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イタリア中部の丘陵地帯のチォチャリア。ある日、一人の若者が復員してきた。彼はフランチェスコといい、戦前は羊飼いだったが、彼の以前所有していた羊は今では村のボスであるアゴスティーノに盗まれていた。フランチェスコはこの事件を訴えたくとも証人がアゴスティーノに脅迫され沈黙しているのでどうすることもできなかった。そのわずかな証人の中にはフランチェスコのかつての恋人リチアもいた。彼女は今でも彼を愛していたが両親のためには好きでもないアゴスティーノの婚約者にならなければならなかった。
その婚約披露の晩、フランチェスコは妹のマリアを連れて自分たちの羊の群を取り戻しリチアと一緒に逃げようとアゴスティーノの家を襲った。だが家の外で逃げ遅れたマリアはアゴスティーノに掴まって暴行を受けてしまった。
翌朝フランチェスコは窃盗のかどで逮捕され、間もなく開かれた裁判はことごとく彼に不利なものであった。フランチェスコが投獄されてもなお、アゴスティーノは満足せず、貪欲な彼は高い地代で羊飼たちに牧場を貸そうと、この地一帯の牧場を手に入れることに成功した。このことは、彼に対する反感を一層はげしくした。
一方、監獄を脱走して山に逃げ込んだフランチェスコは妹のマリアの復讐のためにアゴスティーノの間隙を狙っていた。それを知ったルチアは矢も盾もたまらずフランチェスコの隠れている山へ走った。彼はルチアと手を携えて警官隊の包囲を逃れアゴスティーノの家へ向かった。
いち早くフランチェスコを見つけたアゴスティーノは機銃をとって発射した。フランチェスコはかすり傷を負った。既にアゴスティーノに犯され行く処もなく彼の家にいたマリアはアゴスティーノと逃げた。恐怖に襲われた彼は、羊飼たちに助けを求めた。しかしすべての家の戸は閉められていた。気狂いのように逃げまどう彼は逆上のあまり怒りをマリアに向けてついに彼女を絞殺した。
マリアの屍体を発見して激怒した羊飼たちはアゴスティーノの逃げ道をすべて封じた。フランチェスコは死にもの狂いで機銃を撃ってくるアゴスティーノに一歩一歩と近づいていった。やがて、弾丸を射ちつくして崖ぎわまで追いつめられたアゴスティーノは足をふみはずして、まっさかさまに谷底へ落ちていった。今は復讐を終えたフランチェスコは駆けつけた警官隊に潔く両手を差し出すのであった。(イタリア映画 1950年、ジュゼッペ・デ・サンティス監督 ラフ・パローネ、ルチア・ボゼー)
NHKBSの「あまちゃん」再放送が「らんまん」よりずっと面白い。母・春子の言葉を借りれば、東京では「地味で、暗くて、向上心も協調性も存在感も個性も華もないバッとしない」内気で引きこもりがちな高校生の天野アキが地元に帰ってさまざきな人々との出会いによって元気を取り戻し、海女やアイドルとして活躍しながら次第に成長していく物語である。オープニングの大友良英作曲のインストゥルメンタルのテーマ曲から「あまちゃん」の世界に戻れる。挿入歌には「潮騒のメロディー」「地元に帰ろう」「暦の上ではディセンバー」などあるが、「南部ダイバーの歌」を忘れちゃいけない。種市先輩が通う岩手県で唯一潜水の技術を学ぶ高校がある。この歌はドラマのために作ったものではなく、実際にある。高校も岩手県立種市高校が実在する。じぇじぇじぇ。ベイビー・レイズはGMT6の影武者だった。じぇじぇじぇ。うに弁当、まめぶ、双眼鏡、ジオラマ、北三陸鉄道、観光協会、喫茶リアス、パチンコ、灯台、琥珀、ストーブさん、夏ばっぱ、南部ダイバー。みんな2013年からいろいろあったけど、ちょっとなつかしい気分。
スペインのグラナダにあるアルハンブラ宮殿。711年のこの日、イスラム教徒のムーア人が、ジブラルタル海峡を渡ってイベリア半島に侵入。アルハンブラの丘を占領し定住した。創建当時、軍事要塞アルカサーバだけが建てられていた(現在、宮殿の最も西の部分)。アルハンブラ宮殿が完成したのは、13世紀ナスル朝グラナダ王国ムハンマド1世(在位1232-1273)の時代で、ムハンマド7世(在位1392-1408)のとき漸く全体が完成した。したがってアルハンブラ宮殿は13~14世紀にかけて造営された城郭宮殿であると共に、グラナダ王国全盛時代の遺構でもある。アルハンブラとはアラビア語で「赤い城」を意味する。1377年頃の着工の獅子の中庭(パティオ)が有名である。12頭の獅子の口頭から泉水が流出する仕掛けになっている。天井やアーチは繊細な装飾模様(アラベスク)で覆われている。1492年1月2日、グラナダはついにキリスト教徒に攻略され、ナスル朝最後の王ボアブディル(1460-1527)は落城の途中、宮殿を振り返って惜別の涙を流したという。(Alhambra,Granada,Boabdil、4月28日)
慶安4年(1651年)のこの日、日光東照宮の眠り猫などで知られる江戸寛永の名工・左甚五郎が56歳で逝去した。播磨国の生まれで、京都に出て禁裏大工の棟梁遊佐与平次に師事し、豊臣秀吉・徳川家康とも面識があった。寛永12年、師のあとを継いで禁裏大工の棟梁となった。日光東照宮・上野寛永寺の造営に従事したが、晩年は讃岐国高松の松平家に召しかかえられ、そこで没した。東照宮の眠り猫寛永寺の水呑み竜などは彼の作とされるが、いずれも疑わしい。その作品があまりにも精巧をきわめたために、それらが抜け出て行動するという伝説がある。甚五郎は、きわめてさっぱりとした性格で、すこしもモノに対する執着というものが無かった。だから貯えているものがなくれば、その業につとめるという有様だった。ある人がこれを諌めると、甚五郎はニッコリとして、
たのしみは貧しさにあり梅の花
と詠じたという。ただし類似の歌は「講談・紀伊国屋文左衛門」にもある。(4月28日)
左甚五郎のまとまった伝記資料は講談などでお馴染みの人物のわりに少ない。出身地も播磨明石、紀伊根来、讃岐高松など諸説ある。
匠左甚五郎伝 柳沢武運三 福老館 1888
左甚五郎 名人奇談 中村兵衛 大学館 1908
左甚五郎 山本瑞雲 書画骨董雑誌100 1916
左甚五郎利勝の略史 香川県先哲宣揚会編刊 1934
名匠左小刀実記左甚五郎伝 左光挙 世界社 1953
讃岐と左甚五郎:考証左甚考 左光挙 先哲宣揚会 1958
左甚五郎考 森本一雄 飛騨春秋35 1959
1865年のこの日、アメリカのミシシッピ川を就航していた蒸気船サルタナ号で爆発・火災事故が発生し、翌日には沈没した。およそ2500人が乗船していたが、1450人以上(1700人とする説もある)が死亡した。当時、南北戦争の後であり、リンカン大統領暗殺事件もあって、世相が混乱しており、北部の新聞は余り大きく取り上げることもなく、責任の追及もあいままなまま、事故は一般社会から忘れ去られた。(4月27日)
幕府は赤穂義士たちの切腹後、僧籍にある者と女性を除く15歳以上の男の遺児を遠島処分にした。大石内蔵助の次男吉千代(13歳)以下14人は若年により処分猶予となった。15歳以上の男児、間瀬定八(当時20歳、間瀬久太夫の次男)、吉田伝内、中村忠三郎、川松正右衛門らは伊豆大島に流罪となる。4年後の宝永4年(1707年)、将軍綱吉の死去により、大赦となり、遺児全員が赦免となった。しかしこのとき間瀬定八だけは既に他界していた。これまで正確な命日は不明であったが、近年の調査によれば、宝永2年(1705年)4月27日、伊豆大島で22歳で病死したとのことである。記録によれば定八が流罪中だった元禄16年(1703年)に大地震があった。2005年には伊豆大島で300年遠忌慰霊祭がおこなわれたという。
本日は「哲学の日」。紀元前399年のこの日、ギリシアの哲学者・ソクラテスは、死刑宣告を受けて、「悪法もまた法なり」と言って、自ら毒杯を飲んで亡くなったとされる。だがソクラテスの有名な言葉「悪法もまた法なり」の出典は、いくらさがしてもない。弟子のプラトンが書き残したという事実もない。この言葉は本当にソクラテスの言葉なのであろうか。プラトン(前427-前347)がソクラテス(前470頃-前399)に出会ったのは、ディオゲネス・ラエルティオスの「哲学者列伝」によればプラトン20歳、ソクラテス56歳、前407年と推定している。一説によると、プラトンの兄のアディマントスかグラウコンがソクラテスと親しかったからといわれる。ともかく、プラトンは以後8年間ソクラテスの弟子となる。その後ソクラテスは前399年、死刑となるが、その時、プラトンは28歳だった。ソクラテスの死は、プラトンにとって哲学の原点となった。
ソクラテスの死後、プラトンは他の人々とともに、メガラのエウクレイデスのところに一時身を寄せたほか、キュレネやエジプトに旅をしたと伝えられている。この頃、亡きソクラテスを主人公とする対話篇を書きはじめた。「政治家が哲学するか、哲学者が政治をするようにならないかぎり、人類は不幸から救われないであろう」(『国家』)というプラトンの政治哲学が生まれた。
