邪馬台国論争
どんなに錯綜した問題でも50年、60年と論争していればほぼ一定の見解にまとまるようであるが、100年経ってもまだ解決しない問題がある。日本史最大の謎「邪馬台国はどこにあるか」という問題は古くたどれば江戸時代から議論はあったようだが、戦前の歴史の授業でふれることなどはなく、ほとんどの教師たちも戦後になって、勉強しだしたものである。ことの起こりは明治43年、東京帝国大学教授の白鳥庫吉が「倭女王卑弥呼考」を著し、時を同じくして京大の内藤湖南が「卑弥呼考」で畿内説を唱えたことにある。後に東大派が九州説を、京大派が畿内説を唱えて、いわゆる邪馬台国論争に発展した。畿内説には京大系、九州説には東大系の学者が多いとされたが、のちに異端者が続出し、一言でいえない状況となる。戦後、東京大学の井上光貞は「シンポジウム邪馬台国」を開催し、九州説の論陣を張った。井上はこの邪馬台国が東遷して4世に大和に天皇家の祖先となったとした。これに対して、京都大学派の小林行雄らは三角縁神獣鏡が畿内に多く出土することを根拠として畿内大和説を主張した。その後、古田武彦、安本美典、森浩一らが活発な出版活動によって邪馬台国ブームを生み出し、九州説を主張し、畿内説を批判していく。畿内説は上田正昭、山尾幸久ら学者が実証的な論拠を固めつつあった。21世紀に入り、箸墓の設営年代が半世紀さかのほるようになって、倭国の大乱を邪馬台国の女王・卑弥呼の擁立で解消させたということが明らかになると、天皇家の祖先との系譜も説明しやすくなり、箸墓の主である根拠に近づいてきた。さらに多くの考古学的解明により、より一層、邪馬台国の実像が見えてき出した。女王卑弥呼の邪馬台国は纏向遺跡にあったとする説が有力になってきた。「親魏倭王」の金印が見つかれば論争に決着がつくのだが。
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