペンギンの語源

71567764b155b98891a67f8d622d2124  本日は「世界ペンギンの日」。南極大陸のアデリーペンギンが、夏の繁殖後に海に移動する途中、毎年この日前後にマクマード基地を通過することから、ペンギン研究者が制定。ペンギンの語源はラテン語ピングウィス pinguis(肥満)に由来する。それがスペイン語の「太っちょ」を表わすピングウィーゴ penguigoが生まれ、16世紀に英語圏に入ってペンギン penguinになった。他説として、「白い頭」を意味するウェールズ語から生まれたとする説もある。本来、北半球で「ペンギン」と呼ばれていたオオウミガラス(現在は絶滅)の頭が白いからである。1586年トーマス・キャベンディッシュが世界一周した際にアルゼンチン南端のフエゴ島に上陸したウェールズ人がペンギンを見て「ペン・グィン pen gwyn」と呼んだのが語源といわれる。

  松井簡治(1863-1945)は1日33語を作業の目標として、20余年の歳月をかけて「大日本国語辞典」を完成した。「オックスフォード英語大辞典」の編者ジェームズ・マレー(1837-1915)の目安も同じく1日33語だった。たぶん3日坊主に終わるかもしれないが、1日33英単語を覚えよう!(4月25日)

 

alligator        ワニ

 

bat       コウモリ

 

beetle     カブトムシ

 

chick     ひよこ

 

cockroach   ゴキブリ

 

cricket      こおろぎ

 

dolphin      イルカ

 

donkey      ろば

 

duck       あひる

 

fly        ハエ

 

frog       かえる

 

giraffe      キリン

 

goat       やぎ

 

gorilla      ゴリラ

 

grasshopper  キリギリス

 

hen        めんどり

 

hipopotamus  かば

 

insect      昆虫

 

kitten       子猫

 

ladybug     てんとうむし

 

lark        ひばり

 

mole        もぐら 

 

mouse      二十日鼠

 

ostrich      ダチョウ

 

owl        ふくろう

 

parrot       オウム

 

peacock     くじゃく 

 

pigeon       鳩

 

puppy                子犬

 

raccoon dog   たぬき

 

rooster      おんどり

 

stork        コウノトリ

 

ptarmigan  ライチョウ

 

small owl          コノハズク

 

grebe              カイツブリ

 

shrike              モズ

 

cuckoo            ホトトギス

 

Japanese  nightingale ウグイス

 

skylark            ヒバリ

 

phesant           キジ

 

sea gull           カモメ

 

thrush            ツグミ

 

albatross            あほうどり

 

eel                    うなぎ

 

earthworm    みみず

 

firefly       ほたる

 

flea        のみ 

 

frog        かえる

 

gecko       やもり

 

gnat        ぶよ

 

tarsier      メガネザル

 

newt        イモリ

 

lizard       トカゲ

 

gecko               ヤモリ

 

cobra                コブラ

 

chameleon        カメレオン

 

iguana               イグアナ

 

soft-shelled turtle スッポン

 

reindeer             トナカイ

 

parrot                  オウム

 

squid                   イカ

ロンドン、ロンドン

 ロンドンという地名の語源について、イギリスでも定説はない。紀元前43年、ブリタニアを占領したローマ人がテムズ川北岸に交易所ロンデニウムを設置した。だがこれはローマ人がつけた地名ではなく、おそらくケルト語の一種である古代アイルランド語のロンド(「野性味のある」「勇敢な」)が、人名か部族名に用いられて、ロンデヌスになり、その形容詞形ロンデニウムが地名になったと推定される。

  「ロンドンに飽きた者は、人生に倦きた者だ」といったのは18世紀の文学者サミュエル・ジョンソン博士だが、ロンドンの街は大英帝国のおもかげを今に残しながら、ビートルズからローリングストーンズ、ミニスカート、パンク、とここで生まれた音楽やファッションはつねに時代をリードしている。観光地もバッキンガム宮殿の衛兵交代式、ロンドン塔、タワー・ブリッジ、英国国会議事堂のビッグベン、セント・ポール寺院、トラファルガー広場、ハイドパーク、ピカデリーサーカス周辺といった有名なスポットから、ロンドン・アイの観覧車、サザーク地区にあるバラ・マーケットまで見所が豊富である。Borough Market、

 

 

ニューヨーク、ニューヨーク

   アメリカ合衆国は広大な国である。その総面積980万平方キロは、わが国の実に26倍の広さで、太平洋岸のカリフォルニアの一州の中に、本州・四国・九州・北海道の4つの島がすっぽりとおさまってしまうほどである。しかし、広さという点にだけ限定すると、ロシアはおよそ1.7倍だし、カナダや中国はアメリカよりも広い。アメリカが熱帯と寒帯との間とにはさまれた、人間の活動にもっとも適した温帯と冷帯とにその国土の大部分を位置づけていることが、国土の広さとならんで、どのぐらいこの国に幸いしているかは、北隣りのカナダと比べてみると、すぐに理解できることである。

 小室眞子さん、小室圭さんが新婚生活をおくるニューヨークはマンハッタン島の南端にある。1626年オランダ人のピーター・ミニュイットという人物が、24ドルの商品と交換にマンハッタン島を先住インディアンから買い取った。1650年頃になるとオランダ移民は、インディアンを締め出すために自分たちの居住地に柵(ウォール)をめぐらし、ウォールに沿って伸びる狭い道で商売を行い、そこを「ウォール街」と呼んだ。1664年、イギリスがこの地をオランダから奪い、時の国王チャールズ2世の弟で、植民地管理官のヨーク公の称号にちなんで「ニュー・アムステルダム」から「ニュー・ヨーク」と改めたのが、現在の都市名の由来だ。   

   ニューヨークはマンハッタン、ブルックリン、クイーンズ、ブロンクス、スタテンアイランドの五区(ファイブ・ボローズ)に分かれる。ニューヨークいある自由の女神像は米独立100周年を祝い、フランスから1886年10月28日、寄贈された。エンパイアステートビルが完成したのは1931年5月1日のことである。観光地トップ10。自由の女神、ウォール街、ブルックリンブリッジ、チャイナタウン、ティファニー、エンパイアステートビル、メトロポリタン美術館、セントラルパーク、リンカーンセンター。ヤンキー・スタジアムはブロンクスにある。1923年に建設された旧スタジアムは老朽化のため、2006年に新スタジアムが完成した。試合終了後にはシナトラの名曲「ニューヨーク、ニューヨーク」が流れるのもニューヨークの風物詩である。the five boroughs

 

280px5_boroughs_labels_new_york_cit

 

 ①マンハッタン
②ブルックリン
③クイーンズ
④ブロンクス
⑤スタテンアイランド

 

 

ローマ、ローマ

 映画「フェリーニのローマ」(1972年)を観る。永遠の都ローマ、ローマは街全体が博物館である、といわれる。現在のローマの街のつくりを簡単に表現すると、古代ローマの遺物の上にバロックの建物をのせた、ということになる。世界遺産ローマ歴史地区イタリア・バチカンには、4つの丘に囲まれたフォロ・ロマーノ、円形闘技場、コロッセオ、神殿パンテオン、コンスタンティヌスの凱旋門などローマ帝国の栄華を伝える貴重な遺跡群が遺されている。そのため観光スポットは無数にある。それとローマの魅力は、ほとんど歩いて行ける範囲にある、ということだろう。

  第10位ナヴォーナ広場。9位サンタンジェロ城。8位ヴァチカン博物館。7位パンテオン。6位フォロロマーノ。5位真実の口(ボッカ・デッラ・ヴェリタ)。4位サンピエトロ寺院。3位スペイン広場。2位トレヴィの泉。そして1位はローマの象徴といえるコロッセオである。正式名はフラウィウスの円形競技場といい、フラウィウス朝の皇帝ウェスパシアヌスと彼の息子ティトスとドミティアヌスが完成した。おそらく1231年の大地震のときに、南西部の外郭全体が崩落し、形をとどめない岩の塊になってしまった。長らく廃墟の時代が続いたが、ナポレオンのローマ占領によって整備がなされ、19世紀から20世紀初めにかけて修復工事が行われた。

 

 

ギロチンの日

20100208t000126f7a8b

  1792年のこの日、フランス国民会議で、断頭装置ギロチンが正式処刑道具として採用することを採択された。その呼び名は解剖学者ギロチンに由来するといわれる。しかし、これは事実ではない。断頭装置は少なくとも13世紀からすでに存在していた。ギロチンは機械的な装置を使用することによって受刑者に無駄な苦痛を与えず、人道的な処刑を行うように、議会に提案した人である。処刑具の開発には関わっていない。ギヨタンから名前をとったギヨチーヌGuillotine(ドイツ語読みでギロチン)が広まった。一般にはギヨチンがギロチンを発明したかのような印象がある。正確はジョゼフ・ギヨタン(1738-1814)という医師とギロチンとは別で、ギロチンとは「ギヨタンの息子」を意味する。彼の親類は、この機械に名前を使用することをやめてくれるように政府に依頼したが、この言葉が広く認知されてしまったので、やむなく姓を変更したという。フランス革命まで、首をはねる死刑は貴族に限られていたが、ギロチンの発明が王侯貴族(ルイ16世とマリー・アントワネット)ばかりか、ダントンやロベスピエール、一般人もその対象になった。死刑執行人は代々「ムッシュ・ド・パリ」と呼ばれて、担当を格式を持っていた。1967年9月10日、フランスで最後のギロチンによる死刑執行が行われた。1981年、ミッテラン大統領の提案に基づき、ギロチンの使用中止が提案された。ギロチンだけでなく、死刑そのものが廃止され、フランスは西ヨーロッパの大半の諸国と並んで死刑のない国になった。(4月25日)

 

 

拾得物の日

Pn2009042501000103___ci0003 本日は「拾得物の日」。落とし物を路上で拾得し、警察に提出した場合、遺失者が判明した場合は、物件の価格の5%~20%の報労金を請求できる権利がある。もし3ヶ月経過しても遺失者が判明しない場合は、拾得者が物件を受け取る権利がある。  

  トラック運転手だった大貫久男は1980年4月25日夜、仕事帰りに、銀座の昭和通りで、ガードレールの支柱の上に風呂敷にくるまれて置かれていた現金1億円を発見した。「選挙費用」「株の仕手戦の資金」など、さまざまな憶測をよんだが、結局、落とし主は現われず、1億円は大貫久男のものになった。だが所得税が約3400万円かかるため、実際の手取りは約6600万円だった。大貫は記者会見で、「幸せになるか不幸になるか、ぼくの人生が終わった時に答えが出ると思う」という名言を残した。大金を手に入れても、その後の人生を大貫は堅実に生き、平成12年11月9日、病気で61歳の幸福な生涯をとじた。お笑いタレントとして吉本所属しているタカダ・コーポレーションの大貫幹枝は大貫久男の孫になる。近年の週刊誌情報によれば、一億円の落とし主は「政界の暴れん坊」と呼ばれた浜田幸一という代議士らしい。(一億円拾得事件)

クロムウェルとチャールズ1世

King_charles_i_1628_ad  1599年のこの日、オリバー・クロムウェルはイングランド東部ハンティントンに生まれた。翌年には、清教徒革命で処刑されたチャールズ1世が生まれた。1658年、クロムウェルが没すると、3年後、王政復古によってクロムウェルの墓が暴かれ、遺体の首が刎ねられた。クロムウェルは「王殺し」「簒奪者」と貶められたが、19世紀になると英雄として高く評価される。クロムウェルとチャールズ1世の2人は英国史でもとても有名な人物である。

    王権神授説を信じたイギリス王チャールズ1世は、議会を解散し、以後11年間にわたって議会を開くことなく、専制政治をおこなった。1639年、カルヴァン派(長老派)の強いスコットランドに国教を強制したことから反乱が起こった。1642年国王は北部のヨークに逃れ、ノッティグガムで兵を挙げた。1642年10月、エッジ・ヒルの戦いは勝敗なく終わったが、議会派にオリヴァー・クロムウェルが現れると、鉄騎兵を編成し、1644年7月2日、マーストン・ムーアの戦い、1645年6月、ネーズビーの戦いで国王派は敗れ、第1次内戦は終結した。

   1647年12月、チャールズ1世はスコットランドへ逃亡し、これと軍事同盟を締結して革命軍に対抗し、第2次内乱が始まった。革命軍は国王軍ならびにスコットランド軍を破り、1648年3月再び国王は囚われた。一旦は脱出したものの、1648年11月、国王はワイド島のカリスブルック城に難を避けた。しかるに議会の多数派なる長老派は王との妥協を決議した。ここにおいて、クロムウェルはプライド大佐(?-1658)に命じて長老派議員140名を議会から締め出して、わずか60名の独立議員(ランプ議会という)で1649年1月1日、国王チャールズ1世の特別裁判所設置法案が可決された。反逆罪で裁かれたチャールズ1世は、1月27日に死刑の判決が下され、1月30日ロンドンのセント・ジェームズ宮殿からホワイトホールの門を出て、ホール前につくられた処刑台に登った。最後まで身につけていた宝石と勲章をカンタベリー大司教に渡し、首切り台に身をかがめると、群衆のうめき声のうちに、チャールズ1世の首がころげ落ちた。

この清教徒革命の後、一旦王政復古になるが、1688年、名誉革命をへて、イギリスの立憲君主制が確立する。(Charles,Henrry,William) 4月25日

 

 

 

7341903111t

 

 

2023年4月24日 (月)

燃えつきた車両・桜木町事件

Photo_3

 

  ゆずの歌に「桜木町」がある。ただしこの歌はJRの桜木町駅ではなく、東急東横線の桜木町駅である(現在は廃止されている)。旧国鉄の桜木町駅は明治5年、日本で最初に鉄道が開通した時に、初代の横浜駅として開業した。その後、東海道本線の延伸に伴い「横浜駅」の名称を現在の横浜駅に譲り、大正4年に「桜木町駅」に改称した。現在付近は観光客の多いみなとみらい地区や中華街へ向かう根岸線の桜木町で横浜市の中心地区としてにぎわいをみせている。1951年のこの日、桜木町駅で、国電車両が火災、わずか10分で、あっという間に火の海となり、車両は全焼、死者106人、負傷者92人という大惨事があった。被害大きくしたのはモハ63形と呼ばれる電車の構造の欠陥にあった。モハ63形電車は、昭和19年に登場した、代用材を使った危険な車両で、天井がペンキ塗りの車両は火のまわりが速く、被害を大きくしたのである。戦争の後遺症が招いた事故であった。(4月24日)

 

 

紀文度胸千両の蜜柑船

F0048248_9264325

 享保19年(1734年)のこの日、江戸期の商人のなかで名高い紀伊国屋文左衛門が66歳で没した。

   江戸の年中行事に鞴(ふいご)まつりというものがあり、11月8日未明、市中の子どもたちが、鍛冶、鋳冶、石工などの吹革(ふいご)を取り扱う家の前に集まって騒ぐと、主人が二階から数百数千の蜜柑を投げ、子どもたちが争ってこれを奪いとる風習があった。このため11月初めには蜜柑の価格が暴騰したらしい。蜜柑を積んだ便船が紀州と江戸の間をしきりに往復した。ところがこの時期にはちょうど寒風が吹きすさび、海上が大荒れに荒れる。名にし負う熊野灘、75里の遠州灘を無事に乗り切ることは容易ではない。

    たまたま、この前後、暴風雨が吹きまくって、さすがの海の荒くれ男たちも出帆を躊躇している時、紀伊国屋文左衛門(1669-1734)は決死の覚悟で船を出したのだ。長唄の「紀文大尽」によると、正保元年の霜月のことだそうで、蜜柑8万5千籠を船に積んで、乗組員は白装束に縄だすき、みずから幽霊丸と名のり、遠州灘を乗り切った。ふいご祭りに間に合ったため、危険を冒した甲斐あって5万両という巨利を一時に博したという。この文左衛門の行動はまったく度胸の一語につきる。「沖の暗いのに白帆が見える。あれは紀伊国蜜柑船」と俗謡に唄われた。

    ただし、紀文度胸千両の蜜柑船の話は、現在のところそれを裏づける確たる資料はほとんどない。文左衛門は元禄11年2月9日に上野寛永寺根本中堂の造営に際し、その用材の調達を一手に請負い巨利を得たというのが史実に伝わるところである。(4月24日)

2023年4月23日 (日)

ガーター勲章

 1348年のこの日、イングランド王エドワード3世がガーター騎士団を創設した。ガーター勲章とは英国の最高勲章。靴下留に似て、左膝下に着ける。エドワード3世がソールズベリー伯爵夫人とダンスを踊っていたとき、夫人のガーターが落ちた。これは当時としては大変はしたないことだった。王はそっとこれを拾って、自分の膝にはめ、自分のもののようなふりをして、彼女を助けた。そして「悪意を抱く者に災いあれ」といった。この言葉がガーター勲章に銘文となってぬいとりされている。(4月23日)

自転車(明治事物起源)

   自転車という外国の乗り物が、近代日本に、いつ頃伝わり、どのように受容されたのであろうか。わが国に自転車が伝来したのは、長い間、明治3年(1870年)と見る説が定説のように流布されていた。これは石井研堂「明治事物起源」の影響が大きい。しかしこの説で日本で初めて自転車に乗ったとされる佐藤アイザックという人物の正体が明らかとなった。本名を横山錦柵といい、嘉永2年生まれで、18歳で英語を学ぶため渡米し、1877年に帰国している。つまり1870年の自転車渡来とは無関係であることが判明した。明治10年代には横浜で自転車のレンタル業が始まっている。また国産初の自転車製作は滋賀県長浜市の国友鉄砲鍛冶師が1891年に作ったともいわれている。「日本近代総合年表」(岩波書店)によると、1889(明治22)年の項に「この年、大阪・神戸に自転車(鉄輪)流行し、貸自転車ふえる。賃料1時間5銭」とある。

3d688a3a  自転車の発明は1817年ドイツのカール・フォン・ドライスが発明したドライジーネと呼ばれる木製の二輪車が今の自転車の元となったとされている。ところが自転車の発明は西洋ではなく、江戸中期に日本人がすでに発明していたという説が近年あきらかにされた。増田一裕によると、武州児玉郡北堀村の組頭の庄田門弥が1729年に「陸船車(りくせんしゃ)」という木製の乗り物を作った。徳川吉宗も興味をもち、陸船車を江戸に献上させたという。

 

 自転車といえば徳川慶喜。慶喜は明治20年ころ当時珍しかった自転車を購入し、静岡で乗り回し余生をエンジョイしている。 日本に自転車が一般に普及するのは1890年代に入ってからである。福沢諭吉や夏目漱石は自転車に乗れたのか?福沢は高齢になっているので少し無理かもしれない。ただし1902年に慶応義塾自転車競技部が設立され、息子の福沢一太郎が初代部長であるから、自転車にはなみなみならぬ関心があったことと思う。漱石には「自転車日記」という作品がある。1902年、留学先のロンドンで下宿の婆さんに薦められて自転車に初めて乗った。すでに35歳になっていたが、運動神経のよい漱石は悪戦苦闘のすえ、どうやら無事乗りこなすまでに上達した。漱石と同世代の東洋史学者、那珂通世は自転車博士といわれるほど自転車が好きで、朝鮮や満州に自転車旅行している。中村春吉は1902年、自転車で世界一周旅行を達成した。

 

Photo
  徳川慶喜

 

Niigata192x300  最近、新潟県加茂市で「なるべく自転車に乗らないように」という文書が小中学生に配布された。交通事故防止のためであるが環境整備が大事であるとの批判もある。近代人にとってもはや自転車は不可欠なものだが、交通マナーなど安全教育の徹底を若いうちに図る必要がある。4月からはヘルメット着用が始まった。「人生とは自転車のようなもので、倒れないようにするには走らなければならない」(アインシュタイン)

 

 

猟奇耽異博物館

Photo

 

    図書館に勤め初めた頃、書庫出納といって利用者の求めに応じて、書庫から本を取り出す仕事をしていた。古い小説でも度々利用のある本があった。横溝正史の本だ。もちろん角川書店の横溝ブームの前の話である。ぼろぼろになった本だが、マニアがいるので超人気だった。古谷一行の金田一耕助役でドラマ化されたときにはじめて内容を知った。昨夜は、NHKBSプレミアムで吉岡秀隆主演「犬神家の一族 前篇」を見た。大竹しのぶの犬神松子は適役であるが、ヒロインの野々宮珠世は明らかにミスキャスト。原作では頭脳明晰な美女となっており、古川琴音ではチョットねぇ。終戦後まもない頃の話だが、猟奇、耽美の世界に魅かれる。その先駆者は江戸川乱歩だろう。(あるいは大正期の谷崎潤一郎か)乱歩が「新青年」に「二銭銅貨」を発表したのは大正12年4月。以後「D坂の殺人事件」「心理試験」「赤い部屋」「屋根裏の散歩者」「人間椅子」「パノラマ島奇譚」「陰獣」「猟奇の巣」「魔術師」「黄金仮面」「吸血鬼」「盲獣」「白髪鬼」「恐怖王」「妖虫」「人間豹」「暗黒星」などを発表する。雑誌「新青年」には乱歩にほかに、甲賀三郎、谷譲次、渡辺温、夢野久作、横溝正史、妹尾アキ夫、久生十蘭、海野十郎などが健筆を揮い、探偵小説から推理小説、冒険小説、空想科学小説など多様なジャンルの作品が現われた。

ビールの歴史

Fc852665a8481518dfb43de74b3c9b62   職場の同僚や仲間たちが集まって飲み会をするときは「先ずはビール」がお決まりである。ビールは世界中でもっとも親しまれている酒であろう。ビールの起源はメソポタミアや古代エジプトにまでさかのぼる。11世紀後半になるとホップを使った美味しいビールがつくられ、中世ドイツでビールの醸造がさかんになった。ところが品質の悪いものビールが横行するようになり、バイエルン公ウィルヘルム4世が1516年のこの日に「ビールは麦芽・ホップ・水・酵母のみを原料とする」というビール純粋令が発布され、品質が向上した。1935年1月24日アメリカのクルーガー社が世界初の缶入りビールを発売した。日本人による醸造は、1853年に蘭学者の川本幸民が江戸で醸造実験を行ったのが最初とされる。明治初年から輸入され、中期にはいくつものビール会社ができた。しかし、ひろくビールが飲まれるようになったのは大正期からであり、サラリーマンの時代の到来とともに社交に欠かせない飲み物となった。(4月23日)

デ・ラ・メア「窓」

Finestra_veduta

 

   白い猿の兄弟ヤンボー(里見京子)、ニンボー(横山道代)、トンボー(黒柳徹子)が親と死に別れて力を合わせながら旅をする「ヤンボーニンボートンボー」というNHKラジオドラマがあった。この話は飯沢匡(1909-1994)が、ウォルター・デ・ラ・メア(1873-1956)の「サル王子の冒険」をヒントにして作ったといわれる。デ・ラ・メアには童謡や子供向けの詩も多いが、その内容には死や人生への深い思索を含んでいる。

    デ・ラ・メアはイギリスのケント州チャールストンで1873年4月23日、ユグノーの子孫として生れた。母は詩人ロバート・ブラウニングの遠縁にあたる。4歳のとき父が亡くなったため、母から聞いたおとぎ話、伝説などによって大きな影響を受けた。ロンドンのセント・ポール校を卒業後、18年間石油会社の会計士をしていたが、1902年にウォルター・ラマルという筆名で詩集「幼時の歌」を出し文名を確立。続いて小説「ヘンリー・ブロックン」を出した。1908年、会社をやめ作家生活に専心するようになり、詩集「耳をすます人ら」(1912)「雑色その他」、小説「小人の思い出」(1921)、童話「三匹の猿王子」(1919)などを発表。「三匹の猿王子」はサム、シンプル、ノッドの三匹の猿が、父の国ティシュナーの谷まで苦難にみちた旅をする話で日本でも飯沢匡「サル王子の冒険」、脇明子「三匹の高貴な猿」など翻訳が出ている。他に「無常その他」「ヴェールその他」「旅人」(1946)「内なる仲間」「翼にのった馬車」(1951)「子どものための物語集」(1949年カーネギー賞)「くじゃくのパイ」(1913)などがある。1956年6月22日、逝去。

 

      窓

 

ブラインドのかげにすわり

 

ぼくは見つめている

 

外を行きかう人びとを

 

通りすぎる人たちを

 

だれひとりとして気づかない

 

じっと見ているぼくの小さな目には 

 

だれにも見えない

 

ぼくの小さな部屋は

 

ブラインド越しの太陽で

 

みんな黄色く見えるこの部屋は

 

だれも知らない

 

ぼくがここにいることさえも

 

だれも気づかない

 

ぼくがいなくなっても

 

        *

 

     かくれんぼ

 

かくれんぼしよう、と風がいう

 

森のこかげで

 

かくれんぼしよう、と月がいう

 

ハシバミの木の実に

 

かくれんぼしよう、と雲がいう

 

星から星へ

 

かくれんぼしよう、と彼がいう

 

港の砂州で

 

かくれんぼしよう、とぼくもいう

 

自分で自分にいってみて

 

目ざめの夢をあとにして

 

眠りの夢にすべりこむ

 

( Walter de la Mare )

 

 

2023年4月22日 (土)

あの著名人の故郷はどこですか?

