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2023年1月29日 (日)

コロッセオ

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18世紀ピラネージの銅版画

 

 

 

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ウェスパシアヌス皇帝 (在位69-79)

   ローマで一番に人気のある観光スポットといえばコロッセオである。古代ローマ帝国の中心地といってよい。日本語での表記は様々で、英語でコロシアム、イタリア語でコロッセオ、ラテン語でコロッセウム。正式にはフラウィウスの円形競技場といい、フラウィウス朝の皇帝ウェスパシアヌスと彼の息子ティトゥスとドミティアヌスが完成した。名前の由来はネロ帝の黄金宮殿の人造池址に建設され、ネロ帝の巨大な石像(コロッセオ)があったことから「コロッセオ」と呼ばれた。コロッセオの建造に当たっては、近隣で切り出される石灰石を利用していたが、石灰岩と火山灰と混ぜて作られた古代のコンクリートも使用されている。外縁には各階80のアーチの中に彫像が飾られ、外壁には大理石で覆われていた。

   この名高い闘技場でたくさんの剣闘士たちが傷を負ったり死んだりしている。猛獣と人間との戦い、剣闘士による人間同士の戦いを観て、大観衆が流れる血にわきかえる。このような残忍なローマの風習はなぜ長く続いたのか。一説では、この競技は、エトルスキ人の宗教儀式に起源をもつと考えられる。紀元1世紀に、キリスト教会の創始者の1人で、アンティオキアの司教でぁつた聖イグナティオスがライオンに身体を引き裂かれ、ここで殉教している。西暦404年には、キリスト教の修道士聖テレマコスが、ある剣闘士の闘いを止めさせようと間に入るが、群衆に石を投げつられて殺されてしまう。この蛮行に立腹した時の皇帝ホノリウスは、ローマでは剣闘士の登場する娯楽はすべて廃止した。それでも細々と続いていた剣闘士競技も5世紀半ばには行われなくなり、こうしてコロセウムも次第に衰退していった。ルネサンスの古代崇拝にもかかわらず、コロッセウムは長い間に荒廃していった。おそらく1231年の大地震のときに、南西部の外郭全体が崩落し、形をとどめない石のかたまりになってしまった。数百種の珍しい植物が生い茂り、1855年にはリチャード・ディーキンの「コロッセウムの植物誌」が出版されるほどであったが、周辺の衛生環境は悪く、当時のコロッセウムはチフスなど病気の発生源ともなっていた。ナポレオンがローマを占領してから、フランス人によって雑草が除去され、19世紀から20世紀はじめにかけて修復工事がおこなわれた。

 

 

テレサ・テンが歌った日本のカバー曲

Photo 1953年のこの日、テレサ・テンは台湾・雲林県褒忠郷田洋村で生まれた。父親鄧樞是は中国河北人で蒋介石とともに台湾に移った軍人だった。やがて1980年代には「アジアの歌姫」といわれるほどアジア圏で人気が沸騰した。「昼は鄧小平、夜は鄧麗君が支配する」といわれたのもこの頃の話である。テレサは「北国の春」「襟裳岬」をはじめてして、数多くの日本の歌を中国語でカバーしている。「北国の春」は日本では望郷歌であるが、中国語歌詞では愛の歌に変わっている。「グッド・バイ・マイ・ラブ」はアン・ルイスが1974年に日本でリリースした曲だが、テレサ・テンがその4年後にカバーしており(中国語タイトルは「再見我的愛人」)、アジアにおいてはテレサの歌声で広く親しまれている。夜来香(イエライシャン)」は1944年に李香蘭のヒット曲であるが、テレサの歌声で復活した。「何日君再来」等と共に、アジアを代表する歌曲となっている。「涙的小雨」「山茶花」「誰来愛我」「世界多美麗」は何の歌か分かるだろうか?「長崎は今日も雨だった」「山茶花(みちずれ)」「港町ブルース」「世界は2人のために」である。とくに「里の秋」は台湾語訳曲「又見炊烟」として日本以上に親しまれている。のちに日本の歌曲が台湾、香港、中国大陸、韓国などで数多くカバーされるようになった背景には80年代のテレサ・テンの活躍を抜きにしては語れない。(1月29日)

 

 

 

2023年1月27日 (金)

チューリップと風車だけじゃないオランダ

Photo_2  1649年の秋、哲学者デカルトが隠棲の場所として選んだのはオランダだった。鎖国の江戸幕府がヨーロッパで唯一交易を許したのもオランダである。1579年のユトレヒト同盟によって宗教的自由を勝ち得たオランダは、1581年スペインから分離宣言し、1648年のウェストファリア条約で独立を認められた。17世紀には4度に渡り蘭英戦争がおこる。17世紀には東インド会社を中心とした世界的商工業国家へと繁栄していた。徳川幕府がオランダから海外情報を得ていたことは正解だったといえる。1688年英国議会の要請により国王に招請されたオランダのオラニエ公ウィレム3世(ウィリアム2世)は軍勢を率いてイギリスに上陸した。この蘭英の連合は、オランダにとって、不利益となる。以降、オランダは衰退する。植民地戦争にイギリスに敗れ、ナポレオン統治下のフランスに併合される。このような事情を徳川幕府が知っていたかは定かではない。1815年のウィーン会議でオランダ王国が成立し、1839年ベルギー、1890年ルクセンブルクが分離し、現在の国土となった。

Photo     オランダは立憲君主制の国である。現在はベアトリクス女王だが4月30日にウィレム・アレクサンダーに王位を譲位する予定である。野球オランダ代表はキュラソー、アルバなどカリブの島の選手たちが活躍している。国際試合で気付くことだが、オランダの国名は「ネーデルラント(the Nederlands)」である。日本語では慣例としてHolland(ホラント)州にちなむ俗称「オランダ(Holanda)」で呼ばれている。ネーデルランドとは「低地の国」という意味。オランダは低地で運河が多い。小川の多い地域ではフィーエルヤッペンという遊びがある。

 

Overzicht_accommodatie_hs_nfm_2010_  オランダ北東にあるフリースランド州には250年以上前から行われている伝統的スポーツで、棒高跳びのように長い棒を川や運河に差しジャンプしてよじのぼり出来るだけ遠くに飛ぶことを競うフィーエルヤッペン fierljeppen である。

 

 

ゼッケン67

    第1回東京マラソン2007が終わった翌日の朝日新聞夕刊「惜別」という物故者の記事で、「アジアの鉄人」といわれた台湾の楊伝広が逝去したことを知った。すでに1月27日脳卒中で73歳で亡くなり、2月9日台北で追悼式があったという。ローマ五輪で10種競技の銀メダルだった(陸上ではアジア唯一のメダリスト)楊伝広は大会前の予想では金メダルの有力候補だったが、5位に終わった。ケペルは何故か勝者よりも敗者の涙に感動をおぼえた。東京五輪の涙の敗者といえば、まず第一はヘーシンクにやぶれ、柔道無差別級二位に甘んじた神永昭夫であろう。マラソンの日本勢のエースだった寺沢徹の15位という予想外の不調も、若手の円谷幸吉3位、君原健ニ8位の活躍の陰で無念の涙だった。女子では水泳100m背泳で日本新ながらも田中聡子選手の4位に同情の涙を禁じえなかった。女子80メートル障害の依田郁子選手は5位だったが、トラックでは人見絹枝以来36年ぶりということで、大検討だったのかもしれない。そのような敗者の涙のなかで、栄光の敗者という光景を陸上1万メートルのカルナナンダ選手でみることができた。この話は後に国語の教科書にとりあげられたので若い人のほうがよく知っているかもしれない。

 

                    ゼッケン67

 

    ゴール前50メートルで勝負がきまるという熱戦をくりひろげた一万メートル決勝も、アメリカのウイリアム・ミルズ選手が優勝しました。ほかの選手もほとんどゴールインをして、トラックからすがたをけしていました。しかし、たったひとりで必死の表情で走りつづける青年がいました。ゼッケン67、セイロンのカルナナンダ選手です。まだ、あと三周しなければゴールインできません。

 

    二十三、四、五周めと、一万メートルに出場したセイロンの陸上競技の選手として、全身あせまみれになりながらも、しっかりと大地をけって走りに走っています。

 

    そのほかには人かげ一つありません。ゴールに向かって力走する、カルナナンダ選手のすがたに、七万五千人の大観衆は、おしみない賞賛の声を感動をこめて送りました。

 

   あるかぎりの力をふりしぼって、最後まで、レースをすてなかった、カルナナンダ選手のおこないは、すべての人々の心にいつまでも残るでしょう。

 

   レースのあと、カルナナンダ選手は、「わたしはできるだけ力をふりしぼって走りました。びりになったのは、こんどがはじめてです。むすめが大きくなったら、おとうさんは、東京で力いっぱい頑張ったと話してやりたい。」と、胸をはって話していました。(「学研版小学生のための東京オリンピック」より)

2023年1月26日 (木)

オーストラリア

   オーストラリアは、オーストラリア大陸とタスマニア島からなる国で、面積は約769.2万㎢で日本の約20倍であるが、人口は約2568万人に過ぎない。オーストラリア大陸は全体としては低平であり、中央部から西部にかけてグレートビクトリア砂漠などの広大な乾燥地帯となっており、東部には巨大なグレートディバイディング山脈が海岸線と並行して走っている。約4万年前アボリジニがニューギニア方面から渡来したと考えられる。1606年にオランダ人のウィレム・ヤンスゾーンがヨーロッパ人が大陸に初めて渡来した。1699年、イギリス人のウィリアム・ダンピアが世界一周の途中でオーストラリア西部を探検した。1770年にイギリス人の探検家ジェームズ・クックがボタニー湾に上陸し、領有を宣言し、入植が始まった。1788年1月26日、イギリスから送られた流刑囚1030人がオーストラリアに上陸した(この日はオーストラリアの建国記念日とされている)。1797年イギリス陸軍大尉ジョン・マッカーサーはスペインよりメリノ種の羊を輸入し、羊毛ム産業の基礎を築いた。1851年にビクトリア内陸部で金が発見され、ゴールドラッシュが発生した。1917年、大陸横断鉄道が開通する。1943年、事実上独立国となる。1951年、アンザス条約が締結される。1979年、移民を白人に制限する白豪主義を撤廃する。2000年、シドニーでオリンピックが開催される。

2023年1月25日 (水)

「東風吹かば」の歌は偽作!?

Pn2008072401000656___ci0003   本日は「左遷の日」といわれる。901年のこの日、右大臣の菅原道真が九州の大宰府に左遷された。「東風吹かば匂ひおこせよ梅の花 あるじなしとて春な忘れそ」と詠み、この日、都を旅立った。そして道真は無念の思いを抱きながら、2年後に亡くなった。のちに道真は「学問の神様」として神格化され、全国各地に天満宮がつくられた。毎月25日は天神さんの日として縁日が開かれる。そのうち新年最初の1月25日は初天神として参拝客で賑わう。

  道真の詩文には偽作と思われるものが数多くある。もっとも有名な「東風吹かば」の歌には2種ある。初出は「こちふかばにほひおこせよ梅の花 あるじなしとて春なわするな」(拾遺和歌集巻第14雑春)もう一つは「東風吹かばにほひおこせよ梅の花主なしとて春な忘れそ」(宝物集)。一般に「春な忘れそ」のほうが人口に膾炙していると思われる。歌は道真が宇多法皇に別れ際に詠んだとされるが、いずれにしても道真の死後から100年から180年も経って世に現れた歌である。漢学者の道真の真作であるとは考えにくいが、仮託が許される文学風土なので、この歌にケチをつける人は誰もいない。(1月25日)

 

 

叙任権闘争とカノッサの屈辱

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   1076年2月14日、教皇グレゴリウス7世は神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世を破門した。国王は、王妃、王子と数名の従者を伴い、1076年の暮れ、教皇に謝罪するため、ひそかにブルグンド王国にむかって旅立った。それは異常な寒波がおそった冬だった。国王の一行はブルグンド王国の首都ブザンソンで、護衛の一隊をととのえて、アルプスを越え、おりからグレゴリウスの滞在するカノッサ城外に到着した。ところが、グレゴリウスはなかなかハインリヒに会おうとしなかった。しかしトスカナ女伯マティルダの仲介により、ハインリヒは、三重の城門の第二門のなかに入ることを許された。1077年1月25日から27日までの3日間、かれはただひとり、無帽、はだしで、わずかに粗毛の修道衣をまとったまま、雪の中に立ちつづけ、やっと城門をといてもらうことができた。これが「カノッサの屈辱」とよばれる事件である。ところがカノッサ事件は、これで終わらなかった。