ソクラテスが投獄されたとき、毒逃亡の機会があったにもかかわらず、国法に従って毒杯をあおいで死んだ、という話が日本では明治以来伝わるが、実はこれは作りはなしである。ソクラテス自身の著作はなく、弟子の伝聞にもない。英語でそれらしき部分には、「obey and do not do otherwise」つまり「自分の哲学に殉じて死を選ぼう」という意味。悪法でも刑に服する、の意味とは正反対。むしろ「法だからといって従う義務はない。自分自身の信念にのみ従う」ということである。明治の法曹はソクラテスの故事を遵法精神として鼓吹した。まことに国家にとって都合のよい名言である。(4月27日)
長瀬智也主演の「ごめん、愛してる」を見ている。池脇千鶴の子供が「さかな」という名前。韓国ドラマでは「ガルチ」だった。韓国語で魚は「ムルコギ」とか「センソン」とかいうが、ガルチは太刀魚の意味。「スッカラ」は韓国のスプーン。ビビンバが食べやすい。「スジョンガ」は、韓国伝統の飲み物。干し柿などの甘味とショウガとシナモンが入り、食後のデザート飲料として好まれている。
日本では自転車のことを「チャリンコ」または「チャリ」と呼ぶが、この言葉の由来には諸説あるが韓国語の「チャジョンゴ」からきているらしい。日本語と韓国語には似た発音のことばがいくつかある。数(スゥ)、雲(クルム)、熊(コム)、蝉(メミ)、カモメ(カルメギ)、蛇(ペム)などなど。
韓国のドラマを見ていると、「パボ」がよく出て来る。「馬鹿」という意味だが、語源は「パブボ」が変化したものである。「パブ」は「ご飯」、「ボ」はコッボ(弱虫)、ウルボ(泣き虫)の「ボ」で、「~虫」「~者」のような意味。つまりパブボとは、「飯を食べるだけで何もせずにぐうたらしている、おひつ(パブトン)のような間抜け(モンチョンイ)ということ。
ドラマ「冬のソナタ」(キョウルヨンガ)をもう一度最初から観る。ミニョンが、教会でユジンにプロポーズする場面。愛する女性とその子供の「暖かい手」「丈夫な足」になりたいと祈る。「タトゥタン ソン(暖かい手)」「トゥントゥンナン タリ(丈夫な足)」という。
アギ(赤ちゃん)
エンムセ(オウム)
ケー(犬)
コヤンイ(猫)
ウォーンスゥンイ(猿)
サランセ(インコ)
ポーム(虎)
チェㇰ (本)
ヨンピㇽ (鉛筆)
ハッキョ(学校)
ウネン(銀行)
ソエ(書道)
ソジョム(書店)
ヌン(目、雪)
コッ(花)
ウネン(銀行)
シージャン(市場)
チェ―ソ(八百屋)
ヤーグ(野球)
アルモㇺ(はだか)
ソーソㇽ(小説)
タル(娘)
セー(鳥)
パラㇺ(風)
プㇽ(火事)
ポㇺ(春)
ヨルㇺ(夏)
カウル(秋)
キョウル(冬)
コ(鼻)
イプ(口)
イ(歯)
オルグル(顔)
ソン(手)
クィ(耳)
モク(首)
カスム(胸)
タリ(足)
テーヤン(太陽)
ダル(月)
ビョル(星)
ハヌル(空)
バダ(海)
ムジゲ(虹)
ファジャンシル(トイレ)
ヌンサラム(雪だるま)
ナム(木)
サグァ(りんご)
タルギャル(卵)
ムㇽコギ(魚)
シㇰサ(食事)
ぺ(船、フェリー)
トーシムㇽ(動物)
コブク(亀)
ヨルデオ(熱帯魚)
ナイテ(年輪)
タマネギ(ヤンパ)
カウィ(鋏)
ポジャンマチャ(屋台)
キム(海苔)
ミヨク(わかめ)
ミョンラン(明太子)
マルンオジンオ(するめ)
オジンオ(イカ)
ヤチェ(野菜)
パ(長ねぎ)
ヤンパ(玉ねぎ)
コチュ(唐辛子)
タルギ(いちご)
ブンジエ(盆栽)
昭和34年のこの日、王貞治は後楽園球場で国鉄スワローズの村田元一投手から7回に決勝の2ランホームランを打った。これが王の公式戦初安打で記念すべき第一号本塁打だった。あらためてホームランランキングをみる。王貞治868、野村657、門田567、山本536、清原525、落合510、張本504、衣笠504と500を超えた選手は8人である。今後8位以内に入る可能性があるのは、いまのところヤクルトの村上宗隆だけだろう。昨シーズンは不調だった、現在160本で、年間30本を20年間打ったとすれば、160+600で760本となる。大きな怪我さえなければ到達するかもしれない。それにしてもなぜ昔と比べるとホームランを量産する選手がここ最近はいなくなった。理由は球場が広くなったことや投手の技術が向上したことである。また強打者も晩年になると怪我や故障で出場する機会が減ることもあるだろう。村上の場合、メジャーへの移籍もあるので、やはり本塁打ランキング10位に入る選手は今後もでそうにない。(4月26日)
花の都パリは、芸術、科学、ファッション、美食といった多様な現代文化の中で存在感を見せているが、同時に数々の歴史的大事件が繰り広げられた街でもある。フランス革命、ナポレオンの第一帝政期、パリ・コミューンと第三共和政など19世紀の世界史を動かす震源地となった。ゴシック様式の代表的建築物ノートルダム寺院の尖塔が2019年4月15日、大規模な火災はに見舞われた。1163年春、パリ司教モーリス・ド・シュリ―によって建築が始まった。そもそもパリの歴史は、現在ノートルダム寺院のあるセーヌ川の中州「シテ島」に始まる。パリの名も、このシテ島に紀元前1世紀ごろ住みついていたケルト人の一部族パリシー人に由来している。紀元前200年頃のこと、パリシー人たちが、セーヌを往来しているうちに中州を見つけ、ここに住み始めた。木造の砦が廻らされた村は、リュテス(リュテティア)と呼ばれ。パリ市の紋章には波に浮ぶ帆船と「たゆたえども沈まず」の銘が記されているが、シテ島は古く紀元前のガリア時代から、東西に流れるセーヌと南北にのびる陸路の交わる水運交通の要衝であった。ガリアがローマの支配下におかれると、石造りの神殿、宮殿の建設が進み、パリはローマ人の町として発展する。キリスト教布教が始まり、やがてリュテスは「パリ」と呼ばれるようになった。現在のフランスに相当する国の首都としてパリが出現するのは、フランク族のメロビング王朝時代である。カペー王朝の時代には、はじめてセーヌ両岸にまたがる城壁が築かれ、パリは要塞都市となった。
カペー歴代の王の中で、パリの歴史上忘れられないのはフィリップ2世である。王は道路の舗装、上下水道の工事、教会、修道院の建設に力をいれ、パリの最も美しいゴシック建築であるノートルダム寺院も、大部分はその治世の1345年に完成を見た。百年戦争中フランスはシャルル7世(アルマニャック派)と、イギリスと結んだブルゴーニュ派に分裂していた。当初イギリスがフランスのかなりの部分を占領したが、ジャンヌ・ダルクの出現により戦局は逆転した。
16世紀になると、政治・経済の中心は左岸から右岸へと移っていく。王家の宮殿ルーヴル宮、ブルボン宮、そしてマリー・アントワネットの最後の住まいであったコンシェル・ジュリー宮がある。18世紀末に始まるフランス革命、ナポレオン時代に際して、パリはいくたの劇的事件の舞台となり混乱をきわめた。現在のパリは右岸は政治・経済の街で高級住宅街、左岸は学問と芸術の街で庶民的で自由な雰囲気にあふれている。もし一日中、パリをぶらりとひとりで散歩するならルーブル美術館やシャンゼリゼ通りなどがある右岸よりも、ノートル・ダム教会前の広場からブキニスト(古書露天商)たちのいる左岸のカルチェラタンやサンジェルマンデュプレに足を運んでみよう。ソルボンヌ周辺は、今も昔もフランスの学問の中心地として、その伝統を保ち続けている。
本日は「歩道橋の日」。1963年のこの日、大阪駅前に日本初の横断歩道橋が設置された。交通事故が多発した時代で、「手を上げて横断歩道を渡りましょう」と この有名な交通安全の標語が生まれたのは同じ1963年ころであろうか。正確な期日は明らかでない。そもそも日本に横断歩道が誕生したのは1920年1月である。東京の市電を横切るために設けられたことから、最初は「横断歩道」とは言わず、「電車路線横断線」と名づけられた。夢野久作「超人鬚野博士」(1935)には「犬を引いたまま横断歩道に出ようとすると」の一文がみえる。戦後、横断歩道が全国に普及したのは1960年以降である。高度経済成長の時代に入ると交通量の増加によって、交通事故が大きな社会問題となってきた。そうしたことから、交通の安全を図るための歩道橋やガードレールなどの整備が行われ、一方では、交通安全思想の普及が推進されるようになってきた。学校の登下校時に交通整理にあたる「緑のおばさん」が街頭に立つような制度は1959年11月19日からスタートした。緑の制服に黄色い腕章で黄色い旗を振った。正式名称は「学童擁護員」。東京都労働局が、母子世帯の失業対策事業として都内732の公立小学校へ1464人の配置を計画した。勤務時間は午前中2時間、午後3時間で、日当は当初315円だった。成瀬巳喜男「ひき逃げ」(1966)では高峰秀子が幼い息子が車にひき逃げされ、復讐したのち、交通安全のため「緑のおばさん」になるという物語だった。むかし「笑点」(1971)で座布団を運んでいた松崎真は毎週「手をあげて横断歩道を渡りましょう」といっていた。彼ほど交通安全に貢献したタレントはいない。(4月25日)
宝塚市の広報(№1166)に掲載された1枚の懐かしい写真。昭和38年のもので「手を上げて横断歩道を渡ろう運動」とある。栄町・歌劇場前交差点。1963年、全国的な交通安全キャンペーンが展開されたのである。
本日は「拾得物の日」。落とし物を路上で拾得し、警察に提出した場合、遺失者が判明した場合は、物件の価格の5%~20%の報労金を請求できる権利がある。もし3ヶ月経過しても遺失者が判明しない場合は、拾得者が物件を受け取る権利がある。