 みなさんは地元出身の有名人と言われて、誰を思い浮かべますか?たとえば高知県であれば、高知の女は「はちきん」と呼ばれて、男まさりで勝ち気。広末涼子や島崎和歌子を思い浮かべます。▽嵐のメンバーの出身地。松本、二宮、櫻井、大野みな東京都。相葉雅紀だけが千葉県。▽大阪といえば天童よしみや和田アキ子だが、清原果耶が大阪市出身と聞いて意外な感じがします。▽雑誌「All About」が調査したところ、神奈川県出身の好きな芸能人ランキングは、1位は桑田佳祐、2位は中居正広、3位は日村勇紀(バナナマン)でした。

 

北海道 北島三郎 鈴木宗男 玉置浩二 高橋恵子 細川たかし 大泉洋

 

青森県 吉幾三

 

岩手県 大谷翔平 小沢一郎 千昌夫 新沼謙治

 

宮城県 羽生結弦 さとう宗幸 宮藤官九郎

 

秋田県 藤あや子 落合博満 内館牧子 佐々木希

 

山形県 佐高信 大泉逸郎 あき竹城 渡辺えり

 

福島県 伊東美咲 田部井淳子 西田敏行

 

茨城県 永作博美 東野峻

 

栃木県 森昌子 落合恵子

 

群馬県 篠原涼子 渡辺久信

 

埼玉県 石川遼 羽生義治 蜷川幸雄 星野真里

 

千葉県 長嶋茂雄 高橋由伸 阿部慎之助 小倉優子 野田佳彦

 

東京都 木村拓哉 石田純一 蓮舫 北島康介 長山洋子

 

神奈川県 加山雄三 向井理 成海璃子 織田裕二 ムロツヨシ

 

山梨県 根津甚八 松本哲也

 

長野県 上條恒彦 美川憲一

 

新潟県 小林幸子 高橋克実 馬場ふみか

 

富山県 野際陽子 風吹ジュン

 

石川県  松井秀喜 鹿賀丈史 田中美里 浜辺美波

 

福井県 五木ひろし 白川静夫

 

岐阜県 野田聖子 北川悦吏子 髙橋尚子

 

静岡県 広瀬すず 加藤剛 斎藤孝 長澤まさみ

 

愛知県 イチロー 琴光喜啓司 竹下景子 玉木宏

 

三重県 榊莫山 ドン小西  椎名桔平 西野カナ 鳥羽一郎 山川豊

 

滋賀県 田原総一朗 堀田真由

 

京都府 都はるみ 村上春樹 前原誠司 伊達公子 近藤正臣

 

大阪府 天童よしみ 和田アキ子 岡田武史 三池崇史 山中伸弥 清原果耶

 

兵庫県 北川景子 松下奈緒 上野樹里 松浦亜弥 戸田恵梨香

 

奈良県 堂本剛 吹石一恵

 

和歌山県 坂本冬実 田川寿美

 

鳥取県 水木しげる

 

島根県 錦織圭 江角マキコ

 

岡山県 あさのあつこ

 

広島県 西城秀樹 金本知憲

 

山口県 菅直人 山本譲二

 

徳島県 板東英二

 

香川県 松本明子

 

愛媛県 大江健三郎 早坂暁

 

高知県 広末涼子 藤川球児 やなせたかし

 

福岡県 郷ひろみ 松田聖子 浜崎あゆみ 魁皇博之 氷川きよし 白川方明 タモリ つるの剛士 田中麗奈  五郎丸歩

 

佐賀県 松雪泰子

 

長崎県 さだまさし 福山雅治 前川清 仲里依紗 川口春奈

 

熊本県 八代亜紀 石川さゆり 島津亜矢 姜尚中 秋山幸二 森高千里

 

大分県 深津絵里 南こうせつ

 

宮崎県 東国原英夫 青木宣親

 

鹿児島県 森進一 西郷輝彦 上白石萌音

 

沖縄県 新垣結衣 宮里藍 安室奈美恵 夏川りみ 中島美嘉 黒島結菜

「あ」 ファースト・ネームから引く人名一覧

Ina_claire_by_blood_of_the_dragond4 「広辞苑」「マイ・ペディア」など総合事典の多くの外国人名の配列は、ファミリー・ネーム(日本の姓にあたる)のカナ表記の50音順であるが、本項ではファースト・ネームの50音順で配列した。▽「アアフメス」前16世紀中頃のエジプトの書記官。▽「アイディード」1934-1996。ソマリアの内戦のきっかけを作った人物。▽「アイナ・クレア」 Ina Claire(1893-1985)はアメリカの舞台女優(右画像)。▽「アイベックス」ヤギ属に属する哺乳類の一種。主にアルプス山脈に生息する。▽「アレクサンデル・セウェルス」第24代ローマ皇帝。▽「アインハルト」770?ー840。カール大帝とルートヴィヒ1世の2代に仕えた廷臣。教育者・歴史家。「カール大帝伝」が有名。▽「アーヴィング・バーリン」1888-1981。アメリカを代表する音楽家。代表曲「ホワイト・クリスマス」「ブルー・スカイ」「イースター・パレード」「オールウェイズ」。▽「アダム・ゴットロープ・エーレンシュレーゲル」1779-1850。デンマークの詩人・劇作家。「アラディンまたは魔法のランプ」「北欧詩集」「ハーコン・ヤール」「コレッジョ」。▽「アティージャ」982ー1054。中央チベット仏教の中興の祖。ディーパンカラシュリ―ジュニャーナ Dipankara Srijnana。▽「アニー・エドソン・テイラー」1901年樽に入ってナイアガラ滝を下り、無事生還した女性。▽「アベル・ガンス」フランスの映画監督。代表作「鉄路の白薔薇」。▽「アミルカル・カブラル」1924-1973。アフリカ独立運動の指導者。▽「アムル・イブン・アル=アース」583-664。第二代カリフ・ウマールの将軍で東ローマを破り、ミスル・アル・フスタート(カイロ市)を建設した。▽「アンリ・ミルヌ・エドワード」は1844年潜水服を着て探検した最初の科学者。▽「A・A・ミルン」1882-1956。「クマのプーさん」フルネームはアラン・アレクサンダー・ミルン。▽「アルドゥス・ピウス・マヌティウス」ルネサンス時代の出版人。▽「アル・キンディー」800ころ~870ころ。イスラム哲学者。「知性論」。▽「アルビン・ワード・グールドナー」1920ー1980。アメリカの社会学者。代表作「産業における官僚制」ダイヤモンド社 1954年。▽「アルベルト・エバリスト・ヒナステラ」1916-1983。アルゼンチンの作曲家。代表作はバレエ音楽「エスシア」(1941)。▽「アルベルト・モッセ」1846-1925。ドイツの法学者。明治初期伊藤博文らの招きで来日。憲法・諸法令の起草をした。▽「アレクサンダー・アーキペンコ」1887-1964。ロシア出身のアメリカの彫刻家。キュビスムの影響を受けた独創的な彫刻スタイルで最もよく知られる。代表作「メドラノⅡ」(グッゲンハイム美術館)。▽「アレクしウス・マイノング」1853-1920。オーストリアの哲学者・心理学者。▽「アン・ブラドストリート」1612-72。詩的感性をもった最初のアメリカ詩人。▽「アルフレート・フォン・ティルピッツ」1848-1920。ドイツの海軍軍人。▽「アーロン・コープランド」1900-1990。米国の作曲家。「エル・サロン・メヒコ(酒場メキシコ)」で名声を高め、「ビリー・ザ・キッド」「ロデオ」「アパラチアの春」などのバレエ音楽で現代アメリカ作曲界の第一人者となった。▽「アンゲラ・ドロテア・メルケル」2005年11月22日、第8代ドイツ連邦共和国首相に選出される。ドイツ史上初めてとなる女性首相。▽「アンジェラ・カーター」1940-92。イギリスの小説家。▽「アンディ・マレー」イギリスのプロテニス選手。▽「アンドリュー・セス」1856-1931。イギリスの観念論の哲学者。▽「アンナ・パブロワ」1881-1931。ロシアのバレエダンサー。▽「アンヌ・ルイーズ・ジェルメヌ・ド・スタール」1766-1817。一般にスタール夫人。フランスの作家。代表作「ディルフィーヌ」。▽「アンネグレート・クランプカレンバウアー」キリスト教民主同盟の新党首。▽「アンリ・アルカン」1909-2001。映画「ローマの休日」の撮影者。▽「アンリ・デュナン」1828-1910。スイス・国際赤十字創始。

アアウセルラー・アペピ
アアシェフイトエムワセト
アアフメス
アアヤバータ
アイヴァン・ライトマン
アイヴス・マガフィー
アイザック・アシモフ
アイザック・ウォルトン
アイザック・オリヴァー
アイザック・スターン
アイザック・ニュートン
アイザック・メリット・シンガー
ア・イ・シフマン
アイス・キューブ
アイスキュロス
アイスリング・フランシオン
アイソポス
アイダ・ルピーノ
アイダン・クイン
アイディード
アイナ・クレア
アイナル・ハンスン
アイバン・ライトマン
アイラ・フィッシャー
アイリス・チャン
アイリーン・キャッスル
アイリーン・キャラ
アイリーン・グー
アイリーン・ダン
アイリーン・プリングル
アイリーン・ヘッカート
アイリーン・リッチ
アイリン・セジヴィック
アイルトン・セナ
アインハルト
アーヴィング・バーリン
アウグスティン・ルイ・コーシー
アウグストー・ジェニーナ
アウグスト・ストリンドベリ
アウグスト・フェルディナント・メビウス
アウグスト・フォン・ワッセルマン
アウグスト・マッケ
アウド・エゲーテ・ニッセン
アウラングゼーブ
アヴリル・ラヴィーン
アウルス・ウィテッリウス(ローマ皇帝)
アウレリウス・アウグスティヌス
アウレリウス・マクシミアヌス
アウレリオ・ペッチェイ
アウン・サン・スー・チー
アーヴィング・ラングミュア
アエミリウス
アーガー・ムハンマド・カーン
アガサ・クリスティー
アガト(第79代ローマ教皇)
アキ・カウリスマキ
アクエンアテン(古代エジプト王)
アクセリ・ガレン=カレラ
アクタン・アリム・クバト
アクバル
アグネス・スメドレー
アグネス・ムーアヘッド
アゴスティーナ・セガトーリ
アゴスティーノ・カラッチ
アゴスティーノ・キージ
アーウィン・ショウ
アーヴィン・ウェルシュ
アーサー・ウィリアム・テッダー
アーサー・ウェイリー
アーサー・ウェルズリー(ウエリントン卿)
アーサー・キース
アーサー・ジョン・エバンズ
アーサー・ジョン・クロンキスト
アーサー・ケストラー
アーサー・コナン・ドイル
アーサー・コンプトン
アーサー・C・クラーク
アーサー・ストリートン
アーサー・デヴィス
アーサー・ネビル・チェンバレン
アーサー・バルフォア
アーサー・ヒュー・クラフ
アーサー・ヒラー
アーサー・ペン
アーサー・ボイド
アーサー・ホリー・コンプトン
アーサー・マッカーサー・ジュニア
アーサー・マッケン
アーサー・ミラー
アーサー・ルイス
アーシア・アルジェント
アシュトン・カッチャー
アーシュラ・ティリット
アシュリー・グリーン
アシュリー・ジャッド
アシュリー・ティスデール
アショーカ
アーシル・ゴーキー
アスガー・ヨルン
アスタ・ニールセン
アストリッド・リンドグレーン
アストル・ピアソラ
アスパシア
アタナシウス・キルヘル
アダム・エルスハイマー
アダム・ゴットロープ・エーレンシュレーゲル
アダム・サンドラー
アダム・シャール
アダム・スミス
アダム・ミツキエヴィチ
アダム・ラクスマン
アーダルベルト・シュティフター
アーチボルド・コーチャン
アーチボルド・コックス
アーチボルト・ヒル
アーチボルト・プリムローズ
アーチボルト・マクマード
アーチャボールド・ジョゼフ・クローニン
アッシュル・バニパル
アッテリオ・ガッティ
アッテリオ・モミリアーノ
アッバス・キアロスタミ
アティージャ
アート・カーニー
アート・ガーファンクル
アドリアーン・ファン・オスターデ
アドリアーン・ファン・デ・ヴェルデ
アドリアーン・ファン・デル・ウェルフ
アドリアーン・ファン・デ・フェンネ
アドリアーン・ブラウエル
アドリアン・マリ・ルジャンドル
アドルフ・アイヒマン
アドルフ・ヴァレット
アドルフ・サックス
アドルフ・ティエール
アドルフ・バスチャン
アドルフ・ヒトラー
アドルフ・フォン・バイヤー
アドルフ・フォン・ヒルデブラント
アドルフ・ブーグロー
アドルフ・ベーム
アドルフ・マンジュー
アドルフ・ワーグナー
アナ・ケンドリック
アナ・デ・アルマス
アナ・パキン
アナ・ファリス
アナイス・ニン
アナイリン・バーナード
アナクシメネス
アナクシマンドロス
アナス・フォー・ラスムセン
アナスタシア・二コラエヴナ
アナスタシウス1世(東ローマ皇帝)
アナスタス・ミコヤン
アナソフィア・ロブ
アナトーリイ・ステッセル
アナトール・フランス
アナベラ
アナベラ・シオン
アニー・エドソン・テイラー
アニー・ジラルド
アニー・ローラック
アニエス・バルダ
アニシウス・マンリウス・セベリヌス・ポエティウス
アニセー・アルビナ
アニタ・オデイ
アニタ・エクバーグ
アニタ・ムイ(梅艶芳)
アニタ・ルイーズ
アニヤ・テーラー・ジョイ
アーニョロ・ブロンズィーノ
アブル・ワリ―・イスマエル
アベ・プレヴォ
アベリー・ブランデージ
アヌーク・エーメ
アーネスト・ヴァインシェンク
アーネスト・ウォルトン
アーネスト・クライン
アーネスト・サトウ
アーネスト・シェードザック
アーネスト・トレンス
アーネスト・ダウソン
アーネスト・トンプソン・シートン
アーネスト・バージェス
アーネスト・フランシスコ・フェノロサ
アーネスト・ボーグナイン
アーネスト・ミラー・ヘミングウェイ
アーネスト・メイスン・サトー
アーネスト・ラザフォード
アーネスト・ローレンス
アネット・ベニング
アーノルド・シュワルツェネッガー
アーノルド・シューンベルク
アーノルド・ジョゼフ・トインビー
アーノルド・パーマー
アーノルド・ファンク
アビー・コーニッシュ
アビゲール・アダムズ
アビゲール・セーケ
アビゲール・ブレスリン
アピチャッボン・ウィーラセタクン
アビラ・ヒロン
アービン・カーシュナー
アービング・バーリン
アブデュル・ハミト2世
アブド・アル・カリーム・カーシム
アブドゥルラザク・グルナ
アプトン・シンクレア
アフマッド・スバルジョ
アブラハム・オルテリウス
アブラハム・ブルーマールト
アブラハム・ホンディウス
アブラハム・リンカン
アブラ―ム・ド・モアブル
アベベ・ビキラ
アベラール・エリウゲナ・アンセルムス
アベリー・ブランデージ
アベル・ガンス
アベル・ヤンスゾーン・タスマン
アーマッド・シャマル
アマル・クルーニー
アマンダ・サイフリッド
アマンダ・スタントン
アマンダ・バインズ
アマンダ・プラマー
アーマンド・アサンテ
アーミー・ハマー
アミルカル・カブラル
アミルカレ・ボンキエッリ
アムル・イブン・アル=アース
アムルサナー
アメデオ・アボガドロ
アメデオ・モディリアーニ
アーメッド・スカルノ
アメリア・メリー・エアハート
アメリカ・フェレーラ
アメリゴ・ベスプッチ
アーヤットラー・ルーホッラー・ホメイニー
アラ・ナジモヴァ
アーラ・プガチョワ
アラ・ボリソヴナ・プガチョワ
アラム・ハチャトリアン
アラルート・ファン・エーフェルディンゲン
アラン・アーキン
アラン・アレクサンダー・ミルン
アラン・J・パクラ
アラン・シェパード
アラン・タネール
アラン・チューリング
アラン・ドロン
アラン・ドワン
アラン・パーカー
アラン・ベイツ
アラン・ラッド
アラン・リックマン
アラン・レネ
アラン・ロブ・グリエ
アリ・マッグロー
アリー・シーディ
アリー・ラーター
アリアナ・グランデ
アリエノール・ダキテーヌ
アリエル・ラミレス
アリギエーリ・ダンテ
アリシア・ヴィキャンデル
アリシア・シルヴァーストーン
アリス・ウォーカー
アリス・オシュデ=モネ
アリス・ジーン・ウェブスター
アリス・ヒリアード
アリス・フェイ
アリス・マンロー
アリスタルコス
アリスティア・マクリーン
アリスティード・ブリアン
アリストテレス
アリストファネス
アリソン・フェリックス
アリダ・バリ
アリソン・スドル
アリッサ・ミラノ
アリーナ・イルナゾヴナ・ザギトワ
アリーナ・カバエワ
アリーヌ・ルノワール
アリーヤ
アル・カポネ
アル・キンディー
アル・ジャザリー
アル・ジョルスン
アル・スミス
アル・パチーノ
アル・ビルニ
アル・マルティーノ
アルヴァ・アールト
アルヴィーゼ・ダ・カダモスト
アルカンゲロ・コレルリ
アルキメデス
アルクイン
アルジャー・ヒス
アルジャーノン・チャールズ・スウィンバーン
アルチュール・ランボー
アルテュール・オネゲル
アールト・ファン・デル・ネール
アルドゥス・ピウス・マヌティウス
アルトゥール・シュニッツラー
アルトゥール・ショーペンハウアー
アルトゥル・ニキシュ
アルトゥール・ランボー
アルトゥール・ルービンシュタイン
アルトゥーロ・トスカニーニ
アルナルド・モミリアーノ
アールネ・トンプソン
アルノルト・シェーンベルク
アルノルト・ゾンマーフェルト
アルノルト・ベックリン
アルハゼン
アルバート・アーノルド・アル・ゴア・ジュニア
アルバート・オブ・ザクセン・コーブルク・ゴータ
アルバート・スポルディング
アルバート・スミス
アルバート・セービン
アルバート・タッカー
アルバート・フィニー
アルバート・ムーア
アルバロ・オブレゴン
アルバロ・デ・メンダーニャ・デ・ネイラ
アルビン・トフラー
アルビン・ハーベイ・ハンセン
アルビン・ワード・グールドナー
アルフィーアス・ハーディー
アルフォンス・ガブリエル・カポネ(アル・カポネ)
アルフォンス・デーケン
アルフォンス・ド・ラマルティーヌ
アルフォンス・ドーデー
アルフォンス・ミュシャ
アルフォンス・ルゲロ
アルフォンソ10世(カスティーリャ王)
アルフォンソ・ガルシア・ロブレス
アルフォンソ・デ・アルブケルケ
アルフレッド・アドラー
アルフレッド・ヴェーバー
アルフレッド・キンゼイ
アルフレッド・ジョーゼフ・ヒッチコック
アルフレッド・ド・ミュッセ
アルフレッド・ドレフュス
アルフレッド・ニューマン
アルフレッド・ハウゼ
アルフレッド・ハーシェイ
アルフレッド・ヒッチコック
アルフレッド・ビネー
アルフレッド・マーシャル
アルフレッド・ラッセル・ウォーレス
アルフレッド・ワルデルゼー
アルフレート・フォン・ヴァルダーゼー
アルフレート・フォン・ティルピッツ
アルフレート・フリート
アルフレート・ロタール・ヴェーゲナー
アルフレート・ローラー
アルブレヒト・ヴェンツェル・オイゼービウス・フォン・ヴァレンシュタイン
アルベール2世(モナコ公)
アルベール・カミュ
アルベール・カルメット
アルベール・マルケ
アルベール・ルーセル
アルベルト・アインシュタイン
アルベルト・エバリスト・ヒナステラ
アルベルト・カイプ
アルベルト・クラウデ
アルベルト・ケンヤ・フジモリ・フジモリ
アルベルト・ザッケローニ
アルベルト・サントス・デュモン
アルベルト・ジャコメッテ
アルベルト・シュバイツァー
アルベルト・トンバ
アルベルト・フジモリ
アルベルト・モッセ
アルベルト・モラヴィア
アルベルト・ルス
アルベルヒト・コルネリウス
アルブレヒト・アルトドルファー
アルブレヒト・ケンペル
アルブレヒト・デューラー
アルブレヒト・フォン・ヴァレンシュタイン
アルブレヒト・フォン・ブランデンブルク
アルフレッド・アイゼンスタット
アルフレッド・キンゼイ
アルフレッド・コルトー
アルフレッド・シスレー
アルフレッド・ブーシェー
アルフレッド・ベルンハルト・ノーベル
アルフレッド・テニソン
アルフレート・ロータル・ヴェーゲナー
アルマン・ギヨマン
アルマン・ジャン・デュ・プレシ・ド・リシュリー
アルマン・ダヴィッド
アルマン・ヒッポリト・ルイ・フィゾー
アルマンド・マンサネーロ
アルレッティ
アレイスター・クロウリー
アレキサンダー・アガシ
アレキサンダー・アーキペンコ
アレキサンダー・アグリコラ
アレキサンダー・ウィリアムソン
アレキサンダー・セルカーク(ロビンソン・クルーソーのモデル)
アレキサンダー・ポープ
アレクサンダ―・カートライト
アレクサンダー・カルダー
アレクサンダー・グラハム・ベル
アレクサンダー・ハミルトン
アレクサンダー・フォン・フンボルト
アレクサンダー・フレミング
アレクサンデル6世(教皇)
アレクサンデル・セウェルス(ローマ皇帝)
アレクサンデル・ドゥプチェク
アレクサンドラ・コロンタイ
アレクサンドラ・フョードロヴナ
アレクサンドラ・ダダリオ
アレクサンドル1世
アレクサンドル3世
アレクサンドル・アーキペンコ
アレクサンドル・イサエビチ・ソルジェニツィン
アレクサンドル・イヴァノビッチ・オパーリン
アレクサンドル・イワーノフ
アレクサンドル・ウリヤノフ
アレクサンドル・オストロフスキー
アレクサンドル・ギュスタブ・エッフェル
アレクサンドル・ケレンスキー
アレクサンドル・ゲルツェン
アレクサンドル・セルゲイビーチ・プーシキン
アレクサンドル・ニコラエビチ・スクリャービン
アレクサンドル・ソクーロフ
アレクサンドル・ソルジェニーツィン
アレクサンドル・デュマ
アレクサンドル・ネフスキー
アレクサンドル・ボロディン
アレクサンドル・ミルラン
アレクサンドル・ヤコブレフ
アレクサンドル・ルカシェンコ
アレクサンドル・ロトチェンコ
アレクサンドル・ロバノフ
アレクサンドロス3世(大王)
アレクシ・ド・トクヴィル
アレクしウス・マイノング・リッター・フォン・ハントシュースハイム
アレクシオス1世コムネノス(東ローマ皇帝)
アレクシス・スミス
アレクセイ・オクラドニコフ
アレクセイ・シリッチ・ノビコフプリボーイ
アレクセイ・ナワリヌイ
アレクセイ・ニコラエビチ・コスイギン
アレクセイ・フェオフィラクトヴィチ・ピーセムスキー
アレクセイ・フォン・ヤウレンスキー
アレクセイ・ボリソヴィッチ・ロバノフ=ロストフスキー
アレクセイ・ミハイロヴィチ
アレサ・フランクリン
アレック・ギネス
アレック・コックス
アレック・ボールドウィン
アレックス・インケルス
アレッサンドル・エヴァリスト・フラゴナール
アレッサンドロ・アキリーニ
アレッサンドロ・アローリ
アレッサンドロ・ヴァリニャーノ
アレッサンドロ・ヴェルテッロ
アレッサンドロ・チコニーニ
アレッサンドロ・ディ・カリオストロ
アレッサンドロ・デル・ピエロ
アレッサンドロ・バリニャーノ
アレッサンドロ・ボルタ
アレッサンドロ・マンゾーニ
アレハンドロ・ゴンザレス・イニャリトゥ
アレン・ギンスバーグ
アロイス・アルツハイマー
アロイス・リーグル
アーロン・エッカート
アーロン・カーター
アーロン・コープランド
アロンソ・デ・オヘーダ
アン・アーチャー
アン・サリヴァン
アン・シェリンダン
アン・ドヴォラク
アン・トッド
アン・バクスター
アン・ハサウェー
アン・ハーディング
アン・バンクロフト
アン・プライス
アン・ブラドストリート
アン・フランシス
アン・ブーリン
アン・ヘッシュ
アン・マーグレット
アン・ミラー
アン・ライス
アン・ラドクリフ
アン・リー
アンゲラ・ドロテア・メルケル
アンジー・ディッキンソン
アンジェー・ワイダ
アンジェイ・ズラウスキー
アンジェラ・カーター
アンジェラ・バセット
アンジェラ・ヒューイット
アンジェラ・ランズベリー
アンジェリカ・ヒューストン
アンジェリーナ・ジョリー
アンジェロ・ベオルコ
アンジェロ・ポリツィアーノ
アンジャネット・カマー
アンゼルム・キーファー
アンソニー・アシュレー・クーパー・シャフツベリー
アンソニー・イーデン
アンソニー・ヴァン・ダイク
アンソニー・エドワーズ
アンソニー・クイン
アンソニー・ニューリー
アンソニー・パーキンス
アンソニー・バージェス
アンソニー・ハピントン
アンソニー・ホプキンス
アンソニー・マン
アンソニー・ミンゲラ
アンティ・アールネ
アンディー・ガルシア
アンディー・フグ
アンディー・マクダウェル
アンディ・マレー
アンディー・ラウ
アンティオコス2世テオス
アンティミウス(西ローマ皇帝)
アンデルス・セルシウス
アントナン・アルトー
アントニー・アシュリー・クーパー
アントニ・タピエス
アントニ・フォン・ダイク
アントニ・ファン・レーウェンフック
アントニー・ブリンケン
アントニア・ブレンターノ
アントニオ・ヴィセンティーニ
アントニオ・ガウディ
アントニオ・カルロス・ジョビン
アントニオ・グテーレス
アントニオ・サランドラ
アントニオ・サリエリ
アントニオ・ストラディバリウス
アントニオ・デル・ボッライオーロ
アントニオ・バンデラス
アントニオ・ビバルディ
アントニオ・フォンタネージ
アントニオ・ボライウォーロ
アントニオ・マリア・アッバティーニ
アントニオ・メウッチ
アントニオ・ロッセリーノ
アントニオ・ロペス
アントニヌス・ピウス
アントニン・レオポルト・ドヴォルザーク
アントネッラ・ルアルディ
アントネロ・ダ・メッシーナ
アンドラーシュ・シフ
アンドリア・モホロヴチッチ
アンドリュー・カーネギー
アンドリュー・カミン・アーヴィン
アンドリュー・クオモ
アンドリュー・パーソンズ
アンドリュー・セス
アンドリュー・V・マクラグレン
アンドリュー・ロイド・ウェーバー
アンドリュー・ローソン
アンドルー・ガーフィールド
アンドルー・ジャクソン
アンドルー・マーヴェル
アンドルー・マッカーシー
アンドレ・カイヤット
アンドレ・ガルメット
アンドレ・ギャニオン
アンドレ・ジード
アンドレ・ジャック・ガルヌラン
アンドレ・ブルトン
アンドレ・マッソン
アンドレ・マリ・アンペール
アンドレ・ミシュラン
アンドレ・モーロワ
アンドレ・ル・ノートル
アンドレア・オルカーニャ
アンドレア・デル・ヴェロッキオ
アンドレア・デル・サルト
アンドレア・ドッティ
アンドレア・パラーディオ
アンドレア・ピサーノ
アンドレア・フルヴィオ
アンドレア・ボッツオ
アンドレア・マンテーニャ
アンドレア・ミア・ゲズ
アンドレア・リーズ
アンドレアス・ヴェサリウス
アンドレアス・ルドルフ・ボーデンシュタイン・フォン・カールシュタット
アンドレイ・アンドレーエヴィチ・グロムイコ
アンドレイ・サハロフ
アンドレイ・タルコフスキー
アンドレ・マジノ
アンドレ・ル・ノートル
アンドレス・ボニファシオ(フィリピン革命指導者)
アントワーヌ・アンリ・ベクレル
アントワーヌ・ヴァトー
アントワーヌ・ド・サンテグジュペリ
アントワーヌ・フランソワ・プレヴォ
アントワーヌ・ブールデル
アントワーヌ・ラヴォアジエ
アントン・イェルチン
アントン・ヴェーベルン
アントン・カラス
アントン・コーベルガー
アントン・ドボルザーク
アントン・パーヴロヴィチ・チェーホフ
アントン・フランチェスコ・グラッツィーニ
アントン・ブルックナー
アントン・ヘーシンク
アントン・ラファエル・メングス
アンナ・イヴァノヴナ
アンナ・カタリーナ・エンメリヒ
アンナ・カリーナ
アンナ・ガリエナ
アンナ・クラムスキー
アンナ・シュウエル
アンナ・ステン
アンナ・チポフスカヤ
アンナ・ネトレプコ
アンナ・パキン
アンナ・パブロワ
アンナ・マニアーニ
アンナ・メイ・ウォン
アンナトン・アルトー
アンニーバレ・カラッチ
アンヌ・パリロー
アンヌ・ビアゼムスキー
アンヌ・ブロシェ
アンヌ・ルイーズ・ジェルメヌ・ド・スタール
アンネ・フランク
アンネグレート・クランプカレンバウアー
アンネシュ・ベーリング
アンバー・ハード
アンバリアナムボイメリナ
アンブロシウス・ホルバイン
アンブロージオ・ロレンツェッティ
アンブローズ・ビアス
アンブロセ・マンドゥロ・ドラミニ
アンブロワーズ・ヴォラール
アンリ・アルカン
アンリ・エミール・ブノワ・マティス
アンリ・エドモン・クロス
アンリ・シャトリエ
アンリ・ジョルジュ・クルーゾー
アンリ・デュナン
アンリ・ド・サン・シモン
アンリ・ド・トゥールーズ・ロートレック
アンリ・ド・モンテルラン
アンリ・ドカエ
アンリ・ナヴィエ
アンリ・バルビュス
アンリ・バンジャマン・コンスタン・ド・ルベック
アンリ・ピレンヌ
アンリ・ファンタン=ラトゥール
アンリ・フィリップ・ペタン
アンリ・フレデリック・アミエル
アンリ・ベクレル
アンリ・ベルクソン
アンリ・ベルヌイユ
アンリ・ポアンカレ
アンリ・マティス
アンリ・マンギャン
アンリ・ミュルジェール
アンリ・ミルヌ・エドワード
アンリ・モアッサン
アンリ・ルイ・ベルクソン
アンリ・ルシャトリエ
アンリ・ルソー
アンリ・ロート
アンワル・サダト

