由井正雪の生家
東海道16番目の宿場が由井宿である。この地はまた由比とも、湯井、あるいは油伊、湯居とも書かれている。明治22年に庵原郡由比町となったが、現在は静岡市に編入合併された。町の家並みも漁師町で、伊豆半島の山々を遠望する眺望が素晴らしい。庵原山地が駿河湾に面して、急な崖をなし、そこに薩埵峠があり、由比の断崖として、古くから最大の難所として知られていた。
由井といえば、だれもが想起するのは由井正雪(1605-1651)であろう。彼は慶長10年に駿河のこの地に生まれた。紺屋の出身で、今もその紺屋の生家が残っている。17歳のとき江戸に出て、楠木正成の子孫の楠木正虎の子という軍学者楠木正辰の弟子になると、その才能を発揮し、やがて神田連雀町に軍学塾「張孔堂」を開いた。多数の門弟が集り、その数3000人を超えたといわれる。島原の乱で討ち死にした板垣重昌の子の重規も、その弟子であったという。慶長4年に三代将軍の徳川家光が亡くなると、浪人を集めて倒幕を計画した。宝蔵院流の槍術家の丸橋忠弥、金井半兵衛、熊谷三郎兵衛、加藤市右衛門、吉田初右衛門らが集結して天下を狙うようになったが、事前に発覚し、正雪は駿府の宿で自殺した。これを慶安の変という。
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