冒険家セオドア・ルーズヴェルト
南米ブラジル高地を流れるアマゾン川。大森林地帯マット・グロッソの西の端にアマゾン川最大の支流マディラ川のまだ奥には1914年まで、地図にもない謎の川、ドゥヴィード川があることが知られていた。ドゥヴィード川は1909年ある探検家によって発見されたのだが、どちらの方角へ流れてゆくのか、どこで終わるのか、誰にもわからなかった。それで、「謎(ドゥヴィード)の川」という名前がつけられたものだった。
1914年2月27日、第26代アメリカ大統領セオドア・ルーズヴェルト(1858-1919)は大統領の任期を終えると、ブラジルに行き、謎の川の探検を行なうことにした。この時、54歳である。これまでもルーズヴェルトはアフリカで狩猟もすれば、ノース・ダコタでつらいカウボーイ生活もした。パナマ運河沿いを歩いたこともある。この探検には、息子のカーミット、生物学者ジョージ・K・チェリー、ブラジルのインディオ局長カンディード・ロンドン大佐が同行した。一行は3月10日までに、カヌーでわずか100キロを進んだ。まがりくねった急流。食料不足。川に棲むピラニア。また川の水面がとつぜん落ち込む大滝がある。4月15日には、一行の半数が病気で動けなくなった。だが数日後、やっとのことで探検隊はアマゾンの町マナウスに到着した。ルーズヴェルトは次のように記している。
「われわれは、地図のうえに、ひとつの川を書きいれた。長さ1000キロのこの川の存在は、もし模範的な地図が正しければ、未知だけでなく、不可能でさえあったろう」ルーズヴェルトは熱病から全快できなかった。ハイキング、水泳、乗馬を続けていたが、ドゥヴィード川の探検は、かれの最後の大冒険であった。帰国して5年後、1919年1月6日、亡くなった。
今日では、このドゥヴィード川はアリプアニャ川の西にある支流として地図に出ている。その名前は変わった。地元ではテオドロ川として、そのほかの世界では、ルーズヴェルト川として知られている。(参考文献:「図説探検の世界史7 南米の謎をさぐる」集英社)Theodre Roosevelt
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