 

 

 

 

 

 

「よ」 ファースト・ネームから引く人名一覧

Stalinjoseph1930    ヨシフ・ビサリオノビチ・スターリン(1878-1953)はソ連の政治家。19歳で革命運動に入り、投獄・流刑・脱走を繰り返し、露十一月革命にレーニンを助けてボリシェヴィキ内に重きをなした。レーニンの死後、カーメネフ、ジノヴィエフなどを抑えて、ソ連の最高指導者となり、新経済政策を完遂し、数次の五ヵ年計画を推進、第二次世界大戦には社会主義国家の防衛に努め、戦後ソ連を2大強国の1つにした。だが死後に開かれた1956年のソ連共産党大会では専制的傾向はスターリン主義として批判された。▽「ヨアヒム・リッター」1903-1974。ドイツの哲学者。▽「ヨーハン・ジギスムント」1572-1619。ブランデンブルク選帝侯及びプロイセン公。

ヨアヒム・フォン・ザンドラルト
ヨアヒム・フォン・リッベントロップ
ヨアヒム・リッター
ヨアヒム・ワッハ
ヨアン・グリフィズ
ヨウェリ・カグリ・ムセベニ
ヨシップ・ブロズ・チトー
ヨシフ・ビサリオノビチ・スターリン
ヨースタイン・ゴルデル
ヨーゼフ・ゲッペルス
ヨーゼフ・シュンペーター
ヨセフ・スカリゲル
ヨーゼフ・ソンパティ
ヨーゼフ・ローゼンシュトック
ヨーゼフ・ロート
ヨハニス・デ・レーケ
ヨハネ・パウロ1世
ヨハネ・パウロ2世
ヨハネス・アモス・コメニウス
ヨハネス・グーテンベルク
ヨハネス・ケプラー
ヨハネス・フェルメール
ヨハン・アウグスト・ストリンドベリ
ヨハン・ガーナー・アンダーソン
ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲー
ヨハン・ウィルヘルム・クライン
ヨハン・グナール・アンダーソン
ヨハン・クライフ
ヨハン・グンナー・アンダーソン
ヨハン・ゲオルク・ハーマン
ヨハン・ゴットリープ・フィヒテ
ヨーハン・ジギスムント
ヨハン・シュトラウス1世
ヨハン・シュトラウス2世
ヨハン・ゼバスティアン・バッハ
ヨハン・テッツェル
ヨーハン・ハインリヒ・ブリンガー
ヨハン・ハインリッヒ・ペスタロッチ
ヨハン・パッヘルベル
ヨハン・バプティスト・フォン・エスターライヒ(ヨハン大公)
ヨーハン・ファン・オルデンバルネフェルト
ヨハン・フォン・ルクセンブルク
ヨハン・ペーター・エッカーマン
ヨハン・ホイジンガ
ヨハン・ミヒャエル・ザイラー
ヨハン・ヨハンソン
ヨハン・ロイヒリン
ヨーヨー・マ

 

 

プラザ合意(「フ」事項索引)

Dolce_vita_021[  ふ  ]

   「ファベーラ」ブラジルにおいてスラムや貧民街を意味する。▽「フィリッピの戦い」前42年、カエサルを暗殺したブルトゥスがアントニウスに敗れる。▽イタリアの監督フェリーニはデカダンのローマを好んでテーマとし、1960年の「甘い生活」でカンヌ映画祭グランプリを受賞。▽「フィトンチッド」微生物の活動を抑制する作用をもつ、樹木などが発散する化学物質。▽「フェス条約」1912年モロッコがフランスの保護領となる。▽「フェーン現象」山を越えて風が吹くとき、山の風下側では気温が高く、湿度が低くなる現象。▽「フィウメ問題」第一次大戦後のフィウメの領有をめぐるイタリア・ユーゴスラビア間の紛争。▽「ファイアストン」ゴム会社でタイヤ製品。▽「ファン・アイク兄弟」油彩画法を初めて確立。▽「馮友蘭」1895-1990。中国ま哲学者。1934年に著した「中国哲学史」は、中国哲学史の大系化に成功した最初の著作で、内外から高い評価を受けた名著である。▽「プロジェクションマッピング」パソコンで作成したCGとプロジェクターの様な映写機を用い、建物などに映像を映した出すこと。▽「フェイジョン」ご飯と豆を使ったブラジルの家庭料理。▽「フェートン号事件」1808年8月15日イギリスの軍艦フェートン号の長崎侵入事件。日本の警護体制の弱点が露呈した。責任をとって長崎奉行は自決した。▽「フナフティ島」南太平洋のエリス諸島にあるツバルの首都がおかれる小島。フナフティ国際空港がある。▽「BRICS(ブリックス)」経済発展が著しいブラジル(Brazill)、ロシア(Russia)、インド(India)、中国(China)の頭文字を合わせた4カ国の総称だったが、2011首脳年4月中国の北京でおこなほれた4カ国首脳会議に南アフリカ共和国(South Africa)が初参加したことにともない、正式名称がBRICsからBRICSとなった。▽「筆島」伊豆大島にある筆のような形をした高さ30mほどの岩礁。▽「ブディ・ウトモ」1908年ジャワ島において知識人が中心となって結成された民族主義団体。▽「フランドル」中世フランドル伯領であったフランス北部・ベルギーの地域。羊毛・毛織物業の産地で、長く英仏の抗争の対象となる。

Choco ▽海洋の原生生物や動物性プランクトンは、これまでに知られている約1万1千種類を大幅に上回り、約15万種類が存在するとみられることが、フランスやドイツ、日本などの国際チームによる大規模な調査で明らかになった。▽「フェアトレード商品」発展途上国の原料や製品を適正な価格で購入することによって、生産者の持続的な生活向上を支える仕組みをいう。▽「プラシーボ効果」有効成分が含まれていない薬を投与され、機序がないにも関わらず、患者は薬が効くと思い込んでいることにより、病状に改善・回復の兆しが見られること。▽「ブロッケン現象」太陽などの光が雲や霧によって散乱され、人の影の周りに虹色の光の輪が現われる現象。▽「風信帖」京都の教王護国寺が所蔵する空海の三通の自筆の書状。宛所を欠くが、いずれも最澄あてのものと思われる。▽「ブイヤベース」南仏プロヴァンス地方の海鮮料理。▽「普通の女の子に戻りたい」人気グループ・キャンディーズが1977年7月にファンの前で突然引退を宣言したときに言った言葉。▽イタリアの数学者「フィボナッチ(ピサのレオナルド)」が「算術の書」(1202年)で「0(ゼロ)}を西欧に紹介した。▽「扶桑集」平安中期の漢詩集。全16巻だが7巻と9巻のみ現存する。紀斉名(きにただな)撰。▽「粉本主義」粉本と呼ばれる絵画手本や古画から構図や図様を学び描くもので、否定的な評価として「粉本主義」と呼ばれることが多い。御用絵師として画家の技術を一定の水準に保つためのものであったが、しだいに画一的で創造性の乏しい作品しか生み出さないようになる。江戸期狩野派や土佐派について語られることが多い。▽「フラグ」1258年バグダード征服。イル汗国を建国。▽「プラハ窓外投擲事件」1419年、宗教学者フスの処刑に抗議するボヘミア人たちが、チェコ・プラハの市庁舎を襲撃し、市参事会員7名を窓から投げ捨てる。フス戦争の契機に。このチェコにおける民族運動は1436年まで続いた。▽「ブラーフミー文字」前4世紀のマウリア朝から後5世紀グプタ朝に至るまで長く用いられたインドの文字。▽「フリーア美術館」米国ワシントンDCにある美術館。アジアの古美術品を多く所蔵する。▽「不染鉄」郷愁を誘う風景を壮大かつ緻密に描いた幻の日本画家。1891-1976。▽「プルヌス・エドエンシス」ソメイヨシノの学名。▽「フレイル」健康から要介護に移行する中間状態のこと。frail (ふふふふ)

ファイアストン
ファイユーム文化
ファウスト
ファゴット
ファシスト
ファシズム
ファショダ事件
ファッション
ブーア戦争
ファーティマ朝
ファベーラ
ファム・ファタール
ファラオ
ファラスタ党
ファラデーの法則
ファランクス(密集陣形)
ファリサイ派
ファルサロスの戦い
ファルスター島(デンマーク)
ファルセット(裏声)
ファン・アイク兄弟
ファーンクリフ墓地
ファン・デルワールスの状態方程式
ファン・バン・ドン
フィウメ問題
フィーエルヤッペン
フィギュアスケート
フィッツジェラルド
フィッツナウ・リギ鉄道
フィードバック
フィトンチッド
フィニアン主義
武韋の禍
フィボナッチ数列
フイヤン派
フィヨルド
フィラデルフィア
フィラリア症
フィリッピの戦い
フィリップス電気会社
フィリピン
フィールド自然史博物館
フィレンツェ
ブイヤベース
フィンランド
風信帖
風説留
馮友蘭
フェアディール政策
フェアトレード商品
フェイジョン
賦役黄冊
フェス条約(1912年)
フェートン号事件(1803年)
フェナス石
フェニキア
ブエノスアイレス
フェノロサ
フェビアン協会
フェヒナーの法則
プエブロ号拿捕事件(1968年)
フェーリス・シルウェストリス・カトゥス
フェルドゥスィー
プエルトリコ
フェレンティーノ
フェーン現象
フォークランド紛争
フォルミニーの戦い(1450年)
フォンタネージ
フォンニィ・フォンニャットの虐殺(1968年)
プガチョフの乱
武漢ウイルス研究所
溥儀
プクサールの戦い(1764年)
福沢諭吉
福島事件
ブーゲ―異常
富国強兵
富士川の戦い
富士山
伏見城
不受不施派
藤原京
藤原鎌足
藤原秀衡
藤原道長
フスオルダ
フス戦争
扶桑集
二葉亭四迷
双葉山定次
プチャーチン
普通選挙
普通の女の子に戻りたい
伏羲(ふつき)
仏教
プッシュプル回路
ブディ・ウトモ
筆島
風土記
舟橋聖一
フナフティ島(ツバル)
不入の権利
武寧王陵
フフホト(呼和浩特)
プブリカヌス(徴税請負人)
フベルトゥスブルク条約
富本銭
ふみ絵
不輸不入の権
フラグ
プラザ合意
プラシーボ効果
ブラーフミー文字
ブラックホール
プラッシーの戦い(1757年)
プラド美術館
プラトン
ブラナの塔(キルギス)
プラナリア
プラハ窓外投擲事件
フラメンコ
フランク王国
Plankton62プランクトン
プランクの法則
フランケンハウゼンの戦い
フランシスコ教団
フランシスコ・ザビエル
プランタジネット朝
ブランデンブルク選帝侯
フランドル
フリーア美術館
ブリガダ症候群
ブリキの太鼓
ブリザード
ブリスツイードミル
ブリックス
ブリューゲル
プリンキピア(ニュートン)
プリン体
ブルーインパルス
ブルグンド族
ふるさと納税
ブルックリン橋
プルヌス・エドエンシス・ソメイヨシノ
フレイル
プレオブラジェンスカヤ教会
フレジュス鉄道トンネル
プレスター・ジョン
ブレスト・リトフスク条約
プレスリー,エルビス
プレリアール22日法
ブレーンストーミング
プロシア
ブロッケン現象
プロテスタント
プロビデンスの目
プロヒューモ事件
プロブレマティカ(未詳化石)
プロ野球
フローレス原人
プロレス
プロレタリア文学
フロンティア(新開地)
フロンドの乱
文永の役
フンガ火山爆発(2022年1月15日)
文化大革命
文化・文政
文芸復興
豊渓里(プンゲリ)核実験場
フン人
フンボルト海流
粉本主義
文明開化
文禄の役

 

 

カント、カントで半年暮らす

Img_0005

   ドイツの哲学者イマヌエル・カントの1724年の誕生日。ある大学の教授が、ドイツ哲学を専攻する学生が、ここ数年いなくなった、と嘆いていた。哲学科や史学科には学生が集らないという。大学にきちんと文学部があって哲学科や史学科があるところも少なくなっているらしい。その教授の話によれば、「今どきの流行は国際・情報・環境などで、こういったキーワードで看板を付け替えないと予算が回ってこないという事情がある。民俗学はほとんど消滅しており、史学科も東洋史、西洋史という区分けでの研究が難しくなっている。見栄えのよいラベルと評価受けの良い外向けのメニューは並べ立てられているが、内容は反比例して空疎になっている」とのことである。最近の大学は産業界との連携で、人文社会系より自然科学系、基礎研究より応用・実用研究、教養的教育よりは実習的研究、に片寄る傾向がある。そのほうが公的資金を得られやすいからである。高等教育機関が国家戦略の手先と成り下がった。ヘーゲルの言葉には「理性的なものは現実的であり、現実的なものは理性的である」という有名な句があるが、理性的であるためには、まず学問の場の自由な精神文化を回復することが必要であろう。18、19世紀の西洋近代がこれまで築いてきた伝統的な学問を学習、研究する今日的な意義は少しも失われていない。(4月22日)

2023年4月21日 (金)

新郎が花嫁をお姫様抱っこするのはローマ建国の略奪婚が由来

20080219_268229
 ニコラ・プーサン 「サビニの女たちの掠奪」 1638年

 

 新婚夫婦が新居に入るとき、西洋では夫が花嫁を抱きかかえて、いわゆるお姫様抱っこで入るという風習がある。これは古代ローマから伝わる儀式ともいわれる。ローマは建国当初、入植兵は男ばかりで女が不足していた。そこで近くのサビニ族の処女の娘たちを略奪したことに由来する。「掠奪された七人の花嫁」(1954)というシネマスコープの映画がある。7人の山男が村から花嫁を奪ってくるという話。ミュージカルの歌詞にもあるように、ローマ建国時代のサビニの娘を掠奪したという伝説がモチーフになっている。なぜ7人にしたのかは不明だが、「ローマの七つの丘」に由来するのだろう。パラティヌスの丘に住むロムルスは近くのクリナリスの丘のサビニの娘をさらった。初代王ロムルスのあと6代の王が続いた。伝説の王は7人。旧約聖書にあるダニエルの預言では、7本の角がはえた獣が世界を支配するというが、この獣はローマ帝国を象徴しているという。ローマにはなぜか7という数字がまつわる。紀元前753年のこの日、ロムルスが初代ローマ王に即位した。

