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2022年12月13日 (火)

ウィーン体制と世界秩序

20110915_1996284  1812年、フランスのナポレオンは約60万という大軍を率いてロシア遠征を行った。モスクワを占領したが、ロシアは講和に応じずロシア遠征は長引くことになり、フランス軍は撤退し、ロシア遠征は失敗に終わった。 ナポレオンの侵略戦争はヨーロッパの絶対主義諸国の支配機構を弱体化させ、それらの国々の反封建的勢力を助長することになった。しかしこのこと自体が、多かれ少なかれ近代市民的な発展の方向を内包させた民族的自覚を諸国民のなかに発展させることになり、ナポレオンの支配に対する解放戦争を促進させることになった。たとえばプロイセンの1807年よりのシュタイン・ハルデンベルグの改革、フィヒテの「ドイツ国民に告ぐ」が民族的自覚をうったえたことなどは、このことを示すものである。しかしこうした解放戦争の底辺にあらわれた民族的な動きは、そのままそのまま解放戦争の成果を自己の手におさめるまでにはいたらなかった。結局、事態を主導したのは絶対主義支配を再建しようとする反動であり、正統復古主義である。1814年9月1日からオーストリアのウィーン・シェーンブルーン宮殿で「ウィーン会議」が開かれた。ナポレオン戦争後の欧州の領土の再分配を決めるための話し合いだ。主宰者メッテルニヒは独・仏・英・露・伊など90の王国、53の公国の代表約10万人をウィーンに迎えた。だが各国参加者たちの利害関係が複雑で激しく対立し、締結に至るまでに9カ月もかかった。長くかかった理由は利害対立だけではない。各国の王侯貴族がウィーンに長期滞在したため、欧州の高級娼婦たちも都に殺到し、貴族・高官たちの夜遊びの相手をし、都はバブルのような状況であった。画像はミラノ・リソルジメント博物館が所蔵する有名な絵。

   夜の舞踏会ばかり盛んで、遅々として進まぬこの会議の模様は「会議は踊る、されど進まず」と皮肉られたが、この言葉は次の誰の言葉か?

 

1 メッテルニヒ

2 ド・リーニュ公シャルル・ジョセフ

3 タレーラン

4    カースルレー

  正解は2番のオーストリアの将軍、シャルル・ジョゼフ・ド・リーニュ公(1735-1814)である。だが大辞泉には「フランスの代表タレーランが皮肉を込めて言った」とある。シャルル・ジョセフは数カ月後の12月13日に死んでいる。実際、誰が言った言葉なのか決定的な証拠は乏しいようだが、ウィーン会議をつねにリードしたのはターレランであった。「ヨーロッパを1792年より以前の状態に戻す」とする正統主義が採用され、フランスはなんとか領土を守ったのである。(参考文献:「会議は踊る 帝都ウィーン物語 紅の騎士ド・リーニュ候、帝都をわかす」 幅健志 三省堂)

 

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 シャルル・ジョセフ

 

 

 

 

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