トラック運転手だった大貫久男は1980年4月25日夜、仕事帰りに、銀座の昭和通りで、ガードレールの支柱の上に風呂敷にくるまれて置かれていた現金1億円を発見した。「選挙費用」「株の仕手戦の資金」など、さまざまな憶測をよんだが、結局、落とし主は現われず、1億円は大貫久男のものになった。だが所得税が約3400万円かかるため、実際の手取りは約6600万円だった。大貫は記者会見で、「幸せになるか不幸になるか、ぼくの人生が終わった時に答えが出ると思う」という名言を残した。大金を手に入れても、その後の人生を大貫は堅実に生き、平成12年11月9日、病気で61歳の幸福な生涯をとじた。お笑いタレントとして吉本に所属しているタカダ・コーポレーションの大貫幹枝は大貫久男の孫になる。近年の週刊誌情報によれば、一億円の落とし主は「政界の暴れん坊」と呼ばれた浜田幸一という代議士らしい。(一億円拾得事件)
1599年のこの日、オリバー・クロムウェルはイングランド東部ハンティントンに生まれた。翌年には、清教徒革命で処刑されたチャールズ1世が生まれた。1658年、クロムウェルが没すると、3年後、王政復古によってクロムウェルの墓が暴かれ、遺体の首が刎ねられた。クロムウェルは「王殺し」「簒奪者」と貶められたが、19世紀になると英雄として高く評価される。クロムウェルとチャールズ1世の2人は英国史でもとても有名な人物である。
王権神授説を信じたイギリス王チャールズ1世は、議会を解散し、以後11年間にわたって議会を開くことなく、専制政治をおこなった。1639年、カルヴァン派(長老派)の強いスコットランドに国教を強制したことから反乱が起こった。1642年国王は北部のヨークに逃れ、ノッティグガムで兵を挙げた。1642年10月、エッジ・ヒルの戦いは勝敗なく終わったが、議会派にオリヴァー・クロムウェルが現れると、鉄騎兵を編成し、1644年7月2日、マーストン・ムーアの戦い、1645年6月、ネーズビーの戦いで国王派は敗れ、第1次内戦は終結した。
1647年12月、チャールズ1世はスコットランドへ逃亡し、これと軍事同盟を締結して革命軍に対抗し、第2次内乱が始まった。革命軍は国王軍ならびにスコットランド軍を破り、1648年3月再び国王は囚われた。一旦は脱出したものの、1648年11月、国王はワイド島のカリスブルック城に難を避けた。しかるに議会の多数派なる長老派は王との妥協を決議した。ここにおいて、クロムウェルはプライド大佐(?-1658)に命じて長老派議員140名を議会から締め出して、わずか60名の独立議員(ランプ議会という)で1649年1月1日、国王チャールズ1世の特別裁判所設置法案が可決された。反逆罪で裁かれたチャールズ1世は、1月27日に死刑の判決が下され、1月30日ロンドンのセント・ジェームズ宮殿からホワイトホールの門を出て、ホール前につくられた処刑台に登った。最後まで身につけていた宝石と勲章をカンタベリー大司教に渡し、首切り台に身をかがめると、群衆のうめき声のうちに、チャールズ1世の首がころげ落ちた。
この清教徒革命の後、一旦王政復古になるが、1688年、名誉革命をへて、イギリスの立憲君主制が確立する。(Charles,Henrry,William) 4月25日
ゆずの歌に「桜木町」がある。ただしこの歌はJRの桜木町駅ではなく、東急東横線の桜木町駅である(現在は廃止されている)。旧国鉄の桜木町駅は明治5年、日本で最初に鉄道が開通した時に、初代の横浜駅として開業した。その後、東海道本線の延伸に伴い「横浜駅」の名称を現在の横浜駅に譲り、大正4年に「桜木町駅」に改称した。現在付近は観光客の多いみなとみらい地区や中華街へ向かう根岸線の桜木町で横浜市の中心地区としてにぎわいをみせている。1951年のこの日、桜木町駅で、国電車両が火災、わずか10分で、あっという間に火の海となり、車両は全焼、死者106人、負傷者92人という大惨事があった。被害大きくしたのはモハ63形と呼ばれる電車の構造の欠陥にあった。モハ63形電車は、昭和19年に登場した、代用材を使った危険な車両で、天井がペンキ塗りの車両は火のまわりが速く、被害を大きくしたのである。戦争の後遺症が招いた事故であった。(4月24日)
享保19年(1734年)のこの日、江戸期の商人のなかで名高い紀伊国屋文左衛門が66歳で没した。
江戸の年中行事に鞴(ふいご)まつりというものがあり、11月8日未明、市中の子どもたちが、鍛冶、鋳冶、石工などの吹革(ふいご)を取り扱う家の前に集まって騒ぐと、主人が二階から数百数千の蜜柑を投げ、子どもたちが争ってこれを奪いとる風習があった。このため11月初めには蜜柑の価格が暴騰したらしい。蜜柑を積んだ便船が紀州と江戸の間をしきりに往復した。ところがこの時期にはちょうど寒風が吹きすさび、海上が大荒れに荒れる。名にし負う熊野灘、75里の遠州灘を無事に乗り切ることは容易ではない。
たまたま、この前後、暴風雨が吹きまくって、さすがの海の荒くれ男たちも出帆を躊躇している時、紀伊国屋文左衛門(1669-1734)は決死の覚悟で船を出したのだ。長唄の「紀文大尽」によると、正保元年の霜月のことだそうで、蜜柑8万5千籠を船に積んで、乗組員は白装束に縄だすき、みずから幽霊丸と名のり、遠州灘を乗り切った。ふいご祭りに間に合ったため、危険を冒した甲斐あって5万両という巨利を一時に博したという。この文左衛門の行動はまったく度胸の一語につきる。「沖の暗いのに白帆が見える。あれは紀伊国蜜柑船」と俗謡に唄われた。
ただし、紀文度胸千両の蜜柑船の話は、現在のところそれを裏づける確たる資料はほとんどない。文左衛門は元禄11年2月9日に上野寛永寺根本中堂の造営に際し、その用材の調達を一手に請負い巨利を得たというのが史実に伝わるところである。(4月24日)
1348年のこの日、イングランド王エドワード3世がガーター騎士団を創設した。ガーター勲章とは英国の最高勲章。靴下留に似て、左膝下に着ける。エドワード3世がソールズベリー伯爵夫人とダンスを踊っていたとき、夫人のガーターが落ちた。これは当時としては大変はしたないことだった。王はそっとこれを拾って、自分の膝にはめ、自分のもののようなふりをして、彼女を助けた。そして「悪意を抱く者に災いあれ」といった。この言葉がガーター勲章に銘文となってぬいとりされている。(4月23日)
自転車という外国の乗り物が、近代日本に、いつ頃伝わり、どのように受容されたのであろうか。わが国に自転車が伝来したのは、長い間、明治3年(1870年)と見る説が定説のように流布されていた。これは石井研堂「明治事物起源」の影響が大きい。しかしこの説で日本で初めて自転車に乗ったとされる佐藤アイザックという人物の正体が明らかとなった。本名を横山錦柵といい、嘉永2年生まれで、18歳で英語を学ぶため渡米し、1877年に帰国している。つまり1870年の自転車渡来とは無関係であることが判明した。明治10年代には横浜で自転車のレンタル業が始まっている。また国産初の自転車製作は滋賀県長浜市の国友鉄砲鍛冶師が1891年に作ったともいわれている。「日本近代総合年表」(岩波書店)によると、1889(明治22)年の項に「この年、大阪・神戸に自転車(鉄輪)流行し、貸自転車ふえる。賃料1時間5銭」とある。
自転車の発明は1817年ドイツのカール・フォン・ドライスが発明したドライジーネと呼ばれる木製の二輪車が今の自転車の元となったとされている。ところが自転車の発明は西洋ではなく、江戸中期に日本人がすでに発明していたという説が近年あきらかにされた。増田一裕によると、武州児玉郡北堀村の組頭の庄田門弥が1729年に「陸船車(りくせんしゃ)」という木製の乗り物を作った。徳川吉宗も興味をもち、陸船車を江戸に献上させたという。
自転車といえば徳川慶喜。慶喜は明治20年ころ当時珍しかった自転車を購入し、静岡で乗り回し余生をエンジョイしている。 日本に自転車が一般に普及するのは1890年代に入ってからである。福沢諭吉や夏目漱石は自転車に乗れたのか?福沢は高齢になっているので少し無理かもしれない。ただし1902年に慶応義塾自転車競技部が設立され、息子の福沢一太郎が初代部長であるから、自転車にはなみなみならぬ関心があったことと思う。漱石には「自転車日記」という作品がある。1902年、留学先のロンドンで下宿の婆さんに薦められて自転車に初めて乗った。すでに35歳になっていたが、運動神経のよい漱石は悪戦苦闘のすえ、どうやら無事乗りこなすまでに上達した。漱石と同世代の東洋史学者、那珂通世は自転車博士といわれるほど自転車が好きで、朝鮮や満州に自転車旅行している。中村春吉は1902年、自転車で世界一周旅行を達成した。
最近、新潟県加茂市で「なるべく自転車に乗らないように」という文書が小中学生に配布された。交通事故防止のためであるが環境整備が大事であるとの批判もある。近代人にとってもはや自転車は不可欠なものだが、交通マナーなど安全教育の徹底を若いうちに図る必要がある。4月からはヘルメット着用が始まった。「人生とは自転車のようなもので、倒れないようにするには走らなければならない」(アインシュタイン)