   イタリアの地名の由来は子牛にちなんでいる。現在もイタリア語vitellaは「雌若牛」の意味。古代、半島南部で多くの牛が放牧されていたことからギリシア人がVitellia(ウテリア)と名付けたという。古ラテン語のvitulus(子牛)に由来する。 (Romulus、4月21日)

 

Romulus_u_remus_m1

悲劇の将軍・山下奉文

Img_2

 

    山下奉文(1885-1946)中将に「マレーの虎」という異名がついたのは、シンガポール攻略の後である。イギリスの東洋における最大の根拠地を短時間で占領したのは、突如としてジャングルから姿をみせた虎としか形容のしようがなかったからであろう。ぎょろりとした眼、日焼けしたたくましい顔、堂々とした体躯、大音声で指揮をとる猛将にふさわしい異名であろう。

    山下奉文司令官とパーシバル総司令官との降伏会見は昭和17年2月25日午後7時、ブキテマ高地のフォード自動車工場で行われた。パーシバルは停戦を申し込み、シンガポールの治安を任せてほしいと主張したのに対し、山下は条件は後回しだ、降伏するのかしないのか、と迫った。日本軍は降伏の意思表示がないかぎり夜襲を決行するつもりだった。いらだった山下は「条件は後回しだ、降伏するのかしないのか、イエスかノーか聞いてくれ」と通訳に命じた。パーシバルはやむなく「イエス」と無条件降伏を受諾した。午後7時50分だった。マレー・シンガポール作戦における日本軍の戦死者は約3500名、連合軍の捕虜は7万とも10万ともいわれる。

    しかし「マレーの虎」と称された山下奉文は東条英機に嫌われその後は満州に左遷された。フィリピン防衛戦で呼び戻され総指揮官となったが、すでに勝機はなく、あまつさえ情報無視のレイテ決戦を上級司令部から強いられた。そのため肝心のルソン島決戦ではほとんど満足な兵力がなく、完敗。敗戦後、マニラの戦犯裁判で、「パターン死の行進」捕虜への残虐行為の責任を問われ、昭和21年2月23日午前3時2分、マニラ郊外のラグーナ・ロス・バニョスで絞首刑になった。遺体がどこに埋められたかはわかっいない。だが山下奉文大将の、恰幅の良さを表わす外套が「陸上自衛隊第一師団広報史料館」(練馬区北町)に展示されている。(参考:「面白いほどよくわかる太平洋戦争」日本文芸社)

賤ヶ岳の戦い

Photo_5

 

    織田信長が京都本能寺で明智光秀に殺害されると、跡目相続をめぐって、光秀を討って声望を得た羽柴秀吉と、織田氏の老臣柴田勝家は、対立、戦闘状態にはいった。天正11年(1583年)、勝家は越前北荘の居城を発し、近江柳ヶ瀬の北方内中尾山に陣を進め、秀吉は近江木之本に陣を張って対峙した。4月16日、秀吉は神戸信孝をせめるため岐阜の支城大垣に向かった。しかし、勝家の部将佐久間盛政が中川清秀(摂津茨木城主)が守る大岩山の砦などを奇襲し、中川は討ち死にし、近江の戦局は急を告げた。そして、盛政は勝家のすぐ退却せよという命令を無視して、敵中の大岩山に居座ってしまった。寡勢の柴田軍が兵力を分散させていては不利である。秀吉はすぐに北近江に引き返し、21日には賤ヶ岳に盛政を破り、続いて勝家を北荘に走らせた。さらにこれを追撃して北荘をおとしいれ、ついに勝家を自刃させた。この賤ヶ岳の戦闘で華々しい活躍をし、羽柴軍を勝利に導いた秀吉輩下の若武者、福島正則、脇坂安治、加藤嘉明、加藤清正、平野長泰、片桐且元、糟屋武則、桜井佐吉、石河一光ら9人を賤ヶ岳七本槍という。七本槍と称しても実数で七人をさしてはいない。江戸の諸書では七名に数をそろえるため、たとえば甫庵「太閤記」では桜井・石河を省いている。4月21日

 

 

徽宗「桃鳩図」日本渡来の謎

Photo_2

  北宋朝の第8代皇帝、徽宗(1082-1135)。神宗の第11子で、兄の哲宗が皇子なく没したため、神宗の皇后・向氏の強力な支持で思いかけず帝位についたが、政治には熱心ではなく、蔡京などの重臣を寵任し、その勧めによって豪奢な生活をして国費を費やした。宮殿や人工庭園を造ったり、道教を尊崇して多くの道観を建てたり、花石鋼と呼ばれる珍木奇石を運河で開封まで送らせたり、また画院を盛大にし院体画の隆盛を招いたり、全国から文化財を集めて保護を加えたりして、文化史上「宣和時代」といわれる盛世を現出した。自らも詩文・書画をよくし、歴代皇帝随一の文化人といわれる。しかし、徽宗の時代は北方の勢力におびやかされ、1125年に金が侵入したため、五国城に逃れたが1135年4月21日、52歳で没した。なぜかウィキペディアやウィクショナリーに徽宗の項目がないが、文化史的に重要人物である。徽宗皇帝の真筆とされる「桃鳩図」(1107年)は日本にある。(国宝)現在の所有者は鎌倉の骨董美術商雅陶堂主人の瀬津巌である。個人所蔵なので一般人が目にすることはない。またこの名画はいつごろ、どういう形で日本へ持ち込まれたのか不明である。3代将軍足利義満(1358-1408)の所蔵を示す「天山」の鑑蔵印があることから、舶載の時期は日明勘合貿易あるいはそれ以前とも考えられる。義満から義政へ、義政から大内義隆へ、義隆から井上馨、現在へのルートは省く。鎌倉時代から唐物趣味は盛んであった。考えられるルートとしては、①靖康の変(1126-1127)の時期②金が押収し、燕京(現在の北京)へ行き、日金貿易で日本へ③日元貿易で日本へ。このルートは輸入品は多い④足利義満の始めた日明勘合貿易(1401年)のルートで輸入された、などが考えられる。

パーニーパットの戦い(1526年)

Babur_1

  16世紀前半、ムガル帝国は、軍事財政制度を柱に統治と支配を広めていった。ムガル帝国は、中央アジアから進出したイスラーム国家であり、少数派として多数派のヒンドゥー勢力を支配しなければならなかった。その際に採用しているのは、官位に応じた軍馬を維持することを定めたマンサブダール制と、担当する統治地域からの税収入を給与として与える給与地制とも呼ばれるジャーギール制という2つの制度を組み合わせた軍事財政制度であった。パーニーパットはデリーの北方約90㎞にある。1526年4月21日、バーブル(ティムールの5代の子孫)がロディー朝のイブラヒムを討って、デリーとアグラを占領し、ムガール帝国の基礎を築いた。約100頭の象軍を主力とするローディー朝の10万の大軍を、1万2000の兵で打ち破ることができたのは、鉄砲という火砲を用いたことと騎兵を利用したためといわれている。( keyword;Battle of Panipat,Babur,Ibrahim )

2023年4月20日 (木)

郵便に歴史あり

Img_575413_53912056_0
 楽浪出土の封泥

 

    4月20日は「郵政記念日」。昭和9年、逓信省によって「逓信記念日」と制定されたことに因む。手紙を運ぶ郵便制度は1635年にイギリスでできたが、通信の歴史は人間の歴史とともにある。最も古い記録では前1500年頃、古代エジプト第12王朝時代にすでに手紙を運ぶ飛脚を職業とする者がいた。しかし郵便が一定の組織をもち定期的な通信を行うように制度化されたのは、古代アケメネス朝ペルシアの駅制である。この駅制はアンガライオンと呼ばれた。前500年代にキュロス王が創設し、ダレイオス王が完成したこの駅制は広大な版図内に首府を中心として一定の距離に宿泊所を設けて、馬と馬丁を置き、騎馬による継走によって手紙を運ぶという通信機関であった。ペルシアに劣らず古い郵便制度をもっているのが中国である。周代の頃からあると推察されるが、漢の時代に整備された。のちに封泥が発見された。信書としてしたためた木簡に発送するとき封緘をした。それは木簡を縄で縛り、そのうえに泥を押しつけ、泥のうえに印を押捺する。封緘に用いられた泥だから封泥とよばれた。従って封泥のウラ側には縄のあとがくぼんで見られる。郵便物は郵亭をリレー式に運ばれた。angaraion

能ある猫は爪を隠す

 本当に能力のある者は、それをひけらかすようなことはしないたとえ。日本では古来から「能ある鷹は爪を隠す」というが、西洋では鷹の代わりに猫が使われている。英語で、Cats hide their claws.

 

中国の地理

Chaina

 中国南部、広東省・広西チワン族自治区で記録的な大雨が続き、今後も豪雨が予想されている。広大な中国は南北での自然のちがいがある。まず地理的概観を調べてみよう。

地理的概観(UNIT1)

中国の位置 アジアの東部、太平洋の西岸に位置する。中国には「北に行くほどトランクが軽くなり、南に行くほどトランクが重くなる」という言葉がある。これは旅行者が北に行くにつれて、トランクから1枚ずつ着るものを取り出して重ね着して行くこと、反対に南に行くにつれて、1枚ずつトランクにしまいこんで行かねばならないことをいったものだ。南北は、緯度およそ北緯4度から54度、東西は経度およそ東経78度から東経135度のあいだにある。

中国の境域 陸上では北朝鮮、ベトナム、ラオス、ミャンマ、インド、ブータン、ネパール、パキスタン、アフガニスタン、ロシア、モンゴル人民共和国と国境を接している。海上では日本、フィリピン、マレーシア、インドネシアおよびブルネイと相対している。

面積と人口 中国は面積959万7000k㎡、人口14億1177万8724人(台湾、香港、マカオを除く)。2021年の国勢調査による。面積はアジア大陸の25%をしめ、ロシア、カナダについで世界第3位。現時点では中国の人口は世界第1位である。つまり世界の人口約77億のうち約5人に1人が中国人である。だが2023年半ばの時点ではインドが世界最多となる予想される。

民族 中国は人口の9割(91.5%)占める漢民族と、蒙古・回・チベット・ウイグル・ミャオ・トチャ・イ・チワン・プイ・朝鮮・満・高山族など55の少数民族からなる多民族国家である。そのうち、北方の森林で狩猟をいとなむツングース系諸民族、ステップで遊牧をいとなむモンゴル系諸民族、オアシス世界に生きるテュルク系諸民族、高原で牧畜・農耕をいとなむチベット諸民族、南西山地で農耕をいとなむミャオ・ヤオ系およびモン・クメール系諸民族、南部で水稲耕作をいとなむタイ系諸民族のグループにわかれる。

行政区 全国には、合わせて23の省、5つの自治区(広西チワン族・内モンゴル・新疆ウィグル・寧夏回族・西蔵)、3つの直轄市(中央政府の直轄する市、北京・上海・天津市)があり、首都は北京。

自然環境 中国の地形は西に高く、東に低いが、複雑であり、気候風土も変化に富んでいる。気候は、秦嶺山脈と淮河を結ぶ年間降水量1000mmの線(チンリン=ホワイ線)を境として、北部が寒冷で乾燥、南部は温暖で湿潤であり、「南船北馬」という言葉に表されている。南は船で、北は馬による交通の違いを指した言葉であるが、その背後には自然のちがいがある。

国土総面積に占める各種地形の比率は、山地が約33%、高原が約26%、盆地が約19%、平原が約12%、丘陵が約10%となっている。慣習的に山区といわれるものには山地、丘陵、そして比較的起伏のある高原が含まれ、それらが全国土の3分の2を占めている。

 

中国の地域区分

 

Img_0026_3

 

   広大な中国の地域を、地形・気候その他の自然的条件により、また人文地理的要素を考えて、華北・華中・華南の3地域に区分することができる。華北と華中の境界は、淮河と秦嶺を結ぶ線にある。華北が黄土地帯を中心とする乾燥農耕地帯であるのに対して、華中は水田耕作に適している。「南船北馬」という言葉は、華北では馬が主要な交通機関であったのに対して、江南では交通や灌漑のための水路が縦横に発達していたことを語っている。

 

option  中国文明は世界最古の文明であるとともに、独自の文化を今日まで持続したという点では世界でも類例がない。このことを地理的観点から考えてみよう。

   アジア大陸の東端に位置している中国は、エジプト、メソポタミアなどの古代文明諸国からもっとも遠くはなれたところで文明を形成した。地理的位置に起因する文化的孤立性は中国の民族文化の形成に深い影響をあたえずにおかなかった。中国をふくめた四つの古代文明は、いわゆるアフロ・ユーラジアン複合体をつくっているが、世界の屋根である高峻なヒマラヤ山脈とタクラマカン砂漠などの天然の障壁とにさえぎられた遠東の中国は、他の三文明からもっともかけはなれた存在であって、相互の交渉はわずかに駱駝の背にのって砂漠をわたる隊商によってもたらされた。西アジアやヨーロッパの政治的支配が中国の領土や勢力圏に直接及んできたことは、17世紀にいたるまではなかった。したがって、中国は巨大な領域をしめながら、地理的にも、政治的にも、孤立した地域を形成し、そのなかで独自の文化を発展させてきたのである。すなわち、古い文化を発生させたエジプトのナイル川やチグリス・ユーフラテス河流域、あるいはギリシアやインダスにおいて、その文化が停滞し、衰亡したのに比べ、中国はむしろその孤立性を生かし、インドや西方の文化的な刺激を生かして、独特の文化を形成したのである。(参考:貝塚茂樹「中国の歴史」岩波新書)

中国地理関係文献

清国地理小誌 高田義甫著 島林専二郎刊行 1880
清国道中里程図誌 川端恒太郎 京都・杉本甚助 1885 地図
禹域通纂 楢原陳政 大蔵省 1888
清国本部與地図  中田貞矩編 中村芳松(大阪) 1894
中国彊域沿革図 附説略 重野安易繹 河田黒合 冨山房 1896
朝鮮支那地名辞彙 根来可敏編纂 共同出版社 1910
支那省別全誌 全18巻 東亜同文会 1917-1920
中国地名大辞典 劉鈞仁著 国立北平研究院 1930
中国古今地名大辞典 商務印書館 1931
満州地名辞典 岡野一朗 日本外事教会 1933
満州地名索引 加藤新吉 満州鉄道総局 1936
現勢上海・南京詳図 六芸社 1937
最新支那及極東地図 アトラス社編 アトラス社 1937
最新支那大地図 大林堂 1937
満州国地名大辞典 山崎惣与 満州国地名大辞典刊行会 1937
古地理学 陳兼善 長沙商務印書館 1940
支那地名辞典 星斌夫著 富山房 1941
新中国地理 森下修一訳編 古今書院 1956
中国地方誌連合目録 1964 東洋学文献センター連絡協議会編 東洋文庫 1965
アジアの農業 アジア経済講座3 石川滋編 東洋経済新報社 1971 
中国総覧 中国総覧編集委員会編 アジア調査会(霞山会) 1971-1986
中国大陸省別地図 越村衛一・矢野光二編 外交時報社 1971
中国地図帳 平凡社編 平凡社 1973
中国地名大辞典 旧・国立北平研究所版 東京美術 1974
中国の地理 浅川謙次監修 人民中国編集部編 築地書館 1975
中国地理の散歩 阿部治平 日中出版 1979
中華人民共和国地質図集 付・別冊 中国地質科学研究院主編 佐藤信次訳 築地書館 1980
現代中国地理 その自然と人間 黄就順著 山下龍三訳 帝国書院 1981
中国大陸五万分の一地図集成 8冊 総合索引 科学書院 1986-2002
中国大陸二万五千分の一地図集成 4冊 索引図 科学書院 1989-1993

 

 

斎藤道三、長良川の戦いで敗死(1556年)

200px4   弘治2年(1556年)のこの日、「美濃の蝮」と呼ばれて怖れられた戦国時代の武将、斎藤道三が、子の義龍(左画像)と居館に近い長良川河畔で戦い、敗死した。63歳だった。一説によると、道三の先妻深芳野が、土岐頼芸の胤を宿したまま道三に嫁して生まれたのが義龍という。これは父殺しの汚名を避けるための風聞とも考えられる。(4月20日)

 

2023年4月19日 (水)

なぜ地図は北が上か?

Orai07b 寛政12年(1800年)4月19日、伊能忠敬(1745-1818)が蝦夷測量に出発した日を記念して本日は「地図の日」。文化13年(1816年)の測量完了までに4万km、つまり地球を一周歩いた距離に等しい。地図の編纂は死後3年目の文政4年(1821年)に高橋景保によって完成し幕府に上呈した。これが日本沿海與地全図(伊能図)である。大図214枚、中図8枚、小図3枚。それまでは日本の正確な実測図はなかった。オルテリウス地図帳のテイセラ日本図(1595年)には蝦夷地の未記入で、本州も不正確である。伊能忠敬の実測図をシーボルトが持ち帰ってから日本の地図が世界図に正確に記るされる。

  ではなぜ地図は北が上なのか?大航海時代、羅針盤もない頃、船乗りは地軸のほぼ真北に位置する北極星を目印にして、地図で航海したからと考えられる。

 

 

 

Photo_5
 
オルテリウス地図帳(1595)

2023年4月18日 (火)

ヴェネツィアの表記について

51nxtidw2l   本日BSプレミアムで「ベニスに死す」を放送している。イタリア北東部、アドリア海北岸の港町ベネチアの日本語表記は数種ある。共同通信社の「記者ハンドブック」によると「外国地名の表記は、原則として現地における呼称により片仮名書きとする。ただし、慣用の固定しているものは、それに従う」とある。例としてベネチアが挙げられている(英語名ベニス)。しかし社会的にはベニスも一般的で映画などでは使用されることが多い。つまりベニス、ベネチア、ベネツィア、このほか「ベ」(Ve)を「ヴェ」と表記して、ヴェネチア、ヴェニス、ヴェネツィアなどがある。近年、広辞苑やウィキペディアでは「ヴェネツィア」と表記している。

山本五十六が撃墜されたときの同乗者の名前は?

Photo_2

 

    昭和18年4月18日午前6時、山本五十六ら11人が乗った一番機と、宇垣纏ら12人が乗った二番機の一式陸攻がラバウルを発進した。護衛につくのはわずか6機の零式艦上戦闘機だった。一番機には、山本五十六、福崎昇、高田六郎、樋端久利雄、小谷立、大崎明春、田中実、畑信雄、上野光雄、小林春政、山田春雄(全員死亡)。 二番機には、宇垣纏、北村元治、林浩、友野林治、今中薫、室井捨治、藤本文勝、谷本博明、伊藤助一、八記勇、野見山金義、栗山信之が搭乗していた。(宇垣、北村、林は生存)。 護衛機6機は、森崎武、辻野上豊光、杉田庄、日高義巳、岡崎靖二、柳谷謙治。

    ブーゲンビル上空でアメリカ軍により撃墜された。(アメリカ側ではヴェンジェンス事件、日本側では海軍甲事件と呼ぶ) 山本らの戦死は1ヶ月間、極秘にされた。5月21日、大本営発表で公表され、6月5日に国葬が行われた。明治27年から昭和20年までに帝国海軍は24人の連合艦隊司令長官が就任したが、在職中に戦死したのは山本五十六、唯一人である。(参考:蜷川親正「山本五十六検死ノート」光文社、高城肇「六機の護衛戦闘機」光人社)

 

 

2023年4月17日 (月)

シェイクスピアと徳川家康

Photo_6   シェイクスピア(1564-1616)の時代の芝居の女役は、まだ声変わりしていない少年が演じていた。従って女性の登場人物の台詞はどれもあまり長くない。女優のオフィーリアが見れるようになるのは1660年から後のことである。

   ところで戯曲「ハムレット」の出版は1603年であるが、上演初演は1600年から1601年にかけての頃であろう。「ハムレット」に似たストーリーの劇は1598年頃からなんらかの形で行なわれていたらしく、それは通常「原ハムレット」と呼ばれていて、1594年に上演されたという記録が残っている。シェイクスピアがそれをもとにして「ハムレット」を書いたことはまちがいない。おそらく1600年のことであろう。そうすると、日本で言えば慶長5年(1600年)、あの関ヶ原の戦の年である。
   シェイクスピアと徳川家康(1542-1616)とは同時代人だ。シェイクスピアは1616年4月23日、52歳で世を去っている。家康は元和2年4月17日(太陽暦5月22日)、73歳で亡くなっている。死因は鯛のてんぷら説もあったが、近年は胃がん、梅毒説が有力である。

2023年4月16日 (日)

チャップリン・デー

Chaplincharles03g   1889年のこの日、喜劇王チャールズ・チャップリンは寄席芸人を両親としてロンドンに生まれた。1914年に渡米し、映画で山高帽、ちょび髭、だぶだぶズボン、どた靴、ステッキの独特の扮装で人気を得、「モダンタイムス」(1936)などの名作を残した。だが1952年には赤狩りの嵐の前にアメリカを追放される。1977年のクリスマスの日にスイスで老衰のため没した。4度結婚し、女優のジェラルディン・チャップリンら11人の子供がいる。(Charlie Chaplin、4月16日)

 

 

 

 

2023年4月15日 (土)

グレタ・ガルボ忌

936fullgretagarbo    1990年のこの日、グレタ・ガルボ(1905年生まれ)が84歳で死去した。きら星のごとく女神がひしめくハリウッドにあって、最高に美しく輝くスターは、おそらくグレタ・ガルボであろう。映画史上もっともフォトジェニックな面立ちといわれるガルボの写真を何枚も見比べてみても、彼女の変幻自在な表情のため同一人物とは思われないほどである。と、言っても彼女につけられた渾名は「スウェーデンの美のスフィンクス」である。エキゾチックでミステリアスではあるが、図体がでかく、無表情で無愛想、どこか得体の知れない女という嘲笑が込められている。「変幻自在な無表情」「無個性で個性的」な顔立ちに神秘性を感じ、美の女神として崇め、ひれ伏したのであろうか。その謎を解くカギは、やはり「笑わない」ということであろう。ほとんどの女優は笑顔をチャーム・ポイントにするであろう。ところがガルボは、眉をひそめて不快そうな顔をしていても美しかった。否、怒ったときの顔が一番美しいという人もいる。1941年、36歳で引退した。ガルボの人気はアメリカよりも海外で高かった。第二次世界大戦によって映画の海外配給が無くなったことも引退を早めた理由の一つである。映画「グレタ・ガルボのすべて」(2006年)には1949年のカメラテストの映像が紹介されている。戦後、映画復帰を目指したこともあったが、結局、映画に出演することは一度もなかった。

 

   グレタ・ガルボとマレーネ・ディートリッヒはよく比較されることが多い。映画デビューはともに1922年だが、ガルボのほうが4歳年下である。(4月15日)

 

 

2023年4月14日 (金)

タイタニック号、謎の沈没事故

Titanipublicdomain

 

