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2023年3月31日 (金)

吉原繁盛記

Photo_9  元和3年(1617年)のこの日、江戸幕府が吉原遊郭の開設を許可した。

  むかし江戸の吉原、京島原、大坂新町、長崎丸山と豪華な遊郭が立ち並び花街が賑わいをみせていた。なかでも江戸の吉原は慶長のころからすでに傾城屋ができていたが、庄司甚右衛門が一ヶ所に集め、葺屋町に二町四方の場所を与えられた。当時、この一帯は沼地で葭(よし)が茂っていたところから葭原とよばれたのを、縁起をかついで吉原としたという。歴史年表には元和3年3月、遊里吉原を開く、とあるが、実際に営業を始めたのは翌年の元和4年の11月である。明暦3年(1657年)1月18日の振袖火事で吉原は全焼した、浅草山谷へ移転、新吉原として発足した。

   よい遊女の条件としては、張・情・容姿・芸などが挙げられるが、なかでも吉原では張が重くみられた。張合いともいうが、要するに野暮な客は何日かよってもこれを振り落とすぐらいの心意気を言ったもので、権力にも金銭にも動かされないのを吉原の意地としたのである。遊女の格は太夫が筆頭で、次に格子、端、新造などがいたが、太夫ともなると顔見せだけで十両、裏返し、3回目でやっと思いをとげるときまでに軽く50両はとんでしまうという。

 幕末の頃の浅草はどんなようすだったのか。万延元年(1860年)に江戸に単身赴任した紀州藩士の酒井伴四郎がつづった日記が残されている。「浅草にて蕎麦を喰う(中略)観音へ参詣、おばけの見世物を見物いたし、少し向いにて、あなこ・いも・蛸の甘煮にて酒を呑み飯を食う」。浅草寺参詣のついでに立ち寄ったおばけの見世物小屋は、浅草寺の北西側、浅草奥山と呼ばれたあたり。江戸時代・浅草奥山は、芝居・落語・操り人形・浄瑠璃・手妻(手品)・大道芸などさまざまな見世物でにぎわった。宝蔵門(仁王門)の手前は二十軒茶屋。どの店も看板娘を雇い、茶の味よりも美女で商売を競った。看板娘に気を取られて、スリの被害も多かった。(3月31日) 参考:「江戸売笑記」宮川曼魚

 

 

 

 

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吉原の仕組みは、歴史的にも風俗的にも興味深いものです。

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