    その後、諸侯を武力で制圧したハインリヒ4世が教皇に軍を差し向け、1084年、ローマを包囲した。グレゴリウス7世は、なんとか追っ手を逃れて脱出したが、翌年、二度とローマに戻ることなく亡くなった。その後も、皇帝と教皇の争は、1122年にウォルムス協約が成立するまで、30年以後も続くものの、ハインリヒとグレゴリウスの闘争は、ハインリヒが勝利をおさめたのである。だが東京大学教授・堀米庸三は次のようにみている。「カノッサ事件は、しばしばいわれるようにハインリヒのグレゴリウスに対する外交的勝利であったのだろうか。短期的な見通しに立てばそういえないこともない。だが、いってみればこれは楯の一面にすぎない。カノッサがたとえ一つの演戯にすぎなかったにせよ、そのような方便に訴えざるをえなかったところにハインリヒの精神的敗北がある。これはハインリッヒが結局、法王をドイツ国内の問題に関し裁定者として認めたことを意味し、1075年12月8日の法王側の要求に屈服したとみるほかないのである」と。(「岩波講座世界歴史10」1970) 歴史事件を皮相的にみるのでなく、多元的、複眼的にみることが必要だ。あなはカノッサ事件をどうみるでしょうか。(2月14日)

 

 

 

 

2023年1月24日 (火)

四万十川の謎

  四万十川は高知県の西部を流れる一級河川で、全長196㎞は四国内で最長の川である。河川の長さでは第11位。しかし太平洋戦争時の軍艦名に「四万十」はなぜ使われなかったのだろうか。旧日本海軍の軍艦名には一定の決まりがあった。戦艦は旧国名、重巡洋艦には山の名前、軽巡洋艦には河川の名前が使われる。しかしながら最上、利根のように河川の名が重巡洋艦にみられる。これは軍縮会議などためで、当初軽巡洋艦として設計されていたが、開戦時になって主砲を積み替えて重巡洋艦になったからである。ところで四万十や黒部、荒川などが艦名未採用となったのは単に語呂が悪いからであろうか。それともほかに理由があるからなのか分からない。樺太にある鈴谷川(全長83㎞)は艦名に採用されている。そもそも四万十川が日本最後の清流と称されたのは戦後になってからの話で、戦前はさほど有名な川ではなかったのだろうか。

カリフォルニア・ゴールドラッシュ

   1848年1月24日、カリフォルニア州(当時はまだ州になっていない)サクラメント付近のコロマ村のサッターズ・ミルというところで、スイス移民の大農経営主ジョン・サッターに雇われていた大工のジェームズ・マーシャルが、製材用の水車小屋を建て、水車を動かす放水路を掘っていたとき砂金を発見した。彼はサッターに報告した。はじめは信じないサッターも実物を見て驚喜するが、秘密にしておくことにした。しかし、他の使用人からうわさは広まり、カリフォルニアは一気に沸く。しかも、ジェームズ・ポーク大統領が年次報告で、金脈発見に言及したことが拍車をかけた。翌年から、世界中から一攫千金を夢見る30万人もの人々が、シエラ・ネヴァダ山脈に殺到した。カリフォルニアの金の産出額は、1858年までに金の採掘量は、約5億5000万ドルにものぼった。この大量の金は、通商・金融界に流通して、インフレ効果を伴いながら1850前半に世界的な好景気をもたらした。カリフォルニアは約12万人となり、1850年に州になり、サンフランシスコは小村から世界に知られたブームの町に成長した。コロマ村はまもなく、エルドラード(黄金郷)郡となる。(Coloma,Sutter' Mill )

 

 

なぜモームはノーベル文学賞を受賞できなかったのか?

1589790723_02_lzzzzzzz    サマセット・モームの代表作といえば「人間の絆」(1915)である。最初「灰より生まれでし美」と名づけたが、他人が使っていたので「人間の絆」と改めた。最初は不評で本が読まれだしたのは「月と六ペンス」が出版された後の1919年以降である。以後、モームの「雨」や 「剃刀の刃」は映画化され大衆作家として認められ1930年代から1940年代にかけて最も世界でポピュラーな作家であった。91歳という長寿で長い文学活動をしながら何故かノーベル賞には無縁だった。この理由をある人に尋ねたら、「いわばモームは直木賞なんだよね」という。ノーベル賞の文学作品ばかりを集めた文学全集がむかし出版されたがほとんど誰にも読まれなかった。ノーベル賞受賞作品を並べても世界文学史にはならない。ゾラ、イプセンやトルストイ、チェーホフといったロシアの両文豪がいない。「トム・ソーヤの冒険」「ハックルベリー・フィン」のマーク・トゥエーン、「失われた時を求めて」のマルセル・プルースト、「チャタレイ夫人の恋人」のハーバート・ローレンス、「ユリシーズ」のジェームス・ジョイス、「凱旋門」のレマルク、詩集「ブエノスアイレスの熱狂」のボルヘスなどノーベル賞を受賞しなかった世界的文学者は数多くいる。

 

 

2023年1月23日 (月)

ワン・ツー・スリーの日

T008a  数字1・2・3が並ぶ日は1年に2度しかない。1月23日と12月3日。123という連番で有名なのは1985年の日本航空123便墜落事故と大正天皇が歴代123代であること。映画「ワン、ツー、スリー」(1961年)ビリー・ワイルダー監督、ジェームズ・ギャグニー、パメラ・ティフィン主演だが未見。キャンディーズのヒット曲「アン・ドゥ・トロワ」(1977)。バレエのレッスンで、1、2、3と数えるがフランス語。懐かしの漫画家・山根一二三(ひふみ)。将棋の加藤一二三。国道123号は栃木県宇都宮市と茨城県水戸市を結ぶ幹線道路。東京都足立区の郵便番号は「123」の連番である。ローマ教皇第123代ヨハネス10世(在位914-928)は獄死。

 

Photo

きんきりうし(「キ」事項索引)

 「キウカイネン文化」フィンランド南西海岸。紀元前2400ー1500/1300BC。舟形斧文化。▽「キャミソール」細い肩紐がついた女性用の袖なし下着。▽ 「キンセンカ」南欧原産のキンセンカ科の秋まき一年草。カレンデュラCalendula。春にオレンジや黄色の花を咲かせる。日本渡来は幕末頃で、仏花や盛花として用いるが、ヨーロッパではハーブの1つに数えられる。▽「キヌア」南米アンデス地方原産の穀物。栄養価が高く、近年、健康食品として注目されてきている。▽「キャノン機関」占領軍統治下の日本においてキャノン少佐を中心とした反共特務機関。▽「キノ・プラウダ運動」ロシアの映画作家ジガ・ベルトフが1922年、新聞プラウダに自分の撮るニュース映画は、その付録として「映画(キノ)に撮った新聞」という意味で「キノ・プラウダ」と名付けたが、それが1960年代終わりになって、フランスでゴダールが「キノ・プラウダ運動」として、「東風」「プラウダ」「イタリアにおける闘争」など商業主義から離れたドキュメントと政治色の強い映画を製作した。▽「キャメロット」アーサー王の王国、ログレスの都。▽「緊箍児(きんこじ)」孫悟空の頭に嵌められた金の輪。厄除け。▽「キガリ」ルワンダの首都。▽「義兵戦争」日清戦争後から韓国併合前後までの朝鮮民衆による反日武装闘争。▽「丘長春」きゅうちょうしゅん。1148-1227。全真教の道士。チンギス・ハンの招きで、ヒンドゥークシ山脈の南まで行き、「長春真人西遊録」を残した。▽「キュチュク・カイナルジ条約」1774年、露土戦争の結果、ロシアとオスマン帝国の間で結ばれた講和条約。クチュクカイナルジ条約とも呼ばれる。▽「ギロカストラ」アルバニア南部の都市。2005年に世界遺産に登録。▽「ギヨー」海洋底との比高が1000m以上の孤立した円錐形の山は海山と呼ばれ、特に頂部が水深200m以深にあって平坦なものをギヨーと呼んでいる。ギヨーは平頂火山とも呼ばれ、ほとんどが火山である。名称はスイスの地質学者アーノルド・ヘンリー・ギヨーにちなむ。▽「教訓の書」古代エジプトのパピルスに書かれた巻物。セバイト(sebayt)。▽「キレナイカ」リビアの東部地方。▽「キマロキ編成」国鉄でかつて運転されていた除雪作業用の編成。▽「巨文島事件」1885年から1887年までの2年間、イギリスが巨文島を不法に占拠した事件。▽「キール運河」ドイツ北部ユトランド半島基部の運河。バルト海と北海とを結び、キールからエルベ河口に通じる。▽「金印勅書」1356年、神聖ローマ皇帝カール4世が発布した最初の基本法。ドイツ語でゴルデネ・ブレ(Goldene Bulle)と呼ばれる。マインツ大司教、トリーア大司教、ケルン大司教、ライン宮中伯、ザクセン公、ブランデンブルク辺境伯、ボヘミア王の7選定侯を定める。▽「きんきりうし」去勢された牛。▽「近肖古王」百済の最盛期を築いたとされる第13代王(生年不詳-375年)論語・千字文を応神天皇に献上したとされる。クンチョゴワン。▽「金庸(きんよう)」1924ー2018。香港の武侠小説家。代表作「鹿鼎記」(きききき)

 


ギアナ
紀伊山地
紀伊水道
議員内閣制
キヴィタス
キウカイネン文化
木内宗五郎
キエティスム(静寂主義)
キエフ
キェルケゴール
棄捐令
キオスク
祇園祭
議会
奇貨居くべし
幾何学
帰化人
キガリ
企業
菊池寛
キケロ
きけわだつみのこえ
記号
気候
象潟海岸(にかほ市)
木更津
キサントプロテイン反応
騎士
亀茲(クチャ)
気質
雉も鳴かずばうたれまい
希釈熱
奇術
技術革新
蛾術編(ぎじゅつへん) 
義浄
魏志倭人伝
キシリトール
キジル石窟
ギジルバシュ
岸和田(大阪府)
寄進地系荘園
寄生地主制度
旗人
キージンガー
魏晋南北朝時代
キス
キスカ島
季節風(モンスーン)
キセニア現象
キーセン(妓生)
貴族
木曽山脈
ギター
北アメリカ
北浦
北回帰線
喜多方(福島県)
北太平洋条約機構
北上川
北九州
北朝鮮
喜田貞吉
北本(埼玉県)
北山文化
キーツ,ジョン
杵築(大分県)
契丹
キッチュ
ぎっちょんちょん
キティ台風
キト(エクアドル)
キトラ古墳
ギニア
ギニョール
キヌア
きぬた骨(耳小骨)
絹の道(シルクロード、ザイデンシュトラーセン)
ギネスブック
紀ノ川
城崎
木下サーカス
キノ・プラウダ運動
吉備高原
羈縻政策
蟻鼻銭
吉備津の釜
黄表紙本
岐阜
キープ(インカ帝国)
キプチャク・ハン国
キブツ
キプロス
義兵戦争
奇兵隊
ギべリン党
喜望峰
基本的人権
キマロキ編成
君が代
義務教育
逆コース
格式(きゃくしき)
キャッサバ
キャノン機関
キャフタ条約
キャミソール
キャメロット
キャラメル
きゃりーぱみゅぱみゅ
キャンベラ(オーストラリア)
杞憂
九か国条約
旧教
九州
旧制度(アンシャン・レジーム)
九成宮醒泉銘(欧陽詢)
旧石器
丘長春
旧約聖書
キューバ
九品中正
宮中某重大事件(1919年)
キュチュク・カイナルジ条約
キューリー夫妻
キュレーター(博物館・美術館の学芸員)
キュロス2世
ギヨー
教育
教育勅語
狂歌
教科書
京劇
教訓の書
狂言
教皇
恐慌
姜沆
鏡子ちゃん事件
共産党
仰韶文化
行政
京都
京都議定書
京都アニメーション放火殺人事件(2019年)
匈奴
恐怖政治
享保の改革
京の着倒れ、大阪の食い倒れ
きょうは帝劇、あすは三越
郷勇
恐竜
曲亭馬琴
極東軍事裁判
御史台
巨人
清洲会議
清瀬(東京都)
巨石文化
巨文島事件
ギョベクリ・テぺ遺跡(トルコ)
浄御原律令
清元
居庸関
魚鱗図冊
キラーファト運動
霧ヶ峰
キリキア
ギリシア
キリシタン文化
霧島
キリスト教
桐一葉落ちて天下の秋を知る
キリマンジャロ
桐生
キリル文字
キール運河
キルギス
キルクーク
ギルド
ギルバート諸島
キールン(基隆)
キレート滴定
キレナイカ
ギロカストラ
ギロチン
義和団の乱

金印
金印勅書
銀河
金閣
近畿
きんきりうし
金喜老事件
緊急事態宣言
金魚
金玉均
キングス・クロス駅
キングストン(ジャマイカ)
キング牧師
銀行
緊箍児(きんこじ)
銀座
金鵄勲章
キンシャサ(コンゴ民主共和国)
金正恩
禁じられた遊び(フランス映画)
近肖古王
近親相姦
近代
錦帯橋
近代文学
金田一京助
禁中並公家諸法度
欽定憲法
均田法
キンバリー(南アフリカ)
キンブリ人
金本位制
キンメリ人
金門橋
金融
金融庁
均輸法(漢代)
金庸
筋力
菌類
勤労者世帯

 

 

 

 

 

 

 

 

2023年1月22日 (日)

魚へんの漢字

365b902cddf26316f77f440f2a3f46e4   魚へんの漢字はたくさんあります。

   鰰、鰯、鯵、鱚、鰈、鱸、鰊、鮪、鰖、鮞

 

「はたはた」「いわし」「あじ」「きす」「かれい」「すずき」「にしん」「まぐろ」「たかべ」「はららご」と読みます。

では「鱻」は何と読むでしょうか?

