近代日本文学150年
明治の初めから現代まで、およそ150年間の日本の文学史は、ひとことでいえば、日本文化が世界に目覚め世界に向かって、ひらかれていく過程であった。明治維新によって江戸幕府が崩壊し、代わって天皇親政の新政府が生まれ、日本は新しい国家を築いていく。しかし、明治維新による政治上・社会上の変革が、ただちに近代文学創出の道をひらいたわけではない。明治にはいって、教育が普及して文盲が少なくなり、また出版業が発達して新聞・雑誌・書籍の刊行がさかんとなり、文学が広く国民の間に読まれる素地ができたといえる。明治初年は江戸文学の系統をひいた仮名垣魯文の「安愚楽鍋」などのいわゆる戯作文学が盛んであった。明治13年前後から、自由民権運動の発展につれ、その思想を宣伝し国民に啓発するための政治小説が盛んになった。矢野竜渓の「経国美談」などがその代表である。文明開化は西洋事情の紹介を目的とする翻訳物が盛んとなったが、明治20年前後になると欧化政策に対する批判、反動としての国粋主義が台頭し、雑誌の創刊が相次ぐなど、さまざまな混沌と萌芽をはらむ思想の新しい動きが見えてきた。坪内逍遥の「小説神髄」や二葉亭四迷の「浮雲」は近代小説の出発を告げる文学史の上の記念碑的作品となったが、まだ当時の読者に十分には受け入れられるものではなかった。明治30年代の文壇の主流を占めたのは、「多情多恨」「金色夜叉」などを書いた尾崎紅葉を中心とする硯友社のグループであった。広津柳浪・泉鏡花らがこの一派から出ている。紅葉に対して、明治文壇の双璧と目されたのは幸田露伴である。人間の自由な感情を重視するロマン主義も、北村透谷・島崎藤村らによって大きな文学運動となった。日露戦争前後になると、フランスやロシアの文芸思潮の影響のもとに自然主義の文学が興隆し、写実主義の文学理念が新しい形で復活した。こうした文壇の流れにあって独自の存在を示していたのは森鷗外と夏目漱石である。鷗外ははじめ「舞姫」などのロマン主義的な作品を発表したが、のちにはしだいに歴史小説に傾いた。また漱石は「吾輩は猫である」で作家生活に入り、西欧の近代的個人主義を踏まえて社会の俗悪さに鋭い批判の目を向けたが、「心」「道草」「明暗」などの晩年の作品では醜い人間のエゴイズムとの対決から、いわゆる則天去私という東洋的な悟りの倫理が追求されている。鷗外も漱石も大正・昭和の文学に大きな影響を及ぼした。明治末から大正期にかけては、西洋の思想や文化を積極的に取り入れようとする傾向がみられた。いわゆる大正デモクラシーや昭和モダニズムの流行である。これらは日本帝国主義、軍国主義の台頭によって消失するが、第二次世界大戦後のアメリカを中心とする西洋合理主義によって日本の文学も新機軸を見出す。三島由紀夫、安部公房、石原慎太郎、開高健、大江健三郎などが戦後文学をけん引した。とくに大江健三郎は昭和32年文壇に登場して以来およそ60年間、文学から政治まで、現実社会のさまざまなジャンルに発言し、大きな影響力をもった。令和5年3月3日、大江健三郎が没したことをメルクマールとして捉え近代日本文学の終焉とみることができよう。村上春樹と大江との文学上の接点がみつからない。参考:中村光夫「明治文学史」 筑摩書房 1963
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