図書館に勤め初めた頃、書庫出納といって利用者の求めに応じて、書庫から本を取り出す仕事をしていた。古い小説でも度々利用のある本があった。横溝正史の本だ。もちろん角川書店の横溝ブームの前の話である。ぼろぼろになった本だが、マニアがいるので超人気だった。古谷一行の金田一耕助役でドラマ化されたときにはじめて内容を知った。昨夜は、NHKBSプレミアムで吉岡秀隆主演「犬神家の一族 前篇」を見た。大竹しのぶの犬神松子は適役であるが、ヒロインの野々宮珠世は明らかにミスキャスト。原作では頭脳明晰な美女となっており、古川琴音ではチョットねぇ。終戦後まもない頃の話だが、猟奇、耽美の世界に魅かれる。その先駆者は江戸川乱歩だろう。(あるいは大正期の谷崎潤一郎か)乱歩が「新青年」に「二銭銅貨」を発表したのは大正12年4月。以後「D坂の殺人事件」「心理試験」「赤い部屋」「屋根裏の散歩者」「人間椅子」「パノラマ島奇譚」「陰獣」「猟奇の巣」「魔術師」「黄金仮面」「吸血鬼」「盲獣」「白髪鬼」「恐怖王」「妖虫」「人間豹」「暗黒星」などを発表する。雑誌「新青年」には乱歩にほかに、甲賀三郎、谷譲次、渡辺温、夢野久作、横溝正史、妹尾アキ夫、久生十蘭、海野十郎などが健筆を揮い、探偵小説から推理小説、冒険小説、空想科学小説など多様なジャンルの作品が現われた。
白い猿の兄弟ヤンボー(里見京子)、ニンボー(横山道代)、トンボー(黒柳徹子)が親と死に別れて力を合わせながら旅をする「ヤンボーニンボートンボー」というNHKラジオドラマがあった。この話は飯沢匡(1909-1994)が、ウォルター・デ・ラ・メア(1873-1956)の「サル王子の冒険」をヒントにして作ったといわれる。デ・ラ・メアには童謡や子供向けの詩も多いが、その内容には死や人生への深い思索を含んでいる。
デ・ラ・メアはイギリスのケント州チャールストンで1873年4月23日、ユグノーの子孫として生れた。母は詩人ロバート・ブラウニングの遠縁にあたる。4歳のとき父が亡くなったため、母から聞いたおとぎ話、伝説などによって大きな影響を受けた。ロンドンのセント・ポール校を卒業後、18年間石油会社の会計士をしていたが、1902年にウォルター・ラマルという筆名で詩集「幼時の歌」を出し文名を確立。続いて小説「ヘンリー・ブロックン」を出した。1908年、会社をやめ作家生活に専心するようになり、詩集「耳をすます人ら」(1912)「雑色その他」、小説「小人の思い出」(1921)、童話「三匹の猿王子」(1919)などを発表。「三匹の猿王子」はサム、シンプル、ノッドの三匹の猿が、父の国ティシュナーの谷まで苦難にみちた旅をする話で日本でも飯沢匡「サル王子の冒険」、脇明子「三匹の高貴な猿」など翻訳が出ている。他に「無常その他」「ヴェールその他」「旅人」(1946)「内なる仲間」「翼にのった馬車」(1951)「子どものための物語集」(1949年カーネギー賞)「くじゃくのパイ」(1913)などがある。1956年6月22日、逝去。
窓
ブラインドのかげにすわり
ぼくは見つめている
外を行きかう人びとを
通りすぎる人たちを
だれひとりとして気づかない
じっと見ているぼくの小さな目には
だれにも見えない
ぼくの小さな部屋は
ブラインド越しの太陽で
みんな黄色く見えるこの部屋は
だれも知らない
ぼくがここにいることさえも
だれも気づかない
ぼくがいなくなっても
*
かくれんぼ
かくれんぼしよう、と風がいう
森のこかげで
かくれんぼしよう、と月がいう
ハシバミの木の実に
かくれんぼしよう、と雲がいう
星から星へ
かくれんぼしよう、と彼がいう
港の砂州で
かくれんぼしよう、とぼくもいう
自分で自分にいってみて
目ざめの夢をあとにして
眠りの夢にすべりこむ
( Walter de la Mare )
ヨシフ・ビサリオノビチ・スターリン(1878-1953)はソ連の政治家。19歳で革命運動に入り、投獄・流刑・脱走を繰り返し、露十一月革命にレーニンを助けてボリシェヴィキ内に重きをなした。レーニンの死後、カーメネフ、ジノヴィエフなどを抑えて、ソ連の最高指導者となり、新経済政策を完遂し、数次の五ヵ年計画を推進、第二次世界大戦には社会主義国家の防衛に努め、戦後ソ連を2大強国の1つにした。だが死後に開かれた1956年のソ連共産党大会では専制的傾向はスターリン主義として批判された。▽「ヨアヒム・リッター」1903-1974。ドイツの哲学者。▽「ヨーハン・ジギスムント」1572-1619。ブランデンブルク選帝侯及びプロイセン公。
ヨアヒム・フォン・ザンドラルト
ヨアヒム・フォン・リッベントロップ
ヨアヒム・リッター
ヨアヒム・ワッハ
ヨアン・グリフィズ
ヨウェリ・カグリ・ムセベニ
ヨシップ・ブロズ・チトー
ヨシフ・ビサリオノビチ・スターリン
ヨースタイン・ゴルデル
ヨーゼフ・ゲッペルス
ヨーゼフ・シュンペーター
ヨセフ・スカリゲル
ヨーゼフ・ソンパティ
ヨーゼフ・ローゼンシュトック
ヨーゼフ・ロート
ヨハニス・デ・レーケ
ヨハネ・パウロ1世
ヨハネ・パウロ2世
ヨハネス・アモス・コメニウス
ヨハネス・グーテンベルク
ヨハネス・ケプラー
ヨハネス・フェルメール
ヨハン・アウグスト・ストリンドベリ
ヨハン・ガーナー・アンダーソン
ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲー
ヨハン・ウィルヘルム・クライン
ヨハン・グナール・アンダーソン
ヨハン・クライフ
ヨハン・グンナー・アンダーソン
ヨハン・ゲオルク・ハーマン
ヨハン・ゴットリープ・フィヒテ
ヨーハン・ジギスムント
ヨハン・シュトラウス1世
ヨハン・シュトラウス2世
ヨハン・ゼバスティアン・バッハ
ヨハン・テッツェル
ヨーハン・ハインリヒ・ブリンガー
ヨハン・ハインリッヒ・ペスタロッチ
ヨハン・パッヘルベル
ヨハン・バプティスト・フォン・エスターライヒ(ヨハン大公)
ヨーハン・ファン・オルデンバルネフェルト
ヨハン・フォン・ルクセンブルク
ヨハン・ペーター・エッカーマン
ヨハン・ホイジンガ
ヨハン・ミヒャエル・ザイラー
ヨハン・ヨハンソン
ヨハン・ロイヒリン
ヨーヨー・マ
ドイツの哲学者イマヌエル・カントの1724年の誕生日。ある大学の教授が、ドイツ哲学を専攻する学生が、ここ数年いなくなった、と嘆いていた。哲学科や史学科には学生が集らないという。大学にきちんと文学部があって哲学科や史学科があるところも少なくなっているらしい。その教授の話によれば、「今どきの流行は国際・情報・環境などで、こういったキーワードで看板を付け替えないと予算が回ってこないという事情がある。民俗学はほとんど消滅しており、史学科も東洋史、西洋史という区分けでの研究が難しくなっている。見栄えのよいラベルと評価受けの良い外向けのメニューは並べ立てられているが、内容は反比例して空疎になっている」とのことである。最近の大学は産業界との連携で、人文社会系より自然科学系、基礎研究より応用・実用研究、教養的教育よりは実習的研究、に片寄る傾向がある。そのほうが公的資金を得られやすいからである。高等教育機関が国家戦略の手先と成り下がった。ヘーゲルの言葉には「理性的なものは現実的であり、現実的なものは理性的である」という有名な句があるが、理性的であるためには、まず学問の場の自由な精神文化を回復することが必要であろう。18、19世紀の西洋近代がこれまで築いてきた伝統的な学問を学習、研究する今日的な意義は少しも失われていない。(4月22日)
新婚夫婦が新居に入るとき、西洋では夫が花嫁を抱きかかえて、いわゆるお姫様抱っこで入るという風習がある。これは古代ローマから伝わる儀式ともいわれる。ローマは建国当初、入植兵は男ばかりで女が不足していた。そこで近くのサビニ族の処女の娘たちを略奪したことに由来する。「掠奪された七人の花嫁」(1954)というシネマスコープの映画がある。7人の山男が村から花嫁を奪ってくるという話。ミュージカルの歌詞にもあるように、ローマ建国時代のサビニの娘を掠奪したという伝説がモチーフになっている。なぜ7人にしたのかは不明だが、「ローマの七つの丘」に由来するのだろう。パラティヌスの丘に住むロムルスは近くのクリナリスの丘のサビニの娘をさらった。初代王ロムルスのあと6代の王が続いた。伝説の王は7人。旧約聖書にあるダニエルの預言では、7本の角がはえた獣が世界を支配するというが、この獣はローマ帝国を象徴しているという。ローマにはなぜか7という数字がまつわる。紀元前753年のこの日、ロムルスが初代ローマ王に即位した。
イタリアの地名の由来は子牛にちなんでいる。現在もイタリア語vitellaは「雌若牛」の意味。古代、半島南部で多くの牛が放牧されていたことからギリシア人がVitellia(ウテリア)と名付けたという。古ラテン語のvitulus(子牛)に由来する。 (Romulus、4月21日)
山下奉文(1885-1946)中将に「マレーの虎」という異名がついたのは、シンガポール攻略の後である。イギリスの東洋における最大の根拠地を短時間で占領したのは、突如としてジャングルから姿をみせた虎としか形容のしようがなかったからであろう。ぎょろりとした眼、日焼けしたたくましい顔、堂々とした体躯、大音声で指揮をとる猛将にふさわしい異名であろう。