答えは「せん」です。「新しい」「活魚」の意味を持ち、「鮮」の異体字。

  魚は毎日さまざまな形で食べている。切り身を買う。銀サケ、サバ、ブリ、サワラ。サンマやアジの開き。明太子、イクラ、とびこ、数の子など加工品。蒲鉾、ちくわ、はんぺん、さつま揚げなどの加工品。サンマ・蟹などの缶詰。鮭・鯖の水煮・味噌煮。マグロフレーク。鰹のたたき、マグロなど刺し身。魚はDHAを豊富に含む。晩御飯のおかずに困ったら、魚を想い出そう。

 

真魚鰹 まながつお

細魚 針魚  さより

鰆   さわら 

鯑   かずのこ

鱝   えい 

鯣   するめ

鮎魚女 あいなめ

 

 

 

 

 

背が高い女性、低い女性

Article016a2241a000005dc574_634x856  最近の若い女性は皆背が高くて170cm以上でも目立たなくなってきた。芸能界でも、松嶋菜々子172cm、松下奈緒174cm、杏177cm、生方ななえ178cm、大林素子182cm、スーザン・アントン183cm。ブラジル北部ブラガンサに住む美少女エリザニー・シルバ(18歳)の身長は何と206cm。恋人フランシナルドとの身長差が45cmもある。

  ちなみに世界の有名女優の身長は…

ミミ・マティ    132㎝

 

ヴィヴィアン・リー 161㎝

 

マリリン・モンロー 166.4㎝

 

オードリー・ヘップバーン 170㎝

 

アンジェリーナ・ジョリー 173㎝

 

  日本の女性著名人は…

富永愛  179㎝

 

藤原紀香 171㎝

 

新川優愛 166㎝

 

宮崎あおい 163㎝

 

堀田真由  162㎝

 

広末涼子  161㎝

 

指原莉乃  159㎝

 

井上真央  158cm 

 

広瀬すず  158㎝

 

石原さとみ 157㎝

 

宮間あや  157㎝

 

吉永小百合 157cm

 

田畑智子  157㎝

 

薬師丸ひろ子 155㎝

杉咲花   153㎝

 

大島優子  152㎝

 

橋本環奈  152㎝

 

安倍なつみ 152㎝

 

上白石萌音 152㎝

 

miwa           149㎝

 

岸井ゆきの 148.5㎝

 

高橋みなみ 148.5㎝

 

さくらまや  147㎝

 

 

言葉の類型(ことわざ故事成語・名言名句など)

   日本はことばの豊富な国であり、ことわざ・格言・故事成語・名言名句など様々な種類の言葉が存在するが、その語源や由来によって類型化することができる。慣用句・決まり文句・新語・流行語・若者ことばなど文章や会話で使われている。

1.「やまとは国のまほろば」古事記・倭建命の歌。日本の古典。

2.「泣く子は育つ」大声をあげて泣くような赤ん坊は元気なので、丈夫に育つということ。泣くからと言って心配するなという意味にも使われる。江戸時代から使われている代表的な「ことわざ」であるが初出、出典の正確な由来は不明。

3.「敵は本能寺にあり」天正10年、明智光秀が主君信長を弑逆したときの歴史的な名言であるが、光秀が本当に言ったかは不明。頼山陽「日本外史」にある。

4.「蛍雪の功」苦労して学問に励むこと。出典は「晋書」。「温故知新」「四面楚歌」「臥薪嘗胆」など故事成語には中国古典の由来のことばが多い。

5.「魚を与えるのではなく、魚の釣り方を教えよう」技術が大切ということ。外国のことわざだが、その由来は不明。「知識は力なり」と同類。

6.「考える葦」哲学者パスカルの「パンセ」にあることば。

7.「あがり」お茶のこと。寿司屋の業界用語。

8.「持続可能な」サステナブル。国連が定めた世界的目標。新語・流行語

9.「セクハラ」性的いやがらせ。セクシャル・ハラスメントの略語。外来語

10.「きんきりうし」去勢された牛。ほとんど使われないことば。

11.「じんじろげ」意味不明のことば。「くしゃがら」など。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2023年1月21日 (土)

緑衣女

  ある書生のもとに、毎夜通ってくる緑衣の女は、腰がほっそりしていて歌がうまい。ある夜、帰りまぎわに女の叫び声がしたので、出て行ってみると、緑色の蜂が蜘蛛の糸にからめられて悲しげに泣いている。書生が助けてやると、蜂は硯の墨汁にからだをぬらして机の上を歩き、「謝」の字を書いて飛び去ってしまった。(聊斎志異)

レーニン・デー

Nikolailenin2225    ロシアの革命家、ソビエト連邦の建国者ウラジーミル・イリイッチ・レーニン(1870-1924)は、1924年1月21日に53歳で他界した。死因は、その精力的な仕事からくる過労といわれているが、1918年8月30日、モスクワの工場労働者に演説中、左翼エスエルの35歳女性党員ファーニャ・カプランから2発の銃弾を受けた際の後遺症も死を早めたともいわれる。1922年5月26日、レーニンは第1回目の発作に見舞われた。10月2日、彼は再びオフィスの仕事に向かいはじめたが、断続的に、しかも短時間しか続けられなかった。12月16日、第2回目の発作が起こり、右の腕と脚が麻痺状態に陥った。1924年1月21日午後6時50分、モスクワ近郊のゴルキで亡くなくなった。遺体はモスクワのレーニン廟に現在も保存されている。

    ところで、レーニンという名はペンネーム(偽名)である。本名はウラジーミル・イリイッチ・ウリヤノフ。1901年末、「N・レーニン」という変名を初めて使ったがその由来には諸説がある。①シベリアの大河レナ川に因んで、「レナ川の人」という意味②レナという級友の名前③N・レーニンという変名のNはニコライの略。(Vladimir Iliich Lenin)

2023年1月20日 (金)

土田耕平「大寒小寒」

   「おおさむ こさむ 山から こぞうが とんでくる…」冬のさむい晩、三郎はおばあさんとこたつにあたっていた。大寒小寒の歌は、こんなさむい晩に、おばあさんが口くせのようにうたう歌だ。   「おばあさん。こぞうが、なぜ山からとんでくるの?」と三郎がきくと、おばあさんは、「山は、さむうなっても、こたつもなければお家もない。それでとんでくるのだろうよ」という。また三郎が「こぞうって、お寺のこぞうかい?」「山のこぞうは、木のまたから生れたから、ひとりぼっちだよ」「おばあさんもないの?」「ああ、ないよ」「それで、着物は着ているかい?」「おおかた、木の葉の着物だろうよ」   三郎には、頭を青くそりこくった赤はだしの山こぞうが、目に見えるように思われた。おおきくなって、三郎は東京で暮らすようになったが、毎年冬になると、大寒小寒の歌を思いだし、おばあさんを思いだすのであった。(土田耕平「大寒小寒」)。

本日は一年中で、最も寒い日と言われる「大寒」。大寒の句でよく知られるのは、「大寒の埃の如く死ぬる」(高浜虚子)、「大寒や転びて諸手つく悲しさ」(西東三鬼)あたりだろうか。

2023年1月18日 (水)

最上義光没す(1614年)

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  1614年のこの日、最上義光(1546-1614)が没す。69歳。義光は天正の初め、父義守のあとを継いで最上氏の当主となって、慶長19年、69歳で没するまで、上杉景勝・伊達政宗らと戦い、出羽国山形の城主として名を轟かせた戦国武将である。とくに慶長5年の関ヶ原の合戦では、東軍の徳川方に属して米沢の直江兼続と長谷堂城で交戦する。西軍に属した出羽横手城主小野寺義道が庄内に迫ったため南北より挟まれるが、伊達勢の来援もあって辛うじて両者を撃退。戦後、その功により庄内などを加増され、出羽山形藩57万石の初代藩主となった。平成元年、山形市に最上義光歴史館が開館した。「もがみよしあき」と読む。

    ところで大河ドラマ「天地人」は直江兼続に妻夫木聡、上杉景勝に北村一輝、上杉謙信に阿部寛、お船に常盤貴子、初音に長澤まさみ、などがキャスティングされた。しかし、最上義光はいったい誰だろうか?1987年の「独眼竜政宗」では、最上義光は原田芳雄が熱演したが、悪役としてのイメージが残った。史実とも大きくことなるだけに、今回の「天地人」の最上義光を注目していたが、結局義光は登場しなかったらしい。和歌森太郎の「日本武将100選」(昭和45年刊、秋田書店)にも72番目に最上義光が取り上げられている。直江兼続は選外であった。最上義光は英雄である。(1月18日)

2023年1月17日 (火)

アヴィニョン捕囚

   ローマ教皇は約70年以上にわたりアヴィニョンに幽閉されていたが、1377年のこの日、教皇はローマ帰った。フランスでは、カペー朝(987-1328)において典型的な封建社会が成立した。ルイ9世(在位1180-1223)は、法による平和を基調とした安定した政治により、パリが中世末期の中心的地位を占めるようになった。ローマはアナーニ事件、アヴィニョン遷座でその中心的地位が低下していく。

   フランスの王権をさらに強めたのが、フィリップ4世(在位1285-1314)である。彼は相次ぐ戦争による莫大な出資に対処するため、テンプル騎士団を解散させ、所領・財産を没収した。また、聖職者への課税を強行したことから、教皇ボニファティウス8世(在位1294-1303)との衝突が生じた。1302年、彼はパリに聖職者・貴族・市民の代表からなる全国三部会を創設して教皇に対抗した。そして1303年9月7日、国王のレジスト、ギヨーム・ド・ノガレ(1260-1313)はイタリアに赴き、教皇反対派のシアラ・コロンナと相呼応して、教皇をローマ郊外のアナーニに襲って捕えた。教皇はその後まもなく釈放されローマに帰還したが、まもなく憤死した。(アナーニ事件) ノガレはコロンナの行動が過激であったため民衆の反感を買い失敗、フランスに帰国。その後、教皇クレメンス5世(在位1305-1314)は政情不安なローマを嫌い、教皇庁を南フランスのアヴィニョンに遷居した。以後グレゴリウス11世まで7代約70年間にわたり、教皇はフランス王の監視下におかれる状態であった。これを「教皇のアヴィニョン捕囚」(1309-1377)という。グレゴリウス11世は1377年1月17日にローマに帰ったが、その翌年同教皇が死んでからローマとアヴィニョンに2人の教皇が分立しシスマ(教会大分裂、1378-1417)が起こり、教皇の権威は失墜した。

 

 