   イギリスのホワイト・スター社の豪華客船タイタニック号が、1912年4月11日、ニューヨークまでの処女航海にイギリス・サウサンプトンから出航。4日後の14日、午後11時45分、ニューファンドランド島沖で氷山に衝突し、翌日未明、沈没した。 タイタニック号の沈没は、世界大戦を除けば、20世紀の最大の悲劇の1つである。エドワード・ジョン・スミス船長(1850-1912)は非常信号CQDを、ついでSOSの発信を命ずる。救命ボートは、乗員乗客2208人に対して、半数分しかなかったので、婦人と子供だけにボートに乗ることが許された。やがてSOSを受信したカーパチア号が現場に到着したが、同船が救助したのは695人、結局1513人が死亡した。タイタニック号の事故原因は、氷山との衝突ではなく、石炭庫に積載された石炭火災で出港前から発生していたとする説がある。火災により隔壁の強度が低下し、浸水開始から2時間で沈没した。( keyword;Titanic,Belfast,Southampton,Edward Jhon Smith、4月14日 )

2023年4月13日 (木)

巌流島の決闘

Be0c651cc4b7a87321bb753b831dd333

 

Img
 江戸時代の絵では武蔵のほうが若く描かれている

   宮本武蔵と佐々木小次郎が長門の船島で試合した巌流島の決闘は時代劇などで広く知られ、名高い武術の試合である。ところが手元の日本史年表などで調べると、巌流島の決闘は載っていないことが多い。(「日本史年表・地図」(吉川弘文館)「コンサイス世界年表」(三省堂) )これは 信頼できる史料が乏しいことによるものである。決闘の期日も慶長17年説、慶長19年説など諸説ある。「二天記」には「慶長十七年四月」と記されているので、慶長17年(1612年)4月13日とするのが一般的である。巌流を俗に佐々木小次郎と当てているが、これも後年の芝居で名づけられたもので根拠はない。中条流富田勢源の弟子であったことから武蔵よりだいぶんと高齢であったと考えられる。「沼田家記」によれば、武蔵の一撃で気を失った小次郎は、その後いったん目を覚ましたものの、巌流島に来ていた武蔵の弟子たちに寄ってたかって殺されたと記されている。このほかに、武蔵は決闘の時間に遅れず、小次郎の長い刀より長い刀を用いて勝利した説、弟子が倒した説、などなど諸説紛々たり。そもそも決闘が実際に行われていたかどうかすら疑わしい。漁業権をめぐる漁師たちの争いが武蔵・小次郎の決闘となったのではないかと専門家は語る。とかく伝説というものは、年代を経るにしたがって変貌していく。宮本武蔵は「五輪書」に人生に六十余度の勝負をして一度も負けなかったと記しているが、相手の中で大家といわれるものは吉岡一門だけで剣聖どころか田舎剣客にすぎない。講談や小説で武蔵はいちばんの剣豪にまつりあげられたといえる。

   このほか武蔵の伝記で関ヶ原合戦に初陣として参戦し負け組と伝わるが、福田正秀は武蔵西軍説を否定。東軍黒田如水軍に父無二と共に「九州の関ヶ原」豊後合戦に出陣したことを論証している。

 

 

 

 

2023年4月12日 (水)

パンの歴史

Img_0735_3  「パンさえあれば、たいていの悲しみには堪えられる」セルバンテス

  ロシアとウクライナは小麦の主産地であるが、ウクライナ侵攻で世界の小麦供給に悪影響を及ぼしている。本日は「パンの日」。 日本語パン pan は、ポルトガル語 pao から来ている。1600年ごろ、長崎に来たポルトガル人が、その製法を教えたのである。ところが、日本は米、大麦、アワ、ヒエなどを、粒のままで煮て食べる粒食民族だったため、小麦粉で作るパンは、あまり口にあわなかったとみえ、それほど普及しなかった。1842年4月12日、伊豆韮山代官の江川太郎左衛門が軍用携帯食糧として乾パンを作った。これが日本で初めて焼かれたパンと言われている。明治になっても、どちらかというと菓子パンとして発達したのがパンの歴史である。アンパンを発明したり、ジャムパンやクリームパンなどがさかんに作られ、おやつがわりとして食べられていた。

 

Img_3939    日本の家庭でパンを食べるようになったのは、1900年以降で、文化人が好んで洋食として取り入れたからである。志賀直哉は大正時代末期からすでにパン、バター、牛乳という朝食スタイルだった。一般大衆がパン食になるのは、学校給食が普及した戦後からである。今では、あんパン、ジャムパンといった菓子パンからホットドック、クロワッサンやマカロンといったスイーツの種類も豊富になった。最近は炭火であぶったチョリソーを、半分に切ったフランスパンにソーセージをはさんだアルゼンチンのチョリパンが日本でも食べられる。

 

1egyptbreadmakinggranger     世界でパンを初めて食べだしたのは古代エジプト人である。6000年前ナイル流域に定着しだしたころから、ひたすらパンを主食にしてきた。パンつくりは女の仕事で、そのころ「パンをふくらます技術」は秘中の秘としてエジプト人の間に守られていたが、イオニアを経てギリシアへ、さらにローマへ伝わった。ローマ時代にはパン屋やパンの工場もできていたことが、ポンペイの遺跡発掘で、わかっている。その後、ルネサンスの勃興とともにその技術は向上し各国に広まったが、フランスにおいて特に著しい発達を遂げた。一方、イギリスには古代ローマから伝えられたものが山高の独自の形態を生み出し、現在のアメリカのパンの元祖となり、中央アジアに始まるライ麦パンはロシア・ドイツなどで発展した。(choripan)

2023年4月11日 (火)

修道院モン・サン・ミッシェル

Mont_st_michel12

 

   映画「ラストコンサート」がムービープラスで放送していた。フランスのノルマンディにある世界遺産モン・サン・ミッシェルが2人の出会いの舞台である。天国に向かって舞い上がる尖塔はお伽話の城のような建物で、フランスの観光地としてトップクラスの人気スポットである。しかし50年前までは海外からの観光客はまだ少なかった。モーパッサンは「レースのように繊細にカットされた、みごとなカメオ細工のごとき巨大な宝石」と評した。サン・マロ湾上に浮かぶ小島モン・サン・ミシェルに築かれた修道院。聖堂の高さは約150m。城郭は満潮時には海に浮かび、干潮時には陸地と繋がっている。この島は、もともとモン・トンブ(墓の山)と呼ばれていたが、先住民ケルト族の間に信じられている海の墓場であったことを示す。708年、アヴランシュ司教オベールが礼拝堂を建てたのが始まりである。966年にはノルマンディー公リシャール1世(在位942-996)がベネディクト会の修道院を建て、これが増改築を重ねて13世紀にはほぼ現在のような形になったものである。1000年近くの間、巡礼地となった。しかしフランス革命で修道院制度が廃止されたため、モン・サンミッシェルは監獄として使用されるようになる。モン・サン・ミシェルはいまだかつて一度も攻略されたことのない城砦といわれている。1254年にルイ9世が島全体を城砦化して、百年戦争、カルヴァン派の攻撃にも耐え守り抜いた堅固な城砦である。( keyword;Mont Saint Michel,Mont Tombe,RichardⅠ,duc de Normandie,Benediccti )

地球一周は4万キロ

Eratosthenesmap   本日はメートル法公布記念日。フランス語「メートル」(metro)は古代ギリシア語「メトロール」(ものさし、測ることの意)からの造語である。もともと子午線上の北極から赤道までを1万キロと決めて、1000万分の1の長さが1メートルとなった。1791年にラヴォアジエなど学者らが検討し、1795年フランス科学アカデミーで決められたが、「メートル」はすぐには普及しなかった。1837年にメートル法以外の単位使用を禁じ、1875年メートル条約が締結された。

   むかし古代アレクサンドリアの学者エラトステネスは太陽の角度から地球の大きさを推定した。彼の計算では、

5000スタディオン×(360度÷7度12分)=2500000スタディオン。

   1スタディウスは178mと推定されているので、44500㎞になる。本当の地球の全周は4万キロなので1割程大きいだけである。エラトステネスは実測困難な対象も、幾何学の応用で、地球の近似値を測定したのである。

   ところで地球一周、つまり赤道の全周は約4万キロだが、もっと正確な数値はあるのだろうか。かつての地理の参考書には、赤道の全周40076、5938㎞という数字が載せられていた。これはヘイフォード楕円体で推計した地球恒数のひとつである。アメリカの測地学者ジョン・フィルモア・ヘイフォード(1868-1925)が1909年に提案した準拠楕円体で、1924年にスペイン・マドリードで開かれた国際測地学・地球物理学連合総会によって世界的に認められた。現在は赤道の周囲は40075.017㎞とされている。現在、1メートルの定義は1983年に「光が299792458分の1秒間に進む距離」とされている。( keyword;Eratosthenes,Alexandria,Syena,metre,Lavoisier 、4月11日)

江戸城無血開城

 勝海舟は江戸城無血開城で平和主義者といわれているがはたしてそうであろうか。徳川慶喜によれば、鳥羽伏見で敗戦したとき、この時期海舟は「あくまで戦うつもりなら軍艦を清水港に集めて東下の敵兵を扼し、一方では鹿児島を攻める軍がある」といい、慶喜が耳を貸さなかったことになっている。慶応4年2月9日、有栖川宮熾仁親王を東征大総督とし、西郷隆盛、広沢真臣、林玖十郎を参謀とする東征軍は、沿道諸藩の兵をあわせて総数は約5万の軍勢で、錦旗をひるがえしつつ東海道を江戸に向かい、2月28日、駿府に着陣した。

   その頃、江戸では幕臣の間で議論がたたかわされていた。主戦派は榎本武揚、小栗上野介、大鳥圭介、非戦派は勝海舟、大久保一翁、山岡鉄舟らであった。和宮や輪王寺宮公現法親王(北白川能久親王)など天皇家に関係深い筋からは、慶喜助命や徳川家存続の嘆願がなされたが、効果はなかった。2月17日には、上野東叡山寛永寺にいた輪王寺宮の京都行きが決定した。目的は、天皇に会い、慶喜の恭順の意を伝え、官軍の江戸城攻撃を食い止めることにあった。

 駿府の官軍の軍議は3月6日に開かれ、江戸城攻撃を3月15日とするとともに、徳川処分の方策も決定していた。3月7日、上洛途中で輪王寺宮は、数日滞在して、ようやくにして有栖川宮に面会できた。3月12日にも二度目の会見が行なわれた。有栖川宮はこう言った。「徳川慶喜が上野の閉居しているとしても、それだけでは今までの罪をつぐなうことは出来ない。」結局、輪王寺宮は、自分はひとりでも京都へ行くと言った。すると、有栖川は顔色をかえて「それはならぬ。宮の使命は、ここで終わっているではないか。これ以上何を聖に申し上げることがあるか」と強い口調で制止した。このとき、有栖川宮は33歳、輪王寺宮は22歳だった。

   そのころ、勝は西郷のもとへ山岡鉄舟を派遣した。しかし両者の間には大きな開きがあった。江戸城攻撃の期日を目前となったが、勝・西郷の会見は、3月13日と14日の2回にわたって薩摩藩邸で行なわれた。1回目はたんに挨拶だけにとどまり、2回目にいたって、はじめて徳川氏の降伏条件についての交渉が開始された。日本史の中では西郷・勝の江戸城無血開城が知られているが、駿府城での、有栖川と輪王寺宮の会見はほとんど知られていない。結局、輪王寺宮は上洛計画を諦めて、江戸に戻った。その後、上野に居合わせた輪王寺宮は彰義隊の総大将にさせられて、官軍の攻撃の矢面にさらされる。戦いに利あらず、輪王寺宮はさらに奥州に落ちることになる。4月11日、官軍が江戸城に入城し徳川慶喜は寛永寺から水戸へ退居する。(参考:有馬頼義「江戸開城異聞」『日本人の100年 2』)

ガッツポーズの起源

Photo_10  喜びと悲しみ、愛着と嫌悪、幸福と不幸、成功と失敗など、人は様々な感情の状態をもち、快をもとめて不快をさけようとする。身体に表出される感情の変化は恥ずかしい時に赤面し、恐れた時に蒼白になるなど、自律神経系の働きによる表出にはじまり、意志的な支配する姿勢・ポーズにいたるまで、他から認知されうる種々の変化として捉えられる。

    スポーツでの喜びのポーズといえば、野球でみられるハイ・タッチ、サッカーではトンボ返りをしたり、飛び上がって喜ぶものもいる。なかでもガッツポーズは勝利を意味する最高の決めポーズである。こうした人間のもつ喜怒哀楽の感情を身体動作で全身を使って観衆にアピールすることは多くのスポーツで許されている。ただし日本での柔道、剣道、空手などの武道では禁じられている。相撲も当然のこと禁じられている。かつて朝青龍が勝ち名乗りを受けた後、土俵上で両手を突き上げた。これがガッツポーズであるのか、「ばんざい」なのか意見の分かれるところだが、内館牧子は「絶対にいけない」と批判し、鶴田卓彦は「わたし個人としては違和感がなかった」として意見が分かれた。ガッツポーズが相撲の品格を落すものという強い姿勢を示さないと、他のスポーツのように派手なアクションが次々と出て「スモウレスリング」となるであろう。また野球界でも「ガッツポーズは相手に失礼」という不文律がある。大リーグではホームランを打った後の派手なガッツポーズ等は行ってはいけない行為とされている。高校野球でもガッツポーズなどのパフォーマンスは禁止されている。

Imagecaxc11iy   ところがテニスとか卓球とか小さい球の競技は、一球ごとに必ず拳を握りしめる。福原愛は「サーッ!」と掛け声でガッツポーズを連発。スポーツによって考え方が違うようである。本日は「ガッツポーズの日」。1974年のこの日、ガッツ石松がボクシングWBCライト級タイトルマッチでチャンピオンのロドルフォ・ゴンザレスにKO勝ちした。この時両手を挙げて喜びを表わした姿を新聞記者が「ガッツポーズ」と表現したのが、ガッツポーズが広まるきっかけとなった、と巷間では言われているが、これは正確ではない。「勇気、気力、根性」という意味で外来語「ガッツ」が使われだしたのは1964年の東京オリンピック以降で、1970年ころには和製英語「ガッツポーズ」は既にボウリングなどで一般的に使われていた。1972年11月30日発行のボウリング雑誌「週刊ガッツボウル」が、ストライクを取った時のポーズをガッツポーズと言っている。(4月11日)

 

Gutsposeseen1

 

007


Img07265daazikazj


  日本人にガッツポーズが生まれたのは、昭和30年代の「鉄人28号」「鉄腕アトム」の決めポーズの影響が大きいと思われる。

 

2401 Img_history04_02

 

 

 

 

 

 

2023年4月10日 (月)

ビッグベン(大時鐘)

_g59ncmjwcr160

 

 ロンドンのウェストミンスター寺院の北東に建つ英国国会議事堂の大時計。愛称のビッグベンとは、工事責任者のベンジャミン・ホール郷(1802-1867)の名にちなんで命名されたといわれる。1858年4月10日に完成したが、時計塔は老朽化し、傾きが大きくなってきたことから、2018年から大規模な改修工事が行われ、2021年に完了し、現在は通常に稼働している。

 

 

謎の山本文庫

Yamamoto17    月9ドラマ「ビブリア古書堂の事件帖」古書にまつわる薀蓄が散りばめられながらミステリーを解き明かす栞子。これまで取り扱った作品は、漱石全集・新書版「それから」、小山清の「落穂拾い」、ヴィノグラードフ「倫理学入門」、宮沢賢治「春と修羅」、アンソニー・バージェス「時計じかけのオレンジ」、太宰治「晩年」、足塚不二雄「UTOPIA最後の世界大戦」、ロバート・F・ヤング「たんほぽ娘」集英社コバルトシリーズ、ロシア絵本ウスペンスキー「チェブラーシュカとなかまたち」、江戸川乱歩「少年探偵団」。知らないことのほうが多い。これまで書名は知っているが、内容は知らない、うわべだけの知識を「本屋学問」とか「外題(げだい)学問」といって、見下していた傾向がある。「貸本屋げだいばかりの学者なり」 だが本屋や図書館員には「外題学問」が必要である。昭和11年ごろ山本書店(1956年、山本七平が創業した山本書店とは別)から山本文庫という、瀟洒な市松模様のデザインの薄い文庫本が57点刊行された。全点海外文学で、無名時代の中原中也や堀辰雄、立原道造らが翻訳を担当し顔ぶれがすごい。きれいな装幀と希少性から、古書価が高く、一冊で5000円から1万円はするという。戦後、昭和23年に異装幀で復刊したことがある。書店主の山本武夫は旧制二高で教わった縁で登張竹風(1873-1955)の随筆や翻訳を出し、武者小路実篤の新しき村の会員でもあった。だが山本武夫の生没年など詳細はわからない。(参考:高橋英夫「薄命もまた本のさだめ」図書662号 2004..07)

 

愛の封印 グラツィア・デレッダ 岩崎純孝訳
新しいイヴと古いアダム D.H.ロレンス 原百代訳

アムステルダムの水夫 アポリネール 堀辰雄訳
アリサの日記 アンドレ・ジイド 山内義雄訳
雄鶏とアルルカン コクトオ 佐藤朔訳
吸血鬼 バイロン 佐藤春夫訳
狂癲説 エドガア・A・ポオ 内藤吐夫訳
ゲーテの言葉 ゲーテ 石中象治訳
小鳥の英文詩 ジエフリズ 戸川秋骨訳
小散文詩 ボオドレエル 三好達治訳
真珠嬢 モオパッサン 岸田国士訳
従軍日記 カロッサ 片山敏彦・竹山道雄訳
青年文学者への忠言・玩具の談議 ボオドレエル 中島健蔵・佐藤正彰訳
地の糧抄 アンドレ・ジイド 辻野久憲訳
ドニイズ・花売娘 レエモン・ラディゲ 堀口大学訳
二十六人と一人 ゴリキイ 湯浅芳子訳

 

 

 

 

2023年4月 9日 (日)

繃帯を巻いたアポリネール

 大江健三郎の「個人的な体験」を読んでいると、「おれの息子は戦場で負傷したアポリネールのように頭に繃帯をまいていると鳥(バード)は考えた。おれの見知らぬ暗くて孤独な戦場でおれの息子は頭に負傷したのだ。そしてアポリネールのように繃帯をまいて声のない叫び声をあげている・・・唐突に鳥は涙を流しはじめた。アポリネールのように頭に繃帯をまいて、というイメージが鳥の感情を一挙に単純化し方向づけていた。鳥はセンチメンタルでぐにゃぐにゃの自分が許容されて正当化されるのを感じ、自分の涙に甘い味すら見出した。おれの息子はアポリネールのように頭に繃帯をまいてやってきた。おれの見知らぬ暗くて孤独な戦場で負傷して、おれの息子を戦死者のように理解してやらねばならない。鳥は涙を流しつづけた。」

 アポリネールとはフランスの詩人である。わずか数行の文章に4回もアポリネールの名前がでてくる。1916年に第一次世界大戦に兵役志願したアポリネールは最前線で流れ弾を受け、負傷して東部を繃帯に巻いた写真がよくみることがある。フランス文学専攻の大江にとってはかなり印象的な写真なのであろうか。

 

奈良の大仏さんの身長は?

Photo188077    本日は「大仏の日」。天平20年(747年)9月29日、東大寺大仏造立を開始し、5年後の天平勝宝4年(752年)4月9日、完成し、大仏開眼供養会が行われた。その後、大仏は頭部が欠落するなどの事故をたびたび引き起こし、そのつど修理を加えて維持してきたが、1180年、平重衡の南都焼き討ちに災をこうむり、焼失した。第1回の復興は、源頼朝の援助を受けて俊乗房重源が着手し、1185年には大仏を供養しており、東大寺全体の総供養は1203年盛大に執行された。ところが、1567年三好・松永の兵火がふたたび大仏を焼くにいたった。今回は戦国の世で復興事業はおもうように進まず、江戸期になって公慶上人がよく幕府を動かし、1692年大仏はここに3度雄姿を現した。これが、今日われわれが東大寺に拝む盧舎那仏大像である。奈良の大仏さんを見学する子どもたちの質問で、よくあるのが「大仏の毛髪、これを螺髪(らほつ)という、その数は?」 古くから966個と伝えられてきたが、レーザー光を使った最新技術によって492個だったことがわかった。大仏の身長は、座っているので座高は15m。蓮の台を含めると(つまり下から見上げたときの高さ)は、18mになる。

 

 

イースターが日本人に受け入れられないのは時期がお花見と重なるから?