山下奉文司令官とパーシバル総司令官との降伏会見は昭和17年2月25日午後7時、ブキテマ高地のフォード自動車工場で行われた。パーシバルは停戦を申し込み、シンガポールの治安を任せてほしいと主張したのに対し、山下は条件は後回しだ、降伏するのかしないのか、と迫った。日本軍は降伏の意思表示がないかぎり夜襲を決行するつもりだった。いらだった山下は「条件は後回しだ、降伏するのかしないのか、イエスかノーか聞いてくれ」と通訳に命じた。パーシバルはやむなく「イエス」と無条件降伏を受諾した。午後7時50分だった。マレー・シンガポール作戦における日本軍の戦死者は約3500名、連合軍の捕虜は7万とも10万ともいわれる。
しかし「マレーの虎」と称された山下奉文は東条英機に嫌われその後は満州に左遷された。フィリピン防衛戦で呼び戻され総指揮官となったが、すでに勝機はなく、あまつさえ情報無視のレイテ決戦を上級司令部から強いられた。そのため肝心のルソン島決戦ではほとんど満足な兵力がなく、完敗。敗戦後、マニラの戦犯裁判で、「パターン死の行進」捕虜への残虐行為の責任を問われ、昭和21年2月23日午前3時2分、マニラ郊外のラグーナ・ロス・バニョスで絞首刑になった。遺体がどこに埋められたかはわかっいない。だが山下奉文大将の、恰幅の良さを表わす外套が「陸上自衛隊第一師団広報史料館」(練馬区北町)に展示されている。(参考:「面白いほどよくわかる太平洋戦争」日本文芸社)
北宋朝の第8代皇帝、徽宗(1082-1135)。神宗の第11子で、兄の哲宗が皇子なく没したため、神宗の皇后・向氏の強力な支持で思いかけず帝位についたが、政治には熱心ではなく、蔡京などの重臣を寵任し、その勧めによって豪奢な生活をして国費を費やした。宮殿や人工庭園を造ったり、道教を尊崇して多くの道観を建てたり、花石鋼と呼ばれる珍木奇石を運河で開封まで送らせたり、また画院を盛大にし院体画の隆盛を招いたり、全国から文化財を集めて保護を加えたりして、文化史上「宣和時代」といわれる盛世を現出した。自らも詩文・書画をよくし、歴代皇帝随一の文化人といわれる。しかし、徽宗の時代は北方の勢力におびやかされ、1125年に金が侵入したため、五国城に逃れたが1135年4月21日、52歳で没した。なぜかウィキペディアやウィクショナリーに徽宗の項目がないが、文化史的に重要人物である。徽宗皇帝の真筆とされる「桃鳩図」(1107年)は日本にある。(国宝)現在の所有者は鎌倉の骨董美術商雅陶堂主人の瀬津巌である。個人所蔵なので一般人が目にすることはない。またこの名画はいつごろ、どういう形で日本へ持ち込まれたのか不明である。3代将軍足利義満(1358-1408)の所蔵を示す「天山」の鑑蔵印があることから、舶載の時期は日明勘合貿易あるいはそれ以前とも考えられる。義満から義政へ、義政から大内義隆へ、義隆から井上馨、現在へのルートは省く。鎌倉時代から唐物趣味は盛んであった。考えられるルートとしては、①靖康の変(1126-1127)の時期②金が押収し、燕京(現在の北京)へ行き、日金貿易で日本へ③日元貿易で日本へ。このルートは輸入品は多い④足利義満の始めた日明勘合貿易(1401年)のルートで輸入された、などが考えられる。
16世紀前半、ムガル帝国は、軍事財政制度を柱に統治と支配を広めていった。ムガル帝国は、中央アジアから進出したイスラーム国家であり、少数派として多数派のヒンドゥー勢力を支配しなければならなかった。その際に採用しているのは、官位に応じた軍馬を維持することを定めたマンサブダール制と、担当する統治地域からの税収入を給与として与える給与地制とも呼ばれるジャーギール制という2つの制度を組み合わせた軍事財政制度であった。パーニーパットはデリーの北方約90㎞にある。1526年4月21日、バーブル(ティムールの5代の子孫)がロディー朝のイブラヒムを討って、デリーとアグラを占領し、ムガール帝国の基礎を築いた。約100頭の象軍を主力とするローディー朝の10万の大軍を、1万2000の兵で打ち破ることができたのは、鉄砲という火砲を用いたことと騎兵を利用したためといわれている。( keyword;Battle of Panipat,Babur,Ibrahim )
本当に能力のある者は、それをひけらかすようなことはしないたとえ。日本では古来から「能ある鷹は爪を隠す」というが、西洋では鷹の代わりに猫が使われている。英語で、Cats hide their claws.
中国南部、広東省・広西チワン族自治区で記録的な大雨が続き、今後も豪雨が予想されている。広大な中国は南北での自然のちがいがある。まず地理的概観を調べてみよう。
地理的概観(UNIT1)
中国の位置 アジアの東部、太平洋の西岸に位置する。中国には「北に行くほどトランクが軽くなり、南に行くほどトランクが重くなる」という言葉がある。これは旅行者が北に行くにつれて、トランクから1枚ずつ着るものを取り出して重ね着して行くこと、反対に南に行くにつれて、1枚ずつトランクにしまいこんで行かねばならないことをいったものだ。南北は、緯度およそ北緯4度から54度、東西は経度およそ東経78度から東経135度のあいだにある。
中国の境域 陸上では北朝鮮、ベトナム、ラオス、ミャンマ、インド、ブータン、ネパール、パキスタン、アフガニスタン、ロシア、モンゴル人民共和国と国境を接している。海上では日本、フィリピン、マレーシア、インドネシアおよびブルネイと相対している。
面積と人口 中国は面積959万7000k㎡、人口14億1177万8724人(台湾、香港、マカオを除く)。2021年の国勢調査による。面積はアジア大陸の25%をしめ、ロシア、カナダについで世界第3位。現時点では中国の人口は世界第1位である。つまり世界の人口約77億のうち約5人に1人が中国人である。だが2023年半ばの時点ではインドが世界最多となる予想される。
民族 中国は人口の9割(91.5%)占める漢民族と、蒙古・回・チベット・ウイグル・ミャオ・トチャ・イ・チワン・プイ・朝鮮・満・高山族など55の少数民族からなる多民族国家である。そのうち、北方の森林で狩猟をいとなむツングース系諸民族、ステップで遊牧をいとなむモンゴル系諸民族、オアシス世界に生きるテュルク系諸民族、高原で牧畜・農耕をいとなむチベット諸民族、南西山地で農耕をいとなむミャオ・ヤオ系およびモン・クメール系諸民族、南部で水稲耕作をいとなむタイ系諸民族のグループにわかれる。
行政区 全国には、合わせて23の省、5つの自治区(広西チワン族・内モンゴル・新疆ウィグル・寧夏回族・西蔵)、3つの直轄市(中央政府の直轄する市、北京・上海・天津市)があり、首都は北京。
自然環境 中国の地形は西に高く、東に低いが、複雑であり、気候風土も変化に富んでいる。気候は、秦嶺山脈と淮河を結ぶ年間降水量1000mmの線(チンリン=ホワイ線)を境として、北部が寒冷で乾燥、南部は温暖で湿潤であり、「南船北馬」という言葉に表されている。南は船で、北は馬による交通の違いを指した言葉であるが、その背後には自然のちがいがある。
国土総面積に占める各種地形の比率は、山地が約33%、高原が約26%、盆地が約19%、平原が約12%、丘陵が約10%となっている。慣習的に山区といわれるものには山地、丘陵、そして比較的起伏のある高原が含まれ、それらが全国土の3分の2を占めている。
中国の地域区分
広大な中国の地域を、地形・気候その他の自然的条件により、また人文地理的要素を考えて、華北・華中・華南の3地域に区分することができる。華北と華中の境界は、淮河と秦嶺を結ぶ線にある。華北が黄土地帯を中心とする乾燥農耕地帯であるのに対して、華中は水田耕作に適している。「南船北馬」という言葉は、華北では馬が主要な交通機関であったのに対して、江南では交通や灌漑のための水路が縦横に発達していたことを語っている。
option 中国文明は世界最古の文明であるとともに、独自の文化を今日まで持続したという点では世界でも類例がない。このことを地理的観点から考えてみよう。
アジア大陸の東端に位置している中国は、エジプト、メソポタミアなどの古代文明諸国からもっとも遠くはなれたところで文明を形成した。地理的位置に起因する文化的孤立性は中国の民族文化の形成に深い影響をあたえずにおかなかった。中国をふくめた四つの古代文明は、いわゆるアフロ・ユーラジアン複合体をつくっているが、世界の屋根である高峻なヒマラヤ山脈とタクラマカン砂漠などの天然の障壁とにさえぎられた遠東の中国は、他の三文明からもっともかけはなれた存在であって、相互の交渉はわずかに駱駝の背にのって砂漠をわたる隊商によってもたらされた。西アジアやヨーロッパの政治的支配が中国の領土や勢力圏に直接及んできたことは、17世紀にいたるまではなかった。したがって、中国は巨大な領域をしめながら、地理的にも、政治的にも、孤立した地域を形成し、そのなかで独自の文化を発展させてきたのである。すなわち、古い文化を発生させたエジプトのナイル川やチグリス・ユーフラテス河流域、あるいはギリシアやインダスにおいて、その文化が停滞し、衰亡したのに比べ、中国はむしろその孤立性を生かし、インドや西方の文化的な刺激を生かして、独特の文化を形成したのである。(参考:貝塚茂樹「中国の歴史」岩波新書)