三木合戦

   1580年のこの日、羽柴秀吉に包囲された三木城が陥落し、城主別所長治が自刃する。2年前から、秀吉の包囲作戦に耐えてきた。摂津では有岡城の荒木村重は、反織田の動きを示したため、長期戦となった。昨秋、秀吉は城から500~600mのところに高さ約3mの築地をつくり、「三木の干殺し(みきのひごろし)」といわれる兵糧攻めを開始した。その間、秀吉の部将黒田官兵衛が説得に向かったが、村重に捕らえられ有岡城に幽閉された。1578年3月29日から1580年1月17日までを三木合戦という。

 

今月今夜の月の日

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   本日は尾崎紅葉の小説「金色夜叉」のなかで、貫一お宮が熱海の海岸で別れた日である。この日の夜が曇り空になることを「貫一曇」と言う。

    尾崎紅葉(1867-1903)、慶応4年(明治元年)1月10日(旧暦では慶応3年12月16日)、江戸芝中門前町に生まれる。本名は徳太郎。父は尾崎惣蔵、通称を武田谷斎(こくさい)という象牙彫りの名人。母は漢方医荒木舜庵の娘庸(よう)である。谷斎は屋号を芝伊勢屋という商家の出であったが、一面に赤羽織の谷斎と呼ばれる、奇行に富む幇間でもあって、紅葉はこの実父のことは生涯秘密で通した。明治28年、山田美妙らと硯友社を結成。「二人比丘尼色懺悔」「伽羅枕」「三人妻」「金色夜叉」など主要作品のほとんどを読売新聞に発表している。出世作で好評を得た雅俗折衷の文体は苦心して創造したものであったが、明治24年の「二人女房」後半から言文一致を試み、である調を用いた。表現の技巧に苦心することを文学の第一義と考え、優れた文章を書く努力を生涯続けた。

   三島由紀夫は昭和43年に中央公論社から刊行された「日本の文学」編集委員でもあったが、シリーズ中の「尾崎紅葉・泉鏡花」の解説を書いている。三島の文学観がうかがえて面白い。依田百川(学海)の尾崎紅葉評を引用しているので紹介する。「当時の紅葉の小説は、一方では満天下の婦女子の紅涙もしぼったけれども、一方では、文章の巧妙練達と、また、その奇思湧くが如く、警語頗る多し!によって敬愛されていたのである。はじめは人も異としたであろうが、奇思や警句を喜ぶ態度は、その文章を味わう態度と共に、文学鑑賞の知的態度と云わねばならない。明治文学からこのような知的な読者のたのしみ方を除外すると、その魅力の大半が理解されなくなる惧れをなしとしない。鴎外にしても漱石にしてもそうである。小説中の客観描写の洗練と、日本的なリゴリズムを伴った人事物象風景それ自体の実在感や正確度を要求する態度は、自然主義や白樺派以後に固定した態度であり、このような鑑賞方法がその後の近代文学をがんじがらめにしたことは周知のとおりである。従って紅葉を読むときは、まず、一種観念的なたのしみ方から入ってゆくことが必要である。洒落や地口も、警句の頻出も、はなはだアレゴリカルな筋立ても、そういうたのしみ方なら許容されるばかりか、明治文学の持っているむしろ健康な観念的性格に素直に触れることができるのである。」と読者入門のガイダンスとしては親切丁寧な一文であろう。三島の勉強家で誠実な人柄があらわれている。

    最後に尾崎紅葉の文体を鑑賞するために、有名なる「間貫一、お宮の熱海の海岸の別れの場面」の一部を紹介する。

   打ち霞みたる空ながら、月の色の匂いこぼるるようにして、微白き海は縹渺として限りを知らず、たとえば無邪気な夢を敷けるに似たり。寄せては返す波の音も眠げに怠りて、吹き来る風は人を酔わしめんとす。打ち連れてこの浜辺を逍遥せるは貫一と宮となりけり。

「僕はただ胸が一杯で、何も言うことが出来ない」

Photo_2   五歩六歩行きし後、宮はようよう言い出でつ。

「堪忍して下さい」

「何もいまさら謝ることはないよ。一体今度のことはおじさんおばさんの意から出たのか、またお前さんも得心であるのか、それを聞けばいいのだから」

「…………」

「こッちへ来るまでは、僕は十分信じておった、お前さんに限ってそんな了簡のあるべきはずはないと。実は信じるも信じないもありはしない、夫婦の間で、知れきった話だ。昨夜おじさんからくわしく話しがあって、その上に頼むというおことばだ」

   差しぐむ涙に彼の声は顫いぬ。

(中略)

「ああ、宮さんこうして二人が一処にいるのも今夜ぎりだ。お前が僕の介抱をしてくれるのも今夜ぎり、僕がお前に物を言うのも今夜ぎりだよ。一月の十七日、宮さん、よく覚えておおき。来年の今月今夜は、貫一はどこかでこの月を見るのだか!再来年の今月今夜……十年後の今月今夜……一生を通して僕は今月今夜を忘れん、忘れるものか、死んでも僕は忘れんよ!いいか、宮さん、一月十七日だ。来年の今月今夜になったならば、僕の涙で必ず月は曇らせて見せるからね、月が……月が……月が……曇ったらば、宮さん、貫一はどこかでお前を恨んで、今夜のように泣いていると思ってくれ」

(中略)

「ああ、私はどうしたらよかろう!もし私があッちへ嫁ったら、貫一さんはどうするの、それを聞かせ下さいな」

   木を裂くごとく貫一は宮を突き放して、

「それじゃいよいよお前は嫁ぐ気だね!これまでに僕が言っても聴いてくれんのだね。ちぇえ、腸の腐った女!姦婦!!」

   その声とともに貫一は脚をあげて宮の弱腰をはたとけたり。地響きして横さまにまろびしが、なかなか声をも立てず苦痛を忍びて、彼はそのまま砂の上に泣き伏したり。貫一は猛獣などを撃ちたるように、彼の身動きも得せず弱々とたおれたるを、なお憎さげに見やりつつ、

「宮、おのれ、おのれ姦婦、やい!貴様のな、心変りをしたばかりに間貫一の男一匹はな、失望の極発狂して、大事の一生を誤ってしまうのだ。学問も何ももうやめだ。この恨みのために貫一は生きながら悪魔になって、貴様のような畜生の肉を啖ってやる覚悟だ。富山の令……令夫……令夫人! もう一生お目にはかからんから、その顔をあげて、真人間でいる内の貫一の面をよく見ておかないかい。長々のご恩に預ったおじさんおばさんには一目会ってだんだんのお礼を申し上げなければ済まんのでありますけれど、仔細あって貫一はこのまま長のお暇を致しますから、随分お達者でご機嫌よろしゅう……宮さん、お前からよくそう言っておくれ、よ、もし貫一はどうしたとお訊ねなすったら、あの大馬鹿者は一月十七日の晩に気が違って、熱海の浜辺から行方知れずになってしまった……」

   宮はやにわに蹶ね起きて、立たんすれば脚の痛みに脆くも倒れて効なきを、ようやく這い寄りて貫一の脚に縋り付き、声と涙とを争いて、

「貫一さん、ま……ま……待って下さい。あなたはこれからど……どこへ行くのよ」

   貫一さすがに驚けり、宮の衣のはだけて雪羞ずかしくあらわせる膝頭は、おびただしく血に染みて顫うなりき。

(中略)

   ついに倒れし宮は再び起つべき力も失せて、ただ声を頼みに彼の名を呼ぶのみ。ようやく朧になれる貫一の影が一散に岡を登るが見えぬ。宮は身悶えしてなお呼び続けつ。やがてその黒き影の岡の頂に立てるは、こなたをまもれるならんと、宮は声の限りに呼べば、男の声もはるかに来たりぬ。

「宮さん!」

「あ、あ、あ、貫一さん!」

   首を延べてみまわせども、目をみはりて眺むれども、声せし後は黒き影の沸き消すごとく失せて、それかと思いし木立の寂しげに動かず、波は悲しき音を寄せて、一月十七日の月は白く愁いぬ。宮は再び恋しい貫一の名を呼びたりき。(1月17日)

 

 

 

 

2023年1月16日 (月)

画家土佐光則没す(1638年)

   土佐光則は江戸時代前期の土佐派の絵師。1583-1638。極めて発色の良い絵の具を用いた金地濃彩の小作品が多く、土佐派の伝統を守り、描写の繊細さ、色彩の繊細さにおいて巧みであった。代表作「源氏物語画帖」(徳川黎明会)、「雜画帖」(東京国立博物館)

オクタヴィアヌス

Scaugustus

 紀元前27年のこの日、ローマ政界一の実力者ガイウス・オクタヴィアヌスが元老院からアウグストゥス(尊厳者)の尊称を受けた。この結果、オクタヴィアヌスが軍隊の駐屯が必要とされる属州の大半を統治することになり、事実上の専制君主、初代皇帝となり、ローマ帝政が開始されることになる。アウグストゥスは、同名の父とカエサルの姪アティアとの間に生まれた。アウグストゥスはカエサルの悲劇にかんがみて共和政の伝統を尊重し、そのすべての官職を残したうえ、属州の統治を元老院と分割したが、軍隊命令権などを一身に集中したので、実質上は帝政であった。その権威は在世中から神に近いものとされ、死に際してアウグストゥス神として神格化された。(1月16日、Augustus)

 

 

 

 

 

 

2023年1月15日 (日)

グレタ・ガルボ結婚!?

  「結婚をしないで、なんて私は馬鹿だったんでしょう。これまで見たものの中で最も美しかったものは、手を組んで歩く老夫婦の姿でした。」と無声映画時代の美人女優グレタ・ガルボの名言が残されている。彼女が85歳で死去するまで生涯独身だったことはよく知られている。わが国の原節子と並んで「永遠の処女」といわれる。だが昭和史全記録(毎日新聞社)の1934年1月15日付の記事には「ガルボ結婚」とある。お相手は「クリスチナ女王」の監督ルーベン・マムリーアンでアリゾナ州ウィリアムで極秘結婚とのこと。誤報であったが、新聞記事索引にはガルボの結婚報道はいつまでも残っている。

 

 

登誉上人と祖洞和尚

 「どうする家康」第2話「兎と狼」。永禄3年(家康19歳)。織田軍に包囲され、絶対絶命の松平元康。だが、なぜか信長は兵を引く。元康は故郷の三河へと進む。岡崎城には今川の残兵がいたため、元康は自害しようとするが、大樹寺の住職、登誉上人に止められる。彼が説く「厭離穢土欣求浄土」は生涯を通じての家康の精神的な支えとなり、徳川家の馬印になる。このほか、寺僧の一人、祖洞了伝は怪力の持ち主で、総門のかんぬきで、敵を退却せしめた挿話が有名だが、ドラマでは取り上げられなかった。

 

人類と酒の起源

 「酒場放浪記」「ワカコ酒」など居酒屋をめぐる番組が人気である。「孤独のグルメ」の井之頭吾郎は下戸という設定であるが、松重豊さんは酒が大好きだそうだ。ワイン、ウィスキー、ブランデー、ラム、ジン、スコッチ、カルヴァドス、ウォッカ、コニャック、テキーラ、日本酒、焼酎、泡盛。現代人にとって、酒は魅力的な飲み物だ。酒に含まれるエタノールには、脳内でセロトニン、ドーパミン、エンドルフィンなどの放出を促進する働きがある。つまり、酒を飲むと不安が和らぎ、楽しい気分になるのだ。トルコ南東部にあるギョベックリ・テぺ遺蹟は世界最古の宗教建築物で知られている。推定11,5000年前の遺跡で、旧石器時代に狩猟と採集の生活をしていた人類は、やがて定住して農耕を始めた。このころ人類史上の最大事件に酒が大いに関わっていたと考えられる。遺跡から出土した壺からアルコールの残滓が確認されている。文明の時代になると、酒の起源は多くの神話によって語られているが、エジプトではオシリス神がビールを教えたと伝えている。この神はエジプト人を開化にみちびいた農耕の神であるが、エジプト人が穀物から酒をつくることを知ったのは5000年以前のことであり、はじめこの酒をヘッタとよんだことが文献にのこされている。参考:NHKスペシャル食の起源「酒」飲みたくなるのは進化の宿命!?