Photo_2     「代助は面白そうに、二三日前自分の観に行った、ニコライの復活祭の話をした」(「それから」)と夏目漱石は書いている。明治42年の小説で、当時の日本人のなかでどれほどの人が「復活祭」を知るっていたであろうか。それから100年以上が経過したが、日本人に「今年の復活祭はいつか?」と尋ねても知らない人が多い。クリスマスやバレンタインデー、ハローウィンなどと比べても、日本人に認知度が低く、デパートやマスコミでもイースターを周知することはしない。ところがこのイースターはクリスマスと同じくらい、あるいはその以上に重要な典礼である。イースターは「復活祭」とも言い、主イエス・キリストの復活を祝う祭りである。単なる生誕よりも、1回人類の罪を背負って亡くなった後、復活されたことにこそ、キリストの生きた意味があると信じられているからである。イースターの日は、クリスマスと違い移動する祭日(movable feast)である。毎年春分の日の後の最初の満月の後の日曜日と決まっていて、本年は4月9日である。この時期が日本社会の会計年度の切り替わりに当たることや、進学・就職・人事異動など変わり目、そしてなんといってもお花見シーズンであるのが理由なのか。そして「キリストの復活」というコンセプトそのものが、一般の日本人にとって理解できないのであろうか。

学生作家・大江健三郎、異才登場

Img_0006

 

    このブログで「小説家とは何か」というたいへん難しい、しかし興味ある論議がされていますが、大江健三郎という著名な一人の作家に関して考えてみます。画像はおそらく芥川賞を受賞した頃(23歳)の写真です。狭いアパートには机の上には広辞苑とわずかな書籍、簡易なベットがあります。そして痩せて蒼白く神経質そうな貧乏学生の大江がいます。当時、大江が読んでいた本は、パスカルとカミュに熱中し、やがてサルトルに関心を持ちはじめた。安部公房、ノーマン・メイラー、フォークナー、ソール・ベローなどを読む。卒論では「サルトルの小説におけるイメージ」を論じている。これらサルトルの思想が受賞作「死者の奢り」に大きく反映されている。

   日本文学は現在、村上春樹などの作家の作品が海外で翻訳されて書店に並んでいるが、この当時は、日本の作家の小説が海外で紹介されることはほとんどなかった。まもなく川端康成や三島由紀夫が海外で知られるようになるが。だが評論家たちの高い評価をえるのは、戦後作家といわれる大岡昇平、埴谷雄高、野間宏などであり、彼らはそれぞれスタンダール、ドストエフスキイ、サルトルなど海外の作家に大きな影響を受けていた。後輩作家の大江健三郎もサルトル(もしくは実存主義)という世界文学の潮流の中で「存在とは?」というテーマを捉え、自己の文学的出発点としたことが、学生作家として幸運なデビューを飾った一因であろう。昭和30年代ころから、日本の文学も文章の美しさや漢語を駆使した修辞よりも、作家の主体性やイメージ、より深い内面性、現代性が求められるようになったといえる。大江が人生の大きな転機となったのが、1963年(当時28歳)第一子、光くんの誕生であった。翌年、知的障碍者を持つことになった父親の苦悩と葛藤を描いた「個人的な体験」を発表した。絶望から希望を見出すラストに評論家たちから批判はあったが、わが子の命を守り健全に育てていくという決心に感動を与えられた読者も多い。

世界発明・発見の年表

Ff2a5484    快適な生活を享受している現代人も、元々は先人が発明したものばかりで暮らしている。現代はテクノロジーと交通機関の発明・発達の時代である。最先端は宇宙開発であろう。人類が地球上に誕生して間もない時期から道具は作られた。人類最初の道具は「棒切れ」と言われる。 ただし棒は腐って遺物としては残ることはない。石面を打ち欠いて製作した石器が残っている。アフリカ・ケニア北部の約330万年前の地層から、猿人が使っていたと思われるハンマーのような道具が人類史上最古と見られる。

 ガリレオはピサの斜塔を利用して落下体の加速度の実験をした話は有名である。しかしこれは、ガリレオの弟子のヴィンチェンツォ・ヴィヴィアーニのつくり話で、本当に実験した人はオランダのシモン・ステビン(1548-1620)です。

紀元前5000頃 メソポタミア南部シュメールで主要な農耕技術が発達し、定住が進んで都市が生まれる
前3700頃 エジプト、メソポタミアにて銅器使用
前3200頃 シュメールにて文字が生まれる
前3000頃 エジプトにて運搬用に動物力の利用始まる
前2800頃 エジプト、中国にて青銅器の使用
前2500頃 エジプトにてパピルス使用、メソポタミアにてガラス製品つくられる
前2100~1950頃 ヒッタイト(トルコ)で鉄器の使用(カマン・カレホユック遺蹟)
前600頃 ペルシアにて風車が利用される
前600頃 インドの外科医ススルタ、造鼻術をおこなう
前300頃 ローマにてコンクリートとセメントの技術が生まれる
前250頃 クテスィビオス、アレキサンドリアにて水時計を作製
前240頃 アルキメデスが円周率の近似値を計算する
前102頃 ヘロン、気力球を発明

 

後105頃 蔡倫、製紙術を発明
132年 張衡、地震計を発明
230年 中国魏の華佗、麻酔術をおこなう
673年 アラビア人とのコンスタンティノープル攻防戦にて、ビザンツ人が「ギリシア火」を発明  砂時計は8世紀頃、フランスのリウトプランドが発明した。

 

1015年、イブン・アル・ハイサム、最初のカメラ・オブスクラを作る。

 

1202年、イタリアの数学者フィボナッチが「算術の書」で「0」を紹介。

 

1206年、アラブ人の博学者アル・ジャザリー、クランクシャフトとカムシャフト、吸い上げポンプを考案

 

14世紀
1302年、イタリアのジャオ、航海用コンパスを製作
1377年 フランスの南部の都市モンペリエ医学校で人体解剖合法化

 

15世紀
1445年 ドイツのグーテンベルクが活版印刷技術を発明
1498年 イタリアのフィレンツェのサンタ・マリア・ノヴェッラ薬局製法はじまる(世界最初の薬局店)

 

16世紀
1500年カブラル、ブラジルを発見。1520年、マゼランが南米大陸とフェゴ島の間にある海峡を発見。後にマゼラン海峡と命名。1531年コペルニクス、地動説を発表。鉛筆は1565年、コンラート・ゲスナーが自家製鉛筆を使用していた。1572年ヘルモント、二酸化炭素を発見。1582年ローマ教皇グレゴリウス13世、暦法改正。1585年ステビン、落体の法則を発見。1590年オランダの眼鏡職人ハンス・ヤンセン、サハリアス・ヤンセン父子が顕微鏡の原型を発明。1599年オランダのシモン・ステファンが風力で走る帆走車を発明。

 

17世紀
1605年、ストラスブールでヨハン・カロルスは新聞を創刊した。1608年、オランダの眼鏡技師ハンス・リッペルスハイが望遠鏡を発明。1610年ガリレオは木星を回る4つの衛星を観察。1612年、イタリアの医師サントリーオ・サントリーオが体温計を考案した。1614年スコットランドの数学者ジョン・ネイピアが対数を発見。1623年イタリアのガスパロ・アセリ、乳摩管を発見。1628年ハーべイ、血液循環の原理を発見。1643年トリチェリー、真空を発見。1650年ヴァレニウス、初めて黒潮について記す。1655年ホイへンスが土星の衛星タイタンを発見。1656年クリスチャン・ホイヘンスが振り子時計を発明。1662年イギリスのロバート・ボイルが「ボイルの法則」を発表。1665年ロバート・フックがコルクの細胞を観察。1667年フランスの医師ドニ―が世界初の輸血を行う。1669年ニュートン、微積分法の発明。1673年レーウェンフック、赤血球を発見。1675年、カッシーニが土星の輪に隙間があることを発見。1676年、イギリスの物理学者ロバート・フックがフックの法則を発見。1678年ホイヘンス、光の波動説。1687年ニュートンが万有引力を発見。

 

18世紀
1705年ハレーがハレー彗星の周期を発見。ピアノはイタリア人のバルトロメオ・クリストフォリ・ディ・フランチェスコが1709年に発明。1735年リンネが動植物の分類法を発表。1738年スイスの数学者ダニエル・ベルヌーイは流体内のエネルギーの和が流線上で常に一定であるというベルヌーイの定理を発表した。1750年フランクリン、避雷針の発明。1752年レオミュールが鳥の胃液の消化作用を発見。1757年キャンブベルが六分儀を発明。1766年、イギリスのキャベンディッシュが水素を発見。1771年スウェーデンのシェーレが酸素ガスを発見。1776年、アメリカのディヴィッド・ブッシュネルが最初の潜水艦を考案し、タートル号を建造。アメリカ独立戦争でイギリス軍艦イーグル号を攻撃したが、成功しなかった。1779年クロンプトンが紡織機「ミュール機」を発明。1780年ラボアジエが呼吸体内での燃焼と定義。1783年フランスのジャン・フランソワ・ピラートル・ド・ロジェとアルランド公爵は、気球に乗り、史上初の空中飛行を行う。1785年エドモンド・カートライトが力織機を発明。1795年フランスで新しい長さの単位「メートル」を決定。1796年エドワード・ジェンナー、牛痘による天然痘予防法に成功。

 

19世紀
1803年イギリスのジョン・ドルトンが気体は水素・酸素・窒素・炭素・硫黄・リンという6種類の元素の組み合わせでできていると発見。1804年ソシウルが光合成の原料を発見。1803年イギリスのトレヴィシックが蒸気車を発明。1804年、トレビシックがウェールズのベニランダで史上初の軌道向け蒸気機関車の走行実験に成功。1808年イギリスのデービーがアーク灯を発明。1810年ドイツの靴職人バルタザール・クレムスがミシンを発明。1810年イギリスのピーター・デュランドが缶詰を発明。1811年ドイツの時計職人フリードリヒ・ケーニッヒが高速印刷機を発明。1812年、ドイツのフリードリッヒ・モースが「モースの硬度計」を考案。1814年イギリスのスティーヴンソンが蒸気機関車を製作。1817年、ドイツのカール・フォン・ドライスによって木製の人力二輪車ドライジーネ(自転車の原型)が製作された。1820年、デンマークの物理学者エルステッドが電流の磁気作用を発見。1821年イギリスのヘンリー・ベルが蒸気船「アーロン・マンビー号」を作製。1821年ドイツのブッシュマンがAURA(オーラ)というハーモニカの原型を試作した。1825年スティーブンソン、機関車ロケット号がストックトンとダーリントン間の45キロを走破。1829年、リバプールとマンチェスター間を走破。1829年フランスの縫製職人バルテミー・ティモニエがミシンを発明。1831年ブラウンが細胞の核を発見。1835年、チャールズ・ダーウィンがガラパゴス諸島に到達。1835年、電灯の実験が、ジェームズ・ボウマン・リンゼイにより成功。1837年アメリカのモールスがモールス信号を考案。1838年、シュライデンとシュワンが細胞説を唱える。1839年アメリカのチャールズ・グッドイヤーがエボナイトを発明。1842年アメリカの医師クロウフォード・ロングが初めてジエチルエーテルによる麻酔を用いて手術を行う。1842年、オーストリアのドップラーがドップラー効果を発見。1842年、ドイツのマイヤーがエネルギー保存の法則を提唱する。1843年フランスのルシアン・バイディがアネロイド気圧計を発明。1843年イギリスのパディントン~スラウで世界初の電報業務を開始。1843年イギリスのエイダ・ラブレスは世界初のプログラムを発見。1846年ヨハン・ガレ、エルヴァン・ルヴェリエらが海王星を発見。1848年ジェームズ・マーシャルがカリフォルニア州サクラメント付近で砂金を発見。1847年イギリスの工学者ジョージ・ケイリーが三葉のグライダーを製作し滑空に成功。1851年ロンドンで第1回の万国博覧会が開かれる。1853年ロンドンで地下鉄が開業。1854年イタリアのアントニオ・メウッチが最初の電話を発明。1855年ヘンリー・ベッセマー、鋼鉄の大量生産始まる(特許)。1857年パスツールがアルコール発酵の研究。1858年ハイマン・リップマンが消しゴムつき鉛筆の特許を取得。▽1860年トーマス・アダムスがチューインガムを発明。1860年フランスの博物学者アンリ・ムオがアンコールワットを発見。1862年ルイ・パスツールとクロード・ベルナールが低温殺菌法を開発。1865年メンデルが遺伝の法則を発見。1866年イギリスの技術者ロバート・ホワイトヘッドが魚雷を発明。1867年ノーベル、ダイナマイトを発明。1868年アイヴス・マガフィーが真空掃除機を発明。1868年クリストファー・レイサム・ショールズは実用的なタイプライターを考案。1869年ロシアのメンデレーエフが元素の周期律表を発表。1869年、アメリカのジョージ・ウェスティングハウスが圧縮空気を用いた鉄道のブレーキシステムを発明。1870年ジョン・ウェズリー・ハイアットがセルロイドを発明。1873年フィロ・レミントンがタイプライターの生産を開始。1876年、イギリスの外科医ジョゼフ・リスターが消毒法を開発。1876年ジェン・ジェームズ・立夏ード・マクラウドはインスリンを発見。1877年エジソンが蓄音器を発明。1869年スイスのフリードリッヒ・ミーシャ―が膿のリンパ球から核酸を発見。1878年ジョゼフ・スワンはエジソンより1年早く、白熱電球を発明。1878年イギリスのデイビッド・エドワード・ヒューズがカーボン・マイクロフォンを発明。1881年アメリカのアルモン・グランガーが消火器を発明した。1885年カール・ベンツ、ガソリンエンジンで走る三輪自動車を作製。1885年、フランスのレオン・セルボレが自動車を開発。1886年ジョン・ペンバートンはコカ・コーラを発明。電池はアレッサンドロ・ボルタがボルタの電堆を発明。1887年、エジソンが長時間使用できる白熱電球を完成。1887年、カール・ガスナーが乾電池を発明。1887年、ドイツのエミール・ベルリナーがレコードを発明。1888年、イギリスのジョン・ダンロップがタイヤを発明。1890年、北里柴三郎とエミール・ベーリングが破傷風とジフテリアの血清療法を発見。1890年、アメリカで電気椅子による死刑が初めて執行された。1894年、北里柴三郎がペスト菌を発見。1894年、ミシシッピ州ウィックスバーグで瓶詰コカ・コーラが初めて販売される。1895年、ドイツの物理学者レントゲンがX線を発見。1895年、パリでシネマトグラフが初公開される。1896年、フランスのド・ボールが成層圏を発見。1896年、オランダの物理学者ピーター・ゼーマンが強い磁場中に置かれた光源からのスペクトル線が数本に分かれること(ゼーマン効果)発見した。1897年、ドイツのフェリックス・ホフマンがアスピリンを発明。1897年、志賀潔が赤痢菌を発見。1898年、キュリー夫人がラジウムを発見。イタリアの病理学者かミッロ・ゴルジが細胞内のゴルジ体を発見。1899年、コンラッド・ヒューバードが懐中電灯を商品化する。1899年、アメリカのホランドが潜水艦を考案。

20世紀
 1900年、オーストリアの病理学者カール・ラントシュタイナーがABO式血液型を発見。1901年、ジレットが安全剃刀を発明。1902年、マリー・キュリー夫妻、ラジウム抽出。ウィリス・キャリアはエアコンの理論を樹立。1902年アメリカの技術者ウィリス・キャリアが近代的空機調和設備(エアコン)を発明。1903年、ライト兄弟が人類初の有人動力飛行に成功。1903年、オランダの医師ウィレム・アイントホーフェンが世界初の心電図を発明。1903年、フランスの医学者ジョゼフ・ババンスキーはバビンスキー反射を発見。1904年、アメリカのルーベルが紙へのオフセット印刷機を発明。1905年、アインシュタインが特殊相対性理論の最初の論文を発表。1905年、フリッツ・シャウディンとエーリヒ・ホフマンが梅毒スピロヘータを発見。1906年、フェッセンデンがマサチューセッツで世界初のラジオ放送を実施。1907年、フランスの化学者ジョルジュ・ユルバンが新元素ルテチウムを発見。1909年レオ・ベークランドが合成樹脂ベークライトの工業化に成功。1909年フランスのルイ・ブレリオは、飛行機による初のイギリス海峡横断に成功する。1911年、ビンガムはマチュピチュを発見。1912年スウェーデンのダレーンが自動制御装置の灯台を発明した。1913年、アメリカの化学者ラングミュアが白熱電球を発明。1915年、早川徳次がシャープペンシルを発明。1920年DNA、RNAを発見。1920年アメリカ・ピッツバーグで世界初のラジオ放送局KDKAが開局。1921年カナダの整形外科医フレデリック・バンティングと医学生チャールズ・ベストが研究室でインスリンの抽出に成功した。1922年イギリスのBBCがラジオ放送を開始。1923年、スペインのファン・デ・ラ・シエルバがオートジャイロを発明。1924年、レイモンド・ダートが南アフリカでアウストラロピテクスの化石を発見。1924年、米キンバリー・クラーク社からクリネックス・ティシュー発売される。1924年、アルベール・カルメットが結核予防にBCG接種を提唱。1925年、イギリスのジョン・ロージー・ベアードがテレビ実験に成功。1926年、アメリカのロバート・ハッチンス・ゴダードが世界初の液体燃料ロケットの打ち上げに成功。1926年、石井茂吉は写真植字機を発明。1927年、ワーナーブラザースによる世界初のトーキー映画「ジャズ・シンガー」がニューヨークで封切り。1928年、イギリスのフレミングがアオカビからペニシリンを発見。1930年、アメリカで世界初の冷凍食品が発売される。931年、アメリカの化学者ハロルド・ユーリーが重水素を発見。1932年、イギリスの物理学者ジェームズ・チャドウィックが中性子を発見。1932年、T型フォードの発売。1933年アメリカの電気工学研究者エドウィン・アームストロングがFM放送を発明。1935年ウォーレス・カロザース、ナイロンを発明。1938年、オットー・ハーンが原子核分裂を発見。1938年、蛍光灯、アメリカで実用化。1938年アフリカのイースト・ロンドンでシーラカンスが発見される。1940年アメリカのジョージ・スティビッツが世界初のコンピュータの遠隔操作を行う。1942年アメリカのフェルミらがシカゴ大学で原子炉の核実験に成功。1943年ハンガリーでボールペンを開発。1943年、アメリカの児童精神科医レオ・カナーが自閉症を報告。1944年セルマン・ワックスマンがストレプトマイシンを発見。1946年、アメリカで世界初のコンピュータである電子計算機ENIAC(エニアック)が発明される。1948年、アメリカでインスタントカメラ「ポラロイド・ランド・カメラ」を発売。1948年、米ベル研究所のウィリアム・ショックレー、ジョン・バーディーン、ウォルター・ブラッテンがトランジスターを発明。1949年バーナード・シルバーとノーマン・ジョセフ・ウッドランドがバーコードを発明。1949年アメリカのビクターが45回転レコード(ドーナツ盤)を開発。1950年アメリカでカラーテレビの放送開始。1952年、アメリカのダウケミカル社がサランラップを販売。1953年、ジェームズ・ワトソンとフランシス・クリックがDNAの二重らせん構造を発見。1953年、ユージン・アセリンスキーとナサニエル・クレイトマンがレム睡眠を発見。1957年、樫尾製作所が電卓の元祖ともいわれる計算機を開発した(価格48万5000円)。1958年、日清食品安藤百福が即席ラーメンを発明・販売。1957年、ソ連が初の人工衛星スプートニク1号に成功。1959年、リーキー夫妻がタンザニアのオルドヴァイ渓谷でジンジャントロプス・ボイセイ(アウストラロピテクス・ロブストゥス)を発見。1961年、ガガーリンが初の有人飛行に成功。1962年、マーシャル・ニーレンバーグ、ハー・ゴビンド・コラナ、ロバート・ホーリ―が遺伝子情報の解読。1963年カセットテープ、オランダ人のルー・オッテンスが開発。1964年、ピーター・ヒッグス、フランソワ・アングレールがヒッグス粒子を発見。1967年、ダグラス・エンゲルバートがパーソナル・コンピュータのマウスを開発。1968年、大塚食品がレトルトカレー「ボンカレー」を発売。1968年、ダグラス・エンゲルバートがコンピュータのマウスを発明する。1969年、カリフォルニアとスターンフォード大学でインターネットの元型であるアーパネットが開発される。1971年、レイ・トムリンソンが電子メールを発明。1977年、初の実用的なパーソナルコンピュータ「AppleⅡ」が発売。1978年、日本語ワープロ東芝JW-10(価格630万円)を発売。1979年、NECが8ビットパソコンPCー8001を発表。パソコン時代の到来。1981年スペースシャルト・コロンビア号が時速2675kmを記録。1990年、初のWorld Wide Webのシステムが稼働。

21世紀
2001年、世界中で無料オンライン百科事典「ウィキペディア」が公開される。
2005年、動画投稿サイトはじまる。
2006年、ツィッターの一番最初の「つぶやき」。
2012年 アンドレア・ゲズらが銀河系中心部に超大質量コンパクト天体(ブラックホール)に関する発見。

参考資料
世界の発明発見歴史百科 テリー・プレヴァートン著 原書房 2015年

 

 

2023年4月 8日 (土)

「し」 ファースト・ネームから引く人名一覧(男性)

Tumblr_mdhuwzuxmd1qzz8m7o1_500   第35代アメリカ大統領、ジョン・フィッツジェラルド・ジャック・ケネディは1963年パレードの最中に暗殺されるという衝撃的な最期だった。彼は理想主義を追い求めたため多くの敵をつくり、いまも暗殺に関して多くの謎が残されている。▽英語圏の人名の頭文字は「J」がいちばん多い。クリスチャンクリスチャン洗礼名ヨハネ(John)は英語圏ではジョン、仏語圏ではジャン(Jean)となり、最も一般的な男性名である。▽「ジェームズ・ヒルトン」1900-1954。イギリスの作家。代表作「失われた地平線」「チップス先生さようなら」「心の旅路」。▽神聖ローマ皇帝ジギスムントはオスマン帝国征討を企てたが、ニコポリスの戦いでバヤジット1世に敗北。▽「ジェームズ・マーシャル」1848年、カリフォルニア州サクラメント付近で砂金を発見。▽「シャーウッド・アンダーソン」1876-1941。アメリカの作家。代表作「ワインズバーグ・オハイオ」「貧乏白人」。▽「ジャック・ヒギンス」1929-2022。イギリスの作家、代表作「鷲は舞い降りた」。▽「ジャマールッディーン・アフガーニー」1839-1897。インドの英領化などから危機感を抱き、欧米の侵略に対抗するため汎イスラム主義(イスラム教徒連帯運動)を唱えた。イラン人だがアラブ世界に広く活動し、大きな影響を与えた。▽「ジュリアン・グリーン」1900-1998。フランス・アメリカの小説家。代表作「幻を追う人」「真夜中」。▽「ジュリアン・バーンズ」現代イギリスのポストモダン作家。代表作「フローベールの鸚鵡」。▽「ジュリオ・カッチーニ」1545ー1633。イタリアの作曲家。▽「ジュール・ヴァンサン・オリオール」1884-1966。フランスの第4共和政の大統領。▽「ジョージ・スミス」1840-1876。イギリスの考古学者。1872年、ニネヴェから出土した粘土板から聖書に記された洪水の記述を発見した。▽「ジョージ・メレディス」1828-1909。イギリスの小説家。代表作「エゴイスト」。漱石「虞美人草」に彼の思想の影響が見える。▽「ジョゼフ・アディソン」1672-1719。イギリスの随筆家・評論家。代表作「ウェストミンスター寺院での思想」。▽「ジョセフ・パクストン」イギリスの建築家。ロンドン万国博覧会で水晶宮を建設。▽「ジョモ・ケニヤッタ」1893-1998。ケニアの初代首相および初代大統領。▽「ジョン・アイアランド」20世紀イギリスの作曲家。▽「ジョン・アーマー・ビンガム」1815-1900。駐日アメリカ合衆国大使。▽「ジョン・チャドウィック」1920-98。イギリスの言語学者。マイケル・ヴェントリスとともに線文字Bを解読した。▽「ジョン・パーシング」アメリカの陸軍軍人。第一次世界大戦中にヨーロッパ派遣軍総司令官として活躍。▽「ジョン・ファウルズ」20世紀イギリスの小説家。代表作「コレクター」「フランス軍中尉の女」。▽「ジョン・ウォリス」17世紀イギリスの数学者。▽「ジョン・オーブリー」17世紀イギリスの古物研究家。「名士小伝」「短い人生」などの著作がある。▽「ジョン・フィリップ・ホランド」1840-1914。潜水艦技術者。