中国地理関係文献
清国地理小誌 高田義甫著 島林専二郎刊行 1880
清国道中里程図誌 川端恒太郎 京都・杉本甚助 1885 地図
禹域通纂 楢原陳政 大蔵省 1888
清国本部與地図 中田貞矩編 中村芳松(大阪) 1894
中国彊域沿革図 附説略 重野安易繹 河田黒合 冨山房 1896
朝鮮支那地名辞彙 根来可敏編纂 共同出版社 1910
支那省別全誌 全18巻 東亜同文会 1917-1920
中国地名大辞典 劉鈞仁著 国立北平研究院 1930
中国古今地名大辞典 商務印書館 1931
満州地名辞典 岡野一朗 日本外事教会 1933
満州地名索引 加藤新吉 満州鉄道総局 1936
現勢上海・南京詳図 六芸社 1937
最新支那及極東地図 アトラス社編 アトラス社 1937
最新支那大地図 大林堂 1937
満州国地名大辞典 山崎惣与 満州国地名大辞典刊行会 1937
古地理学 陳兼善 長沙商務印書館 1940
支那地名辞典 星斌夫著 富山房 1941
新中国地理 森下修一訳編 古今書院 1956
中国地方誌連合目録 1964 東洋学文献センター連絡協議会編 東洋文庫 1965
アジアの農業 アジア経済講座3 石川滋編 東洋経済新報社 1971
中国総覧 中国総覧編集委員会編 アジア調査会(霞山会) 1971-1986
中国大陸省別地図 越村衛一・矢野光二編 外交時報社 1971
中国地図帳 平凡社編 平凡社 1973
中国地名大辞典 旧・国立北平研究所版 東京美術 1974
中国の地理 浅川謙次監修 人民中国編集部編 築地書館 1975
中国地理の散歩 阿部治平 日中出版 1979
中華人民共和国地質図集 付・別冊 中国地質科学研究院主編 佐藤信次訳 築地書館 1980
現代中国地理 その自然と人間 黄就順著 山下龍三訳 帝国書院 1981
中国大陸五万分の一地図集成 8冊 総合索引 科学書院 1986-2002
中国大陸二万五千分の一地図集成 4冊 索引図 科学書院 1989-1993
昭和18年4月18日午前6時、山本五十六ら11人が乗った一番機と、宇垣纏ら12人が乗った二番機の一式陸攻がラバウルを発進した。護衛につくのはわずか6機の零式艦上戦闘機だった。一番機には、山本五十六、福崎昇、高田六郎、樋端久利雄、小谷立、大崎明春、田中実、畑信雄、上野光雄、小林春政、山田春雄(全員死亡)。 二番機には、宇垣纏、北村元治、林浩、友野林治、今中薫、室井捨治、藤本文勝、谷本博明、伊藤助一、八記勇、野見山金義、栗山信之が搭乗していた。(宇垣、北村、林は生存)。 護衛機6機は、森崎武、辻野上豊光、杉田庄、日高義巳、岡崎靖二、柳谷謙治。
ブーゲンビル上空でアメリカ軍により撃墜された。(アメリカ側ではヴェンジェンス事件、日本側では海軍甲事件と呼ぶ) 山本らの戦死は1ヶ月間、極秘にされた。5月21日、大本営発表で公表され、6月5日に国葬が行われた。明治27年から昭和20年までに帝国海軍は24人の連合艦隊司令長官が就任したが、在職中に戦死したのは山本五十六、唯一人である。(参考:蜷川親正「山本五十六検死ノート」光文社、高城肇「六機の護衛戦闘機」光人社)
シェイクスピア(1564-1616)の時代の芝居の女役は、まだ声変わりしていない少年が演じていた。従って女性の登場人物の台詞はどれもあまり長くない。女優のオフィーリアが見れるようになるのは1660年から後のことである。
ところで戯曲「ハムレット」の出版は1603年であるが、上演初演は1600年から1601年にかけての頃であろう。「ハムレット」に似たストーリーの劇は1598年頃からなんらかの形で行なわれていたらしく、それは通常「原ハムレット」と呼ばれていて、1594年に上演されたという記録が残っている。シェイクスピアがそれをもとにして「ハムレット」を書いたことはまちがいない。おそらく1600年のことであろう。そうすると、日本で言えば慶長5年(1600年)、あの関ヶ原の戦の年である。
シェイクスピアと徳川家康(1542-1616)とは同時代人だ。シェイクスピアは1616年4月23日、52歳で世を去っている。家康は元和2年4月17日(太陽暦5月22日)、73歳で亡くなっている。死因は鯛のてんぷら説もあったが、近年は胃がん、梅毒説が有力である。
映画「ラストコンサート」がムービープラスで放送していた。フランスのノルマンディにある世界遺産モン・サン・ミッシェルが2人の出会いの舞台である。天国に向かって舞い上がる尖塔はお伽話の城のような建物で、フランスの観光地としてトップクラスの人気スポットである。しかし50年前までは海外からの観光客はまだ少なかった。モーパッサンは「レースのように繊細にカットされた、みごとなカメオ細工のごとき巨大な宝石」と評した。サン・マロ湾上に浮かぶ小島モン・サン・ミシェルに築かれた修道院。聖堂の高さは約150m。城郭は満潮時には海に浮かび、干潮時には陸地と繋がっている。この島は、もともとモン・トンブ(墓の山)と呼ばれていたが、先住民ケルト族の間に信じられている海の墓場であったことを示す。708年、アヴランシュ司教オベールが礼拝堂を建てたのが始まりである。966年にはノルマンディー公リシャール1世(在位942-996)がベネディクト会の修道院を建て、これが増改築を重ねて13世紀にはほぼ現在のような形になったものである。1000年近くの間、巡礼地となった。しかしフランス革命で修道院制度が廃止されたため、モン・サンミッシェルは監獄として使用されるようになる。モン・サン・ミシェルはいまだかつて一度も攻略されたことのない城砦といわれている。1254年にルイ9世が島全体を城砦化して、百年戦争、カルヴァン派の攻撃にも耐え守り抜いた堅固な城砦である。( keyword;Mont Saint Michel,Mont Tombe,RichardⅠ,duc de Normandie,Benediccti )
月9ドラマ「ビブリア古書堂の事件帖」古書にまつわる薀蓄が散りばめられながらミステリーを解き明かす栞子。これまで取り扱った作品は、漱石全集・新書版「それから」、小山清の「落穂拾い」、ヴィノグラードフ「倫理学入門」、宮沢賢治「春と修羅」、アンソニー・バージェス「時計じかけのオレンジ」、太宰治「晩年」、足塚不二雄「UTOPIA最後の世界大戦」、ロバート・F・ヤング「たんほぽ娘」集英社コバルトシリーズ、ロシア絵本ウスペンスキー「チェブラーシュカとなかまたち」、江戸川乱歩「少年探偵団」。知らないことのほうが多い。これまで書名は知っているが、内容は知らない、うわべだけの知識を「本屋学問」とか「外題(げだい)学問」といって、見下していた傾向がある。「貸本屋げだいばかりの学者なり」 だが本屋や図書館員には「外題学問」が必要である。昭和11年ごろ山本書店(1956年、山本七平が創業した山本書店とは別)から山本文庫という、瀟洒な市松模様のデザインの薄い文庫本が57点刊行された。全点海外文学で、無名時代の中原中也や堀辰雄、立原道造らが翻訳を担当し顔ぶれがすごい。きれいな装幀と希少性から、古書価が高く、一冊で5000円から1万円はするという。戦後、昭和23年に異装幀で復刊したことがある。書店主の山本武夫は旧制二高で教わった縁で登張竹風(1873-1955)の随筆や翻訳を出し、武者小路実篤の新しき村の会員でもあった。だが山本武夫の生没年など詳細はわからない。(参考:高橋英夫「薄命もまた本のさだめ」図書662号 2004..07)
愛の封印 グラツィア・デレッダ 岩崎純孝訳
新しいイヴと古いアダム D.H.ロレンス 原百代訳
アムステルダムの水夫 アポリネール 堀辰雄訳
アリサの日記 アンドレ・ジイド 山内義雄訳
雄鶏とアルルカン コクトオ 佐藤朔訳
吸血鬼 バイロン 佐藤春夫訳
狂癲説 エドガア・A・ポオ 内藤吐夫訳
ゲーテの言葉 ゲーテ 石中象治訳
小鳥の英文詩 ジエフリズ 戸川秋骨訳
小散文詩 ボオドレエル 三好達治訳
真珠嬢 モオパッサン 岸田国士訳
従軍日記 カロッサ 片山敏彦・竹山道雄訳
青年文学者への忠言・玩具の談議 ボオドレエル 中島健蔵・佐藤正彰訳
地の糧抄 アンドレ・ジイド 辻野久憲訳
ドニイズ・花売娘 レエモン・ラディゲ 堀口大学訳
二十六人と一人 ゴリキイ 湯浅芳子訳
大江健三郎の「個人的な体験」を読んでいると、「おれの息子は戦場で負傷したアポリネールのように頭に繃帯をまいていると鳥(バード)は考えた。おれの見知らぬ暗くて孤独な戦場でおれの息子は頭に負傷したのだ。そしてアポリネールのように繃帯をまいて声のない叫び声をあげている・・・唐突に鳥は涙を流しはじめた。アポリネールのように頭に繃帯をまいて、というイメージが鳥の感情を一挙に単純化し方向づけていた。鳥はセンチメンタルでぐにゃぐにゃの自分が許容されて正当化されるのを感じ、自分の涙に甘い味すら見出した。おれの息子はアポリネールのように頭に繃帯をまいてやってきた。おれの見知らぬ暗くて孤独な戦場で負傷して、おれの息子を戦死者のように理解してやらねばならない。鳥は涙を流しつづけた。」