 

 

 

2023年1月14日 (土)

ボギーあんたの時代はよかった

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  ハンフリー・ボガート(1899-1957)は死後半世紀以上がたつが男のダンディズムの象徴になっている。だが彼の初期の出演作29本のうち半分は殺されるか死刑になる役だった。共演者といえば、ジェームズ・ギャグニー、エドワード・G・ロビンソン、ジョージ・ラフトといったギャングスターばかり。顔つきが恐いという印象がある。ところが実際のボガートは「とても傷つきやすく、穏やかな人だった。そして嘘と名のつくものはすべて嫌った」とローレン・バコールはいう。「マルタの鷹」(1941年)の探偵サム・スペード役で大スターとなった。3度離婚し、最後の妻はローレン・バコール。1957年1月14日、咽喉ガンで死去。享年57歳だった。

 

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  ハードボイルド映画で花をそえたヒロインたち。ベティ・デイビス(化石の森、札つき女、倒れるまで、愛の勝利)、シルビア・シドニー(デッド・エンド)、ジョーン・ブロンデル(身代わり花形)、プリシラ・レーン(彼奴は顔役だ)、メアリー・アスター(マルタの鷹)、アイダ・ルピノ(ハイ・シエラ)、イングリッド・バーグマン(カサブランカ)、ローレン・バコール(脱出、三つ数えろ、潜行者、キーラーゴ)、バーバラ・スタンウィック(第二の妻)、キャサリン・ヘプバーン(アフリカの女王)、ジェニファー・ジョーンズ(悪魔をやっつけろ)、エヴァ・ガードナー(裸足の伯爵夫人)、オードリー・ヘプバーン(麗しのサブリナ)。

 

 

近代作家と映画黄金時代 1930-1952

Photo_2  「志賀直哉、映画に行く」という新刊書を読む。志賀の日記を基にして、彼の生涯に見た映画を辿っている。この本からわかることは、小説の神様、志賀直哉はそうとうに映画が好きだったらしい。大正の終わりから昭和10 年代の映画館は、映画の二本立てや三本立て、もしくは二本立てとレビューとかバラエティなどの演芸がほとんどだった。1931年志賀は「モロッコ」を家族連れで見ている。志賀は48歳。このとき一緒に行った子供は留女子13歳、壽々子は10歳、萬亀子は9歳。志賀はよほど気に入ったとみえ、昼食の寿司をはさんで、2館に足を運んでいる。子どもたちにはハードスケジュールだったと思われる。志賀の日記には1日に3館行った日さえある。志賀は本当に映画が好きだった。考えてみれば、志賀の生きた時代と映画の黄金時代はちょうどオーバーラップする。

 室生犀星も映画好きで知られる。最近、孫の室生洲々子が犀星の映画にまつわる文章を、日記を中心に集めた「犀星映画日記」を出版している。直哉(明治16年生まれ)、谷崎潤一郎(明治19年)、犀星(明治22年)、康成(明治32年)、大岡昇平(明治42年)、三島由紀夫(大正14年)・・・大正・昭和期に活躍した日本の作家はほとんど無声映画、トーキー映画が好きだった。

   ハリウッドの黄金時代がいつ頃であるかは諸説あるだろう。「世界でいちばん魅力的な女優」といわれたマレーネ・ディートリッヒが映画監督ジョゼフ・フォン・スタンバークに招かれて渡米し、「モロッコ」に出演したのが1930年。大戦後、チャップリンが赤狩りで逃げるようにアメリカを出国したのが1952年。この1930年から1952年までという期間は、ナチス政権の成立とともに、ヨーロッパからの亡命者がハリウッドに集結し、最もコスモポリタン的な雰囲気に満ちた時代であったと思う。もちろんディートリッヒ以前に渡米した女優にはゼダ・バラ、ポーラ・ネグりやリリアン・ハーヴィ、アラ・ナジモーヴァなどがいる。ゼダはフランス経由で渡米したアラブ人でヴァンプ女優として成功した。だがディートリッヒやチャップリンのように反ナチズムを叫んだ映画人はいない。1930年代から1952年までのハリウッドは俳優だけでなく、監督、脚本家、音楽家、スタッフなどドイツ、フランス、ハンガリー、オーストリア、ロシアなど各国の出身者たちがいた。戦時中の映画には、アメリカ人の閉塞感や未来への希望を代弁して、ミュージカルやメロドラマが好まれた。またジュリアン・デュヴィヴィエ、ジャン・ルノワール、ハーマン・シュムリン等の名監督がドイツ軍占領下のヨーロッパを逃れアメリカで優れた作品を残している。この時代ハリウッドに渡米成功した女優には、グレタ・ガルボ(スウェーデン)、へディー・ラマー(オーストリア)、イングリッド・バーグマン(スウェーデン)、ソニア・へニー(ロシア)、アンナ・ステン(ロシア)、ヴィヴィアン・リー(イギリス)などがいる。

 

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額田大王の歌

  万葉集初期の女流歌人。鏡王の娘で、はじめ大海人皇子の愛を受けて十市皇女を産んだが、のちに天智天皇に愛されて近江大津宮に仕えた。壬申の乱後は、大和遷都に伴って大和に帰り住んだらしい。661年のこの日、斉明天皇が百済救援軍を見送るために伊予・熱田津(にぎたつ)の石湯(道後温泉)に宿泊した。有名な歌「熟田津に船乗りせむと月待てば潮もかなひぬ。今は漕ぎ出でな」は661年1月14日の作。大意は「伊予の熟田津で、舟遊びをしよう、と月の出を待っているうちに、月も昇り、潮もいい加減になってきた。さあもう漕いで出ようよ。」

 

2023年1月13日 (金)

源頼朝没す

  1199年のこの日、源頼朝死去す。享年51歳。前年12月27日の相模川橋供養の際に落馬したのが原因といわれている。2022年の大河ドラマ「鎌倉殿の13人」主役・北条義時は小栗旬、頼朝は大泉洋が演じて好評だった。これまで大河ドラマでは過去6人が頼朝を演じている。「源義経」(1966年)は芥川也寸志、「新平家物語」(1972年)は高橋幸治、「草燃える」(1979年)は石坂浩二、「炎立つ」(1993年)は長塚京三、「義経」(2005年)は中井貴一、「平清盛」(2012年)は岡田将生がそれぞれ演じた。頼朝の容貌は「顔大ニシテ、たけ低く、容貌花美ニシテ、景体優美也」(源平盛衰記)とみえる。大河では痩身タイプが多い。現代の日本社会でも、武士の評価は高く、政治家や企業経営者のなかには、前近代の武将に、その模範を見出す人が多く、お手本となる人物である。しかしながら政略家で、また容赦なく弟の義経を殺そうとしたりして、狡猾・陰険なイメージがあるため、いまイチ人気は高くない。大泉頼朝はとぼけていてつかみどころがないが、結構適役だった。(1月13日)

 

 

2023年1月12日 (木)

家庭は道徳の学校

   毎年1月、2月には全国各地で「ペスタロッチ祭」という教育関係者の研究大会が催されることが多いが、それはスイスの教育者ヨハン・ハインリヒ・ペスタロッチ(1746-1827)の生誕(1746年1月12日)と命日(1827年2月17日)に因んでのことである。ペスタロッチの教育実践は我が国の教育界では広く知られるところであり、岡山県苫田郡鏡野町ではスイスのイフェルドン市と友好憲章を締結し、町立図書館を「ペスタロッチ館」と名づけ、ペスタロッチの銅像を建てている。1階には7万冊の開架室がある。

    ペスタロッチに「家庭よ、なんじは道徳の学校なり」という名言があるそうだが、なるほど道徳や礼儀は子どもたちが学校教育を受ける以前から家庭で両親から教えられるべきものである。「チャーリーとチョコレート工場」(ティム・バートン監督)というファンタジー・コメディー映画を観たが、西欧諸国では教育の基本は家庭のしつけであり、「子どもは見られるものであって、聞かれるべきものではない」という厳格なしつけの大切さを確信していることに感心させられた。

    原作はイギリスの作家ロアルド・ダールの「チョコレート工場の秘密」。主演のジョニー・デップが工場長に扮し、「シザーハンズ」のティム・バートンとコンビを組んだ楽しい映画。しかし中味はなかなか辛口である。日本語吹き替えなのですべてのパロディを理解できないが、子どもも大人も楽しめ教訓も含まれるおすすめの映画だ。

   ここで夢のチョコレート工場に招待される5人の子どもたちを紹介しよう。最初の当選者は何よりも食べることが大好きな肉屋の肥満少年、オーガスタス・グループだった。彼はチョコレートを食べまくって、ゴールデン・チケットを手に入れた。2番目の当選者はナッツ工場の社長令嬢ベルーカ・ソルト。父の財力にものをいわせてチョコレートを買い占めた。かんくしゃく持ちの何でもすぐに欲しがるわがまま娘。3番目の当選者は、あらゆる賞を獲得することに執念を燃やす熱血少女バイオレット・ボーレガード。今はノンストップでガムをかみ続ける世界記録に挑戦中だ。勝つことにこだわり、チャーリーを「負け犬」と言っている。4番目の当選者は頭の良さをひけらかす凶暴なハイテクおたくの天才少年マイク・ティービー。彼はチョコレートの製造年月日と気候による増減と日経平均(ウソ)からチケットのありかをつきとめた。年に一度しかチョコレートを買ってもらえないチャーリー・バケット(フレデイ・ハイモア)には当選の確立は限りなく低い。彼を愛する両親(ノア・テイラー、ヘレナ・ボナム・カーター)は貧しい暮らしの中から誕生日のチョコレートをいつもよりはやくチャーリーにプレゼントする。しかし、チケットは入っていなかった。チャリーはその一枚を家族みんなに分けてあげる。(「一杯のかけそば」のパロデイか)今度はジョーおじいちゃんがくれたヘソクリのお金でチョコレートを買うが、やっぱし、チケットは入っていない。すべての望みはたたれたかに思えたが、ある雪の日、チャーリーは道でお金を拾い、チュコレートを買った。(良い子のみなさんは拾ったお金は交番に届けましょう)最後のゴールデンチケットが出てきた。当選の知らせを聞くと、寝たきりだったジョーおじいちゃんは、急にベットから起き上がり、元気いっぱいに飛び跳ねた。いよいよ工場見学の日。工場の前に5人の子どもたちと同伴者が並ぶ。そこについに伝説人物、ウィリー・ウォンカが現れる。前髪そろえのオカッパ頭にシルクハット、顔を白く塗った彼はエキセントリックな印象だ。ウィリーは子ども時代に歯科医である父(ドラキュラ役で有名なクリストファー・リー)から虐待に近い躾を受けて育ったためトラウマになって、現在もペアレンツ(両親)という言葉を口にできず、フラッシュバックを起こすアダルトチルドレンなのだ。そして子どもたちが案内された工場内で起こる奇妙な出来事で、わがまま放題の子どもたちが一人、また一人と消えていく…。そして最後に残ったのは良い子のチャーリーだけとなった。ウォンカは工場は君にあげるといい、家族は大喜びするが、チャーリーは家族が世界で一番大切なものだ、といいウォンカの申し出を断わる。家族の素晴らしさに目覚めたウォンカは、父親を訊ねる決心をする。再会したウォンカの父親は息子との再会を喜び、ふたりは長年のわだかまりを乗り越えることができた。チャーリーのおかげで家族の大切さを知ったウォンカは、結局、チャーリーに工場を譲ることになり、ふたりはチャーリーの家の食卓で温かい食事と家族の愛に包まれながら、新しいお菓子作りに夢をふくらませるのだった。「チャーリーとチョコレート工場」には「不思議の国のアリス」「オズの魔法使い」あるいはディケンズの「クリスマスキャロル」などという古典、教訓を盛り込んだ楽しいファンタジーの系譜がきっちりと生きている。発想の奇抜さ、新鮮さと時代遅れのギャグとパロディという相反する要素をおもちゃ箱に入れてそれをひっくり返す楽しさ、ハリウッドとビクトリア朝イギリスの厳格主義の合作、とても日本人には真似できないジャンルであろう。

 

 

アガサ・クリスティ没(1976年)

  1976年のこの日、アガサ・クリスティが死去した。84歳だった。「オリエント急行殺人事件」「ABC殺人事件」「そして誰もいなくなった」など多くの推理小説を書き、ギネスブックには「史上最高のベストセラー作家」と認定している。作品のほとんどが映画・テレビなどで映像化されているが、なかでもデヴィッド・スーシェ演じるテレビドラマ「名探偵ポアロ」シリーズは原作に最も近いポアロといわれる。(1月12日)

 

 

2023年1月11日 (水)

