西行出家をめぐる謎
西行忌。1190年のこの日、河内国の弘川寺(大阪府南河内郡河南町)で、73歳の生涯を閉じた。2月15日は釈迦入滅の日でもあり、この前後に亡くなることは仏教の修業をする者にとっては憧れであった。西行、俗名を佐藤義清(1118-1190)という。鳥羽上皇に北面の武士と仕えたので、平清盛と面識があったと考えられるが資料としては残っていない。西行と頼朝とは面識があったことは証明されている。西行が出家隠遁したのは、保延6年、23歳のときで、動機については古来諸説ある。①友人が急死し、無情を感じたという説②待賢門院璋子に失恋したという説③崇徳天皇への同情。
①の無常観説は、明日を約束して別れた同僚が、次の日家を訪ねてみたら死亡していたという。そして、家に帰ってみたところ、4歳になる娘が喜んでむかえてくれた。かわいいと思ったが「この思いが煩悩だ」と悟り、娘を縁の下へ蹴落とし、自ら髻を切って出家したという。②の失恋説は、女性と一夜を共にしたが別れぎわに「これきりですよ」と言われ、身分違いを痛感、世俗の秩序から離れようと出家したという。③の説は、保延6年は崇徳天皇の帝位失墜の前年であり、皇位交替をめぐる宮廷内部の情勢に義憤を感じたという。
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ケペル先生のブログ様
fieldと申します。
2014年10月24日 (金) 啄木と小奴
の記事につきまして、
1955年 近江ジンさんの写真ですが、これは当方の家族写真です。
無断利用はお断りしております。
掲載の停止、削除お願い致します。
石川啄木関係の知り合いの研究者から連絡があり分かりました。
よろしくお願い致します。
投稿: field | 2017年2月15日 (水) 13時59分
たいへん申し訳ありませんでした。早速、記事及び写真の削除を致します。謹んでお詫び申し上げます。
投稿: ケペル | 2017年2月15日 (水) 14時23分