シーボルトと長崎
文政6年、シーボルトが長崎にやってきた。27歳のときである。有能な外科医を来日させてほしいという幕府の希望に応えてのことであった。長崎奉行は、シーボルトに限り出島の外に出て日本人に教えることを認めた。そのために選ばれた場所が、長崎郊外の鳴滝で、鳴滝塾は蘭学の新しい拠点となった。シーボルトは文政11年、いつたん帰国したが、安政6年、再来日し、文久2年まで滞在した。シーボルトの愛人がオタキ(1806-1869)である。お滝がシーボルトと出会ったのは17歳のときで、4年後にはシーボルトとの間に楠本イネが生まれた。イネは石井宗謙との間に山脇高子(1852-1938)を生む。現在もイネの子孫たちは医師を続けている。
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