敵に塩を送る

   1569年のこの日(新暦1月27日)、上杉謙信が、塩不足に悩む交戦中の武田信玄に塩を送ったとされる。この故事にちなみ本日を「塩の日」としている。甲斐の国は、海に面していないので、塩を作ることができなかった。塩は交易によって他国から購入するしかなかった。そこで今川氏真と北条氏康は共謀して甲斐への塩の輸送を断つ「塩留(しおどめ)」を行った。これを聞いた上杉謙信は今川・北条の行為は卑怯だとして、宿敵信玄に義塩を送ったという。この話は、江戸時代の学者、頼山陽によって有名となった「敵に塩を送る」だが、実際に行われたかどうかは定かではない。塩留は現在の経済制裁によく似ている。(1月11日)

 

 

県召除目

 平安時代、正月十一日から十三日までの3日間に、宮中において諸国の国司の任命をする儀式。まず任命の推薦理由を記した申文を蔵人が奏上し、銓衡して大間という文書に任官すべき者の氏名を記して奏上する(1月11日)

 

 

有名人になる前の職業

Chuckconnorsdodgers  「光る君へ」で紫式部演ずる吉高由里子はガソリンスタンドでバイトをしいた。「とんでもない美人がいる!」と評判になりガソリンスタンドには行列ができた。ウクライナの大統領ゼレンスキーは政治家になる前、俳優でありコメディアンだった。菅義偉は18歳で秋田の田舎から上京して板橋の段ボール工場に2年間住み込みで働いた。全世界の元首の経歴を見回してみてもゼレンスキーや菅のようにゼロから身を起こした例は少ない。歴史上、豊臣秀吉、漢の劉邦、朱元璋くらいか。そこで著名人の前歴を調べよう。「独眼竜政宗」で知られる脚本家ジェームズ三木は若い頃、レコード歌手だった。陶芸家の北大路魯山人は帝国生命保険のサラリーマン。「有楽町で逢いましょう」フランク永井はトレーラー運転手、三橋美智也は温泉のボイラーマン。料理研究家平野レミはシャンソン歌手。村上春樹は作家になる前はジャズ喫茶の経営者だった。タレント友近は松山で旅館の仲居をしていた。おのののかは野球場のビール販売員。壇蜜は葬儀屋の社員。演歌歌手の羽山みずきは出羽三山神社の巫女。建築家の安藤忠雄はプロボクサー。竹内力は銀行員。「純烈」の白川裕二郎は大相撲の力士だった。「冬のソナタ」のペ・ヨンジュンはチヂミの行商人。

   ハリウッド・スターの前歴は多彩である。男優はフットボール、プロレス、ボクシングなどスポーツ関係が多い。ジョン・ウェイン、リチャード・ウィードマークはフットボールの選手だった。「ライフルマン」のチャック・コナーズは大リーガー。身長は2m2㎝もある。カーク・ダグラスは本名をハサー・デニロビッチ・デムスキーといい、貧しいロシア移民の子で、売れない時代プロレスラーだった。ウディ・ストロードもプロレスラー。ラフ・ヴァローネはトリノ大学時代、国際的なサッカーの選手として鳴らしていた。ロバート・ライアン、ジャック・バランス、リノ・ヴァンチュラはプロ・ボクサー、マイケル・ランドンは槍投げ。ユル・ブリンナーは空中ぶらんこ。ピーター・オトゥール、アラン・ラッド、コーネル・ワイルドは新聞記者。リチャード・ベースハート、ロナルド・レーガンはラジオのアナウンサー。マルチェロ・マストロヤンニは家具職人。ハリソン・フォードは端役で映画に出るが大成せず、一時は大工をしていた。

 

600fullgregorypeck   ロック・ハドソンは郵便配達夫。ショーン・コネリーは棺桶みがき。ロバート・レッドフォードは画家志望。グレゴリー・ペック(画像)は学生時代ボート部に在籍していたが1938年のレガッタに出場して背中を痛めたため兵役を免除された。出征で男優がいなくなっていた映画会社からハンサムなペックが注目されてスターの道を歩む。最近では「ハムナプトラ2」「スコーピオン・キング」のザ・ロックのように映画俳優の合間にプロレスを続けてやっているスターもでている。「エド・サリバンショー」テレビのバラエティショーの司会者エド・サリバンはスポーツ新聞の記者だった。ロサンゼルス市警の刑事コロンボ役で世界的スターになったピーター・フォーク。実際はインテリで高学歴。名門シュラキューズ大学院で行政学の修士号を得て官庁に勤務していたが、演劇に興味を覚えて俳優を志した。

 

 

2023年1月10日 (火)

意外な国内生産量第1位

Imagecamn5vk6   栃木県といえば干瓢。本日は「かんぴょうの日」。干瓢の「干」の字を分解すると「-」と「+」になるから。干瓢は巻き寿司の具材のほか、ロールキャベツや餅巾着をしばる紐などとしても使われるが、食材のなかでは、地味な脇役としての役回りが多く、脚光を浴びることはほとんどない。全国の意外な国内生産量第1位を調べる。手袋の年間生産量日本一は香川県。スキー靴の生産量第1位は奈良県(雪国でもないのに)。そして釣針の生産量第1位は兵庫県で、全国の90%を占めいている。(1月10日)

 

うめ(和歌山)

 

柿(和歌山)

 

学生服(岡山)

 

辛子明太子(福岡)

 

乾しいたけ(大分)

 

干瓢(栃木)

 

キャベツ(群馬)

 

牛乳(北海道)

 

薬瓶(滋賀)

 

靴下(奈良)

 

グローブ(奈良)

 

鯉のぼり(埼玉)

 

コンニャク(群馬)

 

サクランボ(山形)

 

将棋駒(山形)

 

真珠(愛媛)

 

すいか(熊本)

 

墨(奈良)

 

タイル(岐阜)

 

卵(茨城)

 

足袋(埼玉)

 

タマネギ(北海道)

 

たんす(福岡)

 

茶(静岡)

 

チューリップ(富山)

 

手縫い針(広島)

 

トイレットペーパー(静岡)

 

なし(鳥取)

 

日本酒(兵庫)

 

花(愛知)

 

歯ブラシ(大阪)

 

刃物(岐阜)

 

ピアノ(静岡)

 

ビール(愛知)

 

麻雀牌(和歌山)

 

マッチ(兵庫)

 

眼鏡フレーム(福井)

 

木炭(岩手)

 

やすり(広島)

 

リンゴ(青森)

 

割り箸(奈良)

2023年1月 9日 (月)

南蛮文化

Img89a0d9e8zikdzj   室町末期から江戸初期にかけて、ポルトガルやスペインの宣教師・貿易商により西欧文化がわが国に数多く流入してきた。これを南蛮文化またきキリシタン文化とよぶ。南蛮文化にはキリスト教、鉄砲などや医学・地理・活版印刷などの学問的知識もあるが、衣食のような身辺生活にもその影響は少なくなく外来語として日本語になっている。ボーロ、アルヘイトウ、コンペイトウ、カルメル、カステラなどの南蛮菓子やアラキをはじめ各種の蒸留酒やワイン、ワカとよばれた牛肉なども当時は好まれ、また衣料として木綿、ウール等が輸入された。また海外事情もこのとき文物とともに日本にもたらされた。織田信長は地球儀を見て初めて地球が丸いことを知った。もちろん初めは信じかねて半信半疑だったが、宣教師たちの熱心な説明で、信長は「理にかなう」と納得したという。タバコもこの時代に入った。タバコは新大陸発見のときコロンブスが旧世界にもたらしたものであるが、それから50年ほどのちの天正年間に極東の日本まで到着している。日本人は喫煙に対して何ら忌み嫌うことなく、すぐにこの風習を取り入れたので、その伝搬も早く、慶長年間にはすでに全国においてタバコが栽培され、女や子どもまでがタバコをふかしていたといわれている。喫煙の大流行に伴ない、武家はもちろん町人もキセル、タバコ入れ、たばこ盆などの容器に金をかけ、かなり高価であったタバコを惜しげもなく消費し、そのうえに喫煙の火の不始末のためにたびたび出火があったために、江戸幕府は贅沢の禁止と火事の予防のために1609年にはじめて喫煙禁止令を発し、それ以来しばしば禁止令を出し、タバコを栽培する者の土地を取り上げたり、藩によっては、喫煙者を処刑したこともあった。

 ビードロ(硝子)という言葉はポルトガル語である。1541年に我が国に来航したポルトガル人が伝来した。わが国でビードロがつくられるようになつたのは長崎の地で、100年経った1650年ごろのことである。やがてこのビードロの技法は上方・江戸方面へと伝えられるが、やはり長崎のビードロ細工にはすぐれたものがあった。このほかのポルトガル語系は言葉には、ボタン、シャボン、カッパ、カステラ、パン、タバコ、カルタ、カナキン(金巾)、ラシャ、サラサ、ジュバン、コンペイトー、カルメラ、バッテラ、ビードロ、テンプラ、カボチャ、アルヘイトウなどがある。

オランダ語系はブリキ、カンテラ、ゴム、ジャガイモ。

 

スペイン語系はメリヤス、カナリヤ。

 

参考文献
新村出「南蛮文化要略」 歴史教育2-9、1954年
海老沢有道『南蛮文化、日欧文化交渉』 1958年

 

 

内村鑑三不敬事件

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   明治23年10月30日に発布された教育勅語について文部省はその謄本を作成して、全国の国公私立の学校に配布した。内村鑑三が嘱託教員として勤務していた第一高等中学校では、明治24 年1月9日にその奉読式を実施した。その際、内村は、拝礼が宗教性を帯びると判断して、偶像崇拝を否定するキリスト教の信念に従い、軽く会釈する程度の敬意を表することにとどめたが、生徒および教員の一部から、この内村の行為は皇室に対する不敬であるとの非難が発生し、同年1月から、その記事・論説の数は143、掲載新聞の数は56種に達したが、そのほとんどは、「不忠の臣」「外教の奴隷不敬漢」というものであった。生徒の中には、封筒の中にカミソリを入れ、「不敬者、これで腹を切れ」という手紙を出した者もいた。新聞報道などによって「不敬事件」として一挙に社会問題となったが、内村は自分がけっして勅語の趣旨を批判するものではないと弁明し、宗教上の拝礼ではなく社会的な敬礼であればと、たまたま病床にあったために友人の教授木村駿吉に代理敬礼を委嘱した。事件後1ヵ月も経たない同年2月3日病気を理由に同校を依願退職した。全国から激しい非難を浴びた内村は、その後、病床に就く。看病した妻加寿子は、心身の疲れから、急逝した。しかし、この機会にキリスト教の弊害を指摘しようとする国体論者や仏教界の一部などからの画策もあって、帝国大学教授井上哲次郎が「教育と宗教の衝突」を発表するや、問題は単なる内村の一「不敬行為」への糾弾からキリスト教一般への攻撃へと展開していった。内村は井上に反論する形で「基督教徒の慰め」を出版。内村は、孤立してでも自分の信仰を守ることを主張している。のちに丸山真男は「こういう事件は、直接の被害者はひとりか数人であっても、タブーを社会的に拡大し、無数の人々の思想に目に見えない統制を加えるという点で、大きな意味をもつわけであります」と分析している。(「思想と政治」1957年8月 信濃教育第849号)

 

 

2023年1月 8日 (日)

老女村岡

   本名津崎矩子(1786-1873)。寛政より近衛家に仕えて、中臈を経て老女となり、村岡局と名乗った。尊王攘夷運動に加わり、安島帯刀、西郷隆盛、月照、梅田雲浜などと交流した。「陽明家の清少納言」とは梅田雲浜の評である。NHK大河ドラマ「篤姫」では星由里子が演じた。

 

マルコポーロ

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 マルコ・ポーロが1324年のこの日、69歳で死去した。13世紀の後半、小説家ルスティケロ・ダ・ピサが獄中でマルコ・ポーロという人物から、彼がアジア諸国で見聞した話を採録し、「イル・ミリオーネ」(100万の嘘)という本を編纂した。これがのちに「東方見聞録」と呼ばれる本である。ヴェネツィアの商人マルコ・ポーロ(1254-1324)は1275年フビライ・ハンのいる大都開平府に到着、以後フビライの厚遇を受け、帰国後その旅行記をルスティケロがまとめた。「東方見聞録」(正しくは「世界の叙述」)は、日本をジパングと呼び、豊かな黄金の産地としている。誇張癖のある彼自身の言動に周囲の不信感が強かったこともあってほとんど顧みられることはなかった。1324年、マルコ・ポーロは70歳で永眠したが、彼の偉さがはっきりしたのは、コロンブスのアメリカ発見が実現してからである。

