漱石の日
いつごろから本日を「漱石の日」というようになつたのか知らない。1911年のこの日、文部省が漱石に文学博士の称号を贈ると伝えたのに対して、漱石は「自分には肩書は必要ない。学位は頂きたくない」と辞退した。この逸話に由来するそうだ。名利を求めない生き方は禅の思想に由来するものかもしれない。 だが、世俗の風潮は、いつの世も、やたら賞やら金メダル、地位や名誉、名声を賞賛する。ノーベル賞や国民栄誉賞などといってもこの世だけのものであろう。大金を貯めたところで、死後遺族たちの骨肉の争いの種となるだけである。財産、社会的地位、名声、権勢などがなんになろう。このことは誰しもわかっていながら、いつのまにやら人生の目的が名声や地位、蓄財となってしまうのは何故だろう。とくに名声というのは学問や芸術を阻害する要因になるのではないだろうか。村上華岳(1888-1939)に「名声について」という一編がある。
予に名声といふものは一つもいらない。名声といふものをむしろ唾棄する。むしろそれは我々の勉強の上に精進の上に害のある事が多くなる。時間がなくなる。ものが欲しくなる。勉強にとって、無駄なエネルギーを消磨する。名声を駆逐しようと思へば思ふ程、煩悩の深きを知る。一日として安静の心持はないのだ。故に予は名声といふものに、絶えざる注意をする。自分が虚名を求むるのではないか。人を頼んでをるのではないか。何かうまいことを、世にしようとするのではないかを、自己の心中の内に探索し警戒するのだ。(大正13年)(『画論』所収)
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友が皆 我より偉く見える(見ゆる)日は 花を買いきて妻と親しむ、というの好きです。
投稿: | 2014年3月 3日 (月) 21時32分