本多忠勝所用「黒糸威同丸具足 鹿角脇立兜」(重文)
永禄4年、三河の武将、本多忠勝13歳の時のこと。斥候を命じられて、刈谷・大府・小川へと単独潜入したが、その帰り道、川が増水してしまい、渡れなくなっていた。その時、彼の目の前に一匹の牡鹿が現れて、川へと向かっていた。するとその鹿が、増水した川を渡り始めた。「あの鹿が通ったところは浅瀬なのか」忠勝はその鹿の後に従い、なんとか川を渡ることが出来た。「あの鹿は伊賀八幡宮の使いだったに違いない」その後、忠勝は伊賀八幡宮の神主に兜製作を依頼、この時出来上がった兜が、あの鹿角脇立兜(かづのわきだてかぶと)である。鹿の角をあしらった脇立で何枚もの和紙を貼り合わせて黒漆で塗り固めたものである。
本多忠勝(1548-1610)は忠高の長男で、少年のころから家康に従ってしばしば戦功をたて、酒井忠次、榊原康政、井伊直政とともに徳川四天王と称せられた。(参考;「歴史読本2007年3月号 特集・徳川四天王の全生涯」)
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