 

マルコ・ポーロ 青木富太郎 平凡社 1948
マルコ・ポーロ 岩波新書 岩村忍 岩波書店 1951
マルコ・ポーロ 世界最初の探検家 少国民の偉人物語文庫 福田和彦 岩崎書店 1959
マルコ・ポーロ 少年少女世界探検家物語5 砂田弘 三十書房 1964
マルコ・ポーロ 人と歴史シリーズ・東洋11  佐口透 清水書院 1977
マルコ・ポーロ 講談社の子ども伝記19  川崎洋 講談社 1981
マルコ・ポーロ 講談社火の鳥伝記文庫 保永貞夫 講談社 1982
マルコ・ポーロ 国際カラー版世界の伝記21 たかしよいち 小学館 1983
マルコ・ポーロ紀行 瓜生寅訳 博文館 1912
マルコ・ポーロ東方見聞録 青木富太郎訳 社会思想社 1983
マルコ・ポーロの研究 上 岩村忍 筑摩書房 1948
マルコ・ポーロのぼうけん 日本児童文学 高木博 日本児童文庫刊行会 1958
マルコ・ポーロ旅行奇談 吉原公平 大同館 1936

 

(Marco Polo、1月8日)

2023年1月 6日 (金)

良寛忌

    良寛は竹が好きだった。ある年のこと、庵の床下の地面に一本の竹の子が芽を出し、すくすくと育って床板に届くようになった。それを見つけた良寛は、すぐに床板を外して、成長していく竹の子を楽しんで見守っていた。やがてそれが天井を突くまでに伸びると、今度は天井板を破り、屋根まで壊して竹の成長を妨げないようにしてやった。雨が漏っても平気なものである。雪が吹き込む季節を迎えても、それを風流と受けとめて、庵に坐しながら、「大きくなった、大きくなった」と竹を愛で、夜には星をあおいで暮らしたという。

良寛(1757-1831)は越後出雲崎の人。40歳すぎまで20年余年間托鉢修行にすごした。帰国後は、村童を相手に、孤独純真のさとりにはいったらしい。彼の書も歌も、すべてその境地からの所産で、平易枯淡、内的生活のありのままの表現である。「かすみたつ長き春日を子供らと手まりつきつつ今日もくらしつ」(1月6日)

2023年1月 5日 (木)

美女は世界一周に挑戦する

200pxnelliebly    1519年、マゼランはスペインのサンルカル港を出帆し、1522年、世界一周を成し遂げたことになっている。しかしマゼラン自身はフィリピン諸島のマクタン島で殺害されたので世界一周はしていない。人類最初の世界一周航海者はフアン・セバスティアン・エルカノ(?ー1526)である。その後、帆船、蒸気船、鉄道、飛行機などができると世界一周は誰でも気軽にできる旅行となった。飛行機が発明される前までの19世紀はまだ世界一周は冒険旅行だった。問題は何日で地球を一周できるかである。もちろん高緯度で地球を一周すれば早くなるので、一度は赤道を通過し、すべての経線を通過することが条件に加えられねばならない。ジュール・ヴェルヌの冒険小説「八十日間世界一周」(1872年)は冒険家たちにチャレンジ精神を刺激させた。アメリカの女性記者ネリー・ブライ(1864-1922)は1889年ニューヨークを出発し、72日間で世界を一周した。当時これは地球一周の世界記録となった。1958年スカンジナビア航空が主催した「世界早回り」に当時30歳の兼高かおるが挑戦し、73時間9分35秒の新記録を樹立した。ヨットによる世界一周は1969年、イギリス人のロビン・ノックス・ジョンストンが312日間で達成した。堀江謙一はマーメイドⅢ号で西回り単独無帰港世界一周航海を277日で達成した。1992年、今給黎教子がヨット「海連」で東周り278日間で成功している。

    間寛平は「アースマラソン」で2年かけて世界一周を達成した。ギネス認定「人力世界一周」には厳しい条件がある。スタートとゴールは同じ場所でなければならない。足で移動するのか、人力のみによる器具を使った移動であること。風力を受けるものはダメである。赤道を一度は通過すること。間寛平の場合、ヨットを使用したことや、赤道を通過しなかったことなどから、人力世界一周とは認定されない。手こぎボートやカヤックで海を渡らなれりばならい。イギリスの女性アウテンは2011年4月にロンドンをスタートし、ドーバー海峡をカヤックで渡り、欧州・アジアを自転車で横断、サハリンから北海道に上陸し、津軽海峡をカヤックで渡り、青森県から自転車で南下し、これから銚子から手こぎで太平洋を横断するものと思われる。北米からは南下し赤道を通過せねばならず、最後に大西洋横断し、ロンドンに到着するにはまだまだ難関が待ち受けている。

 

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豊臣秀吉の朝鮮侵略はじまる

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  1591年から秀吉は肥前名護屋に明征服の基地の築城普請にかかる。1592年1月5日、秀吉は明征服のための軍編成を発表した。4月、秀吉は16万の兵力を9軍に編成して朝鮮に渡航させた。4月12日、宗義智と小西行長の率いる第1軍は釜山に上陸し、釜山城の朝鮮軍に「仮途入明」(明に入りたいので朝鮮の道を貸してほしい)の最後通牒を示したが、朝鮮側からは返事はなく、日本軍は釜山城をおとした。ついで宗義智らの日本軍は東莱(トンネ)城に迫り、「戦うならば相手になろう。戦わなければ道を通せ」と東莱城に木札を投げ込んだが、東莱府は宗象賢らの朝鮮側は、「死するは易し、されど道を通すは難し」と木札を投げ返した。ここから東莱城の攻防戦がはじまったが、日本軍はこれもおとした。かくして、前後7年にわたる朝鮮侵略がはじまった。5月18日には首都漢城を陥落した。(参考:北島万次「秀吉の朝鮮侵略と民衆」 岩波新書)

 

 

 

 

 

 

サラダが日本の一般家庭の食卓にあげられたのはいつ頃からか?

Photo_cabbage3   生野菜を主材料として、ドレッシングやマヨネーズなどであえた料理サラダsaladは現在の食卓に欠かせない一品となっているが、いつ頃からであろうか。1960年代、もちろんサラダは普及しているが、それはレストランや軽食にトースト、コーヒー、サラダと喫茶店やホテルで出るものであり、家庭の食卓をかざるものではなかった。新鮮なサラダを毎日食べるには冷蔵庫が必要である。そして鮮度が落ちない物流システムが確立される必要がある。

 シャンソン歌手の芦野宏のヒット曲に「フルーツサラダの歌」(1960年)がある。この頃から徐々にサラダに対する関心が高まっていった。中谷宇吉郎の「サラダの謎」(初出「あまカラ」1960年1月5日)がある。

私はごく普通のフランス風のサラダが好きである。レタスとトマトと、酢とオリーブ油でドレスしただけの簡単なサラダのことである。洋食は、一般にいってあまり好かないが、このサラダだけは例外で、食卓に出ていると、つい先に手が出る。ものの好き嫌いなどというものは、たいてい子供の頃か、せいぜい20代までの生活環境できまるものらしい。私がこのサラダを好きになったのは、若い頃、もう30年も昔のことであるが、ロンドンに留学していた頃に、下宿で毎晩非常にうまいサラダを食わされたのが、今日まで後をひているようである

   中谷宇吉郎は1900年生まれであるが、サラダ好きの物理学者の一文をもって、日本人は戦後サラダをよく食べていたと即断してはいけない。むしろ中谷は少数派の日本人で、1900年前後の生まれの日本人はほとんどサラダは食べていなかったのではないだろうか。青空文庫で「サラダ」と検索しても、太宰治(1909年生まれ)の僅かの短編に「サラダ」の文字が見られるものの、きわめて稀にしか文学作品に現れることはない。書誌で調べると、

 

近代的サラダの作り方 附・ドレッシングの調合法 村松信太郎編 国際料理研究所出版部 1939年

 

サラダ 飯田深雪 雄鶏社 1957

 

おいしいサラダ縫え和種 榊叔子 婦人画報社 1958

 

   などきわめて少ない。おそらく小津安二郎の映画作品に見られる食卓にはサラダをみることはないだろう。現在みられるように各家庭の食卓でサラダが普及するのは1970年代をまたねばならい。1973年のキューピーマヨネーズがCMで吉永小百合を起用し、サラダが健康と美容によいというイメージが広まっていった。

   では世界のサラダの歴史をみると、古くはローマ時代にさかのぼることができる。ローマの初代皇帝アウグストゥスは病気にかかった際、レタスを食べて一命をとりとめた、という逸話が残っている。サラダの出現は中世イギリスとフランスにみえる。14世紀末にイギリスのリチャード2世の料理長がサラット(ラテン語のsal(塩)から)という名で製法をしるしているが、それによるとパセリ、セージ、ニンニク、タマネギ、ハッカ、ウイキョウなどを洗ってこまかにさき、生のアブラとまぜ酢と塩をかけて食卓に供した。この時代は、香料植物を主材料にしていたらしいが、16世紀には野菜、17世紀には魚やエビ、鶏肉、18世紀には果物を加えた。一説によると、サラダの名称は、フランスで16世紀のころに用いられた半球状の兜のことをサラードSaladeと呼んでいたが、サラダをあえたり盛ったりするサラダ・ボールの形がそれに似ているところからつけられたといわれている。

2023年1月 4日 (水)

正しい「シェー」とは?

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  紅白歌合戦でSnow Manが「みんなでシェ―」のパフォーマンスをしていたのには驚いた。今も流行しているのか? 漫画「おそ松くん」に登場するイヤミが「シェー」と奇声をあげてするポーズが子供たちの間で大流行したのは1965年頃のことだった。写真のポーズはいつも「シェー」だったし、ジョン・レノンや皇孫時代の浩宮さま(今上天皇)までもが「シェー」のポーズをされている。では「シェー」の正しいポーズとは何か?たいていの人は、挙げた腕が曲がっているが、あくまで真っ直ぐに高く上げて、手くびも直角に頭部に曲げる。曲げた足先もピンと伸ばして、靴下の先はヨレヨレと伸ばしているのが最高である。赤塚不二夫の「シェー」のポーズをお手本にして、さあ皆さんもやってみよう。

 

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これぞ正しい「シェー」である

 

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島津重豪(しまづしげひで)

 薩摩藩8代藩主・島津重豪(1745-1833)は名君だったかどうかは怪しい。しかし保守的な薩摩に西欧文明をどしどし取り入れたので開明的な君主であった。赤字財政を抱えながらも、積極政策をとりつづけ、造士館・演武館・医学院・薬草園・明時館を創設。このため西洋の自然科学が大いに発達した。家老樺山主税らが藩政改革に着手するや、重豪はこれを弾圧、主謀者を切腹させるなど115人の大量の処罰者をだし、「近思録くずれ」とよばれた。この事件で藩主は孫の斉興に替ったが、重豪はひき続き藩政の実権をにぎった。1827年、調所広郷を起用して5百万両におよぶ借財を解消するため財政改革を行った。

 

シーボルトと長崎

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       お滝              楠本イネ

 

  文政6年、シーボルトが長崎にやってきた。27歳のときである。有能な外科医を来日させてほしいという幕府の希望に応えてのことであった。長崎奉行は、シーボルトに限り出島の外に出て日本人に教えることを認めた。そのために選ばれた場所が、長崎郊外の鳴滝で、鳴滝塾は蘭学の新しい拠点となった。シーボルトは文政11年、いつたん帰国したが、安政6年、再来日し、文久2年まで滞在した。シーボルトの愛人がオタキ(1806-1869)である。お滝がシーボルトと出会ったのは17歳のときで、4年後にはシーボルトとの間に楠本イネが生まれた。イネは石井宗謙との間に山脇高子(1852-1938)を生む。現在もイネの子孫たちは医師を続けている。

2023年1月 3日 (火)

おかげ参り

   庶民が伊勢参りにあこがれる「おかげ参り」は、すでに室町から戦国時代にあったようだが、爆発的な流行となったのは、江戸時代に入ってからである。戦乱が遠ざかり、生産力が上がって、たいていの庶民も少し無理をすれば長旅ができる。その口実として、伊勢参宮はかっこうのものだった。宝永2年、明和8年にブームがおきたが、文政13年(1830)、すなわち文政のおかげ参りに参加した人々の数は、400万余といわれる。当時の総人口を3000万として考えると10人に1人より、もっと大きな割合でおかげ参りがなされていたことになる。庶民の旅行ブームはもちろん伊勢だけではない。関東では出羽三山や成田不動、西日本では高野山・熊野・金毘羅・厳島社などなどへの参詣も大流行だった。(参考;「お伊勢まいり」岩波新書 西垣晴次 1983年)