アポリネールとはフランスの詩人である。わずか数行の文章に4回もアポリネールの名前がでてくる。1916年に第一次世界大戦に兵役志願したアポリネールは最前線で流れ弾を受け、負傷して東部を繃帯に巻いた写真がよくみることがある。フランス文学専攻の大江にとってはかなり印象的な写真なのであろうか。
このブログで「小説家とは何か」というたいへん難しい、しかし興味ある論議がされていますが、大江健三郎という著名な一人の作家に関して考えてみます。画像はおそらく芥川賞を受賞した頃(23歳)の写真です。狭いアパートには机の上には広辞苑とわずかな書籍、簡易なベットがあります。そして痩せて蒼白く神経質そうな貧乏学生の大江がいます。当時、大江が読んでいた本は、パスカルとカミュに熱中し、やがてサルトルに関心を持ちはじめた。安部公房、ノーマン・メイラー、フォークナー、ソール・ベローなどを読む。卒論では「サルトルの小説におけるイメージ」を論じている。これらサルトルの思想が受賞作「死者の奢り」に大きく反映されている。
日本文学は現在、村上春樹などの作家の作品が海外で翻訳されて書店に並んでいるが、この当時は、日本の作家の小説が海外で紹介されることはほとんどなかった。まもなく川端康成や三島由紀夫が海外で知られるようになるが。だが評論家たちの高い評価をえるのは、戦後作家といわれる大岡昇平、埴谷雄高、野間宏などであり、彼らはそれぞれスタンダール、ドストエフスキイ、サルトルなど海外の作家に大きな影響を受けていた。後輩作家の大江健三郎もサルトル(もしくは実存主義)という世界文学の潮流の中で「存在とは?」というテーマを捉え、自己の文学的出発点としたことが、学生作家として幸運なデビューを飾った一因であろう。昭和30年代ころから、日本の文学も文章の美しさや漢語を駆使した修辞よりも、作家の主体性やイメージ、より深い内面性、現代性が求められるようになったといえる。大江が人生の大きな転機となったのが、1963年(当時28歳)第一子、光くんの誕生であった。翌年、知的障碍者を持つことになった父親の苦悩と葛藤を描いた「個人的な体験」を発表した。絶望から希望を見出すラストに評論家たちから批判はあったが、わが子の命を守り健全に育てていくという決心に感動を与えられた読者も多い。
釈迦の誕生会の日に各宗寺院で行われるはなやかな行事。大阪の四天王寺の花祭はことに有名である。太子は誕生するとただちに六方にむかって、それぞれ七歩ふみだして「天上天下唯我独尊」ととなえたという。(4月8日)
大江健三郎さんの訃報もだいぶんショックだが、それに続くようにムツゴロウの愛称で親しまれた作家の畑正憲さんが5日、心筋梗塞で亡くなられた。2人は同じ昭和10年生まれである。作風は異なる両者だが、親交があったのかは知らない。畑が東大在学中に大江の初期作品を読んで「同じ大学にこんな凄い奴がいる」と、それを読んで純文学の作家志望をあきらめたといわれる。むかしNHKのある番組に畑さんが出演したとき、「それまで難しい外国文学ばかり読んでいたが、源氏鶏太の三等重役を読んでこんな楽しい文学もありなんだと気づいた」と語っていた。畑さんは動物番組の先駆者といわれるが、その波瀾万丈の人生は将来、朝ドラ主人公のモデルにとても向いているように思われる。
1945年のこの日、前の小磯内閣の総辞職を受け、枢密院議長だった鈴木貫太郎が第42代内閣総理大臣に就任した。当時、鈴木は76歳の高齢であった。鈴木内閣は4月30日にベルリンでヒトラーが自殺し、5月8日にはドイツ軍が無条件降伏したことによって、日本は有力な同盟国を失った。国内各都市への空襲が日増しに激しくなり、6月23日には沖縄戦が終結するなど、日日本の敗色は濃厚となっていた。7月26日、イギリス・中華民国・アメリカの署名によるポツダム宣言に対して、鈴木は「政府としては、重大な価値あるものとは認めず黙殺し、断固戦争完遂に邁進する」とコメントした。しかし6日に広島、9日に長崎に原子爆弾が投下され、日本の敗戦が決定的になっていた。8月9日から10日未明にかけて、宮城内の防空壕で最高戦争指導者会議(御前会議)がおこなわれた。鈴木貫太郎(1867-1948)は最後の御前会議において、天皇との阿吽の呼吸により劇的な御聖断に持ち込めた。しかしあくまでポツダム宣言受諾拒否の阿南惟幾陸軍大臣(58歳)は、「聖断」が下ると、その夜、陸相官邸で切腹自殺した。鈴木邸は軍の焼打ちにあって全焼した。連合軍には天皇の御聖断によりポツダム宣言を受諾することが伝えられた。午後11時過ぎから宮城内で終戦に関する詔書の吹き込みが行われた。これを知った一部将校グループがクーデターを計画、録音盤奪取を試みたが失敗した。鈴木はかなり前から終戦を決意していた。だが、当時の軍部、とくに陸軍統帥部は徹底抗戦に凝り固まっていた。性急にことを選べば、軍の過激派が決起し、内乱になる恐れがあった。鈴木は、主戦派も和平派もだましながら、天皇の裁断で和平の道をつくるという、誰も予想しない離れ技を演じた。15日正午、昭和天皇はラジオ放送をもって日本の敗戦を国民に伝え、ここに全ての日本軍の戦闘行為は停止した。戦後、鈴木は「われは敗軍の将であるただいま郷里に帰って、畑を相手にして生活しております」とインタヴューで述べている。終戦から3年後の昭和23年4月17日、肝臓癌のため死去した、享年81歳の生涯を閉じた。(4月7日)
本日は「城の日」。姫路市が1991年に制定した。四(し)六(ろ)で「しろ」の語呂合わせ。日本全国各地にはたくさんの城がある。2万5千ともいわれるが正確にはわからない。建物はなく石垣だけ残っているところもある。私の近所には有岡城(伊丹)富松城(尼崎)瓦林城(西宮)鷹尾城(芦屋)などがある。彦根城の東およそ2kmのところに女郎谷という所がある。何やら不気味な妖気があたりにただよう。かつて石田三成の居城佐和山城の裏山である。三成は石高19万4000石と、そう高くないが、「五奉行一の実力者」といわれ、佐和山城は威容を誇った。「三成に過ぎたものが2つある。島の左近と佐和山城」と落首されたほどの名城であった。関ヶ原の合戦後、東軍の寄せ手はさぞかし金品があろうと思って入ったところ、どの部屋もみな粗壁・板張のままであった。襖なども反故紙を用いており、城中に財宝らしい金銀は少しもなかった。三成は権力を握っても、決して贅沢な生活はしなかったのである。佐和山城の落城にはこんな悲話が残る。講和がまとまると油断していた城兵側は、突如、襲撃され城内は大混乱をなし、石田正継ら一族全員は自害し、佐和山城はあえなく落城した。城中にいた2000人の婦女子は女郎谷という崖から身投げをして自決したという。敵方の兵に陵辱されるよりも死を選んだのだろう。落城の日、この谷の方角から女たちの断末魔の悲鳴が遠くまで聞こえてきたといわれる。(4月6日)
ヘンリー・ベッティンガーHenry Bechingerという学者はかつて「三角測量法」という読書法をすすめていた。自分から遠く離れた2地点を観測して自分の位置を明らかにするというもの。つまり自分の専門領域だけでなく、全く異なる分野の本も多く読むということをすすめている。世の中には多ジャンルにわたる分野で縦横無尽の活動を続ける人がいる。江戸中期の学者、平賀源内は本草学、地質学、蘭学、医学、戯作者、俳人、発明家、画家など多芸多才であった。バートランド・ラッセルは数学者でもあり、哲学者でもある。明治期にお雇い外国人として来日したフェノロサは、東京大学では美術ではなく、政治学、哲学、経済学を講義している。自然科学はほとんど分野がボーダーレス。エルヴィン・シュレーディンガーは物理、化学、生物にまたがっている。SF作家で知られるアイザック・アシモフは生化学者であり、科学評論家でもある。
たとえば歌劇「イーゴリ公」や「中央アジアの草原にて」の作曲家ボロディンは、自分のことを音楽家としてではなく、化学者、医師と自称していた。17世紀のイギリスの数学者ジョン・ウォリスは微分積分学への貢献で知られるが、1685年に書いた「Gramatica Linduae Anglicanae」によって、彼は「英文学の父」と称されるようになった。福岡の平野四郎(1885-1963)は医師のかたわら、動物、とくに鳥の生態の研究で知られた。東京音楽大学の山根章弘は専門は美学ということだが、実に広い分野に関心を持っている。出版された本が同じ著者かと思われるほどである。映画ファンの間では映画評論家として認識されているだろう。東映動画「白蛇伝」の原案者でもある。上原信(ペンネーム)は山根章弘と同一人物である。アニメ「龍の子太郎」のプロデューサー、「世界映画芸術史 エロティシズム50年の流れ」1966、「スクリーン・エロティシズム」久保書店1962。また羊毛の専門家「羊毛文化物語」講談社1989、「羊毛が語る日本史」PHP研究所 1983。またエチケット研究家「美しい人、美しいマナー」1982、「愛と結婚のエチケット」銀河選書 1982、「誰も言わなかった知的マナー」青春出版社 1978、「日本の折形」講談社 1987。むかし日本テレビの11PMにも出演していた。芸術、映画、民俗、風俗、マナー、衣服、羊毛、文化史と相互に関連しているのである。