ジアウル・ラーマン
シヴァージー・ボンスレー
シェイマス・ヒーニー
ジェシー・オーウェンズ
ジェシー・ジェイムズ
ジェシー・ノーマン
ジェフ・ベック
ジェファーソン・ディヴィス
ジェフリー・ウィルキンソン
ジェフリー・ダーマー
ジェフリー・チョーサー
ジェフリー・ハンター
ジェームズ1世
ジェームズ・アイアデル
ジェームズ・アベグレン
ジェームス・アール・ジミー・カーター・ジュニア
ジェームズ・アンソール
ジェームズ・オーティス
ジェームス・カーチス・ヘボン
ジェームズ・ガーフィールド
ジェームズ・キャラハン
ジェームズ・クラーク・ロス
ジェームズ・グレアム・バラード
ジェームズ・コバーン
ジェームズ・チャドウィック
ジェームズ・ディーン
ジェームズ・ネイスミス
ジェームズ・ノックス・ポーク
ジェームズ・ハガティ
ジェームズ・パーキンソン
ジェームズ・ハーグリーブス
ジェームス・ハチソン・スターリングス
ジェームズ・ハリントン
ジェームズ・ビドル
ジェームズ・ヒルトン
ジェームズ・ブキャナン
ジェームズ・フレイザー
ジェームズ・プレスコット・ジュール
ジェームズ・ヘンリー・ブレステッド
ジェームズ・ボウイ
ジェームズ・ボズウェル
ジェームズ・マカヴォイ
ジェームズ・マーシャル
ジェームズ・マシュー・バリー
ジェームズ・マッコード
ジェームズ・マディソン
ジェームズ・マレー
ジェームズ・ミル
ジェームズ・ランディ
ジェームズ・ワトソン
ジェレミー・バンバー
ジェレミー・ブレット
ジェレミ・ベンサム
ジェラード・マンリ・ホプキンス
ジェラール・ド・ネルヴァル
ジェラール・フィリップ
ジェリー・フィールディング
ジェリー・マリガン
ジェリー・ロール・モートン
ジェロニモ
ジェローム・ディヴィッド・サリンジャー
ジェロラモ・カルダーノ
ジェン・ジェームズ・リッカード・マクラウド
ジオット・ディ・ボンドーネ
ジギスムント
ジークムント・フロイト
シド・グローマン
シドニー・ウェッブ
シドニー・シェルダン
シドニー・ポワチエ
シピオーネ・リヴァロッチ
ジネディーヌ・ジダン
ジミー・ジョーンズ
ジミー・ドッド
ジミー・ムラカミ
ジム・ハインズ
ジム・フィックス
シモーネ・マルティーニ
シモン・ステビン
シモン・ボリバル
シャー・ジャハーン
シャー・ルク・カーン
ジャイール・メシアス・ボルソナーロ
シャーウッド・アンダーソン
ジャクソン・ポロック
ジャコモ・カサノヴァ
ジャコモ・プッチーニ
ジャコモ・レオパルディ
ジャスティン・スミス・モリル
ジャスティン・ビーバー
ジャスパー・ジョーンズ
ジャッキー・チェン
ジャッキー・ロビンソン
ジャック・アレクサンドル・セザール・シャルル
ジャック・イブ・クストー
ジャック・オッフェンバック
ジャック・グリュベール
ジャック・ケルアック
ジャック・ケルシャン
ジャック・シラク
ジャック・タチ
ジャック・テュルゴー
ジャック・デリダ
ジャック・デンプシー
ジャック・ド・モレー
ジャック・ニュートン
ジャック・ネッケル
ジャック・ピカ―ル
ジャック・ヒギンス
ジャック・ベニーニュ・ボシュエ
ジャック・マイヨール
ジャック・マシュ
ジャック・モノ―
ジャック・ルネ・シラク
ジャック・ラカン
ジャック・ルイ・ダヴィッド
ジャック・ルビー
ジャック・ロゲ
ジャック・ワイルド
ジャマールッディーン・アフガーニー
ジャラール・ウッディ―ン・ルーミー
シャルル・アンリ・サンソン
シャルル・エドゥアール・ガブリエル・ルルー
シャルル・オーギュスタン・サント・ブーヴ
シャルル・ガルニエ
シャルル・ジュール・アンリ・ニコル
シャルル・ダンジュー
シャルル・デュトワ
シャルル・ド・ゴール
シャルル・トレネ
シャルル・フーリエ
シャルル・フレデリック・ウォルト
シャルル・ペロー
シャルル・ホードレール
シャルル・マルタン・エミール・ガレ
シャルル・メシエ
シャルル・モーリス・ド・タレーラン・ペリゴール
ジャワルラール・ネルー
ジャン・アンリ・デュナン
ジャン・アンリ・ファーブル
ジャン・オノレ・フラゴナール
ジャン・カジミール・ペリエ
ジャン・カルヴァン
ジャン・ギャバン
ジャン・コクトー
ジャン・シベリウス
ジャン・ジャック・ベネックス
ジャン・ジャック・ルソー
ジャン・ジュネ
ジャン・ジロドゥ
ジャン・ド・ラ・フォンテーヌ
ジャン・ニコラ・アルチュール・ランボー
ジャン・ヌーヴェル
ジャン・パウル
ジャン・バティスト・カミーユ・コロー
ジャン・バティスト・コルベール
ジャン・バティスト・シメオン・シャルダン
ジャン・バティスト・ド・ラ・サール
ジャン・バティスト・ポクラン(モリエール)
ジャン・バティスト・ラシーヌ
ジャン・バティスト・ラマルク
ジャン・ピアジェ
ジャン・ピエール・バクリ
ジャン・フランソワ・シャンポリオン
ジャン・ポール・サルトル
ジャン・ポール・シャルル・エマール・サルトル
ジャン・マルク・バール
ジャン・マルタン・シャルコー
ジャン・ミッシェル・バスキア
ジャン・ラシーヌ
ジャン・ル・ロン・ダランベール
ジャン・レノ
ジャン・ロレンツォ・ベルニーニ
ジャンニ・ヴェルサーチ
ジャンブージー
ジュゼッペ・アルチンボルド
ジュゼッペ・ヴェルディ
ジュゼッペ・ウンガレッティ
ジュゼッペ・ガリバルディ
ジュゼッペ・マッツィーニ
シュテファン・ツヴァイク
ジュニウス・リチャード・ジャヤワルダナ
シュムエル・アグノン
シュメル・ノア・アイゼンシュタット
シュリ・プリュドム
ジュリアナ・ホレイシア・ユーイング
ジュリアン・グリーン
ジュリアン・デュヴィヴィエ
ジュリアン・バーンズ
ジュリオ・カッチーニ
シュリニヴァーサ・ラマスジャン
ジュール・アントワーヌ・リサジュー
ジュール・ヴァンサン・オルオール
ジュール・ヴェルヌ
ジュール・ガブリエル・ヴェルヌ
ジュール・デュビュイ
ジュール・パトノートル
ジュール・マザラン
ジョアキーノ・アントニオ・ロッシーニ
ジョアシャン・ブーヴェ
ジョアン・ロドリゲス
ジョアン・ミロ
ジョー・トンプソン
ジョー・バイデン
ジョー・モンタナ
ジョイ・ポール・ギルフォード
ジョヴァンニ・カッシーニ
ジョヴァンニ・グロンキ
ジョヴァンニ・ジョリッティ
ジョヴァンニ・バッティスタ・シドッティ
ジョコ・ウィドド
ジョサイア・コンドル
ジョシュア・チェンバレン
ジョゼ・サラマーゴ
ジョゼッペ・ガリバルディ
ジョゼッベ・マッツィーニ
ジョゼフ・ヴァラキ
ジョージ・アチソン
ジョージ・アボット
ジョージ・アームストロング・カスター
ジョージ・イーストマン
ジョージ・ウィリアムズ
ジョージ・ウェスティングハウス
ジョージ・ウォレス
ジョージ・エドワード・ムーア
ジョージ・エベレスト
ジョージ・オーウェル
ジョージ・ガーシュウィン
ジョージ・ガモフ
ジョージ・クルーニー
ジョージ・ケイリー
ジョージ・ケナン
ジョージ・ゴードン・バイロン
ジョージ・サンダース
ジョージ・サンタヤ―ナ
ジョージ・C・マーシャル
ジョージ・シーガル
ジョージ・シュルツ
ジョージ・スチーブンソン
ジョージ・スティビッツ
ジョージ・スティーヴンス
ジョージ・スミス
ジョージ・スミス・パットン・ジュニア
ジョージ・チャキリス
ジョージ・チャップマン
ジョージ・デニソン・モルガン
ジョージ・バークリー
ジョージ・パットン
ジョージ・バーナード・ショー
ジョージ・ハーバート・リー・マロリー
ジョージ・ハリソン
ジョージ・バンクーバー
ジョージ・ヒューバート・ウィルキンス
ジョージ・フィッツジェラルド
ジョージ・フォアマン
ジョージ・フレデリック・ヘンデル
ジョージ・ブール
ジョージ・マクドナルド
ジョージ・マーシャル
ジョージ・メラクリーノ
ジョージ・メレディス
ジョージ・モルガン
ジョージ・ランズベリー
ジョージ・リチャーズ・マイノット
ジョージ・ルイカー
ジョージ・ルーカス
ジョージ・ワシントン
ジョージアス・アグリコラ
ジョゼ・サラマーゴ
ジョゼフ・アディソン
ジョゼフ・イニャス・ギヨタン
ジョセフ・エストラーダ
ジョゼフ・キッティンジャー
ジョセフ・ケッセル
ジョゼフ・コンラッド
ジョセフ・スミス
ジョゼフ・スワン
ジョゼフ・ドッジ
ジョゼフ・ニーダム
ジョセフ・パクストン
ジョセフ・パトリック・ケネディ
ジョゼフ・シェリダン・レ・ファニュ
ジョセフ・フランクリン・ラザフォード
ジョゼフ・フーリエ
ジョゼフ・プリーストリー
ジョゼフ・ボナパルト
ジョセフ・ポール・ディマジオ
ジョーゼフ・ピューリツァー
ジョーゼフ・マラード・ウィリアム・ターナー
ジョゼフ・ラナヤード・キップリング
ジョゼフ・ラニエリ
ジョセフ・ルッテンバーグ
ジョゼフ・ロビネット・ジョー・バイデン・ジュニア
ジョナサン・スウィフト
ジョニー・デップ
ジョニー・ハイケンス
ジョニー・ピアソン
ジョニー・レイ
ジョニー・ワイズミューラー
ジョハル・ドゥダエフ
ジョバンニ・カッシーニ
ジョバンニ・バッティスタ・ピアッツェッタ
ジョバンニ・ピエトロ・カラファ
ジョバンニ・ボッカッチョ
ジョブネル・モイーズ
ジョモ・ケニヤッタ
ジョリス・カルル・ユイスマン
ジョルジオ・アルマーニ
ジョルジオ・デ・キリコ
ジョルジュ・オスマン
ジョルジュ・クレマンソー
ジョルジュ・ジャック・ダントン
ジョルジュ・スーラ
ジョルジュ・ド・ラ・トゥール
ジョルジュ・バタイユ
ジョルジュ・ビゴー
ジョルジュ・ビゼー
ジョルジュ・ブラック
ジョルジュ・ポンピドゥー
ジョルジュ・ユルバン
ジョルジョ・モランディ
ジョルジョーネ
ジョルダーノ・ブルーノ
ジョン・アイアランド
ジョン・アーヴィング
ジョン・アダムズ
ジョン・アーマー・ビンガム
ジョン・アルバート・シンドラー
ジョン・アレキサンダー・マクドナルド
ジョン・アーネスト・スタインベック
ジョン・ウィクリフ
ジョン・ウィリアムズ
ジョン・ウィリアム・ストラット
ジョン・ウィリアム・フェントン
ジョン・ウィルキンソン
ジョン・ウィルクス・ブース
ジョン・ウェイン
ジョン・ウェスレー
ジョン・ウェブスター
ジョン・ウォーターズ
ジョン・ウォーノック・ヒンクリー・ジュニア
ジョン・ウォリス
ジョン・ウルヴィン・クーリッジ・ジュニア
ジョン・オーギュスト・ドミニック・アングル
ショーン・オケーシー
ジョン・オースティン
ジョン・オハラ
ジョン・オーブリー
ジョン・カー
ジョン・カーヴァー
ジョン・カボット
ジョン・ギールグッド
ジョン・クインシー・アダムス
ジヨン・グッドマン
ジョン・クラシンスキー
ジョン・クレランド
ジョン・ゲイ
ジョン・ケージ
ジョン・ケネス・ガルブレイス
ジョン・コナリー
ジョン・ゴールズワージー
ジョン・コルトレーン
ジョン・ジェイ
ジョン・ジェームズ・オズボーン
ジョン・スキーピング
ジョン・スティーブンソン
ジョン・スチュアート・ミル
ジョン・スミス
ジョン・タイラー
ジョン・ダン
ジョン・ダンロップ
ジョン・チャールズ・フィールズ
ジョン・ディヴィソン・ロックフェラー・シニア
ジョン・ディクスン・カー
ジョン・チャドウィック
ジョン・デューイ
ジョン・デンバー
ジョン・トラボルタ
ジョン・ドルトン
ジョン・ナッシュ
ジョン・ナンス・ガーナー
ジョン・ニュートン・ミッチェル
ジョン・ネイピア
ジョン・ノックス
ジョン・バチェラー
ジョン・バーゴイン
ジョン・パーシング
ジョン・バニヤン
ジョン・ハーバード
ジョン・ハーバート・デリンジャー・ジュニア
ジョン・バーディーン
ジョン・ハートフィールド
ジョン・ファウルズ
ジョン・フィッシャー
ジョン・フィリップ・スーザ
ジョン・フィリップ・ホランド
ジョン・フィルモア・ヘイフォード
ジョン・フォアマン
ジョン・フォスター・ダレス
ジョン・フォード
ジョン・フォン・ノイマン
ジョン・ブラウン
ジョン・フラムスティード
ジョン・フレミング
ジョン・ブレンダン・ケリー
ジョン・ヘンリー・ホリデイ(ドク・ホリデイ)
ジョン・ボイド・ダンロップ
ジョン・ポール・スティーブンス
ジョン・ボン・ジョヴィ
ジョン・マイケル・タルボット
ジョン・マグロ―
ジョン・マケイン
ジョン・マッカーサー
ジョン・マリー・ギュイヨー
ジョン・ミルトン
ジョン・メイナード・ケインズ
ジョン・モルガン
ジョン・モンタギュー(第4代サンドウィッチ伯爵)
ジョン・リトル
ジョン・リー・リッチモンド
ジョン・ル・カレ
ジョン・レノン
ジョン・ロージー・ベアード
ジョン・ロック
ジョン・ロックフェラー
ジョン・ローン
ジョン・ワトソン
ショーン・オケーシー
シーラバトラ
シラノ・ド・ベルジュラック
シリマヴォ・バンダラナイケ
シルヴィオ・ベルルスコーニ
シルウェステル1世(ローマ教皇)
ジル・エアネス
シルベスター・スタローン
ジロラモ・サヴォナローラ
ジーン・ワイルダー
シンクレア・ルイス

 

D0128469_10111466

  インド映画を代表するスター、シャー・ルク・カーン。代表作「恋する輪廻 オーム・シャティ・オーム」。

太田道灌、江戸城を築く(1457年)

Dokan_samurai 長禄元年(1457年)のこの日、扇谷上杉家の家臣、太田道灌が武蔵国荏原郡桜田郷(麹町台地の東端)に平山城(のちの江戸城)を築城した。太田道灌といえば「山吹の教え」の故事が有名である。道灌が武蔵野で狩りをしていた時のことである。にわか雨にあったので、とある民家で雨具を貸してほしいと頼んだところ、家の中から出てきた少女は無言で、山吹の一枝をさしだした。道灌は少女の真意がわからなかった。あとで古歌「ななえ八重花は咲けども山吹の みのひとつだになきぞ悲しき」(「後拾遺集」兼明親王)に託して「実の(蓑)」をかけて、貧しきゆえに雨具を貸せないことを詫びた少女の心情を知った道灌は、風雅を解することができなかったことを恥じて和歌の道に励み、のちには武将ながらも名高い歌詠みになった。文明18年(1486年)7月26日、道灌は扇谷家の上杉定正に招かれ風呂場で謀殺された。(4月8日)

   





太田道灌借蓑図   大槻磐渓

 

  孤鞍雨を衝いて茅茨(ぼうじ)を叩く

 

  少女為に遣(おく)る花一枝

 

  少女言わず花語らず

 

  英雄の心緒(しんちょ)乱れて糸の如し

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

春の猫

01121343   猫が交尾期になり、盛(さか)るのを「猫の恋」という。夜昼を問わず、物狂おしく鳴き立てて、妻恋う猫が往き来する。人も怖れず雨風にも怯えず、ろくろく家にも居つかない。何日もの後やつれ果てて帰ってくる。恋猫。うかれ猫。春の猫。猫の妻。孕猫。

又ここに猫の恋路とききながし(虚子)

   4月8日は高浜虚子、1959年の忌日。虚子忌。椿を愛し、法名を虚子庵高吟椿寿居士ということから、椿寿忌ともいう墓は鎌倉の寿福寺にある。

 

C0195297_1291371  

参考書の日

2013021620971thumb 本日はお釈迦さまの生誕を祝う「灌仏会」(一般には「花まつり」)であるが、「参考書の日」でもある。全国的に入学式が多いこの日が選ばれた。参考書とは主に受験用の参考書であり、合格した者にとっては不要となることも多い。したがって街角で紙ゴミの日に紐で縛った新しそうな本が捨てられているのをよく見かけるのもこの頃である。高等学校の新科目となった「歴史総合」の詳細な参考書を探しているが、まだ刊行されていないのか、書店にあるのは図録のようなものだけである。

   「参考書」という語は、本来は「調査・研究・学習などの参考にする書」(広辞苑)であり、もちろん受験生だけのものではない。公共図書館の奉仕業務の一つに参考事務がある。図書館の利用者が、職員に「大鏡ありますか?」とたずねたところ、職員は「トイレに大きな鏡があります」と答えた。大鏡は、もちろん平安時代後期の歴史物語であるが、職員は大型ミラーと勘違いしたのである。これは単なる笑い話であるが、職員の技量の問題というよりも、図書館の奉仕活動のあり方やレファレンス・サービス(参考調査)組織的な問題でもある。(4月8日)

 

 

 

 

 

 

2023年4月 7日 (金)

畑正憲と大江健三郎

 大江健三郎さんの訃報もだいぶんショックだが、それに続くようにムツゴロウの愛称で親しまれた作家の畑正憲さんが5日、心筋梗塞で亡くなられた。2人は同じ昭和10年生まれである。作風は異なる両者だが、親交があったのかは知らない。畑が東大在学中に大江の初期作品を読んで「同じ大学にこんな凄い奴がいる」と、それを読んで純文学の作家志望をあきらめたといわれる。むかしNHKのある番組に畑さんが出演したとき、「それまで難しい外国文学ばかり読んでいたが、源氏鶏太の三等重役を読んでこんな楽しい文学もありなんだと気づいた」と語っていた。畑さんは動物番組の先駆者といわれるが、その波瀾万丈の人生は将来、朝ドラ主人公のモデルにとても向いているように思われる。

 

聖断の演出家、鈴木貫太郎

Img_0009

 

   1945年のこの日、前の小磯内閣の総辞職を受け、枢密院議長だった鈴木貫太郎が第42代内閣総理大臣に就任した。当時、鈴木は76歳の高齢であった。鈴木内閣は4月30日にベルリンでヒトラーが自殺し、5月8日にはドイツ軍が無条件降伏したことによって、日本は有力な同盟国を失った。国内各都市への空襲が日増しに激しくなり、6月23日には沖縄戦が終結するなど、日日本の敗色は濃厚となっていた。7月26日、イギリス・中華民国・アメリカの署名によるポツダム宣言に対して、鈴木は「政府としては、重大な価値あるものとは認めず黙殺し、断固戦争完遂に邁進する」とコメントした。しかし6日に広島、9日に長崎に原子爆弾が投下され、日本の敗戦が決定的になっていた。8月9日から10日未明にかけて、宮城内の防空壕で最高戦争指導者会議(御前会議)がおこなわれた。鈴木貫太郎(1867-1948)は最後の御前会議において、天皇との阿吽の呼吸により劇的な御聖断に持ち込めた。しかしあくまでポツダム宣言受諾拒否の阿南惟幾陸軍大臣(58歳)は、「聖断」が下ると、その夜、陸相官邸で切腹自殺した。鈴木邸は軍の焼打ちにあって全焼した。連合軍には天皇の御聖断によりポツダム宣言を受諾することが伝えられた。午後11時過ぎから宮城内で終戦に関する詔書の吹き込みが行われた。これを知った一部将校グループがクーデターを計画、録音盤奪取を試みたが失敗した。鈴木はかなり前から終戦を決意していた。だが、当時の軍部、とくに陸軍統帥部は徹底抗戦に凝り固まっていた。性急にことを選べば、軍の過激派が決起し、内乱になる恐れがあった。鈴木は、主戦派も和平派もだましながら、天皇の裁断で和平の道をつくるという、誰も予想しない離れ技を演じた。15日正午、昭和天皇はラジオ放送をもって日本の敗戦を国民に伝え、ここに全ての日本軍の戦闘行為は停止した。戦後、鈴木は「われは敗軍の将であるただいま郷里に帰って、畑を相手にして生活しております」とインタヴューで述べている。終戦から3年後の昭和23年4月17日、肝臓癌のため死去した、享年81歳の生涯を閉じた。(4月7日)

 

Img_0007 最高戦争指導者会議(画・白川一郎)

怪盗ディック・ターピン

15339872

 

  イギリスの悪名高き盗賊としてディック・ターピン(1705-1739)が知られている。彼の首には200ポンドもの高額な賞金がかけられた。彼はジョン・パーマーと名乗り、堅気の馬・家畜商人として身を潜めていたが、酔ったあげくに喧嘩して逮捕され、身元がばれた。1739年4月7日、ヨークで処刑された。ターピンがロンドンからヨークまでブラック・ベスにまたがって逃亡したという伝説は、ヴィクトリア朝時代の作家ハリスン・エーンズワースの冒険小説「ルックウッド」 (1834)にもとづくつくり話である。

 

( keyword;Dick Turpin,John Palmer,London,Black Bess,Harrison Ainsworth,Rookwood )

2023年4月 6日 (木)

女郎谷

 本日は「城の日」。姫路市が1991年に制定した。四(し)六(ろ)で「しろ」の語呂合わせ。日本全国各地にはたくさんの城がある。2万5千ともいわれるが正確にはわからない。建物はなく石垣だけ残っているところもある。私の近所には有岡城(伊丹)富松城(尼崎)瓦林城(西宮)鷹尾城(芦屋)などがある。彦根城の東およそ2kmのところに女郎谷という所がある。何やら不気味な妖気があたりにただよう。かつて石田三成の居城佐和山城の裏山である。三成は石高19万4000石と、そう高くないが、「五奉行一の実力者」といわれ、佐和山城は威容を誇った。「三成に過ぎたものが2つある。島の左近と佐和山城」と落首されたほどの名城であった。関ヶ原の合戦後、東軍の寄せ手はさぞかし金品があろうと思って入ったところ、どの部屋もみな粗壁・板張のままであった。襖なども反故紙を用いており、城中に財宝らしい金銀は少しもなかった。三成は権力を握っても、決して贅沢な生活はしなかったのである。佐和山城の落城にはこんな悲話が残る。講和がまとまると油断していた城兵側は、突如、襲撃され城内は大混乱をなし、石田正継ら一族全員は自害し、佐和山城はあえなく落城した。城中にいた2000人の婦女子は女郎谷という崖から身投げをして自決したという。敵方の兵に陵辱されるよりも死を選んだのだろう。落城の日、この谷の方角から女たちの断末魔の悲鳴が遠くまで聞こえてきたといわれる。(4月6日)

 

マルチな活動、あの人の専門は何?

