銀箔は貼られてなかった銀閣寺の謎
2月4日は「銀閣寺の日」。だが、これには歴史的に考えると多少問題がある。銀閣寺とは俗称であり、足利義政の死後は、その遺命により禅寺とし、彼の法号に因んで慈照寺と名づけられた。義政生前は「東山殿」と呼ばれ、つまり2日4日は、工事の着工記念日であり、このときはまだ観音殿つまり銀閣は完成していない。応仁の乱の直後の財政難の時代であり、工事はなかなか進まなかったようである。一年有半の歳月を費やして、竣工したのは翌年の文明15年(1483)6月27日である。実際に観音殿(銀閣)が完成するのは、さらに6年後の延徳元年(1489年)である。
造営が竣工した日、義政は長谷御所から浄土寺山荘に移った。「女中連れの賑やかな移転であった。山荘の落成を祝賀して貴戚権門が多数参集した。冠蓋織るが如くであった」と横川景三は書いている。義政の満足想うべきである。しかしまだ住居部分の山荘が落成しただけで、実は全体の構想の二分ばかりにすぎなかった。延徳元年(1489年)に、ようやく観音殿(銀閣)が上棟された。銀閣は2層からなり、第一層心空殿は正面4間・側面約3間で和様書院造風の構造。第ニ層潮音閣は3間四方、禅宗様仏風で、堂中に観音像を安置する。東山殿の建物は10箇所と伝えられる。そのうちでも特に念を入れて造ったのは持仏堂である。仏間には阿弥陀三尊像を安置し、その名を東求堂と名づけた。またこの堂内に小書院の「同仁斎」がある。この部屋は書斎で、書画奇玩を鑑賞するに最適の設備が施された。しかもその大きさは僅かに四畳半敷である。後世この小室を茶室の祖と称する。東求堂に対して「西指庵」があった。ここも義政が造営に力を入れたところである。亀泉集証は文明17年4月9日始めてここに入り、「実に天下の奇観なり」と讃えている。
また俗に銀閣と称されている観音殿がある。これまで銀箔が貼られていたのではないかという言い伝えもあったが、このほど奈良文化財研究所のエックス線による分析で、銀閣は創建当時から一度も銀箔が施されていなかったことが科学的に証明された。創建時、2階の外壁は漆黒が塗られていた。資金難で銀箔が貼られることはなかった。では、なぜ銀閣寺と呼ばれたのであろうか。ひとつは、北山の金閣寺に対する呼び方として銀閣寺が定着したとする説。二つ目には、池の反射光が漆塗の外壁に映って銀色に輝いて見えたからという説がある。本堂・東求堂の南面に庭園が広がり、庭の主要部には錦鏡池がある。また庭の西北隅、即ち本堂の南面に不思議な砂盛りがある。これを銀沙灘(ぎんさだん)と呼ぶ。
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