映画評論家の荻昌弘(1925-1988)も映画、料理、音楽のほか幅広い趣味がある。新しいもの好きでワープロによるデーターベースの構築を1982年夏ころ試みている。効率的・機能的な書斎をつくるため、「私の書斎ワープロ戦略」(1986年)を刊行した。
京都大学の安田徳太郎(1898-1983)は、医師でフロイド研究で知られるが、ほかにも風俗・エロチック美術の研究など著書の分野は広い。戦後は「人間の歴史 全6巻」「万葉集の謎」はベストセラーとなった。同じく京大の多田道太郎(1924-2007)も専門はフランス文学、ボードレール、サルトルだが広い分野で評論活動をしていた。カイヨワの「遊び」、映画評論、大衆文化、現代風俗、漫画論、晩年は生活美学というものを提唱していた。澤瀉久敬(1904-1995)はフランス哲学が専門だが、阪大で医学概論を講義した。万葉集研究で著名な澤瀉久孝の弟である。小説家岡本かの子(1889-1939)は仏教研究家として知られていた。松田道雄(1908-1998)は小児科の医者が本職であるが、ロシア研究家、など幅広い読書家として知られた。光吉夏弥は、「ちびろくさんぼ」など英米児童文学の翻訳者として知られているが、舞踏評論家でもある。硯友社で言文一致体の小説家で知られる山田美妙(1868-1910)は、晩年フィリピン独立運動家アギナルドの伝記を著している。昭和のマルチタレントは永六輔と青島幸雄だろう。「上を向いて歩こう」で知られる永六輔は作詞家、放送作家、随筆家など。青島幸雄はタレント、作家、俳優、映画監督、政治家。明治大学の斎藤孝は多数の実用書の出版で知られるが、色んなジャンルの読書をすすめる「全方位読書」派である。芸能人では荒木一郎は俳優、シンガーソングライター、小説家、手品など多芸多才である。最近では辻仁成が作家、ミュージシャン、映画監督、演出家。最近では星野源やリリー・フランキーなどが多岐の分野にわたって大活躍している。
1882年のこの日、板垣退助は、岐阜で演説を行っての帰途に刺客に襲われた。そのときの名文句が「板垣死すとも、自由は死せず」である。はたしてこの言葉が板垣の口から出たものかどうか確証はないが、一説では司法官で歴史学者の尾佐竹猛(おさたけたけし)によったもの、あるいは犯人を取り押さえた内藤魯一(ないとうろいち)がいったもの、日本立憲政党新聞の記者・小室信介の創作説などと諸説ある。このとき板垣は死なず、本当に亡くなるのは事件から37年のちである。
事件は午後6時すぎ、愛知県の士族相原尚褧(なおぶみ)が、演説を終えて会場の玄関から出てきた板垣を襲い、短刀で胸を刺した。板垣の受けた傷は、胸・頬・両手など合計7ヶ所であるが、いずれも致命傷にはいたらなかった。しかし板垣遭難の報は全国に飛び、各地の自由党員は手に手に刀や鉄砲を持って岐阜に駆けつけ、政府弾劾の声をあげた。こうして板垣は、自由主義の英雄となった。現在遭難の地・岐阜公園内に建てられた板垣退助の銅像がある。(4月6日)
弘化3年(1846年)のこの日、イギリス軍艦が琉球に来航した。この船にはハンガリー出身のイギリス宣教医バーナード・ジョン・ベッテルハイム(1811-1870)が乗船していた。彼は那覇の護国寺を拠点に8年間滞在し、キリスト教の伝道に勤めた。(4月5日)
国の数だけの風俗・習慣がある。とくに多種多様なのはお墓である。イスラム教はお墓がないといわれる。英語で言う墓地 graveyardは、たいていは教会の中庭に設けられている。おそよ17世紀頃からヨーロッパでは、教会の統制の下に、行なわれるようになってきた。通常、キリスト教国は土葬で、腐ると掘り起こして納骨堂に納められた。しかし、ペストやコレラなど伝染病の蔓延につながり公衆衛生上の問題から、お墓が都市から離れた場所に作られるようになった。19世紀のイギリスでは多くの共同墓地セメタリーcemeteryが建設され、共同墓地は先行した教会墓地と対照的な点が多い。米国ワシントンDCの国立アーリントン墓地で最も有名なのは、第35代大統領ジョン・F・ケネディのお墓である。
平成8年3月、京都の仏教大学が新図書館などの建設にあわせて正門周辺の改修工事をした際、彫刻家・空充秋(そらみつあき)が制作した門柱が贈られた。大学側は当初、気づかなかったが、4月3日の入学式で、教員が門柱の側面に30cm四方の大きさで「平成之大馬鹿門」と彫り込まれていることを発見した。大学と空とで題名を削るかどうか話し合いが続けられたが、決裂した。大学は「馬鹿という言葉は大学には不適切。削ってほしい」と要求。空は「作品を削るというのは、自殺しろというのと同じ」と対立。大学側が引き取りを拒否したため、2ヶ月後の6月、門柱を香川県木田郡庵治町の自宅に持ち帰った。その後、各地から門柱の要望があり、平成8年8月、空は兵庫県宍粟市へ寄贈した。現在、千種高原へ向かう道路を挟んで相対し聳える、おごしき山(1095m)と空山(901m)の、それぞれの山頂に1基づつ設置されている。(参考文献:中井真孝「平成之大馬鹿門と新聞記事」 鷹陵150号 1996年)
ゴルフの起源は古く15世紀にさかのぼれるが、競技としては、1744年のこの日、スコットランドでオープン競技が開催されたのが世界最初である。スコットランド人によってイギリス各地でゴルフが行われるようになって、1860年には全英オープンが開催される。1890年にはアメリカでも流行が始まり、1895年に第1回全米オープンゴルフが開かれた。ウィリー・アンダーソン、ボビー・ジョーンズ、ベン・ホーガン、アーノルド・パーマー、ジャック・ニクラウス、ゲーリー・プレーヤーなど名選手が現れ、ゴルフは世界的なスポーツとなった。
1999年10月25日、ペイン・スチュワート(画像)は自家用ジェット機でトーナメント開催地に向かう途中墜落死した。全米オープン優勝からわずか4ヵ月後のことであった。トレードマークのタモ・シャンターの帽子とニッカー・ポッカー姿の人気者だった。タイガー・ウッズが初優勝するのは翌年のことである。(4月2日)
keep tidy 筆記用具など普段よく使われる物から、重要書類まで、いつ死んでもいいようにつねに整理しておく。
先ず、銀行などの預金通帳。国債など金融機関の書類、印鑑。
年金証書や生命保険などの書類。
保険証などの医療関係の書類。
土地建物の権利書など不動産関係の書類。
確定申告、固定資産税の納付書など行政機関などの書類。マイナンバーカード。固定資産税令和5年度納付済。
テレビ、電話、電気、ガス、水道などの納付書。
常用している薬、医者の診断書、医療関係。
家屋、金庫などの鍵。
明治43年のこの日、雑誌「白樺」が創刊される。「白樺」の中心人物の一人が志賀直哉である。明治40年、志賀直哉は24歳のとき、家の女中の一人と結婚する決意をしたが、父の志賀直温に反対される。結局、女中は家を追われて、事件はうやむやに終わったが、直哉と父との対立はどうしょうもないものになっていった。この出来事を書いたのが「大津順吉」である。直哉はそのために一層文学志望の決意を固くする。
明治41年には、同級生の武者小路実篤・木下利玄・正親町公和(おおぎまちきんかず)らと4人で、回覧雑誌「望野」を作った。この年「或る朝」「網走まで」「速夫の妹」等を書いた。明治43年4月、直哉は、「望野」の仲間に有島武郎・有島生馬・里見弴・児島喜八郎・柳宗悦らを加えて、同人雑誌「白樺」を創刊した。「白樺」はそれから大正12年8月まで継続し(計160号)、その中から多くの作家を生んだ。同誌はその人道主義・個人主義・理想主義によって、大正期の文学・芸術・思想の運動の中心になり「白樺派」と近代文学史に位置づけされる。同人には、ほかに田中雨村・園池公致(そのいけきんゆき)・三浦直介・小泉鉄(こいずみまがね)・高村光太郎・長与善郎・日下諗(くさかしん)等がいる。白樺派の作家たちの共通点がある。ペンネームや雅号は使わず本名である。私小説が多い。ホイットマンやトルストイなどの影響を強く受けている。ロダンやセザンヌ・ゴッホ・ゴーギャンら新しい西洋美術を日本にいち早く紹介した。(4月1日)
1958年のこの日、売春禁止法が施行された。明治政府は1872年、人身売買を禁じ、芸娼妓解放令を発令したが売春そのものを禁止していなかった。1899年の東京府の娼妓数は、62871人であり、大阪府は6275人である。わが国で、売春が禁止されたのは1956年の「売春禁止法」(1958年3月施行)によってであり、GHQによる公娼廃止指令(1946年)から10年が経過していた。明治以降、廃娼運動が展開されたが、島田三郎の廓清会(かくせいかい)、林静子の矯風会、山室軍平の救世軍などが代表的運動団体である。とくに林静子(1864-1946)は1907年、大阪婦人ホームを設立し、婦人の職業紹介、廃娼運動、禁酒運動の推進に尽力した。林静子は1864年12月14日、福井県大野町に土井藩徒士武士林長蔵の長女として生れた。小橋勝之助、実之助兄弟の孤児養育施設「博愛社」の発展につくす。1932年、日本基督教婦人矯風会大阪支部を設立。婦人ホームをもうける。1946年3月24日死去。84歳。(参考:石月静恵「林静子と廃娼運動」歴史と神戸135) 4月1日
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