豊臣秀吉の朝鮮侵略はじまる
1591年から秀吉は肥前名護屋に明征服の基地の築城普請にかかる。1592年1月5日、秀吉は明征服のための軍編成を発表した。4月、秀吉は16万の兵力を9軍に編成して朝鮮に渡航させた。4月12日、宗義智と小西行長の率いる第1軍は釜山に上陸し、釜山城の朝鮮軍に「仮途入明」(明に入りたいので朝鮮の道を貸してほしい)の最後通牒を示したが、朝鮮側からは返事はなく、日本軍は釜山城をおとした。ついで宗義智らの日本軍は東莱(トンネ)城に迫り、「戦うならば相手になろう。戦わなければ道を通せ」と東莱城に木札を投げ込んだが、東莱府は宗象賢らの朝鮮側は、「死するは易し、されど道を通すは難し」と木札を投げ返した。ここから東莱城の攻防戦がはじまったが、日本軍はこれもおとした。かくして、前後7年にわたる朝鮮侵略がはじまった。5月18日には首都漢城を陥落した。(参考:北島万次「秀吉の朝鮮侵略と民衆」 岩波新書)
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