 

鳥羽・伏見の戦い

 1868年1月3日。午後4時ごろ、幕府軍の別働隊は鴨川を渡り入京しようとした。薩摩軍は渡河を認めず、ここに鳥羽の戦いが始まった。鳥羽から5㎞東の伏見でも、朝からにらみ合いが続いていた。こうして鳥羽・伏見で全面的な戦いが勃発した。薩摩・長州軍は支援の安芸藩・土佐藩をふくめ約5000人ほどの兵力で幕府軍にくらべ3分の人の兵力にすぎなかったが、大砲・小銃の装備にすぐれており、幕府軍が用いたゲーベル銃に対し、薩摩軍が用いたのはアメリカ製スペンサー元込銃などの新式銃であった。翌4日には薩摩・長州軍の優勢がはっきりする。こうして始まった戊辰戦争は、これから1年半に及ぶことになる。

 

 

吉良上野介の首級の行方

去年まで ただの寺なり 泉岳寺
    『武玉川』第十一篇

 

Photo_2    港区高輪にある泉岳寺は1612年、外桜田に創建された。1641年の大火で焼失し、現在地に再建された。泉岳寺の再建の際に尽力した5大名のうちの一つが浅野家という縁から、赤穂義士の墓が泉岳寺境内に建立された。

    元禄14年(1701)3月14日、江戸城松の廊下で刃傷事件をおこした播州赤穂5万石の城主・浅野内匠頭長矩は、即日切腹ののち、この泉岳寺の墓地に葬られた。浅野の眠る泉岳寺の墓前には線香が絶えない。だが、吉良上野介義央(1641-1702)の眠る龍谷山万昌院功運寺の墓には、盆でも命日でも詣でる人は殆どない。だが吉良家の菩提寺華蔵寺(愛知県西尾市)の墓には今なお命日である12月14日には慰霊祭がおこなわれる。

   では何故、吉良上野介の墓が東京・中野区上高田の功運寺にあるのだろうか。元禄15年の師走15日未明、大石内蔵助以下47人の浪士は吉良上野介を討ちとると、その足で8時ごろ泉岳寺にはいる。上野介の首級を旧主の墓前に供えた後、大目付仙石伯耆守邸へ向かうに際して、首の処置一切を泉岳寺の住職洲山長恩和尚に託した。住職は二人の僧に命じ、首を吉良家へ届けた。吉良家は、18歳の当主左兵衛に代わり、家老の左右田と斎藤の二人が受け取った。受け取った首は、牛込の万昌院に葬られた。さらに、万昌院は、明治45年3月から大正3年12月にかけて、現在の地に移転した。そして、大正11年に三田聖坂から同地に移転してきた功運寺と昭和23年に合併し現在の名称となる。これが、中野の龍谷山万昌院功運寺に吉良の墓がある理由である。ところで、吉良邸にもどったときに、蘭学医・栗崎道有(1661-1726)が首と胴体の縫合を行なったという記録も残されている。

  なお吉良上野介が強欲非道の悪人であるというのは「忠臣蔵」など浄瑠璃、歌舞伎、文芸の世界のことであって、知行地の三河国吉良荘では築堤や新田開発などの功績により名君と評価されている。

 

 

蘇甘栗使(「ソ」事項索引)

Img58854394[  そ  ]

  古代の日本に「蘇甘栗使(そあまぐりつかい)」という奇妙な名の役人がいた。平安時代、摂政・関白・大臣などの高官が正月に私邸で節宴がおこなわれる。宮中から、その日に蘇甘栗使という使が来て牛酪(バター)とクリの実が贈られる。いまでも正月に天津甘栗がよく売られるのはその名残りであるかは定かではない。▽「層位学」17世紀の科学者ニコラウス・ステノが提唱し、1791年ウィリアム・スミスが野外調査を行い、地層塁重の法則などを確立した。▽「相対性理論」アインシュタインが1905年から展開した理論で、特殊相対性理論と一般相対性理論とからなる。▽「ソジェ」朝鮮王朝の書斎、学問所。▽「ソラノ風」はヨーロッパ南西部、スペインの南東岸に吹く風。▽「巣林一枝」みそさざいは樹木の多い深林で巣を作るときも、その中の1本の枝で満足する。人はそれぞれ分相応のもので納得すること。▽「ゾイデル海」オランダのゾイデル海は埋め立てによってアイセル湖となっている。▽「草庵和歌集」頓阿の家集。正編は1359年、続編は1366年に成立。▽「送寒衣」中国で旧暦10月1日に亡き人に寒衣と称する着物を贈り、亡き人を偲ぶ日。▽「総合芸術」音楽、美術、舞踏など複数の分野の芸術によって創造される1つの統一的な芸術。たとえば演劇・オペラなど。ドイツのリヒャルト・ワーグナーが提唱した言葉。▽「ソナチネ」sonatina。小規模なソナタのこと。ピアノ教育用作品として書かれたものが多く、内容的にもやさしいのがふつうである。▽「ソレノイド」螺旋状にしたコイル。▽「ソンガイ王国」15~16世紀、西アフリカのニジェール川流域に西スーダンのほぼ全域を支配した黒人王国。1464年から1591年。▽「ソンツェン・ガンポ」581-649年。古代チベットの王。▽「尊王攘夷」水戸藩の藤田東湖が初めて唱えた。▽「尊経閣文庫」加賀藩前田家の文庫。加賀藩では和漢書の希本・珍籍を広く天下に求め、長崎奉行に対して、中国や朝鮮の典籍までしきりに購入した。(そそそそ)

ソアソンの戦い(486年)
ゾイデル海(オランダ)


草庵和歌集
ソヴィエト
層位学
宋応星
宗祇
騒音主義
送寒衣(そうかんい)
蒼頡
総合芸術
曽国藩
荘子
層状含銅硫化鉄鉱床(キースラーガー)
宋襄の仁
蔵書票(エクス・リブリス)
捜神記
象頭山(香川県)
相対性理論
曹洞宗
雑煮
象皮病
僧兵
草木国土悉皆成仏
僧帽筋
ソウル
副島種臣
租界
蘇我入鹿
蘇我馬子
蘇我倉山田石川麻呂
訴願前置主義
ソグネフィヨルド
ソクラテス
鼠経(そけい)ヘルニア
ソジェ(書斎)
蘇州
ソチ
ぞっき本
卒啄同時(そったくどうじ)
ゾディアック事件
ソドム・ゴモラ
ソードライン
備え有れば患い無し(有備無患)
ソナタ
ソナチネ
曽根崎心中
側用人
ソビエト
ソフホーズ
ソプラノ
ソポクレス
ゾラ
ソラストマ
ソラニン
ソラノ風
ゾルゲ事件
ソルフェリーノの戦い
ソールベイの海戦(1672年)
租庸調
ソレノイド
ゾロアスター教
ソロモン
ソロモン王の洞窟
ソンガイ王国
尊経閣文庫
ソンコイ川
ソンツェン・ガンポ
尊王攘夷
孫文
ソンミ事件(1968年)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2023年1月 2日 (月)

由井正雪の生家

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   東海道16番目の宿場が由井宿である。この地はまた由比とも、湯井、あるいは油伊、湯居とも書かれている。明治22年に庵原郡由比町となったが、現在は静岡市に編入合併された。町の家並みも漁師町で、伊豆半島の山々を遠望する眺望が素晴らしい。庵原山地が駿河湾に面して、急な崖をなし、そこに薩埵峠があり、由比の断崖として、古くから最大の難所として知られていた。

    由井といえば、だれもが想起するのは由井正雪(1605-1651)であろう。彼は慶長10年に駿河のこの地に生まれた。紺屋の出身で、今もその紺屋の生家が残っている。17歳のとき江戸に出て、楠木正成の子孫の楠木正虎の子という軍学者楠木正辰の弟子になると、その才能を発揮し、やがて神田連雀町に軍学塾「張孔堂」を開いた。多数の門弟が集り、その数3000人を超えたといわれる。島原の乱で討ち死にした板垣重昌の子の重規も、その弟子であったという。慶長4年に三代将軍の徳川家光が亡くなると、浪人を集めて倒幕を計画した。宝蔵院流の槍術家の丸橋忠弥、金井半兵衛、熊谷三郎兵衛、加藤市右衛門、吉田初右衛門らが集結して天下を狙うようになったが、事前に発覚し、正雪は駿府の宿で自殺した。これを慶安の変という。

 

 

 

 

三種の神器

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 日本武尊が倭姫命から神剣をさずけられる

 

    皇位の御璽である八咫鏡、天叢雲剣(草薙剣)、八坂瓊曲玉の三種の宝物を「三種の神器」という。はじめ宮殿に安置されていたが、崇神天皇のとき鏡と剣を大和国笠縫邑にうつし、別の鏡と剣を作り宮中の賢所に、剣と勾玉は天皇の身辺に置かれ即位の時に授受されるようになった。賢所の鏡は1005年、1040年の2回の内裏の火災で原形を失い、剣は1185年、安徳天皇が壇ノ浦入水の際に海に沈み、必死の捜索にもかかわらず、剣は戻らなかった。のちに別の剣をもってこれに代えた。勾玉のみは神代からのままである。天皇は伊勢神宮に参拝するとき剣璽を携行する。

 そもそも「三種の神器」という考え方は古代中国に発するもので、道教では蓬莱、方丈、瀛洲の三神山で見えるように、全宇宙空間を三つの世界に分けて考えていたこと、天上の神仙世界の最高元首の天皇や天皇大帝までの権力の象徴として鏡と剣とを重んじたことから、地上の帝王の権威のシンボルに援用され、その思想が道教とともに日本に入ってきた。古代朝鮮にも桓雄が下界に降りるとき、天帝から天符印三個を授かったという神話がある。その三つとは、剱と鏡と鈴といわれる。天孫降臨型の共通した神話伝説と考えられている。

クラナダ陥落

   1492年という年はコロンブスがサンサルバドル島を発見したことで有名だが、もう一つ世界史的な事件があった。1492年1月2日、スペインのグラナダでアンゴラ・カスティリャ連合軍が、ナスル朝の居城グラナダを奪回した。最後の君主ムハンマド11世はモロッコのフェズへと亡命し同朝は滅亡し、これによってレコンキスタが終結した。711年以来、約8世紀間支配していたイスラム教徒の勢力がイベリア半島から消えることになった。

 

2023年1月 1日 (日)

平山常陳事件

 1620年、バタビアから日本に向かったイギリス船ムーン号、オランダ船バンタン号などは、台湾の付近で北航している日本の朱印船に出会い、船中に2人のヨーロッパ人のいることを発見して、この日本船の船頭は、堺出身の商人平山常陳というキリシタンであった。平戸で入牢したこの外人は、宣教師ペトロスンニがとルイス・フローレンスと判明。2年後船主平山と2人の宣教師は火刑。日本人乗組員12人は斬首に処せられる。

初心忘るべからず

    一年の始めの月を象徴するにふさわしい色は、何といっても白だろう。真っ白な雪、お供えやお雑煮の餅、社に詣でると魔除けのための白い色。「清浄」、「真っ白な心」、「純粋な心」、「素朴」、「初心」どれもいい言葉だ。そして「初心忘るべからず」という言葉を連想する。

   広辞苑をみると「学び始めた当時の気持ちを忘れてはならない。常に志した時の意気込みと謙虚さをもって事に当たらねばならないの意」とある。つまり、ある程度、技量がついて自信をもち始めた時期が「慢心」という陥穽にはまる時期であり、この時期こそ「初心を」といさめているのである。

   出典は、世阿弥の「当流に、万能一徳の一句あり。初心忘るべからず」(『花鏡』)である。世阿弥(1363-1443)は観阿弥の子で足利義満に認められて、以後その支援をえて、二条良基ら当代一流の文化人との交流をつうじて芸道・学問に精進し、名声をたかめ、乞食の所行とさげすまれてきた猿楽を室町時代を代表する芸能にまで押し上げることに貢献した。生まれたままの心で、初心を忘れず、自然に感謝し、小さい一草一花の美しさに新鮮な喜びを感じたいものである。(1月1日)

 

 

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