    ヘンリー・ベッティンガーHenry Bechingerという学者はかつて「三角測量法」という読書法をすすめていた。自分から遠く離れた2地点を観測して自分の位置を明らかにするというもの。つまり自分の専門領域だけでなく、全く異なる分野の本も多く読むということをすすめている。世の中には多ジャンルにわたる分野で縦横無尽の活動を続ける人がいる。江戸中期の学者、平賀源内は本草学、地質学、蘭学、医学、戯作者、俳人、発明家、画家など多芸多才であった。バートランド・ラッセルは数学者でもあり、哲学者でもある。明治期にお雇い外国人として来日したフェノロサは、東京大学では美術ではなく、政治学、哲学、経済学を講義している。自然科学はほとんど分野がボーダーレス。エルヴィン・シュレーディンガーは物理、化学、生物にまたがっている。SF作家で知られるアイザック・アシモフは生化学者であり、科学評論家でもある。

    たとえば歌劇「イーゴリ公」や「中央アジアの草原にて」の作曲家ボロディンは、自分のことを音楽家としてではなく、化学者、医師と自称していた。17世紀のイギリスの数学者ジョン・ウォリスは微分積分学への貢献で知られるが、1685年に書いた「Gramatica Linduae Anglicanae」によって、彼は「英文学の父」と称されるようになった。福岡の平野四郎(1885-1963)は医師のかたわら、動物、とくに鳥の生態の研究で知られた。東京音楽大学の山根章弘は専門は美学ということだが、実に広い分野に関心を持っている。出版された本が同じ著者かと思われるほどである。映画ファンの間では映画評論家として認識されているだろう。東映動画「白蛇伝」の原案者でもある。上原信(ペンネーム)は山根章弘と同一人物である。アニメ「龍の子太郎」のプロデューサー、「世界映画芸術史 エロティシズム50年の流れ」1966、「スクリーン・エロティシズム」久保書店1962。また羊毛の専門家「羊毛文化物語」講談社1989、「羊毛が語る日本史」PHP研究所 1983。またエチケット研究家「美しい人、美しいマナー」1982、「愛と結婚のエチケット」銀河選書 1982、「誰も言わなかった知的マナー」青春出版社 1978、「日本の折形」講談社 1987。むかし日本テレビの11PMにも出演していた。芸術、映画、民俗、風俗、マナー、衣服、羊毛、文化史と相互に関連しているのである。

23007001563     映画評論家の荻昌弘(1925-1988)も映画、料理、音楽のほか幅広い趣味がある。新しいもの好きでワープロによるデーターベースの構築を1982年夏ころ試みている。効率的・機能的な書斎をつくるため、「私の書斎ワープロ戦略」(1986年)を刊行した。

  京都大学の安田徳太郎(1898-1983)は、医師でフロイド研究で知られるが、ほかにも風俗・エロチック美術の研究など著書の分野は広い。戦後は「人間の歴史 全6巻」「万葉集の謎」はベストセラーとなった。同じく京大の多田道太郎(1924-2007)も専門はフランス文学、ボードレール、サルトルだが広い分野で評論活動をしていた。カイヨワの「遊び」、映画評論、大衆文化、現代風俗、漫画論、晩年は生活美学というものを提唱していた。澤瀉久敬(1904-1995)はフランス哲学が専門だが、阪大で医学概論を講義した。万葉集研究で著名な澤瀉久孝の弟である。小説家岡本かの子(1889-1939)は仏教研究家として知られていた。松田道雄(1908-1998)は小児科の医者が本職であるが、ロシア研究家、など幅広い読書家として知られた。光吉夏弥は、「ちびろくさんぼ」など英米児童文学の翻訳者として知られているが、舞踏評論家でもある。硯友社で言文一致体の小説家で知られる山田美妙(1868-1910)は、晩年フィリピン独立運動家アギナルドの伝記を著している。昭和のマルチタレントは永六輔と青島幸雄だろう。「上を向いて歩こう」で知られる永六輔は作詞家、放送作家、随筆家など。青島幸雄はタレント、作家、俳優、映画監督、政治家。明治大学の斎藤孝は多数の実用書の出版で知られるが、色んなジャンルの読書をすすめる「全方位読書」派である。芸能人では荒木一郎は俳優、シンガーソングライター、小説家、手品など多芸多才である。最近では辻仁成が作家、ミュージシャン、映画監督、演出家。最近では星野源やリリー・フランキーなどが多岐の分野にわたって大活躍している。

 

 

板垣死すとも、自由は死せず

090607ep000 1882年のこの日、板垣退助は、岐阜で演説を行っての帰途に刺客に襲われた。そのときの名文句が「板垣死すとも、自由は死せず」である。はたしてこの言葉が板垣の口から出たものかどうか確証はないが、一説では司法官で歴史学者の尾佐竹猛(おさたけたけし)によったもの、あるいは犯人を取り押さえた内藤魯一(ないとうろいち)がいったもの、日本立憲政党新聞の記者・小室信介の創作説などと諸説ある。このとき板垣は死なず、本当に亡くなるのは事件から37年のちである。

   事件は午後6時すぎ、愛知県の士族相原尚褧(なおぶみ)が、演説を終えて会場の玄関から出てきた板垣を襲い、短刀で胸を刺した。板垣の受けた傷は、胸・頬・両手など合計7ヶ所であるが、いずれも致命傷にはいたらなかった。しかし板垣遭難の報は全国に飛び、各地の自由党員は手に手に刀や鉄砲を持って岐阜に駆けつけ、政府弾劾の声をあげた。こうして板垣は、自由主義の英雄となった。現在遭難の地・岐阜公園内に建てられた板垣退助の銅像がある。(4月6日)

2023年4月 5日 (水)

イースター島の発見(1722年)

  探検家ヤーコプ・ロッへフェーン(1659-1729)はオランダのミデルブルフに生まれた。1683年、公証人となる。1690年、ハルデルワイク大学で法律を修め、1707年から1714年までバダビアで裁判官となる。1715年、帰国。のち海軍提督となり1721年から1722年、オランダからホーン岬経由で太平洋へはいる。ファン・フェルナンデス諸島に立ち寄り、さらに航海を続け、1722年4月5日、イースター(キリスト復活祭)の日に、小さな島を発見する。海岸にそって煙が立ちのぼり、遠くから緑なす丘が見える。ロッへフェーンは、この島にイースター島という名前をつけた。島のシンボルとなっている巨大な石造(モアイ像)に関して航海日誌にこう書いている。

「わたしたちはかれらが、建立したすばらしく高い石像のまえで、火をたくことに気づいた。そしてその後、像の足元に頭を下げてうずくまり、手のひらをあわせ、交互に上げたり下げたりすることも知った。大きな、あるいは太い木材もないのに、どうしてこんなものを立てることができたのか、わたしたちには理解できなかった」

    そのころはまだ島のモアイの半数ほどが、まだ直立していたとある。像の調査に関しては、後世の探検家たちに残されたのである。

    モアイ像の石切り場はラノララクにある。そこから80トンもあるモアイ像はどのようにして運搬したのであろうか?2011年、テリー・ハントとカール・リポはある学説を発表した。巨大なモアイ像はロープと人の力だけで左右に揺らし、直立で移動したという。この方法を実験によって証明した。18人で3方向からロープを引っ張ると、40分で100mの移動が可能であった。巨石像の遺跡のほかに、「ロンゴロンゴ」とよはせれる表意文字がのこされているが、いまだに解読されていない。

 

Cb99269ac970204584a37889b65ae53be5a

 

Moai_back_01367x550
モアイ像のは上半身だけでなく、下半身には褌のような下着をつけている

 

(Terry Hunt,Carl Lipo,Moai,Jacob Roggeveen,Easter Island )

宣教医ベッテルハイム

 弘化3年(1846年)のこの日、イギリス軍艦が琉球に来航した。この船にはハンガリー出身のイギリス宣教医バーナード・ジョン・ベッテルハイム(1811-1870)が乗船していた。彼は那覇の護国寺を拠点に8年間滞在し、キリスト教の伝道に勤めた。(4月5日)

 

 

世界の墓

Arlingtoncemeteryaddress
 アーリントン国立墓地(米国ワシントン)

 

    国の数だけの風俗・習慣がある。とくに多種多様なのはお墓である。イスラム教はお墓がないといわれる。英語で言う墓地 graveyardは、たいていは教会の中庭に設けられている。おそよ17世紀頃からヨーロッパでは、教会の統制の下に、行なわれるようになってきた。通常、キリスト教国は土葬で、腐ると掘り起こして納骨堂に納められた。しかし、ペストやコレラなど伝染病の蔓延につながり公衆衛生上の問題から、お墓が都市から離れた場所に作られるようになった。19世紀のイギリスでは多くの共同墓地セメタリーcemeteryが建設され、共同墓地は先行した教会墓地と対照的な点が多い。米国ワシントンDCの国立アーリントン墓地で最も有名なのは、第35代大統領ジョン・F・ケネディのお墓である。 

 

3919732407_a2d5be656d_z 1204251
 イギリス・ウェールズの墓           沖縄の墓

2023年4月 4日 (火)

楽しい人名研究

 いろいろな生き物のなかで人間だけが、自覚的に生きていることのあかしのもつものとして歴史をもっている。そのような歴史を生きた、あるいは作り上げたのは一人ひとりの人間であり、識別するために人名がそれぞれに与えられている。

元首と人名
 1721年4月4日、ロバート・ウォルポールが初代イギリス首相に就任した。1940年のウィンストン・チャーチルが第61・63代、現首相リシ・スナクは第79代である。1789年、アメリカ合衆国ジョージ・ワシントンが初代大統領。1961年のジョン・F・ケネディは第35代。2021年、ジョー・バイデンは2021年就任で第46代。日本の岸田文雄は初代伊藤博文から数えてちょうど第100代目の首相である。

オリンピックと人名
たとえば東京五輪。オリンピック競技には世界から205の国・地域が参加し、全種目339、およそ11000人以上選手が集まる。世界各国のさまざまな選手が連日ニュースに取り上げられ、メダルを獲得すれば一夜明けると著名人になれる。男子陸上100mのラモントマルチェル・ヤコブス、競泳男子100m自由形ケーレブ・ドレッセル、トライアスロン男子金メダル、クリスティアン・プルメンフェルト、柔道大野の対戦相手、ジョージアのラシャ・シャフダトゥアシビリ。すべて名前を暗記することは困難であるが、世界中の多くの人の記憶に残る名前であるは間違いない。

人名事典にない人名
 誰でも知っている有名人。誰も知らない無名の人々。人名はこのネット時代、もっとも重要なキーワードである。チャールズ・バーンは1780年代ロンドンで長身で有名だった人物。およそ250cmくらいあった。ロバート・ホワイトヘッドを知っているか?魚雷を発明した科学者である。アメリカ人のレイ・チャップマンを知っているか?インデアンスの遊撃手、1920年頭部に死球を受け死亡した。MLB唯一の死亡事故である。アレキサンダ―・セルカークを知っているか?スコットランドの水夫で大西洋の孤島で4年余り遭難生活した。のち小説「ロビンソン・クルーソー」のモデルとなる。ジム・フィックスを知っているか?ジョギングの創始者だが、ジョギング中に心臓発作で死亡した。

 尾崎宗吉(1915-1945)という作曲家。若くして太平洋戦争に応召して戦死したので音楽界で活躍を果たせなかった。戦地に赴く前に「夜の歌」(チェロとピアノ)の小曲を遺したが、今は密かなブームである。

  ラファエル・ヒュトロダエウスを知っているか?タイトルしか知らない古典の名作、トマス・モアの「ユートピア」に登場する。彼が見聞した島の様子を語る哲学者(旅人)である。もちろん架空の人物。

   山川出版社の「世界史のための人名事典」は便利なのでよく利用している。収録項目数は1914人である。しかしとても歴史的に重要な人物が漏れていることがある。三国時代の「司馬懿」である。179年ー251年。後漢王朝に仕えていた司馬防の子。幼時から英才の誉れが高く、のちに曹操に仕え、諸葛孔明のライバルとなる。「死せる孔明、生ける仲達を走らす」という故事が有名で、仲達は孔明が生きていると思い退却したことになっている。この逸話は五丈原の農民たちのフィクションで、仲達はそれほど臆病ではない。なにも深追いする必要はなかったのであろう。なぜ司馬懿は歴史事典には収録されないのか不思議である。孫の司馬炎(武帝)は、266年に晋を建国し占田法・課田法を制定したので重要とされ、収録されている。中国ドラマ「三国志 Three Kingdoms」(2010)後半の第四部はほとんど司馬懿が主役格である。倪大紅が演じているが老獪でとてもよい。わざと病気のふりをして曹丕・曹爽をだます。愛妾の李依暁もとても美しい女優さん。司馬懿を恐れる曹丕がスパイとして送り込まれた。やがて司馬懿の子を宿すが、司馬懿の手によって殺害される。オリジナル・ストーリーだろうが面白い。

 

キング牧師、暗殺(1968年)

Ap_martin_luther_king_nt_120112_ssv

  黒人解放運動の指導者マーティン・ルーサー・キング・ジュニアは1967年にはベトナム戦争に反対をさけび、各地に遊説していた。1968年4月4日、テネシー州メンフィスで「貧者の行進」の運動を遊説中にジェームズ・アール・レイに暗殺される。弾丸は喉から脊髄に達し病院に搬送されたが、間もなく死亡した。キング牧師の名言。「私たちは兄弟としてともに生きることを学ばなければならない。それができなければ、愚か者としてともに滅びてしまうだろう」

We must learn to live together as brothers or perish together as fools.

 

 

2023年4月 3日 (月)

平成之大馬鹿門騒動

129143l 

 

   平成8年3月、京都の仏教大学が新図書館などの建設にあわせて正門周辺の改修工事をした際、彫刻家・空充秋(そらみつあき)が制作した門柱が贈られた。大学側は当初、気づかなかったが、4月3日の入学式で、教員が門柱の側面に30cm四方の大きさで「平成之大馬鹿門」と彫り込まれていることを発見した。大学と空とで題名を削るかどうか話し合いが続けられたが、決裂した。大学は「馬鹿という言葉は大学には不適切。削ってほしい」と要求。空は「作品を削るというのは、自殺しろというのと同じ」と対立。大学側が引き取りを拒否したため、2ヶ月後の6月、門柱を香川県木田郡庵治町の自宅に持ち帰った。その後、各地から門柱の要望があり、平成8年8月、空は兵庫県宍粟市へ寄贈した。現在、千種高原へ向かう道路を挟んで相対し聳える、おごしき山(1095m)と空山(901m)の、それぞれの山頂に1基づつ設置されている。(参考文献:中井真孝「平成之大馬鹿門と新聞記事」 鷹陵150号 1996年)

 

 

 

 

2023年4月 2日 (日)

小渕恵三急死(2000年)

Photo   小渕恵三は今でも国民に愛される政治家の1人である。それはこんな有名な逸話によるからだろう。就任するやニューヨーク・タイムズ紙に「何をしても食べられない冷めたピザのような人」と紹介された。つまり「冷めたピザほどの魅力しかない」という意味である。普通ならば一国の首相に対して友好国のアメリカがあまりに無礼であると怒るところであるが、小渕はピザを用意して記者たちに振舞いながら「冷めたピザでも食べてみればなかなか味わいがあるんだよ」といった。そしてピザを手にして微笑む小渕の写真がタイム誌1998年10月5日号の表紙を飾った。人柄の小渕の面目躍如たる逸話である。逆にそのユーモアが日本では大うけして人気が高まった。

    この年、流行ったものが「バイアグラ」。それまでED治療薬はヤミで1錠1万から5万円くらいだった。ようやく厚生労働省が翌年に認可して、1錠当たり1500円から2000円くらいなった。副作用があるので、まだ市販薬は存在せず、医師の処方箋がないと購入できない薬である。

   ところで小渕首相は2000年4月2日、脳梗塞で順天堂大学医院に緊急入院、意識不明になった。そして5月14日、急死した。まだ62歳という若さだった。同年6月、竹下登(76)も死去。

 




 

 

 

 

4月の惨劇

Columbine    4月の学校はなにもかも新しく希望にあふれ輝いている。ところが心に闇のある青年にとっては何かしら苛立たしい気分になる季節でもある。米国で起こった2件の銃乱射事件はともに4月に起きた。1999年4月20日コロンバイン高校乱射事件、2007年4月16日バージニア工科大学銃乱射事件。犯人はいずれも自殺している。なぜ4月に起きるのか。それも20日、16日と偶数の日である。これらは単なる偶然なのか。ドイツでも2009年に学校での銃乱射事件の惨事が繰り返された。青年たちが凶行に及んだ動機の解明とその対策はいまだ十分とはいえないのが現状である。4月2日カリフォルニア州オークランドのオイコス大学でまたも銃乱射事件が起きた。今回も2日、偶数の日だった。もちろん科学的根拠などない偶然の一致であろう。だが、数字というのがもっとも人間にとって身近で重要な要素であることは疑いないものである。

2023年4月 1日 (土)

引き出し整理術

 keep tidy 筆記用具など普段よく使われる物から、重要書類まで、いつ死んでもいいようにつねに整理しておく。

 

先ず、銀行などの預金通帳。国債など金融機関の書類、印鑑。

 

年金証書や生命保険などの書類。

 

保険証などの医療関係の書類。

 

土地建物の権利書など不動産関係の書類。

 

確定申告、固定資産税の納付書など行政機関などの書類。マイナンバーカード。固定資産税令和5年度納付済。

 

テレビ、電話、電気、ガス、水道などの納付書。

 

常用している薬、医者の診断書、医療関係。

 

家屋、金庫などの鍵。

 

 

 

 

 

 

インドの歴史と地理

  1853年のこの日、英領インド時代のボンベイ(現・ムンバイ)と郊外を結ぶ路線にアジアで最初の鉄道が開通した。インドは世界で有数の鉄道王国である。インドには14億人以上の人々が日本の約9倍の面積にあたる広い国土に住んでいる。推定によるとすでに中国をぬいて世界最多の人口といわれる。インドは「嫌悪すべきものと崇高なもののすべてを包含している」という、ジャワハルラール・ネルーの言葉に示されるように、多様性を持ち、はげしい矛盾に満ちた複雑な国である。われわれはインドの歴史を研究すればするほどインド文化が、単一の基盤から成り立っているのではないことを教えられる。インドの美術や文化をみても、紀元前2500年頃にインダス河流域に繁栄したインダス文化は現在ではパキスタンの領土となっている。また西暦1世紀頃から起こったガンダーラ美術も従来はインド美術として考えられているがやはり現在の領域でいえばパキスタンの美術として考えなければならない。つまりインドという名称は、インド大陸だけをさす場合と、東西パキスタンを含めて拡大されたインドの2つがある。「インド亜大陸」といえば、バングラデシュ・ネパール・ブータンなどの国々を含めることが多い。

  そもそもインドという地名の語源は、インド・アーリア人の言語で「川」を意味する「シンドゥ(sindhu)という語にある。この普通名詞が、彼らがインドで接した大河、インダス川の意味にも使われるようになりさらに、インダス川の流れる広大な土地の意味にもなった。この「シンドゥ」という地名をペルシア人がなまって「ヒンドゥ」と呼び、さらにこれをギリシア人がなまって「インディア」と呼んだ。このギリシア語なまりが、ヨーロッパで使われるようになったのである。

   ヒンドゥー社会は、ヴァルナによる身分枠と各自が生まれながらに属するジャーティとよばれる社会集団によって規定されてきた。このヴァルナとジャーティを合わせたインド特有の社会制度がカースト制度である。今日では、カースト制度による差別は憲法で禁止されているが、現実社会にはいまもなお結婚などに根強く残っている。

13世紀にイスラーム教がインドに伝わり、ヒンドゥー教の影響を受け生まれたイスラーム文化、ムガール帝国の庇護下で発展した。17世紀後半、アウランゼーブ帝は、ジズヤの復活やヒンドゥー教寺院の破壊など、ヒンドゥー文化への抑圧策をとった。そのため彼らの離反を招き、帝国内は混乱に陥る。さらにイギリスやフランスがインドへの進出を狙っており、帝国に危機が迫っていた。(4月1日)

 

India004
 サンチー仏塔 紀元前後

 

10
  カイラーサナー寺院 8世紀

 

 Worldheritage32_2_20130227185309
 コナーラクのスーリヤ寺院 (太陽神殿) 13世紀

 

 

雑誌「白樺」創刊

Photo_9     明治43年のこの日、雑誌「白樺」が創刊される。「白樺」の中心人物の一人が志賀直哉である。明治40年、志賀直哉は24歳のとき、家の女中の一人と結婚する決意をしたが、父の志賀直温に反対される。結局、女中は家を追われて、事件はうやむやに終わったが、直哉と父との対立はどうしょうもないものになっていった。この出来事を書いたのが「大津順吉」である。直哉はそのために一層文学志望の決意を固くする。

 明治41年には、同級生の武者小路実篤・木下利玄・正親町公和(おおぎまちきんかず)らと4人で、回覧雑誌「望野」を作った。この年「或る朝」「網走まで」「速夫の妹」等を書いた。明治43年4月、直哉は、「望野」の仲間に有島武郎・有島生馬・里見弴・児島喜八郎・柳宗悦らを加えて、同人雑誌「白樺」を創刊した。「白樺」はそれから大正12年8月まで継続し(計160号)、その中から多くの作家を生んだ。同誌はその人道主義・個人主義・理想主義によって、大正期の文学・芸術・思想の運動の中心になり「白樺派」と近代文学史に位置づけされる。同人には、ほかに田中雨村・園池公致(そのいけきんゆき)・三浦直介・小泉鉄(こいずみまがね)・高村光太郎・長与善郎・日下諗(くさかしん)等がいる。白樺派の作家たちの共通点がある。ペンネームや雅号は使わず本名である。私小説が多い。ホイットマンやトルストイなどの影響を強く受けている。ロダンやセザンヌ・ゴッホ・ゴーギャンら新しい西洋美術を日本にいち早く紹介した。(4月1日)

林静子と廃娼運動

Afb6453d5854b5181b25e0b7410151ac

 1958年のこの日、売春禁止法が施行された。明治政府は1872年、人身売買を禁じ、芸娼妓解放令を発令したが売春そのものを禁止していなかった。1899年の東京府の娼妓数は、62871人であり、大阪府は6275人である。わが国で、売春が禁止されたのは1956年の「売春禁止法」(1958年3月施行)によってであり、GHQによる公娼廃止指令(1946年)から10年が経過していた。明治以降、廃娼運動が展開されたが、島田三郎の廓清会(かくせいかい)、林静子の矯風会、山室軍平の救世軍などが代表的運動団体である。とくに林静子(1864-1946)は1907年、大阪婦人ホームを設立し、婦人の職業紹介、廃娼運動、禁酒運動の推進に尽力した。林静子は1864年12月14日、福井県大野町に土井藩徒士武士林長蔵の長女として生れた。小橋勝之助、実之助兄弟の孤児養育施設「博愛社」の発展につくす。1932年、日本基督教婦人矯風会大阪支部を設立。婦人ホームをもうける。1946年3月24日死去。84歳。(参考:石月静恵「林静子と廃娼運動」歴史と神戸135) 4月1日

エイプリル・フール

Aprilfools 4月ばか、April Fool、万愚節。友人たちをかついで興じる日。この習慣の起源については定説はない。16世紀頃からフランスで始まった習慣とされる。フランス語でPoisson d'Avril(4月の魚)といい、この時期よく捕れるサバのことを指している。1564年にシャルル9世がいまの暦であるグレゴリオ暦にかえたが、なかなか浸透しない。そこである貴族が4月1日に公爵の屋敷でパーティーがあるという嘘の招待状を出したのがはじまりといわれている。民衆が王に反発して、4月1日を「嘘の新年」として位置づけ、バカ騒ぎをするようになったという説もある。だが「4月ばか」の慣習は18世紀初めまではそれほど一般に広まらなかった。イングランドでは、もっとも好まれた遊びは「無駄なお使い」に出すことであり、Aが犠牲者をBのところに使いに出すと、Bはさらに彼をCに送る。こうして犠牲者は、気づくまであちこちにやられるのである。北欧のスウェーデンでもエイプリルフールは盛んである。April skamt  アプリール・ファムト(四月冗談)という。一説によるとエイプリルフールは、キリストの死んだ日と関係するといわれる。キリストが死んだ日は春分の日(ニサン)の新月の日から14日たった日といわれる。(4月1日)

« 2023年3月 | トップページ | 2023年5月 »

最近のトラックバック

2023年6月
        1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30