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2023年2月12日 (日)

側室でもった徳川家

  「およそ偉大なことの起源には、だれか女がいる」フランスの詩人、アルフォンス・デ・ラマルチーヌのことばである。「資本主義の父」といわれる澁澤栄一もたくさんの妾がいた。あの徳川家康には正妻のほかに16人の側室(異説あり)があった。したがって、大奥の原型が成立したのは大御所さまの時代にあったといえようが、家康は将軍職にあること、わずか3年で、すぐに子の秀忠にゆずっている。この秀忠は謹厳な性格で、正室お江与との間に3男4女が生まれ、正室ひとりを大切にした。したがって、大奥が妻妾同居の将軍後継者づくりの場として機能したのは3代家光のときからである。春日局によって大奥の制度や作法がつくりあげられたのはだいたいドラマのとおりといえる。

    ところで徳川15代将軍の中で、他家から入って将軍位をついだ吉宗、家斉、家茂、慶喜の4人を除くと、正室からうまれたのは家光ひとりとなる。(家康を正室という言い方は少し適さないので除く)側室は大名、旗本の娘から選ぶことが建前になっているが、愛妾は町屋の娘も多い。4代家綱生母、お楽は神田鎌倉河岸で古着商をやっていたところ、春日局にスカウトされた。5代綱吉の生母、お玉は八百屋の娘で、大奥で絶大な権力をふるい、「玉の輿」の言葉を生んだ。7代家継の生母、お喜代は住職の娘だった。側室で将軍の生母になった一番の名門の出は、10代家治の母、お幸の方である。前橋中納言梅渓通条の娘で、村上天皇の末裔であった。9代家重の母、お須磨の方がそれについでいい方である。12代家慶の母、お楽の方は小姓組押目敏勝の娘であるが、天性の美女といわれた。徳川15代は大奥制度が十分に機能して存続したといえる。

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