マジノ線
第一次世界大戦において、ドイツからほとんど敗北に近い打撃を受けたフランスは、自国の国土を、難攻不落のものにしようと決意した。1930年以来、2億ドルをこえる巨費と7年の歳月をかけて、北はロンヴィから南はフランス・イタリア国境に至るまで長さ140キロにわたる地下要塞線を彼らは構築した。
この要塞には、計画開始時の国防大臣アンドレ・マジノ(1877-1932)の名が冠された。この要塞線は静的防備の傑作とされた。最前列に対戦車濠が掘られ、そのすぐ後ろには鉄条網と機関銃座が置かれた。つづいて口径37ミリから135ミリまでの機関銃および対戦車砲各型が、厚さ3メートルのコンクリートの防壁に囲まれた砲座の列をつくっていた。それから、5キロないし8キロの間隔をおいて、地下30メートルの深さの巨大な要塞群が位置していた。
この要塞のなかに、1200名をこえる兵士たちが、3か月交替で生活していた。彼らは地下で太陽燈にあたったり、バラを栽培するために地上に出たりした。それでも、彼らの最大の敵は「退屈」であった。「われわれはドイツ軍と戦っているのではない」とある兵士は言った。「われわれはアンニュイ(憂鬱)と戦っているのだ」。
しかしドイツ軍から本格的な攻撃を受けたとき、フランス軍の真の敵は、大要塞という概念そのものであることがわかってきた。静的戦闘の時代は終わったのである。最も強力な要塞といえども、ドイツ戦車隊の機動力の前では、その敵でなかったのである。 Maginot Line
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