国定忠治、磔刑となる
戦前の日本の時代劇でいちばん人気があったヒーローは、四十七士の面々を別とすれば、「赤城の山も今宵限り」でおなじみの国定忠治(1810-1850)ではあるまいか。舞台では澤田正二郎だが、活動写真ではギョロリと目玉をむいた尾上松之助が国定忠治を演じている。「国定忠治(日光円蔵と国定忠治)」(大正3年)、「国定忠治」(大正7年)など。だが目玉の松ちゃんの映画は歌舞伎調で女優を使わず女形がでている。阪東妻三郎などのスマートな役者が現れると古臭く感じられた。そんなとき昭和2年に大河内伝次郎の「忠治旅日記」三部作が大ヒットした。群馬県の誇るモダニズムの詩人・萩原朔太郎も国定忠治に入れ込んでわざわざ自転車で忠治の墓まで出かけて詠んだ詩がある。
わが村に来りし時
上州の蚕すでに終りて
農家みな冬の閾を閉ざしたり
太陽は埃に暗く
悽而たる竹藪の影
人生の貧しき惨苦を感ずるなり。
見よ 此処に無用の石
路傍の笹の風に吹かれて
無頼の眠りたる墓は立てり。
萩原朔太郎は、おそらく伊藤大輔の映画「忠治旅日記」を見たことであろう。彼の訪れた忠治の墓は金城山養寿寺(伊勢崎市国定町)の墓だろう。これとは別に忠治の処刑場跡には「侠客国定忠治慰霊碑」がある。(群馬県吾妻郡東吾妻町大戸)
国定忠治が大戸で磔刑になったのは41歳のときである。嘉永3年12月21日。師走で雪が降って、錆槍が縦横に突き刺した。忠治には一人の男の子がいたことはあまり知られていない。もちろん勘太郎ではない。勘太郎は勘助の子である。大谷国次(1844-1867)、幼名を寅次という。忠治の刑死後、その母お貞は寅次を連れて、貞の父である大久保一角の生地・野州都賀郡大久保村へ行き、出流山千手院にたくして僧となり千乗と名乗った。寅次は生来、武芸が好きであり、僧になることを好まず武術家になることを志し、還俗する。戊辰戦争の折には、慶応3年、官軍の出流山挙兵のとき、大谷刑部と改名し、軍資の調達に奔走する。岩船山の戦いで幕府軍に捕らえられて、慶応3年12月18日、佐野河原で処刑された。わずか24歳であった。大谷国次の名前は人名事典に収録されているが、勘太郎より年上であるが、お芝居には登場しないのはなぜだろうか。中風で病む忠治を訪ねて成長した国次と親子の対面。そのとき名刀の小松五郎義兼を渡され、父の形見の名刀を抱いて国次は幕末の国事に大活躍というチャンバラ映画があってもよさそうに思うのだが。どうやら国次の実在性を疑問視する学者もあるらしい。
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写真は国定忠治のお墓ではありません。
処刑場跡に建てられた慰霊碑です。
お墓は、伊勢崎市国定町の養寿寺にあります。
是非、そちらにも足を運んでください。
投稿: ベイダー | 2010年12月16日 (木) 01時30分
( ̄ー ̄)ニヤリ
国定忠治が有名になったのは、幕末の代官が、忠治の生涯に興味を持って詳しく書き残したためだそうで、文庫本にもなっていますね。
投稿: ,根保孝栄・石塚邦男 | 2014年11月 6日 (木) 03時05分